祭子
2022-07-18 15:25:42
46774文字
Public FF7/R×A/TLKG
 

■LIVE WELL, LAUGH OFTEN, LOVE MUCH■

∠[ν]-εγλ0010/10
一家でピクニックです。ルーファウスは妻の自然と調和するセトラの部分が不快でなりません。
※pixiv掲載テキスト(20220123初出)

■LIVE WELL, LAUGH OFTEN, LOVE MUCH■
∠[ν]-εγλ0010/09


 ルーファウスがブラックフォーマルを着たのは、人生で二度きりだ。
 最初は母親の葬儀だった。子供だったルーファウスは納得がいかなかった。
 教会堂の後陣、棺のなかで母親が横たわっている。白色のワンピースを着て、白色の花被にうずもれていた。棺のふたは閉まるのだろうか。そんなことを彼が気にかけるくらいに、スカートは幾重もの透かしの編地で盛り上がっている。まるで花嫁だった。その下に痩せっぽちの身体があるなどと、誰も気がつかないだろう。
 高いところからは、色とりどりの神秘な光が母親へと降り注いでいる。ルーファウスはほっとした。顔色の悪さも隠せるに違いなかった。どうやらステンドグラスのおかげのようだ。
 天井近くには、側廊にそって縦長のステンドグラスがずらりと嵌めこまれている。一枚一枚に物語があるらしい。どれも素晴らしかった。そのなかでもルーファウスを引きつけたのは、正面、祭壇の真上にある円形の着色硝子だった。微笑む聖母を取り囲むように、白い花が咲き、白い花びらが散っている。
 母親は白色が好きだった。だからルーファウスが一目で好きになったステンドグラスも、気に入るだろう。
 不満なのは、なぜルーファウスは陰気くさいスーツを着なければならないのかということだった。彼だけではない。まわりの大人も、派手な色を好む父親ですら真黒だ。これでは母親がいやがるかもしれない。違う、とルーファウスはかぶりを振った。死人に好き嫌いはない。
 黒一色の圧迫感にたとえようのない嫌悪を覚えたのは、ルーファウスだった。以来、あまりその色を彼は好まない。


 二度目のブラックフォーマルは、父親の葬儀だ。ルーファウスはただただ退屈だった。
 ミッドガル建造時、プレジデント神羅は宗教的会合のための施設を各セクターに用意した。土着の信仰を蔑ろにしないことは、統治者として当然のことだった。
 さまざまな宗教施設のなかから、ルーファウスが伍番街の教会堂を選んだのは、まずは収容人数の問題をクリアするためにほかならない。
 伍番街はシニアマネージャー以上の神羅関係者や富裕層が住まうセクターだった。街なかに並ぶファイブスターホテルや博物館などはどれも独立した建造物で、零番街へと近づくほどに大きく、そして格式ばっていく。教会堂にいたっては、まるで中世から連綿と続く歴史によりそってきたかのように荘厳だった。
 そしてもう一つは、零番市街と伍番市街の境目という立地だった。
 本社ビルからほど近い市街地は、ちょっとした移動時間ですら惜しい彼には誂え向きの場所だった。何せルーファウスは、今、人生の転換期の只中にいる。スケジュールは分刻みに組まれているといっても過言ではない。母親の葬儀も同じような理由で、父親のためにこの教会堂が選ばれたのかもしれないと彼は思った。そこに主役――故人――の意思はない。葬礼とは、つまるところ今を生きる人間のための、区切りのようなものに違いない。
 儀式は滞りなく進んでいく。立ち席も用意しなければならないほどの参列者だった。チャーチベンチはおろか、堂内は真黒だ。黒色を恐れた子供は、もういない。ここにいるのは、席が埋まったことに安堵する男だった。
 ルーファウスが懸念したのは、式の見栄えだ。会場は確保した。あとは衆人が必要だった。が、どれほど集まるか見当もつかないと、葬儀式典チームが前日までやきもきしていた。
 何せミッドガルは、今、物騒極まりない。
 プレジデント神羅がテロリストの凶行に倒れてから、まだ数日と経っていない。首謀は現在、逃亡中だった。そしてただ一人、神羅の名を継ぐ実子は生きている。ルーファウスを狙って教会堂が襲撃されるかもしれないと、敬遠する連中がいてもおかしくはなかった。
 テロリズムなら、どれほどよかったか。
 ルーファウスはこめかみを揉みたかったが、がまんをする。事実を――神羅の英雄の、その亡霊に殺されたのだと――発表したところで、世間は納得しない。プレスルームには、父親の死因は刺殺で、アバランチ分派の犯行だと伝えている。ルーファウスが右腕を痛めているのも、そのせいにした。彼とやりあったのは分派の雇った元ソルジャーらしいが、それは伏せておいた。父子そろって飼い犬に手を噛まれたわけだ。こんな醜聞をおおやけにするわけにはいかなかった。
 それでもこれだけの参列者が集まったということは、大方次期社長に顔を売りたいからなのだろう。プレジデント神羅の圧政のもとで日陰に追いやられていた顔ぶれも、ちらほらと見かけた。時折啜り泣く声が聞こえる。が、その一部は喜びの涙かもしれない。
 神羅カンパニーは、表向きは一枚岩だった。それでも首脳部の動向をうかがって、己の有利なほうにつこうと右往左往する人の群れを、ルーファウスは何度も見てきた。だが、岩に大きな亀裂が入った今、人々はルーファウスを支持することだろう。ふと、彼は今までの恋人たちを思う。二股をかけられた女の、勝った側の気持ちを知った気がした。優越とばかばかしさが彼を笑わせようとするが、無論おくびにもださない。
 そのとき、弔砲が打たれた。三度だ。側廊にずらりと立ち並ぶソルジャーや神羅兵が、一斉に長靴を鳴らす。一瞬、教会堂内がどよめく。ルーファウスは背筋を伸ばしたまま、ひくりとも動かない。神羅軍のものものしい警備も、弔問者の安心の一つかもしれなかった。
 葬儀と並行して、ルーファウスは自身の就任準備も進めている。
 ミッドガルは街全体が喪に服している。就任式典はジュノンで執り行うことにした。取り急ぎ立ち上げた就任式典チームが、軍港を封鎖し、慌ただしく準備を進めていることだろう。ルーファウスからの要求は「盛大にしろ」の一点だ。親父の葬儀などかすむくらいのな、という言葉はのみこんだ。
 ルーファウスの社長就任は、しかし彼の時代の始まりにすぎない。
 采配しなければならないことは、次から次に湧いてでてくる。今、このとき、ここにいることが勿体なかった。だからといってほかに葬儀の施主を務められる身内はいない。チャーチベンチの最前列に座るのは、ルーファウス一人きりだった。終始、人をはべらせていた父親のことだ。子供を二、三人ほど認知しておけば、さびしい葬送にならずにすんだだろうにとルーファウスは思う。ただし、そのあとでさらに賑やかな兄弟喧嘩が起こることは避けられなかっただろう。
 ハンカチを貸す相手もおらず、彼はただ後陣を見据えるばかりだった。
 壁際に並ぶ兵隊のその真上には、とりどりのステンドグラスが嵌められている。昔、興味深く聞いたはずの一枚一枚の物語を、彼はすっかり忘れてしまった。それらを眺めれば何か思いだすかもしれないが、見る気すら起こらない。円形のステンドグラスは、しかい子供のころに感動を覚えたそのままだった。外光線を受けた聖母の微笑は、彼女自身が光輪を放っているようだ。美しい。別段、神聖性を尊ぶつもりはない。美術館で気に入りの絵画を見つけた気持ちに似ている。そうして彼は、聖母を取り囲むマドンナリリーを数えていた。
 だが、ただ時間をやりすごしているわけではない。彼の時間は有限だ。この一見むだとも思える葬儀も、ルーファウスは有効に利用するつもりでいる。たとえば、涙だ。
 プレジデント神羅の訃報に仰天したのは、ミッドガルだけではない。全世界が震撼し、神羅カンパニーの動向に注目している。仮にも一国の王が死んだのだ。弔いを蔑ろにすれば、ルーファウスの品位と為人が問われる。式次は――まだミッドガル、ジュノン、グラスランドとエリアが分かたれる以前から――この大陸に根づいている信仰に則ることにした。
 信仰。それもまた、ルーファウスを閉口させる要因の一つだった。
 出生や成年、婚姻とそして死。信仰など、この鋼鉄の街では半ば形骸化しているというのに、人々は人生の節目になると神やその代弁者の恩恵を得たがるのだ。まったく都合のいい連中だ、とルーファウスは嘲笑う。彼は権威ある第三者からの保証など、必要としない。
 成年の誓約がまさしくそうだった。プレスルームからの依頼で、ルーファウスは仕方なしに人前でのイニシエーションに臨んだ。主催に感謝をのべ、これからの人生の決意を表明する。そしてさらにはまわりに今後の享受を請わなければならない。だが誓いとは、それは他者と交わすものではなく、己のうちに立てるものだ。ルーファウスは、彼自身の信念だけを信じている。
 ただし、利用できるものはとことん使いつぶすのが彼のやり方だった。信仰も言わずもがなで、この葬儀はチャンスだった。先代の急逝を、悲しみとともに乗りこえる若き指導者を演出するのに、ちょうどいい。
 祭司が聖別された水を手にしている。それで父親の生前の罪を神に請うようなのだが、ルーファウスは首を傾げそうになる。たったの数分で、あの男の長年の罪業が清算されるのなら、神というのはとても度量が広い。被害をこうむった側からすれば、しかしたまったものではないだろう。被害者への保障や補填を、神はしないからだ。
 分かりやすいのは先日起こった壱番街魔晄炉の、爆破テロリズム被害だ。
 アバランチのなかでも、暴力で一方的に会話をしようとする、頭の悪い一派だった。そんな連中を、ルーファウスは特別に蔑視している。なぜ、尻拭いをしなければならないのか。父親が被害の回復を放置したのも頷けると、ルーファウスもこればかりは同調せざるを得ない。それでも彼は救いの手を差し伸べた。
 電力はほかの炉から賄えるものの、外縁部のインフラストラクチャーにはいまだ影響がでている。それ以上に状況がひどいのは、急性魔晄中毒者のいちじるしい増加だった。
 魔晄炉を停止するには、しかるべき手順がある。操作できるのは構造を熟知する技術者にかぎられていた。それをあろうことか、どかん、の一発ですませた連中は、いったい何を考えていたのだろう。いや、とルーファウスはうんざりした。何も考えていないか、考えることを放棄したのだ。だから眼前のむごたらしい有様が耳目に入らない。
 テロリストが手にかけたのは、人命だけではなかった。実地で苦労を重ねて身につける技術をも絶やそうとしている。
 安全弁を破壊された壱番魔晄炉は、今もなお魔晄を垂れ流している。微量とはいえ看過はできない。爆発に巻きこまれて、多くの優秀な技術者が死んだ。かろうじて助かった作業員も、今は病床に就いている。回復は見こめないだろう。魔晄中毒に特効のある創薬は遅々として進んでいない。ほかの炉から応援を呼んではいるものの、彼らには通常業務がある。結果、炉の復旧の目処は立たず、隣接するセクターまで医療機関は満床になる始末だった。
 伍番街で同じ手口を繰り返そうとしていたのだという報告を受けて、ルーファウスは冷笑した。侮蔑を向ける時間すら、彼はいよいよ惜しくなった。考えることのできない人間は、それはもうルーファウスと同じいきものではない。裁きの場へと連行されるまで、分派の連中のことは忘れることにした。
 父親が七番街を利用したように、彼もまたはなはだしい惨状――プレート落下の被害状況やテロリスト検挙――をいいように使うつもりでいる。
 プレート上部に居住許可IDを持っていても、外縁部はロウワークラスの集落が多い。彼らは施しを恥とは思わないらしい。都市開発部門に特別生活再建窓口を設けたとたん、被害者の身内からの賠償請求や、テロリストへの怨嗟の声がやまないと聞く。ひょっとすれば、神羅が手を下す必要はないかもしれない。アバランチは神羅に仇なしたつもりでいるようだが、自己満足の結果、次に敵愾心を向けられるのは己たちなのだと思いつきもしないらしい。ミッドガル市中にはテロリストへの憎悪が渦巻いている。それを延々と聞かされる都市開発部門のオペレーターは、業務とはいえたまったものではないだろう。残業どころか帰宅できない日が続いている。事態が収拾したあかつきには、賞与とは別に一時金の支給を人事部に持ちかけてもいいと、ルーファウスは思った。炉内で従事する神羅関係者には、さらに特別のつぐないが必要になるだろう。七番街にいたっては言うまでもない。
 市民のそういった不平不満まで収めるのは、神ではなくルーファウスだ。
 香炉を振りながら、祭司はよく通る声で祈りを捧げている。これはいいと、ルーファウスは思った。目と耳と、そして鼻で厳かなアトモスフェアを参列者に知らしめることができる。乳香の――森林のような爽やかな香り――も彼の好みだったが、さすがに今は眠気を誘うばかりだ。もう何度目になるのか、彼はあくびを噛み殺した。薄らと涙液を張る双眸に、フラッシュライトが焚かれる。一斉にだ。ルーファウスはこれを待っていた。
 明日の朝刊の見だし――大方『一人息子が偉大な父親をしのぶ』だとか『悲涙の神羅の貴公子』といったところか――を想像してげんなりしたものの、それはどうとでもなる。『一人息子』は『次期総帥』に、『貴公子』を『指導者』へ書き換えさせれば、あとは世間が勝手に騒ぐことだろう。重鎮の死を嘆き、そして拠りどころを求めて後継者に期待をよせるに違いない。聖堂内にマスメディアを入れたのは、ほかでもない彼だった。
