祭子
2022-07-18 16:01:26
56653文字
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■TAKE AN OATH■

∠[ν]-εγλ0010/10
結婚式当日です。幸福に満ちた花婿と花嫁の様子にエヴァンのこれまでの苦労が報われました。
※pixiv掲載テキスト(20220629初出)

■TAKE AN OATH■
∠[ν]-εγλ0010/10


 神は人を選ぶのだ。エヴァンはそう思っている。
 まだ母親と六番街で暮らしていたころのことだ。
 零番街にほど近い伍番街、教会堂の尖塔をエヴァンはよく眺めていた。クラシカルな建築様式を模したらしいそれは、鋼鉄の四角い建物群のなかで異質だった。そしてステータスシンボルでもあった。信者以外に扉が開かれるのは、アッパークラスのためだけだからだ。祝いや別れの儀式、どうやらそういったセレモニーで使うらしかった。
 たった一セクターの距離だというのに、六番街と伍番街では暮らしぶりはまるで違う。母親が自分たちへのご褒美だと買ってくるピースケーキが、エヴァンはたまにもの悲しかった。
「人生って、何が起こるか分からないよな」
 エヴァンは初めて間近に教会堂を仰ぎ見た。一〇月下旬の抜けるような青空を額縁にして、外観は一幅の絵画になる。自ずともれるのは、そんな有体な台詞だけだった。
 正面は西がまえで、扉口が三つある。中央扉の上にある円窓は驚くほど大きい。その脇には二つの塔――採光塔と鐘楼――が、そして少し奥にはドームが屋根より高くそびえていた。
 ファサードは華美な装飾でいっぱいだった。エヴァンは言葉にならない。どれだけの石工が集められたのだろう。彼らはどれほどすぐれた職人だったのだろう。建物のあらゆる角度から見ても立派な彫刻群が、もとは石のかたまりだったなどエヴァンには信じられなかった。
 まさか、今になってその重厚な扉をくぐることになろうとは。しかも彼は花婿の親族だった。エヴァンは鼻白んだ。
「何を呆けている。早く来い」
 花婿が顎で急かす。わずかな動きに、整髪料をつける前の金髪がゆれた。そのとなりで花嫁は、エヴァンと同じように教会堂に見入っていた。小さな口を、大きく開けながらだ。珍しくツイストに結った髪が、尻尾のようにゆれていた。
 これから挙式する男女とは思えないスポーティーな恰好だった。とくに足元のそれに、婚礼衣装は似あわないだろう。厚いソールのクライミングブーツだ。理由を、エヴァンはつい先ほど身をもって知ったばかりだった。
 エヴァンはトラベルケース――それもとびきり大きいもの――を二つ、両腕に引いている。背中にもリュックサックだ。おまけに首からは大きなカメラまでぶら下げているのだから、関節という関節が今にもはずれそうだった。花嫁ですら背に荷を負っているというのに、花婿だけが手ぶらでいる。エヴァンは素知らぬ顔をしたルーファウスに、しかしぶすっとするだけで精いっぱいだった。
 知ってか知らずか。いや、気づいているに違いないルーファウスが、にやりと口端を吊り上げる。
「今日の私は、花婿兼花嫁の護衛だからな。両手は空けておかなければならない。なあ、ディー」
 ルーファウスの恐ろしい顔をした愛犬が、咆哮した。主に期待をかけられてはりきっているらしい。エヴァンの足は、彼の頭がそう理解していても勝手に竦むのだった。
「ついでにお前のこともだ。お前が生きてここにいるのは、私とディーおかげだ。そうだろう、エヴァン」
 それはどうだろう。エヴァンは後方――今来た道なき道――を振り返る。
 そもそもルーファウスが彼に介添役を頼まなければ、あんな恐ろしい目には遭わなかったに違いない。エヴァンの脳裏に、ここへいたるまでのあれこれがよみがえる。
 二つの組織の不和。世にも恐ろしい怪談、ではなく階段。救世主でがたがたドライブ。留守宅のとんでもない鍵と、元気に飛び跳ねる王様。極めつけは、神羅の拍動だ。
 まさかの人生の連続、そのほとんどがこの男に引掻きまわされているからだった。すでにへとへとだ。だけど、とエヴァンはそっと胸を押さえる。今はもう冷えて固まってしまったが、ここにマグマがあることを、生まれて初めて知った。
 エヴァンは少し笑う。金では決して買えない経験を得られたのだ。幸運だと思うことにした。
「いつまでぼさっとしている」
 教会堂の真中のドアがすでに開いている。ルーファウスがエアリスの腰に手をそえて、アーチをくぐろうとしていた。誰のせいだよ、と拗ねそうになるのをエヴァンはこらえる。介添役を、結局のところ引き受けたのは彼自身にほかならない。そしてミッドガル外縁から目当てのセクター、教会堂へと無傷で到着できたのは、彼らのおかげだった。
 階段をひいひい言いながら上がり、アーチをくぐる。この重荷をかかえて、帰りもまた人足まがいのことをしなければならない。げっそりしかけたそのとたん、エヴァンの不平は浄化された。
 静寧。
 ルーファウスならそう言うのだろうと、エヴァンは思った。
 そして彼は知る。光には種類があり、堂内を照らすそれはとても静かなものなのだと。
 雨風で磨かれたステンドグラスが、午前の無色な陽光を色づけしながら取り入れている。ただ一枚、正面の大円窓は違った。ほとんど純白の、年齢不詳の女が描かれている。目を伏せているようにも、前を見澄ましているようにもうかがえる、不思議な横顔をしている。祭壇へと降り注ぐ光もやはり白く、内陣前に立つ花婿と花嫁を照らすスポットライトになり得そうだった。
 もとは壁を色取っていたのだろうタペストリーが、日に焼けて若干褪せてはいる。日向と埃っぽいにおいが入り混じっているのは、きっとそのせいなのだろう。だがまるで気にならない。長年焚かれてきた清香が、石造りの練積み部分まで染みこんでいるからに違いない。チャーチベンチは整然と並んでいる。その奥の祭壇、祭祀のこまごまとした聖具は一つとして倒れてはいなかった。
 まるで古典映画のセットに紛れこんだような気がした。
 エヴァンは不思議に思う。今、閉めたばかりのドアを振り仰いだ。教会から少し――スラムでいうところのプラントエリアを――離れれば、メテオショックの爪痕がいまだ凄惨に残っているというのに。地表をうねったあの光の帯に、ライフストリームに、この付近一帯はなぜ巻きこまれなかったのだろう。
 これが神聖の力なのだろうか。信者ではないものの、エヴァンは何となく敬虔な気持ちをいだいた。
「驚いたな。もっと荒れているかと思っていたのだが」
 ルーファウスが軽く目を瞠ったあと、爪先で床材を蹴った。土埃はほとんど立たない。エアリスを見下ろしながら、尻上がりの口笛を吹いている。
「さすがは伍番街だ。星は、やはりお前を贔屓しているだろう」
「たまたまでしょ。ここの下、もともとライフストリーム、ちゃんと循環してたみたい。ほら、お花咲くような特別な場所だもの。だから、蛇口捻れば、すっと水でるのと同じ」
「他所は、空の水道管が急激な圧で破裂したということか」
「多分、そんな感じ」
「どうだか」
 荷物と、よく分からない話をしている二人を放って、エヴァンはふらふらと歩きだした。身廊に差しかかったところで、慌てて足を止める。真中は、花嫁の支度が整えばウェディングアイルになる。今、彼が踏み入るのは気が引けた。だというのに。
「袖廊の左側が、確か聖具室と図書室だったはずだ。見てくる」
 そう言うなり、ルーファウスが中央通路を通り抜けた。躊躇する素振りはまるでない。そのあとをダークスターが追従している。
「遠慮のえの字もないな、社長は」
「あったら、逆に心配になっちゃうでしょ。悪いもの、食べたのかなって」
 くすくすと笑いながら、エアリスは彼の横に並んだ。チャーチベンチの榻背に両手をかけて、祭壇の左奥へと消えた夫をいつまでも見つめている。
「あの人はね、あれでいいの」
「義姉さんは。いっしょに行かないの」
 エアリスは頷いた。堂内の安全確認は護衛の役目らしい。
「わたし、ここ、ドレスで歩くの、ずっと楽しみにしてたんだから。だから、まだお預け」
 絨毯敷きの通路を、二人が申しあわせたように見やる。花嫁に随伴するのは、エヴァンの役目のうちの一つだった。
「ね、エヴァン。ううん、お父さん、だね。エスコート、よろしくね」
「まずいな。緊張してきたかも。大事な役目だろ、俺でいいのかな」
「あなたがいい。だけど、エヴァン、やっぱりお父さんじゃないかも」
「どっちだよ」
「あのね、ルーファウス、言ってくれたの。結婚式、人生の節目として臨めばいいって。ウェディングアイルってね、人生そのものなんだって。わたしのやり直しの人生、こんなにすてきな家族ができるなんて、思ってもみなかった。だから、今日だけでいいの。三人とディー、家族って呼ばせて。ね」
 エヴァンは改めて考える。だめかな、と彼を一心に見上げるこの女は、いったいエヴァンの何なのだろう。
「ね、わたし、義弟君といっしょに歩きたい」
 義姉というのは、便宜上の呼称だった。失礼がなく、さりとてよそよそしくはならないように。神羅夫妻のオーダーへ応えただけ。そのはずだった。だというのに、今となってはそれ以外にしっくりとくる呼び方を、エヴァンは見つけることができない。
 エヴァンは曖昧に頷く。
「家族はともかく、義姉さんは義姉さんだからな」
 榻背を握る手はほっそりとしている。義姉のそれを、弟から兄へ、ではなく、エヴァン・タウンゼントから神羅社長へと託す。まったくもって妙なつながりだった。
「分かってる。ちゃんと社長にバトンタッチする。だけど、足がもつれて、ドレス踏んだらどうしよう」
「どうしよう」
 二人は顔を見あわせる。と、どちらともなく笑いだした。
「こけたらこけたで、ま、いっか。これも思い出だね」
「大丈夫だよ。義姉さんがつまずいたら、すっ飛んでくる男がいるからさ」
「どうかな。転んだわたし見て、大笑いするよ、ぜったい。『忘れられない結婚式にしてくれたな』って」
 ああ、とエヴァンは間延びした声をだした。「想像すらしなかった楽しい演出だ。光栄に思う」とか何とか、ルーファウスの皮肉は続くのだろう。
「でも、そうだね。そのあとで、ちゃんと、手、差しだしてくれる。よろよろって起き上がるわたし、支えてくれる」
 エアリスはまばたきを繰り返す。と、ほうっと優しい吐息をもらした。
「ルーファウス、ずっと支えてくれてた。これからも、きっと。本当に、何てすてきな人」
「ちょっと、義姉さん。そういうのはだな、本人に」
「エヴァンもだよ」
 え、と今度はエヴァンの両目がしきりにしばたたいた。
「ルーファウスとわたし、助けてくれてるの、エヴァンなんだよ」
 指先についた埃を払って、エアリスはエヴァンに向き直った。
「わたし、一人ぼっちだと、ルーファウス、悲しむから。わたしも、そう。あの人、一人ぼっちにはしたくないな。だから、エヴァンが遊びに来てくれるの、嬉しい」
「遊びじゃないよ、仕事だ」
 エヴァンは少し向きになる。オンラインショッピングの配達員できちんと報酬を得ているのだから、これはれっきとした一任契約だ。ただしエヴァンの受け持つ配送ルートは、神羅夫妻の自宅ただ一軒だった。
 だが、それは口実だ。エアリスのさびしさを紛らわせるための、ルーファウスの心遣いだった。これが彼女の貴ぶ『支え』のうちの一つなのだろう。
 エヴァンの眉尻が下がる。今更ながらに、誰かの真心で賃金を得ていることが彼は心苦しくなった。
「それはそれは、失礼しました。でもね、エッジからヒーリンって、遠いでしょ。せっかく近くまで来てるなら、たまにはよってね」
「え」
「だって、エヴァン、ヒーリンまでちょこちょこ来てるでしょ。ふもとのほう」
「え、え」
 どうしてばれた。エヴァンの背中に冷汗が伝う。勿論、大方が仕事だ。そうでない部分は、開発区でなかよくなった連中と遊んでいる。たまに山頂付近を仰いで、「どうしてるかな」と神羅夫妻の様子を考えることはある。義姉に電話をすることも、ままある。だが、足は一度も向かなかった。
 汗の理由は明白だ。「今、どこにいるの」と聞かれて、同じ町にいながらその名前を挙げたことはない。後ろめたさだった。
「それに、うち来た日も。モーテル泊まるくらいなら、うち泊まっていけば。経費浮くよ」
「何でばれてるんだ」
「あ、やっぱりそうだったんだ。わたしってば、名探偵」
「え、え、え」
 エアリスが、だって、と笑った。
「犯人はずばり、音。エヴァン、律儀に電話くれるでしょ。あなたの後ろから、いろいろ聞こえてるよ」
 広場の時計台のチャイム。通行人が叫ぶパブリックハウスの名前。エアリスが告げるたび、エヴァンは自身の迂闊さに頭をかかえたくなった。本物の探偵への道がまた遠退く。
「ほら、最近だと、トンネル工事始まったでしょ。たまにね、ルーファウスに現場まで連れて行ってもらうんだけど、すごく大がかり。ヒーリン、何もなかったの、嘘みたい。どんどん立派になるね」
 エヴァンは呻く。山岳トンネル履行はヒーリン開拓の一環で、完成すればミッドガルとジュノン間の移動が格段に楽になる。施主は勿論、神羅電気動力株式会社だ。日々進められる掘削工事は、騒音公害とまではいかないものの、町をにぎわせる音の一つであることには違いなかった。
「掘削機のばか」
 犯人に悪態をついたところで、名探偵に笑われた。
 ここへ来る道中に、エヴァンは銃火器専門家の指導を受ける機会を得たばかりだ。このさいだ、きっと探偵より探偵――どちらかといえば密偵――らしいタークス先生に、基礎から叩き直してもらおうか。
「エヴァン、来てくれないなら、どうしようか。ずっとずっと、オンラインショッピング、ぽちぽちしなきゃだね」
「やめなよ。いらないものは買うなよ、勿体ないからさ。いいよ、分かった。考えとく」
「楽しみにしてるね。頼もしい支えさん」
 後ろ手を組んで、エアリスは上体を左右にゆらしている。そよ風と戯れる白い花のようだ。
「俺はいいから。そこはほら、夫婦でしっかりがっちり支えあってくれ」
 エヴァンが彼女を支えるのは、ウェディングアイルだけで十分だろう。事前に教えられた通り、エアリスの手を取り、足並みを揃えて歩くのだ。この上なく慎重に。
 つまずいてすっ転ぶ。そんな楽しい思い出づくりもいいが、せっかくのドレスを汚してはいけない。ルーファウスにゆだねるのは、純白のままの花嫁だ。のろのろしすぎて花婿に睨まれるのかと思うと、エヴァンはぞっとした。
「プレッシャー、半端ないな」
「エヴァン、いつか本当の娘さんと歩くかもしれないでしょ。きっと、もっともっと、緊張するよ」
「どうかな。義理の息子に睨まれて入場する父親なんて、いないと思うけど」
「睨まれたら、睨み返せばいいよ。ほら、お行儀の悪いやつに娘はあげません、て。今日はね、目つきの悪いお兄さんに、お義姉さんはあげませんって」
「まずいって。それ、冗談ですまないやつ」
「ね、エヴァン。練習、今のうちにできてラッキー、くらい、気楽に行こう」
 エアリスは彼の二の腕をぺちんと激励する。予行演習のほうがどう考えても難易度は高い。高すぎると言いかけた口を、エヴァンは閉ざした。
 エアリスが側廊の最上部を仰いでいる。着色硝子の光をあびながら、これが本物ね、と大きな眸をさらに大きく見開いていた。
 エヴァンはカメラをかまえた。今日のために用立てしたそれは――フィルムを使う骨董の――一眼レフレックスだった。探偵社の成功報酬としてもらい受けたものの、仕事に使うにはかさばる。それ以前に、エヴァンは現像どころかフィルムの入手ルートすら持っていなかった。だがきちんと動作するカメラを、この一台以外に所持していない。あとのことはあとで何とかする。せっせと築いているコネクションのなかにカメラ業界に明るい人物がいないのなら、また縁故を広げていけばいいと彼は思っている。
 のちのちの労力よりも、エヴァンには『今を撮る』ということが大事だった。のがすことのできない、今、このときを。
 ルーファウスは彼にさまざまな役割を押しつけたが、どうしてだかカメラマンがなかった。エヴァンは気を利かせたつもりだった。そうして今朝、待ちあわせ場所で合流したところ、ルーファウスは見たことのない顔をした。いっそ表情という表情が消えたといってもいいかもしれない。何かまずかっただろうか。
 半ば条件反射のように固まるエヴァンを慰撫しながら、エアリスはルーファウスを見上げた。
「エヴァンなら、いいよ」
 静かな声が印象的だった。ルーファウスは何も言わなかった。撮影機器を見据えながら、ただ一度だけ頷いた。
 ファインダーごしに堂内を見まわす。主役の二人は勿論だが、美しい情景を残すことも悪くはないだろう。これもまた結婚式の思い出だ。とはいえ、フィルムは撮れる枚数にかぎりがある。
「だったら、やっぱりこれだよな」
 エアリスが正面のステンドグラスに見入っている。主役の気に入ったらしいそれをファインダーに収める。と、エヴァンはシャッターを切った。
