祭子
2022-07-18 15:40:29
60423文字
Public FF7/R×A/TLKG
 

■WITH WILD ABANDON■

∠[ν]-εγλ0010/10
神羅家の挙式会場までひどい道程でした。ですがエヴァンには示唆に富む道のりでもありました。
※pixiv掲載テキスト(20220420初出)

■WITH WILD ABANDON■
∠[ν]-εγλ0010/10いわる


 神羅夫妻の式日は、好晴に恵まれた。夏の濃い青色とは打って変わって、秋の空は澄み上がっている。
 挙式会場まで爽やかに続くはずの道程は、しかしまさかのデスロードだった。
 ミッドガルは直径が五〇キロメートルにもおよぶ人造都市だ。しかも人のいとなみは地上三〇〇メートルの宙にあった。その中心近くまでどうやって行くのだろう。こたえを聞いたエヴァンは出 発前からげんなりした。徒歩だった。
 待ちあわせは、早朝のエッジ郊外だった。ミッドガル外縁部から、かつての伍番街スラム、居住可能エリアの真中にある支柱へと向かい、そこからプレート上部に上がるらしい。プレート上部と下部を結ぶゲートはすべて封鎖されているはずだった。そう忠告しようとしたところで、エヴァンは意味のないことだと思い直す。ゲート壅塞阻止を敷いているのは、ほかでもない神羅カンパニーなのだ。
 瓦礫のなかをルーファウスが先導した。次にエヴァンとエアリスが並び、後ろでダークスターが赤い両眼を光らせている。
 すぐ近くで大規模な工事をしているようだ。重機や作業員の大声で騒がしい。建設業者は、エヴァンも知っている神羅カンパニーの子会社だった。ほかに見慣れない一隊がいた。隊服にはWROのロゴが入っている。重火器を担ぎ、今にも発砲しそうなものものしい雰囲気だった。
「モンスターでたら、危ないでしょ。現場の人、ちゃんと守ってもらわなくちゃ」
「あれ。でも反神羅で有名だったよな、WROって」
「そういうの、本当、どうかと思うの。ばかばかしいったら」
 エアリスが憤懣やる方ないといった風に、肩をそびやかした。とたんルーファウスが吹きだした気がしたが、エヴァンの聞き違いかもしれない。
「そんなこまかいこと、こだわってる場合じゃないのにね。お金払って、来てもらってるの。ちゃんとした雇用契約だから。文句、ないはずだよ」
 気圧されたエヴァンは、何となく謝った。もう一度、隊員を見る。しっくり行かないものがあるのだろうか。正規に派遣された一隊とはいえ、哨戒とはまた違った緊張があるようにうかがえる。大きな組織同士のごたごたというのは、エヴァンには縁遠い話だった。
 そうだろうか、とエヴァンははたと思い直す。
 片方のトップが、エヴァンの眼前を歩いている。颯爽とした足つきだが、くずれた混凝土に足を取られながらもたもたと歩く義姉弟とのあいだが離れることはない。ルーファウスの背中をじっと見る。エヴァンはここでもまたギルの有用な流れを垣間見た気がした。
 ルーファウスが選んだ道――とは言いがたい悪路――は、どうやら工事現場からは死角に当たるようだ。作業員はおろか哨兵と遭遇することもなかった。ミッドガルはもう人の住めるところではない。だというのに、彼らはこんな僻地でいったい何をしているのだろう。エヴァンは不思議に思った。口にだしたところで、ルーファウスが振り返ることはなかった。
 だがエヴァンは確信している。ルーファウスには聞こえている。そして男の背面には目がついているに違いないのだと。エアリスがつまずけば、ルーファウスが彼女の腰をさらうようにして抱きとめた。エヴァンが転びそうなときには、しかしすらっとした背中が慌てることはない。代わりにダークスターがエヴァンの首根っこを咥えた。生ぬるい息が首裏に当たるたび、彼はふるえ上がった。転んだほうがましな気さえした。
「擁壁なんだって」
 ルーファウスに代わってこたえたのは、エアリスだった。『ようへき』の意味はエヴァンには分からなかったものの、嬉しそうに話す彼女の様子からすると、神羅カンパニーはきっといいことをしているのだろう。
「あのね、たまにミッドガルとエッジのつなぎ目、ボルトの雨、降るでしょ。あれ、危ないから。街のほう、飛んで行かないようにね、壁、つくってるところなの」
「うわ、まじか」
「参番街と四番街の壁、やっと完成したから。次はね、弐番と伍番だね」
「気づかなかった」
「エッジ、住んでるのに」
「エッジっていっても、零ブロックより向こうだよ。今さ、ミッドガル方面って、いろいろ危ないだろ」
「そうなんだけど。ううん。ちょっと、残念」
「何で」
「神羅のいいこと、伝わってないね」
「神羅って、本当にいいことしてたんだな」
 エヴァンは言ったそばから首を九〇度近くまで傾げる。神羅といいこと。いまいちぴんと来なかった。
 一行はしばらくのあいだ何ごともなく目的地へと進んだ。
 このあたりはすでに一般人が立ち入ることのできない区画だった。またとない体験だ。高揚した。重いはずの荷物が、エヴァンはこのときばかりは気にならなかった。だがそうしてきょろきょろとできたのも、しばらくのあいだのことだった。
 どうやら本当にモンスターがいるらしい。
 ミッドガルは中央に近づくほど、異形の巣窟なのだというのは本当なのかもしれない。エヴァンは一歩進むことに心細くなる。工事の喧騒もすでに遠い。代わりにエヴァンの耳についたのが――どこから聞こえてくるのか分からないから、さらに恐ろしい――奇妙な鳴き声だった。そのたびにルーファウスがサイホルスターに手を伸ばしている。モンスターとのエンカウントは免れない。それを見こしていたらしいルーファウスは、腿だけでなく、脇下と腰にもいくつかの銃器を携帯していた。得手はショットガンだが、荷物になるからと言って選んだらしいのはどれもハンドガンだった。
「こんなことなら、俺も」
 エヴァンもコンパクトなショットガンを所持している。以前、道中の自衛用にとルーファウスからもらい受けたものだ。神羅邸滞在時に一通りのレクチャーは受けたものの、しかし実戦で使ったことはない。幸か不幸か、エッジとヒーリン間のドライブは平和だった。
「弾、当たる気がしない」
 モンスターの声に落ち着かないまま、エヴァンは呟く。ショットガンを携行しなかったのは、やはり正解だった。荷物を増やすだけになる。
 ダークスターが低く唸ると、鳴き声はいったん涸れ潮のように引く。しかしまたしばらくすれば、そう遠くないところからエヴァンの鼓膜をふるわせるのだ。人の気配のありがたさを、彼は重々思い知った。
「本当にいるんだな、モンスターって」
「あれ、モンスター注意報、エヴァン、聞いてないの」
「聞いてるけど。エッジ市民の朝の日課だからな」
 そう言ってから、エヴァンはむっとした。
 神羅カンパニーが周波数変調方式のラジオ受信機を各戸に配布してから、ずいぶんと経つ。ディスクジョッキーの軽快なトークや、さまざまな音楽は市民の唯一の娯楽と言ってもいい。歌謡曲は勿論、エヴァンは聞き馴染みのない古典音楽まで何でも聞いた。
 聞き逃してはいけないのは、防災チャンネルだ。ライフストリーム濃度とあわせて、それは今でもエッジ市民のいのちの綱だった。エヴァンがモンスターの気配を感じることなく日々をすごせているのは、ラジオ放送を信じ、出没ポイントを避けてきたからだろう。感謝しつつも、彼は『ライフストリーム濃度予報』には含むところがあるのだ。が、今は文句を言ってもいられない。唸り声が近い。いのちがかかっている。
「でもさ、やっぱり信じられない。ミッドガルにモンスターがうじゃうじゃいるなんてな」
 ミッドガルの周囲はエヴァンの生まれる前から荒野で、人間は勿論のこと、モンスターにも住みにくいところだった。だから近郊は営巣地にはならず、人間同様、モンスターもまたミッドガルに集まった。
 魔晄都市は完璧なヒエラルヒーで成り立っていた。弱者ほど零番街から遠く、そして低いところで生きなければならない。
 モンスターも例外ではない。ほとんどが自警団や、一般市民ですら集団でかかれば退治できるような小者ばかりだったらしい。生息するのはもっぱらスラム外縁部の廃材エリアだった。中階層とは言え、曲がりなりにもヒエラルヒーの恩恵に与ることのできた彼は、モンスターを間近に見たことがなかった。
 それがどうしたことか、メテオショックのあと、中心部から突然湧いてでたかのようにミッドガル全体へ巣食いだしたのだ。しかもスラムのモンスターとはまた違う異形をしているらしい。プレート上部にはさらに凶悪なモンスターがいるのだとも、エヴァンは聞いた。探偵社の客がいろいろと噂話――そのなかには明らかに真偽の疑わしいものも紛れていた。何とベヒーモスを見たというのだ――をしてくれるのだが、あながちはずれてもいないのだろう。
 神羅カンパニーが厳戒体制のもとで周囲を巡警しているとはいえ、それでも街中に紛れこむモンスターはいる。市民の被害も小さくはない。そのたびにエッジ市内は騒然とした。
「エヴァン、六番街出身だっけ。上の人だったら、そうだよね。信じられないよね」
「義姉さんは」
「わたし。わたしはスラムだから。それなりに慣れてるよ」
「え。義姉さんってミッドガルの人だったんだ。いやいや、スラムって、まじか。え、どこ。どこのセクター」
 エヴァンは吃驚した。相変わらず見返りもしないルーファウスは、零番街にそびえるミッドガルのシンボルの、その最上階に立てるただ一人の人物だった。特別の男がスラムの女と挙式しようとしている。神羅夫妻の恋の軌跡は、エヴァンからすれば順序がめちゃくちゃだった。それが出会いからしてもうわけが分からない。
 顎がはずれたように口を開けたまま、エヴァンは二の句が継げないでいる。
「しまったなあ。お義姉さんの秘密、一つ、ばらしちゃった。エヴァン、人のお話、聞きだすの、ちょっとうまくなったよね。お客さん、増えたでしょ」
 エアリスが嬉しそうに言った。エヴァンは照れた。両手がふさがっていなければ、首の後ろを搔いていたところだった。
「そんなことないけどさ。でも、ほら前に義姉さんから借りた本、あるだろ。広告のつくり方。一昨日の客は、それ見て来てくれた第一号なんだけどさ」
「すごい。それ、聞きたい、聞きたい」
 エヴァンはすっかり得意気になった。そうして話題はいつの間にやら彼の最近の仕事ぶりへとすり替わった。神羅夫妻の馴れ初めを聞きだす、またとない機会だった。それを失ったのだと彼が気づいたころに、一行はようやく支柱のふもとに到着した。
「手強いな。恐ろしい奥さんだ。でも旦那さんも怖い。やばい夫婦だ」
「どうしたの」
 何でもないよ、とエヴァンは首を振るしかなかった。
 電力の通らない一帯は、薄暗かった。昇降口は――以前にはなかったらしい――鋼鉄の扉で封鎖されている。支柱に併設された機械塔は、足場も含めてもともとは吹貫だった。しかし今は相当の高さまでコンクリートの壁におおわれている。侵入は難しそうだった。
 三〇〇メートル先の頭上を振り仰いだエヴァンは、それだけで背中に汗が伝う感じがした。勿論、冷汗だ。エアリスも同じだったようで、その場に屈みこんでいる。
「ね、ルーファウス。休憩しよう、休憩」
「お前は本当に体力がないな。だから言っているだろう。フィジカルトレーニングを続けろ。せっかく素晴らしいトレーナーを紹介してやったというのに」
「だって、ルーファウス先生、ストイックすぎるんだもの」
「要領が悪いだけだ、エアリス。あのタークスが諦めたのも、分からないでもないな。お前の運動神経に期待はしていない。それでも鍛える方法はいくらでもある。怪我をする前に、せめて柔軟と呼吸法くらい覚えろ」
「息、普通にできてるから、困ってません。体力なんて、ピクニック、楽しめるくらいあれば十分なの。ね、ルーファウス。フィールドトリップ、わたし、久しぶりなんだから。顧慮の余地、大ありだと思います」
 再び休息を訴えるエアリスに、ルーファウスは吐息をついた。
「かまわないが、何かにつけられているぞ。ディーを警戒して飛びかかっては来ないようだが。さて、お前たちはどうだろうな。肉は薄くて不味そうに見えるだろうが、のろくさい。恰好の獲物に違いない」
 瞬間、エアリスはすっくと立ち上がった。睨みつける彼女に、ルーファウスは微笑している。エヴァンはどきどきした。時折見かける、ルーファウスが妻へと向ける眼差は、柔らかく、そして熱い。万が一エヴァンに向けられでもしたら、きっと焦げてしまうだろう。
「よく耐えられるよな、義姉さん」
 エヴァンはつくづく感心した。
「行こう。さっさとなか、入ろう。ね、ルーファウス、鍵、早く開けて」
 わざとらしく片眉を上げてから、ルーファウスは扉脇に嵌めこまれたボックスを開けた。エヴァンの目が一瞬眩んだ。コンソールの青白い光だった。解錠に必要なそれは、永久燃料で稼働しているのだという。ここは腐っても神羅の掌握地なのだと、エヴァンは改めて思い知った気がした。
 機械塔は薄暗く、気味が悪い。彼らが上るのは塔の足場だ。幅広の階段をダークスターが先立った。すれ違い様に、エヴァンからトラベルケースを一つ取り上げた。歯をハンドルへと器用に引っかけている。
「え、あの。ありがとう。ディー、さん」
 真丸の目が、エヴァンを射る。ふんと鼻を鳴らしたのは返事だったのだろうか。
「ほら、エヴァン、見て。ディー、喜んでる。いい子ね、ディー。ありがとう」
 二本ある尻尾――だとエヴァンは思っているが、背中のそれが何なのか本当のところは知らない――を、ぴこぴことゆらしている。こういうところは犬っぽくて、かわいげがある。だけど、とエヴァンはトラベルケースを見た。ハンドルはよだれですでにぎとぎとだった。あれを再び持たなければならないのかと思うと、少し悲しい。
 さすがに階段をいっきに上りきることはできなかった。ところどころにある踊り場で足を止めつつ、最後の一段をエヴァンは踏みしめる。感慨無量だった。今日いちばんの達成感に、エヴァンとエアリスは無言でダップする。締めにこぶしとこぶしを突きあわあせると、万歳をした。
 二人はそれで力つきた。肩で息をしながら壁にもたれる。エアリスは汗も搔けないほどに蒼白だった。エヴァンは逆だ。しきりに流れる汗を、上腕で拭った。
「やばい。足がもうぱんぱんだ。足の裏も痛い」
「それなりの装備で来いと言っておいたはずだ」
 ルーファウスがエヴァンの靴を見ている。ハイカットスニーカーだ。エンジニアブーツと迷って軽い靴にした。薄いソールのせいで足の裏は痛むが、正解だったとエヴァンは思う。革の重石をつけた足で三〇〇メートルの階段なんて、苦行以外の何ものでもない。
 エヴァンはふくらはぎを揉みながら、ルーファウスを見た。まるで登山でもするような恰好だった。花婿にそぐわない装いにも、今なら納得がいく。
「そのつもりで用意したんだけど、甘かったな。俺、ここまでよくがんばったと思う」
「何を満足している。ゴールまでの行程の、ここはまだ半分だぞ。しかもだ。到着してからが今日のメインイベントだということを、まさか忘れたのか」
「分かってるけど」
「そんなにしがみつかなくても、壁との別れをさびしがる必要はない。またすぐに会える。帰りも同じルートをたどるからな」
 ルーファウスが解錠しながら、振り返った。額に薄らと汗が浮かんでいるものの、呼吸は乱れていない。エヴァンは来た道を振り返ってどんよりする。そして行く先を思うと、膝が抜けそうだった。
 ルーファウスの言った通り、まだここはセクターの真中だ。ミッドガルが機能していたころですら、エヴァンは外縁から中心地までぶっ通しで歩いたことはない。そもそも魔晄都市では足を使う必要がなかったのだ。徒歩で、目的地までどれほどかかるのかエヴァンには見当もつかない。
 裕福ではなかったものの、六番街での生活はまるで魔法のように便利だったのだと、今更ながら痛感する。公共交通機関が恋しかった。エヴァンは首を振る。このさい自転車でもかまわない。
 ずるずるとその場にくずれたのは、エアリスだった。次いでエヴァンも彼女の横にしゃがみこむ。
「意地悪。何でそんな言い方、するの」
「社長、血の色は何色だ。俺は無色透明だと思う」
「だから、配慮してってば。わたしたち、体力お化けじゃないんだから」
「それともあれだ、サイボーグかよ。神羅の技術の結晶とか、そういうのだろ」
「もう、足、がくがく。ウェディングアイルでこけたら、どうしよう。一生の思い出、台なしになっちゃう」
「半分同じ素材でできてるなんて、本当かよ。俺たちって、やっぱり他人の空似じゃないのか。また何か騙されてるのかな、俺」
 困憊の二人が肩をよせて、支えあう。すらりと立つ男を見上げた。文句の多重放送だ。一頻りやまないそれを、ルーファウスはじっと聞いている。ややして口角が悠然と吊り上がった。だが青色の眸は笑ってはいない。エヴァンの背を流れる汗が、みるみる引いていく。
「うるさい。お前たち、そろってトレーニングフロアにぶちこんでやろうか」
 とたん、エアリスはよろよろと立ち上がった。懸命にエヴァンへとめくばせをしている。『ルーファウス先生』というのは、余程厳しいらしい。エヴァンも気力と体力を励まして、エアリスに倣うことにした。
「ね、ルーファウス。あとどのくらい、あるの」
「直進距離で、七、八キロメートルといったところか。無論、私たちの目の前には真直ぐに整備された道路などという、文明の賜物はないからな」
「分かってるよ、もう。だけど」
 尻の埃を払いながら、エアリスが言った。
「結婚式、したいから。がんばろう」
 両手をこぶしにして、よし、とエアリスは彼女自身を鼓舞している。ルーファウスの眼差には、またあの柔らかな熱がこもっていた。
「なあ、エアリス。そんなにトレーニングを敬遠したいのなら、お前には特別のメニューを課してやろう」
「それ、楽なの」
「お前はすぐに楽をしようとする。だが、そうだな。立ち通しがつらいのなら、座りながらでも、何なら横たわったままでもできるぞ」