 成年になったばかりのルーファウスが表紙を飾った雑誌は、よく売れたらしい。明日の朝刊も飛ぶように売れることだろう。今まさに全世界に中継されている特別報道も、いったいどこまで視聴率が上がることやら。どうせなら最高をマークしてやろうか、と心のうちでルーファウスは勝気に笑う。
 参列者の献花がすんだところで、ルーファウスは立ち上がった。スムースな所作で襟元を正す。参列者と視聴者へのスピーチは、チーフ・モーナーとしての務めだ。父親のとなりで立ち止まった彼は、再びフラッシュライトをあびた。
 閃光には慣れているはずだった。しかし寝不足も相俟ってか、眩暈がする。棺のなかの父親の顔は、目が眩んで見えなかった。


 そのあと本社に戻ったルーファウスは、レセプションフロアで各界の名士との挨拶をすませた。
 父親の趣味なのだろうクリスタルシャンデリアは、極限まで明かりを強くした。とんだ魔晄食いだとルーファウスは呆れながらも、くまが隠せることには感謝した。散乱する光のなか、金髪も白皙もよく輝いて見えたことだろう。
 立食とともに、献杯と称してアルコールも振る舞っている。彼の周囲からは一分のあいだですら人が途絶えなかった。握手のしすぎで手が擦り切れそうだ。そんなことを内心毒づきながらも、彼は沈着に対応した。
 新社長の仕事はすでに始まっている。選別だ。
 グラスを片手に対面しながら、可なら左側の秘書を、不可なら右側の秘書に一瞥を投げる。ここでもまた――何度ものみこんだ――溜息を暇つぶしに数えていたが、ルーファウスは途中から放棄した。果てがない。そうして彼は午後の大半をまた浪費した。
 空っぽの胃に、父親好みのアルコールがきりきりと染みた。そのときばかりは、さすがのルーファウスもわずかに眉をしかめたのだった。父親への哀悼と彼への悔みをのべる相手には、きっと悲しみの表情を演出できたに違いない。
「スキッフのご用意が整いました」
 耳語に、ルーファウスは軽く頷く。と、その場を中座した。エレベーターへと乗りこむ。七〇階のヘリポートからジュノンへと向かうつもりだった。護衛にはソルジャーセカンドと神羅軍上級兵を配備している。数名の管理職も同乗するはずだった。ルーファウスは舌打ちをこらえる。
 あの四年間の『長期出張』のすぐのち、ルーファウスの腹心はことごとくばらばらになった。
 秘書方は、ほかの要職の直属に異動になった。栄転と見せかけて――宇宙開発部門の管理職を始めとした――閑職にまわされた者や、職務どころか管轄違いの市庁への転職を命じられた者もいる。そのうちの一部は、辞令を蹴って、おのずから子会社への出向を望んだ。子供への仕置きにしては、大がかりな人事異動だった。
 真実を知るものは、かぎられたごく一部だけだ。リフレッシュフロアでは、彼らは冷血な副社長の不興をこうむったのではないかと、『長期出張』にかこつけて見かぎられたようだと、そんな噂がいっときランチタイムの話の種になったらしい。
 だが、ルーファウスが青春時代を費やして見こんだ連中もまた、不屈だった。
 与えられた、もしくは自ら選んだ場所で練磨し、彼らは見聞を広めることに尽力した。そうして皆いちように次の辞令を待っていた。無論、辞令の発令者は『神羅電気動力株式会社 代表取締役社長 ルーファウス神羅』でなければならない。そうしてルーファウスの復権に向けて内々に連絡を取りあっていたさなか、先代の急死は彼らにとっても寝耳に水だったようだ。
「残念です。腕の見せどころを、失ってしまいましたね」
 久々に会った彼らは、親を殺されたばかりの子供にそう清々しく言った。
「遅い仕事なら、誰にでもできる。だが、君たちにはこれから挽回できるチャンスがある」
 その子供もまた静かな面持ちで、周囲と、そして自身にこそ強く言い聞かせた。そうして皆と固い握手を交わしたのだった。
 ルーファウスの社長としての初めてのサインは、代表交代にかかわる煩雑なものばかりで、これっぽっちも面白くなかった。だが、新しい人事発令には楽しくサインを綴った。彼らはジュノンで社長の到着を待っている。
 昇降機の真中に立ち、ルーファウスはシースルーエレベーターのそとを一望した。ちょうど薄暮だった。赤色、橙色、金色、紫色、そして夜色のグラデーションが広がっている。空よりも地上に星がまたたきだすこのつかの間の美々しさが、しかし彼の目に焼きつくことはなかった。
 ルーファウスはいよいよ安閑としていられなくなったことに、気を引き締める。それと同時に彼の口端には、ようやく薄らと笑みが浮かんだ。
 何せルーファウスはくせのない人間などつまらないと思っている。彼が学友のなかで目をかけたのは、歓心を買うことなど考えたこともない、やはり一癖も二癖もある連中ばかりだ。そして野心がある。そのぎらぎらと野蛮な熱が、ルーファウスは好きなのだ。
 腹心は、ルーファウスの守り刀になるだろう。だが、彼が恭敬の王冠を頭からすべり落としたとき、その切っ先はルーファウスに向くのかもしれなかった。旧友との輝かしい日々は、すでに過去だ。ルーファウスは常に彼らの王でなければならない。
 セカンド以下の――戦闘力に不安の残る――衛兵や、ここぞとばかりに媚びへつらうに違いない管理職など些末ごとだ。ルーファウスは右肩をわずかに動かす。細身のブラックフォーマルでもシルエットがくずれないよう、サポーターは薄手だった。ショットガンはさすがに無理があるだろうが、ハンドガンなら握れる。ナイフもあるいは。それにしてもダークネイションが使えないことは痛手だと彼は思った。ルーファウスは移動時間を仮眠に充てたかったが、まだ敵味方の区別のつかない雑多のなかで、意識を手放すことはしない。ただし、周囲の追従につきあう気もないので、目を閉じてやりすごすとルーファウスは決めていた。
 手のひらに、ダークネイションの固い筋骨の感触が、ふとよみがえる。ルーファウスが掛値なしの信を置ける、貴重な存在だった。思わずふるえかけた口唇を真横に引く。しばらく寝不足は続きそうだった。
 エレベーターが最上階で止まる。一団はエグゼクティブフロアを上座へと進む。
「すぐに発つ」
 ルーファウスは――彼の『長期出張中』に名ばかり置かれていた――数名の秘書のうち、壮年の男を呼び止めた。
「君たちには葬儀式典の残務を任せる。ああ、そうだ。くだんの二社には、追って連絡すると伝えておいてくれ」
 ルーファウスの足は止まらない。ミッドガルの雑務に、ルーファウスの腹心を使う必要などない。後ろから、慌てて追いかけてくる靴音がする。
「ですが、ルーファウス様。お父君の葬送は明日の一〇時のご予定です」
「私は取り急ぎ、社の威信を保たなければならない。親父の件も、壱番街と七番街の保障のことも含めてな。テロリストどもに足の裾を多少蹴られたところでびくともしないのだと、世間に知らしめる必要がある。墓所でめそめそ泣かれるより、親父も喜ぶだろう」
 ルーファウスは淡々と続ける。
「あとは棺を納めるだけだ。君たちで用は足りるはずだろう」
 父親が生前から墓所を用意していたことを、ルーファウスはつい先日知ったばかりだ。
 ミッドガルエリアとジュノンエリアを横断する山脈の、西の尾根に彼の母親の霊廟はあった。ロートアイアンの門扉とグラニット石造の瀟洒な屋舎だ。地下に棺が安置されている。父親はどうやらそのとなりで眠る気のようだ。数々の浮名を流してきたすえに、妻のもとへ戻るなどという美談で終わらせる気らしい。
「いとおしい妻との、ようやくの再会だ。息子とはいえ、私が立ち会うのは無粋だろう」
 ルーファウスは適当なことを言ってから、口をぴったりと閉じる。
 いったいどの面を下げてそんなことを、と思わなくもない。立地も彼は気に食わなかった。ミッドガルとジュノン、二箇所を一望できる高台だ。死んでからもなお王様気分でいたいとは、どうにもあの父親らしい。しかし今からほかに墓所を用意するのも手間だ。母親には悪いが、ここはがまんしてもらおうとルーファウスは思った。
 となりに父親がいれば、ルーファウスは溜息をこぼしていたことだろう。だが、いない。代わりに彼はもの静かな表情の下で、悪態をつく。死人はせいぜい山奥で隠居していればいい、と。
「さっさと二人きりにしてやれ。君たちも埋葬がすみ次第、ミッドガルに戻るといい。不幸ごとは予期せぬものとはいえ、通常業務が押しているだろう。くれぐれも遅延のないようにな」
「ですが」
「まだ何か言いたいことがあるなら、聞こう。だが、それは私の足を止める必要のあるものなのか」
 秘書の足音がやむ。ルーファウスが歩みをゆるめることはなかった。
 そうして二つの葬礼を終え、ブラックフォーマルを脱いだルーファウスは、彼のとなりに並び立てる人間を失った。
 溜息一つつける相手すら、この世界のどこにも、もういない。


 ルーファウスは溜息をついた。
 両親の葬礼はどちらも伍番街の教会だった。そんなことを彼は思いだしていた。
 さらにもう一度吐息をつく。何の因果か、ルーファウスは今、二人の墓所と峰続きの山中に居をかまえている。
「どうしたの、ルーファウス」
 木陰で二人と一頭は昼食を取っていた。丈の短い雑草が氈褥のようだ。クロワッサンサンドを頬張りながら、エアリスが彼の顔を覗きこむ。
 自宅から東へ進んだ先に、彼らが憩う大樹はある。峰の立木はどれも樹高が高い。なかでも取り分け大きなそれを、エアリスは『長老の木』と呼んでいた。なるほど、とルーファウスは思う。幹を囲むには、二〇人近い大人が手をつながなければならないだろう。そうなると年輪は途方もないに違いない。だが古木のわりに元気そうだ。枝ぶりもよく、伸びやかなその先には濃い緑色の葉が生い茂っている。根元には空洞があって、突然の雨でもなかでしのげるほどに広かった。
 ルーファウスの休日の、最近の昼間のすごし方といえば、まさかのピクニックだった。まだ夏の名残のある九月だが、山頂付近は日差しの強さのわりにすごしやすい。遊山は彼らの気分転換にちょうどよかった。
 腹ごなしなのか、ダークスターが野兎を見つけてはじゃれついている。ルーファウスは目を細める。追われる側は必死なのだろうが、愛犬が生き生きと走りまわっている姿を見るのは気持ちのいいものだ。
 それからもう一つ、彼を憩わせるのは妻の居住まいだった。
 地表にまで這う太い根にもたれることもなく、背筋をすっと伸ばしている。木洩れ日の下、樹木の香気をあびるエアリスは、美々しかった。
 長老の木だけではない。シークレットガーデンでも、ゲインズブールの家でも、彼女は自然のなかにいる姿がいちばん映える。星が遣わした女だと――ルーファウスはこの考え方が大嫌いなのだが――そう思わざるを得ない。だが、泉にふれるとき、花の香りを嗅ぐとき、エアリスはいつも彼を見上げては嬉しそうに微笑むのだ。逍遥することで彼女の気が安らぐのであれば、ルーファウスにはそれをやめさせることができない。
 何よりも、彼自身がピクニックを気に入っている。就業中に彼が眉間へと刻み続けたしわをリセットするのは、妻と愛犬とすごすひとときだった。
「ね、ルーファウス。ねえってば」
 エアリスが小首を傾げる。彼女の口端についたパンくずを、ルーファウスは払う。
「ああ、悪い。話の途中だったな。教会だがな、伍番街にあるのを思いだしていた。知っているか、エアリス」
「スラムの。ほら、あなたと、出会った教会のこと」
「いや。プレート上部だ。ゲインズブールの家の、ちょうど上あたりにある」
「プラントエリアの上なら、知らない。だって、ただでさえお金持ちのセクター、警備、厳しいんだもの。お花、売りに行ったことないな。しかも、メインピラーの横でしょ。そんなの近よれないよ」
 エッグフィリングのついた親指をちゅっと舐めてから、彼女はまたバスケットに手を伸ばす。ルーファウスは目笑する。食い意地の張った妻は、美しいというよりどうにも少女めいている。
「ね、次のおすすめ、どれ」
 ルーファウスは瓶入りのビアを飲みながら、バスケットを覗きこむ。安酒も、こうしてそとで飲むと美味い。
 大量の乳酪が手に入ったので、エアリスは昨夕からクロワッサンを仕こんでいた。焼き上がったばかりのパンに挟む具材を用意したのは、ルーファウスだ。エッグフィリングのほかに、シュリンプ、ベーコン、三種のチーズ、つけあわせには色とりどりの野菜だ。どうせならとすべて違うサンドイッチにした。カスタードクリームとホイップドクリームの――いささか熱量過多な――それは、エアリスが嬉々として絞りだしていたもので、どうやらデザートらしかった。
「シュリンプとクリームチーズか。いや、ベーコンもきっと美味いぞ。かりかりに焼いたからな。お前も知っているだろう。つまみ食いの常習犯め」
「あれは、味見です。じゃあ、シュリンプにしようかな」
「ベーコンにはな、ラペを挟んでいる。お前好みのドライフルーツを入れた、特製だ」
「迷っちゃう。けど、やっぱりベーコンに決めた。ね、ルーファウス、シュリンプの一口ちょうだい」
 はい、とエアリスはシュリンプサンドを差しだす。ルーファウスはサンドイッチにかぶりつく。さくっと軽いクロワッサンとシュリンプの弾力があわさって、面白い歯ごたえになる。それらに絡まるクリームチーズに隠したスパイス――レッドペッパーとガーリック――と、パン生地にたっぷりと練りこんだバター、そして舌に残るビアの苦みも絶妙だった。ルーファウスは思わず快活に笑んだ。
「こっちが当たりだな、エアリス」
 彼がバーガー包材ごと差しだすと、エアリスが大きな口を開けた。ルーファウスはほっとする。シュリンプサンドを頬張り、「美味しい」と目を丸くする彼女から、神秘のアトモスフィアはすっかり消えていた。
