祭子
2022-08-16 14:11:58
38590文字
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ルーファウスには挙式前に確認すべき資料がありました。データはWRO局長のもとにあります。
※Privatter掲載テキスト(20220730初出)

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 予期せぬ秋嵐だった。
 早朝からぐずついていた空が持ち直すことは、ついぞなかった。正午をすぎていっきに荒れだしてからというものの、今もなお、暗雲は垂れこめている。エグゼクティブフロアの照明は、しかし一つもつけていない。
 ルーファウスはディスプレーを睨みつけたまま、動けないでいた。
 デスクに両肘をつき、五指を口元で組んでいる。ルーファウスは溜息をついた。すでに数えることをやめたそれは、机上よりも下、寄木細工の床で澱んでいる。
「屁泥を吐いている気分だ」
 呼気の数だけおどむ泥濘に、今、ルーファウスは嵌まりこんでいる。足元どころか、全身をだ。そう錯覚するほどに、彼のすべてが膠着したままだった。
「腑抜けめ」
 己に毒突くことも、これで幾度目になるのか。『ルーファウス神羅』を意気地のない男にできるのは、この星にただ一人だ。
 エアリス・ゲインズブール・神羅。
 九月のあのピクニックののち、彼はエアリスから夜ごとに『半分セトラの大冒険』を聞いているところだった。『神羅社長の大冒険』のように、茶化し、笑いあえる部分は少なかった。
 たいていはエアリスがヘッドボードにもたれ、彼は柔らかな大腿を枕にするという恰好だ。ルーファウスが渋面をつくるたび、静かな語り口は止まった。白い手は彼の頬骨を撫でた。薄桃の爪先が横髪を梳いた。妻があたたかい。そのたびにほっとしつつ、ルーファウスはかろうじて続きを促したのだった。
 だが、それも一昨昨日までのことだ。
 あくる晩、とうとう『半分セトラ』が一行から離脱したところで、エアリスは話を切り上げた。ルーファウスが彼女の下腹に額を押しつけて、目蓋を閉じてしまったからだ。
「もう、ルーファウスったら。眠いなら、ちゃんとお布団、入って。ね」
 心地いい枕から転がされ、ブランケットとエアリスの腕にくるまれる。ううん、と唸りながらも彼は目を開けない。空寝だった。そのままルーファウスは朝方まで寝つけなかった。
 昨晩はセックスに興じすぎて、エアリスは冒険譚どころか「おやすみなさい」すら言えなかった。息継ぎの下手なエアリスを、夜のシーツに溺れるよう仕向けたのは、無論ルーファウスだ。
 今夜はどうなるのだろう。とたん、ルーファウスはいらいらと前髪を掻き上げた。
「どうなるも何もない。すべて聞くと言ったのは、お前だろう、ルーファウス」
 ルーファウスは彼の妻が『エアリス・ゲインズブール』として生きた二二年が知りたかった。健気な日々を聞きたかった。そして、エアリスの美しい翠眼が映した情景をも見たかったのだ。
 その動画が、今、眼前のディスプレーに映しだされている。
 のちにメテオショックと呼ばれるようになった、当時のことだ。死んだはずの英雄の現出、S細胞ナンバリング被験体の彷徨。未曽有の変事が起こる予兆をそれと気づかず、ルーファウスは彼の『約束の地』――潤沢なエネルギー溜まりと言い換えてもいい――を求めていた。
 打てる手はすべて打っておくことが、ルーファウスのやり方だ。古代種の養母を確保し、古代種一行に――都市開発部門統括を介して――偵察機をもぐりこませたのは、彼らしい方策のうちの一つだった。遠隔操作型のそれは、リアルタイムでターゲットと会話ができるだけではない。機器本体に録画機能を搭載していたのだ。ゴールドソーサーでケット・シーを投入してから、ミッドガルが壊滅するまで、データは随時本社ビルのメインシステムに転送される仕組みになっていた。
 大災害を防ぐには、まるで役に立たなかったデータだ。彼はしばらくその存在を忘れていた。
 次にルーファウスがそれへと気を留めたのは、古代種の思念体を保護したときのことだった。
 すぐに手をつけなかったのは、映像を精査する時間が惜しかったからだ。結局、都市開発部門統括は事態の収束まで、一行と行動をともにした。だから一箇月におよぶ膨大な量がある。思念体の謎をとくヒントがないだろうということも、彼は察していた。
 古代種がまだ生きていたころのことは、当人が把握しているだろう。だが彼女が死んだあとのこととなると、連中の動向を確認したところで、ルーファウスのほしいこたえがあるとは思えなかった。何せあの一行には、誰一人として古代種の生態を正しく知る者がいないのだから。
 そもそもの話、データがルーファウスの手元にないのだ。彼が旧本社ビルから持ちだせたメインシステムのうち、都市開発部門の領域はクラッシュしていた。無論、ケット・シーの管轄も同部門なのだから、復旧のしようがなかった。
 古代種が、彼のなかでセトラに変わったころ、ルーファウスは再びデータのことを思いだした。それからはずっと頭の片隅に引っかかっていた。
 一つ、入手できるすべがある。偵察機本体だ。
 最初に投入したケット・シーは諦めざるを得ない。古代種の神殿とともに消滅したからだ。だが後継機には、その先がすべて残っているはずだった。気づいていながらも、彼はセトラにかかわる重要な情報などさぐれないだろうと、やはり手をつけないでいた。
 エアリスを愛してからは、それはただの言訳になった。
 映像のなかに、ルーファウスが恐れているものがある。死だ。ルーファウスの妻が、彼の与り知らないところでこと切れる瞬間だった。
「エアリス。お前が最後を語るとき、お前はお前の死を見るのだろう。また、一人きりでだ。私は」
 ルーファウスの頬がゆがむ。同時に苦々しい吐息がもれた。『半分セトラの大冒険』は、もうすぐエンディングを迎える。ルーファウスはピクニックを思いだす。
 がんばれない、と初めて弱音を吐いた妻の、はかない微笑みが忘れられない。
 後ろに梳くはずの前髪を、ルーファウスは思いきり握り締める。頭皮が引きつるが、痛みは感じなかった。
「すべてを聞くと、その前にすべてを見知っておくと決めただろう。同じものを見るのだと、なあ、ルーファウス。ルーファウス神羅・ゲインズブール」
 ルーファウスは細く、そして長い息をつく。再度、机上に肘をつき、指を組む。ディスプレーを見据える。エアリスに一人で死と対峙させるつもりはない。そう決意したとき、ルーファウスはケット・シーの持ち主に会った。九月のピクニックからわずか一週間と経たないうちのことだった。
「エアリス」
 暗いフロアにくっきりと浮かび上るのは、静謐の横顔だ。それは二年一一箇月前のエアリスにほかならなかった。
「なあ、エアリス」
 年月のへだたりがあり、セトラの都とヒーリンの山中と場所もまるで違う。手を差し伸べたところで、ルーファウスは何一つ間にあわない。ただの映像だ。だがあの日起こったことを、ありのままに目へ焼きつけ、脳に刻み、記憶の深いところへととどめる。ルーファウスはエアリスの一度目の死ごと、彼女の人生を受け止める。そうでなければ挙式に臨めない。
 式日に、ルーファウスは生まれて初めての誓いを立てるのだ。その前に人生の伴侶と定めた女とは、対等でいたかった。
「対等、か。お前は容易くこなすというのにな」
 エアリスはルーファウスの人生をより豊かなものへと変えた、稀有な女だ。ルーファウスもまたそうであらねばならない。
 だというのに、小心や怯懦が邪魔をする。
「エアリス、私の臆病まで暴くのか、お前は。豊かな人生というのは、まったくもって難儀だ」
 存在しなかった、あるいは小さなルーファウスがひた隠しにしてきた部分が引きずりだされていく。『負』ですらも、欠けたもののない人間ができ上がっていく過程に、ルーファウスは眩暈がした。
 弱いルーファウスのせいで、映像はポーズのまま、一齣も動いてはいない。もう月は変わっている。挙式の日取りは決まった。つい先日には婚礼衣装も仕上がったところだ。彼はふとプライベートフロアを見上げる。
 衣装一式はゲストルームに飾ってある。荷造りがすむまで入室を禁止されていて、ルーファウスはウェディングドレスをまだ一度も見ていない。エアリスはというと、日に何度も部屋をのぞいているというのにだ。もしかすれば今もまた、彼女はドレスフォームの花婿と花嫁の前に立っているのかもしれない。硬直していた彼の口元が、わずかにゆるむ。
 ふるえる指を伸ばし、なめらかな白生地へとふれる前に慌てて引きこめる。エアリスは両手を組みあわせるのだろう。そして吐息をもらすのだ、うっとりと。細められた翠眼がちかちかとまたたいている。きっと涙が張っているに違いなかった。
 たとえ、嬉し涙なのだとしても。
「見ているだけで満足するな、エアリス。どうせ泣くなら、ドレスを着て泣けよ。私も私の花嫁が見たくてたまらない。予定通りに挙式しよう」
 ルーファウスがようやくキーボードに手を伸ばした。
 一昨日の晩に空寝でさえぎった冒険譚、その続きを思う。このままでは二、三日のうちに、『半分セトラ』がまた一人でホーリーの祈りを捧げてしまうだろう。許せないことだった。 
「今夜はお前の話を聞く」
 その前に、彼は映像データを検め終えなければならない。ポーズボタンを解除する。ディスプレーに見入る。
 ウッドランドの孤島、古代種の神殿から退避の途中だった。西大陸に渡った一行が、チョコボキャリッジでゴンガガを目指している。幌のなかに横たわるのは、エアリスが二度目に恋した男だった。
 昏迷する男の手を、エアリスは両手でつつみこんでいる。この横顔は、ルーファウスもよく知っている。ただのセトラの女のそれだ。そして。
「決めたのか。お前は、ここで。この男のために」
 静謐の眼差は、エアリスの決意の証だった。
 一行がゴンガガに落ち着いたあと、彼女は旅立つのだ。神殿で聞いたというセトラの残留思念の声に従って、セトラのコミュニティー――忘らるる都――へと。
 一人で。


「僕はあの子のことを知ってほしいんでしょうね」
 リーブ・トゥエスティの真顔が、ルーファウスの脳裏によみがえる。


 九月のミッドガルエッジは、正午前だからか残暑が厳しかった。汗を掻いているのは、しかしルーファウスだけなのかもしれない。
 新都の中央一帯――真円に造成された零ブロック――は、すっかり広場らしくなっていた。外縁の遊歩道にそって緑樹とベンチが並んでいる。いまだ娯楽の選択肢のないなか、好天の日くらいは開放的にすごしたいのだろうか。木陰で人々が憩っている。七番アベニュー側の一つに腰を据えてしばらく経つが、ルーファウスの熱気を引かせるにはどうにも役不足だ。ヒーリンの森然とした大樹にかこまれて暮らす彼にとって、エッジのそれらはまだ幼い樹陰でしかなかった。
 キャップのつばをつまみ、ティーシャツの袖口で額の汗を拭う。
「植樹は何とか根づいたようだが、成長が遅れているな。やはり七番の土は、はずれだったか」
 ルーファウスは携帯端末を取りだしながら、考える。アーバンプロジェクトの一環、人工造林のことだ。苗木の生長を、と没頭しかけたところでわれに返る。先に妻からの頼まれごとをこなさなければならない。ルーファウスは携帯端末をカメラモードにし、広場の中央へと向けた。
「どこのお上りさんかと思いましたよ。モニュメント撮るなんて」
 シャッター音と一一時三〇分を告げるチャイムに、笑み声が重なる。