「やった。楽は悪いことじゃないもの。要はちゃんと結果、だせばいいの。ね、ルーファウス。じゃあね、わたし、座りながらがいい。ちゃちゃっとこなせるメニュー、考えてね」
「それは難しいな。時間はかかる。だが、トレーニングと言うよりはエクササイズに近い。きっと楽しいぞ。セックスの回数を増やすだけでいい」
 余裕のある低い声に、抗議の悲鳴と男の二の腕をはたく乾いた音がかぶさった。エヴァンはぎょっとした。セックスどころか、ルーファウスとエアリスは少し前までキスすら交わしていない清い夫妻ではなかったのか。
 だがエヴァンはすでに心得ている。そっと顔を逸らせた。聞いてはいけない話が始まったとき、聞かなかったふりをするにかぎる。ヒーリンロッジのあの豪邸なら、彫像や花瓶、絵画、そのあたりの耳のないものになりきるのだ。だがここにはオブジェがない。エヴァンは取り敢えず壁と一体化することにした。
「ひどい。ルーファウスったら、それ、トレーニングよりきついやつじゃない」
「ならば、トレーナーのアドバイスを素直に聞け。お前はスクワットの数回すら、まともにできないだろう。だからレッグプレスを使えと言っている。何にせよ、一度地道に続けてみろ」
「あれ、お尻と太腿がぷるぷるしちゃう。生まれたての、チョコボみたい」
「お前に体力がなければ、私も困る。三度目の途中で寝入られる私の身にもなってみろ、エアリス」
「三度目って、社長」
 ぎょっとどころではなかった。壁になりきれなかったエヴァンは、気がつけば二人のあいだに割って入っていた。
「社長。ねえ、ちょっと社長」
「何だ、その間延びした声は」
「待って待って。三度目ってサードタイムってことで、三回目だろ。何、どういうこと。それって一晩にってことなのか。立て続けになのか」
「たまにな」
「社長、ばけものかよ」
「いい女が目の前にいるのだから、仕方がないだろう。何だ、エヴァン。お前は立たないのか。それでも神羅の男なのか」
 ルーファウスは呆れ顔だ。男の心臓当たりに指を突きつけて、エヴァンは目に角を立てた。そのつもりだった。
「俺の姓は、昔も今もタウンゼントだからな。ばけものといっしょにしないでくれ」
 だが実際のところ、一〇歳以上年上の男へと向けた顔は情けないものだった。
 エヴァンは体力うんぬんの前に、たいてい一回目の倦怠感に負けてしまうのだ。心の片隅で、ほんの少しだけ――いや、とても――神羅の男をうらやましく思ったことが滲みでたのかもしれない。ルーファウスがいやな薄笑いを浮かべている。
 エヴァンはばけものから顔を背けた。すると今度はばけものの花嫁と目があった。相変わらず花車な腰を、エヴァンはしげしげと眺めた。
「三回目までちゃんとつきあおうとする義姉さんも、義姉さんだよな。すごいガッツだ」
「だって、普通、そうするんでしょ。何回もするの、え、違うの」
 エアリスがおろおろしだした。暗がりのなかでも目立つ白色の頬が、あっという間に薄桃色へと変わった。ルーファウスがすっと彼女の背後にまわる。と、肩を抱いた。そうしてエアリスの死角からエヴァンを見据えているのは、彼の生殺与奪の権を握る男だった。
 ピンチだ。次の一言をしくじるわけにはいかなかった。
 エヴァンはおくびをこらえる。と、窮地を脱するための言いまわしを、急いで頭のなかで組み立てる。
「違いませんよ。社長と義姉さんって、とてもなかのいいご夫妻ですね。なかよしすぎて、俺は少し吃驚しただけです」
 おや。エヴァンは首を捻った。何かがおかしい気がした。が、失敗というわけでもなさそうだった。ルーファウスが顔を背けてぷっと吹きだしている。
「嘘っぽい」
「嘘じゃないってば」
「ね、エヴァン。ルーファウス、やっぱりばけものなの」
「ごめん。言い方が悪かったよな。元気なのはいいことだよ。うん多分、いやぜったい。そうだろ、義姉さん。ちょっとくらい社長が、何だっけ、『体力お化け』でもさ、旦那さんが具合悪くて心配するより、ずっといいことだ。な、義姉さん、そうだよな、な」
 ちょっとくらいどころではないが、背に腹はかえられない。エヴァンは心のなかでエアリスに謝った。
「それはそうなんだけど。ううん、深く考えないことにするね。納得、ちょっといかないけど、今日は大切な日だから。あんまり怒りたくないの」
 エアリスは訝しがりながらも、ドアへと向かう。エヴァンはこっそりとルーファウスのそば近くによった。
「社長、いつの間にしっぽりやっちゃってたんだよ。でもさ、よかったな。うまくいってるみたいで」
「まあな」
「あのさ、社長。聞いてもいいかな」
「かまわない」
 勿論、エヴァンはすべてを聞きたかった。恋人の順序がめちゃくちゃな二人が、深いところで結ばれるまでのいきさつをだ。だがゆっくり話しこんでもいられない。エヴァンは途中をすぱっと省略した。
「義姉さんが寝落ちしちゃったら、そのあとどうするんだよ。社長のふんぞり返ってる社長をさ」
「それがな、エヴァン」
 いちばん知りたいこたえは、エヴァンの悲鳴でさえぎられた。引き返してきたエアリスに靴先を踏まれたのだ。だが彼は察した。これはまだ手加減されているほうなのだと。続けざまに、エアリスはルーファウスの尻たぶをきつくつねり上げている。あの『ルーファウス神羅』が呻き声を噛み殺していた。
「男の子って、本当、エッチなお話ばっかりしてるんだから。ルーファウスもジャッドも、エヴァンもだなんて。あなたたちみたいな人たちのこと、きっと『どいつもこいつも』って言うんでしょ。こんなの、初めて」
「よかったな、エアリス。知識と経験が結びついた瞬間だ。これで一生忘れないぞ」
「いらないこと、言ってないで。ほら、行こう」
 踵を返すエアリスの、その背中を見やるルーファウスは楽しそうだ。エヴァンは感心した。彼ならば自身のパートナーがへそを曲げれば、すぐに機嫌を取りたくなる。余計なことを言って面白がる余裕は、勿論ない。気に障ることを言われたとしても、反論できない上にうだうだと引きずる。エヴァンがパートナーの前で自身の意見をあらわにするのは、いまだに――探偵社の請け負った――案件で揉めたときだけだった。
 神羅夫妻を、エヴァンは交互に見る。ゆるがない。いつからだろう、二人にそんな心象をいだくようになったのは。
 六月のあの日、病院の廊下でエヴァンを襲った悲愴感も、すっかり掻き消えていた。エヴァンは羨望の長息をもらした。ともにすごした時間の長短も、順序正しい恋も、『ゆるがない』ものをはぐくむための養分にはならない。二人の在り方がそう彼にまざまざと思い知らせる。では、何が必要なのだろう。近ごろになってエヴァンは、それが分かりかけてきた気がしている。ルーファウスとエアリスを鏡にすると、自身に欠けているものが映しだされるようだ。たとえば、とエヴァンは鏡を覗く。
 厚かましさ、図々しさ、気兼ねなさ。ともすれば相手を不快にしかねないそれらが、二人のあいだではよく飛び交う。
 エヴァンにはできない。なぜか。冗談口とそれですまない境目を間違えれば、相手を怒らせるか、さもなければ傷つける。本音ですら、迷惑や負担にならないだろうかと気にかけているうちに口を閉ざしてしまうからだった。結局のところエヴァンは、パートナーが彼によせる信頼を知りながら、それによりかかることができないのだ。
 そうか、甘えればいいのか。
 納得しかけたエヴァンは、はたと思い留まる。エヴァンがもたもたと尻ごみして進めないでいるこの問題を、神羅夫妻はすでに飛びこえた先にいる。それは二人が互いの信頼を互いの支えにしているということになるのではないか。エヴァンは後頭を掻いた。自尊のかたまりのような男が花車な女にすがり、甘えているところが、彼にはどうにも想像できなかった。
「残念。分かったと思ったのにな。違うよな、これ」
 エヴァンの視線を感じたらしい。ルーファウスは軽く肩をすぼめた。
「ここが私の自宅でなかったことに感謝しておけ、エヴァン。登山靴なら、ピンヒールよりましだ。あれで踏まれるとな、足の甲が砕けたかと思うぞ」
「容赦ないな、義姉さん」
「聞こえてますけど」
 エアリスが体当たりするようにして鋼鉄のドアを開いた。瞬間、縦長の閃光がエヴァンに差す。手の甲を額にかざすものの、あふれる光はさえぎきれない。
「ああいうところが、いい。私のための女なのだと思う」
「だったらさ、あんまりからかってやるなよ。しかも今日は花嫁さんだぞ」
「そうだったな。ようやくここまで漕ぎ着けたというのに、また花嫁に逃げられるわけにはいかない」
「え。またって言ったのか、今。何やってるんだよ、社長」
 ルーファウスが光を追って歩きだす。ゆっくりとした足捌きで。エヴァンは慌ててとなりに並ぶ。そっと伺った花婿の横顔は、彼らしく泰然としていた。
「正確には未遂だったがな。私がエアリスを逃がすはずがない」
 ドアの隙間から差しこむ日光はどんどん幅を広げていく。真白なそのなかに、エアリスがとけこんでいる。 
「眩しいな、エアリスは。いつでもそうだ。あれは本当に、私の」
 そうだった、とエヴァンはげんなりした。いたって沈着な顔をしながら、ルーファウスは惚気るのだった。
 拗ねるパートナーをかわいらしいと眺められる余裕が、いつかエヴァンにも生まれるだろうか。パートナーの前で機嫌を損ねることに不安を覚えなくてすむ日は、いつ来るのだろう。ついでにもう一つ。堂々と惚気るために邪魔な羞恥は、どうやって捨てればいいのだろう。「はいはい」と適当に相槌を打ち、溜息をつくはずだったエヴァンは、しかし息をのんだ。
 いっきに開けた視界が、まるで彼の知らない世界だった。
 出入口付近にあったはずの高層建築は、歯脱けのように倒壊していた。おかげで真上を見なくても、残ったビルのあいだには高空が広がっている。地平腺はなだらかに丸い。地上三〇〇メートル上からの眺望というのは、本来ならこれが正しいのではないだろうか。エヴァンはそんなことを思った。
 もう一つ驚いたのは、空気だ。澄んでいる。
 目を瞑り、深呼吸をする。肺がすっとした。どこかで野鳥が鳴いている。そうと分かるのは、エヴァンがヒーリンロッジに通うようになって本物の鳥の囀りを知ったからだった。伍番街がこの様子なら、六番街もそう大差はないだろうか。エヴァンはとなりのセクターに顔を向ける。高層ビルはさらに不揃いだった。伍番街はずいぶんと見晴らしがよくなっているものの、これはきっとましなのだろう。中央にいまだそびえる神羅ビルから背を向ければ、エヴァンはここが自身の生まれ育った街だとは思えなかった。悲しみはなかった。
 きょろきょろするエヴァンの少し先に、円状に開けた場所があった。瓦礫がすっかり取り除かれたそこには、白線で大きく『H』の文字があった。明らかに人手が加えられている。いったい誰がなどと、そんな間抜けなことはさすがのエヴァンも考えない。昔も今も、ミッドガルを好き勝手にできるのは神羅だけだ。
 ふとエヴァンはルーファウスの様子が気になった。なぜなら、ここは。
「ヘリポートだ。わが社の災害対策にかかわる部署のために用意したものだ。防災チャンネルの、特にモンスター注意報の精度が高いのは、彼らの働きがあってこそだからな。毎度、階段を使わせるのはかわいそうだろう」
 亡国の王は長い前髪を掻き上げている。
 横風が吹く。わずかに砂塵を含んでいるものの、汗を引かせるくらいには爽やかだった。エヴァンが疎んだ金髪も、ルーファウスにはいまだ金冠そのものだった。悔しいがやはりよく似あう。しばらく――顔色一つ変わらない――横顔を眺めていたエヴァンだったが、あれ、と首を傾げた。ヘリポートと聞こえた気がした。
「ちょっと待て、社長。そういう便利なの、あるのかよ。そりゃ、あるよな、神羅だもんな。何でわざわざ重い荷物かかえてさ、ここまで苦労して。俺はかわいそうじゃないのかよ。ああ、もう。なあ、社長、なあってば」
「私が歩きたい気分だった」
 ルーファウスはしれっと言った。
「そもそもだ。スキッフですら、燃料も含めて今は貴重だからな。私用では使わないことにしている」
「私用って言ったって、社長の結婚式だろ。それくらいさ、社長パワーでこう有耶無耶っと、何とかならなかったのかよ」
「経営者の公私混同は、人心の離反につながる大きな理由の一つだ。お前も事務所をかまえているのだから、いずれは労働者を雇用する側にまわるかもしれない。肝に銘じておけ」
 言い終えたとたん、どうしてだかルーファウスはくつくつと咽喉を鳴らしだした。そのまま笑いやまないでいる。
 何がそんなにおかしいのだろう。一つ思い当たるのは、かつてミッドガル市民のあいだで飛び交っていた悪評だ。神羅父子の独裁にかかわるいくつものそれだった。ルーファウスのことだ。エヴァンに言い聞かせるつもりで、きっと当時の専断的なやり方のことを皮肉ったのだろう。
 だけど、とエヴァンは眉をひそめる。世評とは、善かれ悪しかれ言わば第三者の勝手な憶測だ。エヴァンが当事者なら、「俺の気持ちも知らないくせに」と腹を立てたことだろう。それをどうしてこんな風に笑えるのか。『ルーファウス神羅』と近しく話すようになって半年が経とうとしている。が、エヴァンにはいまだどうにも理解できない、この男の笑いのつぼの不可思議なところだった。
 ぽかんとする彼の腕に、白い手がそっとかけられた。エアリスだった。
「ごめんね、エヴァン」
 夫の奇行を謝っているのかと思いきや、どうやら違うようだ。エアリスの眸が切なそうにまたたいている。ヘリコプターが使えない理由は彼女にあるらしい。乗りものに酔うのだろうか。確かにグロッギーな花嫁なんて、かわいそうだ。だが、そうだとすれば鎮暈薬や抗ヒ剤で抑えることができるだろうし、ルーファウスがそれを考えないはずがなかった。
 何も言えないでいるエヴァンにもう一度詫びてから、彼女はルーファウスを振り仰いだ。
「ルーファウスも。途中、いろいろ文句言って、ごめんなさい」
「気にするな」
 ルーファウスの四指が、エアリスの頬を撫でた。長い前髪が垂れ落ちて、表情を隠している。金色の奥に透けて見える口唇が、エヴァンには優しく弧を描いているように見えた。
「そろそろ行くぞ」
「はい、がんばります」
「いや、次にがんばるのは私だ、エアリス」
 ルーファウスがインナーポケットから取りだしたのは、鍵だ。指先に引っかけて、これ見よがしにゆらしている。男の差し示す先を、エヴァンとエアリスは嬉々として追いかけた。
 支柱の左側には、何台もの救世主がいた。大型のオフローダーだった。
 砂埃や泥にまみれて、どれももとの塗装が分からないほどに汚い。だというのにぴかぴかと後光が差して見えた。タイヤはエヴァンの腰高まである。きっと瓦礫など何のそのだろう。
「さすが、天使ちゃん。用意周到。すてき、最高」
「花嫁を汗や塵まみれにするわけにはいかないだろう」
 エアリスがすかさずルーファウスの首に抱きついた。つられて飛びつきかけたエヴァンは、危うく踏みとどまる。伸ばした腕でサムズアップをした。
 意気揚々と荷物を積みこみ、ラッシングベルトで固定する。と、エヴァンは後部座席に乗った。晴天のドライブだ。最高に違いない。いや、違った。
 悪路のためか、はたまたルーファウスの丁寧とは言いがたい運転のせいか、エヴァンの三半規管はすぐに狂いだした。となりを見やれば、ダークスターが両眼を閉じている。これはあれだ、とエヴァンは感心した。昔、ウータイチャンネルの時代劇で見たことがある。忍技を極めた、『無我の境地』という面がまえだ。サイドビューミラーに映るエアリスも、アシストグリップにすがりながら同様の顔つきをしていた。エヴァンもまねることにした。
 ドライブはさらに最高から遠ざかる。一行がいよいよモンスターと遭遇したからだ。
 エンジン音よりなお低く、突然ダークスターが唸りだした。エヴァンはすかさず謝った。だがダークスターはエヴァンを見ないまま、牙を剥きだしにしている。はげしいゆれに逆らえず、背中の触覚を彼が吊革代わりにしたことを怒っているわけではないらしい。ほっとしたのもつかの間だった。進行方向に何かがいた。エヴァンは硬直した。
 それは人型をしているが、明らかに人間ではなかった。
「何だよ、あれ」
 エヴァンは目と口を開ききったままだ。こんなとき、凡人の口からもれるのは凡常な台詞なのだと決まっている。映画ならば大抵はエキストラの台詞だ。主役が一般人という設定なら、陳腐なそれを言わされる役目は主役が担うこともある。いずれにせよエヴァンはそんなありきたりのシーンに割く時間が勿体ないと、常々思っていた。だがいざ直面してみるとよく分かる。怪奇の前では、人は誰しも平等に凡庸になるのだと。
 アパートメントハウスの――もとは瀟洒だったに違いない――エントランス付近に、モンスターは立っている。異様に肥大した双肩は、二階の雨樋と同じ高さだった。血色の悪い骨格筋が剥きだしの五体のなかで、頭部と、いくつもある触手のようなものがてらてらと赤黒くうごめいている。臓腑そのもののようだった。
 エヴァンは咄嗟に口元を押さえた。吐気をやりすごす。あまりの醜怪さに、彼はもうそれを直視できなかった。
「どういうことだよ。何で俺がこんな。何なんだよ」
「確かH〇五一二だったか。いや、違うな。あれは雌体だ」
 ルーファウスは半壊した建物の庇下に車体を止めた。エヴァンはぎょっとした。ルーファウスの声音は、まるでいつもと変わりがなかった。
「え」
「聞こえなかったのか。H〇五一二だと言った。レポートにない亜種のようだからな、末尾に新しい符号をふって区別しなければならないが」
 モンスターを見据えたまま、ルーファウスは言った。シートにゆったりともたれて、ドア側のリフタースイッチあたりに肘をついている。この男は、こんなときですら凡庸とは縁がないようだ。
「いや、そうじゃなくてさ」
「もう、ルーファウスったら。エヴァンはね、あなたのこと緊張感ないって、言いたいんだと思うよ」
 エアリスが呆れている。エヴァンは再び驚いた。義姉もまた落ち着いている。