「あのね、教会、無理して探さなくてもいいよ。シークレットガーデンで、ガーデンウェディングでも、十分すてき」
「だめだ。今回ばかりは、世間一般とやらの型通りに式をする。お前にしっかりと、私の妻であることを分からせるためにな」
「自覚、ちゃんとしてますけど」
「ならば、人生の節目として臨むといい」
「人生の」
「そうだ、お前の人生だ。ああ、それから、エアリス。お前の『したいことリスト』とやらも、叶えなければならない」
 エアリスはベーコンサンドを落としかけて、慌てる。それからかれんに微笑んだ。
「やっぱり、嬉しい。ありがとう、すてきな夫さん」
 来月の挙式に向けて、ルーファウスはエッジから利便のいい式場を探していた。
 同じ伍番街でも式にふさわしいのは、二人の『出会いの教会』のように思えた。しかしスラムの教会には残念ながら身廊がない。泉が枯れたあとは、そのままうがたれたような大穴が開いたままだった。これではウェディングアイルを用意できない。
 カームにも教会堂はいくつかある。だが人払いが煩わしい。
 ルーファウスが商議や交渉の席に臨むことも増えたさなか、いつまでも死人でいることは難しかった。噂が独り歩きしだしたことも考慮して、彼は生き返ることにした。そうして少し前まで『病気療養中』だったルーファウスは、幾分か健康を取り戻し、今は保養地で『病気静養中』となっている。
 誠意なのか嫌味なのか、たいていは開口いちばん「お顔色がよろしいようで、何よりです」と言われた。そのたびに星痕症候群だったと打ち明ければ、相手方はいったん口を閉ざす。そして驚駭と憐憫の入り混じった顔をしつつも、詮索はしないのだ。ルーファウスはそれを興味深く眺めた。世の倣いとして、大病を患った人間を無下に扱うことはしないものなのらしい。黒い膿にまみれた経験もまた、重宝するツールになり得るのだ。彼は手札が増えたことに嬉々とした。
 それでもマスメディアを通じて、『ルーファウス神羅』の情報開示はしていない。いまだ世間から身を引いているルーファウスとしては、さすがに人目につくことは避けたかった。
 廃都の宗教施設も、教会堂にかぎることなく軒並み当たった。が、星と神はなかがよろしくないらしい。そのほとんどがライフストリームの直撃を免れることができなかった。いくつか無事だった施設は人里――エッジ――から離れたセクターにあり、今ではモンスターの巣窟になっている。列席者はいないはずの、二人の式だった。それがモンスターにいのちがけで祝われるのだ。忘れられない結婚式になるだろう。ルーファウスは愉快に思ったものの、言えばエアリスに叱られることが目に見えていた。
 あとに残ったのは――真下にゲインズブールの家があったからだろうか――伍番街の教会堂ただ一つだった。
 メテオショック直後なら、まだ誰でもプレート上部への行き来ができた。タークスが航空機や建設重機の確保をしていたのもこのころだ。しかし近ごろになって、プレート上部の建物は倒壊が急激に進んでいる。どうやら建築資材の確保のために中途半端に解体され、そのさいに主柱を失った建造物が自重や雨風に殴られてつぶれていくらしかった。だから上部で何かが倒壊するたびに地ゆれが起こり、スラム跡地にはアンカーやボルトの雨が降る。
 報告を受けたルーファウスが、真っ先に思い浮かべたのは蔑称だ。先々、『腐ったピザ』は本当に腐り落ちるのかもしれなかった。
 いずれ大地に緑がよみがえる。そうなるよう、ルーファウスはあらゆる手をつくして種蒔きをするつもりだった。樹木や蔦が鋼鉄にすくすくと巻きつき、補強材の役割を果たす日が来るだろう。
 だが、それまでの長い年月、放置というわけにはいかない。早急に仮補強が必要だ。安全対策もルーファウスの負債返済の一環だった。
 神羅カンパニーは地上からプレート上部へと向かう通路を網羅している。旧本社ビル付近を優先的に、セクターごとの状況の把握をしながら、倒壊ハザードマップを適宜更新しているのは今後の方策を見通してのことだ。そうしてミッドガルとエッジのつながる部分にたちまち擁壁を築きつつ、周辺の崩落危機のある箇所は解体を急がなければならなかった。
 ハザードマップは一般にも公開している。だが、民間人が立ち入ることは困難だろう。すべての通路の管理を行うのは、無論、神羅カンパニーだからだ。
 伍番街の教会堂は、こうして誰の邪魔も入らない式場になった。
「思いだしてよかった。なかなか美しい教会だからな」
 ルーファウスはビア瓶を呷った。雑な炭酸だ。おくびをこらえたせいか、眉間にはしわが浅くよった。
 ミッドガルの廃都化はとどまることを知らない。新しい街の血肉となるために、身を削り、痩せ衰えていく――ルーファウスが生まれ、そして育った――街がもの悲しい。彼は何とも言えない思いをかかえながら、毎度レポートに目を通している。そんななか、伍番街の建造物リストの小破欄に教会堂を見つけたときは、無性にほっとした。
 ウェポンの襲撃以来、これがルーファウスの初めての『里帰り』になる。見知った建物の一つくらい無事でなければ帰った気にならない。それでは困るのだ、とルーファウスは思った。映像でも数値でもなく、己の両眼で見るミッドガルと対峙したかった。生家に、ルーファウスは己の足で立ちたかった。健全を取り戻しつつある彼には、それがようやく叶うのだ。
 ルーファウスは自由に動く身体を、いのちそのものをくれた女を見る。
「列席者が一頭と一人というのは、どうにもならないがな。それはがまんしろ」
「さびしくないよ。だって、ルーファウスの兄弟、来てくれるんだもの。エヴァン、あなたから声かけるなんて、ちょっと意外だったから。なかよしだね」
 エアリスは嬉しそうだ。ふん、とルーファウスは鼻を鳴らす。
「介助の手がほしかっただけだ。そうとなれば、あいつしかいないだろう。ディーはモンスターのもてなしを頼むぞ」
 遊び相手に軒並み逃げられたあと、ダークスターは二人のそばでうつらうつらとしていた。が、すぐさま頭を起こした。主を注視する。大きな頭は、しかし組んだ前足に再び沈んだ。ルーファウスはやれやれと思いながらも、愛犬の首を撫でる。
「ね、ルーファウス」
 ルーファウスは顔を上げる。エアリスが小首を傾げていた。
「思いだしてたの、教会のことだけじゃないでしょ」
 真実を見透かす翠眼が、彼の碧眼へと向けられている。ルーファウスは瞠目する。前髪を掻き上げながら、溜息をついた。
「なぜ、こうも知られてしまうのだろうな、お前には」
「ルーファウス、意外と正直だもの」
「どこでばれる」
「内緒」
 今日、これで何度目の吐息だろうか。彼は数えかけたものの、すぐにやめた。
 ルーファウスが思いだしていたのは――今、こうして顧みるとよく分かる――とても窮屈な日々だった。ブラフでない溜息は、一人きりのときですらのみこんでいた。あれがルーファウスの当然だった。プライベートタイムまで感情をコントロールしなければならないなど、今となっては考えられない。
「浮気、できないね」
 彼の鼻先を、エアリスが面白そうに突っついている。
「試してみようか」
「したら、離婚だから」
「そんなことをして、お前に行く当てはあるのか」
「ないよ。浮気なんてして、あなた、わたしのこと、路頭に迷わせて平気なの」
 二人は見つめあう。先に折れたのは、ルーファウスだ。浮気はやめておく、と彼は肩を竦めた。エアリスが、へへん、と得意げに口角を上げた。
「お前は、そうやって卑怯なことを言う」
「夫婦ってね、似てくるんだって。ルーファウス、いつもずるいこと言うんだもの」
 ね、と押し切られて、ルーファウスは空笑うしかなかった。冗談口の応戦でも負けている。
 ルーファウスは食べ終えた包材をバスケットに放り、草のしとねに横たわる。と、後頭部で腕を組んだ。
「親父と母の葬儀を思いだしていた。どちらも伍番街の教会で葬礼をした」
「そっか」
 エアリスはそれだけを、静かに言った。
 青々と茂る樹葉が真昼の陽光をさえぎっているものの、葉のあいだでちかちかとまたたくそれは、やはり目を刺すように強い。ルーファウスはくっと目をしかめる。
「親父の葬儀はな、さすがによく覚えている。私が施主だったからな」
「お父さんのお葬式、わたしも覚えてるよ。せっかく、初めてミッドガルからでられたのに、ホテルとか民宿とか、テレビね、そればっかりだったから。もう、画面、真黒」
「だろうな」
 そのころだと、彼女はカームか、それともすでにグラスランドエリアまで逃げたあとだったか。どちらにしろ、テレビは弔事の黒色ばかりを映していたはずだ。あの日のマスメディアは神羅カンパニーが独占した。街角のデジタルサイネージまで、すべてだ。
「どうだった、葬儀は」
「あのね、拗ねないでね」
 申訳なさそうに肩を縮こまらせる彼女を、ルーファウスは目で促す。エアリスは食べかけのサンドイッチを置く。それから膝の上で指を組んだ。
「ステンドグラス、きれいだなって、見てた。お葬式、そっちのけで」
「薄情だな。故人を偲ばないのか」
「だって、あのとき、ごたごたしてたし。それに、まさかプレジデントが義理のお父さんになるなんて、思わないでしょ」
「義理のお父さん」
 ルーファウスは笑い転げた。何度聞いても面白い。草の汁がこすれて、尻はきっと緑色だろう。デニム生地のストレートパンツはこんなときに便利だ。クリーニングで落としきれなかった染みも、持ち味になるらしい。
「私はな、正面のステンドグラスを見ていた。お前はどれが気に入った」
「あれ、故人を偲ばなかったんですか」
 エアリスが悪戯っぽく言った。ルーファウスはまいったといった風に首を振る。
「わたしもね、ルーファウスと同じの、見てた。ほら、丸いやつでしょ。きれいな女の人と、白いお花の。あれ、好きだな」
「奇遇だな」
 彼は機嫌よく言った。二人がいた場所もそれぞれの立場も、二人の関係も、今とはまったく違うというのにだ。どうやらあのころから同じものを見ていたらしかった。
「あとはね、兵隊さん。さんざん追いかけられて、いっぱいいやな目、あったけど。びしってしてて、ああやって見ると、ちょっと恰好いいよね」
「おい、ほかに見どころがあったはずだ。エアリス」
「あったっけ」
「私の挨拶だ。何せ『全ミッドガル市民が泣いた』らしい、渾身のスピーチだったからな」
 式典翌朝の新聞の見だしから、ルーファウスは適当なものをピックアップする。エアリスは、しかし気まずそうだ。
「それも、見てないの」
「なぜ」
「あのときって、ほら、あなたから逃げてる途中だったから。ルーファウス、映ったとたん、テレビぶん殴って壊しちゃったの、仲間が」
「それはまた、乱暴だな」
「でしょ。吃驚しちゃった。手持ちのお金、あんまりなかったから。テレビ、弁償するの大変だったな。何せ、着の身着のまま、追われてましたから」
 エアリスは懐かしそうに――前方にミッドガルエリア、右奥にグラスランドエリアの広がる――山の向こうを見ている。テロリズムを奉ずる連中というのは、普段の生活から暴力的なのだろうか。ルーファウスは呆れつつも、いささか心配になる。
 彼女を旧本社ビルから連れ去った一派は、アバランチの過激派だった。二、三人いたはずだ。ルーファウスは顔も名前もすでにおぼろげだった。連中のことは『テロリスト』という符号で一括りにすればこと足りたからだ。そのなかの『個』にまで興味を向ける気など、はなからなかった。政治的な駆引きで話が通じる相手ならともかく、ルーファウスは――恐怖で話しかけることはあれど――暴力で会話はしない。彼自身、それで一度大きな失敗をしたからだ。
 テロリストと行動をともにして、彼女に悪影響はなかったのだろうか。ルーファウスは眉をひそめる。
「なあ、エアリス。たまにお前の素行が悪いのは、そいつらの影響か。それとも、もともとなのか」
 エアリスはにこりと笑みを浮かべた。再びベーコンサンドに手を伸ばしている。
「知りません。聞こえません」
「おい、エアリス。こたえろ」
「ね、今からでも、『故人を偲ぶ』っていうの、やりたいんだけど。お父さんとお母さんのお墓、どこ。やっぱり、ミッドガルなの」
 エアリスはサンドイッチを食べだした。「こっちも、美味しい。両方とも、当たりだね」とほくほく顔だ。問うまでもなかったか、とルーファウスは思う。たかだか一箇月程度をともにすごしたところで、連中に染まるような女ではない。
「この山の、西の尾根だ」
 彼は白状した。素直だった。だが、これは仕方のないことだった。
「吃驚。ご近所だね」
「まあな。両親とも、墓所はそこにある」
 恐怖でも暴力でもないやり方に、ルーファウスは慣れていない。エアリスはこんな風にして彼を懐柔することができる。スラムの花売りは、テロリスト以上にしたたかなのだ。
「意外。お父さんもなの。あ、でも、意外じゃないかも。お父さん、ロマンチシストだね」
 エアリスは歓声を上げた。ルーファウスは怪訝な顔をする。
「だってお父さん、つくった街と、ルーファウスのお母さん、生まれた国。どっちも見られるでしょ。特等席だよ」
「なるほど、そういうことか」
 己の築き上げた王国と、妻の生国のはざまで眠る。文芸小説好きのエアリスらしい、情趣に富んだ考え方だ。そんなセンチメントは彼には思いもおよばない。あの『第五観測所』を訪れたあとでは、しかしそれもあながちはずれてはいないのだろう。ルーファウスは苦笑った。何せ神羅の男は、一途だ。
「ね、ルーファウス」
 彼を見下ろすエアリスは、何やら期待に満ちていた。彼女の口が開くより先に、ルーファウスは首を横に振る。一途はけっこうだが、だからといって妻の尻に敷かれ通しでいるわけにはいかなかった。