「見たいと、頼まれただけだ」
「おや、いい人でもいらっしゃるんですか。あなたにそんなことお願いできるなんて、すごい方ですね」
 約束の時間きっかりに、リーブ・トゥエスティが現れた。ロータリーはフードトラックで混みあっている。そのいずれかで調達したのだろう。男の手は紙カップでふさがっている。片方を差しだしながら、リーブは「ご無沙汰しています」と言った。
「こんな目立つ場所で待ちあわせなんて、不思議に思ってたんですよね」
「下見も兼ねている。そろそろ新社屋の移築を考えなければならないからな。私は気に入っているのだが、今の本社はいささか手狭だ」
 泥水のようなコーヒーを見、ルーファウスはベンチに置いた。リーブは彼のとなりに腰を下ろす。と、ひそひそと話しだした。
「ここ、場所取りって噂は本当だったんですね。せっかくのモニュメント、どうしちゃうんです」
「市民の憩いの広場なのだろう。奪う気はない。記念碑の上に建てればいいだけのことだ」
「そうきましたか」
「エントランスロビーを吹貫にすれば、問題ないだろう。引き続き、市民に開放しよう。待ちあわせに使うのもけっこうだ。雨風もしのげてちょうどいい」
 くそ暑い日差しもな、という文句はのみこむ。
「やっぱり零ブロックでしたか。僕はね、あのあたりも怪しいと思ってたんですけど。ほら、伍番アベニューです。四、五、六ストリートとぶち抜きで土地確保してるの、あなたのところでしょ」
「そうだ」
「あそこって市街化調整区域でしたよね。社屋じゃないなら、何するんです」
 リーブはまるで親しい隣人のようだった。ルーファウスは内心驚いた。彼も過去の因縁に囚われる性質ではないので、かつての部下の変心を気にはしていない。
 意外だったのは、リーブの顔つきだ。ルーファウスの知るこの男は、実年齢が分からないほどに老けていた。苦渋の刻むしわのせいだった。しかし、今は。
「造林だ」
 リーブがまばたきを繰り返す。ぽかんとした顔はまるで子供だった。
「いやや、めっちゃ普通やん。何でまた、ほんなお金にならへんことしはるん。あ、すみません。ですけど、え、本当にそれだけ」
「まさか」
 ルーファウスはくつくつと肩をゆらす。
 慢性的な電力不足で南部開発は遅延しているものの、いつでも再開できるよう準備に滞りはない。まずは土壌改良だ。零ブロックの緑化もそのうちの一つで、彼にとっては試験地だった。その甲斐あって、有用データを基に良質の黒土の選別と、造成地一帯を総入れ替えできるだけの量は確保できている。植林用の苗木もそうだ。ジュノンエリアとグラスランドエリアをへだてる山脈、その北端の山裾では、すでに根のよく張った実生苗が育っていた。
 そして、もう一つ。
「自宅だ。本社近隣にも一つあったほうが、何かと利便がいい」
「おうち」
 ルーファウスは鷹揚に頷く。ことが進みだせばいずれ周知の事実となる。彼にとって、伍番の都市設計は隠す必要のないことだった。
「マイホームというやつだな」
「ちょっと、言い方。似あいませんね、あなたにそういうの。といいますか、あれだけの広さですよ。またまたすんごい豪邸なんでしょ」
「設計はこれからだ。さて、どうなることやら。だが、そうだな、庭にハーブ園はほしいところだ」
「はあぶ」
「そうだ」
「マジカルなハーブ、ですか。ぶっ飛ぶやつ。そうなんですね。きっとそうだ」
「失礼だな、君は」
 リーブが目を丸くしたまま、動けないでいる。ぶっ飛ばなくても妻を楽しませてやれる。今、この男にそう言えば、溜飲は下がるだろうか。ルーファウスは肩を竦めた。
 ドラッグカルチャーという、彼の武器――知性や理性――を奪うたぐいのものをルーファウスはたしなんだことがない。依存性のないものであったとしてもだ。いっときの楽のために自我を手放す連中は、彼にしてみればばか者としか言様がない。だが『神羅の放蕩息子』は違った。心身の快楽を大いに盛り上げようと、ベッドで常用しているらしい。そう実しやかにうわさされていたことを、ルーファウスは知っていた。
 こうしていまだつきまとう醜聞へ、いちいち腹を立てることはない。とはいえ、ルーファウスの嫌う『ばか者』と思われることはいささか心外だった。
「ただの造園だよ」
 どのようなつくりにするか。それはルーファウスと彼の妻とでこれから考えることだった。おのずと微笑が浮かび、声もないままに深くなる。エアリスはまだ何も知らない。
 いつ、『マイホーム計画』を持ちかけようか。
 ルーファウスは今、しかるべき時期と場所とを見計らっているところだった。結婚式の翌日がちょうどいいと彼は考えている。幸せに幸せを重ねたときのエアリスの驚きよう。眸の新緑の輝き。それを思うと、ルーファウスは楽しみで仕方がなかった。
「雑談はもういいか、リーブ君。あまり長居をする気はない。君もそうだろう」
「やだ、会ったばっかりなのに、つれないこと言わないで。僕は楽しみにしてたんですけどね。だけどあなたとの密会は、そうですね、浮気がばれるよりまずいかな」
 神羅電気動力株式会社、そして世界再生機構のトップが含み笑った。
「それはそれは。君のいい人に申訳が立たないな。だが、リーブ君。私の勝手で呼びだしておいて何だが、痴情のもつれには巻きこまないでくれ」
 冒頭の冗談に、ルーファウスが同じように返す。今度は二人して声を立てて笑った。
「WROの局長は、日々分刻みのスケジュールに忙殺されていると聞く」
「そうなんですよ。目、まわりそう。僕ね、こんなところで、こういう一張羅着て、ゆっくりしてみたかったんです」
 ルーファウスの指定したドレスコード、リーブはその意図をしっかりと汲んだようだ。コットンリネンキャップが涼しげなオフホワイトだ。その上にサングラスをかけていて、洒落ている。それ以外はルーファウスと似たりよったりの着衣で、『民間人』らしく見えた。
「一張羅とやらのおかげだろう。今の君はな、どこから見ても休日に暇を持て余している男だ」
「じゃあ、ばれませんね」
 ただ、とルーファウスはつけ加える。
「君もたいがい姿勢がいい。こういうときはな、少し背中を丸めるといいぞ」
 にやりと言って、ルーファウスはウォッシュドアウトジーンズにつつんだ足を開いた。だらしのない男が二人完成したところで、ルーファウスが口調を改める。
「さて、本題だ。単刀直入に言う。エアリス・ゲインズブールにかかわる映像の返還を求める。早急に。すべてだ」
 代表取締役を前にして、リーブもまた都市開発部門統括時代に戻ったようだ。眉間へと深いしわを刻んでいる。
「映像ですか」
「ケット・シーに仕こんであっただろう。ハードディスクドライブのことだ」
「教えてくれないでしょうけど、聞きますね。どうしてです。それも彼女一人をご所望だなんて。だとすれば、目当てはセトラ以外にないでしょう。何に利用する気ですか」
「利用だと」
 誰が、誰を。
 神羅社長が、セトラを。
 ルーファウスが、エアリスを。
 ルーファウスの背中がふるえ上がった。何を言っているのか、この男は。
「利用と言ったのか」
 かっとこみ上げた怒りを、ルーファウスはかろうじて押し殺す。
 リーブの懸念は分からなくもない。神羅が星痕症候群の治療薬や魔晄中毒の特効薬を完成させたことは、界隈では有名な話だった。この男のことだ。創薬の基礎研究にもさぐりを入れていたのではないだろうか。ある時期に『SC環境分析株式会社』を騙る一団が、ミッドガルスラムの教会堂へと出入りしていたこともだ。すでに枯れた湧泉の成分、あれは確かにライフストリームだった。
 神羅カンパニーが今もなおライフストリームに執着している。そう思われていたとしても、仕方のないことだ。
「この街のエネルギー供給はいまだ不安定です。足りないのでしょう、新しい炉だけじゃ」
「火力発電のことなら、正しくその通りだ。燃料の確保をどうしたものか、毎日頭をかかえているところだよ。だが、燃料不足なら、ライフストリームも似たようなものだろう」
 神羅がそれを電力に転用して、三〇年以上が経つ。ルーファウスの意志がかかわるところとなると、ウェポンとの攻防だった。魔晄キャノン砲撃でたいがい使いこんだという自覚はある。加えて、この星の光の盾だ。ホーリーを支えるべく噴出したライフストリーム、あれは――前者の二つなど比べるべくもない――尋常とは言いがたい量だった。
「わが社は魔晄事業から手を引いた。この先、ライフストリームこそ確保の難しい燃料だ」
 ライフストリームとは、いきものすべてのいのちの循環だという。死んだいのちが星へと還り、巡り巡って、やがて新しいいのちとなって地上に生まれでる。その源泉となる星のたくわえが、今、どれほど残っているのか。ルーファウスには知るすべがない。
 ただ、と神羅社長の顔で慰霊碑を見据える。ひどく枯渇しているのだろう。彼には根拠があった。
 メテオショック以降、出生率は低迷している。厄災でミッドガル人口は――生殖が可能な年代も含めて――激減したものの、それ自体はさして関係していないとルーファウスは踏んでいる。なぜなら彼が着眼しているのは『数』ではなく『率』だからだ。そして、それは世界規模で起こっていることだった。
 人口の年代別推計を見るに、性成熟期の割合に対して新生児の層が極めて薄い。たちまちの生活苦や先行き不透明な将来を考慮して、出産を控えるケースもあるだろう。しかしそれはあくまで一部の個人の問題だ。ルーファウスが気にするのは、医療現場の懸念だった。着床しにくい、あるいはしない。各エリアの鳥獣保護区、獣医師や研究員の意見も同様だった。
 この生命のサイクルの乱れこそ、ルーファウスの業を立証するものにほかならない。
 新生のいのちになるはずだったそれ――精神エネルギー――を無下にしたのは、メテオでもましてやホーリーでもない。あたかも永久燃料のように、魔晄エネルギーを生活へと取り入れた人間でもない。ライフストリームに目をつけ、『セトラ』と『約束の地』を求め続けた神羅だ。ルーファウスは奥歯を噛む。
 ジェノバとセトラを間違えた。
 セトラが封印したジェノバに息吹を注いだ。
 ジェノバをはぐくみ、最後のセトラをむざむざ死なせた。
 すべて神羅が。
 ルーファウスは足元を見る。敷石タイルより、さらに下にあるのは星の内部だ。空のタンクだった。
 メテオにぶつかって消失したライフストリームは、新たに填補できるものなのだろうか。人の手で、彼の手で。だが、いったいどのように。
 一連の惨事で死亡した人々――ミッドガルだけでも、メテオショックで三割、星痕症候群で一割にもおよぶ――も、今ごろは星を巡り、次代の精神エネルギーへと変化する只中にあるのだろうか。回収の進むマテリアは足しになっているのだろか。近ごろモンスターの生殖が活発なのは、実は吉兆ではないのだろうか。
 子供という、ルーファウスとはまるで縁のなかったもの。
 これからは星が正常のサイクルに戻りつつあるという、目安となるだろう。彼ら、彼女らの笑声が、たとえばこの広場で高らかに響いたとき、ルーファウスは果たしてともに笑うのだろうか。
 それとも。
 失われたライフストリームが回復するすべのないままに、地上のいのちのいとなみは先細りの一途をたどるのかもしれなかった。たとえば、五〇〇年後。果たして人や鳥獣の息吹を聞くことはできるのだろうか。
 分からない、と彼は首を横に振る。星のこととなるとまるで無力だ。だが、暗澹としてばかりもいられない。ルーファウスがすべきはタンクの満たし方をさぐることだろう。そうして負債の返済に勤しめばいい。