「ありがとう、エヴァン。これね、わたしたちの思い出のステンドグラスだから」
「ここ、来たことあるのか。式場の下見かな」
 エアリスは首を横に振る。と、胸の前で手を組んだ。ルーファウスは父母の葬儀で、エアリスは前者の中継放送で見たのだと言った。
「もう、ずいぶんと前だね。違うところで見てた、同じものがこれ。好み、初めてぴったりあったの、このステンドグラスなの。あの人も、情意投合したなって、言ってくれて。嬉しかった、すごく」
 あのルーファウスの口から「気があう」とは。エヴァンは口をぽかんと開けた。
「ルーファウスとわたし、好み、吃驚するくらいばらばらだったんだけど。最近はね、少しずつ、似てきたの。いっしょにいいねって思えるもの、どんどん増えてきて、もうね、覚えていられないくらいあるんだよ」
 エヴァンのなかで否定と肯定が同時に芽生える。ルーファウスが同調性を尊重するとは思えない。他者と同じ時間と価値とを共有し、あまつさえそれを楽しむあの男の姿が想像できなかった。だが、その他者がエアリスなら。
「ああ、そうか」
 エヴァンは腹に落ちた。
 ハーブティーのブレンド一つを挙げてみてもよく分かる。妻の淹れるそれを、ルーファウスが褒めているところをエヴァンはもう何度も耳にしている。彼には苦味の強いハーブティーも、二人は笑みを交わしながら飲んでいるのだ。日々、同じ食卓を囲むうちに五味も似通ってくるものなのだろうか。
 舌のように、目も鼻も耳も、そのときどきの気持ちすらも、同じ感覚を共有することが増えていくのだろう。
「いっしょだねって言われるの、そういうの、ルーファウス、いやがる人だったし。わたしもね、人は人、わたしはわたし、だったから。なのに、不思議」
 エアリスはゆっくりと南の方角を見た。つられてエヴァンも彼女の視線を追う。
「全然違う風に生きてきたのに、すごく不思議」
 何が見えるのだろう。エヴァンは目を凝らした。「フライドエッグの焼き方は、今でも気があわないけど」と続けながらも、エアリスの笑みは声もなく深まるばかりだ。なるほど彼女の眸には、きっと朝の食事風景が映っているに違いない。
「卵の焼き方は大切だろ。なあ、義姉さん、そういうときってやっぱり義姉さんが折れるのか」
「いろいろ。ルーファウスにあわせたり、わたしにあわせてくれたり。どっちも用意したり。あ、わたし、オーバーハード派ね」
「ぱさぱさの黄身なんてだめだ。咽喉につまるだろ。俺は断然、サニーサイドアップ派だ」
 エヴァンは思わず力む。ふふ、とエアリスが吹きだした。
「エヴァンったら、ルーファウスと同じこと言ってる」
「四分の一の確率だ。別にかぶったっておかしくないからな」
「その四分の一、特別な人といっしょになるのが嬉しいの。嬉しいと思うようになったのは、あの人のおかげ」
 神羅家の食卓から、エアリスはステンドグラスに意識を戻した。硝子の白い女は、二人が出会う前から、今も、そしてこの先も変わらず静かな面持ちでいることだろう。
「違うもの、それぞれ好きでいるのも、面白いと思うよ。だけどね、好きな人と、同じもの好きでいられるって、幸せなことだから。だから、記念すべき第一号の思い出。撮ってくれて、嬉しい。ここ、頻繁に来れるところじゃないから、写真、すごく助かるよ」
 エヴァンは頷く。貴重なフィルムの、その用途が一つ決まった。
「だったらまずは着替えだな。式のあとで、あれをバッグにもう一回撮ろう。夫婦並んでさ」
「うん。お兄さんと弟君は、わたし、撮るね。任せて」
「任せたくない」
「今日は花嫁さんの無礼講の日でしょ。花嫁さんの命令、聞くように」
「結婚式って、そんなルールあったっけ」
「たった今、制定されました」
 二人の笑み声が弾けて、天井の高い堂内に響き渡る。やがてそれも引いたころ。
「たくさん撮ってね。今日のこと」
 エアリスがステンドグラスの女と同じような顔つきをした。胸中穏やかでいるのか、悲しみがひそんでいるのか、エヴァンには判別のつかない笑み方をしている。義姉さん、と声をかけると、彼女がふと顔を上げた。
「とくにね、わたし自慢の花婿さん。世界でいちばんきれい、なんだから」
 人差指を立てるエアリスから、悲しみのアトモスフェアが掻き消えていく。
「どうだろうな。すかした顔が台なしになるくらい、蕩けるんじゃないか。やばい。そんなの撮ってさ、俺、あとで社長に怒られないかな」
「うわ、面白そう」
「ひどいな。義姉さんだって社長の口の悪さは知ってるだろ。ぐさぐさ刺さるんだよ、あれ。俺がそんな目に遭ってもいいかの」
「ごめん、ごめん。そっちじゃなくて、面白そうなのは、ルーファウスの蕩けた顔」
「義姉さんの腕の見せどころだ」
「じゃあ、がんばっちゃおうかな。ルーファウス、でれでれに蕩けたところ、ちゃんと撮ってね」
 あとに残ったのは、幸せな花嫁だった。見計らったかようなタイミングで、花婿が戻ってきた。身廊を、またつかつかと。ルーファウスのための花道ではないのだと言ってやりたかったが、エヴァンは押し黙る。そんなことよりもだ。憂のエアリスを見られずにすんで助かったと思っている。エヴァンをぐさりと刺すのは、それこそ悪言や嫌味だけではすまなくなるのだろうから。
 ほっとするエヴァンの、気がかりはただ一つだ。現像するまで写真の出来不出来が分からないことだった。ピントがはずれていたらどうしよう。どうせならデジタルカメラがほしかったと思ったところで、エヴァンは溜息をつく。報酬の、せめて半分はギルで回収しなければ、そろそろ探偵社の運転資金が底をつく。
「雑談はあとにしろ、エアリス。モンスターの気配も進入路もなさそうだが、トラブルが起こる前に、まずは挙式だ」
「トラブル、起こさないでね、ルーファウス」
「起こすのは私ではないだろう。あっちから勝手にやって来る。困ったことに、いつもそうだ」
「じゃあ、言い換えます。トラブル見つけても、首、突っこまないでください」
「私は殊勝だからな。厄介ごとは放っておけない性質だ」
 大仰に両腕を広げて見せるルーファウスに、もう、とエアリスが笑った。
「だけど。うん、そうだね。じゃあ、着替えてくる」
「聖具室へ行け。テーブルも椅子も揃っていて、ちょうどいいだろう。私は反対側の総会室を使う。支度が整ったら、中庭をまわって扉口前へ戻ってこい。正面から、晴れて花嫁のご入場だ」
「入場。どうしよう、どきどきしてきた」
 トラベルケースに伸ばしかけた手で、エアリスは両頬を押さえた。その片方に、ルーファウスが手のひらを重ねた。ふるえて見えたのは、エヴァンの気のせいだろうか。
「逃げるなよ」
「逃げたら、ルーファウス、泣くでしょ」
「泣くかもな」
「泣かせないから」
 エアリスがゆっくりと両手を下ろした。ルーファウスの真正面に立ち、背筋を伸ばしている。エヴァンは目を瞠った。白い女の一面と同じ、エアリスは前をしゃんと見る強い眼差をしていた。
「逃げて後悔するのは、いや。星、ぶん殴ってでも、時間もぎ取るから。ぜったい、結婚式するんだから」
 息をのんだのは、ルーファウスも同様らしい。驚いたことに、青色の眸が右へ左へと落ち着かないでいる。開きかけた口を閉じる。ルーファウスのそれが再度開いたのは、ややしばらく経ってからだった。
「根拠はあるのか」
「ないよ、そんなもの。あったら、わたしたち、こんなに悩んでない」
「お前の言う通りだ。だが」
「負けない」
「エアリス。なあ、エアリス。お前は、ときどき本当に頼もしい」
「でしょ」
 得意顔のエアリスの鼻先を、ルーファウスが軽くつまんでいる。目尻に幸せのしわを刻みながらだ。エヴァンはカメラを持ち上げる。フォーカスリングをむやみとまわす。これは撮るべきか、否か。
「だからね、白いステンドグラスの前で、待ってて。ルーファウス」
「待っている。エアリス」
 ルーファウスの右手が彼女の鼻から離れた。指の背で頬を、顎先を撫で、細い首にそえられた。まただ。二人は深いキスをするように、二対の眸を睦みあわせている。
 エヴァンは声なく笑う。これは夫妻だけの時間だ。邪魔はできない。カメラを放し、やれやれと身体の向きを変えかけたところで、はたと固まる。星をぶん殴るとは。
 魔王とは、星という名前の人物なのだろうか。それともコードネームか何かか。エヴァンはうんうんと頷く。きっとその星何某のせいで、ルーファウスはエアリスをヒーリンロッジに匿わざるを得なくなったに違いない。星何某とは、ではいったいどこの誰なのだろう。考えかけたエヴァンの手足は、さらに強張った。神羅社長を脅かし、神羅夫人がこぶしをかまえるような星何某を、一介の探偵がさぐればいったいどうなってしまうのだろう。
「エヴァン。何だその、マリオネットのようなポーズは」
 ぎぎぎ、と顔だけを動かすと、ルーファウスが――小ばかにするように、呆れたように、嘲るように、とにかくいつものように――鼻を鳴らした。
「まあ、いい。エアリスを手伝ってやれ。お前は果報者だぞ。試着どころか、私は仕上がったドレスすらまだ見ていないのだからな」
「花嫁をいちばんに見るのが、俺でいいのか」
「女の支度は時間がかかる。何のためのブライズメイドだ」
 頷きかけたエヴァンの動きが、さらにぎごちなくなる。手伝うとは、支度とは。
 役割の多さに気を取られて、深く追求する間もなかったが、そもそもブライズメイドの本務をエヴァンはよく知らなかった。ルーファウスは妻の着替えに、まさか異性を立ち会わせるつもりなのだろうか。
「きっと見たらだめなものまで、見てしまうと思うんだけど」
「見るぶんにはかまわないと言っただろう。だがその先は、以前に忠告した通りだ」
 ひえ、とエヴァンは仰け反った。彼はルーファウスの妻の髪一筋にもふれることを許されていない。だというのに指一本使うことなく着付の介助など、どのようにしてこなせばいいのだろう。エヴァンは首を捻った。七役のうちで、実はブライズメイドが――何せいのちにかかわることなのだから――いちばん厄介だと気づいたところで、もう遅い。
「よかったな、エヴァン。ここは教会だ、葬儀もできる。ああ、そうだ。お前の父親もここから葬送したのだったか」
 知っているかと、ルーファウスが横目で問う。エヴァンはこくこくと首肯した。
 当時、エヴァンが楽しみにしていたテレビプログラムは、プレジデント神羅死亡の速報に始まり、葬儀がすんでもなお特別番組ばかりが続いた。ようやく視聴が叶ったころには、彼は前回の内容などすっかり忘れてしまっていた。
 放送ばかりではない。すべてのマスメディアが連日プレジデント神羅の訃報にまつわるあれこれを伝えていた。情報は大陸をこえて、僻地にすら号外がばらまかれたのだと聞く。プレジデント神羅の葬儀を実時間で耳目にふれていないのは、あの一連の騒動のあとに生まれた乳幼児くらいのものだろう。
「お前には父親との父子らしい思い出もないだろう。一つ、つくってやろうか、エヴァン。同じ場所から星へと旅立つというのは、どうだ」
 相変わらず顔色の読めない男だが、さすがにエヴァンでもいくつかは分かるようになった。これは小心者をからかっているときの薄笑いだ。だが男の揶揄は、相手の出方次第でときどき本気に変わる。妻のこととなると、尚更だった。エヴァンは、だからルーファウスの冗談口にすら気軽にこたえることができないのだった。
 見かねたらしいエアリスが、夫をたしなめる。
「ドレスの後ろ、ホックなの。それ、留めてほしいだけ。そのときになったら呼ぶから、エヴァン、お願いね」
 エアリスは、よいしょ、とトラベルケースを引く。壁際の廊下へと向かいながら、彼女が指差したのは右奥だ。
「それまで、エヴァンはあっち。ルーファウスといっしょ」
「え」
「何だと」
 エヴァンだけでなく、ルーファウスも驚いている。エアリスは後ろ手を組む。と、にこりと笑って小首を傾げた。
「だって、エヴァン、ルーファウスの親族だもの。神羅さんちの控室は、総会室だっけ。あっちでしょ。ディーもご主人様といっしょにいてね」
「待て、エアリス。私は他人の前で服を脱ぐ気はない」
 エヴァンもここぞとばかりに賛成する。彼はそのあたりで着替えるつもりをしていた。ルーファウスと二人きりになった部屋で待っているのは、きっと惚気地獄だ。滅多と聞けるチャンスのないはずの『ルーファウス神羅』の妻自慢も、近ごろはさすがに食傷気味だった。
「不思議。あなたたち、こういうときだけ、息ぴったり。ね、ルーファウス。エヴァンにはもう傷のこと、ばれてるでしょ。今更です。それに、エヴァン、丸腰だよ。一人になったら、だめだよ」
「それなら、義姉さんだって」
 エアリスを引き留めようとしたところで、エヴァンはルーファウスに腕を掴まれた。どうやら妻に従うらしい。
「いいのかよ、社長」
「お前に何かあれば、エアリスが悲しむ」
「そこは、『私が悲しむ』のほうがぐっとくるけど。ま、いいか。少しずつね。そうそう、弟君、いじめたらだめなんだから。ね、お兄さん。弟君も、負けっ放しじゃ悔しいでしょ。たまには、ほら、言いたいこと、がつんと言っちゃえば。喧嘩なら、好きなだけしてね」
 ご機嫌なハミングが遠退いていく。先程とはまるで逆で、エアリスの背中が曲がり角に消えてもなお、ルーファウスが見据えている。
「あれは、本当に」
 しばらくして、ルーファウスが呟いた。ゆるゆると頭を振り、垂れ落ちた前髪を掻き上げている。あらわになったその横顔は、すでに締まりがない。シャッターを切るちょうどいい機会が、早々に訪れたらしい。だが、ルーファウスはまだ平服だ。エヴァンは思わず口先を尖らせる。
「蕩けるの早いよ、社長」
「何か言ったか」
「いや、別に」
「蕩けるのは、仕方がない」
「聞こえてるし。いちいち鎌かけるのやめろよ、怖いよ。社長って、本当に耳聡いよな」
「言っただろう、この日を待ち望んでいたと。ひょっとすると、エアリスよりも強くだ」
 エヴァンは目を見開いた。ただの男の輪郭をして、ルーファウスがゆっくりと近づいてくる。同じ目線の高さに、同じ色をした双眸がある。すれ違いざまにエヴァンを捉えながら、青いそれがつややかにまたたいた。
「エアリスがまたいらないことを言ったのだろう。まあ、いい。私を撮るのはかまわないが、フィルムがいくらあっても足りなくなるぞ」
 駆けだしカメラマンは頭をかかえたくなった。被写体がこれだけ蕩けっ放しでは、撮りどきが分からない。
「さて、撮り甲斐があるよう、私もそろそろ支度をする。エヴァン。まさかとは思うが、お前はネクタイを結べるのだろうな。ポケットチーフの畳み方は。ソックスガーターの使い方は、どうだ」
「あ」
 ルーファウスは軽くこめかみを揉む。と、再び歩きだした。一つ残ったトラベルケースには、素知らぬ顔をしている。
「ついて来い」 
 エヴァンは慌ててテレスコープハンドルを引っ掴む。がらがらと音を立てながら、ルーファウスを追った。途中でブレストポケットをまさぐる。携帯端末の手ごたえを確かめる。エアリスが一分でも早く呼んでくれることを願いながら、エヴァンはこっそりと、しかし大きな溜息をつく。
 死ととなりあわせだったブライズメイドが、一転して惚気地獄に差し伸べる救済の手になるなんて、と。
 

 アーチ型の石壁に嵌まっているのは、無垢の木製扉だ。この奥にルーファウスの花嫁がいる。
 鋳物の飾り鋲と、いつまでも睨めっこはしていられない。もう何度目になるのか、エヴァンは三つ揃いのダークスーツのラペルを正した。
 ちらっと、総会室を見やる。モーニングコートを着こなした花婿が――椅子に腰かけることなく、壁によりかかることすらもせず――すっと立っているはずだった。
 ルーファウスの声がよみがえる。
「正礼装か準礼装を用意しようかと考えたのだが、お前はスーツを持っていないのだったな。仮にも経営者なのだろう。一式をくれてやるから、あとは好きに使え」
 持っていないどころか、エヴァンはネクタイすら結んだことがない。そんな彼をベストマンらしく仕立て上げたのは、あろうことが花婿だった。ルーファウスの指が首元で動くたび、ネクタイがすべらかな音を立てるたび、このままきゅっと絞められたらどうしようかとエヴァンは気が気でなかった。
「略礼装だがかまわない。めかしこんだところで、どうせ私もお前も今日という日ばかりは、花嫁のそえものだ」
 言いながら、ルーファウスはエヴァンの胸にポケットチーフを突っこんだ。しゃきっとしたリネンだった。
「こんなものか」
 金髪はスリックバックですっきりと、リネンの三つ山が胸元に連なり、加えて靴はストレートチップだ。格式高い装いに、エヴァンは自ずと姿勢を正した。
 明らかに衣服に着られているエヴァンを、ルーファウスが上から下まで見まわしている。これが審美眼というものなのだろうか、いささか厳しい眼光にエヴァンはさらされた。
「テーラーメードだからな、お前にぴったりというわけにはいかない。式はこのままで仕方がないが、パーツごとの補正はのちのち必要だろう。テーラーを探すなり、自分で繕うなりしろ。スラックスはとくに目に余るな」