「墓参には行かないからな。偲びたければ、西を向いて好きに祈っておけ」
「けち。ね、ルーファウスは。最後に会いに行ったの、いつなの」
「どうだろう。確か、一四で家をでる前に行ったきりだったように思うが。そうだ、それからは一度も行っていない」
「嘘でしょ」
「心配するな。グレイブキーパーは今も雇っている。荒れてはいないはずだ。エアリス、その人非人を見る目は何だ」
 上半身を反らしながら、だって、とエアリスは眉をひそめている。ルーファウスは面白くない。
 近ごろになってようやく順風の吹く日もあれど、風向きはすぐに変わる。いまだ神羅への逆風は強い。ルーファウスは墓を暴かれるリスクを回避したかった。副葬品が盗まれるだけならまだしも、父親の亡骸が反神羅に渡れば厄介なことになるだろう。だから下手に人の手を入れずに、このまま深い森のなかにうずもれさせようとした。
 しかし父親の雇っていた墓守は、老齢だ。まだ雇用の安定しない情勢下で、これが唯一の食扶持なのだとすがられれば――無論、実際に訴えられたのは担当部署なのだが――ルーファウスは否とは言えなかった。言えなくなってしまっている。
 雑草が首裏をちくちくと刺す。それを払うこともせずに、彼は思う。この甘さに、いつか足元をすくわれる日が来るのかもしれない。だが温情が巡り巡って己に優しく戻ってくることもあるのだと、ルーファウスはすでにエアリスから教わっている。
 どちらに転ぼうとも、それが他者のルーファウスへと下すジャッジだ。支持の動向を知るバロメーター代わりにちょうどいい。
「そういうこと、言ってるんじゃなくて。だって、お父さん、あなたしかいないのに」
「親父なら、あのセレモニーで十分だろう。あのころはな、死者にかまけている暇はなかった。ようやく自らご来社いただいた賓客が、テロリストどもにさらわれたからな。代わりに約束の地へと導いてくれるはずの英雄は、とんだ厄災だった。あげく、星の危機だ」
 ルーファウスは半ばおどけて言った。彼の両親の墓事情など、そんなことはエアリスが知らなくていいことだ。言えば、また彼女は憂えるだろう。口端についたソースを――食べ終わった――バーガー包材で拭き取るとすぐ、エアリスはむっと口先を突きだした。そうだ、とルーファウスは微笑する。
 彼女の小さなくちびるは、こんな風にして小生意気に尖っているほうが余程いい。
「だからって、最後のお別れ、行かないなんて。親不孝すぎる」
 いずれにせよ、昔も今も、ルーファウスの弔い方は変わらない。
「そんなことは知っている。だが、私は死者を悼まない。祈らない。声はかけない」
 エアリスがぽかんとするほどに、彼の口からは思いのほか鋭い声がでた。
 死者への言葉など、結局は自身への語りかけにほかならない。そして自身のなかにつくりあげた偶像を慰めたところで、死者には何一つとして伝わらないのだ。父親しかり、ルーファウスの子供しかり。
 自己の満足以上の意味を持たないことに、ルーファウスは言葉を使うつもりなどなかった。そんな余力はすべて、彼ならば言葉を生かし、活かすために使う。
「私の声はな、エアリス。生者のためにある」
 谷風がこずえをゆらす。はらはらと落ちる木の葉から目を逸らさすに、ルーファウスは言った。彼を見澄ましていた翠眼が、ふとやわらいだ。
「本当、あなたってば、もう。変な風に前向きなんだから」
 ルーファウスの腹部の落葉を払いながら、エアリスはくすくすと笑いだす。
「変は余計だ、エアリス。そんなことより、式場だ。両親の葬儀などというけちのついた教会だが、かまわないか」
「縁起、悪くないよ。指輪といっしょ。あなたが気にしないなら、わたし、そこがいい。ステンドグラス、実物、見てみたいしね」
「あれは美しかった。一見の価値はある。もう手入れをする管理者もいないからな、砂塵まみれかもしれないが。決まりだな」
 挙式に向けて、これでルーファウスの懸念はなくなった。あとは婚礼衣装の仕立てが残っていたが、彼はジュエラーの紹介したテーラーとドレスメーカーの腕を見こんでいる。ほっとした面持ちで、大きく伸びをした。
「これでようやくピクニックとやらに専念できる」
「よかった。ルーファウス、ピクニック、気に入ってくれて。ここにもね、いっしょに来たかったんだ」
「そうだな。お前がいなければ、私はピクニックどころか散歩もしなかっただろう」
 それが今はどうだ、とルーファウスはおどけるようにくちびるを曲げて見せた。
「本社の社員は心配しているらしい。『あの社長がランチボックス持参で、山をうろうろしている』とな」
「また変なあだ名、つけられちゃうね。ほら、『ピクニック大好き神羅社長』みたいな」
「そのままではないか。どうせならもっと凝れよ」
「そんなこと言って。変なの、本当につけられちゃっても、あなた、平気なの」
「勝手に呼べばいい」
「ね、ルーファウス。変な風に呼ばれても、わたしとまた、ピクニック、してくれるかな」
 エアリスが彼を上目でうかがう。今度は彼の大腿に落ちた葉を拾い、くるくると指先でまわしている。ルーファウスは頷く。
「野遊びにつきあうと、お前の機嫌もいいからな」
「だって、皆、いっしょだから。ルーファウスと、ディーと。わたしの家族」
 エアリスが白い歯を見せた。眩しい。ルーファウスはどうにも背中がむずむずとくすぐったかった。
「一人じゃ、つまらないね」
 エアリスがまばゆいのは、自然が映えるからだけではない。草木や水と戯れることが楽しいというだけでもない。彼女を照らすのは、どうやらかたわらにいるルーファウスらしかった。
 二人そろって同じものを見、同じ時間を共有するからこそ、エアリスの喜びが彼女を美々しく飾り立てるのだろう。ならば、尚更つきあわないわけにはいかない。ルーファウスはそう思った。
「二人なら、楽しめるな」
 このあたりの山は秋に赤く色づくことはない。それでも季節ごとに違う顔を見せるだろう。今年の冬は例年より冷えこむとも聞く。雪でもちらつけば、きっと――雪片にふれたことのない――エアリスは驚くに違いない。ルーファウスもまた、移ろう情景をエアリスと眺め、そのときどきに湧き起こる感懐を分かちあいたかった。
「この大木も、そうだ。社長室のな、私の席からこの木は見えていたのだが。お前がいなければこんなにじっくりと見ることもなかった。それにしても、立派な枝振りだな」
「本当、すごいよね。すごいって、あなたといっしょに、驚いてみたかったの」
 エアリスは両手のパンくずを払う。それから、手のひらを幹に押し当てた。咽喉をゆっくりと仰け反らせて、目蓋を閉じる。弾む声は彼の妻のものだが、木々に耳を傾けようとするポーズは静淑なセトラらしかった。とたん、ルーファウスは複雑な気分になる。
「何か聞こえるのか」
 エアリスは首を振る。何も、と呟く声が彼にはさびしそうに聞こえた。
「何を聞くつもりだ」
「年。ほら、この木だけ、ほかのと大きさ、全然違う。いつからあるのかなって、思って」
 長い睫毛をふるわせる横顔を、ルーファウスは見上げた。
「ここに来てからも、ついくせでね。お花も、泉も、声、聞こえないのに、聞こうとしちゃうの。昔から、そう。あのころはね、何か言ってるのに、知らない国の言葉、聞いてるみたいだった」
 饒舌な彼女にしては珍しく、口調は切れ切れだった。草に指を絡めたり、染みでた樹液を見つめたり。その合間に小声をもらしている。耳を傾けながら、ルーファウスは胸のうちにわだかまるものの原因に気がついた。忌避だ。
 ルーファウスはどうやらセトラを厭わしく思っているらしい。有体に言えば、嫌い、だ。
 いつからだったかと顧みれば、それは彼がエアリスへの愛慕を自覚したころにまでさかのぼった。驚いた。彼が愛したのはエアリスの人情味豊かな部分だったが、特異な血筋ごと彼女を抱き締めたはずだった。だがそうではなかったようだ。ルーファウスは眉根をよせる。
 お伽噺のような伝承をばかばかしいとは思っていたものの、別段セトラという種族に敵愾心や疎意があったわけではない。今もそれは変わらない。ルーファウスが気に食わないのは、セトラの血筋がエアリスを翻弄することだ。
 彼女はペンを執ることが好きなようだ。ハーブの定期レポートはこまやかだった。私的なものでは、日記や『したいことリスト』、ジュエラーとの文通――近ごろはジュエラーの娘とも始めたらしい――も続けている。ほかに『セトラメモ』という回顧録がある。彼がそれを最初に受け取ったのは、春先のことだった。
 ルーファウスは遺跡調査やそれにかかわる文献の考証に難航していた。彼ばかりに負担をかけるのはしのびないと、エアリスが自身の過去から糸口や秘鑰となるものをさぐり、記しているノートだ。生母の口授や、コスモキャニオン――ファレミス博士も少なからず縁故があったらしい――で見聞きしたことが、箇条書にまとめられていた。
 それにしてもまめまめしいとルーファウスが言ったところ、書くことは苦ではないのだと彼女は言った。研究所にいたころは退屈を持て余していて、ゲインズブールの家に引き取られてからは腹を割って話せる友人代わりに、エアリスはノートと語りあったのだという。幼いころから文字が彼女の心の鏡だった。虚言を写さない鏡は、自身を俯瞰するのにちょうどいいのだとエアリスは言った。妙に達観したところのある彼女の根源が、ルーファウスには分かった気がした。
 当初はそれ以上の感慨をいだくことはなかった。だが『セトラメモ』がウッドランドエリアに差しかかったあたりから、ルーファウスは胃液のせり上がるような不快感を覚えた。踊るような文字を目で追うことがおぞましくすら思った。旅の軌跡を綴っていけば、エアリスはいずれ自身の終焉と向きあうことになる。決していい気分ではないだろう。協力を惜しまない部分だけを買って、あとはルーファウスに任せるよう言った。
「ありがとう。でもね、これ、わたしのことだから。協力してくれてるの、ルーファウスのほうだよ」
 エアリスは声もなく笑った。それ以来、ノートを見せることはなくなったが、彼女のことだ。きっと今も書き続けているのかもしれなかった。
 『セトラメモ』のエアリスはどのあたりを旅しているのだろう。もう終わったのだろうか。何一つとして、ルーファウスが今となっては干渉することの叶わない過去の旅路を。彼女はまた一人きりで。
 ルーファウスは思わず舌打ちをした。一度ならず二度までも、エアリスは彼女を苛む理不尽に振りまわされている。大切なものを傷つけられているというのに、それをはね退けることができない己の無力にも、彼は腹を立てているのかもしれなかった。
 まるで子供じみた感傷だ。ルーファウスは自嘲する。
 無論、彼にも好悪はある。嗜好品にも、他者の人柄にも、その仕事の流儀にもだ。しかも選り好みは激しいほうなのだという自覚すらある。だが、嫌いなもののなかにも必ず紛れている有用性を、ルーファウスは無下にはしない。こんな風にして、はなから牙を剥いてかかるなど、考えられないことだった。
「今はね、本当に何も聞こえない。ね、ルーファウス。普通の人って、毎日、こんなに静かなんだね」
「聞きたいのか、木の声が。お前はセトラの力が恋しいのか」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「聞かなくていい。お前はそんなもの、聞くな」
 気がつけば、彼はそう吐き捨てていた。エアリスは睫毛をしばたたかせている。ルーファウスはいっそう情けなく思う。
 愛情というものは、楽しく心地いいことばかりではない。度がすぎると、人間を不寛容なものへと変えてしまうようだ。厄介だった。それでもルーファウスは、彼の妻を取り戻したかった。エアリスを憂えさせる、彼女のルーツから。
「私が代わりに聞いてやろう」
 え、とエアリスが短く驚嘆した。ルーファウスは仰臥したまま、手近にある支根にふれた。彼女を真似て双眸を閉じる。
「大方一六〇〇年といったところか。しかも、まだまだ長生きするらしい」
「すごい、ルーファウス。声、聞こえるの。もしかして、あなた、セトラ」
 エアリスは彼の顔を覗きこんだ。長い髪が、彼の上にさらさらと降ってくる。そうしてできた薄茶色のベールの奥には、好奇にまたたく翠眼があった。
「そんなわけあるか。幹の太さと、あとは、そうだな。そこにうろがあるだろう、大きな。それでおおよその樹齢は分かる」
「空洞あるから、もう枯れかけてるのかと思った」
「逆だ、エアリス。古木はな、そうやって自分に空洞をつくることで代謝を減らす。それが長寿の秘訣らしいぞ」
 へえ、と、エアリスは目を丸くしたまま聞いている。ルーファウスは長い髪を一房掴む。そっと引張る。近づいてきた小さなくちびるに、深いキスをした。ベーコンと野菜に和えたドレッシングの酸味がする。それにエアリスの唾液を絡めて、ルーファウスは存分に味わう。かぶせていた口唇をはずすと、見慣れた――キスに蕩ける――彼の妻がいた。
 エアリスは「ルーファウスのキスのタイミング、よく分からない」と、毎度のことながら不思議がって言う。だが、これでいい。セトラではないただの女を、美味いものやうんちく、そしてキスで星から取り戻せるのならば、ルーファウスは何度でもそうする。
 まったくばかげている。ルーファウスは閉口しつつも、だからといって彼女の気を引くことをやめる気はないのだった。
「ルーファウスとのピクニック、ちょっと賢くなれるとこも、好き」
 ううん、と伸びをする。と、エアリスもルーファウスに倣って横たわった。彼の肩口にこめかみをもたせかけている。
「ね、あの枝、見て。立派でしょ。いつも思うんだけどね、ブランコ吊り下げたら、きっと見晴らしいいだろうなって」