 そんなことよりもだ。今、彼が気にしてやまないのは。
「ライフストリームの新たな主脈に手をつけようにも、セトラは」
 ルーファウスが失った大切ないのちのことだ。
「利用しようにも、セトラは絶滅した。神羅のせいでな。エネルギーの潤沢な『約束の地』は、もう見つけだせない」
 一言一句が、ルーファウスの臓腑をえぐる。痛くてたまらない。
「エアリス・ゲインズブールは、レッドデータブックにも、もう載せられないな。なあ、そうだろう」
「何て言い方を、あなた」
「事実だ」
 皮肉げに笑う彼に、リーブが気色ばむ。ルーファウスは己の男の顔をひた隠しにする。痛苦をこらえる様子は、そうしておくびにもださない。
「懲りずにライフストリームを頼って、またとも倒れなんてことは、ばかでもしないだろう。炉頂圧発電が、ちょうど実用化段階に入ったところだ。地下資源の代替なら、すでにいくつかピックアップしている。まあ、これは実証段階にもほど遠いがな」
「だったら、尚更です。セトラを、どうしてあの子を」
「それほどおかしなことか。私の言分は、至極真っ当だろう。備品を返せと言っている」
 ルーファウスは己の冷え冷えとした声を聞くのは、久しぶりのような気がした。おのずと背筋が伸びる。目立つからと、また慣れない猫背を装う。
「あのどさくさに紛れて、さまざまなことが有耶無耶になってはいるが。リーブ君、私は君の退職届を受理した覚えもなければ、受け取ってすらいない。あれはわが社の備品だからな。君が社外に持ちだしていいものではない」
 こんなことなら、面談はやはり屋内を指定すべきだった。ルーファウスは面と向かって、美しい姿勢で、彼らしく交渉したかった。一瞬そんな思いが掠めたものの、しかしどうしてもこの場所で返却の約束を取りつけることを、彼は諦められなかったのだ。
「それでも渡せないというのなら、言い値で買う。金はいくらあっても足りないだろう、君のところは」
 図星なのだろう。リーブが曖昧な顔をして、耳裏を掻いている。
 零ブロックは、いずれ新生神羅カンパニーの始まりの地となる。あと少しというところまで漕ぎ着けられたのは、ルーファウスが今を生きているからだ。星を生かし、死病を滅したのは、ほかでもない彼の妻だった。
 これはルーファウスの三度目の生だ。そのチャンスを与えたエアリスに、彼も同等のものを返したかった。
 ルーファウスはエアリスのことで、もう何一つとして間違えたくはなかった。だからこそ『半分セトラの大冒険』が欠かせない。彼女の過去には、神羅の、ルーファウスの失態が収められているはずだ。把握しておきたかった。
 それをこの場所で、ルーファウスの生の証の地で手に入れろ、と急き立てるのは、彼のなかのロマンチシストだった。
 ロマンチシストが目覚めてから、まだそれほどに経っていない。だが、なかなかに利かん気だ。まったく柄にもない、とルーファウスは少し笑った。
「やはりあなたでしたか、金融を牛耳っていたのは。キャッシュどころか、近ごろは有価証券まで息を吹き返しましたよね。驚いていたところです」
「零落企業の社長が田舎に引きこもって、ただのんびり静養しているだけだとでも」
「おや、今のお住まいって田舎なんですか、あなた」
「よく言う。わが家の敷地内で、エージェントを何度か見かけた。あれはタークスの最古参だろう。それからミッドガルから逃げだした実験動物もな。燃える尾をした四足だ」
 覚えがあるだろう、と問えば、リーブは「友達です」と、しれっとこたえた。
「あなたのところの黒いわんちゃんたちは、本当に鼻が利く。またこっそりお伺いすることがあっても、噛みつかないでやってくださいね」
 二人は一見穏やかに笑みを交わす。
「私は手段を選ばない性質だ。君もよく知っているだろう」
「それはもう。重々承知してます。ですけどね、今、僕たちはそこそこなかよしな関係を保っているでしょう。そういう言い方されると、怖くて逃げちゃいますよ、僕」
 己の立場を楯にして、無闇と踏みこむようなまねはよしたほうがいい。リーブは暗にそう言った。ルーファウスは渋々ながら頷く。神羅社長が反神羅組織に手をだしたとなれば、抗争は避けられないだろう。そうと分かっていても、彼は念押しせずにはいられなかったのだ。このままのらくらと、リーブをのがすわけにはいかない。
「そうだな。良好だ」
 良好というのは、ビジネスライクなつながりのことを指している。たとえばミッドガル擁壁工事の現場だ。神羅が建設業者を、WROが警備軍隊を派遣する。一箇所につどった二つの組織は、こんな風にして雇用契約で穏便を保っている。
 だが個々人となると、平静でいることがどうやら難しいらしかった。組織の下層に向かうほど、一触即発の緊張を孕んでいく。末端の構成員ではそれも仕方がないだろう。いや、とルーファウスは嘲る。大局を見る目を持たないから、彼らはいつまでも下っ端のままなのだ。
 ルーファウスは心のうちで笑う。くすぶっている連中は、一度彼の妻に叱られるといい。「そういうの、本当、どうかと思うの。ばかばかしいったら」、と。
「局長に逃げられては、困る。君のところには、これからも世話になるからな」
 ルーファウスにはWROを存続させたい理由がある。治安維持だ。
 ルーファウスは父親から継いだ稼業のうち、『武器屋』を廃業するつもりでいる。彼が掲げた社命にともない、人のいのちを脅かすいっさいから手を引く。軍備や兵器製造もその一つだった。
 だが彼には頭の痛い問題があった。モンスターだ。野放しの人口生命体が、ミッドガル上層で繁殖している。旧神羅の治安維持と兵器開発を『災害対策部門』として再編し、ことに当たってはいるものの、いずれは治安維持の一部を――会社の保安として――残し、あとは解体したいと考えている。
 そうなると、社会の秩序を保つための機関が新たに不可欠だ。リーブは適任だった。この男には大局観に立つ冷静がある。
 すべてをルーファウスが背負う必要はない。人一人にかかえきれる重みはかぎられている。会社組織改組の只中で、ルーファウスは己の非力をいやというほどに思い知った。そして荷を下ろすことが是であると、すでに納得している。
 共存共栄。これもまた、エアリスに教えられたことだった。
 ルーファウスの私的な荷――彼の家族にかかわるトラウマや、日々の心労――は、妻が半分かかえている。とても楽だった。生じた余裕は、また別のかたちにして相手へと還元できるだろう。
「さて、ハードディスクドライブだ。君はどれだけの値をつける。いくら吹っかけてもかまわない」
 ルーファウスは薄く笑いながら、キャップのつばをわずかに持ち上げる。眼光を鋭くする。譲れないことがある。
「売りませんよ」
 リーブも同じなのだろうか。穏やかに首を振っている。
「何」
「僕は友達の情報は売りません」
「横領する気か」
 ルーファウスは片眉をあげて、茶化す。リーブが両腕を広げて見せた。
「お貸ししますよ。僕が納得できるほどの理由を担保に」
「君の選択肢は、返すか売るかだ。私のものを私が借りるというのは、土台おかしな話だろう」
 今度はルーファウスが首を振る。泰然と口端を吊り上げた。リーブの眼前で、親指と人差指で空気をつまむ。毛髪一本ほどの幅をだ。
「そして、理由を明かす気はない。これっぽっちもな」
「あらあら、相変わらず頑固なお方だ」
 二人はじっと見つめあった。静かな白熱戦は、久しぶりだった。楽しい。いつ以来になるのか、ルーファウスは神羅の拍動を感じた。さて、次はどうでる。彼がそうかまえた矢先のことだった。
「分かりました。お渡ししますよ」
 すんなりとリーブが折れた。
「おい。今までのやり取りは何だった」
「いやね、死んだと思っていた上司からの、まさかのお誘いですよ。久々にお話ししてみたいなと思いまして。目的は果たせましたから」
「本音は」
「いきなり呼びつけられたんですよ。いったい何ごとだろうって、怯えながら来たんですけど、僕。まさか彼女をご所望だなんて、思いもしませんでした。あれにはあなたの会社にとって有益なものは、何も映っていないですし。まあ、いいかなって」
 それにね、とリーブは視線を宙に漂わせる。いったん閉じられた口は、なかなか開かなかった。ルーファウスは羨ましく思う。リーブの穏やかな無言にいるのは、彼女だ。
「あの子の『がんばって』ってね、すごく効くんです」
 ルーファウスの知らないエアリスが、ルーファウスではない男のなかにいる。確かに、今も。
「もっと、がんばればよかった。がんばらなければならなかった」
 リーブが、はは、と力なく笑う。楽しい思い出はつきてしまったのだろうか。男の愁色は濃くなるばかりだった。
「あの子にばっかり、がんばらせてしまった。あんな若い子に」
 慰霊碑に視線を据え、リーブは身を乗りだした。ルーファウスは逆だ。背を反らし、男の死角にもぐりこむ。と、唇を噛み締める。
「僕はあの子のことを知ってほしいんでしょうね」
 知りたいからここにいる、という言葉をルーファウスはかろうじて抑える。
「それは、私に、ということか」
「勿論、あなたにですよ。神羅の社長さん」
 あたりをはばかってか、最後は口の動きだけでそう言った。そうしてまた黙りこんで、ルーファウスの二二歳の妻を占領する。ややしばらくしたころ、リーブは鼻頭をこすりだした。
「あかん、やっぱいやや。僕らだけの思い出やもん。見んといて」
 情けない鼻声がして、ルーファウスは思わず笑った。ははは、とかろやかなそれに、リーブは度肝を抜かれたようだ。冷血なはずの神羅社長を二度見している。
「返せよ、言質は取ったからな」
「分かってますけど。ですが、大丈夫ですか。よその女の子の映像なんて持ち帰ったりして。ばれちゃったら、まずくありませんか」
「誰にだ」
「あなたのいい人に、です」
 リーブは片目を瞑った。どうやら冒頭の冗談をまだ続けるらしい。
 無論、エアリスにはハーディスクドライブの存在ごと伏せておく。『半分セトラの大冒険』を語る口調に淀みはなかった。悲しい旅路すべてを、彼女はしっかりと覚えているということだ。この上、映像にしてまで突きつけたくはない。
 それに、とルーファウスは困ったように俯く。彼女の過去を盗視していることが知られようものなら、「プライバシーの侵害」だとか「エッチ」だとか罵られるに決まっている。
 ルーファウスは人差指を自身のくちびるに当てた。
「まずいな。叱られる。だから内緒だ」
 リーブは目を丸くした。ルーファウスはくつくつと咽喉を鳴らす。冗談とでも、本気とでも、好きなように取ればいい。
 それにしても呆気ない。本当のところ、ルーファウスはリーブにはもっと粘ってほしかったのだ。その上で、彼は戦いたかった。ギルも含めたネゴシエーションで、己の力で勝ち取らなければならないものだからだ。実際、彼は相当の額面を用意していた。私財だった。
「金は用意する。ディスクは無事なのだろう。保管料だ。これは私の意地だ」
 ルーファウスは敢然として主張する。妻のプライベートを、他者の温情で手に入れる気など毛頭ない。
「お金はいやですってば。本当、頑固さんですね」
「リーブ君。金は勝手に湧いてはでてこないぞ」
「分かってますけど。これだからお金持ちは。ほしいですけど。すごくとてもほしいんですけど。ほら、咽喉から手がにょろにょろって、だめ、引っこんで」
 何のパフォーマンスなのか、リーブが自身の首を絞めている。ルーファウスは訝しむ。統括としての能力は把握していたつもりだ。こんなおどけた男など、しかしルーファウスの部下にはいなかったように思う。