 運転席と助手席のあいだをするりと跨いで、彼女がエヴァンのとなりに座った。ほっそりとした両手が彼のそれをつつみこむ。痙攣のようにふるえていることに、エヴァンはようやく気がついた。
「緊張しようがしまいが、現状は変わらないだろう。H〇五一二か。どのみち遭遇するのなら、ベヒーモスにおでまし願いたかったところだ」
 ルーファウスが後部座席を振り返った。
「私はな、エヴァン。お前に本物のベヒーモスを見せてやりたかったのだが」
「ベヒーモスって、ミッドガルにいるのかよ」
「いるぞ」
 平然と言って、ルーファウスは前髪を掻き上げた。
「わが社は多くのモンスターを飼っていたのだが」
「いや、あのさ、社長。ペット飼ってますの乗りで言うなよ。怖いよ」
「ごまかしたところで、事実は変わらない。まあ、聞け。定期的に個体数の照合をしているのだがな、メテオショック前後で明らかに違っている」
「巻きこまれたんだろ、きっと。それとも、あれだ。寿命かな。勝手に死んじゃったんなら、よかったじゃないか」
「それがな、エヴァン。増えている」
「へ」
 エヴァンの顔がそれほど面白かったのか、ルーファウスが吹きだした。この男が声を立てて笑うのは珍しいが、笑いだすと止まらないことをエヴァンはすでに知っていた。
「心配はいらない。ベヒーモスは増えてはいない」
 引きつるらしい下腹を押さえながら、ルーファウスは続ける。
 四年前、神羅カンパニーは在来種の生体データをベースに三体のベヒーモスをつくり上げた。『B型実験体』という、兵器開発部門と科学部門の共同開発だ。そのはずだったのだが、統括同士だけでなく、部門間も反りがあわなかったようだ。主立つ管理体制もなおざりに決まらないまま、人工生命体は地下施設の隔離室に放置されたきりとなった。
 そのうちの一体――零式と名づけられた――は、いつとはなしに死んでいた。当時の検分によると、死因は金属製の武器で受けた裂創と銃創だった。角が持ち去られていたのだという。一般人が相手にできるモンスターではない。そもそも施設内に侵入することからして土台無理なことだった。転売目的の内部の犯行だということになったらしく、零式の消失は秘密裏に処理されていた。監視映像はシステムダウンのさいにデータがクラッシュしていて、今更どうにも確認しようがなかった。
 こともなげに話したあと、ルーファウスはふと口を噤んだ。目線はH〇五一二に据えられてはいるものの、エヴァンにはこの男が何を見ているのか分からなかった。
「こんなことは茶飯だった。興味が失せれば、次に手をだす。そうしてまた次に。理非も分別されないまま、モンスターのブリーディングは止まらなかったようだな。統括があれとはいえ、親父もよくここまで好きにさせたものだ」
 半ば独語のようにもらして、神羅社長は首を振っている。男の妻がゆれる金髪を切なそうに見つめていた。
 エヴァンが安穏と暮らしていたプレート上部の、そのさらに上にもうんと下にも、モンスターはうじゃうじゃいたらしい。しかもスラムの外縁に生息する雑魚とはわけが違うようだ。だがそれすら遭遇したことのない彼には、どうにも危機意識から離れた話だった。驚いたのは、ベヒーモスのいたその施設が地下五階にあるということくらいだ。神羅は地上高くに君臨するだけでなく、地下深くまで支配がおよんでいたのだ。
 ふうん、と適当に相槌を打っていたエヴァンだったが、次の瞬間ぞっとした。
「一部のモンスターが繁殖を始めた。個体数の把握がままならないのは、そのせいだ。いきものに雌雄を持たせると、やることは同じらしい」
 ルーファウスが嘲笑っている。だがエヴァンは青くなるばかりで、くすりとも笑えない。
「だったら、ベヒーモスも」
「ベヒーモスは増えていないと言っただろう。あれは無性だ。生殖はできない」
 エヴァンはほっと胸を撫で下ろす。どうだろうな、とルーファウスはくちびるをゆがめた。
「生殖もそうだが、いきものというのはな、原始の欲求には逆らえないものだ。生まれたからには生きようとするだろう。メテオショック前には、壱式と弐式はまだ施設内にいたはずだ。だがな、エヴァン。ミッドガルは見ての通りこのざまだ。神羅のかかわる施設のうち、メインシステムで一元管理をしていた電子施錠システムは、とうに作動していない」
「ということは、もしかして」
「二体の生死は、いまだに定かではない。そのあたりを散歩中かもしれないな。遭遇できるといいのだが」
「いやいや、ベヒーモスもH何とかも、そんなのできれば一生遭いたくないんだけど」
 エヴァンはさらに青ざめる。ルーファウスは施設が解錠されたと言った。逃げだしたモンスターが増殖し、捕食者が被食者を食って減衰する。ある程度はそうして個体数が抑制できているのかもしれない。だがエヴァンのふるえは止まらない。なぜなら、それはトーナメント戦のようなものだからだ。強いモンスターばかりが生き残る。そしてまた増えて減ってを繰り返して、強者の遺伝子が継がれていくのだろう。
 とたん、エヴァンはエッジでの生活が怖くなった。
 生きようとする強者に、弱者はどう抗えばいいのだろう。人間はモンスター注意報を頼りに暮らすしかないのだろうか。現状を知った今、それはもう難しいことだとエヴァンは思う。彼の脳裏を掠めたのは、市街地を襲うモンスターのニュースだ。強者が増えるぶんだけ、凄惨な報道の回数も比例するに違いなかった。
「つまらない人生だな」
 鼻で笑うルーファウスを、エアリスが「それ、決めるの、ルーファウスじゃないから」とたしなめた。何やら言いあい始めた二人を見ていると、エヴァンは無性にほっとする。まるで神羅邸のリビングにいるようだった。あの明るいフロアには、いつも平穏がある。
「ヒーリンの自宅へ、最初に来たときのことを覚えているか。お前はディーとベヒーモスを間違えただろう。この機会に正しておきたかったのだが。残念だったな、エヴァン」
「ディーさんはかっこいい犬だって、俺さ、今はちゃんと分かってるから。大丈夫だ。問題ないよ、社長」
 残念がっているのは、どう見てもルーファウスだった。そして心残りは別のやり方で晴らすのが、この男だ。エヴァンはいやな予感がした。
「ね、ルーファウス。あの子、避けて通れるかな」
 エアリスが言い終わらないうちに、ルーファウスはホーンを鳴らした。車体にふさわしい大きな音だった。
「やだ、ちょっと、何してるの。ルーファウスったら」
「おやおや、しまったな。手がすべった」
「音、立てないほうがいいんじゃないの。ほら、あの子、こっち見てる。近づいて来そう」
「小者なら、エンジン音にすら驚いて近よらないのだが。あれはだめだな。退く気がない。私の道をふさぐとはいい度胸をしている。行くぞ、ディー」
「だめ、待って、ルーファウス。ね、待ってってば」
 エアリスの焦る声は、ドアを閉める音に打ち消された。車中に残された二人の視線は、互いの顔とモンスターとを行ったり来たりしていた。
 モンスターがいよいよ一行に向かって動きだす。隆々とふくれ上がった上肢のわりに、下肢は細づくりだ。歩みは鈍い。どすん、どすん。H〇五一二が二歩近づくまでに、ルーファウスはすでにリアフェンダーへとまわりこみ、ハッチバックを開けていた。ダークスターがすかさず飛びだし、ボンネットに立って威嚇をしている。H〇五一二の足が怯んだ。そのあいだにルーファウスは大きなトラベルケースのうちの一つを解錠する。テーラーバッグ――男性用の婚礼衣装――の下から、縦長のガンケースを引きずりだした。エヴァンは目を疑った。道理で重かったはずだ。
 トラベルケースを運ぶさい、結婚式のための一式だから丁重に扱うようにと、ルーファウスから念を押されていた。祝福に満ちた儀式に、まさか銃器が花をそえることになるなどとエヴァンには思いもよらなかった。
「荷物になるからって、持ってくるの諦めたんじゃなかったのかよ、それ」
 ルーファウスはまず黒革の手袋を嵌めた。次いでがちゃがちゃと組み立て始めたのは、ショットガンだ。エヴァンからは長いバレルが見えた。つやのいい黒色だった。
「私自ら携行することを断念しただけだ。トラベルケースを運ぶのは、私ではないからな。運搬自体に問題はない」
「問題ありだろ。重いよ、重すぎる。社長は嘘つきだ。荷物ってさ、ほら、スーツとかドレスとかだって、俺は聞いてたんだけど」
「エヴァン、正確に思いだせ。スーツなどと、私が一言でも口にしたか」
「え、あれ。ええと」
「なるほど、こうして私は勝手に『嘘つき』にされてきたのか。私は『式に欠かすことのできないもの』だと言ったはずだ」
 やれやれと言いつつも、ルーファウスはさして気にした風でもない。バレルを目線から垂直にして掲げた。ゆがみの有無を探しているらしい。
「だって結婚式だぞ。そんなの、衣装とか靴とか、あと化粧道具とかさ。そういうの思い浮かべるに決まってるだろ」
「決まってはいない。人それぞれだろう。私たちの挙式には、たまたま武器が入用なだけだ。ケースのなかを確かめもせずに、勝手な想像をつめこんだのはお前だ。そうだろう、エヴァン」
 手元を休めることなく、ルーファウスは一瞥を投げた。エヴァンは居竦まる。項垂れながら、それでもぶつぶつと不平を並べることは止まらない。
「そうだけど。だけど。なあ、社長。そもそもさ、何で花婿にこんなごつい武器がいるわけ。護衛くらい、プロを頼めばいいじゃないか。そんなの、神羅にはいっぱいいるだろう。ほら、黒服の怖いやつらとかさ」
 エヴァンのほとんど独り言をさえぎったのは、モンスターだ。どすん。また地響きがして、はっと顔を上げれば、ルーファウスがショットガンをかまえているところだった。変わったかたちのストックをしている。スコープとトップレバーは鈍色の金装飾で――殺傷器具を褒めるには適切ではないのだろうが、それは――とても上品だった。
「今日は私用だと言っただろう。それはともかくだ。人夫という役割を、お前は確かにこなしたようだな」
 銃器は精密機器だ。専用のケースに収められているとはいえ、衝撃は最小限にとどめなければならない。運搬時の諸注意にいたるまで、銃器の扱い方をエヴァンに教えたのは、ほかでもないルーファウスだった。
 事前に言ってくれたっていいのに、とエヴァンはむすっとする。
 どれだけ重荷だろうが、エヴァンにはどう足掻いたところでルーファウスの依頼を断ることができない。それはこの男こそよく知っているはずだった。
 今回は大過なかったからいいものの、たまたまにすぎない。実際、彼は何度かトラベルケースを落としそうになっている。瓦礫を下るときにも、機械塔を上るときにも。あらかじめ荷物の中身を把握していれば、どのようなことがあっても彼は荷物を死守した。何せ武器は生命線にかかわる大事だからだ。どすん、どすん、どすん。迫る足音を聞きながら、エヴァンは今まさにそれを思い知っているところだった。
 こういう――故意に言葉を削る――ところが、この男のとてもいやな部分だ。だが。
「調整は不要だ。褒めてやろう、エヴァン」
 銃身を眺めるルーファウスの、その目元はわずかに細められている。どうやら満足したらしい。すらりと立つ男に、むだな凹凸のないショットガンはよく似あっていた。
「私の相棒だ。ポールスターという」
「恰好いいな」
「エヴァン、余計なこと、言わない」
 はい、とエヴァンはすごすごと引き下がった。エアリスは納得がいかないようだ。後部座席に膝立ちになり、ラゲッジスペースへと身を乘りだすようにしている。ヘッドレストを強く掴む手で、本当は利かん気な夫をつなぎ止めたいのかもしれなかった。
「これは当初から決めていたことだろう、エアリス。私は花婿だが、花嫁の護衛にも就くと」
「そうだけど。だけど、ホーン鳴らしたの、わざとでしょ。モンスターけしかけるのと、護衛、違う」
「あれはもう私たちの気配に気がついていた。教会堂までつけてくるかもしれない。式の最中に乱入などされては、お前も困るだろう」
 妻を宥めながら、ルーファウスは弾丸の連なったホルダーを肩から斜めがけている。それとは別に、コインをポケットに掴み入れていた。いったい何に使うのだろう。モンスターへの立ち退きの賄賂か、いやまさか。エヴァンが口を挟めないほどに、ルーファウスはてきぱきとしていて隙がない。最後にガンケースの緩衝材からブレスレットを取りだした。
「ミネルバだ。着けておけ。役に立たないことを願うが」
 黒の地金に金色の縁取り、そして黒地のリボンがあしらわれている。中央の大きな石は深紅だった。
「約束だったからな。これで文句はないだろう」
「ありがとう。だけど」
 エアリスはそれを両手で慈しむようにかかえた。緑色に光るのは、マテリアだ。しかも四つも嵌まっていた。エヴァンは目を瞠った。マテリアは、ものによってはブレスレットの赤い貴石より高価だからだ。
 神羅カンパニーはマテリアの製造販売をすでに終了している。いささか強引なやり方で回収しているという噂もある。新たに手に入れたければブラックマーケットに立ち入るか、そうでなければ天然の結晶を見つけるしかない。どちらも民間人には困難なことだった。
 細い腕を飾るそれは、法外な価値を持つに違いない。エヴァンなら丁寧にラッピングをして、シチュエーションを選び、勿体をつけてプレゼントするだろう。それをこの男は片手間に渡している。二人の生まれ育った環境の違いは、ものの渡し方一つにも現れるようだ。
 ルーファウスのやり方はスマートに見えた。こればかりはうらやましく思うものの、エヴァンには――ブレスレットを用意するところからして――真似できないことだった。仮に手元にギルがあってもだ。そもそも彼にはアクセサリー一つに大枚をはたく度胸がない。
 エヴァンは改めて痛感する。ルーファウスは大金を動かし慣れているのだと。
 富裕のなかに育つか、それとも会社を取り締まるか。神羅姓を名乗ることで、ルーファウスはその両方から多額のギルを運用するための胆力を培ったのだろう。公私ともにだ。たとえばエッジの防護壁をつくるために、そして妻の防具を用意するために。
 ルーファウスはモンスターを見据えている。エヴァンの見たことのない顔をしていた。勝気だ。この男はいったいいくつの顔を持っているのだろう。ルーファウスへと近づくほど、『ばか社長』が遠退いていく。世評とは信用ならないものなのだとエヴァンはつくづく実感する。
「招かざる客にならないように、あれを片づけてくる。ああ、ずいぶんと近づいて来ているな。飛来物に巻きこまれるとまずい。お前たちは右側へ行け。だが離れすぎるな」
 H〇五一二は、見るからにヒエラルヒーの上層モンスターだ。強者の戦闘にほかのモンスターは介入しないだろう。狙うとすれば、片側が死に、もう片側が疲れ果てたそのときだ。隙をついて、新たに敵襲があるかもしれない。そう続けるルーファウスの口調は、依然として淡々としている。
「そうだな、軒の広い小屋が見えるだろう。あれがいい。だが、なかには入るなよ。さあ、行け」
「待って、ルーファウス。ディーも来て」
「私たちの式だ。私はな、ゆっくりと楽しみたい」
 ルーファウスがエアリスを見た。厳しい碧眼をくるみこむのは、優しい翠眼だ。分かってる、と微笑みながら、エアリスは夫の金髪に指を絡めた。ポケットからヘアピンを取りだし――視界をさえぎるに違いない――前髪をとめている。エアリスの愛用品なのか、とてもかわいらしいデザインだ。それを気にする風でもなく、ルーファウスは妻のするがままに任せていた。
「わたしだって、同じ気持ちだもの。だから、わたしにできること、しておきたいの」
 情をこめた眸と眸が交じりあう。二人は黙ったまま、多くの言葉を交わしている。
 その脇で、除け者はそわつく。夫妻の場所をわきまえないいちゃいちゃに当てられたからだけではない。モンスターが咆哮を上げたからだ。それでもルーファウスは悠長だった。指笛を鳴らしている。聞きつけたダークスターが主によりそった。
「あの子のこと、わたし、聞いたことある。毒と魔晄、吐くんだって。あの左手、気をつけてね」
 エアリスはブレスレットにそっと手のひらを重ねた。マテリアの、四つのうちの一つから何本もの光線がほとばしる。点と線でつながれた白い光は、まるで星座図のようだった。それがルーファウスを、そして次にダークスター、エヴァン、そしてエアリスのまわりで弧を描き、ふつと消えた。エヴァンはうろたえた。身体中をぺたぺたとさわるが、何が起こったのか分からない。ルーファウスはわずかに驚いているようだった。
「お願い、ルーファウス。あの子、早く楽にしてあげて」
 首肯してから、ルーファウスはブレスレットに目をやった。
「レジストか。三つ目の力をすぐに引きだせるとはな。しかもだ。今回、支援マテリアは用意していない。なあ、エアリス。立て続けに使って、身体に支障はないのか。眩暈は」
「大丈夫だってば。体力、自信ないけど。そのぶん、こっちは元気、あり余ってるから」
「これがお前のポテンシャルか」
「だから、言ってるでしょ。わたし、あなたのとなり、ちゃんと立てるんだから」
「さすが私の妻だ」
「ね、次はロッド、用意してね。妻にお似あいの、かわいくて強いやつ」
「一考しよう。だが今日は私に花を持たせろ」
「夫の恰好いいところ、見られるね。だけど、これ、せっかくくれたんだもの。使わなきゃ、勿体ないでしょ」
 もう一度、二対の眸が睦みあう。エヴァンの顔が赤らむ。まるで深いキスを見ているようだった。
 ルーファウスはエアリスの頬を一撫ですると、踵を返した。エアリスが車を降りながら、「わたしたちも行こう」とエヴァンを促す。彼女の横顔に、先程までの不平がましい様子はない。あるのは、ただ一人の男を信じる女の、真直ぐな眼差だった。
 けれど、困ったことにエヴァンの動揺は鎮まらない。言われた通りの方向に避難しながら、恐々と振り返る。エヴァンは自身の目を疑った。ルーファウスが駆けだしていた。
「社長って、走れるのか」
 言ってすぐ、何をばかなことをエヴァンは思った。二本の健康な足があるのだから、当然だ。だがこうして実際に目にしなければ、神羅社長の疾走する姿などエヴァンには思いおよびもしなかっただろう。