 眉一つ動かさず、ルーファウスが言った。エヴァンは肩を捻ったり、足を開いたり、着心地を確かめる。少し惨めな気持ちになった。
 肩や腰まわりがぶかぶかなのは仕方がない。痩身に見えたルーファウスだが、モンスターと堂々と渡りあえるだけの体躯をしていることを、花婿の控室で目の当たりにしたばかりだった。筋肉のぶんだけ、エヴァンとは上半身の厚みが違うのだ。
 悲しいのは、スラックスの丈だった。背丈は変わらないというのに、上半身と下半身の比率がまるで違う。エヴァンは半ば諦めながら、足元を見る。半分は同じ血を引きながら、持つ者と持たざる者、この世の不公平が足の長さにまで現れている。サスペンダーで極限まで吊り上げているものの、それでも床に引きずる部分は――マナー違反らしいが――折り曲げるしかなかった。
 エヴァンは足の付根に食いこむスラックスを直しながら、咳払いをする。と、ノックした。
「どうぞ、入って」
 角部屋の二辺の窓がふんだんに採光するのは、正午前のいささか強い日射だ。光の筋が交わる丸椅子に、エアリスは腰かけていた。脇を締めて、膝上にそっと両手を重ねている。ただただ眩しかった。
 ゆっくりと、ふらふらと、エヴァンは花嫁に近づく。
 白い肌も白い衣装も、白い光にとけてしまいそうだ。眸とくちびる、そして髪の淡い色あいだけが、エアリスの輪郭だった。
 数歩、さらに距離をつめる。一歩、また一歩、やはりのろのろと。
 エヴァンの視覚が次第に明順応する。両眼に、エアリスがくっきりと映った。色数は三つのまま、だというのに彼女はとてもあざやかだった。瑞々しい緑色、笑みをたたえる薄桃色、柔らかそうな薄茶色が白色のなかでいっそうのこと際立つ。化粧のことはよく分からないが、派手な色は使っていない。頬を、目蓋を、口唇を花やかに装っているのは、つやの濃淡だけだ。
 花嫁の頭にはまだベールがかかっていない。代わりに幸福をまとっているエアリスは、美しかった。
 エヴァンの足が完全に止まった。せっかく捉えた花嫁の輪郭が滲んでいく。
「エヴァン、恰好いい。すらっとしてるから、似あうね、スーツ。やだ、ちょっと待って、泣くの早すぎだよ」
「だって、俺さ、花嫁さんって見るの初めてで。幸せいっぱいって感じだ」
「うん、当たり。幸せ、いっぱいだよ」
「結婚おめでとう、義姉さん」
「ありがとう」
 エアリスが微笑んだ。祭壇のステンドグラスと一瞬重なった。エヴァンは鼻を啜る。涙を袖で拭くわけにはいかず、まばたきをして散らした。そしてようやく気づく。
 彼女は首や耳にウェディングジュエリーを身につけている。黄金の台座にあしらわれているのは、大小さまざまの青色の貴石だ。どれも破格の代物に違いないことは、素人目にも明らかだった。
 エヴァンのブレストポケットにはルーファウスからの預かりものが入っている。それは緑色をしている。ルーファウスは花嫁の色取りを完成させたがっていた。いつまでも立ち惚けているわけにはいかなかった。
「社長の花嫁さんだもんな。独り占めしたらあとでどやされる。早く送り届けないと」
 花嫁の背後にまわりこんだブライズメイドは、もう少しで悲鳴を上げるところだった。ホックの止まっていない素肌が、腰のあたりまで丸見えだ。
「どうしたの」
 エアリスが顔だけをエヴァンに向けた。今もまだ脇を行儀よく閉じているのは、ドレスがずり落ちないようにするためだったらしい。エヴァンは白目を剥きそうになる。
「ホックだけって言ったじゃないか」
「ホックだけでしょ。たくさんあるよって、言ってないだけ」
「何だよ、その言い方。社長に似てきたよな。ずるい」
「嬉しい。神羅の恐ろしい女、だね」
 エアリスが楽しそうに言った。エヴァンはたまったものではない。
 素直なルーファウスと、意地の悪いエアリス。夫妻が似てくるというのは本当らしい。そうやって互いが互いに感化しあっているだけなら、まだいい。二人でいちゃいちゃ勝手にやっていろ、とエヴァンは思うだけだ。
 問題は、毎度それに翻弄されてはくたびれている、エヴァンの胆力不足だった。
「いやだ。社長が二人だなんて、勘弁してくれよ」
「だいじょうぶ。ルーファウスはルーファウス、わたしはわたし、だから」
 ね、とかわいらく小首を傾げるが、果たして神羅の女はどこまで信用できるのか。エヴァンは半眼で黙りこむ。
「あのね、エヴァン、あのときプレッシャー感じてたみたいだから。実際やっちゃえば、大したことないと思うんだけど。する前から、いろいろ詳しいこと、言わないほうがいいかなって」
「それはそうなんだけど」
「ルーファウス、さっさと止めないと、またエヴァンが困っちゃうようなこと、言いだしそうだったし」
 エヴァンはしんみりと頷く。エアリスは、やはりエアリスだった。義姉の咄嗟の気遣いに感謝しながら、そろりと手を伸ばす。
 鉤状の留金は背の中ほどから、腰の付根までみっちりと並んでいる。魚の歯のようだとエヴァンは思った。一つ目から苦戦する。ドレスをぎゅっとよせて、ほっそりとした肢体に吸いつくように留めなければならないからだ。
「きつくないか。大丈夫か、義姉さん」
「平気。わたしにぴったり、つくってくれたから。ね、エヴァン。このドレス、どうかな」
 エヴァンは困った。この手の質問は苦手だった。相手の意にそわないことを言ってしまうのではないかと、第一声はいつも慎重になる。それが親しい人となれば、尚更だった。
 彼は服飾にはこだわるほうで、だから興味もある。ヒーリンロッジを訪れる数少ない楽しみのうちの一つが、二人の着衣だった。神羅夫妻は衣裳持ちだ。リビングは、さながらファッションショーのオーディトリアムだった。カジュアルウェアから、まるで縁のなかったアッパークラスのドレッシングにまでふれて、エヴァンの目もずいぶんと肥えたように思う。前回会ったときの――彼女のワンピースと靴の組みあわせの――ことなら、エヴァンはこたえられるだろう。
 だが、ウェディングドレスは普段着ではない。当たり前か、とエヴァンは首裏をぼりぼりと掻いた。褒める機会はこの一度きりだ。慎重に目を凝らす。
「どうって」
 ウェディングドレスのシルエットが、生地のつやが、あわさって生まれるドレープまでもが、花やかなエアリスそのものだった。ほかの誰にも着こなせないだろう。なるほど、「わたしにぴったり」はサイズだけではないらしい。
 エアリスが返事を待っている。エヴァンは期待に応えたかった。
「その、義姉さんにぴったりだな。金かかってそう。さすが金持ちだ」
 意気ごむほどに、彼はどうしてだか失敗をする。
「それだけ。ほかには」
「首も耳もじゃらじゃらだ。重たそうだな。それってやっぱり本物の宝石なのか」
「そう。ブルーダイヤモンド。ルーファウスが用意してくれたの。神羅って、いくつも博物館あるでしょ」
 エアリスの指先が、宝石にふれない距離でネックレスをなぞった。
 神羅カンパニーはコレクションカタログを持っている。蒐集家がこぞって垂涎するほどの、それはとんでもない分厚さなのだとも聞く。伍番街にはまさにそれらを所蔵する博物館が建ち並んでいたのだが、不思議なことに――教会堂と同様――メテオショックの被害を免れた。所蔵品は窃盗に遭う前に、ジュノンの格納庫へと移動したらしい。
 数多の宝飾品のなかから、ルーファウスがふらりと持ち帰ってきたのが、エアリスの身につけている一式なのだという。
 エヴァンの常識のなかで、花嫁は純白でなければいけなかった。だが、白いドレスに金の地金、そして光の加減で色を変える青の貴石が、思いのほかよく映えている。なるほど、とエヴァンはにやける。
 白、金、青、この三つはルーファウスを象徴する色だった。エアリスに己の色あいをまとわせるとは。
 ルーファウスの独占欲が見え隠れしている。いや隠れていない。あの男も案外とべたなことをするのだと、エヴァンはおかしく思った。
「やること、規模違うよね、あの人。本当、すごいよね」
「すごいな」
「それで。ほかにもっと、あるよね」
「ええと」
「エヴァン君」
「はい」
「自分の結婚式までに、褒め言葉、ちゃんと用意しておいたほうがいいよ」
「はい」
「結婚式、夫婦円満の始まりだよ。第一歩、間違えたら、まずいよね」
「結婚式、怖い」
「ごめん。冗談だってば。脅すつもりじゃなかったの。だいじょうぶ。あなたの花嫁さん相手なら、きっとすらすらでてくるから」
 エアリスが肩ごしに振り向いた。どこにも不機嫌の痕跡はない。エヴァンはほっとした。
「ね、エヴァン」
「何」
「ありがとう」
「何が」
「エヴァン、困ってるの、そうやって真剣に考えてくれてるからだよね。嬉しい。だけどね、考えすぎ、よくないよ。シンプルでいいの。ね、そう考えたら、ちょっと楽になるよ」
 やんわりとした口調は、エヴァンの耳に留まるだけでは治まらなかった。そのまま彼の奥深いところまで穏やかに染み入っていく。気がつけば、エヴァンは光のなかで微笑んでいた。
「俺さ、ドレスのことは詳しくないけど。これは義姉さんのためだけのドレスだって、よく分かるよ。やるな、社長。似あってるよ、本当だ」
 緑色の眸が優しく細められている。ルーファウスが惚れこむのも無理はない。エアリスのとなりは、やはり心地がいい。
「すごくきれいだ」
「最後の、取ってつけたみたい」
「ひどいな。シンプルでいいって言ったの、義姉さんだ」
「嘘、嘘。照れ隠しです」
 エアリスがくすくすと笑うたび、小さな背中もゆれる。手許が狂って、ホックがなかなか嵌まらない。
「義姉さん、動かないで」
「だって、くすぐったい」
 エヴァンの手がいよいよ汗で湿ってきた。
 女の身体というのは、本当に不思議だった。骨がどこにあるのか分からないほど、ふわふわしている。エアリスはとくに細身だ。余計な脂肪などなさそうだというのに、ふれるたび、エヴァンの指が背に沈む。なるほど、ルーファウスの言った通りだった。
「俺はルーファウス神羅の妻の柔らかさを知ってしまったこれはまずいことになったぞ星に還されるどうしよう」
「エヴァンったら、ほら、ちゃんと息継ぎして。黙っておけば、分からないよ」
「いや、どう考えてもばれるだろ、これ。そういうとこは雑だよな、義姉さん」
「下心、ないでしょ、エヴァン。ルーファウスだって分かってるよ」
 エヴァンは困った。彼はパートナーに一筋だ。ほかの女へのよこしまな気持ちは、勿論ない。それがルーファウスの妻なら、なおのことだ。エアリスがエヴァンの義姉でなければ、放って逃げだしてしまいたいくらいだった。あれ、とエヴァンは今更ながら、三人の結びつきに首を傾げる。
 神羅社長と異母兄弟でなければ、神羅夫人とは義姉弟にならない。ルーファウスと神羅家の血を介さなければ、エヴァンがエアリスと知りあうこともなかったのだ。この妙な間柄が親族だとか縁家だとかいうものなのだろう。
 母子家庭に育ち、もともと血のつながりというものに彼は希薄だった。母親を亡くしたことは悲しいが、自身のルーツが絶たれたことで感傷的になりはしなかった。だというのに、今になってエヴァンの血脈は息を吹き返している。どこかに生きているらしいほかの異母きょうだいたちも含めれば、息吹は増える。見えない何かが横に広がろうとしている。
 エヴァンはエアリスの下腹を盗み見る。薄いそれに、臨月のマール――の破裂しそうにふくらんでいた腹部――が重なった。義姉とは直接の血縁はない。だというのに、エアリスに宿るルーファウスの子供は、エヴァンと確かに同じ血でつながるのだ。
 今度は縦にまで広がりだした見えない何かに、エヴァンははっと息をのむ。まばたきを繰り返す。ただただ不思議で仕方がなかった。
「叔父ってことか。待て、俺、落ち着け。叔父ってなんだ」
「何のこと」
「本当、何のことだろうな。人んちの家族計画を、俺が決めつけたらだめだ。いやいや、でも」
「エヴァン、たまに一人の世界、入りこんじゃうよね。お義姉さん、置いてけぼり、さびしいなあ」
「ごめん。でもさ、だいたいは義姉さんの旦那さんのせいだからな」
 エアヴァンは思わず口を尖らせる。エアリスが、なるほど、と笑った。
「それはそれは、わたしの夫が失礼しました」
「義姉さんにはさ、妙な気持ちなんて持てないな、やっぱり」
 エヴァンが気さくに話せる貴重な異性だ。変な気を起こして失うのは勿体ない。そのつもりで彼は言ったのだが、今度がエアリスが不満そうに口先を突きだした。
「下心どころか、まったくの脈なしなんて」
 何てね、と小首を傾げている。どうやらいつもの茶目らしい。
 このかわいらしい人がルーファウスの妻であり、エヴァンの義姉だ。そしてエアリスはいつか母親になり得る人だった。ルーファウスは体力おばけらしい。エヴァンが叔父になる日は意外と近いのかもしれない。
 神羅夫妻に家族が増えるころには、ルーファウスとエヴァンの関係も変わっているのだろうか。花婿とベストマンではなく、神羅社長と通信販売の配達員でもない、また別のかたちに。
 兄弟という言葉が脳裏を掠める。エヴァンはおくびをこらえる。結局のところ、彼は最初からある――ばか高い――障壁の前で立ち竦むのだ。ルーファウス神羅が兄貴って、どういうことだ。
「年上の魅力、伝わらないの、ちょっと悔しい気もするけど。エヴァンと恋人さん、わたしの家庭、二つの平和がかかってるんだから、ま、いっか。それにね」
 項垂れていたエヴァンが、ふと顔を上げた。
「わたし、一人っ子だから。弟君できて、あなたと話せて、本当に助かってる。言ったでしょ、支えてくれてるって。エヴァンとお喋りするの、楽しいんだよ、すごく」
 花開く笑み顔のまま、彼女は前を向いた。足元にまとわるドレープをそっと直している。
 エヴァンはほっとした。そのときどきでかけられたい言葉を、エアリスははずさない。異母弟は落第続きだが、義弟としては及第点らしかった。嬉しかった。
 まいったな、とエヴァンは声なく笑う。神羅邸を訪れるのに、そろそろ『通信販売の配達員』なんて口実もいらなくなるのかもしれない。報酬――いまだ口座に手つかずのままだ――を手土産に換えて、突然エントランスのノッカーを叩けばどうなるだろう。エアリスは勿論、ルーファウスの驚く顔も見られるだろうか。それはちょとした冒険のようで、エヴァンはどきどきした。
 それと同時に、彼はほんの少しだけ後ろめたくなる。
 他意はない。それでも男というのは、ひたむきなまでに己の欲望に従順ないきものなのだ。目の前に柔肌があれば、どうしたって見入ってしまう。そしてエヴァンは見つけてしまった。
 傷痕だ。大きく、そして深い。それはエアリスの心臓の裏側あたりにあって、真っ当ではない事件の気配がする。何よりも、とエヴァンは赤くなった頬をぽりぽりと掻いた。
 古い傷をおおうように、ところどころにあるのは歯形だった。いったい誰がなんて、そんなことができるのは一人しかいない。
 エヴァンは考える。ここは気がつかないふりをすべきだろうか。それとも、エアリスがこうして傷痕をさらしている以上、何かしら突っこんだほうがいいのだろうか。エヴァンは手を動かしながら、悶々とする。少し探りを入れてみようと口を開く。
「義姉さんと社長って、SM好きなのか」
 間違えた。本音が、当たり障りのない質問を押し退けて、いちばんに飛びだした。
 え、ともらしたエアリスの顏は、きっときょとんとしているのだろう。それからのろのろとエヴァンを振り返る。目があう。しばらくのあいだ、互いに口をぱくぱくするだけで声にはならない。やがて。
「エヴァン。わたし、穴、あったら入りたい。ううん、今すぐ消えてなくなりたい。恥ずかしい。どうしよう」
 エアリスは両手で顔をおおう。と、俯いてしまった。
「だめ、それぜったいだめ。義姉さんが消える前に、俺が消されるから」
「だって」
「だってもくそもないから」
「くそは言わない。もう、そういうとこ、あの人の悪い影響だね」
 エアリスがそろそろと手を下ろした。指の隙間から見える頬は、派手な化粧をしたように色づいている。
「うん、消えるなんて、そんなこと言ったらだめだよね。ちょっと、動転しちゃった。傷のこと、最近はね、気にならなくなってたから、忘れてた。あのね、エヴァン。わたし、わけありなの、何となく気づいてるでしょ」
 エヴァンはためらいがちに頷く。神羅社長とスラムの女。ヒーリン城の王子と一人ぼっちの姫君、そして星何某という魔王。特別な事情がないと思うほうがおかしい。
「これ、わけありの印。今ね、ルーファウスが消してくれてるとこなの」
 ちょっと笑んで、エアリスは膝上に両手を重ねた。消し方にいささか問題があるような、あの男らしいような。エヴァンはたじろぐ。
「あのさ、義姉さん。人んちのプレーにとやかく口だすのって、ルール違反かもしれないけどさ。ドメスティックなあれなら、放っておいたらまずいだろ。エスカレートしたらどうするんだよ」
「助けてって言ったら、エヴァン、助けてくれるの。わたしのこと、ルーファウスから」
「無理。ごめん、ぜったい無理」