「君も相当の片意地張りだな。知らなかった」
「僕は変わっていませんよ。何もね。あの会社のなかで目立たないくらい、まわりの個性がどぎつかっただけです。あなたを筆頭にだ」
 リーブが大仰に肩を竦めた。違いない、と――『どぎつい』顔ぶれを思い浮かべながら――ルーファウスは追懐した。彼が無下にしてきたものは、こうして相対してみるとどれも面白いものだったのかもしれない。
「じゃあ、こうしましょう。これは一つ貸しということでいかがです」
「貸しだと」
 ルーファウスはしきりにまたたきをする。新鮮な響きがした。
「落ち着かないものだな。人にものを借りることには、慣れていないぞ。私は金持ちだからな、即金ですませてしまいたいのだが」
「それはきっと問題ありません。案外、早く返していただくことになりそうだ」
 爽やかな風が、若いこずえと男二人の襟足を撫でた。リーブは伸びをする。と、ベンチにもたれかかった。ルーファウスもローバックのそれに両肘をかける。肩甲骨のあたりが開いて、気持ちがいい。
 思い出の換金は拒否するこの男に、今日の貸付をルーファウスはいったい何で支払うことになるのだろう。好奇心がリーブを今すぐに問い質そうとする。それを抑えながら、ルーファウスは口を開く。あとの楽しみに取っておくのも一興だ。
「昨今の失踪事件に関係があるのか。ジュノンは、あれはもう個々の蒸発ではごまかせない人数にまで上っているだろう」
 リーブがぎょっとした。ベンチの端にまで飛び退きそうに、肩を縮こませている。
「ちょっと、あなた、耳聡いですね。いやだな、怖い怖い」
 ルーファウスはにやりとしながら、首を振った。本日の成果はすでに収めている。これ以上長居する気はなかった。詮索はしないという彼の意思表示に、すぐさまリーブのほっとする気配が返ってきた。
 立ち上がろうとしたルーファウスを、リーブは引き止めた。
「あのクレープ屋さん、なかなか美味しいんですよ。ごいっしょにランチでもいかがです」
「クレープなら、ほかに美味いものを知っている。あれ以外は口にしない」
「三つ星シェフでもおかかえにしてるんでしょ、お金持ちは、どうせ。羨ましい」
「三つ星なあ。まあ、そんなところだ」
 ルーファウスは曖昧に頷いた。彼の専属シェフはどうにもうっかりがすぎる。並ぶ料理は、ルーファウスとはまるで縁のなかった家庭料理ばかりだった。それでも、と彼は目を細める。嘘ではない。エアリスのあたたかな食卓は、気持ちの上では星をいくらつけても足りない。
「ランチがだめなら、コーヒーの一杯くらい、つきあってくださいよ。何ならビアでも買ってきましょうか。ど平日の真昼間からおそとでビア。いややん、これ贅沢すぎとちゃう」
「いやなのか」
「いやじゃないです。そう意味じゃないんですよ、僕のいやは」
 リーブは手つかずのままの紙カップを指差した。ルーファウスは軽く首を竦める。
「私は本当の意味でいやだ」
「ひどい」
「出所の分からないものは口にしない」
「ああ、そうでした。あなた、自社のカフェテリアですら使いませんでしたものね。クラブハウスサンド、あれね、めちゃくちゃ美味しかったのに。勿体ない」
 恋しいなあ、とリーブが肩を落としている。
 ベッドルームの配置にすらこだわるルーファウスは、無論、外食にも細心の注意を払った。ミッドガルで栄華を極めていたころから、ルーファウスが『ふらっと』飲食店に入ることはない。『その日の気分』が決まったときに、すぐさま店へと連絡が入り、しかるべき管理のもとで用意された一式がルーファウスに提供されるのだ。グランメゾンは言わずもがな、市内最大のコーヒーチェーン店ですらそうだった。
 ルーファウスは朽ちかけた都を一瞥した。かつての神羅王国だ。
 あの場所での、彼の在位は短いものだった。だがルーファウスは生まれたときから王位継承者として、大衆の面前に立ってきた。自国の王子の顔を知らない民などいなかった。
 加えて、テロリズムの横行する悪徳の都だった。どこに不逞のやからがひそんでいるか分からない。護衛もないまま、カップ片手に街路を歩くことなど、ルーファウスは考えたこともなかった。
 それでも幾度かは妙な薬を盛られたのだから、ルーファウスは辟易するばかりだった。内臓を痛めながらも、悪態をついた日々を彼は忘れていない。
 自身で調理を覚えたことは、そしてそれが思いのほか楽しいのだと分かったことは、彼にとって僥倖だった。もともと自らの手で何かをつくりだすということが好きなのだ。キッチンとは無縁のルーファウスにフライパンとターナーを握らせることさえ叶えば、彼が興味を示すのは必然ともいえた。
 何よりも、とルーファウスの頬がゆるむ。
 他者の手料理を何の疑殆もなく食べられるというということは、気楽だった。『安心安全のエアリスちゃん』には、感謝しかない。
「長生きしたいからな」
 冗談めかして言ったものの、ルーファウスには少しもふざけた気持ちはなかった。とくに今は死ねないのだ。さびしがりの妻を一人にすることになる。
 ルーファウスはいったんくちびるを引き結んだ。それに彼はエアリスと約束している。
「一〇〇歳まで生きるつもりだ」
 香りの立たないコーヒーを見下ろす。リーブを疑ってはいない。
 ルーファウスがリーブを治安維持として活かしたいように、この男もまたルーファウスを役立てるだけの狡猾さを持ちあわせている。本来、ルーファウスにとってそれは良心よりも信用に値するものだった。
 神羅時代、常識人と思われがちだったが、リーブは案外とそうではない。プレジデント神羅の方針をよく知り、曲者揃いの幹部のなかで統括という地位を維持してきた男だ。加えて、社長と統括、ルーファウスは短期間の上下関係のなかでリーブの為人を察していた。損得勘定は、一桁の加算より簡単にこなすだろう。
 たとえば、金融だ。ようやく正常に動きだしたギルの流れ、その源流が何者であるかをリーブは突き止めていた。今、ここでルーファウスを害すれば、源流が枯れる。せっかくギルが貨幣としての価値を取り戻したというのに、そのような悪手をリーブが取るはずがなかった。
 それでもルーファウスは自らの警備を怠らなかった。
 広場内には多くのタークスを配備している。ほとんどが民間人に扮し、残りの連中はどこか高台から狙撃体制で控えているはずだった。リーブもおそらくそうだろう。WRO局長という立場がある。
 ルーファウスはリーブ個人――の打算――を見こんでいるが、WROという組織自体はそうでもない。局長のとなりにいる金髪男の正体を知れば、団体の理念より私怨を優先するやからがいるのかもしれなかった。
「あなたなら叶いそうだ。僕、お誕生日にはお祝いに駆けつけますね」
「君は一〇五まで生きるつもりなのか。化け猫め」
「いいですね、化け猫。がんばっちゃおうかな。この先、気になりますからね」
 星の行末が、と呟く男は、ジェノバ戦役の英雄を経て、今は復興実現の立役者だった。ルーファウスは浅く首を傾げる。
「君ももう雇用される側ではないのだろう。天辺にいる人間はな、目立つぞ、局長。気をつけろよ」
「怖いこと言わないでくださいよ。だけどあなたが言うと、説得力がありすぎて」
 いややわ、と髭におおわれたフェイスラインを乙女のように押さえている。ルーファウスがふっと吹きだせば、リーブは上目を向けた。
「毒なんて入ってませんってば。僕も入れてないですし。ほら」
 リーブはコーヒーを飲んで見せる。苦い、と空になったカップを握りつぶした。
「あなたに何かあったら、僕、今ここで蜂の巣にされちゃうんでしょ。躾の行き届いた黒いわんちゃんたちに」
「何だ、ばれていたのか」
 ルーファウスはしれっと言った。ふてぶてしい様子を笑ったかと思えば、リーブはすぐに神妙な顔つきになる。
「すてきな広場です。美しい大通りだ。一人でふらふら、あ、デートでも。好きに歩ける日が、あなたにも早く来るといいですね」
 狡さと、そして甘さの共存する男を、ルーファウスは興深く眺める。ややして鼻で笑った。
 WROとの硬直状態がなくとも、ルーファウスの散歩には黒犬がつきまとう。今日だけではない。昔から、明日も、この先も。ルーファウスが一〇〇歳で大往生するまで、護衛は手放せないだろう。
 ルーファウスは自社の負債返済のためなら、多少の強引なやり方もいたし方がない考えている。神羅に恨みをつのらせる連中は、あとを絶たないに違いない。
「別段、そんなことは望んでいない。うちの黒犬どもの餌はな、スリルだ。適度に与えてやらなければ、飢えてしまうだろう」
「本当、何なんです、あなたのとこ。飼い主がこんなだから、わんちゃんたちも怖いんですよ。もう、そっくり」
 鼻頭にしわをよせるリーブに、ルーファウスは手つかずの紙カップを押しつけた。
「近ごろはその散歩も足りていない。何せ私が出歩きたがらないからな。自宅にいることが何よりも楽しくて仕方がない」
「へ」
「今日くらいは、遊ばせてやりたい。好物の緊張の只中でだ」
「いやいやいや。おうちがいちばん楽しいって、あなたがですか。何言うてはるん、この人。へ」
 リーブの目玉が、今にもこぼれんばかりに見開かれている。この男もまた、『プレジデントボンボン』の信奉者なのだろう。本社勤務のスタッフに『ピクニック大好き神羅社長』などと呼ばれていることを知れば、どのような顔をするのか。見ものだな、とルーファウスは思った。
 ルーファウスは背中をベンチに預ける。と、足を組み上げた。眼前に伸びる大通り――七番アベニューだ――に目をやりながら、考える。この数一〇分では、犬の散歩は十分とは言えないだろう。
「私は飲まない。だが」
 次にルーファウスがエッジを訪れるのは一〇月下旬だ。挙式のあと、彼の興した街に初めて妻を連れ立つ。
 大路にそって並木敷が整備されている。ああ、とルーファウスは感嘆する。若木を見上げるエアリスが見えた気がした。その横顔は嬉々としている。ルーファウスは密かに笑う。黒犬たちの散歩に彼女を誘ってみようか。
 タークスだけではない。人の往来がある。手をつなぐことも、笑みを交わすことすらも叶わないだろう。だが、エアリスとなら、彼は視線だけで会話を楽しむことができる。
「君がそれを飲み終わるまでなら、つきあおう」
 伴侶に選んだ女と、ただ街路をぶらつく。悪くないかもしれないとルーファウスは思った。
 

 ハードディクスドライブは、翌日にルーファウスの手元へと届けられた。
 エントランスロビーは一時騒然とした。現れたのが、タークス・オブ・タークスだったからだ。現役構成員でヴィンセント・ヴァレンタインの総務部調査課時代を知る者はいない。レセプションルームにこぞってつめかけたのは、なかでも若いタークスたちだった。社長護衛と称して、非番の連中までもが勢揃いした。
 俗気を隠すこともしないタークスに呆れたものの、目的の品さえ手に入れば彼はそれでよかった。ルーファウスは一団を残して、早々に退席した。
 社長室へと引き上げる山道、自らハンドルを握りながら、ルーファウスは少しだけ笑った。助手席のダークスターがまたかといった風に主を見ている。
 わざわざ『友達』を使いによこすリーブの、見えそうで見えない腹の底が面白かった。そして文句の一つも言わず、小間使に徹するヴィンセントのこともだ。
 ルーファウスもたびたびこの男を呼びだしている。当初の目論見通り、護衛と案内を兼ねた旧態施設の検分や、社史にない神羅の内情を知るためだった。無口だが、やはり不服そうではなかった。黒犬としての躾が染みついているのか、もしくはかつての飼主の面影をルーファウスに重ねているのか。いずれにせよ、感慨深く思うところがあるのかもしれなかった。