「ブランコ」
「あれ、知らないの」
「それくらいは知っている。一通りの遊具なら、生家の庭にも、屋内にもあったからな」
「あなたの家、もう何があっても驚かない」
「ああ、思い出した。庭にあったのは、ツリーハウスだった」
「何それ、すごい。羨ましい」
 ルーファウスは吹きだした。肘を枕にして、横臥する。エアリスも同じようにもぞもぞと動く。と、二人は向かいあった。
「ブランコに、縄梯子、雲梯もか。ほかは何があったか」
「ね、すべり台は」
「あったな、それも」
「ルーファウスのお庭、鳥も来るし。本当、絵本の世界だね。ツリーハウスって、わたし、絵本でしか、見たことないけど。楽しそうだったな」
 ルーファウスの笑みが消えかかる。楽しかった思い出は、彼にはない。
 無心で遊べたのは、いくつくらいまでだったか。ルーファウスが遊具で怪我をすると、父親は不機嫌になった。翌日には彼を取り囲む大人たちの、そのなかの誰かがいなくなる。大人たちにとって、幼子のはしゃぐ声は解雇通告のようなもので、寒心にたえないに違いなかった。
 周囲の緊張を感取するようになってからは、幼いルーファウスがそれらに夢中になることはなくなった。
 庭の遊具は、ややして新しい遊び相手を見つけた。週末に、住みこみの使用人の子供たちへと開放されたからだ。子供は無論のこと、大人の声までもが溌溂としていた。ルーファウスは「読書の邪魔だな」といらいらしたものの、彼らに交じりたいとは思わなかった。
 だというのに何なのだろう、このやるせなさは。今更ながら胸をちくちくと刺す痛みは、いったい何だというのだ。
 ルーファウスは奥歯を噛む。生家で、彼と対等に並びあえる人間がいなかったことは仕方がない。神羅家の子供は特別なのだからと、幼い彼自身も納得していた。そのはずだった。だが、当時の苛立たしさの原因が、今になって明確に突きつけられる。ルーファウスはさびしかったのだ。
 第五観測所の存在を知ってからというものの、折にふれて、こうして幼少のころを思いだす機会が増えたようにルーファウスは思う。数少ない楽しい思い出も、そうでないものも。発端はエアリスだった。
 当時の彼が心のすみに隠していた気持ちを、彼女は優しく暴き、ルーファウスにも分かりやすいよう一つ一つの鬱積に名前をつけていく。たとえば孤独だ。
「ね。ルーファウス」
 雑草の根元を這うようだった彼の目線が、ふと上を向く。
「ルーファウス、あのね。わたし、ブランコ、乗りたい」
 エアリスが朗々と言った。ルーファウスの苦々しい気持ちが、霧散した。
 ルーファウスと対等のつきあいができるのは、両親だけだった。それも失った。となりに誰も迎えないまま、彼は長く一人きりだった。だが、ルーファウスには、今、最愛がいる。
 だからなのだろう。となりに誰かがいるからこそ、誰もいなかったころの孤独が際立つのは。
 こうしてルーファウスは――己のうちにも確かにある――人らしい情動と、その名称を一致させていく。決して明るい感情ばかりではない。幼いルーファウスの代わりに、今になって彼が傷つくこともある。それでも、とルーファウスは浅く笑う。かたちのなかったそれらの正体をつまびらかにすることは、いっそ清々しかった。どのような悪感情ですら、未知を既知に変えていくことをルーファウスはためらわない。安心すら覚えている。なぜなら。
「お前はまた、唐突だな」
 エアリスがいる。
「そうかな。前から、思ってたんだけど。あとね」
 大地の色をした髪を緑草に広げ、草葉よりなお瑞々しい双眸をした女が、彼を見ている。ルーファウスを暴くのが彼女なら、過去――今は幼い子供がかかえていたさびしさ――に囚われかけた彼を連れ戻すのも、決まってエアリスだった。
 まったく、とルーファウスは首を振りたくなる。一人ではないことに心強さを覚える弱さを、しかし彼は悪くないと思うのだ。
「正確には、あなたと乗ってみたい、です。そしたら、もっとご機嫌になるかも」
「お前は私に何をさせる気だ」
「いろいろ」
 エアリスは悪戯な上目をしている。ルーファウスも同じように含笑しかけた、そのときだった。
「ぎりぎりまで、いろいろ」
 声の抑揚が変わった。悲しみのひそむそれは、ルーファウスの胸中をひどくざわつかせる。だからといって気づかなかったことにするわけにはいかない。彼の妻が困っている。ルーファウスは知らずと雑草を握っていた。
「何を考えている」
「セトラのこと。ううん、違う。わたしの人生のこと、かな」
 彼の手に、エアリスの指先が重なった。ルーファウスのこぶしに力がこもる。緑色の汁が染みだした。
「死ぬときにね、わたし、何考えてたかなって、思いだしてたとこ」
 瞬間、ルーファウスは自身の顔色が変わるのを感じた。晴天よりもなお青く。起き上がろうとした彼を、エアリスが止める。
「ルーファウス、ごろごろしてて」
「ごろごろって、お前、それは」
「いいの。真面目なお話に、したくないから。ただのお喋りのまま、終わらせたいから」
「なぜ」
「だって、ルーファウス、セトラ、嫌いでしょ」
「何だ、これもばれていたのか」
「ばればれです」
 くすくすと笑いながら、エアリスは両手で彼のこぶしをつつみこんだ。柔らかな肉のなかで、ルーファウスの強張りがとけていく。
「だけどね、ちょっとだけでいいから。あ、嘘。全部、聞いてほしいの。ほら、ルーファウス、『神羅社長の大冒険』、聞かせてくれたでしょ。誰にも話したことのない、お話。わたしもね、聞いてほしくなったんだ」
 エアリスは『半分セトラの大冒険』と言って、笑いを誘おうとする。だがルーファウスの口角はひくりともしなかった。エアリスの眉尻が下がった。
「興味、ないかな。今更だものね」
「そうではない。だが」
 ルーファウスは何と続ければいいのか分からなかった。分からないのは、おそらく彼女の意図が読めないからだ。エアリスの手のひらが小刻みにふるえだしている。『神羅社長の大冒険』のように、すべてを笑って話せる過去にできていないに違いない。
 出会ったそのときから、エアリスは自身の出自をはぐらかしてきた。
 当初は『ルーファウス神羅』に信用が置けなかったのだろう。彼女の神羅の総帥に向ける不信が、信頼を経て愛情へと変わるうちに、それはルーファウスという男への配意と躊躇になった。
「だめかな。耳、痛い話もあるから。いっぱい。神羅の人には、とくにね。だけど、だけどね」
 エアリスは口を噤んだ。ただ、二つの眸が彼に希求している。はいと言って、と。
 遠慮すらもこえて、そうしてエアリスが最後に行き着いたのは彼への依存だ。だとしたら、ルーファウスはエアリスの甘えをすべて聞くつもりだった。二人は互いの荷を分けて負えば軽くなることを、すでに心得ている。
 もう一つ、彼はエアリスのルーツも知りたかった。報告書で読む彼女の生い立ちではなく、薄桃色のくちびるが語るそれを、エアリスのそのときどきの感性とともにだ。どうすればこれほどに面白く、そして真直ぐなパーソナリティーをはぐくめるのか。ルーファウスはいまだ興味がつきない。
「聞こう。だが、私は何を聞いても謝らないからな。そんなことをしたら、お前に蹴られる」
「さすが、わたしの夫だね。妻のこと、よく分かってる」
「どうだろうな。分からないこともある。なあ、エアリス。壮大なストーリーの結末から話すのは、なぜだ。しかも楽しいピクニックの最中にだ」
 ルーファウスは肘枕のまま言った。『半分セトラの大冒険』は悲劇の物語だった。結末が主人公の死だからだ。ピクニックなどという、いっそほのぼのとした娯楽のなかで、彼女はなぜ死に際を思いださなければならない。ルーファウスは合点がいかなかった。
 ううん、とエアリスは小さく唸る。頬に落ちる横髪を、小指で耳にかける。それからややしばらく黙った。
「難しいんだけど。幸せだから、かな」
「ますます、分からない」
「じゃあ、最初から、順番通り説明したほうがいいのかな。それとも、中盤から、わたし的には感動の恋の話もね、盛り上がるあたりからにしようか」
「恋だと」
「そう、恋」
「お前の男の趣味は、素晴らしく上等に違いない。この私がいい例だ」
「趣味。趣味ね」
 エアリスはじっくりと彼を見まわしている。思いのほか真摯な眼差で、ルーファウスの奥に誰を見ているのだろう。いったい何と比べられているのか。ルーファウスの口角が知らずとひん曲がる。
「エヴァンにね、『義姉さんの男の趣味、一貫性がない。でもって、おかしい』って、呆れられたことあるの」
「おい、あいつには話したのか」
「セトラのことは、まだ内緒。だけどね、義弟君と昔話くらい、したっていいでしょ。だから、ちょっとだけね。エヴァン、わたしのタイプ、変わってるって言うから。本当にそうなのかなって、ちゃんと聞いてみたくなって」
「あいつは私に喧嘩を売っているのか。買うぞ」
「買わない、買わない。勝てる喧嘩、勝ったって、自慢にならないよ」
 荒い鼻息をついてから、ルーファウスは仰臥した。
「あの子の言うこと、当たってるかも。髪の色以外、似てるところ、あんまりない」
「詳しく問い質したいところだが、まあいい。それはあとでやる、じっくりとな。先程の続きだ。今はお前の話したいところから、話せ」
 ルーファウスではない金髪の男を、彼は二人のあいだから追いだしにかかる。頭の下で指を組み、エアリスを横目に見た。
 木立がざわめき、下草がゆれる。それが収まるのを待って、エアリスは口を開いた。
「あのね、『半分セトラの大冒険』のエンディング、『嬉しい』、だったの」
「嬉しい、だと。何だ、それは」
 再び浮かしかけた背中を、エアリスが止めた。「重石、しとこうかな。もう」と言って身体を捩る。と、彼女はルーファウスのあばらのあたりに頭を置いた。
「だから、ただのお喋りなんだってば。気楽に聞いて」
「お前は無理を言う」
「だって、終わったことだもの。結末はあなたも知ってることだし、脚色しようがないでしょ」
 平静なのか、それを装っているのか。エアリスはいつもの調子で、そう言った。
「それはそうだが。だからといって、簡単に言うことではないだろう」
「あなたが言うかな、それ。終わったことだって、先に言ったの、ルーファウスだよ。『神羅社長の大冒険』だって、ひどかったもの」
「だが、私は」
 生きている。
 ルーファウスは咄嗟にそれを噛み殺した。『神羅社長の大冒険』は終わっていない。続いているのだ、彼の物語は。いのちは。救ったのは、あろうことか彼を枕と同等に扱う女だ。何やら嬉しそうに目を細めているエアリスだった。
「この枕、硬いけど、好き。あなたの生きてる音、聞こえる」
 ややしばらく彼女は、そうしてルーファウスの心臓の拍動に耳を傾けていた。ルーファウスはじわじわと染み入ってくるエアリスのぬくもりに、息がしづらくなった。
「前にね、あなた、言ったでしょ。ほら、わたしがここに来て、すぐのころ。『だから短命なのだろう』って」
 ルーファウスはとたん苦りきった顔つきになる。覚えている。
 ジェノバ戦役の英雄だったか。
 あれだけ面子がいたというのに、結局お前は一人を選んだのだろう。
 頼らなかったのか、頼れなかったのか。
 どちらにしろひどい話だ。
 お前は己の力量を判断しそこなったな。
 何てことを、とルーファウスは思う。
 忘らるる都。
 最北の大陸の、深い渓谷と森の奥底にある、かつてのセトラのコミュニティーだ。
 その最奥にある祭壇で、エアリスは星に祈りを捧げた。ただ一人でだ。黒マテリアに相対する力、白マテリアを解放するためだった。赤黒い隕石を食い止める青白い光の層を、ルーファウスはカームでまんじりと見ていた。さながら星の盾だった。
 それがホーリーという白魔法なのだと彼が知ったのは、ずいぶんとあとのことだ。
 究竟の力を秘めたマテリアが、エアリスの生母の遺品だったのだという。神羅での酷遇のすえ、ほとんど身一つで逃げだした幼女の手元に、かろうじて残された母親との思い出だった。なくさないよう必死だったに違いない。だが、小さな手に託すには、あまりにも無体すぎる使命ではないか。ルーファウスは歯ぎしりをする。
 遺品の意味を知ったとき、課されたものの負託に応えなければならなくなったとき、エアリスは何を思ったのだろう。ルーファウスは頭を掻きむしりたくなった。ひどく怯えはしなかっただろうか。それでも放棄しないでいることに、どれほどの覚悟が必要だったのだろう。
 赤い血と、人の子と変わらない――不安定な――心を持った、エアリスはただの女だというのに。
 ルーファウスの言葉は針を持つ。刺された側が相当の痛手を受けることを知りながら、口を開く。何ということはない、これが彼の平生だからだ。攻撃の意図を持てば、針はさらに鋭利にすることも、杭のように太くすることも自在だ。刺創の痛苦など意に介さない。
 とはいえ、当時の彼にエアリスへの害意はなかった。ルーファウスは、しかし眉をひそめた。
「私は人でなしだな。まったく、どうしようもない」
 エアリスの決心に、ルーファウスは何という暴言を吐いたのか。彼女をどれだけ傷つけたことだろう。
「変なこと、言わないの。こんな顔する人、人でなしじゃないよ」
 エアリスが彼の顎先を突っついている。ルーファウスは首を振る。
 気丈なときは、一輪咲きの美花のようにしゃんとしている。だが、いつもそうではない。日が陰ったときや、水が足りなくなると、エアリスは芽ぐんだばかりの双葉のように繊弱だった。傷つきやすかった。手をかけてやらなければ、たちまちにしてしおれてしまう。
 心を与えられた今なら、それがよく分かるのに。そして心を与えられたからこそ、ルーファウスには悔やむことしかできない。