「あらら、即答。正直者だね」
「俺一人じゃできないけど、だけど頼れる人は探す」
 法の専門家か、さもなくは――ルーファウスを鉄拳制裁できるような――腕っぷしの強い軍人か。だめだ、とエヴァンは頭をかかえる。ルーファウスはよりすぐれた両方を揃えているはずだ。
 だからといって諦めてはいけない。何かが起こる前に、神羅夫妻は引き離さなければならない。
 エヴァンは彼の大事なコネクションリストを繰りだす。
 そのほとんどがヒーリンロッジのパブリックハウスで築いた人脈だった。神羅相手に、どれだけの協力が得られるかははなはだ疑問だ。だが彼は何としてでも説得するつもりでいる。
 ミッドガルエッジは探偵社のホームフィールドだ。調査を生業とする者として、曲がりなりとも市内にアンテナを張っている。界隈で名を聞く何でも屋がいる。チョコボ頭のその男には、エヴァンも――ガソリンの調達で――世話になったことがあった。細身のわりにとんでもないモンスターバイクを乗りこなしていた。相当の筋力の持ち主だ。コルネオとつながっているくらいなのだから、暴力沙汰には慣れているに違いない。エヴァンの気に入りのダイナーには、見るからに百戦錬磨な連中が出入りしている。腕がガトリング砲の巨漢はあのテナントビルに自宅があるらしい。皆、女店主とは懇意にしていて、その彼女もまた格闘家なのだという。早々に縁故を築いておくのもいいかもしれないと、エヴァンは思った。
 そうやって協力者を集めて、いよいよ神羅夫人を誘拐する。
 勿論、綿密な計画が必要だ。まず実行犯だが、これはエヴァン以外に適任はいないだろう。ヒーリンロッジに通う彼になら、エアリスを連れだすことができる。それから、それから。これはとんでもないタウンゼントファイルになりそうだ。
 くすくすとかわいらしい声で、迷探偵はわれに返った。人攫いは、探偵の前に人としていかがなものか。エヴァンの計画は頓挫しそうだった。
「エヴァンの頭のなか、今ね、きっとすごくドラマチックなことになってるでしょ。面白そう。教えて」
「だめ。義姉さんのこと誘拐しようなんて、社長にばれたら。そんなの考えてたってだけで、俺、本当にやばいから」
「やばいね、それ」
 悲鳴を上げる彼を宥めてから、エアリスは小首を傾げた。今日だけで、もう幾度となく開いた花の笑顔をしていた。
「ね、わたし、嫌がってるように見えるかな」
「見えない」
「でしょ。心配してくれて、ありがとう。でもね、スラムの女、舐めないでね。いやなことされそうになったら、思いきり蹴って、ねじり切っちゃうくらいのこと、できるんだから」
 何を、と聞くのはやめておいた。おそらく今、エヴァンの股間できゅっとなったあたりだろう。彼のパートナーもスラム出身だ。なるほど、彼女もしたたかだった。非力だが、そのぶん口や演技力が抜きんでてる。度胸もだ。いざとなれば手足どころか、そのあたりにあるパイプ椅子で殴ってでも危機を回避することだろう。それこそ一撃必殺の急所狙いで。
 エヴァンはふるえ上がった。ルーファウスの大事なところが無事であるよう、願うばかりだった。
「あのね、噛んでるのルーファウスだけど、お願いしたの、わたしなの」
「え。ん。んん」
「わたしなの」
 エヴァンは思わずホックから手を放した。真白な背中だ。歯形に落ちこんだ影がよく目立つ。
「なるほど、夫婦って性癖も似てくるんだな。それとも、あれかな。ひょっとして、義姉さんももとからハードコア好き」
「『も』って何。エヴァン君、心の声、全部もれてますけど。さっきから、ずっと」
 エヴァンは慌てて口を噤む。二人きりの部屋で、エアリスは珍しく声をひそめた。
「ね、ハードコアの境目って、どこなのかな。男の人って、やっぱりそういうの好きなの。あと、その、あのね。がつがつって、何」
「がつがつ」
「そう、がつがつ」
「え、がつがつ、してないのか」
「ええ、がつがつ、しなきゃいけないの」
 二人はまじまじと見つめあう。エヴァンは目を白黒させる。ルーファウスががつがつをしていない。いったいどういうことだ。
 エヴァンはすぐに安堵の息をついた。ルーファウスはエアリスの気持ちが肝心だと言った。タイミングを待つ、とも。彼女の様子からすると、まだそのときではないのだろう。
 二人が結ばれて、まだそう長くは経っていないはずだった。しかもあの開けっ広げな男が言うには、ルーファウスの妻はバージンだ。それがいきなり『プレジデントボンボン』が相手なのだから、エアリスにはとんだ試練だったに違いない。エヴァンは内心冷や冷やしていたが、どうやら不要な心配だったらしい。
「社長に任せておけばいいよ。ちゃんと義姉さんのこと見てるみたいだ、あの人」
 意外だと思いかけて、エヴァンはちょっと笑った。「ゆっくりと、一晩かけて大切に抱く」は、いまだに続いているのだろうか。ルーファウスのあの惚気ぶりでは、エアリスのなかで好き勝手には動けないに違いない。好きな女を前に悶々とする男を思い浮かべて、彼は同情した。体力おばけもいたし方がない、と。男の性の分かるエヴァンは、やはりルーファウスの味方に落ち着くのだった。
 エヴァンはやれやれと首を竦める。体力お化けは、ルーファウスなりの譲歩なのかもしれなかった。だからといって、回数でカバーはどうなのだろうと思わないこともないが、それでも。
「案外、いいパートナーなんだな。社長って」
 エアリスは嬉しそうに頬をゆるめた。ほっと、肩から力が抜けている。
「こういうこと、聞ける人、いなくて。ね、エヴァン」
「いやだ」
「ひどい。まだ何も言ってないのに。乙女の恥じらい、がまんして言ってるのに」
「乙女って、誰のことだよ。人妻は自分の夫に聞いたらいいだろ」
「聞けないから、相談、乗ってほしいの」
 エアリスは迷子のような声をだした。そうなるとエヴァンは弱い。
 渋々返事をしながら、彼は次回からの神羅邸のリビングへと思いを巡らす。二人の秘密の時間を、一方からはしれっと惚気られ、もう一方からはこっそりと泣きつかれるのか。
 エヴァンは頭を掻きむしりたかったが、せっかくのヘアセットを乱すわけにはいかなかった。
「分かったよ。話は聞く。だけどさ、俺の意見は参考以下にしてくれ」
 万歳をする花嫁に「動かないで。柔らかい、間違えた、手元が狂う」とぼやきながら、ブライズメイドはホックと格闘する。
「ありがとう、エヴァン。ルーファウスには、内緒にしてね」
 エアリスが小指を差しだす。指切りなんていつぶりだろう。時折、子供――妹かもしれない――のような彼女のそれに、エヴァンは小指を引っかけた。
「義姉さんこそ、社長に気づかれないでくれよな」
 義姉弟は秘密の約束を結ぶ。エアリスの性の基準は、あくまでルーファウスのままでなければならない。エヴァンの影がちらつきでもすれば、二人はきっとただではすまない。エアリスはベッドルームに軟禁されるだろう。エヴァンにいたっては、考えることすらおぞましい制裁が加えられるに違いなかった。
 歯形のせいで、エヴァンはまた大きな秘密をかかえてしまった。原因を睨む。私を騙しおおせるのか、とルーファウスの――こんなところまで整っている――歯列に嘲笑われている気がした。
「何だってこんな間怠っこいことしてるんだよ。しかも、傷痕ひどくなってるし。社長だったらさ、凄腕の形成の医者ぐらいいくらでも用意できるだろ」
「傷痕はね、そういうのできれいに消えるかもしれないけど。記憶は、消えないでしょ」
 長い睫毛が、緑色の虹彩も不安定にゆれている。彼女の眸が映しているのは、きっと『わけあり』の日々、あるいはその日に違いない。
 エヴァンの手がまた止まる。エアリスはまだどこか遠いところを向いたままだった。
「あの人、すごい人なの。いやな思い出、いい思い出に挿げ替えてくれる。したいこと、何でもしていいって、言ってくれて。知らないことは、あの人が教えくれるんだよ。だから、わたしにはね、たくさんのルーファウス先生、いるの」
 エアリスは指折り数えた。そのなかで、エヴァンが知っているのは、ジムのトレーナー、コンサルタントとピアノ講師、そしてシェフだ。少し前に妙に酸っぱいガレットを食べてからというものの、実はエアリスの料理が時折――六分の一の確率で死ぬ――ルーレットになるのだということを知った。そのあとで食べられるものへとリメイクするのは、いつもルーファウスなのだ。
 左手の親指から始まって、今、彼女が折り曲げているのは右手の人差指だ。そのとなりまでたわめたところで、「指、全然足りないんだけど」と、エアリスは満足の吐息をついた。
「結婚式なんて、わたし、夢にも見ちゃいけないことなんだって、思ってた。子供ころから、ずっと。それなのに、ほら見て、このドレス。わたしだけの、ウェディングドレス。祝福してくれる人も、呼んでくれた」
 エアリスは白いドレープをつまんでいる。エヴァンに向けられた双眸は、いつにも増して真直ぐだった。
「わたし、この星で、いちばん幸せな花嫁さんなの」
 エアリスのくせなのだろうか。彼女はこうして胸の前で手を組みあわせることがある。祈りとは、また違った静かな雰囲気だった。
「たくさん、幸せにしてくれてるから、あの人。わたしもね、お返し、しなきゃなんだけど。もらいっ放しじゃ、女が廃るでしょ。だから」
 俯きかけた顔を、彼女はすっと上げた。そのまま総会室の方向を見やる。
「だからね、わたし、いい加減動かなくちゃ。頼ってばっかりじゃなくて。自分で、ちゃんと。足りなくなる前に」
 エアリスの最後の呟きは、ほとんど独白だった。
 エヴァンは首を捻る。いったい何が足りないというのだろう。
 愛、というわざとらしい単語に、彼は眉をしかめた。そもそもそれなら、いつも二人のあいだからあふれている。友人、恋人、夫妻、そして同志のようなさまざまな情愛だ。金も時間も足りているだろう。何せ夫は神羅社長で、二人は十分に若い。
「金も時間も、たっぷりあるだろ」
「たっぷりあるお金、あれ、ルーファウスのだから」
「夫婦なら共有資産だ。まさか、義姉さん、自分に分の悪い婚前契約にサインしちゃったとか」
 ルーファウスは世界屈指の、いやヒエラルヒーの頂点の富豪だ。見当もつかないほどの贅を手中に収めていることだろう。
 分かりやすいのはギルだろうか。金銭絡みのいざこざは、あの男に一生ついてまわる面倒ごとのうちの一つに違いない。財貨を共有する婚姻ともなれば、慎重にならざるを得ないはずだ。たとえば資産家同士の婚姻なら、双方の積極財産を契約で守ることが通例だった。
 エアリスはスラム出身だという。ヒエラルヒーの高低差の分だけ、金品への価値観には差がでるはずだ。その差は容易に縮められるものではないだろう。現にエヴァンがそうだった。いまだにヒーリンロッジの邸宅には――調度や美術品どころか、壁紙や床材にいたるまで――目を瞠るばかりだ。ルーファウスはというと、「古めかしくて不便だ。しかも狭い」と涼しい顔で言うものだから、エヴァンは憮然とするばかりなのだ。堅実だったパートナーが奢侈に流れて、ギルを湯水のように使いこむなんてトラブルは、よくある話だった。
 それ以前に、神羅社長とスラムの女の婚姻なんてものを、会社側は想定すらしていなかったのではないだろうか。ルーファウスが気にしなくとも、法務部や顧問弁護士が静観するはずがない。契約の一項に、婚姻中の資産配分があらかじめ決められていてもおかしくはなかった。
「とんでもない金持ちとの結婚だもんな。社長が口だしできなくても、仕方ないよ」
 婚前契約の締結は、だからルーファウスの相手が誰であろうが交わされているものとエヴァンは当たり前に思っていた。だが当事者の一方がきょとんとしている。
「そんなの、なかったよ。あの人、一〇分で決めちゃったから、入籍」
「一〇分」
「契約書、あってもよかったけど。わたしのお金、わたしのお給料だけ。それでいいの」
「それはあれだな、真面目だ。じゃなくて、一〇分って何だよ、社長は迷うって言葉を知らないのかよ。でもなくて、姉さん、もうちょっと欲掻いてもいいんじゃないの。堅実すぎやしないか、それ」
「そうでもないよ。足りないぶんはね、夫の甲斐性ってやつに、甘えちゃってる」
 いささか口惜しそうに言ってから、エアリスは眉尻を下げた。彼女なりに経済的援助を受けることへの後ろめたさがあるのだろうか。
「時間、あるだろ。いっぱい働いて、ちょっとずつでも追いついていけばいい」
 エヴァンには月並みなことしか言えなかった。だがこれでいい。エアリスを慰めるのは、彼女をよりよく知る誰かでなければできない。
 神羅社長と同等のインカムを得ることは、たとえ神羅夫人でも難しいだろう。そもそも自適に暮らせるはずの彼女が、この状況に甘えないでいることにエヴァンはいつも驚いている。家事や炊事もそうだ。ギルを稼ぐことだけが仕事ではない。
 彼女の健気さだけでも伝わるといい。いや、とエヴァンは思いだす。キッチンでじっといていない妻へと向けるルーファウスの、あの顔を。エアリスと長くいっしょにいるのはエヴァンではなく、ルーファウスだ。きっと、もう伝わっている。
 そう言いながら、エヴァンは花車な肩を軽くはたいた。エアリスは何もこたえなかった。ただまばたきを繰り返している。
「時間はね、自分の力だけじゃ、どうにもならないよ」
 悲しみを帯びた声がした。
 そんな気がして、エヴァンは耳を疑った。思わず彼女を覗きこんだところで、エアリスは「どうしたの」といつもの顔をしている。
 さて、と言って、エアリスは組んでいた手をとく。と、手のひらをぱんと打ち鳴らした。
「お金は自分次第、時間は有限。忘れちゃだめだよ、ね、エヴァン」
「社長と同じこと言ってる」
「それはそうでしょ。だってわたしたち、ルーファウス先生の生徒だもの」
「怖い怖い、ルーファウス先生だ」
 エアリスはゆるゆると首を振った。
「優しい人なの。ルーファウス、とても優しい人」
 ここへ来るまでに、『親族控室』とやらで、ルーファウスが口を開けば妻のあれこればかりだった。今度は珍しくエアリスの惚気話が始まるのか。エヴァンはうんざりしかけたのだが。
「今日だって、スラムの道、いちばん安全なルート、選んでくれたんだよ。工事の様子、見てみたいっていうのもあったと思うけど。スラムのモンスター、そんなに強くないから。大きな音するところ、あの子たちってあんまり近よらないんだよ」
 エアリスの顔は、恋する女のそれではなかった。
 諭す者は穏やかでなければいけない。反駁を加えようとする相手に、そうしてまず聞く耳を持たせる。小首をただ傾げるだけで、彼女がそれをやってのけるところにエヴァンは何度も遭遇している。相手は勿論、エヴァン、そしてときどきはルーファウスだった。あの男ですら敵わないのだから、エヴァンに反論の余地がないのは仕方がない。
 言われてみれば、とエヴァンは納得する。支柱へと向かう道中、奇妙な鳴き声がしだしたのは、確かに工事現場の喧騒が遠退いたあたりからだった。
「あの子、H〇五一二のこともそう。エヴァン、容赦ないなって言ったでしょ」
 さらに彼女は続ける。すぐさまあの醜怪なモンスターの末期がよみがえる。放っておいても死ぬいのちだった。エヴァンは思わず口元を押さえる。わざわざ数にかぎりのある弾丸を費やしてまで、頭部を潰裂し、左胸にいくつもの穴を開ける必要はなかったはずだ。
「ルーファウスの優しさってね、容赦ないの。中途半端なの、いちばんつらいから」
 へへ、とエアリスは力なく笑った。彼女の口振りは、まるで他人ごとではないといった風だった。
「義姉さん」
「さっきも言ったよね。あの子たちとは、いっしょに生きていけないって。だったら、さっさとお別れ、すませなきゃね。あのね、あの人の『おやすみ』、安らかにおやすみはね、ルーファウスらしい優しさなの」
 モンスターとの共存が難しいことは、エヴァンも目の当たりにしたばかりだった。だからといって無闇と痛めつけることはしてはならない。いのちはいのちだ。エアリスに諭されて――まだ時間はかかりそうだが――何とかのみこむ努力をしようとしている。苦しみを長引かせないルーファウスのやり方は、なるほど角度を変えて見れば、それは確かに慈悲だった。
「社長ってさ、はげしいタイプなんだな、おやすみのキス」
「かもね」
 悪戯っぽく目笑してから、エアリスは吐息をついた。それは細く長かった。
「ルーファウスにはそういう相手、ほかにもたくさんいるから。おやすみのキスばっかりして、あの人、疲れちゃわないといいけど」
 エヴァンは眉をひそめる。ルーファウスにとって相容れない連中というのは、モンスターばかりではない。
 ヒーリンロッジのパブリックハウスで、エヴァンは神羅社長と勘違いされたことがある。拉致の途中、タークスに保護されてことなきを得たが、あれがルーファウス当人ならいったいどう切り抜けたのだろう。
 まずは舌先で言いくるめにかかるに違いない。損得織り交ぜた会話のなかで、相手に後者を選ばせる。その得とは、勿論ルーファウスにとっての有利でもあるはずだった。