 何せヴィンセントの人生を一変したのは、神羅だ。そして社屋の所在地こそ違えども、ここが男の古巣だった。
 そうかと思えば、ヴィンセントはまるで世捨て人だった。
 何かしらの組織や団体に所属している風ではない。タークスに復職する気も――ルーファウスは退職を認めていないが――ないらしい。リーブとのつながりも、ほとんど友誼のみなのだろうか。局長からの『内密の頼まれごと』以外は、どうにも気がない。神羅の心臓部にいながら、ルーファウスの挙動をさぐる様子がまるでなかった。
「鼻も爪も錆びついてはいないだろうに。使わないのは勿体ないと思わないのだろうか。なあ、ディー、あれは変な男だな。だが」
 ルーファウスはステアリングホイールを撫でるように切る。濃い緑樹のあいだから、陽が幾筋も洩れている。ゆるやかな坂道は白色の光の斑点だらけだった。きっと外気は瑞々しい香りがすることだろう。
 フロントドア硝子を開けたいところだが、さすがに控える。現在の本社ビル、特に『廊下』は通気性がよすぎるきらいがある。万が一、ビル内の移動中に狙撃されたところで、銃弾を受け止める壁は車の装甲だけだ。ルーファウスはダークスターの太い首を叩く。己の過失で愛犬が傷つくところなど、二度と見たくはなかった。
「あれもまた、神羅の闇だ。恐ろしいいきものだ」
 ルーファウスは薄らと笑う。ヴィンセントが自発的に牙を剥くのは、おそらく神羅が再び世に仇なすときなのだろう。今度こそ古巣は焼き払われるのかもしれなかった。
 ほどよい緊張感に、背骨が打ちふるえた。タークスのことをとやかくは言えない。餌とまではいかなくとも、ルーファウスもまたスリルを菓子程度にはつまんでいたいのだ。
「神羅の怪物を、放って置くわけにはいかない。困ったことだ」
 神羅にかかわる者の動向は、定期的に抑えておきたかった。ルーファウスがヴィンセントを招集する理由の一つだ。そして、近いうちにまた新たな理由が増えることだろう。
 エアリスだ。
 ルーファウスの妻のルーツは、何も映像に残っているだけではない。今を生きる人々のなかにも息づいている。ヴィンセントなら、さらには彼女の父親とも顔馴染みだった。
 無論、ファレミス博士とはルーファウスも社内行事で顔をあわせている。だが相識があるとは言いがたかった。当時、彼はまだ幼く、そしてファレミス博士は例にたがわず神羅の科学者だった。よちよち歩きの御曹司にへつらうより、自身の研究に埋没したがった。
「ああ、そうだった。会場で見かけたところで、いつの間にか消えていたのだった」
 ルーファウスは苦笑した。ファレミス博士はおろか、科学者連中からは社交辞令ですら声をかけられた記憶がない。ダークスターが鼻を鳴らした。
「どうした、ディー。パルマーか。あれもだめだぞ」
 ルーファウスも、ふん、と大きな鼻息をつく。科学者以外は、ほとんど彼の父親のご機嫌取りだった。
 その点、総務部調査課の――叩きこまれた――人を見る目はフラットだ。ヴィンセントにエアリスの父親のことをたずねてみたい。当時の様子におおよそ近い話が聞けるのではないかと、ルーファウスは思った。
 ただし、思い出話はもう少し先のことだ。ルーファウスはリアビューミラーを一瞥する。後部座席のアタッシュケースには『半分セトラの大冒険』、その一部が入っている。
 他者の記憶をさぐるまえに、ルーファウスはエアリスの事実を見なければならなかった。


 エアリスの一度目の徐波睡眠は、分かりやすかった。
 ルーファウスの胸に背中を預けていた彼女が、のろのろと寝返りを打つ。そのタイミングで彼は腕の戒めをとくのだ。夢を見る時間は終わったのか、くちびるから微笑みが消えていく。このいっときにだけ見ることの叶う、エアリス自身も知らないはずの無表情だった。
 ルーファウスはその口端へキスをし、彼女がひくりともしないことに小さく笑う。と、ベッドを抜けだした。リビングで一人、『半分セトラの大冒険』を見進めるためだった。九〇分。いちばん深い眠りから再び夢見のそれへと切り替わる寸前のところで、ルーファウスはエアリスのとなりへともぐりこむのだ。
 幾晩、続けただろうか。
 真夜中のいっときでは、エアリスの語る冒険譚に追いつけなくなった。式日も迫っている。だからこうして公人を私人のために削っている。いや、とルーファウスは否定した。これは『削る』ではなく、『なげうつ』だ。神羅社長の時間は貴重だが、彼に惜しげはなかった。
「ああ」
 今、ルーファウスの目には、ゴンガガの粗末な宿屋が映っている。一行の様子が早朝から慌ただしい。
 エアリスが失踪したからだ。
「いよいよか」
 雨はまだやまない。薄暗いフロアに呈する明かりは、ディスプレーの四角いそれだけだ。
 チェアに深くもたれたまま、ルーファウスは映像を止めた。昼食はシリアルで軽くすませた。だというのに悪心がするのは、画面に酔ったからだろうか。映像は終始ゆれていた。偵察機が――モーグリに搭乗しているときはとくに――跳ねるように動いているものだから、彼には調整のしようがなかった。
 ルーファウスはみぞおちのあたりをさする。眉をしかめながらも、しかしディスプレーから目は逸らさなかった。
「お前一人では向きあわせない」
 悲しみとも、死とも。
 ルーファウスが自身の不安と対面するとき、決まってエアリスがとなりにいた。ほっそりとした手が、一心な眼差が、どれほどの救いになったことか。
 今度こそ、「ルーファウスのばん」だった。
 ためらう指を叱咤し、ルーファウスはキーボードを操作する。迷ったすえに、音量はミュートにした。ふと思いだしたのが、七月の第五観測所でのできごとだった。母親の映像に一人ひたる父親と同じことを、ルーファウスはしている。
「私がか」
 あのとき彼がつのらせたのは、父親への苛立ちばかりだった。今は違う。いとおしい声を聞くことが困難な男の気持ちだけが、ルーファウスを占領している。愕然とした。
「私が親父と同類、だと。エアリス。お前は、何てことを」
 エアリスの手を取ったときから、ルーファウスの視野が一変した。情愛ごしにものごとを見るすべを教えられたからだ。すべてが新奇のように映った。それはときにルーファウスを明るくときめかせ、ときに彼を初心な若輩らしくまごつかせるものだった。
 今は恐ろしいことに、判断の剣をなまくらにしようとしている。ルーファウスたらしめるシャープなそれをだ。
 しかし、とルーファウスは首を振った。眥を決す。
「腑抜けるのは、ここまでだ。親父とは違う」
 エアリスが離脱したあとの一行には、興味も意味もない。倍速再生し、ルーファウスは目当ての映像を探すことにした。
 そうしてようやく彼の眼前に現れたのが、エアリスのルーツだった。
 忘らるる都。
 ルーファウスは思わずそう呟いた。正式名称は口承文学にすら残っていない。これが忘れ去られた都市なのだと、誰がどのような由縁で知ったのか、いつからそう呼ばれるようになったのかすらも。
「何だ、これは」
 最北の大陸、渓谷の森林、その辺縁。かつてのセトラのコミュニティーは、地下深くにまで広がっていた。
 ルーファウスはふらふらと身を起こす。机上に両肘をつき、画面に釘づけになる。光の三原色でつくりだされた四角の情景にすら、ひたすらに圧倒されるのだ。肉眼で見れば、これは。
「どれほどに美しいのだろうか。セトラのルーツは」
 まるで地上にある海底だった。
 青白いしぶきを思わせる平岩と珊瑚の森。いろいろなかたちをした貝殻――螺旋状の貝、刺々しい貝、カーテンのドレープに似たひれのある貝――のような建造物。
 見たこともない建築様式に、ルーファウスは刮目するばかりだった。そして是非もないのだと諦めもついた。エアリスがヒーリンのあざやかな森林と調和するのは、自然のかたちを活かすすべを持つセトラたる所以なのだと。
 上下にゆれる視界のなか、長い回廊を一行が足早に進んでいる。不可思議なことに、モンスターはいなかった。泉のすぐとなり、巻貝の図書館らしきその奥で、一行ははたと止まる。下層へと続く螺旋階段が仄青く光っている。ルーファウスには階下が浸水しているように見えた。
「もぐるのか。このなかにか」
 一行は決心したようだ。透き通った階段を駆け下りた。
 ルーファウスは再び目を瞠る。広大な地下空間が彼の眼前に開けたからだ。図書館脇の泉は、どうやら水面のほんの一部だったらしい。だがセトラはいったいどれほどの高度な文明を築いていたのか。深水のなかにありながら、建物群一帯は排水されていて、酸素で満ちていた。そしてやはり美々しかった。
 ひときわ高い鐘撞堂、いくつも立ち並ぶ尖塔と宮殿、道なりに進んだ終着にあるのは、透明のドームだ。
 まるで一幅の完璧な絵画だった。
 水鉢のような祭祀の壇上を前にして、偵察機が動きを止めた。ルーファウスは懸命に目を凝らすものの、距離が縮まるはずもない。何とかうかがえたのは、赤色と桃色だ。彼の記憶に引っかかる配色だった。
「ああ」
 そうだった、とルーファウスは嘆息した。あれは彼女のジャケットとワンピースだ。
 スラムの教会で、存在するはずのない赤色と桃色に怪訝な目を向けたことを、ルーファウスは覚えている。今はどうだろう。思わず自身の頬を押さえる。この世の何よりも恐ろしいもの――ルーファウスが何の手だしもできない過去――を前にして、ひどく引きつっているに違いなかった。
「エアリス」
 祭壇を囲むドームの上部から、金色と白色の混じったような光芒が差している。夜の水底だというのに、それらは流星の尾のようだった。一筋の光のなかで両膝をついているのは、エアリスなのだ。
 分かっていても、ルーファウスは落ち着かない。嘔気はひどくなるばかりだった。
 いちばんに動いたのは自称ソルジャーだった。クラウドが踏石のような細道を飛びこえ、エアリスのもとへと降り立った。つられて走りだした一行は、しかし祭壇に上ったところでいちように動かなくなった。
 クラウドがエアリスに大剣を振りかざしたからだ。
「やめろ」
 何かに抗うように一歩引いたかと思えば、何かに絡繰られてじりじりと半歩踏みだす。そしてクラウドはしきりに何かを叫んでいるようだった。
 だが、ルーファウスは音量を上げるということに気がまわらない。拮抗しあう何かからひとときも目が離せなかった。
「なぜだ。なぜ、誰も止めない。それだけ頭数を揃えていながら、なぜだ。お前たちは何なのだ。何のために。くそ、役立たずどもめ」
 喧噪が聞こえないのだろうか、エアリスは動じない。祈祷のさなか、己の深いうちにこもるうち、現世へと戻る境界が分からなくなってしまったのだろうか。
「エアリス、もういい。立て。立ってくれ」
 祈るエアリスは、静謐そのものだった。
 両手につつみこんでいるのは、まだ色のないマテリアだ。彼女はただひらすらに請い願っていた。長い睫毛を伏せて、薄桃色のくちびるは微笑みのかたちをしている。
 ふと、白い手のひらのなかで、白いマテリアが色を変えていく。ルーファウスは確かに見た。息をのむ。エアリスの翠眼と混じりあったような、それは淡い緑をしていた。
「ああ、エアリス」
 エアリスがゆっくりと目蓋を持ち上げる。目があったとたん、クラウドの全身から力が抜けた。得物をかまえていた腕も、おのずと垂れ落ちる。二人はそのまま見つめあっている。やがてクラウドがおずおずと手を差しだした。エアリスが恋をする女の顔で、笑った。