「言い方、もうちょっとあるとは思うけど。ルーファウス、言ったこと、間違ってないし」
「だが、エアリス。私は」
「いいの。本当、その通りだもの。ルーファウス先生の授業のあとだと、よく分かる。わたし、自分のキャパシティー、見誤っちゃった。わたししかできないこと、分担したらできること、全然違う。皆のこと、ちゃんと頼ればよかったのにね。甘えるのって、難しい。だけどね」
 彼の眉間に増えていくしわをよそに、エアリスは依然として落ち着いていた。
「ね、ルーファウス。わたし、あのとき何て返事したか、ルーファウス、覚えてるかな」
 ルーファウスは溜息で返事をする。
 わたし、ああするのがいちばんだって、あのときは思ったから。
 エアリスも頷き返した。
「やっぱり、間違ってないって、今も思うよ。半分セトラで、何も知らないセトラで、ちゃんとできるかなんて、さっぱり自信なかったけど」
 ところどころで、エアリスは口を噤んだ。眸がさまよっているのは、なぜだろう。ルーファウスは、しかし口を挟むことができないでいる。
「わたしね、皆には黙ってでてきちゃったんだ、あのとき。だって、言ったらきっと、『一人で何ができるんだ』って怒られちゃうから。ルーファウス、テロリストとか神羅のはぐれ者ばっかりって、いつもいやな顔するけど」
 でもね、とエアリスは長い息を吐いた。ルーファウスにはルーファウスの立場がある。
「あなたの言分、今ならよく分かるけど。でもね、気のいい人たちだよ。人って、ちゃんと話してみなくちゃ、分からないことばっかりだから。迷惑も心配も、いっぱいかけたと思う。書き置きくらい、残しておけばよかったって、それだけは後悔したけど」
 やはり、言葉は切れ切れだった。珍しいことだった。エアリスとの会話は、いつも途切れることがない。それは彼女の好奇を満たすためであり、さびしさを埋める手段でもあるのだろう。だがその大半は、相手に応えたいというエアリスの気遣いだった。だとすれば、これは。
 ルーファウスの血の気が、さらに引く。
「あのね、ルーファウス。わたし」
 これは雑談などではない。エアリスの告白だ。
 言いあぐねるのも、それならば仕方がないとルーファウスは思う。何せエアリスは気さくなようでいて、やすやすと本心をさらけない。本性は臆病だからだ。自衛と諦念。それがエアリスの処世術らしかった。
 さらけ方を、だからエアリスはきちんと思いだせないのかもしれない。
 本心が、もつれた心情にからめとられてもがいている。ルーファウスによりかからざるを得ないほどに、エアリスは窮している。穏やかな口調とは裏腹にだ。
 不得手を強いてまで、それでも彼女は打ち明けずにはいられないようだ。いったい何を。ルーファウスはわずかに怯えた。
「ゆっくりでいい。お前の好きなゆっくり、だ」
 ルーファウスは彼女を急かすことはしない。ただ、待つ。エアリスらしい色を見ながら。綻びを見つけ、ほぐし、その奥にあるはずの本心を彼女がすっかり解き放つまでだ。
「祈り、届いて嬉しかった。皆、揃って迎えに来てくれて、すごく嬉しかった」
 白い手を、祈りのかたちに組みあわせている。
「短いなりにがんばった証、残せたから。あのときの大切なもの、全部、守れたし。やらなきゃいけないことも、ちゃんとできた」
 白い頬がまだらなのは、木洩れ日がじっとしていないせいだった。
「今のわたしの宝物もね、守れた。ルーファウスだよ。ディーはまだ、生まれてなかったけど、育ててくれた人たちは生きていてくれてる。エヴァンもジャッドも、ほかにもたくさん」
 白い薬指に光る指輪を撫でるのは、淡紅の爪先だ。
「嬉しいまま終われたから。あのときの、あれがわたしの正解だったよ。だけどね、今度はどうなるのかなって。わたしに選択肢、あるのかな。正解、見つけられるのかな」
 淡紅のくちびるを、時折焦れたように噛んでいる。
「あのね。『半分セトラの大冒険』、結末から話したのはね。その続きのこと、ルーファウスに聞いてほしかったから。大事なのは、『続・半分セトラの大冒険』なの。今なの。これからなの」
 白いすねを擦りあわせているのは、草にくすぐられてむず痒いからか。
「今度は、どんなエンディングなのかなって、考えちゃった」
 緑の眼差が、ようやく青いそれに重なった。
「ここでぼうっとして。ルーファウスがいて、ディーもいて。幸せだなって思ったから」
「やはり分からない。なぜ、幸福がお前の終幕を考えることになる」
 それは、とエアリスがまた口を閉ざす。ルーファウスは背中に滲むいやな汗をどうすることもできない。それでも言わずにはいられなかった。
「私はお前の話を聞くと言った」
 ああ、とも、うう、とも違う呻き声を、エアリスはもらした。それは嗚咽の兆しに似ていたが、彼女は泣いてはいなかった。
「いいの」
「かまわない」
「だけど、どうしよう。言葉、見つからない。探してるのに」
「待つ。ボードゲームと同じだ。お前の持ち時間に、制限は設けない」
 ルーファウスは困ったように眉尻を下げた。不器用なエアリスから、人でなしのルーファウスでは彼女の本心をうまく引きだせない。だが、エアリスが繊細な部分をさらけだす場所に選んだのは、彼だ。すべてを受け止める両腕だけは持っている。
 しばらくエアリスは黙っていた。そのあいだも、ルーファウスはエアリスの白色と桃色と、そして緑色から目が離せなかった。
「あのね、ルーファウス」
「何だ」
「わたし、今日がいちばん、幸せ」
 歓然とすべき告白のはずが、どうしてだかルーファウスの肌は粟立つ。寒気すらした。
「なのに、明日、もっと幸せだよ、きっと。幸せ、どんどん重なっていくの、すごいよね。あのまま一人でいたら、きっと分からなかったよ、こんなすてきなこと」
 腹を据えたばかりだというのに、彼はすでにエアリスのくちびるをふさいでしまいたい思いに駆られる。
「ルーファウス、『次は読み誤るなよ』って、言ってくれたけど。やっぱり見つけなくちゃ、いけないのかな。セトラの使命」
 ルーファウスは己を叱咤した。逃げるな、聞け、目を凝らせ、と。だが。
「もし、だめでもね。もしも、何もできないまま、明日、ううん、今、消えちゃったとしても。わたし、幸せ」
 ルーファウスの背中が大きくふるえ上がった。とたん、彼の現実から音が消える。愛犬のいびきも、それをきいきいと警戒する栗鼠も。木々のざわめきまでをも失ってしんとしたなか、ただエアリスだけが彼の耳目にふれる。
「ずっと、幸せのてっぺんにいる気持ち、続いてる。今はね、式場も見つかって、結婚式、すごく楽しみ」
 だめだった。かっと見開いていた両眼を、彼はきつく瞑ってしまった。
「楽しみにしながら、星に還れるんなら、やっぱり幸せ」
 静かな声音だった。だというのに、ルーファウスにはそれが絶叫に聞こえた。とたん、彼の心音がぎしぎしといびつな鼓動に変わる。痛い。エアリスの色彩をめでる余裕はなくなった。
「ごめんね、ルーファウス。ごめんなさい。わたし、今がいちばん幸せ。いつか終わりが来るなら、今がいい」
 ああ、そうか。ルーファウスは嘆息する。
 エアリスにもまた見えているのだ。二人が選んだ道の終点が。ルーファウスと同じものが。穴が。永遠の喪失が。
 特別なことは不要だった。
 何気ない日々が、繰り返す日常――たとえば、ただ並んで歯を磨くこと、どちらかが口をゆすいでいる最中にどちらかが笑わせること、そしてたまらず泡を吹きだすこと――ですら穴はうがたれていく。今ここで手製のランチと安酒を囲んでいる、たったそれだけのことすらも。特別なイベントは、さらに穴を深くするものに違いない。
「今がいいのにな」
 日に日に深度を増すその真黒な穴を、今、エアリスは見下ろしている。いつ突き落とされるのか、まったくもって分からないままに。だがルーファウスにはどうにもしてやれない。彼もまた、喪失の恐怖を克服するすべを、いまだ見つけられていないからだ。
「星に還っても、もう残らない。一人はいや。だからね、幸せなまま、ライフストリームにとけちゃうの」
 ルーファウスは再び震慄した。目蓋を開いたところで日照が目を刺す。光の入口の黒い部分がいっきに縮んで、彼の薄い色をした虹彩がより際立つ。
 いや、違う。
 二人の道行の先に、二人は同じ穴を見ている。
 だというのに、同じ鮮明度ではない。
 まだ見ぬ穴に、ルーファウスは漠然と怯えている。だがエアリスは実際の深淵へと、じかに嵌まりこんだことがある。『半分セトラの大冒険』の結末だ。落ちた先にある喪失を、その真理を、彼女は知っているのだ。
 人の身ではどれだけ金を積んでも、どう足掻いてもできないことがある。己の死を己の目で見、己の死様をあとから振り返ることだ。その自然律からはずれた女と暮らしていながら、しかしルーファウスは――別段、不便を感じずにいたので――失念していた。
「エアリス」
 重要なことを。エアリスが彼女自身の死を顧みることのできる女だと。
 ルーファウスは下唇を噛む。エアリスの目線がふらふらと落ち着かないでいるのは、一度目の終幕の、さらにその先で見え隠れしているのが『続・半分セトラの大冒険』の結末だからなのだろう。星のなかは生者にとって不可侵の場だった。いくらエアリスがライフストリームのなかで自我を保とうとも、生者にはそれが分からない。存在の消失は、死と同義だ。二度目の死にほかならない。
 それでもエアリスは詫びるのだ。
 ごめん、ごめんなさい、をルーファウスに繰り返すのだ。
 なぜ。
 ルーファウスは半ば息ができない。切なく目をしばたたかせる。
「何だ、エアリス。私のモーニングコート姿は見なくていいのか」
「それは、見たいな。見たいけど」
「式まであと少しだというのに、私ほどの男を手放すのが、お前は惜しくはないのか」
「自分で言うかな、それ」
 ルーファウスはのろのろと起き上がった。片足を立てて、もう片方を伸ばす。エアリスは横たわったままだ。
 すでに死を知るエアリスは、いつ来るとも分からない二度目の恐怖につぶされそうになっている。加えてセトラの使命までもが薄い双肩にのしかかるものだから、身体が圧に逆らえないでいるのも仕方がない。次にエアリスが選んだ枕は、彼の大腿だった。ルーファウスは黙って貸すことにした。
「耐えられなくなったか」
 エアリスが力なく頷いた。ルーファウスが覗きこめば、彼の落とす影に小さな顔はおおわれた。薄暗がりのなかでも、眸の緑は瑞々しい。生気の証だった。だからルーファウスは気がつかない。一度死んだいのちなのだと知っていながら、実感ができないでいる。
 これがセトラか、とルーファウスは己の妻を見た。
「いつからだ。昨日今日のことではないのだろう。いつから、お前は一人でかかえこんでいた」
「最初からだけど、きついのはね、『二人』になってからかな。だけど、いつもじゃないよ。毎日、本当に楽しいから。たまに、腹も立つけど」
「私の妻を苛立たせるばかは、どこのどいつだ」
「ここの、こいつです」
 ルーファウスを指差して、それも楽しいんだけど、とエアリスは薄く笑う。不躾な指先に噛みつくこともできないまま、ルーファウスは何と続けるべきかあぐねていた。
 そよぐ風が彼女のスカートの裾からもぐりこむ。ひらめくスリットを慌てて押さえながら、「やっぱり、わたしもジーンズ、あればよかったのに」と恥じらっている。ルーファウスがかわいらしいと思う、エアリスらしい部分だ。皮肉なことにエアリスがセトラでなければ、彼には知るよしもないことだった。
「最初から、分かってたのにね。言ったってどうしようもないこと、言わない主義だったんだけどな」
 ルーファウスの眼光が鋭くなる。
 生と死の循環の、そのことわりのそとにエアリスは放りだされた。セトラだからだ。この現実は、すでに変えることができない。
「だめだね、わたし。あのまま、一人だったら、がんばれたかもしれないのに。ルーファウスのとなりにいると、がんばれない。ごめん」
 だが、この現実を生きなければならないのは、彼女のせいではない。
 目つきがいちだんときつくなる。人相は相当悪いに違いない。それでもルーファウスはこの顔つきをやめることができない。
「なぜ、謝る。『ごめんなさい』は悪いことをしたときに言うものだろう」
「脱いだ靴下、ランドリーボックスに入れないの、怒られてるときとか」
「でき上がった料理に片っ端から手をつけるのを、たしなめられたときだな」
 茶化すような会話を交わすものの、しかしどちらも笑ってはない。ルーファウスの頬はさらに引きつるばかりだった。
「お前は悪いことをしたのか」
「悪いこと、言いました」
「何を言った」
「夫不孝なこと、言ったから、わたし。あと、社長不孝なことも。あなたのこと、親不孝だなんて怒れないね」
「お前はお前だ、エアリス。お前のしたいことを差し置いてまで、他者につくす必要はない。お前が納得してだしたこたえがそれなら、私が口を挟む余地はないだろう」
 どうかな、とエアリスは小首を傾げた。ルーファウスは前髪を掻き上げる。頭頂を掴んだまま、短く吐息をついた。
 ルーファウスは彼のもとを去っていく人間に拘泥はしない。だがエアリスはようやく手に入れたパートナーだった。無比のそれを突然に失ってやすやすと思いきれるほど、どうやら淡白な性分でもなかったらしい。
「わたし、あなたの悲しい思い出に、なりたくない。それにね、セトラ、いなくなったら困るでしょ。神羅の社長さんは」
「お前の話の途中だ。私の負債の返済に、そもそもセトラは関係ないだろう。会社の話は、今はよせ」
「だけど、星に何かあったら、借金、返せないよ」
「痛いところを衝くなよ」