 それが通用しないということは、きっと相手の頭には考える能力がないのだ。会話が成立しないのならと、ルーファウスはやれやれと言わんばかりに武器を手に取るのだろう。モンスターを相手取ったときと同じように。いのちに優劣をつけないということは、人間も異形も同等だということだ。だとしたら。エヴァンは改めてぞっとした。
 ルーファウスは即座にいのちの選別をし、不要と判断すれば奪うことをためらわないだろう。目前にはだかるものが、自身とそう変わらない五体のかたちをしていてもだ。人語を操るなら、いのち乞いもするのかもしれない。それを一思いに仕留めるには、どれだけの決断力が、そして胆力が求められるのか。
 エアリスは優しさだと言うが、だとすればそれは強さのことを指すのではないか。もう一つ、エヴァンには思い当たる節がある。合理性だ。
 安全なルートと言えば聞こえはいいが、果たしてそうだろうか。武器を携帯せず、体力も並のエヴァンは、足手まといだ。その彼は大事な荷物の運搬役だった。『安全なルート』と『エヴァンを守るルート』は、ニアリーイコールだ。人夫の体力消耗に配慮した最短のルートだっただけではないのか。
 それに、とエヴァンは肩を竦めた。
「H〇五一二だっけ。あいつって新種なんだろ。ほら、社長が言ってたじゃないか、個体差があるって。さっさと殺さないと、何が起こるか分からないだろ」
「え」
 エアリスはぽかんとする。エヴァンはいくつかたとえを挙げる。
「こう、もう一本手がにょきにょきって生えてきたり、分裂なんてしたりしたらどうするんだ。仲間のモンスターが助けに来るかもしれないし。あとはほら、自爆だ自爆。そんなことになったらまずいだろ。あたり一帯どかん、だ」
 エアリスが目を丸くした。エヴァンは少し恥ずかしくなる。
 怪物映画や空想科学小説に感化されすぎたかと、エヴァンは頬を掻いた。だが神羅カンパニーの科学者の生みだしたいきものたち、あれは現実だった。しかもいまだ変異の只中にあるという。
「エヴァン、痛いとこ、衝いてくるようになったね。嬉しいけど、手強いかも。だけどね」
 やっぱり嬉しい、とエアリスは言った。彼の妄想を否定しないところが、どうにも空恐ろしかった。
 エヴァンは頭を振って、怖気を払う。
「優しい人って、それってさ、社長がただ単にむだが嫌いなだけだろ」
「そういう考え方するのね、エヴァンってば。身も蓋もないこと言うの、ぜったい神羅さんちの遺伝だよね」
 血統を持ちだされても、エヴァンは簡単に頷けない。彼の無言をどう捉えたのか、エアリスがふくれた。
「ルーファウス、優しいんだから。本当だよ」
「はいはい、分かってるよ。義姉さんにはってことなんだろ。やっぱり旦那さん自慢だったんじゃないか」
「違うってば、もう」
「分かってる、分かってる」
「分かってない、分かってない。やっぱりあれだよね、あの人の普段の素行、問題ありだから、信じてもらえないのかな」
 エアリスが足を何度かばたつかせる。ドレープが波打つにあわせて、真白の光沢がエヴァンの顔を照らす。ちかちかと光が暴れるたび、彼は目をしかめた。
「否定しないけど。別にいい人だって思われなくたって、社長は気にしないだろ」
「そうなの、これっぽっちも気にしないの、あの人。ちょっと、ううん、いろいろと悔しいんだけどな、わたし」
「だからってさ、万人受けする社長って、それってどうなんだ」
「変」
「奥さんがひどいこと言ってる」
「だって、嘘、つけない。そういうところも大好きだから、いいの。ルーファウスらしくいてほしいし、あの人らしくいられないなら、人受け悪くたっていいの。だけどね、わたしの好きな人、誤解されっ放しなの、何だかもやもやしちゃうな」
「矛盾ってやつだな」
「そう。複雑なの、わたし」
「義姉さんさ、告白なら旦那さんにしてくれよ。夫婦揃ってすぐ惚気るから、俺はいつも腹いっぱいだ。胸焼けもしてきた気がする」
「だから、そんなんじゃないんだってば、もう」
 ますます躍起になる彼女から、諭す者はすっかり鳴りをひそめていた。花嫁の機嫌がどんどん斜めになっていく。エヴァンは笑いをこらえながら宥めにかかる。
「なあ、義姉さん。一〇〇歩譲って、社長の優しいところ、俺は一つだけ知ってる」
 ただし、それはエヴァンに向けた親切ではない。探偵社のクライアントの、その飼犬だ。
「あのさ、例の犬見つかったって、義姉さんから言っておいてよ。ついでにホットドッグも美味かったって」
「犬。ホットドッグ。何のこと」
「それは言えない。依頼人のプライバシーだからな」
 エヴァンは恰好をつけた。勿論、彼女の干渉を許さないのはクライアントのことだけではない。エヴァンのプライバシーにこそ大いにかかわっている。追及したいのだろうか、エアリスが身体ごと振り返ろうとする。寸前で肩を掴んで押しとどめる。と、エヴァンは慌ててつけ加えた。
「『安全なルート』もそういうことにしておくよ。助けられたのは本当のことだし、帰りも世話になるからな。社長にさ、もう一回ちゃんと礼言うよ」
「せっかくだから、お兄さん」
「何。何がお兄さん」
 ふくれっ面から一転、エヴァンに上目を向けるエアリスはにこりとしていた。エヴァンはいやな予感がした。
「『ありがとう、お兄さん』って、言ってみようか」
 ホックも残すところあと三分の一というところで、ブライズメイドの手は完全に止まった。
「難しいよ」
「恋人さんには言うでしょ、冗談。言いたいこと、言えるでしょ。同じ。ルーファウスのこと、たまにはからかってみよう」
「冗談でも、言えないってば」
「どうして」
 澄んだ眸が問いかける。「どうして」の意味を、彼は深く考えたことがなかった。
 エヴァンは、今度はエアリスを鏡にする。意を決して覗きこめば、やはり自身に欠けているものが映しだされた。ああ、またこれか。エヴァンは嘆息する。
 エヴァンとルーファウスをへだてるものは、いくつもある。だが具体的に何かと聞かれても、彼にはこたえられない。なぜか。エヴァンがルーファウスと相対したとき、いつだっていちばんに立ちふさがる壁が邪魔で、その先が見えないからだ。
「遠慮、しないで。エヴァン」
 エヴァンは下唇を噛む。彼がパートナーとのあいだにも築いた隔壁と同じ、それは遠慮だった。
「あの人、驚かせられると、面白がるから。それから、きっとのりのりで『何だ、弟』って、にやにやするね、ぜったい。ね、ルーファウスにもそういうの、遠慮、もういらないよ」
 エヴァンは黙りこんだ。彼女が言うのなら、ルーファウスは笑うのだろう。こたえが分かっているのなら安心だ。エアリスの悪戯に乗ってもいいとエヴァンは思う。だが、ほかはどうだろう。
 たとえば、神羅邸のリビングでの談話だ。神羅社長の経済論も――まるで理解の追いついていなかった当初に比べれば――頭のすみっこに少しなりとも残るようになった。意味をのみこむことができた部分から、次第に彼だけの定見を持つようになる。エヴァンはそれが嬉しかった。ルーファウスに聞いてほしいとすら思ったこともある。だが、今のところ一度も叶ってはいない。
「分かってる。遠慮って、邪魔だよな」
 エヴァンが自身の意見を言えばどうなるのだろう。ルーファウスは一笑にふすのかもしれない。万分の一の希望は、褒められることだ。それが叶わなくとも、彼の間違いを冷徹に正してくれるといい。それとも、やはりエヴァンに向けられるのは蔑視か。
 遠慮をやめたその先にある曖昧模糊とした不安が、彼に二の足を踏ませる。
「理由も分かってる。分かってるんだ、本当はさ」
 はは、とエヴァンは力なく笑った。
 遠慮は、彼の不調法でパートナーを傷つけたくないときに、そして神羅社長の応働に傷つきたくないときに現れる。結局のところ、エヴァンは遠慮という名の保身を捨てられない。
「だからなのかな。俺は冗談は下手だよ。言ったところで嫌味っぽいって白けさせるし。あんまり言わない」
「あれ。エヴァン、もしかして、恋人さんにも遠慮してるの」
 図星だ。パートナーの前で彼は自身の意見を、いまだあらわにできないでいる。エヴァンは不貞腐れた。
「だめなのかよ」
「エヴァンは恰好つけだね。それから、優しい」
「何で」
 エヴァンはうろたえた。彼女の二つの緑色は、目に映るすべてを優しいものに変えてしまうのだろうか。さすが広い世界に生きている人は違う。エヴァンの世界には満ちるほどの優しさ――それを余裕と言い換えてもいい――はない。そんな風に、思わず斜にかまえてしまう自身が情けなかった。
「だって、言葉、ちゃんと選んでるってことでしょ。言っていいことと、言ったらだめなこと、いつも考えてる」
「そんな立派なもんじゃないよ。俺が傷つきたくないだけだ」
「いいことだよ、それ。自分のこと、どうやったら大事にできるか、いちばん分かってるの自分だもの。だからね、自分のこと、いちばん傷つけちゃだめ。大切な人いるなら、尚更だよ」
 一句、一節と区切られた独特の話し方と、柔らかな声音は、いつも彼の言語野に分かりやすく染み入る。心地いいと思うほどに、ゆっくりと。だが今は愕然とした。エアリスとエヴァンとの違い、それをはっきりと突きつけられた気がした。
 エヴァンはたちまちにして劣等感に苛まれる。心中におどむそれは、優れた人へと向ける妬み嫉みのかたちになりだしている。ここからだしてはいけない。彼は慌ててラペルごと胸を押さえた。
「好きな人、傷ついてるの見てると、苦しくなる。エヴァンが傷ついたぶんだけ、きっと恋人さんもつらく思ってるよ」
「知ったように言うんだな」
 間にあわなかった。エヴァンは吐き捨てるように言った。ほら、まただ。しまったと思ったが、もう遅い。花嫁の顔が暗然とする。
「知ってるから。わたしもね、自分のこと傷つけて、まわりの人、たくさん傷つけたから」
 エアリスが自嘲した。両の手が膝の上でこぶしをつくっている。ぎゅっと握りつぶしたいのは、過去の後悔なのだろうか。
「ごめん」
「どうして、謝るの。エヴァン、言いたいこと言っただけ。そうしてって、言ったの、わたしだよ」
 その調子、とエアリスは続ける。嫉妬というおどみを吐露したというに、しかしエヴァンはっすっきりとしない。
「だって、義姉さん、へこんでるじゃないか」
「そうなんだけど。エヴァンのせいじゃないよ。これはね、自分のせい」
「いやなことを思いださせたのは、俺だ」
「じゃあ、そういうことにしておきますか」
 エアリスは指を突きつけた。そして「エヴァンが悪い」と屈託なく言った。
「でもね、本当、あんまり気にしなくていいから。ときどき、あるの、こういうこと。わたし、いっぱい失敗してきたから。やり直せないのにね。思いだすと、気分、やっぱり滅入っちゃう」
 そう言って、エアリスは両手をぴんと伸ばし、五指も広げた。それで肩の力が抜けたようで、白い指にはもう悔恨は握られていない。
「義姉さんでもあるのか、そんなこと」
「あるよ。あるに決まってる。最初から全部正解だけ選んで、生きていける人なんて、いないよ」
 いたら怖いでしょ、とエアリスはかろやかに笑った。エヴァンははっとする。にわかにものごとの本質が見えかけた気がした。
 広い世界なんてものは、一から存在するものではないのだ。産声を上げたとき、人は自力で動けない。口は利けず、目すらも覚束ない。わずかな聴覚だけが頼りの、まるで点の世界に生れ落ちる。点を線に、線と線をつないで面に。そうして世界を広げていくのは、結局は自身のやり様次第なのだ。
 義姉との今までの会話がいくつも思いだされる。直近でいえば、つい先程知ったばかりのエアリスの――モンスターを一つのいのちと捉える――倫理観だった。常人にはおよばない面を構築するために、彼女は何を思い、何をなし、そして何をし損ねたのだろう。
 そうして一つ、二つ、三つと面が連なって築き上げられた彼女の世界は、それは広くて当たり前だ。
 エアリスは彼とそう年齢が変わらない。だというのに、彼女から時折垣間見える達観した顔は。エヴァンは何だかやるせなくなった。世界の広さのぶんだけ、苦心があったに違いないのだ。
「義姉さんって、もしかして苦労人なのか」
 魔王が、エヴァンの脳裏にちらつく。
「どれが苦労だったかな。いろいろ、あったから。だけどね、苦労人っていうより、多分、下手なの、わたし。正解の選び方。頼れる人、少なかったから」
「悪い。立ち入ったことだったよな」
 エアリスの両親や、彼女の現在の交友関係が頭をよぎる。エヴァンは肩を縮こませた。エアリスが首を振れば、おのずからイヤリングもゆれる。貴石よりも光沢のある彼女の眸に、日光が差しこむ。
「今はね、だいじょうぶ。頼れる人、いるから。ルーファウス、いるから。もう、失敗しないように、ちゃんと自分のこと大事にしてる。甘やかしてる」
「甘やかす」
「そう。ルーファウスとわたし、二人がかりで思い切り。ね、贅沢でしょ」
 幸せの笑み顏と相俟って、エアリスがただただ眩しかった。
「ルーファウスのこともね、そう。二人で一生懸命、甘やかしてるの」
 エヴァンもつられて和みかけたところで、咽せた。
「社長を甘やかすって、社長が甘えるってことか。義姉さんに、社長が。あの社長がか」
 息のできないエヴァンを介抱するためなのだろう。立ち上がりかけたエアリスを押しとどめながら、エヴァンはやはり大きく咳きこむ。
「なあ、義姉さん。社長を寝かしつけてるって聞いたんだけどさ。子守歌歌ってるっていうの、あれって本当だったのか」
「ルーファウスったら、そんなことまで話してるの。うわあ、思ってた以上に、なかよし」
 嬉々として拍手する彼女を尻目に、エヴァンは後頭を掻いた。自尊のかたまりのような男が花車な女にすがり、甘えているところがいよいよ現実味を帯びてくる。
 ルーファウスと、子守歌やお伽噺。そんなミスマッチに惑わされてはいけない。肝心なのは、エアリスが相手に怯むことなく歌を聴かせ、ルーファウスが児戯じみたそれを相手に許しているということだ。重視すべきは、二人の日常に隙やゆるみが生じたところで、それが許容できるか否かなのだろう。
 あの憶測。
 信頼関係の延長線上にある、遠慮のなさ。それこそが。
「甘えか。そうか、甘えればいいんだよな」
 あながちはずれてもいなかったらしい。
 神羅夫妻が『厚かましさ、図々しさ、気兼ねなさ』にいたるまでの、これが秘訣なのか。エヴァンは背中と尻のむず痒さを、身体ごとよじってこらえた。
「あの社長にできるなら、俺にだって。いやいや、だけど」
「ごめん、ごめん。エヴァンの話の途中なのに、わたしのこと話しこんじゃった。エヴァン、何でも聞いてくれるから、つい」
「いいよ。お相子だ」
「ね、わたしたちも、甘やかしあいっこ、してるみたい」
「甘やかすっていうよりさ、言いたいこと言いあってるだけっていうか。何て言うか」
 義姉は異母兄より実の姉弟のようだ。エヴァンは気恥ずかしくなって、それ以上は言えなかった。
「それって、いい兆候だよ。わたしのこと、好きなだけ練習台にしてね。ついでに、ルーファウスも。あれ。エヴァンたら、そんな顔、するかな」
「ついででこなせる相手じゃないだろ、それ。いっきにハードモードだ」
「そうかな。エヴァン、最近チャレンジしてると思うけど。ここへ来るときだって、そう。ルーファウスにけっこう噛みついてたよ」
 デスロードを振り返って、エヴァンは青くなる。あの男をサイボーグと貶し、モンスター注意報をなじったあれは、確かに彼だった。いのちがかかっていたのだから仕方がない。ただ、とエヴァンは考え直す。ルーファウスの返答は手厳しかったものの、そのどれにも憤慨した様子はなかった。
「あの人に何でも言えるようになったら、もう、怖いものなしでしょ。打たれ強くなるよ」
「打たれるの前提なのか」
「だいじょうぶ。あれでも、配慮、できるようになったんだから。あの人、ずけずけ言うけど、むっとしないで、ちゃんと聞いてみて」
「むっとするのは、義姉さんだけだろ。普通は足が竦むんだ」
 白目を剥きそうなエヴァンを、彼女はくすくすと笑う。
「じゃあね、怖がらないで。ちゃんと聞けば、けっこういいアドバイスくれてるの、分かるよ。ね、そう思わない」
 エヴァンは渋々頷く。リビングでの雑談の端々に、ルーファウスは知恵のかけらを落としてくれている。たとえば経営コンサルタントか。ルーファウス講師の持論はシビアだが、専門家と呼べるだけの資質には恵まれている。仮に社長退陣の憂き目に遭ったとしても、あの男ならそれだけでも食うに困らないだろう。正規に雇えば法外な報酬を吹っかけられそうだが、今のところ請求されたことはない。
「わたしに言いたいこと言って、度胸はルーファウスで鍛えよう。これだけがんばれば、本番、きっと自然にできるよ」
「本番」
「恋人さん、待ってると思うな。言いたいこと、言ってくれるの。エヴァンが甘えてくれるの」
 エヴァンはふと思いだした。彼が何かを言いかけては口を閉ざす、そのときの相手の残念そうな顔をだ。
 パートナーが両手を差しだして待っている。彼はその手を取っていいのだとは分かっている。だが。