 ここ数週間のあいだに、ルーファウスは彼以外の前で花開く妻を知った。幾度となく目の当たりにしたそれは、強く、美しかった。ルーファウスは切なくしばたたく。
「留まるな。早く行け」
 クラウドの手を、エアリスは選ぶ。ゆっくりと立ち上がり、再会を喜びながらセトラの都を去るのだ。そうして歩むエアリスのこの先の道行に、ルーファウスと交わる道はない。
「行ってくれ」
 それでもよかったのに。
「頼む」
 しかし、エアリスは膝をついたままでいる。
 ルーファウスはついに物語の終わりを見た。
「やめてくれ」
 流星に、銀色の何かが交じっている。『生命』を意味するジェノバの破片だ。それはかつての神羅の英雄をして、ルーファウスの最愛に凶刃を振り下ろした。
 ルーファウスがことあるごとにぺらぺらだとからかう、花車な肢体。
 わざわざ指差すのは、もう、と尖る声と、エアリスのふくれ面が好きだからだ。
 神羅の拵えた長刀は、敢えなくエアリスの胸郭を突き抜けた。
 とたん、ルーファウスの胃のなかのものが沸騰した。それは食道をいっきにせり上がる。ルーファウスはチェアを後ろに蹴り倒し、床に這う。そのあたりに吐瀉物をぶちまける前に、かろうじてダストボックスを引きよせる。と、顔を突っこんだ。
 朝夕の食事をたっぷりと取る彼は、昼食を控え目にする。吐くものはあまりない。ダークスターがにわかにそわつき、唸ろうとした。ルーファウスは咽せながらも、眼光で押さえつけた。エマージェンシーコールが必要なときではない。
「これしきのことで死にはしないからな」
 死は、いつもルーファウスを取り巻いていた。
 ルーファウス自ら手にかけたいのちは、彼の血を引く胎児も含めて両手でこと足りる。目の前で星へと還ったいのちなら、手足の指とほぼ同数だろう。神羅の名のもとに殺されたいのちの数は、それはもう途方もない。
 死に方もさまざまだ。タークスのうちの数名が刃物を得手としているからだろうか。暴漢の刺殺体なら、間近に見たことがある。あまつさえ彼の父親がそうだった。『正宗』と銘打った凶器までもが、エアリスと同じだった。
 ルーファウスはまた嘔吐した。
「親父とは、違う」
 片膝を立て、もう片方はだらしなく伸ばす。ルーファウスはネクタイをゆるめようとして、やめた。まだ就業時間だ。だが床に座りこんだまま、動けない。
 父親の遺体と対面したとき、ルーファウスは何と言っただろうか。苦々しく思いだす。「逃げられたな」と彼は吐き捨てたのだ。結局のところ、父親には勝ち逃げされたのだと、悔しさと虚しさが渦巻いただけだった。
 ルーファウスはいくつもの死を、エアリスとほとんど同じ死をも知っている。だというのに。
「誰とも違う」
 ただ一つのいのちだけが、重たい。
「違う」
 ルーファウスはのろのろと目線を上げる。エアリスのいのちだけが、ルーファウスの両眼に喪失の輪郭を描いて、くっきりと映っている。
 嘔吐しているあいだにも、デスクトップのなかで彼女の終わりの物語は進んでいた。よろよろと立ち上がる。眩暈がして一瞬目を瞑ったが、ルーファウスはそれを意志の力でこじ開けた。机上に両手をつく。ディスプレーを見下ろす。 
 一行は異形と戦っていた。残りの連中がエアリスを取り囲んでいる。
 音量を上げれば、きっと怒号や泣哭が飛び交っているのだろう。だがエグゼクティブフロアにある音は、雨とルーファウスの荒々しい呼吸だけだ。それですら、うるさい。
「さわるな」
 血溜まりのなか、エアリスは祭壇の欄干に力なくもたれている。画面がしきりに明滅しているのは、さまざまな色が入り乱れているのは、連中がマテリアを使っているからだ。回復を試みているようだった。偵察機もそのなかにいた。彼女の脇に屈みこんで傷口を押さえている。おびただしい鮮血を吸ったぬいぐるみは、重たそうだ。
 間近に映るのは、赤いジャケットをゆさぶる誰かの手と、エアリスの青い顔だった。
「ゆさぶるな。何もできない手で、エアリスにふれるな」
 どれだけ画面を見まわしたところで、虚ろなエアリスと目があうことはない。ルーファウスは天板に爪を立てる。歯を剥きだしそうなほど、強く噛み締める。
「エアリスはまばたきをしていない」
 虹彩は瞳孔に乗っ取られた。ほとんど真黒だ。すでにこと切れている。ほんの少し前まで、生気が翠眼に満ち満ちていたというのにだ。
「嘘だろう。なあ、お前たちは間にあっていたのか」
 今、ルーファウスは真実を目の当たりにした。
「目の前にいただろう、生きたエアリスだ。笑っていた。間にあったはずなのに。なぜだ」
 今度はかっと頭に血が上った。憤怒なら抑制できる。だがそれは違った。わけが分からないままに、ルーファウスは手元にあったペンを床に叩きつけた。積み上げられたファイルは横薙ぎに払い落とす。呻く。
「なぜ」
 ルーファウスは見のがした部分を、きちんと遡行する。
 神羅の英雄を模したそれが、神羅の掘り起こしたばけものに変化するところからだ。ルーファウスはすべてから目を逸らさない。何度もこみ上げる嘔気をこらえ、耐えられなくなっては少しばかりの胃液を吐く。呑酸のせいで、口内が不味い。それでも彼は見入った。
「何だ、これは。何なのだ」
 ルーファウスはベストごと、胸元を握り締める。本当に掴みたいのは、胸の奥、心と呼ばれる部分だった。
 いくつもの情動が千々に乱れ、荒れ狂い、逆巻いている。ルーファウスの今の心の有様を、名前のある何かにカテゴライズすることは決してできない。そしてそれらの情感はぎちぎちと絡み、太い綱となってルーファウスを締め上げる。苦しい。
 ただ、苦しい。
「エアリス。私は」
 口のなかに残る苦汁を、彼はハンカチーフに唾棄する。そのままダストボックスへと投げ捨てた。
「私は、なぜこうも独り善がりなのだろうな」
 ルーファウスは自らの死をも知っている。黒い膿を垂れ流した日々だ。曲がりなりとも知っているのだと、そんなつもりでいた。だが、あれは死ではない。
 ただの死のふちだった。
「なあ、エアリス。エアリス。お前は一人で、ここで、こんなものをかかえていたのか」
 ルーファウスは死を悟ったつもりでいた。だから分かりあえると思っていた。その自信で、エアリスを受け止められたと安堵すらしていた。長老の木の下、彼女の口から『半分セトラの大冒険』、その終幕を聞いたときに。エアリスの葛藤に初めてふれたときにだ。
 勘違いもはなはだしい。己の慢心ぶりに、ルーファウスは自嘲すらできない
「私のすぐとなりで」
 ふちの、その先を知っているのは、やはりエアリスだけなのだ。
 己の死から目を逸らすことの叶わない、この星でただ一人のセトラだった。あわれな女だった。
「何てことだ」
 貝殻の図書館のそと、泉のほとりに一行は佇んでいる。クラウドがエアリスを連れて、二人きり、水のなかにいた。偵察機は男の後姿を映している。動く様子はない。この男にとっても、腕のなかにあるのはいとおしい脱殻なのだろう。手を離すための気力が、たちまちに集められないのは仕方のないことだった。
 それでも、とルーファウスは画面を睨みつける。
「お前は置いて行かれたのか、こんなところに。こんな、こんな」
 連中は知らないのだ。エアリスがさびしがりだということを。彼はまた苦しくなる。
 ルーファウスは『古代種』の死地を、当時の報告で確知していた。だが遺体の行方までは聞かなかった。そうしたところで、第三者――たとえば神羅の科学者――の手に渡らずにすむなどと、気に留めもしなかっただろう。『古代種』の、『エアリス・ゲインズブール』という名前の柔らかな韻に、まだ気がついていなかったからだ。
 やがて。
 ルーファウスのさびしがりの妻が、一人きり、深淵へとのまれていく。
 澄んだ水と赤い血が、水面にマーブルを描く。それがゆるゆるとほどけ、消え、泉が鏡面の静けさを取り戻す。それを見届けてから、ルーファウスは再生機を切った。
「これが、私のしたことか」
 ルーファウスは天井を仰ぐ。胃液でただれた咽喉は、掠れていた。
 ルーファウスが神羅だ。業をも背負うと決めた彼は、いとおしい女からすべてを奪取した根源にほかならない。
 記憶にない父親も、生母も、養母との新しい生活も。一度目の淡い恋も、二度目の必死の恋も。箱庭のそと、自由な世界も。若く瑞々しい、彼女自身のいのちまでをも。
「私は、また間違うのか」
 エアリスから何もかもを取り上げたのは、神羅だ。ルーファウスなのだ。そして。
「お前を愛したことは、間違いだったのか」
 ルーファウスとエアリスがゆっくりとはぐくんだ愛までをも、いずれ彼女は失ってしまうのだ。「一人でがんばれない」と嘆いた彼女に、この喪失が果たして耐えられるのだろうか。
「お前から、また大事なものを取り上げてしまうのか。私が」
 天井の、さらにその先を彼は見据える。雨だ。そんな日の午後は、ハーブの種取りを諦めて、エアリスはダイニングルームにいるはずだった。
 ラップトップを開き、神羅社長から指示を受けた統計資料をつくっている。ところどころ間違って入力してはこたえがおかしいと、鼻頭にかわいらしいしわを刻んでいることだろう。時折、そわそわとゲストルームを覗いているのかもしれなかった。睦まじくよりそう婚礼衣装に、いったい何を思っているのか。もう少しすれば、夕食の支度に取りかかるころあいだ。冷蔵庫を物色する際のハミングは、決まって『新社長歓迎式典』だった。ルーファウスが苦言を呈したところで、「元気でるし、のりのりになれるから、いいでしょ」と聞く耳を持たない。
 エアリスは、そうして夫の帰りを待っている。いつも。ルーファウスは眉根をきつくよせる。
 エアリスを愛してはいけなった。
 ルーファウスはエアリスの最期の微笑みを思いだす。気丈だった。弱さをひた隠す強さがあった。愛をよりかかる場所にして、こんな風に一人では生きていけない女にしてしまう前に。
 ルーファウスは彼女へ衣食住を提供し、庇護と贖罪とに徹するべきだった。
 直々に面倒をみなくとも、彼にはほかにやりようなどいくらでもあったのだ。エアリスをよく知るタークスに理由を話し、託すこともできた。意思の疎通は筆談でどうとでもなる。タークスはプロフェッショナルだ。彼らのサポートのもと、エアリスはセトラの思念体の真相をつまびらかにすることだろう。彼女ががまんするのは、少しばかりのさびしさだけですむ。
 だが、近くに稀有ないきものがいて、ルーファウスが興味を覚えずにいられただろうか。
 すぐさま首を振る。言葉を交わし、エアリスを知れば、彼はその先をまたさぐりたくなる。上を向いたまま、ルーファウスは困ったように笑う。
「結局のところ、こたえはただ一つだ」
 ルーファウスはあれほどに真直ぐないきものを、ほかに知らない。『エアリス・ゲインズブール』に惹かれずにはいられない。
 そうして二人が手を取り、進んだ道行でつまずいたのが、薄弱だった。
 ルーファウスはエアリスの弱さを暴いてしまった。エアリスもまた、ルーファウスのすっかり忘れていた弱さを引きずりだした。
「ただ、愛しているだけだ。愛されているだけだろう。間違いなのか」
 ルーファウスはあえいだ。
「許されないのか」
 愛は思いのほか役に立たない。
 金品や衣食住のほうが、生きるためには余程有益だ。ならば、人はなぜ無益な気持ちをいだくのだろう。脆くなるのだろう。苦しむのだろう。
 苦しいのに、なぜ捨てられないのか。
「無理だ。できない」
 幸せだからだ。