 なぜなら、ルーファウスは王だ。生れついてのかしずかれる者だった。
 堅固な城のてっぺんで、王座にふんぞり返る王の尻は、きっと岩より重い。一歩も動くことなく、守られることが当然だと思っているに違いない。エヴァンはずっとそう思いこんでいた。
 そして亡国は、新生の只中にある。今、王が握るべきは采柄であって、剣や盾ではないはずだった。代わりに接敵するのが王のまわりにはべる騎士だ。だというのに、王はこんな日にかぎって随従を許していない。
 そこでエヴァンははたと気づく。
 ルーファウスは危局にもかかわらず自若としていた。そしてモンスター対敵への意気も揚がっていたので、エヴァンは何の疑いも持たなかった。が、ルーファウスは戦闘員ではない。
「そもそもさ、戦えるのか。社長って社長だよな。社長の仕事って、会社の経営じゃないのか」
 戦いを生業としていないルーファウスが、なぜ手際よく武装し、モンスターに立ち向かおうとしているのだろう。しきりに首を捻るエヴァンに、エアリスが曖昧に頷いた。
「普通の社長さんなら、多分そう。でもね、うちの社長さん、違うみたい。ほら、あれ見て。浮かれてるの、すごく」
 エヴァンはなるほどと思った。落ち着き払って見えていたルーファウスは、その実、どうやら胸を躍らせていたらしい。有体に言えば、公園に嬉々として走りだす子供だ。だがその先にあるのは楽しい遊具ではない。
「意味が分からない。何で」
「じっとしていられない人だから」
 長躯が遠ざかる。その背中に、エアリスは顔を向けていた。いとおしくて仕方がないといった眼差だった。
「王様なのにか」
「王様、だから」
 エヴァンはエアリスの横顔を見下ろす。長い睫毛がぴくぴくとふるえていた。
「あの人には、したいことしてほしい。だけどね、しがらみって、あるでしょ。王様の椅子、ときどき邪魔にならないのかなって、わたしは思うことあるんだけど。ルーファウスはね、違うみたい。お気に入りの椅子なんだって」
 夫妻の問題なのだろうか。エアリスのそれはほとんど独り言だった。われに返ったらしい彼女が、「わけ、分からないよね」と謝った。エヴァンは曖昧に首を振る。彼に分かるのは、その玉座とは本来ならルーファウスを守るものだろう。現状、役目を果たしてるとは思えなかった。
「でもさ、大丈夫かな。俺、社長が動いてるとこって、あんまり見たことないけど。でんって、いつもソファーに座りっ放しだろ。ディーさんだってそうだ。菓子食ってるか、寝てるかだもんな」
「ね、エヴァン。お兄さんのこと、心配」
「心配っていうか、あの人たちだけが頼りだからな、そりゃ気になるよ。俺は生きて帰りたい」
「だったら、安心して、エヴァン。ついでに、応援してあげてね」
 夫を信じたい気持ちも分からないではない。だが一抹の不安は拭えなかった。はたしてルーファウスの戦闘員としての能力は、どれほどのものなのか。巨大な怪物を相手に、何か策があるのだろうか。エヴァンはおくびをこらえる。あの男から満ちあふれる自信が、張りぼてだったらどうしよう。
 エヴァンの勝手な思いこみは、次の一目で霧散した。
 まるでサーカスだ。
 ルーファウスとダークスターのコンビネーションは、どれも曲技のようだった。
 十分なインターバルを置いたところで、ルーファウスはショットガンの銃口を空に向けた。直後、晴天に雷鳴がとどろいた。ダークスターの首輪から発する放電が銃口でひらめく。危ない。エヴァンが目を瞑りかけたそのとき、ルーファウスが強い光ごとショットガンを打放した。それも立て続けに三発だ。H〇五一二の左手に――黄色と白色の花火のような――雷霆が命中した。そのたびにモンスターは尋常でない声を上げる。胞のようにふくらんだ手先からどろどろの体液が弾け飛んだ。
「は」
 エヴァンの両眼は真丸になった。
 モンスターが怯んだ隙に、ルーファウスはコインを弾いた。五枚だ。砲声が続く。今度は爆鳴とともに炎のかたまりが左肩ではぜる。ぼっと、熱波は二人のもとにも届いた。軒下を吹き抜けた風に、エヴァンはまるで真夏の昼にじりじりと焼かれた思いがした。
 再度、雷だ。モンスターの四肢がふらつく。奇声は悲鳴に似ていた。もう一度、炎を。迫力のわりに、しかし猛火は雷におよばないらしい。火の粉を振り払う。と、H〇五一二は怒声を上げて、いよいよ走りだした。ルーファウスは直立したままだ。きっと口端を不敵に吊り上げているのだろうが、エヴァンからはそれは見えない。彼の目に映るのは、自信のあふれる背中だけだった。
 H〇五一二との距離が三〇メートルを切ったところで、ルーファウスが腰を落とす。と、ショットガンを放った。狙いはハンマーヘッドのような左手、続け様に六発だ。H〇五一二が男に向かって威嚇する。その隙にダークスターが飛びかかった。しなる触手がぴんっと棒のように伸び、左手を突く。巨大な胞の手から体液が散る。まるで鞭と槍を交互に操るように、青紫の触手で攻め立てている。そのあいだに、ルーファウスが弾丸の再装填を終えていた。
 勿論、H〇五一二もやられっ放しではない。巨躯が右腕を振り下ろす。だが、三本の鉤爪はアスファルトをうがつばかりだ。ちょろちょろする小さないきものにしびれを切らしたのか、左手を掲げて咆哮した。とたんあたりに紫のスモッグが広がった。まるで胞子がばらまかれたようだった。
「ルーファウス。ディー」
 エアリスの大声は痛々しかった。エヴァンは今にも走りだしそうな彼女を捉まえた。エアリスはブレスレットをちらっと見、くちびるを噛んでいる。エヴァンはスモッグを睨む。毒と魔晄、吐いたのはどちらなのか、しかし彼には判別がつかない。いずれにしても生身が無事ですむとは思えなかった。
 今日はめでたい日のはずだった。こんなことになるなんて。それでもエヴァンは万が一のときのことを決断しなければならない。今、すぐに。そして彼にできることは、ただ一つだ。
 エヴァンが掴んだ、細い手首。
 ルーファウスが守りたかったものを、守り抜くことだった。
 ついでにエヴァン自身のいのちも。戦うすべなど持たない彼は、退路を探す。手のひらは汗ばむばかりだった。少しだけ悔しい。
 暗い霧のなかではいったい何が起こっているのだろう。いちばん大きな音は、瓦礫のくずれる派手なそれだった。それから発砲音と犬の唸り声が続いた。何度も、何度もだ。まだ生きている。二人は互いの手を取りあい、固唾をのむ。
 やがて夜明け色の霧が薄らぐ。エアリスの憂い顔もすっかり晴れやかになった。霧がかる前と同じように、一人と一頭はサーカスを繰り広げていた。
「よかった。マテリア、効いたみたい」
 ルーファウスとダークスターとの連携は、完璧だった。
 ルーファウスが撃ち、身をひるがえす。
 ダークスターが空中で前転し、その躍動で触手を振り下ろす。
 リロードしたルーファウスが、すかさず撃つ。
 二発を左肩とひじとのあいだに、三発はひじから手首までの部分に。ルーファウスは残った一発を、地面に放った。エヴァンはそれを誤射だと思った。だが、違ったようだ。射出のいきおいを使って、ルーファウスの長躯が後方にびゅんと退く。つめすぎた間合をそうして調整しているようだった。
「何だ、あの人」
 エヴァンはぽかんとした。人間が飛んでいる。彼にはそうとしか見えなかった。
「『ルーファウス神羅』がさ、何であんなにぴょんぴょん飛び跳ねてるんだ。なあ、義姉さん。あれ、義姉さん」
 避難先の軒下で、エアリスはどうしてだか再び不満そうにしている。
 三者が交戦するたび、大きな振動が起こった。縦の波動に乗って、ときおりつぶてが飛んでくる。軒下は、上空からの索敵を防げるものの、小石を弾く壁はない。
 エアリスはブレスレットを着けた手で空を凪いだ。二度だ。エヴァンを、そしてエアリスの身体が光をまとった。それはすぐに消えた。きょろきょろと自身を見まわすが、だがどこも変わったところはない。エヴァンは首を傾げる。そのとき、またつぶてが彼目がけて飛来した。うわ、と両手で頭部をかばう。確かにごつっと音がしたのだが、衝撃はない。恐々と目を開ければ、彼の足元にアスファルトのかたまりが転がっていた。
「見えない壁、なのか」
 エヴァンは呟く。エアリスは立て続けに手をしならせた。白い光が青い尾を引いて二人と、それから戦域の一人と一頭にまで届いた。エヴァンは息が楽になるのを感じた。それどころか、これまでの道中で溜まった疲労もじわじわと消えていく気がした。
「マテリアなんだな、これが本来の」
 それはそれは美しい発光だった。星座図を描いた光も、雷光も光炎も、そして今まさにエアリスがいくつも繰りだしている柔らかな光の束も。
 エヴァンは人探しの報酬代わりに、黄色いマテリアをもらったことがある。少し弾力のあるそれは、彼の手のなかではただのボールと変わりなかった。マテリアの恩恵に与ったのは勿論のこと、実際に発動するマテリアを目の当たりにしたことすら初めてだった。パートナーに見せて驚かせたかった。この心地よさを体感してほしかった。だがエヴァンでは到底使いこなせるものではないとも思った。いのちを生かしも殺しもできるそれが、彼にはやはり恐ろしかったからだ。
 エヴァンはルーファウスを見る。続けてエアリスを。
「強いよな」
 いのちを、己の手できちんと受け止める覚悟がなければ、これは使ってはならないものだ。
「強すぎだ。まいるよ、本当」
 さすが主演の風格だ。エヴァンはひしひしと感思する。彼に与えられた役目は、そんな大物スターの異母弟であり義弟だった。ずっと『街角の青年E』だったエヴァンには、大役にすぎる。力の差を妬む気にもなれない。はは、と乾いた笑いがもれた。
「強いのはね、いいんだけど。だけど、エヴァンったら、笑ってる場合じゃないんだから。ルーファウス、ひどいんだよ」
 何を勘違いしたのか、エアリスの眉間にもう一本しわが刻まれた。ブレスレットを撫でながら再び、あの人ってばもう、とこぼした。
「あれ、義姉さん。拗ねるの止めたんじゃなかったのか」
「だって。わたしにもマテリア、ちょうだいって言ったのに」
「緑色のそれ、マテリアじゃないの」
「そうなんだけど。これね、よく見たら回復と治療なの。こっちはバリアだし。あと、これ時間。せっかくの連結も、意味ない。そもそもこれじゃ、攻撃できないでしょ」
 エアリスにしては珍しくつっけんどんに腕を差しだす。宝石のように並ぶそれは、エヴァンにはどれも同じ球体にしか見えない。よく使い分けできるよな、と変なところで感心した。
「また、失敗しちゃった。これとあれとそれほしいって、種類までちゃんと言わなかったから、わたし。でもね、だからってこんなことするの、ぜったいわざとだよ、あの人」
 ルーファウスに不満をぶつければ、きっと「お前がほしがったのは、マテリアだ。これもマテリアだが」と、にやつくに違いない。そう言って、エアリスは幼女のようにふくれた。エヴァンには二人のやり取りがまざまざと見えた。あの男と話をするときは、一言多くても少なくてもいけない。身をもって知っている彼は、相槌を打つ。
「次はちゃんと言おう、うん。アルテマと魔法乱れ打ち、ちょうだいって。そうそう、ダブル魔法もつけてもらわなくちゃ」
「ちょっと、義姉さん」
 マテリアの種類に疎いエヴァンでも、何となく分かる。『究極』を冠した魔法を連発するなど、危ないことはなはだしい。そもそもだ。エヴァンはとなりを盗み見る。義姉が再び腕を掲げていた。
「やっともらえたマテリアだし、やっぱり勿体ないから、これ、全部使っちゃうけど」
 いちばんに恐ろしいのは、エアリスもまた惨況を前に平然としていることだった。
「神羅の女もたいがいだな。やばい」
 エヴァンがこの場にいなければ、エアリスは義弟のお守りをする必要がない。きっとルーファウスのもとへと駆けつけるに違いなかった。あの花婿にぴったりの、何とも好戦的な花嫁だ。エヴァンはまた別の冷汗を掻いたのだった。
「ね、今のもう一回、言って」
「すみません。義姉さん、今のなし。やばくないです。聞かなかったことにして」
「違う、違う。怒ってないよ。ね、エヴァン。あなたから見たら、わたしって神羅の人なの」
 また何を言いだしたのだろう、エアリスは。エヴァンは怪訝に思う。
「そりゃ、そうだろう。社長の奥さんだし。義姉さんだってさ、『ゲインズブール・神羅』だって名乗ったじゃないか。本当、物騒な夫婦だよな。あ、ごめんなさい」
 丸く開いていた口を、エアリスは引き結ぶ。緑色の双眸は、ややしばらくまばたきを繰り返すばかりだった。いつもなら気にならない沈黙が、やけに重くエヴァンの双肩にのしかかる。
「え、まずいこと言ったかな。義姉さんにまで何か試されてるのか、俺」
「今の、嬉しかった」
 エアリスは小さく首を振る。と、かれんに笑った。
 両膝に手をつき、エヴァンは前のめりになる。それから彼は長い息をついた。肺が空っぽになるまでだ。
「やめてよ、いじめないでくれよ。本当、頼むよ。義姉さんたちみたいにさ、心臓に毛なんて生えてないんだからな、俺は」
 エヴァンの声は非難がましかった。しゃがみこんでしまいそうなところを、何とか耐える。
「そうかな。ふさふさしてきたよ、エヴァン。前より、ずっと」
 え、とエヴァンは顔を上げた。嬉しそうなエアリスと目があった。
「あれ、気づいてないのかな。だって、エヴァンね、もうふるえてないよ」
 エヴァンは両手のひらを広げる。ふるえるどころかおくびも、吐気までもが治まっていた。いつの間にやらモンスターにいだいた恐怖が半減している。本当だ、とエヴァンは呟いた。ややしてじわじわと沸き起こるのは、喜びだった。
 きっと――モンスターより厄介な――神羅夫妻に鍛えられたからに違いなかった。エヴァンがヒーリンロッジに通い続けた試練の日々が、報われた気がした。
「ありがとう。エヴァン。神羅のやばい女って響き、すてき」
 すてきの意味を考える。褒めたつもりのないエヴァンには、納得しかねた。
「やばい男のほうは、もうちょっと落ち着いてほしい気もするけど。だけど、よかった。ルーファウス、楽しそうだから」
 くすくすと肩をゆらせてから、エアリスは胸の前で手を組んだ。
「あの人、今日ね、三年ぶりくらいの『里帰り』なんだって。なのに、おうち、こんなだから」
 エヴァンちらっと零番街に目をやった。巨大なビルはあちらこちらが削げ、最上階にいたっては半分が吹き飛ばされていた。それでもなお、ミッドガルのシンボルらしくそびえている。まわりのビル群が減ったぶん、余計に目立つ。まるで青天を衝く鋼の剣のようだった。
「家か。大事だよな」
 六番街の古いアパートメントハウスを思いだして、エヴァンは虚しくなった。いつもじめじめとしていて、環境のいい借家ではなかった。今は安らげる居宅もある。だが、あの場所にだけあって、もう二度と手に入らないものがある。母親と暮らした日々だ。
 六番街がエヴァンの思い出の家なら、借家も、シンボルタワーも、この軒先も、それらを含む『ミッドガル』という一つのかたまりがルーファウスの家なのだ。いったいどのような気持ちでいるのだろう。失くしたものの規模が大きすぎて、エヴァンには想像することすらできない。
「仕方ないなあ。今日はサポート、がんばることにしますか」
 エアリスは優しい顔つきのまま、交戦の続く方向を見つめた。エヴァンは訝しむ。つぶての雨が止んでいた。いや、と首を振る。飛来物は二人から離れたところでいまだ降り続き、地面に当たっては砂煙を蹴立てている。
 なぜだ。その理由に気がついたとき、エヴァンは仰天した。
 当初、ルーファウスたちをほとんど後方から見ていたはずだった。だというのに、いつの間にか側面に変わっている。二人がモンスターの標的にならないよう、九〇度、ルーファウスが戦闘の軌道をずらしたのだ。それでいて離れすぎずにいるのは、二人を目の届くところに置いておきたいからだろうか。いざというときに庇護の手を差しだせるように。
「やばいな、社長」
 エヴァンは感嘆した。ルーファウスの五体は、本当に人一人分の器官だけでかたちづくられているのだろうか。エヴァンは到底足りない気がした。たとえば目だ。
「社長ってさ、目玉、絶対に背中にもついてるだろ」
「そうそう、そうなの。あとね、頭のてっぺん」
「あるある。ひょっとしてさ、足の裏にもあるんじゃないか」
「だよね。きっと、そう。いつ、どこで、何見られてるか、分からないんだもの。ルーファウスったら、本当、油断できないんだから」
 洞察する力や動体を見分ける力、そのほかの力の数だけ目玉があるのだろう。それらを裏づけにしたルーファウスの自負心を、エヴァンはようやく信じ、そして頼る気になった。「花嫁の護衛だからな」に、嘘はなかったのだ。
 わずか数メートルまで間合をつめたところで、H〇五一二がふくれ上がった左手をハンマーのように振り下ろす。ダークスターが弾き飛ばされた。ぎゃん。鳴き声が鉄筋コンクリート造の建物群と瓦礫のあいだで反響する。追い打ちをかけようとする巨躯の前に立ちはだかるのは、ルーファウスだ。コイン一枚を相手の目元めがけて撃つ。煙幕が張った。H〇五一二が顔面をおおうもやを上体をよじって散らそうとしている。生じた隙に、ルーファウスは残りすべてを撃ちこんだ。主の援護射撃のあいだに、ダークスターが空中で回転し体勢を整えている。着地するや否や猛然と飛びかかった。
 コインが宙に弾かれ、日光を反射する。ちかちかと光る数は、そのたびに違う。ルーファウスが繰りだす攻撃もさまざまだった。勝利の天秤は、そうして消えたコインの重さだけルーファウスの優勢へと傾いていく。
 次にひるがえったのは、二枚だ。するとどうしたことか、エヴァンの目に――赤い光を帯びた白い直線の――弾道がはっきりと映った。それは日中でもまばゆい光線だった。続け様に、ルーファウスはレーザーを放つ。いくつもの光線がH〇五一二の左手を貫通し、ついには破裂した。絶叫は、耳をふさいでも鼓膜を突き破りそうだった。
「よし。すごいぞ、社長。ディーさん」