「へこませるかもな。さっきの義姉さんみたいにさ。ひょっとしたら怒らせるかもしれない」
「そうなったら、謝るしかないね。謝ってるのにくどくど言ってくるようなら、相手も悪い。今度はエヴァンが怒るの」
「俺まで怒ったらどうなるんだ」
「喧嘩、だね」
 エアリスがファイティングポーズを取る。エヴァンは思わず吹きだした。
「義姉さんはあれだな。すぐに喧嘩させたがる。乱暴者だ」
「殴りあえって、意地悪言いあえって、そういう意味じゃないよ。たとえです、たとえ。溜めこむのよくないでしょ。言うべきことは、言わなくちゃね」
「最初からそう言ってくれたらいいのにさ。義姉さんは手も足もすぐにだすから、誤解する」
 エアリスがむくれた。エヴァンは肺がしぼむほどに大笑いし、反動で深く息を吸いこむ。新鮮な酸素に満たされて、胸がすっとした。
「遠慮、しなくていいけど、配慮も忘れないでね。さっき、すぐに謝ってくれたでしょ。そういう素直さ、エヴァンのいいところだよ」
 なるほど、彼の怯懦も見方を変えると正の意味になる。いささか照れつつ、エヴァンはまた考えこむ。
 遠慮はしないが、配慮はする。語句の意味するところは分かる。要は利己的――自身のために気兼ねはしない――と、利他的――相手の気持ちにはよりそう――のバランスが大切なのだろう。あとはなせるか否かだが、エヴァンには幸いなことにちょうどいい見本がある。まずは二人をじっくりと観察するのだ。すぱっと切れるナイフのような遠慮のなさはルーファウスから、あたたかなブランケットのような配慮はエアリスから。
 エヴァンは床の一点を見つめる。唸る。
「極端すぎる。参考になるのか、これ」
「そうやって悩むエヴァンが、エヴァンらしい。だけどね、好きな人に、言いたいことずっと言えないでいるの、つらいよ」
 エアリスはいったん口を噤んだ。大きな眸が聖具室をさまよう。エヴァンもそのあとを追いかけた。
 白い漆喰の壁面をずらりと飾るのは宗教絵画だ。その下には背の低いチェストが並んでいる。きっと祭儀の道具や衣装が入っているのだろう。何か儀式の予定でもあったのだろうか。豪奢な衣装のいくつかがコートラックにかけられたままだった。色褪せている。きっと片づける暇もなく避難したに違いない。最奥のニッチには聖人らしき偶像が据えられている。エヴァンは何とも言えない気持ちになった。信者どころか代弁者である聖職者にすら、神は隕石の襲来を啓示しなかったらしい。
 神秘を信じないエヴァンが生き延び、今、ここにいることが不思議だった。
「いらないがまんだよ。そんなこと続けてたら、エヴァン、息できなくなっちゃう。エヴァンらしいところ、少しずつ、死んじゃう」
 ああ、とエヴァンは吐息をつく。これもまた、彼女の経験談なのだろうか。だとしたら軽んじるわけにはいかない。
「息継ぎ、上手にできる場所ってね、意外と少ないんだよ。今、エヴァンがいる場所、大事なんでしょ。だったら、ちゃんと息できるようにしておかなきゃ、だめ」
「義姉さんは。息、できてるの」
「勿論。ルーファウスのとなり、すごく息しやすいの」
 ニッチに向けられていた双眸が最後に捉えたのは、何もない漆喰だった。いや、とエヴァンは首を振る。エアリスが見ているのは、壁を突き抜けた先にある総会室だ。
「やっと見つけたの、わたしだけの」
 やくそくのち。小さなくちびるが、音もなく動いた。すぐに彼女は「何でもない」と言った。
「あのね、これ、息できる人だけの特典なんだけど。わたし、言いたい放題やりすぎて、ルーファウスってばときどき拗ねちゃうの」
「拗ねるのか。社長が拗ねるのか。あの顔で、あの図体で拗ねるのか」
「そう。かわいいから、たまに見たくなっちゃう。言いたい放題、言っちゃう。倍返しに遭うけど」
 そうなったら、三倍返しするから。言いながら、エアリスはやはりファイティングポーズを取るのだった。とても嬉しそうに。
「エヴァンもね、きっとエヴァンしか知らない恋人さんのかわいいところ、見られるから。楽しみにしていてね」
 拗ねるパートナーをかわいらしいと眺められる余裕が、いつかエヴァンにも生まれるだろうか。パートナーの前で、気兼ねなく機嫌を損ねることも。
 ルーファウスとエアリスのように。
 羨ましがるのは、二人のいる世界の広さではなかったのだ。その広げ方だった。面と面をつなげるときの阻害を乗りこえる知恵や胆力だ。指を咥えて見ていても、エヴァンの点は線にすらならない。せっかくメテオショックを生き長らえたいのちだ。いい加減、立ち止まってばかりもいられない。
「ありがとう、義姉さん。俺、ちょっとすっきりした気分だ」
「ありがとう、だけじゃなくて、お礼ほしいんだけど」
「え」
「わたし、言ったでしょ。優しいだけじゃいられないって。ギブアンドテイク、だよ。だからね」
 がめついな、とからかおうとしたところで、エヴァンは言葉をのみこんだ。エアリスが祝いの日に不つりあいな顔をしている。
「ね、エヴァン。お願いがあるの」
 朝から何度か見かけたそれは、少しさびしそうな微笑みだった。ドレスに爪を立てないよう、彼女は手を膝の上で組みあわせている。
「エヴァンはね、無理に神羅さんちの人、ならないで」
「兄弟、兄弟って連呼するのにな」
「押しつけたいわけじゃ、ないんだってば。あのね」
 エアリスが何かを言いあぐねている。
「わたし、あなたたちのこと『兄弟』って、すぐまとめちゃうけど。だからって、ルーファウスのこと、『お兄さん』って呼んでほしいって、無理じいしてるわけじゃないの。それ、エヴァンが決めることだから。だけど」
 もじもじと絡ませていた指が、ぴたりと止まる。
「ルーファウスとエヴァンは兄弟、半分だけでもね。それは本当のことでしょ。血ってね、生まれ持ったものだから。変わらない。ずっと、ずっと、ついてまわる」
 父親と母親、その二人の父親と母親、その四人の、とエアリスは続けた。エヴァンはたかが一滴の血の、その濃さに圧倒される。
「皆から生まれた証。大切だけど、だけどね、それだけでいい。振りまわされたら、だめ」
 トーンこそ彼女らしかったが、エアリスはいつになく真摯だ。エヴァンを諭しながら、まるで彼女自身に言い聞かせているかのようだった。
「エヴァン、探偵さんのお仕事、好きなんでしょ」
 少しためらったあと、エヴァンは頷く。義姉に居場所を見抜かれるほどの、手落ちだらけの探偵だ。それでも、と彼は思う。成功報酬にそえられる感謝が、とても嬉しい。くだんの愛犬家などは、タウンゼントファイル始まって以来の喜びようだった。依頼時と同じように涙と鼻水と垂らして、それらでべちゃべちゃの両手で握られた強さを、エヴァンは忘れられない。
 そんな『愛犬と鼻水』ファイルは、彼の転機だった。大きな都市の、小さな幸福。勿論、目指すところは『謎が謎を呼び、陰謀渦巻く大事件』ファイルで、これは譲れない。だが、そのあたりにうずもれてしまいそうな些細なファイルも、こつこつと集めてみたいとエヴァンは思っている。
「いい仕事だよ。ちゃんと軌道に乗せたい」
「エヴァンのしたいこと、『エヴァン神羅』さんじゃ、きっと難しいね」
「神羅を名乗るなんて、目立ちすぎるからな。そもそもだ。俺さ、似あわなさすぎだろ、神羅姓」
 エヴァンがわざと眉をしかめる。エアリスの弾けた笑み声に、彼のそれも重なった。
「探偵さん、極めてね。事務所もきっと、息のできる場所。エヴァンらしくいられるところ」
 だといいけど、とエヴァンは苦笑した。だが少なくとも神羅姓を背負うよりは、呼吸に負担はかからないはずだ。
「あとは。そうね、配達員さんも続けてね。月一回か二回くらい、ルーファウスにも、オンラインショッピング、ぽちぽちしてもらおう」
「社長の荷物はいやだよ。運びたくない。やばいものが入ってるに決まってるからな」
「爆弾とか」
「エッチなビデオディスクとか」
「何それ」
「今のなし。聞かなかったことにして。ていうかさ、爆弾は勘弁してくれ」
「冗談だよ。あの人なら、そんな出所の分からないもの、買わないもの。会社の人に、つくってもらったほうが、早いしね。ルード、そういうの上手なんだって」
 彼の脳裏に光るのは、強面のスキンヘッドだ。見目とは真逆の――秘書にも裏切られた今、あの会社にたった一人の――常識人ではなかったのか。エヴァンは首を横に振った。
「神羅カンパニーってやばすぎるだろ。やっぱりあんまりかかわりたくない」
 エヴァンはげっそりする。まあまあ、とエアリスに宥められるものの釈然としない。
「ぽちぽちなんて口実、なくても会ってほしいけど。でもね、これも、エヴァン次第。いやなら、会わなくてもいいの。だけど、一つだけ、お願い」
 エヴァンを一心に見つめたまま、彼女は続ける。
「ルーファウスのこと、たまにでいいから、気にかけてあげて」
 まるで少しの留守を託すような、そんな軽い調子だった。しかしどうしてだかエヴァンはまごつく。
「それがね、お礼。わたしのほしいもの」
「何で」
 エヴァンの声が掠れた。
「義姉さんがいるだろ。なあ、いるよな」
 不安の正体がすぐに見えた。これは外出ではなく、不在だ。あのルーファウスを他者が気遣わなくてはならないほどの。きっと長い。
「逃げるとか逃げないとか、関係あるのか。どこにいくつもりだよ、義姉さん」
 エアリスは目を瞠った。
「俺はいやだよ。社長の面倒は奥さんが何とかしろよ。社長のことはさ、義姉さんが心配したらいい」
 エヴァンは一方的にまくし立てる。エアリスに口は挟ませない。そうして幾重にも連ねた言葉で、悲運のアトモスフェアを散らしてしまいたかった。
「ずっと、そうしたらいい」
 エアリスは顎をつまんで、困ったなあ、と唸った。
「意外と鋭いね」
「意外は余計だ」
「じゃあ、さすが名探偵さん」
「ごまかさないでよ、義姉さん」
 エヴァンはきつく言う。
「せっかくの結婚式なのに、何でそんなこと言うんだよ」
「こんな日だから、だよ。エヴァン、きっと忘れないでいてくれる」
 薄い目蓋を、エアリスがしきりにしばたたかせている。ちかちかと光って見えたのは偏光のアイシャドーだろうか。いや、とエヴァンは切なくなる。薄く張った涙なのかもしれなかった。
「どこにも行くつもり、ないよ。行きたくないの。わたし、ルーファウスといっしょにいたい」
 だけどね、と彼女は力なく首を垂れた。
「ほら、わたしって神羅夫人でしょ。いつ、何があるか分からないから。もしものとき、ルーファウスのこと、一人にしたくない。そのあとも、ずっと」
「もしもって、何だよ。怖いこと言うなよ」
 ルーファウスの銃創が、エヴァンの拉致未遂が、そしていまだ正体の知れぬ魔王がよぎる。手汗がどっと滲む。ドレスに染むといけない。エヴァンはいったん手を放した。
「俺よりもさ、適任はいくらでもいるだろ。そもそもだ。やばいことになる前に、もっと腕っぷしのいい人たちを増やしたほうがいいんじゃないのか。ほら、タークスとかさ」
「それも大事だけど。ちょっと、意味が違うの。何て言えばいいのかな」
 エアリスは一呼吸した。手折れた花のような背中が、しゃんと伸びた。
「あの人の近くにはね、普通の人が必要。普通って言ったら、失礼かな。ね、エヴァン。八〇〇ギルのチョコレートって、どう思う」
「高」
 エヴァンがすかさず短く叫べば、でしょ、とエアリスは両手を叩いて喜んだ。
「八〇〇ギルって、どんな味がするのかな。義姉さんは食ったのか」
「すごく、すごく、美味しかった。でもね、ルーファウス、いらないって」
「勿体ないな」
「だよね、勿体なさすぎ」
 富豪との金銭感覚の違いを思い知ることは、何度かあった。困ったことになったのが、ティーカップだ。
 ルーファウスが妙なことを言いだし、エヴァンがお茶で咽せる。悲しいかな、たびたびあることだった。そのさいにティーカップを落として粉々にしたことがある。エヴァンは慌て、そしてすぐに弁償すると申しでた。だが。
「気にするな。五揃いのうちの一つが欠けたところで、わが家に来る客人はお前くらいのものだ。先日、エアリスも同じものを割ったのだが、残ったぶんでちょうどこと足りる」
 ルーファウスが告げたブランドは、エヴァンですら知っている白磁の名窯だった。エヴァンはいっきに青ざめた。
「いや、だめだって、社長。これいくらすんの。ちゃんと買って返す」
「アンティークだからな、市場にはすでにでまわっていない。仮に見つけたとしても、金額はつけがたい。だがせいぜい三〇〇万ギル程度だろう」
「高」
「額面云々より、エアリスの気に入りが減ったことがまずいな。もう割るなよ」
「だめ。次から手がふるえて、カップ持てない。なあ、社長。三〇〇万ギルを普段使いにするなよ。頼むよ」
「博物館に展示するほどでもない、中途半端な陶磁器だ。そんなものは使わなければ何の役にも立たないだろう。それにな、エヴァン。うちにある食器は、ここが建った当時に揃えられたものばかりだ」
 親父の成金趣味丸だしの逸品だらけだぞ、とルーファウスはにやりとした。それ以来、エヴァンは神羅家で食事をするときには、スプーン一つにいたるまで注意を払わなければならなくなった。
 破損したアンティーク代金は、今もなお返済を続けているところだ。エヴァンの意地を、ルーファウスは面白がって受け取っている。
 母親の遺産で賄おうかとも考えた。プレジデント神羅の慰謝料が、非嫡出子の手を経て、嫡出子のふところに戻る。珍妙なギルの流れだと思いながら、エヴァンは納得がいかなかった。それでは神羅のものを神羅に返すだけだからだ。
 何よりも、神羅の大金に手をつける気力はいまだに湧いてこない。
「そういう感覚。高いって、ちゃんと言える人。この感じ、分かるかな」
 すぐに頷くことができたのは、エヴァンが曲がりなりにもルーファウスを知っているからだった。
 ルーファウス神羅が民間人と接点を持つことは難しいだろう。仮に一〇人を集めたとして、そのうちの何名があの男を目の前にして、いつもの自分のままでいられるのか。
 それを思うと、エヴァンは彼自身に少しだけ感心した。
「俺って、もしかして成長してるのか」
「してる、してる」
 神羅社長のステータスを度外視してつきあうことも、難しいだろう。少なくともエヴァンはルーファウスのステータスを、自ら利用したことはない。それはあの男への畏怖以前の問題だった。エヴァンにも矜持がある。一度、縁故に頼って職業の斡旋を考えたことがある。しなくてよかったと、今は心からそう思っている。
「あと、ルーファウスのこと、怖がらない人」
「怖いけど」
「それはね、きっとだいじょうぶ」
「何で」
「考えてみて」
 エヴァンは鼻にしわをよせる。心当たりが一つある。
「大事なのはね、あと二つ。あの人のプライベートの顔、ちょっとでも知ってる人」
 エアリスは人差指と中指を立てた、すぐに一本を折る。
「本物の溜息、つかせられる人。ルーファウス、溜息ついたら、どうしたのって聞いてあげられる人」
 残りの一本も曲げたところで、彼女はぎゅっと握って、そして開いた。
「それができるの、わたし、エヴァンしか知らないから。あのね、ああ見えて、あの人、エヴァンに一目置いてる。だって、あなたとお喋りしてるときのルーファウス、のびのびしてるもの。すごく貴重。ルーファウスの相手してほしいのは、エヴァンらしいエヴァン」
 エアリスからただ一人の男への情愛がほとばしる。もし目に見えたら、エヴァンは目を開けていることが困難だっただろう。きっと真昼のウォーターファウンテンのように、こまやかなしぶきが乱反射して、きらきらと眩しいに違いないのだから。
「一方的でごめん。わたし、ルーファウスの妻だから、夫のこと、大事にしたい」
 同じ噴水を、エヴァンは総会室でも感取した。ルーファウスとエアリスのあいだで交わされる愛情が、彼を圧倒する。神羅夫妻は何においてもスケールが違う。
 立ちつくすエヴァンに、何を思ったのか。エアリスはもう一度謝った。
「やっぱり義姉さんたちって、似た者同士だ。社長も同じようなこと言ってたからさ」
「そうなの。嬉しい」
 エアリスが花開く。それは彼女に似あいの笑い方だった。この先も続くといい。エヴァンは心からそう思い、思うだけでは何もなせないのだと自らを諫める。
 二人の大切にしているものが欠けないよう、エヴァンに助力できることは何か。プライベートまで踏みこめるエヴァンになら、手伝えることがあるはずだった。
 近よらないと決めたはずの、魔王。星何某。その正体がいよいよ気になる。
 エアリスの事情に神経質なルーファウスのことだ。聞けば、恫喝されるのかもしれない。あの男に逆らってでも、しかしエヴァンは知りたかった。初めてそう思った。興味本位ではなく、心配だった。
 エヴァンが警戒すべきは、魔王そのものではなく、己の無自覚や無知だ。
 それらは不意の敵になる。
 まずは彼に流れる血筋への無自覚か。