 ぐっと、熱いかたまりがこみ上げそうな気がして、ルーファウスは慌てて目頭を押さえた。『ルーファウス神羅』の真横で、今、『エアリス・ゲインズブール』が笑っている。泣き、怒り、悲しんではまた朗笑するのだ。そうやって彼を翻弄するエアリスこそが、ルーファウスにとって幸福の象徴だった。
 はっと、短い息をつく。それから続けざまに、彼は長く細い吐息を吐きだした。
「エアリス」
 ルーファウスはそろそろと指を放す。落涙するのかと怖じたが、ぬれたものは付着していなかった。眼窩の熱もすでにない。
「私はお前が恐ろしいよ、エアリス」
 何てものに手をだしてしまったのだろう。ルーファウスは両の手のひらを食い入るように見つめる。
 ふと後ろを振り返る。手に入れるより以前の道は、色彩に乏しかった。なぜ、と首を傾げるまでもない。ルーファウスは小さく笑う。手持ちの色で十分だった彼の人生に、未知の色が増えたからだ。机上に両手をついたまま、前に向き直る。
 ルーファウスは目を見開いた。
「私の選んだ道は、これほどにカラフルだったのか」
 今、ルーファウスには三つの顔がある。グループ総帥、神羅家家長、そしてただの男。それぞれに、エアリスがことあるごとに色味を足していく。
 代表取締役にまとわる難境の色には、ことを成し遂げた喜びの色を。
 アンビション――世界の復興支援と会社の負債返済――を実現するために、ルーファウスは山積みの問題を片づけていた。着々と、淡々と。少しの楽しみといえば、己の才覚を試し、采配を振ることで、ものごとが彼の思うように運んでいく過程くらいのものだろう。それで助かる人々がいるのだとしても、ルーファウスの成したいこと、人々の望んでいたもの、両者の利益がただ一致しただけのことだ。恩恵を施したつもりのない彼に、賛辞や謝意は不要だった。
 結果、それらは代表代理のものになるのだが、ルーファウスが嫉むことはない。事業が一つ完遂したところで、また次がある。ちっぽけな達成感にひたる時間が惜しかった。
 だが、時折ルーファウスは己の成果に祝杯を挙げている。
 初めての酒杯は、負債――魔晄中毒――を一つ、特効薬というかたちで贖うことができたのだと、彼女に気づかされたときだった。最近であれば、ZIS社と契約を交わしたのち、小型航空機試作零号の製造に着手した日だろう。
 その晩、エアリスは食卓に馳走と彼の気に入りのシャンパーニュ、そしてありったけの称賛を並べた。正式契約にいたる膳立てをしたイリーナを、犬好きのZIS社担当者を、設計に精をだすパルマーを、そしてすべての責任を取るルーファウスを。
 やまない彼女の賛辞を聞きながら、ルーファウスはグラスを傾けた。いつもの三鞭酒からより爽やかな味わいのすることが、ずっと不思議だった。
「ああ、そうか。あれはそういうことだったのだな」
 難しいことがこなせると、嬉しい。褒められると、なお嬉しい。
 ルーファウスは片手で口元をおおう。もともと彼は褒められることが好きな子供だった。ほしいのは、しかし使用人のおべっかではない。だから幼いルーファウスは父親のまわりをよくうろついたものだった。唯一、本物の賛辞をくれる父母を、承認欲求を満たすすべを失った彼は、すっかり忘れていた。子供も大人も同じだ。肯定と満足は次の活力になるのだと。
 ルーファウスはシンプルだが、とても大切なことを思いだせた気がした。だが、やはり追従はいらない。世間の評価もどうなろうとかまわない。なぜなら、彼が重んじるのは結果そのものではなく、ルーファウスのアンビションがぶれないことだ。そしてそれを連中が知り得ることは決してないのだから。
 対等でいられるコミュニティーのなかでこそ、ルーファウスの自己承認欲は充足する。
 それが彼にとっては昔も今も『家族』というもので、ルーファウスは彼の『己のなかに設けている、確たる指標』をよく知る妻に褒められたからこそ、心が花やいだのだ。シャンパーニュの香味を変えるほどに。
「会社だけではない。お前はな、私の意地にまで色を塗った。塗りたくってくれたな。分かっているのか、エアリス」
 家長たらしめる堂々たる色に、賑やかな色を。
 神羅家に生を受けてから、ルーファウスは――会社経営権も含めて――全責任を一身に負うのだという心づもりをしていた。父親のように。彼が家長でいることにいよいよ固執しだしたのは、メテオショックよりあとのことだった。神羅姓の存続は、彼が自らに課した大事の一つだ。こだわるのは、しかし血統ではなく、姓そのものだった。
 神羅の負債は神羅の名のもとに清算するのだという、ルーファウスにはゆるがない意地がある。
 こころざしをつらぬくために、いずれ婚姻という体裁を整えるつもりでいた。後継者――後進という表現が正しいのかもしれない――の育成という、ルーファウスには果たさなければならない義務があった。その矢先のことだった。
 ただ一つの神羅姓を、彼はエアリスと分かちあった。当初はほとんど興味本位だった。思いがけなく得たのが、夫という立場と、妻という伴侶だ。そうして繰り返す日々のなかで、ルーファウスは婚姻関係の真実を見いだした。素晴らしかった。
 両親を含め、ルーファウスの知る夫妻というものは、どれも不可解なバランスで成り立つ関係だった。
 たとえば、サロンで出会った夫人たちだ。
 ルーファウスが社交に参加しだしたのは、ほかの子息よりも少し早い一四歳だった。ボーディングスクールへの編入を控えて、慌ただしくセッティングされたらしい。もともと神羅家の御曹司として顔は知れ渡っていたため、かたちばかりではあったものの、ルーファウスは父親に連れられていくつものパーティーや会合で挨拶をしてまわった。
 晴れて名門校の寮生となってからも、父親からはことあるごとに呼びだしを受けた。せっかくの休日がつぶれるのだとしても、ルーファウスに不平はなかった。同世代のあいだでは得られないコネクションが、サロンにはあったからだ。
 一四歳のルーファウスは、すでに父親より背が高かった。声もほとんどテノールに近い。礼儀に適った所作も身に馴染んでいて、紳士然とした男たちに交じったところで遜色なかった。根の張った大木のなかの、しなやかな若木。ルーファウスは否応なしに女性の目を引いた。
 初めて彼にセックスを教えたのは、ジュノン市の大手造船業の社長夫人だった。
 それからというもの、ルーファウスが会合後の夜をともにすごすのは、にこやかに挨拶を交わした実業家の、その妻だった。時折、握手をしながら、「妻が君と話がしたいそうだ」と男から逢瀬を持ちかけられることもあった。鷹揚な夫と貞淑な妻、似あいの夫妻。そんな世評とは裏腹に、彼らはいちように貞操義務を顧みない奔放さがあった。
 一晩かぎりのアバンチュールもあれば、長く続いた関係もいくつかある。
 後者はルーファウスにとって一目置く存在だった。師弟とも言えるだろう。セックスだけでなく、若輩だった彼に――帝王学や学業では賄いきれない――雑多な知識を身につけさせてくれたからだ。
 くん、とルーファウスは鼻をひくつかせる。吐瀉物のにおいとは別に、肌に馴染んだフゼアが香る。彼が目をかけている調香師を紹介した夫人とは、性の関係を絶った今でも懇意にしている。
 分かりやすくアプローチを仕かけてきたのは、子女たちだ。その眼差は相当に熱かった。しかしルーファウスは取りあわないことにしていた。
 若い身体をぶつけあうようなセックスが気になるところではあったが、万が一子女がバージンだと煩わしい。彼女たちの親の――神羅との縁故目当てに違いない――介入も避けたかった。それでなくとも若い女は盲心的だ。恋は目の前のただ一つきりだと思いこみ、夢中になる。もしルーファウスが「お手を」と言おうものなら、子女は彼の手を掴んで放そうとはしないだろう。うんざりだった。
 その点、夫人たちはあと腐れがない。気儘な猫のようなところもあった。
 ステータスのある夫、持て余した時間とギル。その退屈しのぎの一部を担うのが、たまたま神羅の御曹司だっただけのことだ。
 彼女たちは、ある意味では保守的だった。自身の立場を手放す気はいささかもないようで、内密の戯れが露見しそうになったとき、関係を清算されるのは決まってルーファウスのほうだった。怒りはしなかった。夫人たちの賢しさが、ルーファウスは好きだったのだ。
 学生時代を通じて垣間見たそれらが、ルーファウスにとっての婚姻というものだった。
 だがルーファウスの妻は違う。そしてエアリスの夫もだ。
 エアリスの退屈は、ルーファウスが何とかしてやりたかった。彼の性欲は、エアリスただ一人に向いている。そして互いの過去の恋に嫉妬をする始末だった。他者の干渉など、まるで必要がないのだ。
 ルーファウスは悩ましい溜息をついた。婚姻という契約に課された夫妻のかたちを、自らなぞるとは彼は思いもよらなかった。
「夫婦も、結局は男と女だ。雛のようなお前に、まさかつがいのことを教えられるとはな」
 そしてまったくの新しい調色板が、ただの男だ。
 女につくし、女につくされる日々だった。ルーファウスとエアリスの悲喜こもごもいたる日常のなかで、彼の知らなかった色あいがどんどん調合されていく。雑多な色だと思うこともある。手に余すそれも、多々ある。
 今がまさにそうだった。ディスプレーに映りこむのは、初めて見る色あいだ。憔悴しきった顔だった。だというのに。
「いらない色がない。一つもだ。こんなに汚い色ですらな」
 彼は目を細める。あざやかさを欠いた日々に、ルーファウスはもう戻れる気がしなかった。
「本当にカラフルだな。私の毎日は」
 まだ知らない色もあるのだろう。そして色彩が豊かになるぶんだけ、それは未練になり、喪失の穴を大きくするのだ。
 そうと分かっているのに、エアリスとともに進むと決めたルーファウスの道行を、今更たがえることはできない。どうしてもだ。
「許せ」
 キーボードの前に二つの握りこぶしが並ぶ。気づけば、彼はそう呟いていた。
 せめてルーファウスにできることは、エアリスを星の戒めから自由にすることだった。セトラに課せられた使命を無視できない妻のために、つまびらかにする。エアリスがそれを果たすまで、ルーファウスはあらゆる助力を惜しまない。
 何よりも。
 いつ消えるとも分からない不安のなかから、いとおしい女を救いだすことが最優先だった。無論、彼の手でだ。
 第三者――それこそタークスや、エアリスと友人と呼ぶ局長でもいい――に、今こそ事情を明かすべきなのかもしれない。協力を仰ぎ、そうして捜索の手を広げるのだ。この苦しみを長引かせることなく、エアリスを解放してやれるだろう。
 いやだ、と思った。
 強く、強く、それは看過できないことだと、ルーファウスは奥歯を噛んだ。
 『続・半分セトラの大冒険』は二人だけの物語だ。幕引きにいたるまで、他者の介在をルーファウスは許せなかった。ここに来て独占欲が邪魔をする。覚えたての欲の散らし方が、しかしルーファウスには分からないのだ。
「勝手な男だな。人でなしは、どう転んでも人でなしのままだ」
 頭を強く振った。立ち暗みがして、今度は逆らえなかった。ルーファウスはふらつき、尻もちをついた拍子にサイドデスクへとぶつかった。花器が落ちる。甲高い音とともに、クリスタル硝子の破片と朝摘みの花が床に広がった。
 見かねたらしいダークスターが、主のとなりに控えた。血の気のない頬を一舐めした。ルーファウスは巨躯にもたれる。
「なあ、ディー。覚えているか、今朝の散歩だ。Bコースの途中にあっただろう、これが」
 一輪、ルーファウスはつまみ上げた。淡紫色の花は何という名だったか、ぼうっと眺める。エアリスの朝の講釈がふとよみがえる。