 エヴァンが負けじと喝采した。だがその直後、ショットガンがばらけてしまった。エヴァンの嬉々としていた顔が、いっきに暗澹とした。折れたのかと思った。違った。得物は可変式で、長さの違う二丁になった。ルーファウスはそれをかまえ直している。こんなときでも悠然と。
 いよいよ本体を狙うようだ。
 はらはらしながらも、エヴァンは高揚した。あの場所に立つには果敢でなければならない。かつ、それを維持できるだけの意力がいる。いくら卓越した腕前や体力があってもだめなのだ。怖気づいたとたん、それらは使いものにならなくなる。そうなればあとは死をもって戦線から脱落するだけだ。
「俺には立てないよ」
 エヴァンにはとても無理だと思った。情けない呟きとは裏腹に、気分はいっそ清々しいくらいだった。
 モンスターと遭遇したことを、今はもう悲観していない。ルーファウスとダークスターから、果敢は少しも欠けていない。死ぬのは、あのモンスターだ。H〇五一二の――頭蓋と頭足類が一体になったような――顏からは、表情は読めない。ノンバーバルコミュニケーションというのは、しかしいきものの共通言語なのかもしれないとエヴァンは思った。モンスターの右足が後方へと引けているからだ。取るに足らない小さないきものだったはずの脅威に、明らかにうろたえている。
 好機だった。交互に、ルーファウスはあわせて一二発もの弾丸を撃ちこむ。そのたびにモンスターの顔面から左胸部にかけて体液が噴出した。汚泥のようなそれから、ルーファウスは発砲の反動で跳躍しながらのがれた。エヴァンは思わず拍手をした。
「よかったな、義姉さん」
「え」
「あれってさ、すごく臭そうだろ。どろどろだし。せっかくの花婿が台なしじゃないか」
 ウェディングアイルで花嫁を待つ花婿を思い浮かべる。ルーファウスのことだ、まとう香りまで逸品に違いない。だというのに悪臭を放つのだ。モンスターにすら動じないルーファウスの、その不機嫌な様子を想像しようとしたがやはりできない。だというのにエヴァンはぷっと吹きだした。ルーファウス神羅が、不貞腐れている。それだけで面白い。
 エアリスは慌てて彼のジャケットを引張った。
「そんなことになったら、ルーファウス、『シャワーをあびに戻る』って言うよ。しれっと、ぜったい」
「と言うことは」
「わたしたち、ここで待ってるなんて、無理でしょ。だって、戦えない」
「と言うことは」
「強い護衛さんたちに、ついて行かなきゃ」
「聞きたくないんだけど、と言うことは、あれか」
「そう。階段、もう一往復、追加だね」
 二人は顔を見あわせる。と、同時に頷いた。深くだ。
「応援だ」
「きれいに、さっさと勝ってもらわなきゃ」
 エアリスがブレスレットに何かを念じている。光の帯にくるまれたダークスターの猛進が、いちだんとスピードを増した。
 ダークスターが体当たりをし、飛び退き、次いで触覚を槍へ鞭へと変えた。追撃はやまない。主のリロードを見計らって、いったん引く。滑走のいきおいのまま、高く跳躍した。そのあいだもH〇五一二が上体をはげしく振っている。横なぎにした右腕がルーファウスを襲った。鉤爪とショットガンがぶつかる。銃身で受け流し、ぎいんっと摩擦火花を派手に散らす主の真上から、ダークスターが錐揉み回転をしながら急降下した。赤いもやを帯びた紫紺の体躯が、モンスターの脳天めがけて突っこむ。エヴァンはあんぐりと口を開いた。菓子を食って寝てばかりの『かわいいわんちゃん』ではなかったらしい。
 醜怪な巨躯が両膝をついた。真正面から、ルーファウスが左胸を打つ。だん、だん、だんと音の数だけ空の薬莢が転がる。ゆらいだ上体が力なくくずれた。よし、とエヴァンはこぶしを握った。しかしルーファウスは止まらない。瓦礫に沈んだ頭部へと歩みよりながら、さらにマガジンチューブの残りすべてを射出する。
 完全にいのちを絶つ。
「容赦ないな」
 肩より上はすでに跡形ない。体躯の穴という穴から、燐光がいくつも立ち上る。エヴァンは眉をひそめる。乳緑色は、いきものが死ぬときに放つ色だった。星命学論者風に言うと、『次代のいのちを生みだすために、今生のいのちを星に還すときのエネルギー』らしい。モンスターなんてものまでが星にリサイクルされるという考え方は、どうにも不快だ。エネルギーは巡り巡って、異形が人間へと生まれ変わることもあるなんて。その逆もまたしかりだった。星命学論をもともと胡散臭いと思っていたエヴァンは、さらに信じる気を失った。
 それでもだ。ライフストリームが実際にあることを、彼は身をもって知っている。エヴァンは淡い光の筋から、しばらく目が離せなかった。
 神妙になりかけたところで、はっとする。今は勝利を称えるハイファイブだ。エヴァンは身体の向きを変えた。息をのむ。エアリスが両手を胸の前で組んでいる。伏せられた睫毛は長い。横顔は静かだった。
「ね、エヴァン。あの子の光、見えるかな」
 エヴァンの人生には無縁だが、このポーズは知っている。祈りだ。
「緑色っぽいやつだろ。見えてるけど」
 エヴァンは訝しがる。エアリスには見えていないのだろうか。沈黙で問うが、彼女がこたえることはなかった。そんなことより気にかかるのは。
「何で祈るんだ」
「あの子、ちゃんと星に還れますようにって」
「そういうのって、あれかな、星命学ってやつ」
「違うよ。だけど、皆が還るところが星っていうのは、いろいろ端折るけど、本当だから。還れるところあるって、安心するよね」
 ふるえるくちびるを、エアリスは引き結んだ。エヴァンから隠すようにだ。ややして彼女は吐息をついた。
「だからね、見送れるなら、そうしたいの」
「皆って、モンスターもかよ」
 エアリスはためらうことなく、そう、と頷いた。
「だって、モンスターだぞ」
 エヴァンが非難がましく言った。エアリスはゆっくりと首を振る。
「それって、見方の違いだね、エヴァン。あの子からしてみれば、わたしたちがモンスターだよ。しかもね、すごい凶器持って、いきなり突撃して来る危ないやつ」
 エアリスが夫とその愛犬を指差して、悪戯っぽく言った。新しい風に、エヴァンの偏信を吹いて飛ばされた気がした。
 モンスターにも立場があるなんて思いつきもしなかった。彼にとって、そもそも考える必要すらないことだった。だがエアリスは違うらしい。明るい緑色の眸が巨躯に向いたまま、しばたたいている。彼女にはいったい何が見えているのだろう。
「人間のかたち、してないからって、生きてちゃだめなんて。本当はおかしい」
 エヴァンは呆然と立ちつくす。何も言えない。
「まして、あの子、人間がつくったんだから。何されてたか、わたし、ちょっとだけ知ってるの。だからね、余計にそう思うのかも」
 エアリスは醜い死骸から目を逸らさない。後ろから強く吹き抜けた風が、長い前髪をくしゃくしゃに乱す。
「いっしょに生きていけないなら、あの子に『ごめんね』って言ってくれる人、一人くらいいなきゃ。ううん。もう一人、いるね。ルーファウスもきっと、同じ。お祈り、さすがにしないけど、『おやすみ』くらいは言ってるかも」
 エヴァンは澄んだ声を傾聴する。両手を重ねたまま、彼女はエヴァンに微笑んだ。頭一つ分ほど小さなエアリスだというのに、今はとても大きい。
「あの人の言う通り、生まれたからには、生きようとするの。皆、いっしょ。生きてたら、お腹空くし。お腹空いたら、ご飯ほしいよね。ご飯、人間じゃなかったらよかったんだけど」
 木の実なら喧嘩にならないかも、とエアリスは言った。巨躯が小さな果実をつまんでは口に放りこんでいるところを想像して、エヴァンは軽く笑った。
「そんなんじゃ腹いっぱいにはならないだろ。それに木の実なんてさ、高級食材だ。それこそ揉めるんじゃないかな」
「そっか。だよね」
「義姉さんって、優しいよな」
 エヴァンは俯く。優しい人。そんな有体の言いまわしで一括りにはできないニュアンスがある。だが彼には分らなかった。彼女のあたたかな心に、ほかのどのような言葉を当て嵌めればしっくりとくるのかが。
「ありがとう。でもね、残念。いつも優しい人じゃいられないの、わたし」
「俺の足、容赦なく踏むしな」
「あれはね、自業自得って言うの。エヴァンも、ルーファウスも、どっちも悪いんだから」
「とばっちりだ。エロ社長が悪い」
「エッチな兄弟に、公平なジャッジです。反省してください」
 義弟を睨んだあと、エアリスはすぐに白い歯を見せた。エヴァンは空を仰いだ。口からもれたのは、溜息だった。
「だけど。俺さ、義姉さんみたいに考えたことないよ、モンスターのことなんてさ。自分のことでいっぱいいっぱいだ」
「変な顔、しないの。ほら、眉間、しわしわ。そういう顔すると、本当、ルーファウスに似てる。あのね、エヴァン。余裕なくなるくらい悩むのって、それってね、いいことだよ、きっと」
「どこがだよ」
「一生懸命、生きてるって感じする。それにほら、悩み、一つ解決したら、一つ成長したって証だよ」
「一つ減っても、あいつら、またすぐに一つ増えるんだよな」
「エヴァンの伸びしろ、たくさんあるね。楽しみだね」
 ね、と彼を覗きこんでいるのは、やはり優しい人だった。
 不思議だった。彼女と話していると、まるで手招きをされている気分になるのだ。暗がりでひそむエヴァンに、エアリスが明るいところから、そっと。そうして連れだされた日溜まりで、エヴァンはいじけたことがない。心地よかった。なぜか。優しい人をかたちづくるその一端が、今、エヴァンにはようやく見えた。エアリスは否定をしない。
 人は何かにつけて『私たち』と、同一視したがる。だが『あなた』と『私』は別の個性を持っている。だというのに『私たち』は同属からはずれるものを認めない。『私たち』は、時折ひどく乱暴だ。
 エアリスは違った。『私』と『あなた』に分かたれたどちらの個性も尊重しようとしている。
 今だってそうだ。エヴァンは悩みの種――懸念や憂慮――の不利な印象ばかりに囚われていた。だがそれらは、日溜りのもとでは成長の糧に見えるのだから、気の持ち方というのは侮れない。
 そんな風にして、エアリスは言外に『あなた』を大切にしてくれる。それがエヴァンでも、たとえばモンスターでもだ。すごいな、とエヴァンはただただ感心する。
「だといいけど」
 エヴァンは曖昧に笑う。エアリスはときどき遠い。同じ星に生きているはずなのに、違う世界で生きている。
 彼の目に映る世界はまだ狭く、そのせいか考え方も偏固だった。多方面にわたって見える世界は、エアリスの生きている世界はやはり広いのだろうか。
「ルーファウス、ディー、お帰りなさい。お疲れ様」
 義弟の二の腕を撫でてから、エアリスはちょうど戻ってきたルーファウスを出迎えた。
「本当、あなたたち、やんちゃなんだから。だけど、恰好よかったよ」
「勝者には祝いのキスだ。ねぎらってくれ、エアリス」
「じゃあ、ほら、屈んで」
「それ相応に深いやつをしろ」
 とたん目を泳がせる妻に、ルーファウスが含み笑っている。エヴァンを一瞥し、顎先でそっぽうを指す。はいはい、とエヴァンは二人に背を向けた。
「エアリス。何だ、それは。必死に戦った夫に、児戯のキスはないだろう」
「頬っぺたでがまんして。今日はね、くちびる、誓いのキスって、決めてるから。ディーもがんばってたね。怪我、うん、ちゃんとふさがってる。よかった。ケアル、上手だね」
 どうやらルーファウスの望む褒美はお預けらしい。エヴァンは半目になりながら振り返る。エアリスがダークスターの長い耳先に口づけているところだった。
 新婚の邪魔をする気はないが、放っておけばルーファウスの抗議――のていをした惚気――が続くのだろう。また別のモンスターが現れる前に、エヴァンはさっさと車に戻りたかった。
「社長さ、肩の調子よさそうだな」
「そうだな。弾道もぶれなくなった。再びショットガンを持てるようになるとは」
 ルーファウスは息も切らせずに言った。左腕にショットガンをかかえ、右手を眺めている。手袋の下の黒斑が消えてから、まだ一年と経っていない。
 エヴァンは思わず長息した。吐く息に混じるのは、憧憬だ。この男の世界もまた遠い。
「トレーニングの成果、ちゃんとでてるね。すごい」
「それもあるが、お前のサポートにも助けられた。何を使った、エアリス。すごかったぞ、あれは」
「リジェネとヘイスト、ちゃんと効いたのね。よかった」
「ヘイストか。あれは速筋繊維を一時的に太くするらしいが。なるほど、今の戦闘でよく分かった。マテリアというのは、存外に便利なものだったのだな」
 エアリスの腰を引きよせ、ルーファウスは頷く。何かを囁いたようだが、エヴァンには聞き取れなかった。エアリスは慌て、ルーファウスがにやついている。腕をつねられているところを見るに、この男はまた余計なことを言ったに違いない。
「礼を言う、エアリス」
 笑みが引いてから、ルーファウスはひどく真面目な声で告げた。
「あのね、そのマテリアのことで、おうち帰ったら、お話があります」
「何だ、私と折衝する気か。そんな怖い顔をするな、エアリス。先に言っておくが、常用する気はないからな。それでもかまわないのなら、いいだろう。交渉の席に着こう」
 怯みかけたものの、エアリスはすぐさま「負けないから」と胸を張った。ルーファウスは彼女の鼻頭を軽く弾く。
「だがな、エアリス。今回ばかりは支援を受けてよかったと思う。身体も目も速く動くというのは、いい。そのぶん、意識をエネミーに集中できるからな」
「何か分かったの」
 もうひくりとも動かない巨躯に、ルーファウスは目をやる。
「あれが雌体だからなのか、それとも交配の結果なのか。今の個体は、従来のH〇五一二とは耐性が異なっていた」
「やっぱり、そう。雷、効いてたものね」
「お前にもそう見えていたか。どうしてだか、炎耐性は上がっている」
 エアリスからふと笑みが消えた。ルーファウスの口調もいささか慎重だ。夫妻の珍しく緊張したアトモスフェアに、ただごとではないのだとエヴァンは思った。
 ルーファウスがエヴァンを一瞥する。と、短く鼻息をついた。
「要するにだ。モンスターの弱点に、個体差ができつつあるということだ。子供の持って生まれた個性と言えば聞こえはいいが、対峙する側としては面倒なことこの上ないな。都度、対策を練らねばならなくなる」
「ね、ルーファウス。部署の皆、がんばってつくってるモンスターレポートは」
「徒労に終わらせたくはないのだがな。マニュアル化するには、信用性に劣る。さて、どうしたものか」
 難しい顔をする二人に、エヴァンはぽかんとした。ややして気づく。これは本来なら部外者が耳に入れてはいけない話だ。さらに民間にもれでもすれば、パニックが起こるだろう。噂ばかりが錯綜し、乱が乱を呼ぶに違いない。メテオショック直後のころの無秩序を思いだし、エヴァンはふるえ上がった。エッジ市にはいまだにそれを収めるべき統治機構が欠けている。これまで大きな騒乱がなかったことが不思議なくらいだ。
 エヴァンは――彼の目でしかと確かめたばかりの――強者を見る。二人は戦うすべを知っていて、さらにはもっとしたたかな連中を従えている。もとより戦う手立てのない弱者は、しかしこの先どうすればいいのだろう。頼りの『モンスター注意報』は、日に日に増えていくモンスターを前に、どれほど当てになるのか。
 ルーファウスがエアリスの腰へと手をまわす。と、オフローダーへと向かいだした。
「雌雄つくり分けるとこうなる。食欲と性欲のセルフコントロールすらできない能なしが、野に放たれたわけだ。そのへんの路地で、まさにセックスの最中かもしれないな。下品極まりない」
 凍てつくような声だった。エヴァンの膝下で寒気がまとわりつく。足がもつれて転びそうになる。くそ、と初めて聞くルーファウスの悪態は、モンスターの咆哮よりも恐ろしかった。
「何が『世界を変革するに足る貴重なサンプル』だ。宝条め、何のつもりだった。創造の神気取りか。なあ、エアリス」
 お前に害がおよばなかったことだけが、救いだ。
 追い風でよく聞き取れなかったからか。ルーファウスの風に消えた語尾は、どうにもエヴァンには不可解だった。そもそも『ほうじょう』も『そうぞうのかみきどり』もいったい何のことなのか、エアリスとそれらが関係しているのかすら、エヴァンにはさっぱりつながらなかった。
 エアリスがふと立ち止まる。後手を組んで、いまだ厳しい顔つきの男を覗きこんだ。
「それでも、分かったことあって、よかった。知ってると、知らないじゃ、全然違うでしょ。きっと、前に進むための一歩になるよ、ルーファウス」
 エアリスが、ね、と首を傾げれば、ルーファウスの眉間からしわが消えていく。代わりに刻まれるのは、目尻の――かすかな――しわだった。この瞬間は何度見ても驚く。
 ルーファウスもまた、エアリスの手にいざなわれて、明るいところへと連れだされたのだろうか。目を細めているのは、行き先が眩しくて仕方がないからに違いない。エヴァンはそんなことを思った。
「思ったよりモンスターが多いな。見てみろ」
 ルーファウスは顎でH〇五一二を示す。思わず目を向けたエヴァンは、うえ、と呻いた。猛禽のような――といっても体長はエヴァンほどありそうな――モンスターが数頭、H〇五一二に群がっている。つぶれた頭部から柔らかな肉をついばんでいた。
「あれもレポートにはない亜種だ。これ以上、勝手な繁殖が進む前に、間引いたほうがよさそうだ。人手がいるな」
 一難去ってまた一難か。エヴァンは神経が擦り切れそうだった。やれやれ、とルーファウスが二丁のショットガンをつないでいる。ロングバレルにすることで射程が伸びるからだろう。どうやらこの男にはもう走る気がないらしい。
「またWROに依頼するのか」
「軍事力として使うには、あれはまだまだ素人集団だ。スラムのモンスター程度で手いっぱいだろう。どこから掻き集めたのか、銃器もひどいものだった」