 ルーファウスはぶすっと口唇を引き結ぶ。
 それでもルーファウスは思うのだ。エアリスの人生は神羅と、そしてセトラの血筋にさんざんに翻弄されてきた。彼女の人生は、今もなお奇妙なかたちで続いている。何の因果かここにいるエアリスが、エアリス個人の幸福な終幕を選んだとして、いったい誰に彼女を責めることができるというのだろう。
 ルーファウスというただ一人の男の未練で、ただ一人、彼のいとおしい女の願いを諦めさせるわけにはいかなかった。だが。
 指の隙間から髪がこぼれる。金髪に光が弾いて眩しいのか、エアリスが目を細めている。
「優しい人」
 ルーファウスはかぶりを振る。篤実というのは彼の腿の上で転がる女のことだ。後ろへと梳き流したはずの前髪がまた垂れる。だが再度それを除けないままに、彼の手はだらしなく地面へと落ちた。
 エアリスという女をルーファウスはもう知っている。この先に続くのだろう、彼女の決意もだ。
「セトラのこと、ルーファウス、いろいろさぐってくれてるでしょ。忙しいのにね。応えなきゃって、分かってる」
 ううん、とエアリスは言った。ゆっくりと仰向く。
「やらなくちゃいけないの、わたし、ぜったい。星に何かあってからじゃ、遅いもの」
 やはりか、とルーファウスは彼女の胸元を見る。白い手は、再び祈りのかたちに組まれていた。ルーファウスはそれを幾度見たことだろう。エアリスが何かに臨もうとするときのハンドサインだった。
 幸福と責務のはざまで、エアリスがどれほどゆらいだのだとしてもだ。彼女は前者を選ばない。憧憬と悲哀の眼差で――手を伸ばせば、必ず掴めるはずの――エアリスのための幸福が通りすぎていくのを、ただ眺めるだけだ。彼女はいくつの幸せを見送って、ここにたどり着いたのだろう。エアリスが手にできなかったいくつの幸せに、神羅は、ルーファウスはかかわってきたのか。
「ご褒美だといいのにって、思ってた」
 褒美、とルーファウスは小声で繰り返す。しかし何かがぴんと来ない。
「ホーリー、ちゃんと使えたご褒美。星痕もね、何とかなったでしょ。だから、ご褒美。ちょっとしたバカンス気分で、楽しんでおいでって。そんなわけ、ないのにね」
「なぜだ」
「星、システムなんでしょ。ルーファウス、そう言ったとき、身もふたもないってちょっと呆れたけど。わたしもね、今はその通りだって思ってる。セトラも人も、ほかのいきものも全部、同じいのちだから。一つのいのちだけ、特別扱いなんてしないよ。わたしのことも、使えるから、使ってるんだね、きっと」
 最後のセトラだから、とエアリスは言った。
 星のなかでも、どうやら彼女はセトラの残存者だったらしい。
 地上でのいのちを終えたセトラは、ライフストリームのなかで生前の自我を維持することが可能だった。それはルーファウスもエアリスを保護したその日に聞き知っている。
 セトラの不可思議は、しかしそれだけではなかった。精神の核となるものを手放さなければ、望むだけ己のままでいられるのだという。彼女のような混血でもその特異な力を揮えるのだから、血の濃さは関係ないようだ。エアリスが星へと還ったとき、しかし自我のしっかりと残るセトラはもはや彼女一人だった。ほかは精神のかけらばかりになっていて、それも皆、消失の寸前だったのだという。取り急ぎ必要なのであれば、星がたちまち使役できるセトラはエアリスしかいなかった。
 彼女が初めて明かすセトラのいのちの仕組みは、彼の持説を裏づけるものだった。ルーファウスは納得するばかりだ。だからといって事実と心情は一致しない。システムの一環――それも利便のいい歯車――として、ほかでもない彼の妻が稼働しているところなのかもしれないと聞いたところで、忌々しいだけだった。部品は部品であることに悲嘆しない。傷つくエアリスは、部品などでは決してない。
 ルーファウスは違和感に気づく。褒美とは、そのまま『褒めて与える』ものだ。星は彼女に何も与えてはいない。思念体としての存在理由すら。ただ先の知れない不安のなかに放りだしただけだ。
 今、エアリスが謳歌している幸せは、彼女が自力で手に入れたものだった。なぜ失うことに怯えなければならない。ルーファウスは奥歯をきつく噛む。
「そんな顏、しないの、ほら。わたし、ただで使われる気、ありませんから。そっちがその気なら、だったらわたしも利用しちゃおうって、思ってるよ。あなたたちのこと、一度目と二度目は、たまたまだったけど」
 エアリスのくちびるが、ゆっくりと弧を描いた。翠眼がルーファウスとダークスターを交互に見つめる。
「今度はね、ちゃんと守りたいの。わたしの意志で」
 美々しい女が、彼の饒舌を奪う。ルーファウスは何も言えない。
「ね、ルーファウス。わたしの家族、守るから」
 だけど、とエアリスの真直ぐな眼差がふとゆらいだ。眉尻が下がった。
「そうするって、決めてるのに」
 情けない顔つきもまた、ただいとおしい。ルーファウスはぐちゃぐちゃと鬱積する情動をいっとき忘れた。
「ごめんね、ルーファウス。今日はちょっと、だめな日みたい。明日から、ちゃんとがんばるから」
 抱き締めたかった。
 か細い声で謝るエアリスを、彼の二本の腕で憩いたかった。ルーファウスは強くそう思った。
 だがどうにも力加減ができそうにない。立てた膝を掴む手に、幾筋もの血管が浮かび上がる。近ごろは爪を短く切り揃えている。だというのに、厚手の生地ごにし指先が食いこんでいる。
「エアリス、がんばらなくていい日もある。今日はピクニックを楽しむ日だ」
 このまま抱けば、はかないエアリスを壊してしまいそうだった。ルーファウスがかろうじてできたのは、彼女の首筋にまとわる髪をそっとつまんで退けることだけだ。
「セトラ、いや星か。まったく、くそだな」
「くそは言わないでって、いつも言ってるでしょ。行儀、悪いよ」
「くそはくそだろう。どちらも私は嫌いだ。お前を泣かせる」
「泣いてないよ、今日は」
「強がりめ」
 ルーファウスは舌打ちをする。翠眼は乾いている。だが、その奥に彼は確かに見たのだ。彼女の慟哭を。
「ばれちゃった」
「ばればれだ」
 エアリスの情動が見えるのは、彼の情操が豊かになったからだろう。とくに人と人との調和的なそれは、エアリスとの暮らしのなかで、彼女の喜怒哀楽にふれて覚えたことばかりだった。金をかけた情操教育より、余程素晴らしいチューターだ。
 だからこそ、ルーファウスの心は乱れる。恐ろしいことに自律ができない。
 エアリスのせいであり、エアリスのおかげだった。
 こんなもの知らなければよかった。ルーファウスは思う。エアリスの煩懊が彼の心臓をうがつのだが、ルーファウスにはそれを避けることができない。ただただ苦しい。
 知ることができてよかったとも、彼は思った。さらにひどい痛楚をかかえたエアリスに、今、手を差し伸べることができるのは、ルーファウスだけだった。
「お前もたいがい分かりやすいからな」
 ルーファウスは大仰に首を竦めて見せた。エアリスは珍しく大きな溜息をついた。
「くそまでは、さすがに言わないけど。本当はね、星のこと、けちくさいって、ちょっと思ってる」
「星がか」
「そう、けち。だって、ヒントもなしに放りだすんだよ。一つもだよ。そりゃあね、自分の傷治すのに、今、精いっぱいなのかもしれないけど。システム、欠陥しちゃったのかな。だからって、もうちょっとスマートなやりよう、あると思うの。ね、ルーファウス」
「どうした」
「ひどいよね」
 ルーファウスは思わず笑った。頷く。そのとき、彼の耳にさやさやと澄んだ音が聞こえた。草木の風になびくそれだった。
「なるほど、星はけちなのか。そうだな、その通りだ」
「でしょ。せめて、セトラの力くらい、残しておいてくれてもいいのに。それもなしだなんて」
 やる方ないと鼻息を荒くして、エアリスがようやく起き上がった。尖る口先に、彼がまたふふっと吹きだす。こんな風にしてルーファウスの強張りをとくのは、彼女の何気ない仕種だった。
 施与されてばかりというのは、性にあわない。だから次はルーファウスがエアリスを心安らかにする。星がエアリスに褒美を与えないというのならば、その代わりはルーファウスが務める。
 だが彼女の存在理由、その不安定を根本からどうにかするには、ルーファウスはエアリスの生い立ちを知らなすぎた。セトラの血筋と豊かな心を持ち、ルーファウスをゆさぶることのできる、ただ一人の女になるまでの軌跡だ。ここに来て、すぎたことがらへ興味を持たないという性分が裏目にでたらしい。
 彼女いわく『半分セトラの大冒険』を経たからこそ、エアリスは彼の眼前にいる。彼女の積み重ねてきたその日々を知り、エアリスの生き様を踏まえてこそ、『半分セトラの大冒険』の理解が深まるというものだ。
 薄い肩についた草葉を払ってやりながら、ルーファウスは口を開く。
「お前の気がすむかと放っておいた『セトラメモ』だがな。あれはもうやめておけ」
「やだ。それも、ばれてたの。でもね」
「私が何とかすると言っただろう」
 ルーファウスは厳しい目線で制する。あれはエアリスが心を削って書き連ねたものだ。一度目の己の死を見つめながら、そしていつ襲いかかるとも分からない二度目の死に睨まれながら。
 一人で書かざるを得ないよう、そう仕向けたのはルーファウスだった。文献やレポートばかりに気を取られて、すぐかたわらにいるセトラに彼が歩みよらなかったからだ。
「すまない。エアリス」
「どうしたの、ルーファウス。悪いこと、したの」
「したな。妻不孝というやつだ」
 エアリスは双眸を大きく開いた。
「お前とセトラの話をすることを、私は避けていた。故意にだ。何とかしてやると大言を吐いたというのに、この有様だ。私一人では、結局どうにもできないでいるというのにな」
 今度こそルーファウスはエアリスから、彼女を構成するすべてから目を逸らしてはいけない。ルーファウスの愛するエアリスは、ただの女ではない。たった今から、ただのセトラの女になる。
「協力してくれないか、エアリス。今更だがな」
 エアリスはぽかんとした。
「ね、ルーファウス」
「何だ」
「それ、わたしの台詞。わたしがお願いしなくちゃ、いけないことだよ。ルーファウス、ルーファウス」
 エアリスのくちびるがようやく綻びた。花期は今だといわんばかりに、満面に笑みが咲きにおっている。
「あなたのとなり、すごく、楽。どうしよう」
 楽、とは。今度はルーファウスが当惑した。美しい笑み顔と、花やいだ声の言意をさぐる。すぐに彼の顔つきもゆるんだ。まるで蕩けるようにだ。
「まったく、私のとなりが楽だと。そんなことを言うのは、この星でお前くらいのものだろうな。どうもしなくていい。そのままでいろ、エアリス」
「ありがとう。嫌いだなんて、そんな子供っぽい言い方するけど。だけど、あなた、わたしの代わりに怒ってくれてる。なのに、ちゃんと向きあってくれてる。嬉しい」
 片膝に置いたままの彼の手へと、エアリスは両手を重ねた。
「だから、今日は泣かない」
 エアリスがきっぱりと言った。そのあとで口端に浮かべたのは、困ったような笑みだった。
「いつも泣くのは、半分、ルーファウスのせいなんだけど」
「おい。私が何をしたと」
「泣いてもいい場所、あなたがくれた」
 まただ、とルーファウスは胸元を掻きむしりたくなる。苦しいのに嬉しい。そしてどうしてだか誇らかだった。妙な情動が綯い交ぜになるなか、ふと彼は気づく。
「ずっと、がまんしてたから」
「ずっと、なのか」
「うん、ずっと。小さいころから。泣いたって、どうにもならない。泣くと、弱くなるでしょ。だから、ずっと」
「それが『半分セトラの大冒険』か」
 しばらくためらってから、エアリスが小さく頷いた。
「やっぱり、あんまり面白くないかも」
「まったく、お前は。何て女だ」
 ルーファウスは吐息交じりに言った。満足のそれだった。エアリスが負の感情をあらわにすることに、彼は嬉々としている。弱音は糸口だ。端緒を開けば、エアリスの不安を取り除く手立ても見つかるに違いない。
「エアリス。大事な話だろう、これは」
 そのとき、ルーファウスの耳にすべての音が戻った。
 主の強い口調に、ダークスターのいびきが止まった。媚びるように鼻を鳴らしている。栗鼠がこずえをゆらして逃げていく。遠くでは滝の落ち口まで水が流れている。現実はどうにも騒がしい。だがそれらをうるさいとは思わない。これもまた二人を色取る日常だからだ。
「雑談で終わらせるつもりだったのか、お前は。最初からだ。『半分セトラの大冒険』を、一から順を追って話せ」
 エアリスはあえぐような息をもらした。ルーファウスの手の甲に爪を立てる。
「つらいか」
「違う。嬉しくて」
「ならば話せるな」
 ゆっくりと、そして深々と頷いてから、エアリスは深呼吸をした。長い髪が上半身へとゆるやかにまとわる。
 決して快いことではないだろう。話すたび、またエアリスは彼女自身の最期に近づかなければならない。生前の記憶を、旅の一歩一歩を逐一覚えている彼女が、ルーファウスは初めてあわれだと思った。
 彼をつつむ手のひらを掴み直す。ルーファウスが指先を絡めれば、彼女のそれも申しあわせたようにすがってくる。そうしてルーファウスの右手とエアリスの左手が、ただ一つのかたまりになる。
 一と、それ以外。
 エアリスは前者になった。
 功利主義と義務論のディレンマだ。どちらを選ぶべきか、誰もが簡単にこたえをだせない問題だろう。
 以前のルーファウスならば、悩んだことがない。彼の正解はシンプルだった。より多く益をもたらすほうを選ぶ。