 ルーファウス神羅に似た民間人が通う山地がある。そんな情報が尾鰭をつけて広まれば、いったいどうなるのだろう。エヴァンがプレジデント神羅の落し胤だと露呈すれば、さらには。彼の足取りのせいで、ヒーリンロッジにいる男が神羅社長だと第三者にリークされてしまうのかもしれなかった。
 無知もまた恐ろしい。
 エヴァンはまた二箇月前の拉致未遂を思いだす。人違いではなく、次こそルーファウス神羅の血縁者として、何らかの厄介ごとに巻きこまれる可能性はゼロパーセントではないのだ。神羅の敵対勢力や内情を知らないことで、エヴァンが何かへまをしたら。たとえば相手の手中に落ちたとき、何の情報も持たないエヴァンの使い道は、ただ一つだ。彼自身が人質となり、交渉材料に使われるようなことにでもなれば。
 エヴァンはいっきに落ち着かなくなる。
 きっと二人は彼を救ってくれるだろう。ルーファウスに「間抜けめ」と呆れられながら、エアリスに「マテリア、犯人にぶっ放しちゃうところだった。究極のやつ」と半べそをかきながら。エヴァンの動向次第で、神羅夫妻に危害がおよぶようなことがあれば、彼はどちらにも申訳が立たない。魔王も、エヴァンの無知のうちの一つだ。何者か知っていれば、せめて逃げることくらいはできるだろう。
 にわかにエヴァンの胸のうちが騒ぎだす。熱い。ルーファウスが『拍動』と呼んだあれだ。
 エアリスの言った通りだった。血筋は一生入れ替えることができない。神羅としての生き方を受け入れるか否かは、また別の問題だ。だが、この先、エヴァンが自身の言動一つにも気を配らなくてはならないことに変わりはないのだろう。
 名前を呼ばれて、はたとわれに返る。
「どうしたの。また、自分の世界、行っちゃったのかな。あれ、何がおかしいの」
 エヴァンの頬は知らずとゆるんでいた。まさかルーファウスを心配する日が来るなんて、と。
「社長のことはさ、やっぱり義姉さんが面倒見ろよ。だけど一応、覚えとく。ティーカップ代、踏み倒す気はないからな。いやでもつきあいは続くんだ。それに」
 エヴァンはいったん言葉を切る。何だかだと、神羅夫妻には世話になりっ放しだ。いい加減、不可視の負債も溜まってきている。
「借りはつくらない主義だ」
「頼もしい」
 ようやくホックを留め終えて、エヴァンは額の汗を拭う。ベールをかぶせられたエアリスが立ち上がった。衣擦れの音とともに、ゆっくりと振り返る。
 エヴァンはただただ恍惚とするばかりだった。


「義姉さん、ほら、ちょっと屈んで」
 教会堂の北側にある中庭を抜けた二人は、再び西がまえの中央扉前で足を止めた。相変わらず雲は一つもない。太陽はすでに中天に差しかかっている。二人の影は短い。
 花嫁が膝を折るのを待って、エヴァンは最後の仕上げをした。ベールダウンだ。
「完璧だ」
「これだけは、お母さんに頼みたかったな。きっと喜んでくれたはず。ううん、やっぱりどうかな。ルーファウスに平手の一発くらい、お見舞いしたかも。あとはね、箒でお尻叩き。それから」
「なかが悪いのか。社長と、義姉さんの実家の人って。あ、ごめん」
 エヴァンはしどろもどろになる。エアリスが不思議そうに首を傾げている。
「ごめん。俺さ、義姉さんの両親が、その、亡くなってるって聞いてたから」
「お母さん、生きてますけど」
「へ」
「ん」
 二人は申しあわせたように首を捻る。そしてそれぞれに、ああ、と溜息をついた。
「ルーファウスったら、お話、また大事なところ端折ったんでしょ。ね、それ、いつ聞いたの」
 九月の、ルーファウスの突然の電話のことを、エヴァンはかいつまんで話した。犬探しやホットドックのくだりは、勿論除外した。
 しばらく黙っていたエアリスが、あのね、と口を開いた。
「亡くなったのは、本当のお母さんと、顔も知らないお父さん。わたしの小っちゃなころのこと。育ててくれたもう一人のお母さんはね、元気だよ」
「社長。社長って、本当社長だな。性質、悪すぎるだろ」
 式次の進行役ほしさに、妻の悲話を引きあいにするとは何ごとか。ルーファウスのやり方にむっとしかけたところで、思い止まる。先入観に逸って、決めつけてはいけない。深呼吸をする。考えろ、とエヴァンは自身に言い聞かせた。
 なぜ、ルーファウスはエアリスが両親と死別していることを明かしたのか。それは情に訴えかけるためではなかった。発端はエヴァンだ。友人はいないのかと聞いた、その流れからだった。
 何で、と、あのときエヴァンが乞うていれば、ルーファウスは彼女の養母のことまで話しただろうか。きっとそうしただろう。あの男は意外にも鷹揚で、聞いたことには――ときに皮肉を交えながらも――きちんとこたえてくれる。ルーファウスが目の色を変えるのは、男の妻の『かわいそう』にかかわることくらいのものだ。あとはエヴァンの問題で、聞けるか聞けないいかは彼の胆力次第だった。
 何で、と、しかしあのときのエヴァンは聞かなかった。
 ああ、また遠慮だ。
 ルーファウスにではなく、エアリスへの遠慮だった。
 エアリスの身の上は、これまでも折にふれてはぐらかされてきた。話題の矛先が彼女の個人的な部分に向くたび、いつのまにやらエヴァンの――ほとんどが彼の近況の――話に挿げ替えられてしまう。出身のこともそうだ。彼女がスラムに住んでいたのだと、エヴァンはここに来る道中に知ったばかりだった。
 そんなことはたびたびあったが、気づいたところで彼は話を蒸し返すことができなかった。何で、とエヴァンが口を開こうとすると、決まってエアリスはさびしそうな顔をしたからだ。
 今なら分かる気がした。あれは確かにエアリスの配慮だった。
 彼女から得たこたえは、きっとエヴァンが持て余すたぐいのものなのだろう。だが秘密をかかえ続けるということは、窮屈に違いない。だからなのか、近ごろはぽつりぽつりと秘密がこぼれ始めている。このまま明かしてくれたらいいのに、とエヴァンは思う。
「エヴァン、お母さん役も引き受けてくれてたの」
 エアリスが茶目っぽく言った。エヴァンは大袈裟に肩を竦めて見せた。
「サービスだよ。母親役なんて聞いてなかった。一人七役だったはずなのにさ」
 エヴァンはやれやれと思う。九月のあの日、携帯端末の先にいたのはただの男だった。エヴァンは同性の情にほだされたのだ。だからこうして一人七役もの大任を負っている。
「ありがとう、お母さん。じゃあ、次、父さんと義弟君の出番だよ」
 エヴァンは腕を折り曲げる。エアリスがそっと指をかけた。
「なあ、義姉さん」
 何、とエアリスはかろやかにこたえる。
 エヴァンは首に食いこむストラップを直す。それから吊り紐に提がる機器を見下ろす。
 カメラを見咎めかけたルーファウスを、エアリスは止めた。エヴァンならいいよ、とまで彼女は言った。写真を撮ることの何がいけないのか、それを許す気になったのはどうしてなのか、本当のところは分からない。ただ、エアリスがエヴァンに遠慮をやめたらしいことは明白だった。
 だからエヴァンも遠慮はほどほどにする。
「困ったことあったら、困ってなくてもだ。何か話したいことあったら、言ってよ」
 そもそもの話、エヴァンが配達員のていでヒーリンに呼ばれるようになったのは、彼女のためだった。彼女が退屈な思いをしたり、一人に憂えたりしないようにという、ルーファウスの計らいだ。
 ならば、とエヴァンは息をのむ。もう少し踏みこんでみようか。エアリスにあの切ない顔は似あわない。
「俺にできるのは聞くことだけだけどさ。気晴らしくらいにはなるだろ」
 夫妻の夜の秘密も、まあ適当に。そうつけ加えれば、エアリスは小さく笑って頷いた。
「大抵のことには驚かないから。いや、驚くかもだけど、どん引きはしないかな。あとさ、口だけは堅い自信あるよ。義姉さんの旦那に、どっちもしこたま鍛えらえたからな」
 エヴァンが茶化して言えば、細い腕がわずかにふるえた。ややしばらく、それは止まらなかった。
「すごいね、エヴァン。配慮、もうできてる」
 ベールの下から鼻を啜る音がした。
「泣くにはまだ早いよ。泣くなら、社長にバトンタッチしてからにしてほしい。あとが怖いから。ていうかさ、やっぱり社長は怖いだろ」
「怖さの種類、違うでしょ。ね、エヴァン」
 言い当てられて、エヴァンは苦笑する。ルーファウス神羅と予期せぬかたちで出会ったときの、あの得体の知れない恐怖ではない。ルーファウスもただの男だということを、エヴァンはすでに知っていた。エヴァンが恐れているのは、妻を泣かされた夫の報復だった。
 この涙はさっさとルーファウスに託して、もっと大きな喜びのそれに変えてもらうといい。
「義姉さん、行こう」
「はい、お父さんでお母さんで、義弟君。エヴァン」
 扉を開ける。堂内に響き渡る重厚な音こそ、花嫁の産声だった。
 ウェディングアイルを、エアリスのこれまでの人生を、二人は静々と進む。
 一歩、また一歩。
 一年、また一年。
 エアリスは今、何歳のころのエアリスを思いだしているのだろう。
「わたしの花婿さん、すごくきれい」
「否定はしないけど。義姉さんのほうがきれいだから」
「それって、配慮。それとも、忖度」
「どっちもって言ったら」
「エヴァンったら、成長スピード、早すぎ」
「じゃあさ、遠慮からやり直そうか」
「だめ。せっかくの成長、勿体ないでしょ」
 七歳の幼女は、何を。
 そえられるだけだった手が、エヴァンの右腕をぎゅっと握った。本当に掴みたかったものは、いったい何だったのだろう。
「ルーファウス、すごく驚いてるね」
「え、嘘。どこが」
「ほら、片方の眉毛だけ、ちょっと上がってるでしょ。あの人の、変なくせなの」
「言われてみれば、そんな気もするような。言われなきゃ、さっぱり分からないような。よく分かるな」
「いつも、見てるから。わたし、ルーファウスのこと」
「はいはい」
 一七歳の少女は、何を。
 ダークスーツの上に映える白い指が、小刻みにふるえている。大丈夫、それは過去だよ。エヴァンの囁きに、エアリスはしっかりと頷いた。
「わたしのこと、馬子にも衣装って言うよ、あの人。きっと、そう」
「まさか。仮にも花嫁にそんなこと言わないだろ」
「ね、賭けよう。わたし、『言う』に、バタークッキー。バスケットいっぱい、焼いてもいいよ」
「もらったな。『言わない』に俺は、そうだな、エッジの参番アベニューのシュークリームだ」
 二二歳の彼女は、何を。
 するりと抜け落ちそうな手の甲に、エヴァンは力強く左手を重ねた。ここで取りこぼせば、エアリスは迷子になってしまうような気がした。
「ありがとう、エヴァン。また、支えてくれた」
 そして、現在にたどり着く
 二五歳の花嫁は、何を。
 身廊と袖廊の交差するところ、その真上のドームから光のスコールが祭壇に降り注いでいる。ウェディングアイルの終わりにいるのは、現在でエアリスを待っているのはルーファウスだ。
 ルーファウスが左手を差しだす。エヴァンはその大きな手のひらに、小さな手のひらを乗せた。花嫁を見、それから花婿を見据える。二つの手のひらを、エヴァンは気づけば両手でつつみこんでいた。
 ルーファウスがしっかりと頷く。手袋を持つ右手に力が入ったのだろう。白革のそれが革鳴きしている。
 エヴァンはほっと息をついてから、父母兼義弟は司祭になるべく内陣に上がる。その途中で危うく転びかけたのは、花婿の暴言のせいだ。
「驚いた、エアリス。馬子にも衣裳だな」
「ほらね」
「ひどい。これはひどい。社長、こんなときくらい、素直に褒めたらどうなんだ」
 エヴァンは祭壇に掴まり、よろよろと体勢を立て直す。彼が睨んだところで、ルーファウスはたじろいだりしない。それどころか。
「こんなときでなくても、私の妻は美しいぞ。なあ、エアリス。入籍と挙式は違うと、お前に言われたことがあっただろう。まったくその通りだ。今日は別格だな。照れ隠しくらい察しろ、ばかめ」
 息をするように惚気るものだから、たまったものではない。エヴァンは頬を押さえる。熱さのぶんだけ真赤に違いない。
「お前を褒めたつもりはないのだが」
「分かってるよ」
「エヴァン、シュークリーム、よろしくね」
「分かってるってば」
 やった、とエアリスがサムズアップをしている。エヴァンは思わず笑った。花嫁が気にしていないのなら、それでいい。エヴァンがすべきは、喜んで参番アベニューへ賭けの品を買いに行くことだろう。
「エアリス、もっとよく見せてくれ」
 そう言うなり、ルーファウスは勝手にベールをめくり上げた。花嫁の顔があらわになる。緑色の双眸は真丸に見開かれていた。
「そりゃ、義姉さんだって驚くよな。俺も吃驚だ。じゃなくて。待て。待て待て待て。ちょっと待って、社長。段取りが違う」
「せっかくの花嫁の顔が見えないのでは、面白くない。私たちの式はこれでいい。ああ、エアリス」
 口やかましい外野に、ルーファウスは一瞥すら投げなかった。花婿はただ花嫁をうっとりと見つめている。
「美しく仕上がったな、エアリス」
「ありがとう。ルーファウスもきれいだよ」
「当たり前だ」
「自信家さん、だね」
「お前にふさわしい花婿だと言ったつもりだ」
「ちょっと分かりにくいよ、それ。だけどね、八九点」
 片手と眼差だけをつなげながら、まるでほかのすべても一つになったようだ。
 ベールの邪魔がないのはいいことなのかもしれない。エヴァンはそう思った。互いの花やぐ姿を、最初から最後まで互いの記憶にとどめることができるだろうから。
 やれやれとエヴァンは便箋を取りだす。壇上に広げたそれは、ルーファウスと打ちあわせたはずの式次だった。失敗しないようにと毎日目を通し、何度も口にだして練習したというのに。エヴァンは頬を掻く。このうちのいったいどれだけを、順序通りに進めることができるのだろう。
「もう始めるからな」
 いささかぞんざいな口調で、エヴァンは開式を宣言した。
 厳かさなどあったものではない。出端を折られたものの、しかし彼は少しばかりほっとした。ここ数日続いていた緊張感が、すっかり消えていた。
 さてと気を取り直す。本来ならここで賛美歌を斉唱する。だが列席者はエヴァンとダークスターだけだ。代わりにルーファウスが歌う手筈になっていた。
 打ちあわせ当初、エヴァンはルーファウスが賛美歌を知っていることに、まず驚いた。この男と神をたたえる歌とは、あまりにも乖離している。
 ボーディングスクール時代に覚えたらしい。聖歌隊に所属し、施設慰問や慈善事業に打ちこんでいたのだという。さすが金持ちの子供は心に余裕がある。ルーファウスにも天使の時期があったのか。そう感心しかけたエヴァンに、「誰がいちばん寄付金をもぎ取れるか、競争していた」と平然と言った。どうやら悪童の集まりだったようだ。
 いずれにしても、一度覚えたものをルーファウスが忘れないでいることには、エヴァンも納得した。だからといって、この男が実際に歌えるか否か、エヴァンはいまだに懐疑的でいる。
 司祭がめくばせをする。花婿がすっと息を吸いこんだ。
 嘘だろ。エヴァンは心のなかで叫んだ。
「O love divine and golden,
Mysterious depth and height,
To Thee the world beholden,
Looks up for life and light;
O love divine and gentle,
The blesser and the blest,
Beneath Thy care parental
The world lies down in rest.」
 決して大きくはない声だ。だがルーファウスのバリトンはよく響く。歌詞の古めかしさと相俟って、儀式が厳粛を取り戻していく。
 エアリスがうっとりと聞き入っている。エヴァンも今ばかりは耳から蕩けてしまいそうだった。
「O love divine and tender,
That through our homes dost move,
Veiled in the softened splendor
O holy household love,
A throne without Thy blessing
Were labor without rest,
And cottages possessing
Thy blessedness are blest.」
 エヴァンはルーファウスを見る。
 半ば伏せられた睫毛は、思いのほか長い。自分もそうなのだろうかと、目蓋にふれてみたがよく分からなかった。
 ルーファウスはエアリスを見ている。
 恋人に、この男がどのような眼差を向けるのか。ルーファウスと再会するまで、エヴァンは考えたこともなかった。青い眸の情動だけではない。会うたびに、見たことのないルーファウス神羅がいた。今日だけで、いったい何人の知らない男を見ただろう。エヴァンはどうしてだか涙ぐみそうになる。
 ルーファウスはエアリスのために走り、モンスターにおやすみのキスを与える。そして歌いもするのだ。とてもまろい声で。 
「God bless these hands united;
God bless these hearts made one!