 まるで骨董品だ、とルーファウスが軽く首を振る。コインを弾き、続け様に撃ちこんだ。深紅のレーザーがモンスターをつらぬいていく。死骸の上に、あっという間に死骸が重なった。だがアパートメントハウスの屋上の欄干にも、一群が残っている。ダークスターが吠えた。羽音がする。さらに猛り叫ぶ。モンスターは慌ただしく飛び去った。ルーファウスとダークスターを格上と認めたらしかった。
「H〇五〇〇ナンバー相手は、WROでは厳しいか。さて、どうしたものか」
 危機が去って、エヴァンはようやく人心地ついた。すると、朝からずっと驚きと恐ろしさに撹拌されてばらばらだった点と点が、つながりだした。
 今朝、出際のニュースの、アナウンサーのシリアスな声がよみがえる。
 昨晩もまた郊外にモンスターが現れて、三人が死んだ。
 壮年の男と女、そして青年で、青年は結婚したばかりなのだという。
 目撃者の証言によると、まるで大きな鳥のような何かだったらしい。
 今、撃ち殺されたばかりの猛禽もどきと、同じだろうか。
 だとすれば、それは神羅がつくりだしたモンスターだ。
 『ほうじょう』とは、そして『そうぞうのかみきどり』とは。
 モンスターの檻が開け放たれて、もうずいぶんと経つ。
 増えているのは、それを把握していながらも神羅が放置しているからだろう。
 容認しているのが、目の前にいる男だった。
 ルーファウス神羅にほかならない。
 とたん、エヴァンのなかに爆発しそうな何かが生まれた。だが憤怒ではなかった。恐怖でも悲恨でもない。では、エヴァンの体内でたぎる感情は何なのだろう。
 ルーファウス神羅はいったい何をしているのだろう。
 エヴァンは動けない。指の一本すらも。神羅の人間たちが、犬までもが、目の色を変えた彼を何ごとかと囲んだ。しばらくして、ああ、とルーファウスが言った。
「このまま気づかないのかと思ったが。民間人に、とうとうばれてしまったな」
 困った、と首を傾げているものの、ルーファウスが狼狽している様子はない。
「何で」
「おやおや、聞きたいのか」
「だって、人が死んでる」
「死んだ連中は、お前とは無縁の人間だろう」
「そうだけど。だけどさ、何人も死んでる。何人も何人もだ」
「次はお前か、お前の知人かもしれないな」
「言うなよ、やめてくれよ。何人死んでるか、社長は知ってるんだろ」
「当たり前だ。今月だけで二一名だ」
「だったらさ、何で放っておくんだ。神羅のせいだろ。何で」
「知りたいのか、エヴァン」
 エアリスが細い眉をよせている。諫めるようにして、ルーファウスの二の腕に手をかけた。それをいささか強く振り払って、背筋を伸ばしている。薄く笑ったまま、しかしルーファウスは何者をもうがつような眼光をしていた。
 エヴァンは二の足を踏んだ。男の迫力に負けて、目を逸らし、すごすごと引き下がる。そうすればルーファウスはエヴァンへの興味を失い、また他愛のない話に戻れるのだ。いつもそうだった。
 一歩、あと退りかけた、そのとき。
 考えろ、と何かがエヴァンに言った。声は己のうちから聞こえる。考えることだけは放棄するな、と何かがまたエヴァンを叱咤する。頷く。今回ばかりは己の怯懦を許せなかった。また「つまらない人生だな」と呆れられることもいやだった。
 一歩だけ。
「知りたい」
 ルーファウスとのあいだを、たった一歩つめる。ふと、エヴァンの眼前にラインが現れた。いつだったか特別病棟で見たそれと同じ、神羅とタウンゼントの境界線だ。その間際で、エヴァンは踏みとどまる。
「エッジで暮らす、善良な一市民としてだけどな」
 エヴァンは考えなければならないが、今はそのための材料がほしかった。臆病とは違う、これははやってこえてはいけない境界線だからだ。
 エヴァンはルーファウスを強く見つめ返す。やがてルーファウスがくつくつと笑いだした。
「なるほど。なあ、エヴァン。お前のここは今、どうなっている」
 ルーファウスは人差指をエヴァンの心臓へ、それから額の真中に突きつけた。
「当ててやろうか。ぐつぐつと、マグマが全身を駆け巡っている」
 エヴァンは合点がいった。マグマ溜まりがある。己を鼓舞し、邁進させようとして、ふつふつと湧き立つ力だ。とてつもないいきおいのエネルギーが、考えろ、を連呼しながらうねっている。慣れない感覚に翻弄される。苦しい。エヴァンは思わずジャケットの左胸を掴んだ。
「これが神羅の拍動だ。たまにメルトする、こんな風にな。厄介だぞ。気をつけろよ」
 そう言って、神羅の男がショットガンを器用に回転させる。と、またおかしそうに目笑した。
「モンスターを放置しておくのはな、留守のわが家を狙う、空き巣除けだ。先代の遺物だが、便利に使っている」
「は」
「今はまだ退けるわけにはいかない。何せ、親父の遺産整理が、なかなか終わりそうにないからな」
 ルーファウスはかいつまんで説明した。それを聞きながら、エヴァンは考える。考えろ。
 三人の遺体が見つかったのは、モンスター注意報のレッドゾーンだった。昨晩の三人にかぎらず、不慮のできごとが起こるのは、ほとんどが警報区だ。レッドゾーンは大抵がミッドガル周辺で、かつての人の住処がモンスターのそれへと取って代わったのだから仕方がない。
 そもそも廃都が進入禁止区域に指定されてから、おいそれと近づく人間はいなかった。神羅がだめだと言ったら、大抵の市民ははいと従う。三〇年と続いた構図から、人はなかなか抜けだせない。強者の言いなりはいやだと不平をもらしながらも、結局のところよりかかっていられるほうが楽なのだ。
 モンスター注意報を無視し、三人が進入禁止地区のどこへ向かい、何をしようとしていたのかは不明だった。だが、とエヴァンは富裕層向けのアパートメントハウスに目をやる。用をなさないエントランスドア、くずれた外壁、割れた窓、今なら誰でも入りたい放題だ。この一棟に、どれほどの家具や日用品、金目のものが残っているのだろう。
 ミッドガル総人口の資産のうち、いまだ回収の叶わないそれらは途方もないに違いなかった。メテオショックで亡くなったミッドガル市民は、全体の二七パーセントから三二パーセントとも言われている。貧困にあえぐ人々にとって、持主のいない家財は廃棄品と同等なのかもしれなかった。勿論、個人資産だけはない。社屋も店舗も、何もかもが打ち捨てられたままだ。ミッドガルが宝島に見える連中がいてもおかしくはないのだと、エヴァンはそう思った。
 点と点、メテオショック直後の火事場泥棒の横行と、ルーファウスの言う空き巣がつながる。
 仮にレッドゾーンを抜けたところで、支柱に行く先を阻まれる。エヴァンはそれを目の当たりにしたばかりだ。階段のセキュリティーは上下の二重で、解除は困難だろう。つるつるの外構をよじ登ることも不可能だった。エヴァンは荒い鼻息をつく。
 せっかくの注意を無視して、モンスターに食い散らかされたところで、自業自得か。
 ばかだな。
 死に損だ。
 冷ややかな感情が、突然噴出した。自身のもとは思えないそれにエヴァンはふるえ、慌てて首を振る。
 空き巣とモンスターの発生は関与していない。また別の問題だ。
 モンスターが増えはびこっているのは、そもそもが人工生命体などというわけの分からないものを生み、あまつさえ生殖機能まで与えた神羅の慢心だ。『そうぞうのかみきどり』とは、『創造の神気取り』なのかもしれなかった。そんな大仰なものをまねた連中は、この状況を何と思っているのだろう。反省しろよ、とエヴァンは憤る。神の座からとっとと下りて、人間らしく善後策をこうじるくらいの殊勝さを見せてほしかった。
 研究や開発にたずさわった社員は、今もルーファウスのもとにいるのだろうか。厄介な社員をかかえるというのは大変だ。巨大企業にもなると、その規模は桁はずれに違いない。どこで誰が何をしているかなど――よくも悪くも――結果で知らされることも多々あるだろう。エヴァンは想像しただけで胃がきりきりしそうだった。
 ルーファウスは今回の経緯に難色を示したものの、しかし結果自体を大ごととは捉えていないようだった。これぐらいの厚顔でなければ、人の上には立てない。きっと。
 だからと言って、人のいのちを顧みないというのはいかがなものか。
 昨晩死んだ連中は、偶然にせよ故意にせよ、レッドゾーンに足を踏み入れるという自身の判断がもたらした結果だろう。だがルーファウスの看過がもとで、日々、民間人が死んでいることも確かだった。
 出現場所や個体数、現状を把握するための部署を設け、あまつさえ共通認識――モンスターレポート――としてまとめ上げながらも、放置している。
 檻を、電子施錠システムを、なぜ復旧しないのだろう。エヴァンは考え、そうか、と納得した。こたえを、毎夜のように彼は見ていたのだった。
 夜になっても、ミッドガルのネオンは輝かない。
 都市復旧にまわす電力がないのだ。魔晄エネルギーに代わる電力供給は、いまだ不安定だった。
 以前、ルーファウスの自宅で談話中に聞いたことがある。魔晄炉が使えないなか、エッジのそれはどうやって賄っているのかと。
 ルーファウスは何でもないことのように言った。弐番魔晄炉の炉を、汽力発電のボイラーに置き換えたのだと。エッジはその名の通り『端っこ』で、参番街と四番街の外縁から東へと放射状に広がっている。参番と四番では街に近すぎる。万が一の事故や公害発生のさいに手が打ちにくい。壱番と七番はテロリストの破壊工作で、もとより使えない。六番と八番はメテオショックでぐちゃぐちゃだった。
「弐番が妥当だろう」
 すかさず返ってきたこたえと、その規模の大きさに、エヴァンは眩暈を覚えた。
 魔晄エネルギー継続に非難が殺到するなか、神羅はすべての炉を機能停止したのではなかったのか。言われてみてはっと思いだすのは、エッジの北西の空には、いつも白煙が立ち上っていた。エヴァンが今、人らしい生活をすごせているのは、火力炉の、あの細々とした稼働の印のおかげだったのだ。
 メテオショック後の混乱のなか、いつの間にか復旧した電力がどこから供給されているのかなど、エヴァンは気にもしなかった。あって当たり前のように享受していた。ほとんどの民間人が彼と同じだろう。魔晄から火力に切り替わっていたなんてことは、突飛すぎて想像すらしなかった。
「そう難しいことでもないぞ、エヴァン。重要なのは、考えることだ。思考の転化の問題だな。発電にかんしてなら、あるものを使えばいい」
 違いは燃料くらいのもので、もともと魔晄炉のモデルが火力発電方式だったため炉の再利用が可能なのだという。ただしこれは一時しのぎの措置だとも、ルーファウスは続けた。
 化石燃料をうんぬんかんぬん、新エネルギー発電をどうのこうの、発電所から変電所と送電のロスが何たらかんたら。
 そのあたりの話に差しかかると、悔しいことにエヴァンには子守歌だった。今なら聞くのに、と彼は唇を噛む。また胸のうちのマグマが騒ぎだす。すべて理解することは難しくとも、世の仕組を知りたいという欲求は抑えられない。
 急拵えで発電したエネルギーは、しかしエッジ市の維持ですら逼迫している。だというのに、街は日々大きくなる。また足りなくなる。
「育ち盛りの子供は大食だな」
 ルーファウスが妙なたとえ方をした。そして面白そうな顔をしたことを、エヴァンは意外に思いながら見ていた。
「一基では心許ない。電力は二基で賄いたいのだがな。弐番の安定性次第では、伍番の稼働を視野に入れてもいい。だが、火力炉の運転にはいかんせん金がかかる。たちまち必要な金は用意できるが、最終的に負担するのは消費者だからな。電力料金の高騰は困るだろう」
 ゆったりとした所作でティーカップを持ち上げる。いい香りだ、とルーファウスは口元を軽くゆるめた。
「その前に、アーバンデザインを見直すか。まずは南部だな」
 口を湿らせているあいだに、結論を得たようだ。ルーファウスの口振りに迷いはなかった。
 南部に何があったかと、エヴァンは思い浮かべる。何もなかった。
 白紙の土地に、皆、夢を見ていた。ミッドガルでの安定していた生活を取り戻したい人々は、生産設備を。魔晄都市の栄華を忘れられない人々は、娯楽施設を。そんなうわさ――にもならないような、銘々の希望ばかりを言い連ねた――話はいくつもあった。しかし荒地の造成は始まったばかりで、競売にすらかけれられていないはずだった。
 エヴァンは息をのんだ。新しい街は、南部にいたるまでルーファウスの息がかかっているらしい。だとすればすでに用地の詳細は決まっているのだろう。目を丸くする彼にこたえるためか、それとも単に話の流れのついでなのか、ルーファウスは言った。エッジ南部は市街化調整区域で、ミッドガルエリアのなかでも先んじて緑化を進めたい場所なのだと。
 ルーファウスと緑。エヴァンはちぐはぐな取りあわせだと思った。そう揶揄できなかったのは、ルーファウスがいったん口を閉ざしたからだ。伏せられた睫毛が化粧をしたように濃かったことを、今でもはっきりと覚えている。
 南部で何をする気なのか。当時のエヴァンは聞くに聞けなかった。マグマの力があっても無理だっただろう。ルーファウスの沈黙は、珍しく長かった。
「親の食扶持を子供にまわすことも、いたし方ないな」
 静かな顔をしながらも、強い声だった。
 こんなとき、ルーファウスのうちの神羅の拍動とやらもどくどくと暴れていたのかもしれなかった。
 今は中央部の市街化が最優先だ。ミッドガルの全面封鎖が進められるなか――人口が激減したとはいえ――アパートメントハウスも足りていない。南部の開発遅延もやむないらしい。
 こんな風にして、ルーファウスの口調が淀みないことは、ままあった。エヴァンを見ているようで、頭のなかに広げた何かを見ている。計画図なのか、それが具現した数年後なのか。社長って、未来に生きてるよな。憧憬と妬心をこめてうっかりこぼしたところ、ルーファウスは首を振った。
「いや、私は今を生きている。今、このときほど大事なものはない」
 この男が口ごもるよりもさらに稀有なことが起こった。ルーファウスが困ったように笑ったのだ。瞬く間のことだったが、エヴァンの目蓋の裏に焼きついたそれが消えることはないだろう。
「それでも食い足りないぶんを、さて、どう捻出したものか」
 そうして新たにつくりだしたエネルギーすらも、ルーファウスは子供に与えるつもりのようだ。
 檻どころか、都市すべてのセキュリティーシステムがダウンしていながら、ルーファウスにはそれを気にかける様子がまるでない。
 ミッドガルは、まるで鍵のかけられない家だった。
 エヴァンは自身のことに置き換えてみる。
 六番街の自宅には金目のものなどない。だが日用品にひそませた秘密――渡しそびれたラブレターやベッド下のポルノコンテンツ――はそのままだ。赤の他人にプライバシーを暴かれるなど、そんなことはエヴァンだっていやだ。
 ミッドガルは社長の家だろう、大事じゃないのか。エヴァンは今になってそんなことを、家主に聞いてみたくなった。
 エヴァンはあたりをぐるりと見まわした。目にとまったのは、H〇五一二の死骸だ。神羅の資金力で講究された人口生命体のデータは、いったいどれほどの価値があるのだろう。エヴァンには意味のないものだが、人手に渡ると厄介だということはもう想像にかたくない。あんなものをほいほい増産されるなんて、たまったものではなかった。
 今度は零番街を見上げる。神羅ビルや関連施設、そして神羅父子の私邸に眠る秘密。エヴァンは暴かれないことを願うばかりだった。
 名前を呼ばれて、エヴァンはわれに返る。上を向きすぎて痛む首裏をさする。
「親父は息子不孝だと思わないか。あいつは散らかし放題のまま死んだ。まったく、私にはやりたいことがあるというのに、親父のあと片づけにばかり時間を取られる」
 トラジックに肩を落とす姿とは裏腹に、ルーファウスは薄く笑っていた。いったい何をする気なのだろう、この男は。エッジ南部開拓のことも関係あるのだろうか。考えかけて、エヴァンは慌ててとどまった。その先は、ラインの向こうにある。
「あと片づけが面倒ならさ、ほしいものだけもらっとけばいいだろ」
「お前はおかしなことを言う。跡を継ぐということは、何も金品を得るだけではない。いっさいの権利義務を継承するということだ」
「何だよそれ、いやだな。選べないのかよ」
 エヴァンはぞっとした。
 父親の興した会社の、その後任に就いて莫大な役員報酬を得る。豪邸に住み、愛妻の手料理や愛犬との散歩を楽しむ。自適な暮らしだけを相続することはできないらしい。『先代の遺物』とやらもまた、ルーファウスの一手に引き受けなければならないようだ。
 エヴァンにはH〇五一二もベヒーモスも飼えないだろう。それらをつくりだした科学者たちとうまくやっていける自信はない。母親はかつて秘書課にいたという。男女の別離、しかも相手は妻帯者だった。別れた理由は、ありきたりでばからしい愛憎だと彼は決めつけていた。だが母親はエヴァンをとても愛していた。神羅姓。子供に背負わせるには重すぎる荷だと、彼女は分かっていたのかもしれなかった。
「選べない。そもそもだ。私は選ぶ気もない。残らずすべて私のものだというのに、こそ泥があとを絶たないらしい」
 ルーファウスは両手を広げた。その腕のなかにミッドガルを収めるようにだ。薄かった笑みが、ぐっと深まる。
「仕方がないので、鍵をかけておくことにした」
 ルーファウスがちらりと覗かせた顔は、まるで悪がきのそれだった。
 エヴァンはぽかんとしたあと、何とも言えない溜息をもらした。『モンスター注意報』や『ライフストリーム濃度予報』は、人をよせつけないためのセキュリティーなのだ。いくらルーファウスでも不法侵入は看過できないらしかった。
 鍵のかけられない家は、不安で仕方がない。
 エヴァンはこれだけを知っていればいい。それにしたって、と眉をしかめる。
「悪趣味な鍵だな、社長」 
「お前はしのびこもうとするなよ。今度こそ、ベヒーモスと鉢あわせるかもしれない」
「やだよ。しないよ」
「そうだった。お前は注意報を信じる、善良な一市民だったな」
 ルーファウスが鼻で笑った。心臓のあたりを、今度はこぶしで突かれて、エヴァンはよろめく。うう、と唸りながらも、彼は何も言い返せなかった。