「サフランだよ。ほら、ルーファウス、この前のフレッシュハーブティー、いい香りするって気に入ったでしょ。この花のね、しべなの」
 そう言って、彼女は花蕊の赤い部分を指差した。それからルーファウスをじっと見上げた。
「ね、ルーファウス。首のまわりに、薄い紫色、あるといいかも」
 エアリスは小首を傾げる。と、摘み取ったばかりの花束を彼の首元に挿頭した。
「最近、ちょっと寝不足気味なのかなあ、あなた。いっしょの時間に寝てるはずなんだけど、おかしいね。肌、くすんでるよ」
 ルーファウスは驚いた。ベッドを抜けだしていることは、エアリスには悟られていないようで安堵した。ルーファウスの真夜中の秘密は、しかしどうやら素直な肌色に現れていたらしい。妻は彼のことを、当人以上によく見ている。
「こんな色のネクタイ、あったよね。ノット、大きめに結ぼうか。あ、アスコットタイもいいかも。顔、明るく見えるよ。それにね、ルーファウス、こういう紫色、すごく似あってる」
 彼女がそうして見せたように、茎をくるくるとまわしてみる。雌蕊はきれいに摘み取られていた。近々、乾草の香りがするハーブティーが食卓に並ぶのだろう。ひょっとしてそれは今晩なのかもしれなかった。
 ルーファウスは暗澹とする。エアリスの「お帰りなさい」のキスを、彼は何ごともなかったかのように受け止めきれるだろうか、と。
 そのとき、遠慮がちなノックがした。
「社長、どうかなさいましたか」
「入るな」
 前室のドアは、しかし静かに開いた。社長室で何かしらの破損音がしたのだ。万が一を考えると放ってはおけなかったのだろう。その上、饐えたにおいが漂っているのだ。秘書はひどく驚いたに違いない。
 息をつめていたジャッドが、しばらくして照明をつけた。突然の光にルーファウスは顔をしかめた。
「お水、すぐにお持ちしますね。お医者様は必要ですか」
「医者。あいつらでは私の役に立たない。そんなものは、不要だ」
「じゃあ、お薬は飲んでください。痛むのって、頭ですか、お腹ですか。吐き気止めでいいのかな」
「入るなと言っただろう」
 ルーファウスはサフランを放った。ジャッドは倒れたチェアを起こしながら、にこりとした。
「僕、入社してもう一年近くになるんです。上長の言うこと聞かないのって、社風で許されちゃうんですよね、ここって」
「自主性は重んじてやる。だがな、ジャッド。お前が参考にしている連中は、あれは悪い見本だぞ」
「あれ、社長。悪いお手本だって自覚、ちゃんとあったんですね」
 ジャッドは花器を拾い集めながら、からからと笑った。だが気泡一つないかけらを照明に透かしたとたん、顔色を変えた。
「嘘ですよね。このフラワーベースって、FFC社傘下の工房のアンティークですよね。すごく高いやつ」
 膝をつき青ざめるジャッドに、気にするな、とルーファウスは肩を竦めた。
「薬もいらない。水だけくれ。それからな、ジャッド」
 ルーファウスの視線は寄木細工の床を這い、水びたしの花で止まる。やつれた顔をエアリスに見せるわけにはいかなかった。どうしたものかとあぐねたまま、彼は次の言葉をさぐる。
「今日はもう切り上げられますか、お仕事」
 ルーファウスは少し考えたあと、いや、と吐息交じりに言った。今晩はエッジのペントハウスに宿泊しようと決める。まさかの家出だ。ルーファウスは苦々しい面持ちのまま、立ち上がった。
「壱番、いや参番アベニューのホテルを用意しておけ。一人分でいい。終業後だ、すぐに向かう」
「気分転換ですか。それもいいかもしれませんね。タークスの手配をしてきます」
 ルーファウスは頷く。と、右側のほつれた髪を丁寧に撫でつけた。
「その前に、お水ですね。お花もまだ元気だから、活け直してきます」
 回収した花器をダストボックスに突っこむ。一六五万ギルが汚物にまみれた。かわいそうな花を片腕にかかえると、ジャッドはエグゼクティブフロアをあとにした。
 ルーファウスはチェアに座る。携帯端末を睨んだ。妻には外泊を告げ、夕食を断っておかなければならなかった。逡巡したのち、咳払いを繰り返す。それから彼はようやく通話ボタンを押した。
「どうしたの。声、嗄れてるよ。だいじょうぶ、ね、ルーファウス」
 ルーファウスは泣き笑いのような顔になった。
 思わず目元をさわってみたものの、やはり少しもぬれてはいなかった。では、なぜ。彼が涕泣の仕方を忘れて久しいというのに、どういうわけで咄嗟に『泣き笑い』などと思ったのか。ルーファウスは合点がいかなかった。こたえはすぐに分かった。彼の妻だった。
「もしもし。あれ、ルーファウス。聞こえてるの、もしもし」
 ああ、とルーファウスは感嘆する。落涙こそしないものの、これはきっと。
 エアリスは嬉しいときにも涙する。歓喜と安堵が混じり、いっきにこみ上げると、人は彼女と同じくしゃくしゃにくずれた笑み顔になるのだろう。
「何だ、エアリス。聞こえている」
「何だって、それ、あなたが言うかな。ルーファウスから電話、くれたんだよ。まだお仕事中なのにね。ね、大事な用なんでしょ」
「そのはずだったのだが」
 ルーファウスはハイバックに深くもたれ直した。リクライニングを倒し、目を瞑る。そうして妻の声に聞き入る。
「がらがらだね、声。もしかして、風邪ひいちゃったのかな。ほら、ルーファウスったら、朝までお尻丸だしで寝てたから」
「お前がブランケットを独り占めしたからだろう」
「だって、汗引いたら、ちょっと寒くて。ごめんなさい。やっぱり、パジャマは着なくちゃだね。だけど。ルーファウスはね、まずパンツくらい、穿こう」
「お前もな」
「誰のせい」
 送話口に向かって、おそらくエアリスは口先を尖らせている。独特の語調と、透き通った声質。幼女染みているようで、大人しやかな女のそれ。ルーファウスは思う。たとえ大勢のなかに交ろうとも、決して聞き間違えることはない、と。
「風邪はひいていない。ブランケットに一人でくるまっていた抱き枕が、あたたかかったからな」
 いったん口を噤む。それからルーファウスは軽く吹きだした。受話口に耳を押し当てているうちに、気づけば彼の体中の緊張は弛緩していた。心も身体も、エアリスには嘘がつけない。
「胃炎だろうな。今し方、嘔吐した」
「嘘。ルーファウスの胃、鉄でできてると思ってた」
「お前は弱っている夫に、何てことを言う」
 ごめんと笑いながら、どうやらエアリスは床を見つめているようだ。息遣いがくぐもっている。無粋なへだたりがなければ、天井を仰いだままのルーファウスと穏やかに見つめあえたことだろう。
「鉄は冗談だよ。だけどね、ルーファウス、調子悪いの、わたしより珍しい。ほら、星痕のあと、まだ本調子じゃないときから、お腹だけは丈夫だったでしょ」
 ふう、とエアリスは切なげな溜息をついた。
「朝の卵、悪かったのかな。だけど、あれね、昨日届いたやつだよ。タークスチェック、ばっちりのはずなんだけど。わたしのお腹、だいじょうぶなんだけど」
「仮に少々古かったのだとしてもだ。あれだけ火を通したフライドエッグなら、問題ないだろう」
「それって、焦げてるって、言いたいの」
「自分から暴くなよ。わざわざ婉曲にごまかしてやったというのに」
「よかった。嫌味、言えるくらいには元気なのね」
「心外だな。お前は私の健康を、そんなもので決めつけていたのか」
「ほら、やっぱり、元気」
 エアリスの清み声を聞くうちに、声を冗談口へと変えていくうちに、彼の嗄れ声に張りがでてくる。ルーファウスはまいったといった風に首を振った。
「エアリス」
 何、とエアリスが彼の返事を待っている。優しい沈黙にしばらくひたったあと、ルーファウスはほうっと吐息をついた。
「お前は胃薬のような女だな、エアリス」
 くすくすとかわいらしい含笑が、ルーファウスの耳をくすぐる。
「それ、口説き文句だとしたら、普通の人なら採点できないね。だって、通じないから。でもね、わたしには八七点」
 おや、とルーファウスは瞠目する。最高得点だった。エアリスには彼の真意が正しく伝わったようだ。
「そろそろ晩ご飯、つくろうかなって思ってたとこなんだけど。ね、ルーファウス、食べられそう」
「ああ、そうだった。断わるつもりで連絡をしたのだった」
「お腹、空っぽのまま、よくないよ。ちょっとでも食欲あるんだったら、お腹にもたれないの、つくろうか」
「今晩の献立は、何にするつもりだった」
「本当はね、かりかりの鳥皮に、何て調味料だっけ、あれ。ほら、ルーファウスが買ってきてくれたやつ。ウータイ土産」
「甜麺醬か」
「そう、それ。こってり甘くて、美味しいよね。もう一回、つくってみようと思ってたんだけど」
 エアリスへの贈物にと選ぶ品は、近ごろは装飾品のみにかぎらなかった。
 ルーファウスがキッチンに立つようになって、調理はいよいよ本格化してきている。地方特有のスパイスやシーズニングを喜ぶのは、彼女だけではない。ルーファウスがキッチンですごす時間をも豊かにした。
 用をなさないでいたスパイスラックは――キッチンが機能しだしてからというものの――日を追って賑やかになっていく。先日、ウータイ北西部の調味料が交じったところで、二人はそれらに執心だった。「ルーファウスの苗字と同じ、かくかくの字。漢字、難しいね」とボトルを見比べては、エアリスが困った顔をしている。使い誤らないよう、ルーファウスには妻を見張るという務めもあった。
「でもね、脂っこいの、つらいでしょ」
「悪いな、今日は厳しい。だがあれはお前でも失敗知らずだ。なあ、エアリス。式のバンケットメニューはクレープだったか。エヴァンに食わせてやれ」
 そうする、と返事してから、エアリスはわずかに考えこんだ。
「じゃあね、ほら、汁粥なんてどう。ウータイの薬膳料理らしいんだけど。ね、ルーファウス、つくり方、知ってる」
 ルーファウスは頷く。必要な調味料は揃っている。しかし肝心の主食がない。
「わが家のキッチンに粳米は常備していないぞ」
「そうなの。だからね、燕麦をアレンジするの、どうかなって」
「エアリス。お前にアレンジはまだ早い。お前はまずレシピ通り、材料は厳守し、分量を量るところからだ」
「分かりました、もう。ね、普通のミルク粥なら、ルーファウス、食べられそうかな」
 慈しみの気持ちは耳からも受け取れるらしい。ルーファウスは苦笑する。すでに家出をする気は失せている。
「少しだけな。甘くはするなよ」
 甘くないポリッジなんて、とエアリスがぶつぶつともらしている。それでも食卓にならぶプレートは、シンプルな味つけに違いない。彼の空の胃部にそっと溜まるようにと。
「なあ、エアリス。今晩はお前が私を抱き枕にしてくれ」
「うん、分かった。ぎゅってするね」
 通話を終えたあと、ルーファウスは長息をもらした。満足のそれだった。主の膝に顎を乗せたダークスターが、もの言いたげな顔をしている。
「単純なやつだと、お前もそう思っているのだろう。睨むな、分かっている」
 横髪を掻き上げた手で、太い首を叩く。愛犬が派手に鼻を鳴らした。エアリスと『つがって』からというものの、どうにも遠慮がないように思うのは、ルーファウスの気のせいだろうか。
「家に帰ろう、ディー」
 彼が向かうべきはホテルではない。真上にある。エアリスのいるところこそ、ルーファウスが休まる家だった。
 一人で生きられないのは、いったいどっちだ。ルーファウスは悩ましく思いながら携帯端末を放る。だが。
 ゆるやかに弧を描いたルーファウスのくちびるは、秘書が戻るまで結局そのままだった。


■END■
(カラフル)

20220730