Unsevered and unblighted
May they through life go on,
Here in earth's home preparing
For the bright home above,
And there forever sharing
Its joy where God is love.」
 ルーファウスがゆっくりと口を閉ざす。余韻の低音が、堂内にとけこんだ。
 再びしんとするなか、ルーファウスが気取って目礼した。
 エヴァンは慌てて便箋に視線を落とす。次は司祭の出番だった。ルーファウスが聖書のなかからあらかじめ一節を抜きだしている。愛の教えだ。そんなもの、今更この二人に必要あるのだろうか。エヴァンは首を傾げなら、婚姻の儀式にふさわしいそれを朗読した。
「あ、司祭様、噛んだ」
「スルーしてよ、義姉さん」
 そしていよいよ誓約だ。
「ほら、司祭様。メイン中のメインだ。滑舌には気をつけろよ」
「夫婦そろって何だよ、笑うなよ。分かってるってば。少しだけ待ってよ。んん、ああ」
 エヴァンは咳払いをし、咽喉の調子を整える。
「締まらないやつだな」
「うるさい」
 エヴァンは思わず口走った。ルーファウスはわずかに目を瞠ったものの、口端に笑みを浮かべたまま何も言わなかった。
 一呼吸する。と、エヴァンは威儀を正す。
「ルーファウス神羅・ゲインズブール」
「はい」
「汝はこの女を。あれ。今、社長、『はい』って言ったのか。言えるんだな、驚いた。うわ、すごい。レアだ」
「何だお前は。大事なところだぞ。台なしにする気か」
 ルーファウスがいやそうに眉をひそめた。エアリスはというと、けたけたと笑っていた。
「おい、エアリス。さすがに今はお前も神妙にしろ」
「だって、わたしも聞いたことないよ。ルーファウスの『はい』って。吃驚しすぎて、笑っちゃう」
「だよな。俺、悪くないよな」
「悪くないけど。だけどね、エヴァンったらこんなときまで正直すぎて、やっぱり笑っちゃう」
「ごめんなさい」
「エアリス、いい加減に」
「ごめん、止まらない。楽しくて」
「ならば仕方がない」
「すてきな司祭様でよかった。わたしたちだけの結婚式って感じ、するね」
 右肩を竦め、左手で花嫁の手をくるむ。そうだな、とルーファウスは深く頷いた。
「なあ、二人とも。もういいかな」
「誰のせいだ」
 花婿と花嫁が姿勢を正すのを待って、エヴァンは誓約を問いかけた。
「汝はこの女を妻とし、順境にあっても逆境にあっても、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも。妻を愛し、死が二人を分かつまで、妻にのみそうことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか」
「正しくは、死に分かたれてもなお、だが。まあ、いい」
 ルーファウスは意味深長に花嫁を見つめて、そしてくちびるだけで笑った。エヴァンには何のことか分からなかったが、エアリスがしっかりと頷いている。
「一つ、訂正がある。私は神には誓わない。私が誓い立てするのは、私自身にだ。それから」
 ルーファウスがエアリスを見下ろす。眼差は穏やかだ。上を向く彼女の眸に、一粒、涙が浮かんだ。
「エアリス、お前に。私はエアリスにこそ誓いたい。かまわないか」
 右の手のひらを、花婿が手袋ごと心臓の上に押し当てる。手袋を剣に見立てたそれは、古めかしい宣誓のやり方だった。
「誓います」
 ルーファウスは力強く言った。
 限界まで大きくふくらんだ涙が、エアリスの虹彩のもとから落ちた。あとはもう堰を切ったように止まらなくなった。だがこのままでいいのだとエヴァンは思う。ぽろぽろとこぼれる一つ一つが、エアリスの幸福の証だった。
「エアリス・ゲインズブール・神羅」
「はい」
「汝はこの男を夫とし、順境にあっても逆境にあっても、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも。ここからが大事なんだけど、よく聞いてから誓ったほうがいいよ、義姉さん」
「え」
 頬をぬらす花嫁が、きょとんとした。花婿もまた怪訝そうな顔をしている。
「弟を電話一本でこき使うひどい兄貴でも。父親の女たらしの血を引き継いじゃってさ、万が一どこかに愛人がいたりしても。一人や二人、ひょっとしたら五人くらいいても。もしかしたら隠し子までぽこぽこでてきてもだ。えっと、それから」
「まだ続くのか」
「せっかく考えたんだぞ。聞けよ」
「お前の話はむだが多い。長いしな。もういい」
「演説大好き神羅さんちの子だから、仕方ないよ。お話、長いの」
 エアリスが泣き笑いの顔のまま、元気よく左手を挙げる。
「愛人たくさん、隠し子いっぱいいても、誓います」
「エアリス、待て。そんな誓い方をするな」
 珍しくルーファウスが焦っている。エアリスとエヴァンが一頻り笑ったあと、彼女は改めてルーファウスに向き直った。
「ルーファウスに、誓います」
 噛み締めるように、それでいて柔らかなトーンだった。エアリスもまた、右手を左胸に当てて、しとやかに腰を落とした。
「あとね、わたしと、エヴァン、ディーにも誓います」
 ダークスターが返事をした。エヴァンにとってそれは恐ろしい咆号のはずだった。だが今回ばかりは違う。神羅夫妻に交じって、彼も大きな声で笑った。
「それでは二人の誓約の証として、指輪の」
 司祭が言い終わるまで待たずに、花嫁が花婿に飛びついた。ほっそりとした両腕が、ルーファウスの首へとしなやかにまわされる。長い両腕は、エアリスの腰を捉えて離さない。絡みあうのは、眸の青と緑だ。そうして二人の隙間はなくなった。
 エヴァンはぎょっとした。あろうことか、ルーファウスとエアリスがキスを始めたのだ。
「いや、だからさ、段取り」
 そっと重ねられるだけのくちびるが、互いの輪郭をなぞりあうように動きだした。仕方なしに、エヴァンは両手で顔をおおう。
「おいおい」
 開いた指のあいだから見えたのは、小さなくちびるにもぐりこむルーファウスの舌だった。それは次第に――エヴァンの感性でいうところの――夜のベッドで、密やかにするたぐいのキスへと代わっていく。
「まじかよ。まだ昼だぞ」
 右へ左へと傾く頭、深くかぶさるくちびる、二人の口唇のあいだを行き来する舌。どうしたものかと、エヴァンはダークスターを見る。夫妻の愛犬はここでもウータイ由来の『悟り』の顔をしていた。
「なるほど。ディーさんも大変だな」
「立会人は黙って見ていろ」
 わずかに顔を離したルーファウスが、にやりと言った。ここでエヴァンが折れたら、儀式は永遠に終わらない気がした。
「社長、これで何度目だよ。段取りを無視するな。先に指輪だろ」
「指輪って」
 再びかぶさろうとする花婿の顎を押し退けて、エアリスは首を傾げた。ふっくらとした輪郭から、ルージュがすっかりはみでてしまっている。ルーファウスが小さく笑って、手袋で拭き取りだした。
「ほら、エアリス。手をだせ」
 言いながら、桃色に染まった白革を祭壇に放る。花嫁のグローブをも抜き取って、同じように。彼女の左手にはすでにウェディングリングが嵌まっている。戸惑う右手を、ルーファウスがしっかりと掴んだ。
 エヴァンが慌てて内陣から下りて、ルーファウスの脇につく。と、ブレストポケットからリングピローを取りだした。
「エヴァン、どうして」
「今はエヴァンじゃなくて、リングベアラーだよ。俺、いい年なんだけどな。まったく何をさせる気だ」
 純白のクッションに光るのは、エメラルドの巨石だ。ハート型をしている。
「エンゲージメントリングだ」
 ルーファウスは立ち襟に指を差し入れる。と、自身の指輪をネックレスチェーンごと取りだした。これでリングピローの用意も整った。
「結婚式に、婚約指輪なんだってさ。社長たちって、本当に順番ぐちゃぐちゃだよな」
「式に何もないのはさびしいだろう。結婚指輪とあわせて誂えておいた」
 ルーファウスが指輪をつまむ。心臓のかたちに口づけてから、エアリスの薬指に嵌めた。
 エアリスの頬が花の色に染まる。薄桃色をぬらすのは、また涙だ。彼女につられたのか、エヴァンも目頭が熱い。
「仕方ないよな。だってさ」
 滲む視界の真中で、ルーファウスがエアリスに己の心臓を捧げている。
「きれい。かわいいかたち。ね、これって」
「私が選んだ意匠だ。これしかないと思った」
 その理由を、エヴァンは控室ですでに聞いている。ずっしりとした貴石の、それ以上に重いルーファウスの心を指につけて平気でいられるのは、エアリスのほかに誰もいないに違いない。
「ありがとう、ルーファウス。わたし、わたし」
 ルーファウスがゆっくりと首を振る。手の甲でエアリスの目元を拭う。そうしてびしょびしょになった左手を差しだした。
「礼なら、私が言うべきだな、エアリス。私の人生は、すでに豊かだと思っていた。それ以上があるのだと、お前が私に教えた」
「幸せも」
「そうだな、幸せも、幸せこそだ」
「嬉しい」
 エアリスは大きな手を押しいただく。そっとキスをした。
「涙、塩っぱいね」
 へへ、っと笑って、婚姻の印を、花嫁もまた花婿の指の付根まで嵌めこんだ。
「やばいな、社長」
「何がだ」
「顔だよ、顔。どろどろに蕩けてる」
「今更、何を言っている。これがエアリスの夫の顔だ、覚えておけ」
 ルーファウスはあでやかに微笑する。エヴァンは素直に頷いた。忘れない。忘れることなど、きっとできない。
「さて、あとはキスだな。誓いの言葉を閉じこめなければならない。そういうしきたりなのだろう」
「もう十分しただろ」
「段取りは大事だ。なあ、エヴァン」
 そう言って、また二人はキスに戻る。エヴァンが婚姻の成立を高らかに宣言するものの、きっと花婿と花嫁の耳には届いていないだろう。
「めちゃくちゃ閉じこめすぎだろ」
 エヴァンは笑った。神羅夫妻はいつも型破りのことばかりをする。
 身廊側にまわったエヴァンは、カメラをかまえ、フォーカスリングをいじる。ステンドグラスと二人、ちょうどファインダーに納まるいい位置のはずだった。視界がぼやけているのはピントがはずれているのか、涙のせいか。エヴァンは分からないままにシャッターを切った。
 何度も、何度も。


 支柱を下りたところで、エヴァンは神羅夫妻と別れた。
 二人はそのままセーフハウスに向かうらしい。エヴァンの護送に就いたのは、ダークスターだ。貴重な戦力を借りて大丈夫なのかと聞きかけて、エヴァンはやめた。純白のドレスを脱いだエアリスの腕には、再び黒地のブレスレットが嵌められていた。それがただの装身具でないことは、エヴァンも身をもって知っている。そしてルーファウスにこそふさわしいショットガンだ。二丁にばらしたそれが腰のホルスターに収まっている。弾丸も、賄賂ではなかったコインもまだまだある。やはり恐ろく好戦的な夫妻だった。
 ミッドガルの外縁をたどり、エッジ七、八番市外の境目――今朝の『モンスター注意報』のグリーンゾーン――まで来たところで、ダークスターが立ち止まる。
「助かったよ、ディー」
 ダークスターが不満げに唸った。
「すみません、ディーさん。今日はありがとうございます」
 赤い目玉がじっとエヴァンを見ている。もう一度礼を言うと、ダークスターは巨躯を擦りつけてきた。そっと撫でた首筋は、上等のビロード――豪邸のリビングの、エヴァンのお気に入りのクッションカバー――のようで気持ちがよかった。
 ダークスターが背を向ける。ここまでの道のりは、エヴァンの歩調にあわせてくれていたのだろう。触手を鞭打つようにしならせる。と、巨躯はあっという間に廃都へと消えた。
 エヴァンは二つのトラベルケースを引いて、数ブロック先にあるホテルに向かった。
 瀟洒なかまえのホテルは壱番アベニューにある。エヴァンはエントランスホールをそそくさと横切る。タークスを警戒しながらだ。ふかふかの絨毯が、疲れた足の裏に心地よかった。そうしてエヴァンはフロントで封書を渡した。
 裏書を見て血相を変えたスタッフに、エヴァンはロビーラウンジに隣接する個室ラウンジへと通された。すぐさま現れたのは、胸に『支配人』のプレートをつけた女性だ。そしてもう一人、タークスだった。エヴァンは鼻白む。
「まじかよ。しかもよりによって親玉登場か」
「親玉。何のことだ」
 ツォンだった。相変わらず抑揚のない話し方をする。ツォンが封書を一通、差しだした。淡紫色のそれを、エヴァンは思わず受け取った。表書きには『For Evan』と流麗な文字が綴られていた。
「社長からだ。お前に渡すよう、言いつかっている。では」
 踵を返そうとするツォンに、エヴァンは驚いた。
「え、それだけ」
「それだけだが、何か」
 だって、と口を濁す。ツォンは支配人を横目で見る。数名のスタッフとトラベルケースとともに、支配人は個室をあとにした。
「俺も暇ではないんだが。ペントハウスの警備の途中だ」
 最上階の主は、今ごろミッドガルのどこかにあるセーフハウスにいる。タークス主任なら社長秘書から聞いているはずだろう。エヴァンはちょっと笑った。
「きっと今晩は平和な夜になるだろうな。よかったな、主任」
 ツォンは珍しく口端をゆるめた。
「そうだ、エヴァン。先程、社長から連絡があった。お前にチューターをつけてやれとな」
「よろしくお願いします」
 エヴァンは慌てて背筋を伸ばす。きっちりと頭を下げた。気になるのは、ずぶの素人に優しく指導してくれる先生のことだ。
「で、チューターって誰なんだ」
「誰だと思う」
 微笑が、人の悪い笑み顔に変わっていく。耳によみがえるのは、ぎゅっぎゅっとしなる革靴と、骨の砕ける音だ。エヴァンの背中をふるわせたのは、ツォンをタークスたらしめる暴力の数々だった。
「まさか、親玉なのか」
「俺はいい先生だぞ。心してトレーニングに取り組むように」
 そう言って、今度こそツォンは長い髪をひるがえす。談話室の重厚な扉が閉まってもなお、エヴァンは呆然と立ちつくしていた。
「何のいやがらせだよ、社長」
 エヴァンは一人掛ソファーに座りこむ。どっと疲労が押しよせてきて、動けない。天井を仰げば見事なシャンデリアだ。彼をいたわるような暖色の明かりを呈している。
 エヴァンは封書を開けた。書簡箋と、手製のチケットが入っている。
「エヴァン、お前は今ごろソファーで伸びているのだろう。部屋を取ってある。今日はここで休んでいくといい。礼はまた改めて」
「今日はありがとう、エヴァン。お疲れ様。あなたとルーファウスとディーが、忘れられない結婚式にしてくれたはず。わたし、一生覚えています。本当にありがとう」
 初めて見たルーファウスの筆跡は、表書き同様、驚くほど美しかった。上品な色あいの便箋にぴったりだ。エアリスのそれは、相変わらず踊るようにかわいらしい。レースの透かし模様がよく似あっている。
 エヴァンの頬がおのずとゆるむ。メッセージのいちばん下、二人のサインがよりそっていた。
「こんなところまでなかよしかよ、あの夫婦」
 とたん、エヴァンはパートナーが恋しくなった。
「俺も帰ろうかな」
 だがエヴァンの身体は鉛のように重かった。封書一式をテーブルに置くと。と、彼は再びソファーに沈んだ。部屋番号の書かれたチケットは、どうやらホテルの宿泊券になるらしい。階数から見ると、ペントハウスの真下だ。ほとんど最上階といっていいフロアにあるのは、スイートルームと相場が決まっている。
「まじか。すごいな」
 エヴァンは目を丸くしながら、チケットを裏返す。またエアリスのメッセージがそえられていた。 
「追伸。ここ、ご飯、美味しいんだって。チケット、抽選で当たったとか何とかごまかして、恋人さんとゆっくりしていってね」
 エヴァンは、ははっ、と笑った。どうやら何もかも見抜かれていたらしい。ぱんぱんに張ったふくらはぎを撫でながら、携帯端末を取りだす。神羅夫妻の厚意が、今日ばかりはありがたかった。
「俺だよ。あのさ、ちょっとしたラッキーがあるんだけど」
 すぐ耳元で、パートナーの歓声が上がる。ああ、と彼は感嘆した。大切な人の喜びが、エヴァンをも喜ばせる。
 壁を見る。そのずっと向こうにあるのは、ミッドガルだ。どこかにいるはずの神羅夫妻に、彼は礼を告げた。
 もうセーフハウスには着いたのだろうか。だとすれば、今日一日のことを振り返って、話が弾んでいるころなのかもしれない。エアリスの歓喜に、ルーファウスもまた心を打ちふるわせているのだろう。それから。
 エヴァンは首を振る。これ以上は野暮だな、と彼は席を立った。


■END■
(誓う)

20220629