 エヴァン・タウンゼントのままで分かること、言えること、がんばっても考えられることは少ない。それでも善良な一市民らしく、一つだけ、言っておきたいことがある。
 ルーファウスは遺産整理だと笑った。軽口だったとしても、利害含めて相続すること自体に嘘はないのだろう。そしてプレジデント神羅の後継はルーファウス神羅、ただ一人だ。すべての責務はいったい誰が負うのか。
 そんなものは莫大な遺産を丸取りしたこの男に決まっている。
「おっかない鍵、いらなくなったらさ。責任持って、ちゃんと片づけてくれよ、社長」
「分かっている」
 エヴァンが精いっぱいすごんで見せる。ルーファウスは頷いた。それから零番街をややしばらく眺めていた。
「責任か」
「あなたのせいじゃ、ないのに」
 エアリスは呟いた。悲しそうだった。ルーファウスは花車な肩を引きよせる。と、妻にだけ見せる特別の顔をした。
「気にするな」
 あっさりとした口調でそんなことの言えるルーファウスから、エヴァンは目が離せなかった。
 凄惨なニュースと『モンスター注意報』、そして親の遺した家とその鍵。
 つながったばかりの点と点が、短い線になる。だがこれがすべてではない。一本の正確な線にするには、ラインをこえなければならない。エヴァンは行けない。広大すぎて迷子になる。
 だからぎりぎりのところから、ラインの向こうの世界へと目を凝らす。
 エヴァンは夫妻を見る。
 才知と、それを実現するための能力がそろっている。これが神羅の男なのだろう。よりそうのは、神羅の女だ。日溜まりへと導く、優しい手を持っている。
 並んで立つ二人の、それぞれの世界は重なっていた。いったいどのようなところなのだろう。どうすれば行けるのか。いくつの困難をかかえ、乗りこえ、それを何度繰り返せばたどり着けるのだろう。
「遠いな。遠すぎだろ」
 マグマ溜まりがすっと落ち着いていく。あとに残ったのは、冷えて固まった溶岩だ。ただただ重くのしかかる。
 こんな重いものをかかえたまま、二人は広大な世界を渡り歩いている。外側から、ルーファウスとエアリスをじっと見、知ろうとするだけでも、狭まりがちなエヴァンの視野が開けていくような気がした。
「だけどさ」
 神羅夫妻につきあうと心臓に悪いことばかりが起こる。それでもだ。稀有なポジションにいられるチャンスから、逃げずにいてよかったのだ。エヴァンは初めてそう思った。
 今だってそうだ。分からないからとはなから放棄せず、恐れず、ルーファウスの世界を垣間見る。考える。すると『モンスター注意報』も『ライフストリーム濃度予報』も、神羅を守り、市民を保護するという二面があらわになった。一つのことで二つ以上の効果を得る。違うな、とエヴァンは呻く。
 とても恐ろしい三つ目があった。警告を無視する不埒なやからは、モンスターが始末してくれる。多忙な男の手を煩わせることはない。
 神羅の拍動とは、結局。
「自分勝手で、負けず嫌いなだけだろ」
 エヴァンは思わず笑った。ルーファウスらしいやり方のような気がした。
「何をぶつくさ言っている。言いたいことがあるのなら、はっきり言え」
 ルーファウスが振り返る。妻を慰め終えたらしい男の声は、すっかり硬質に戻っていた。
「ないよ。いや、あるかも」
 エヴァンは顎に手をそえた。確かに神羅の警報を信じる一市民でいれば、モンスターに遭遇することはそうそうないだろう。電力の恩恵に与り、自宅で明るい夜をすごして、また明日を迎える。エッジはおおむね平和だった。新しい街の為政者は、実はこの男なのかもしれない。
 まだ誰も知らない事実に気持ちを高ぶらせながら、その一方で虚しくもなった。
 ルーファウスとの会話の内容を、エヴァンは他言しない。邸宅の窓辺に止まる鳥の種類や、その日のヒーリンの天気ですらも。どこまでが雑談でどこからが機密なのか、彼にはいまだ判断がつかなかった。だから見聞きしたことはすべてひっくるめて胸のうちにとどめておくことにしている。そもそも神羅社長と会っていることですら――パートナーも含めて――いまだまわりに伏せていた。慣れたとはいえ、せっかくの発見が人知れずうずもれてしまうというのは、何だかもの足りない。
 エヴァンは火力炉を見る。魔晄の噴煙がもくもくと上空をおおっていたころに比べれば、火力のそれは頼りなげだった。だが、こうして地上三〇〇メートルから目の当たりにすると、太く、力強い。
 今でこそ神羅が火力発電でエネルギーを賄っていることは広まりつつある。雇用を民間からもつのられるようになったからだ。すると安定した職を得た人々は、自慢げに話す。何万という市民の生活を託された一基、ゆくゆくは二基だ。そんな大きなものを動かせるのは、やはり神羅のほかにない、と。
 神羅への評価は、少しずつ変わってきているようにエヴァンは思う。だが、実際に誉めそやされるのは、『神羅』という漠然とした何かだ。それは過去の栄華であったり、現在の代表代理――宇宙開発部門の元統括らしいが、エヴァンには馴染みのない名前だった――の手腕であったり、アイコンは日によって変わる。そのなかに、神羅姓の二人の男が挙がることはなかった。
 エヴァンは何となく虚しくなった。せっかくの発見を、誰かに語ることができないでいる気持ちと同じだ。
 ルーファウスはそうはならないのだろうか。
 好悪にしろ、当否にしろ、成し遂げたことへの反応が気にならない人間はいないはずだ。それがいい反応なら、なおのことわが身に賞賛をあびたくなるというものだろう。達成感がないままに、次のやる気をどう奮い起こせばいいのかエヴァンには分からない。
 エヴァンはさらに解せなくなる。反応云々以前に、人知れず働きかけ、暗々裏に結果をだしたところで、評価すら得られないではないか。評価とは、結果だ。エヴァンにとって、次、進むべき方向を決めるために必要な一区切りだった。
「何だ、じろじろと」
 この男の涼しい顔を見ていると、エヴァンはとたんにばからしくなった。ちらりと白煙を見る。東風はやみ、八番街へと伸びていたそれが今は真上に立ち上ろうとしているところだった。次は東に流れるのか、北か南か、それともまた西か。ルーファウスならこう言うに違いない。
「今日なびいたところで、明日は違う方向に流れるだろう、そんなものは」
 エヴァンは心のうちで頷く。仮に伍番魔晄炉が稼働したところで、ライフラインが高騰すれば、きっと巷の不満はつのるばかりだろう。便利な生活が金で買えることを、そのありがたさを、人々はすぐに忘れしまうのだ。
「評価を他者にゆだねるのは、まあ、いいだろう。日々移ろうものだとしても、どれほど偏っていようが、このままならない不安定さこそが世間というものだからな。人口のほとんどを占めるのが、『世間』イコール一般人だ。まあ、このあたりで言うならば、エッジの善良な一市民という連中のことだ。デフォルトの評価は、世の潮流を知る目安になる」
 ルーファウスの呆れ声が、エヴァンの頭のなかでやけにはっきりと聞こえる。
「だが、お前の言うところの達成感がほしいのなら、そんなものは他者に求めるな。自分のやりたいことが、いつかぶれるぞ。確たる指標を、己のなかに設けてから動けよ」
 そうすれば、おのずと行くべき方向は決まってくる。
 理想的なやり方だと思いつつも、そうそう簡単に自身の在り方は変えられない。エヴァンはこの先も第三者の批評に一喜一憂することだろう。そして一度得た喜びは、エヴァンへと活力を注ぎ続けるに違いない。たとえば引き受けた依頼を失敗し、依頼者から心ない言葉を投げかけられたとき、彼がすがるのは過去に成功報酬とともにもらった嬉しい言葉だろう。それはたった一言の礼なのかもしれなかった。
 原動力が己のうちにあるルーファウスには、必要ないのかもしれない。だけど、とエヴァンは曲がったスカーフを直す。
「あのさ、社長」
 そもそもだ。知ったからには、言わなければならないことがある。子供だってできることだ。そう、礼だ。
 とたん、エヴァンは照れくさくなった。だが素直の重要さは、母親の死から学んだばかりだ。この――じかに声の届くところにいるという――機をのがせば、同じタイミングは二度と来ないのかもしれない。
 背筋をしゃんと伸ばせば、胸がすっと気持ちがよかった。猫背はやめようと思いながら、エヴァンはルーファウスに向き直った。
「さっきは助かった。それに助かってる。社長、ありがとう」
 モンスターを一手に引き受けてくれたことも、今の生活があることも。
 しわ一つ、表情の変わらないルーファウスを見ながら、エヴァンは思う。神羅社長に、いつか謝意は届くのだろうか。もっとたくさんの、喜びの声が。届くといい。甘ったれた感傷だと鼻で笑われようとも、これが今のエヴァン・タウンゼントなのだから仕方がない。
「かまわない。私も現状を見ておきたかったところだ」
 結局、ルーファウスは肩を竦めただけだ。嬉々としたのは、どうしてだかエアリスだった。
「本当、ルーファウス先生、厳しいったら。生徒さん、増えないよ」
「これ以上かかえる気はない」
「どうかな。先生、人に教えるの、けっこう好きでしょ」
「好きかもしれないな。妻をトレーニングフロアにぶちこむのが、とくにいい。かわいらしい悲鳴が聞き放題だ」
「それ、次から、弟君のかわいいやつにしよう」
「ちょっと、義姉さん。何言ってんだよ」
 花開く笑み顔のまま、エアリスは前衛のダークスターへと駆けよる。と、そのまま連れ立った。彼女の背後を守るように、ルーファウスが続く。エヴァンは急いでそのとなりへと並んだ。いちばん後ろを一人で歩く勇ましさはない。
「モンスターがまたでてきたら、困る」
「困らない。行く道をふさがれたら、排除すればいいだけのことだ」
「俺じゃできないから、困るんだってば」
「情けないやつだな。せっかくくれてやったショットガンも、まだ碌に使えないのだろう、お前は。ことが起こってからでは遅いぞ」
 ことって何だよ。そう言いかけたエヴァンは、はたと口を閉ざす。『こと』はラジオニュースで聞き、ここに来るまでの道中――奇妙な鳴声と、それをものものしく哨戒するWRO――に目撃し、ついには実際に遭遇したところではないか。探偵社の依頼でエヴァンはエッジからヒーリン、カームを行き来することも増えた。この先、大陸を渡ることもあるかもしれないが、どこぞの勝気な社長をボディーガードに雇うことはできないだろう。そもそもルーファウスと二人きりになる気はない。エヴァンには独力で身を守るすべが必要だった。
 危惧はモンスターばかりではなかった。エヴァンの仕事は、ほとんど人の秘密が相手だ。大きな依頼になるほど、案件にかかわる関係者は増える。人の数のぶんだけ、それぞれの思惑も増す。複雑に交錯する。モンスターと違い、可視できないところが厄介だった。エヴァンの調査を邪魔立てしようとする連中もいるだろう。人の思惑がいざ悪意をともなって具現したとき、力で切り抜けなければならない場面もあるのかもしれなかった。エヴァンはルーファウスを盗み見る。人は、ときどきモンスターより恐ろしいいきものなのだ。
 それでもだ。ヒーリンロッジに通うようになってから、エヴァンはさまざまなプロフェッショナルを見てきた。ふもとの開拓にかかわる人々だ。一を突きつめた人の持つ自信は、光を放つ。エヴァンを陰へと追いこむ。そうやって暗がりからまばゆいそれを羨んでばかりいた彼を、これからは胸のうちのマグマ溜まりがよしとはしないだろう。もう街の便利屋程度で満足する気にはなれなかった。情報を扱うその道を進みたい、真直ぐにだ。
 夢は広がるばかりだが、それも生きていなければ叶わない。何よりも優先すべきは、エヴァンには悲しませたくない人がいるということだ。ことが起きたとき、エヴァンは武器を取ってでも立ち向かわなければならない。ルーファウスのように。
 家に帰ったらすぐ、ベッドの下――大事なものは大抵ここか、天井裏だ――で眠るショットガンを叩き起こしてやろう。だが、エヴァンに使いこなせるだろうか。銃器の扱いを復習うところからやり直したかったが、これは殺傷にかかわることだ。暴力だ。いかんせん彼にはルーファウスのほかに頼れる人物がいなかった。エヴァンは決心が挫けないうちに、厳しいらしい『ルーファウス先生』へ話を持ちかけたかったものの、さて、どう切りだしたものか。
 悩み始めたところで、ルーファウスが先に口を開いた。
「お前こそトレーニングフロアへ行け。銃の基礎からもう一度学び直せよ。だが、私は忙しい。チューターを紹介してやろう。幸いなことに、わが社にはその手の専門家だらけだ」
 一人くらい手隙のやつもいるだろう、とルーファウスは気楽に言った。
 おそらくタークスだ。彼らもまたエヴァンのあこがれるプロフェッショナルだった。なかにはきれいな女性たちもいるが、エヴァンの鼻の下は伸びなかった。連中は誰も彼もが暴力のかたまりだった。しかも女性たちのほうが気も短く、手も足も口までも容赦がない。だが願ってもない提案だ。エヴァンは深く頷く。素人相手なのだからお手柔らかに、などと弱腰なことをつけ加えてしまうあたり、本物の探偵への道は遠い気がした。
 ふとエヴァンは不思議に思う。エアリスのことだ。トレーナーがたくさんいるのなら、多忙なルーファウスがわざわざ時間を割く必要もないはずだった。
「社長は義姉さんの専属なのか」
 いくらタークスでも、社長夫人が相手なら丁寧に扱うだろう。怪我どころか、悲鳴一つ上げさせることなく、きちんと結果もだすはずに違いない。
「何だ、私を指名したいのか。高いぞ」
「違うよ。やだよ。頼まないからな。そうじゃなくてさ。タークスに任せたほうが、早いだろ。効率の話だ。社長だって、そっちのほうが好きだろ」
「エアリスに、効率だと。そんなものは度外視だ。お前は不粋だな。そもそもの話、あれとすごす時間も含めて、私は忙しい」
「だめだ。これ、めろめろだ」
 言ってすぐ、エヴァンはしまったと思った。そっととなりをうかがう。ルーファウスは怪訝な顔をしていた。薄いくちびるが、めろめろ、と繰り返している。馴染みのない言葉なのだろう。そのまま聞きすごしてほしかったが、だめだった。
「そうだ、めろめろだ。エアリスには何でも教えてやりたくなる」
 ルーファウスの惚気のトリガーを、エヴァンは自ら引いてしまった。
「だがな、エヴァン。トレーニングは、あれは冗談だ。フィジカルコンタクトの機会を減らすことは惜しいが、まあ、手はほかにいくらでもある」
 男の手のうちは気になるところだが、エヴァンはがまんをする。下手に口を挟めば、話は広がるばかりだろう。たちが悪いのは、ルーファウスの顔つきも口調も普段と変わりがないということだ。ビジネスや世の情勢の話をしていたはずが、気づけばエアリスの自慢話を聞かされている。よくあることだった。
「エアリスはな、どこもかしこも柔らかい。下手に筋肉で硬く締めてしまうのは、勿体ないからな。見てみろ」
 ダークスターにちらちらと横目を使われながら、エアリスはアスファルトのかたまりを乗りこえているところだった。確かに彼女の体幹は怪しい。両手を広げて、ふらふらゆれる姿は、まるでバランストイだ。
「あれほど薄い身体をしているというのにだ。どこにふれても指が沈む。お前風に言うと、そうだな、ふわふわだ」
 淡々と惚気続けるルーファウスをよそに、エヴァンは次にダークスターに目をやる。花車な背中と並ぶと、隆々とした筋骨がより際立つ。それが伊達ではないことも証明されたばかりだった。エヴァンは自身の二の腕をさする。痩せ型で不満はなかったが、もう少し鍛えてもいいのかもしれない。ショットガンをかまえるにも必要だろう。
 冷ややかな男の愛の賛辞は、まだ続いている。当初こそ、そのちぐはぐさにぎょっとしていたエヴァンだったが、今では聞き流すことも覚えた。だから彼は失念していた。ルーファウスが時折、二人の秘密の時間までをも自ら暴くことを。
「筋肉がきつく締まっているのは、なかだけでじゅうぶ」
 なかとは。エヴァンは瞬間、穴という穴から湯気のでる思いがした。
「ちょっと待って、社長。だめだって。さすがにそれはまずいだろ、伏せるとこだろ、内緒だろ、普通」
 言ってすぐ、ルーファウスが普通ではない男だったと鼻白む。
 だからといって、二人の共通のプライバシーの、さらに秘めやかな部分を片方が勝手に明かすのはいかがなものか。しかももう片方が嫌がる――どころか、確実にピンヒールで足の甲を踏み抜かれる――だろう話をだ。なぜ、と首を傾げるこの――羞恥のかけらすらない――男を、そろそろ止めなければならない。ルーファウスが口を開くたび、エヴァンの頭のなかで神羅夫妻がくんずほぐれつしようとする。寸前で、慌てて打ち消した。これ以上顔が赤らめば、エアリスに疑われるに違いなかった。
 一方で喝采したい気分にもなる。順序がてんでばらばらなルーファウスとエアリスの恋には、エヴァンですらやきもきしていたところだ。とくに彼は男の側に同情的だった。ルーファウスの恋の進展は、エアリスの寝落ちのことも含めて、日を改めてゆっくりこっそり聞いてみようとエヴァンは思った。
「あれの歩き方は、いつ見ても危なっかしい。だが、それでいい。そのままでな。エアリスがつまずけば、私が支えてやればいいだけのことだ」
 相変わらずルーファウスは妻の背中からはずれることはない。はいはい、と適当に頷きながら、エヴァンは思う。
「だったらさ、最初からこんな危ない道なんてやめておけばよかったのに。社長は困らなくても、義姉さんが困るだろ。いちばん困ってるのは、俺だけど」
「エアリスがか」
「いや、だから俺だって。ま、いっか。義姉さんさ、さっきすごく心配してたぞ。いつ飛びだして行くかって、冷や冷やしたんだからな」
「お前という重石が役に立ったな」
「笑いごとじゃないだろ。不安がらせるの、よくないぞ。せっかくの結婚式だっていうのにさ」
 エヴァンがそう言えば、ルーファウスはふと神妙な顔になった。
「エアリスとは事前に話をつけてある。だが、そうだな。花嫁を憂えさせるわけにはいかない。次は観察程度にとどめておくか」
「いや、そこは迂回してよ。そもそもだ、次なんてなくていいってば。何言ってんだよ。夫婦そろって余計なことばっかり」
 エヴァンは慌てた。ルーファウスが鼻で息をつく。
「なあ、エヴァン。以前に言っただろう。私が人と会う時間を設けるのに、理由が一つということはない、と」
 覚えている。初めて自宅へ招かれた日の、帰り際のことだ。金融機関とギルが息を吹き返した、その発端をエヴァンはまざまざと知ったのだった。
「同じだ。私自らがわざわざ現地へ赴くのに、理由が一つということはない」
 あたりを見まわしたあと、ルーファウスは得物をエヴァンに押しつけた。それから弾薬もいくつか。エヴァンは教えられたやり方を思いだしながら、チューブマガジンに一発ずつ押しこんでいく。
「結婚式と里帰りだろ。あとは、もしかしなくてもモンスター観察なのかな」
「フィールドワークはしない。私の仕事ではないからな。だがな、『しない』と『したい』は違う。分かるか、エヴァン」
 ルーファウスがにやりとした。エヴァンは頭をかかえたくなった。実地検分をしたいのだ、この男は。
「私はな、今ごろエッジのペントハウスにいるはずだ。余暇をすごすというていでな。田舎暮らしも悪くないが、たまには街の喧騒にふれておきたい」
 ルーファウスが告げたのは、壱番アベニュー、四番ストリートに建ったばかりのホテルだった。神羅系列の運営会社で、言わずもがなハイクラスだ。この時勢、需要があるのかと妬み半分で話題に上る程度で、エヴァンには縁のないところだった。セキュリティーは万全だろうが、それでも要人には独自の警護がつきものに違いない。そしてルーファウスの随伴といえばタークスだろう。こんな危険な場所に、彼らが神羅夫妻を快く送りだすはずがなかった。
「ちょっと待ってよ、社長。これってまさか、おしのびなのか」
「何だ、今ごろ気がついたのか」
「嘘だろ。だから、ヘリも使えないんだな」
「お前は人の話を聞いているのか、いないのか、分からないやつだな。私が歩きたい気分だったと言ったはずだ」
「だからって、まずいだろ。社長がいないって、皆さ、今ごろ大騒ぎじゃないのか」
 エヴァンはショットガンごと実際に側頭をかかえた。タークスはエヴァンも同伴していることを知らないだろう。帰ったとき、神羅社長にぶつけることのできない苛立ちは、彼に向くのかもしれなかった。
「心配するな。お前に害はおよばない。私用の休暇とはいえ、さすがに秘書には行き先を告げている。私の気に入りのセーフハウスがある。戻るのは明日の昼前だともな」
「明日って、何だよ。俺はどうなるんだ」
 わめくエヴァンに、ルーファウスは艶笑をつくった。
「お前はさっさと帰してやるつもりをしていたのだが。挙式したばかりの夫婦の邪魔をしたいのなら、いいだろう。エヴァン、お前も連れて行ってやろう。とても美しいところだ」
 行きます、などと言えるわけがない。エヴァンはルーファウスの――つやめく顔に食ってかかる気概はないので――肩のあたりを睨んだ。
「無論、セーフハウスだからな、エッジにいるより安全だ。連中もそれは重々承知している。だが、目的地へ向かう道順まで、わざわざ知らせる必要はないだろう。少し寄道をするだけだ。お前の言う『おしのび』の部分だな」
 ふとエアリスのいとおしげな声がよみがえる。じっとしていられない人だから、と。
 エヴァンはルーファウスを『静』の部類だと思いこんでいた。が、状況によって変わるらしい。機敏に動くのは、頭脳だけではなかったのだ。そしてこの男と『動』は思いのほかいいタッグで、一度組めばほかの誰にも止めることはできないに違いない。
 感心しつつも、寄道につきあわされる側はたまったものではない。エヴァンはぶうたれそうになる。王様の尻に接着剤を塗りたくって、玉座にくっつけておきたい、と。
「でもさ、さっきのモンスターのこと報告したら、結局ばれるじゃないか。いいのかよ」
「そんなことはどうとでもする。何だ、エヴァン。お前は些末なことを気にするのだな」
 ルーファウスは不思議そうな顔をしている。この男には小心者の繊細な気持ちが分からないらしい。悪かったな、とエヴァンは鼻息を荒くした。
「わざわざ私が気を揉むことでもないしな。秘書に任せる。あいつならタークスを丸めこむことができるだろう」
 あの人が、とエヴァンは秘書の風体を思いだす。悪人ではない。だが善人とも言い切れない、特徴の薄い顔立ちだった。映画なら、ヒーリンロッジに集うのは個性派俳優ばかりだ。そのなかで、秘書だけは「何だよ、あれ」係のエキストラなのだとエヴァンは思っていた。同類ではなかったのか。エヴァンは悩む。気さくに話していたが、態度を改めたほうがいいのかもしれない。
 こんな風にして、また小さな悩みが増えていく。小さな世界は、いつだって小さな悩みでぱんぱんだった。エヴァンはルーファウスを見る。せめてこの男が。
「社長、あんまりふらふらするなよ。結婚式が終わったら、さっさとホテルに帰ってくれないかな」
 そうすれば、エヴァンを悩ませる問題のいくつかは、解決するはずだった。悶々と考えていたところで、われに返る。慌てて口を閉じるものの、彼の愚痴はすでにルーファウスの耳に届いてしまったらしい。
 ルーファウスはさりげなく歩調をゆるめる。と、声を殺した。
「いい加減、察しろ。結婚初夜だぞ。こんな日くらいは、二人きりになりたいだろう」
 ルーファウスのいつもと違う声色に、腰のあたりがぞくぞくした。エヴァンはぎょっとする。低声に期待があわさると、こんなにも甘やかになるのか。
「社長でも思うんだな、そんなこと」
「おかしいか」
「だってさ、人目には慣れてるんだろ」
「そうだな。やはりおかしな話だ。まわりに誰がいようが、ベッドに何人いようが、気にならなかったというのにだ」
「そこは気にしろよ」
 エヴァンが半眼を向けたところで、ルーファウスは意にも介しない。妻と愛犬の機嫌よくゆれる尻尾を交互に見やっていた碧眼が、ただ一人に据えられる。
「あれは私だけのものだ。私だけがふれていい」
 エアリスがダークスターに何かを話しかけている。横を向いたままの彼女が、瓦礫に足を取られた。ダークスターに支えられ、体勢を持ち直しながらもお喋りはやまない。そして眼差はやはり愛犬に注がれたままだった。
 あの歳になってもつまずくのか、と呆れながらも、ルーファウスの口元はかすかにゆるんでいた。
「だが、エヴァン。見るぶんにはかまわないぞ」
「は」
「見ていくか、エヴァン」
「は」
「ただし、ふれることは許さない。髪の一筋でもだ」
「もし、もしも、もしかしてさわったらどうなるんだ」
「決まっている。星に還ることになる」
「誰にも見せなくていいよ。本当、何考えてるんだよ、社長」
「何をと言われてもな、妻のことだ。エアリスほどかわいらしく喜ぶ女を、私はほかに知らない。見せびらかしたくてたまらなくなるのだが、さて」
「社長、ストップ。自慢したいんだったら、ときと場所と、あと社長の場合は状況もちゃんと考えろよ。また義姉さんに尻つねられるぞ。それに、俺にだって待ってる女がいるんだからな。帰る。ぜったい帰る。だからさ、こんな日くらいは、二人きりでいちゃいちゃしといてよ。はい、どうぞごゆっくり」
 泊まっていけと明言される前に、エヴァンは捲し立てた。
「自慢か。まさか、私がか。こんなことは、今までになかった。エアリスといると、私の知らないことばかりが起こる。驚き通しだ」
 笑みを含むと、さらに艶言めいて聞こえる。厄介な声だった。ルーファウスは前髪に五指を通した。くっついたままのヘアピンに気がついて、はずしている。案外と便利なものだな、と陽にかざした。
「こんなところにもだ。まったく」
 ヘアピンはルーファウスの手のひらのなかに、そっとくるまれた。
「世界は広いな、エヴァン」
 ルーファウスが珍しく視線を落とした。エヴァンは頷いていいものか、迷った。世界は確かに広い。だがこの男はすでにそんな世界で君臨しているのではなかったのか。
「社長ってさ、無敵の王様だと思ってた」
「そうでもない。妻には頭が上がらない。それにな、私にはライバルがいる。今のところ負け続きだ」
 はあ、とエヴァンは大声を上げた。どこかで何かが羽ばたいたが、それどころではない。ルーファウスはアスファルトの割れ目を睨んだままだ。ややして男は、伏目のままかすかに笑った。エヴァンにはそれが自嘲のようにも映った。
「星だ」
 またわけの分からないことを。エヴァンは唖然としたものの、星なら妥当か、と思い直す。相手が何であれ、王を脅かす存在は必要だろう。一人の専断にゆだねられる王国は、いずれゆがみ、滅びる。
 ミッドガルがいい例だった。プレジデントの時代から影は差していた。はびこるテロリズムだ。壱番街や七番街で、エヴァンの知人もどれだけ巻きぞえを食らったことか。私塾の先生や後輩、行きつけの軽食店。母親の好きなケーキ屋の老婆もそうだった。ただ、そこにいただけだ。殺された知人を思いだして、エヴァンはいっきに不愉快になった。
 エヴァンは内心で頷く。王を脅かすものが、偏った暴力ではいけない。先王の二の舞になる。そんな間違ったものに王位から排斥される前に、そもそも間違ったものを生みだすより先に、ルーファウスには誤りを正せる王でいてほしかった。
 ライバルが星というのは、だからちょうどいいのかもしれない。
 普段は静かな顔をしていながら、害心を向けられるととんでもない形相を見せる。エヴァンは星のその一面を知っている。メテオショックだ。赤黒い隕石どころか、地表をおおいつくしたあのおびただしい光の束は、エヴァンの一生をかけても忘れることが叶わない。
 そんな強大なものと差し向わせておけば、さすがのルーファウスもおいそれと曲がったことはできないだろう。
 エヴァンが新しい国に迎えたいのは、賢王だ。ほしいのはつつがない治世だった。エッジの王座に――王妃のピンヒールに恐々としながらも――ふんぞり返る王の姿、エヴァンはその可能性をルーファウスに見始めている。
 何よりもだ。エヴァンはにやつきそうになるのをこらえる。女を取りあってやきもきするルーファウスなど、きっと前代未聞に違いない。そんなただの男の部分を、エヴァンは見てみたかった。
「なあ、社長。ただの男の気分は、どうだ」
 エヴァンはショットガンをかかえ直す。ルーファウスがふと顔を上げる。わずかに瞠目した。
「悪くない」
 ヘアピンを指で弾き、キャッチする。と、ルーファウスはそれをブレストポケットにしまった。
「だがな、ただの男でいられるのは、明日の昼までだ。せっかくエッジに滞在するならと、午後からいくつかのアポイントメントを受諾した。必ず戻る」
 これもまた、ルーファウスが「現地へ赴くのに、理由が一つということはない」に含まれるのだろうか。エヴァンは驚きを通りこして、ほとんど呆れた。結婚式の翌日から仕事とは、この男のバイタリティーは底なしか。
「だったら、寝坊はまずいよな。今晩はほどほどにしておけよ」
 体力お化けがエヴァンを横目で見た。ゆっくりと口角を吊り上げている。
「難しいことを言うなよ」
 エヴァンの腰まわりを、またあの厄介な声に撫でられた。むずむずする感触を慌てて払い落とす。と、エヴァンはルーファウスに懐疑の目を向けた。
「社長、もしかしてさ、結婚式よりそっちを楽しみにしてないか」
「まさか。メインイベントは、挙式以外にない。私がこの式をどれほど待ち望んだことか。エアリスと今日を迎えられたことが、どれだけ」
 ルーファウスは口を噤んだ。ややして首を振った。
「それこそパレードでもいい。私の花嫁を、賑々しく自慢してやりたいと思うほどだ。あれは、エアリスは、本来なら大勢に祝福されるべきだというのに」
 エヴァンは耳を疑う。不甲斐ないな、と聞こえた気がした。急いでルーファウスを見れば、「何をそんなに驚くことがある」と自若と言われた。エヴァンは首裏を掻く。きっと聞き間違えたのだ。だけど、とエヴァンは思う。
 もし、気のせいではなかったら。
「あのさ、社長。神羅も大変だろうけど、いろいろと落ち着いてから、また仕切り直せばいいんじゃないのかな。次は派手なやつ」
「何をだ」
「いや、だから、結婚式」
「結婚式をか」
「プロポーズを二回もするやつに、そんな顔されたくない。プロポーズ二回に、結婚式二回、社長っぽくてちょうどいいだろ。きっと義姉さんものりのりだ。だから何だよ、その顔。俺が常識ないやつみたいじゃないか」
 うろたえるエヴァンをまじまじと見つめたあと、ルーファウスは長い息をついた。
「お前に慰められるとは、私も見くびられたものだな。しかもだ、理由が見当違いもはなはだしい」
 言外に、エヴァンでは知ることのできない事情があるのだと、突き放された気がした。こんなとき、彼の眼前にまざまざと浮き上がるのが、二つの世界の境界線だった。エヴァンは奥歯を噛む。こえられない。それでもいやな気分にならなかったのは、ルーファウスに溜息をつかせることができたからだろう。
 エアリスいわく、「ルーファウスの本物の溜息はね、一〇〇万ギルの価値、あるんだよ」だった。ルーファウスは溜息までをも武器にしている。ブラフやフェークをかけて相手を威圧するのだ。エヴァンにも身に覚えがある。氷の息吹のようなそれのダメージは、なかなかに侮れない。だが、相手に嘘をつけないほど追いつめられたときにこそ、ルーファウスはやり場のない感情を長い息に変えて吐きだすのだという。真偽の見分け方も教わった。エヴァンは男の顔を――じっと見る胆力ないので、逸らしながらも何とか――見定める。
「だが、お前はそれでいい」
 なるほど、これは本物だ。ルーファウスは今、困ったように笑っている。
「何だ、エヴァン。急ににやにやと」
 よし、とこぶしを握ってから、エヴァンは揚々と「別に」と言った。たとえ溜息の意味が呆気でも、このさいかまわない。あのルーファウスから余裕を奪ったことにこそ、価値がある。多分。
「それで、社長。結婚式は一回でいいのか。『ルーファウス神羅』だったら、二回やっても、もっとやっても、誰も何とも思わないだろ」
「問題ない。見せつけたいのはやまやまだがな、本意はエアリスを満足させることだ。一度でやり遂げるだけの用意はしている。忘れられない日になるぞ」
 ルーファウスはくせのない前髪を掻き上げている。すでにいつもの泰然とした様子だった。
「お前も喜べよ、エヴァン。プレスリリースすらしていない情報を、独り占めだ。しかも特等席つきだぞ」
「何が特等席だよ。便利な言葉だよな。こき使う気、満々のくせにさ」
「間違ってはいないだろう。お前はこれから素晴らしいものを目にすることになる。この世界で、いちばん美しい花嫁だ」
 ルーファウスの双眸が、またエアリスを追う。引き結ばれたように真直ぐな口唇が、綻びる。キッチンでくるくるとよく動く妻を見ているときと同じように。つくられた巧笑とはまるで違う、これがこの男の本来の笑い方なのかもしれなかった。
「私が用意した完璧な式の、その一端をお前に任せてやっているのだからな。遣り甲斐もあるというものだろう」
「一端どころか、ほとんどだろ」
「そうだったか」
 ルーファウスは平然と首を傾げた。エヴァンはショットガンをかかえていないほうの手のひらを、これ見よがしに突きつける。と、指折り数え始めた。
「まず式の立会人だろ。ほかには花嫁の父親と、司祭と、グルームズマン、それからブライズメイドだ。あれ、待って。冷静に考えたら、おかしいよな、これ。何で俺がブライズメイドなわけ」
 今更悩むエヴァンの肩に、ルーファウスが手を置いた。
「指が足りないな、エヴァン。荷物運びを忘れている。もう一つ重要なのは、リングベアラーだ。しくじるなよ」
 重かった。車両の手前まで来て、エヴァンの足はぴたりと止まった。
 失敗はできない。だけど、とエヴァンは奮起する。エアリスのもとへと一歩踏みだしたルーファウスの、すっと伸びた背中を見る。これは強要ではなく協力だ。エヴァンの意思で二人の手伝いをするのだ。
 エアリスに言わせると、エヴァンの伸びしろはまだまだあるらしい。ルーファウスにはエヴァンのうちのマグマ溜まりを明らかにされた。エヴァンの可能性を、ほか誰でもない彼自身が諦めないということ。失いがちなそれを、二人は――今日だけではない、神羅夫妻と出会ってから、ずっと――それぞれのやり方で教えてくれている。
 今日、この数時間のうちに、エヴァンはまた多くの秘密をかかえてしまった。神羅夫妻のそれらを背負って得るには、しかし十二分の対価だった。
 オフローダーのドアを開けながら、エアリスが手を振っている。年甲斐もなく、だがとてもあどけなくぴょんぴょんと跳ねながら。ルーファウスはきっと特別な笑み顔を向けていることだろう。
 そんな二人の結婚式に、エヴァンはただ一人、招待をされた。場違いだという思いは相変わらず拭えないが、それでもだ。エヴァンは大きく呼吸をした。背筋をぴんと張ることも忘れない。やり遂げてみせると、強い気持ちを持つ。
「社長」
 ルーファウスが肩ごしに視線をよこした。似ているようで似ていない、直視するにはいまだに落ち着かない顔をしているこの男は、いったい誰なのだろう。エヴァンとはどういった関係なのか。
 当の昔に『ばか社長』ではなくなっていた。ならば『異母兄』かと聞かれたところで、エヴァンはまだ頷けない。できの悪い弟として見られるのは、癪だ。だけど、とエヴァンは思わず笑った。この日ばかりは、二人の関係を簡単に説明できる。花嫁にめろめろの『花婿』と、一人七役の『ベストマン』だった。
 ルーファウスと会うようになってから、そう長くは経っていない。だというのにエヴァンはとても多くの言葉を口にだせないまま、死なせてきた。この男に威応されて緊張するか、冷眼を前に舌が絡まってしまうからだ。
「あのさ。俺、まだ大事なこと言ってなかったと思うんだけど」
 だが、この半分蕩けた男になら。
「何だ」
「結婚おめでとう、社長」
 エヴァンは素直な気持ちで、言いたいことを言えた。


■END■
(自由奔放)

20220420