 ほとんどの場合、一を犠牲にしてそれ以外の大勢を取るようだ。ルーファウスも後者が彼に恩恵をもたらすのであればそうする。逆の場合もまたしかりだ。一がほかに代えられない重要なものなら、それ以外のすべてはどうなろうともかまわない。だからルーファウスはディレンマには陥らない。
 確かにエアリスの残した結果からかんがみれば、一つのいのちで、彼女以外の途方もない数のいのちが助かった。それどころか、いのちの息づく場所――星そのもの――までをも救った。巨益だ。喜ばしい成果だった。
 だが今は違う。エアリスはただ一人で、代わりはいない。『どちらを選ぶか』どころではない。一にも、それ以外にも当て嵌めて考えることが、ルーファウスにはもうできない。特別のいのちだった。
 それが己のいのちならば、尚更ではないかとルーファウスは思う。一とそれ以外の二択を迫られるなど、どれほど困難なことだったのだろう。だというのに、嬉しかった、と『半分セトラの大冒険』の終幕を彼女はそんな風に言った。
 ルーファウスは眉をきつくよせる。彼はセトラを知らない。従って彼がエアリスのだした結論をとやかくとジャッジすることは筋違いだ。それでもルーファウスは心底思うのだ。『嬉しい』という表現は間違っている。
「なあ、エアリス」
 次こそは、こんなにも悲しい『嬉しい』を言わせてはならない。だからルーファウスは聞く。
「一人で思いだすな。私に話せ。だが私が聞きたいのは、セトラのことだけではない。『エアリス・ゲインズブール』の人生だからな」
 まずは彼女の一度目の死を、ルーファウスはともに背負う。セトラにかかわった神羅として、エアリスを愛するルーファウスとして、二局面から、しっかりと。
 ルーファウスもまた、死を垣間見たことがある。黒い膿を垂れ流した日々だ。きっと何か分かりあえるものがあるはずだった。
「お前を知りたい。もっとだ。教えてくれないか、エアリス」
「ありがとう、ルーファウス。あと、もう一回だけ、ごめんなさい」
「謝るな」
「だめ、聞いて」
 指先から、彼女の真摯な熱が伝わる。
「ルーファウスの幸せ、無視したから。二人で考えなきゃいけないのにね」
「今回は特別に許そう。今日はお前の日だ。だがな、エアリス」
 エアリスが一対の翠眼を向けてくる。いつものようにだ。ルーファウスはひたむきに見つめ返した。
 彼女の幸せを顧慮したとき、はずせないのがセトラの使命だ。彼が神羅であることを放りだす気がない、それと同じだ。今日、ルーファウスはそれをまざまざと痛感した。
 エアリスはセトラであることを放棄できないだろう。させてもいけない。きっと彼女は己を苛むのだろうから。
 ただ、『続・半分セトラの大冒険』は、エアリスの旅は一人ではない。させる気も、ルーファウスにはまったくない。
 ルーファウスという随伴者がいることで、幸福は、悲しみをさらに膨張させることになるのだろう。エアリスをエアリスたらしめる精神の核をもなげうって、星を巡る精神エネルギーにとけてしまいたいと言わせるほどに。二人だから特別に生まれる悲哀も、しかしよりそえる相手がいるからこそ、負を正に、高次の状態へと変える手立てがあるはずだった。ルーファウスはそのための最善を考えなければならない。ほかでもない、エアリスと手を携えてだ。
 いくつもの幸せを掴み損ねた手を、ルーファウスが決意をこめて握る。
 幸福を恐れてはいけない。せっかく手中にあるそれに見向きもせず、指の隙間から取りこぼしてしまうのは勿体ないことだった。ここに手のひらは四つもある。喪失の穴にのみこまれてもなお、余るほどの幸せを積み重ねていくことも可能ではないか。ルーファウスはそう思った。
「私の幸せを邪魔するなよ。私はな、花嫁に逃げられた花婿になりたくはないからな」
 手を放しながら、ルーファウスは彼から逃げようとした花嫁を軽く睨む。懲らしめてやろうかと頬をつまめば、よく伸びた。ルーファウスは自ずと笑ってしまった。
「せっかく誂えているドレスだ。お前以外に着る者もいない」
「うん。本当、勿体ないことするところだったね、わたし。危ないなあ。世界でいちばんきれいな花婿さん、見なくちゃ」
 エアリスは屈託なく笑った。それから大きく伸びをした。ふるふると気持ちよさげにふるえる彼女に、ルーファウスは見惚れた。
「ルーファウスのとなりで、見なくちゃ。ウェディングドレス着た人だけの、特等席だね」
 うん、とエアリスはもう一度頷いた。頬を幸福の色に染めている。この色はきっと純白の衣装によく映えるだろう。エアリスは美しい花嫁になるに違いなかった。
 もう少し、あと少し。叶うなら、この先も。
 ルーファウスは淡い希望を打ち消す。彼がセトラにかかわる調査を進めているのは、己のためではない。それはエアリスの不安を取り除くためでなければならない。そこに己の期待は含めてはいけない。含めれば、ルーファウスは失敗しそうな気がした。見たくないものから、目を逸らせてしまう気すらした。今までがそうだったように。
 ルーファウスは己を戒める。セトラへの忌避とも分けへだてて、冷静に事実だけを見定める。世の情勢を操作するときのように、俯瞰し、大局観を持たなければならないのだ。
 難しいな、とルーファウスは心のうちで苦笑した。
 事業遂行にかかわることなら容易だというのに、二人のこととなるとどうにも不慣れだ。だが困ったことに、ルーファウスは平坦な道より起伏のはげしいそれの方が歩いていて楽しいのだった。
「さて、式場も決まったことだし、花嫁もどうにか機嫌を持ち直してくれそうだ。あとは衣装が仕上がるのを待つばかりだな」
「わたし、何かできること、あるかな。手伝うよ」
「お前は主役だろう。何もしなくていい。だが、正直なところ、もう少し介添役はほしいところだったな」
 ルーファウスは吐息をつく。
 当日の教会堂へのつきそいは、すでにエヴァンを確保している。一人ではいささか心許ないが、だがルーファウスはほかの血縁者を使う気にはなれなかった。
 セトラのほかの遺跡調査とは別に、彼の遺伝子の線は二親等まで検め終えたところだ。
 以前のように、エアリスと他者をむやみやたらと対面させるようなことはしていない。だが、ルーファウスの血縁者は別だった。そのなかでもいちばん血の近い異母きょうだいは、大方精査した。『怯え』と『期待』の男たちはカームで生き長らえていたようだ。ほかにただ一人見つかった異母姉――神羅家の男系は男しか生まれない呪いにかけられているのだと、そんなファンタジーを信じなければならないのかとげんなりしていたところだった――には驚いたものの、ルーファウスはそれもリストに入れ、素行を調べた。エヴァン同様、平々凡々とした女だった。
 そうしてエアリスの了承を得て、神羅の姓を伏せた上で会わせることになったのが、先月のことだった。
 現地へ赴き、エアリスが一人で彼らに接触した。道を訪ねるていでだ。あの男たちの目には彼女の姿がことごとく映ったものの、異母姉には、しかしエアリスが視認できなかった。
 ルーファウスは残念に思った。目視が叶うなら――同性同士、何かと便宜がいいかと思い――女を懐柔するつもりでいたルーファウスに、しかしエアリスは首を横に振った。
「もし、見えてても、声、かけないでね」
 異母姉は自身の出自を知らず、すでに家庭を築いていた。異母姉の母親は多額の慰謝料を子供に分与しなかったのだろうか。ロウワーミドルの暮らしぶりで金髪はくすみ、プレティーンの子供たちに振りまわされて疲れた顔をしていた。夫はメテオショックで失業し、今は出稼ぎ――原油の採掘業だ――をしている。ほかに頼れる身内はいないようだった。
「あの人は、きっと今のままが幸せ」
 なるほど、とルーファウスは思った。『怯え』と『期待』に『媚び』の仲間入りだ。この女はきっと亡父の遺産に目が眩むだろう。そうして神羅の姓につぶされる。
 今回の結果はどうあれ、遺伝子の線はルーファウスにまた新たな疑問を残すこととなった。
 神羅の血統にこだわったのは、誤算だったのか。それとも神羅の男系に絞れたということなのか。前者だとしても、ルーファウスは遺伝子の線を打ち切るつもりはなかった。エアリスの話し相手くらいにはできるかもしれない。後者だとすれば、厄介だった。
 エアリスは女だ。ルーファウスはそれを彼の全身で知っている。そして女の性につがうのは男の性だった。まさか、と思いかけてルーファウスはエアリスを見る。薄い腹部を。ややして彼は首を振った。
 いずれにせよ、因果関係が立証できる決め手は、依然としてない。こたえをだすには尚早だった。
 妙な顔つきをしていたのだろうか。どうしたの、とエアリスが聞いた。
「カームで会った人たち、いい人そうだったよ」
「ばかめ。あれは色目というのだ」
 ルーファウスは鼻にしわをよせた。エアリスがその場をさっさと切り上げたからいいものの、男の下卑た手が彼女を掴んだままでいればどうなっていたことだろう。ルーファウスは車中から発砲していただろうか。もしくはフロントドアを蹴るように開け、駆けつけ様にこぶしを振り上げていたかもしれなかった。
 短気を起こさなくてよかったとルーファウスは思う。兄弟は神羅家特有の容貌をしていた。見目だけならルーファウスの原石だ。いい食事と所作、そしてテーラーメード。そういったもので磨き上げれば、有事の弾除けくらいには使えるかもしれない。エアリスの話し相手は、当面エヴァンでがまんさせざるを得なかった。
「私の妻にそんなものを向けないだけ、エヴァンはましだな」
「すごい。やったね、エヴァン」
「何だ。何が言いたい」
「別に。やっぱり、なかよしだなって」
「そんなことよりもだ。やはり、あの女は惜しかったな」
「いくらきれいな女の人、好きだからって。ルーファウス、お姉さんまで気になるの」
 ルーファウスは彼女の額を小突くふりをする。エアリスは笑って避けた。
「困るのはお前だ、エアリス」
「どうして」
 エアリスがバスケットからデザートを取りだしている。大きな口を開けてクリームのかたまりを頬張る彼女に、ルーファウスはほっとする。三本目のビアを開けた。曖昧な温度だが仕方がない。それでも食い気のすっかり戻った妻のとなりで飲めば、美味は増す。
「ドレスの仮縫いが、明日届く。サイズ調整が必要だろうが、異母姉は頼れないからな。手伝おう」
 今日、わずかながらも話ができたことに、ルーファウスは安堵した。エアリスの気がふさいだまま食思不振にでも陥れば、薄い身体がさらに削げてしまう。採寸も仮縫いも台なしになるところだった。
「あの、その、だいじょうぶ。一人で、できると思います。します」
「遠慮をするな。採寸より手間がかかるぞ。いい加減、照れるなかでもないだろう」
「だって、それは」
 指の背で、彼はエアリスの鎖骨から胸のふくらみ、そしてへそまでを撫で下ろす。今、たどった布地の下には、彼がつけた花びらがいくつも散っている。あざやかに咲いたばかりの花もあれば、枯れて消えかけたそれもある。
 エアリスは彼の指のもたらす快さを、すぐに思いだせるようだ。羞恥と期待のはざまでふるえる肩が、しおらしかった。今、彼が笑えば、エアリスは――彼女いわく飼い馴らせないモンスターらしい――恥じらいに振りまわされてしまうだろう。ルーファウスはこぶしを口唇に当てる。咳払いをするふりをして、笑みを噛みつぶした。
「ルーファウス、ちゃんとお仕事モードのお仕立屋さん、なってくれるの。途中で変なことしないって、約束して」
「変なことはしない。ただ、お前を脱がしたついでにセックスをするだけだ。安心しろ。ドレスは汚さない」
 へそのまわりで、ルーファウスの中指が円を描くようにすべっている。エアリスはそれを容赦なくはたき落とした。
「じゃあ、だめ。せっかくだし、お式の日までドレス、秘密にしようかな」
「それもいいかもしれないな」
「そうそう、言っておかなくちゃ。ルーファウスの痕、つけないでね。一週間くらい、消えないんだから。しつこいの、ルーファウスみたい」
「なら、今のうちにつけておくか」
 ルーファウスは大地に後ろ手をつき、緑樹の隙間から覗く青空を見上げた。川のせせらぎが耳をくすぐり、髪は上風にもてあそばれている。
「なあ、エアリス。そうだな、エヴァン風に言えば、やる、か。ここでお前とやれば、気持ちいいだろうな」
 ルーファウスは悠然とあたりを見まわす。
 野生の息吹のなかで、ルーファウスはエアリスと一つになるところを見せつけたかった。ほかでもないこの星にだ。ルーファウスはくつくつと咽喉を鳴らす。まさか星と女を取りあうことになろうとは、彼の人生はますます波瀾に富むばかりだった。
「また、そういうこと言う」
「ジェラシーのようなものだ。半分はお前のせいだからな、何とかしろ」
「意味、さっぱり分からない」
 口調のわりに、エアリスの声音は柔かった。ルーファウスは身体を起こす。と、視線をエアリスへと戻した。
「何だ。もっと反発するかと思ったのだが」
「だって、ルーファウス、そういう顔するとき、ぜったいするって決めてるときだから。諦めてる」
 エアリスはくちびるを尖らせた。抗議の訴えかと思いきや、どうやらこれは照れ隠しらしい。それにね、と彼女は言い淀んだ。
「わたしも、ちょっとだけ思った。ルーファウス、お日様も夜の明かりも、全部似あうから。屋根と窓硝子、ときどき邪魔だね」
 ルーファウスは瞠目した。とても魅力的なことを、今、彼は言われた気がした。空耳だろうか。まじまじと見やれば、エアリスは「だめ。何も言わなくて、いいから」と食べさしのクロワッサンを彼の口に押しこんだ。甘い。
「ここは、だめ。誰が来るか、分からないでしょ。見つかったら、ルーファウス、一人でへこへこ腰振ってる、変な人だよ」
「お前が下になればいい。そうすれば、私が腹筋しているように見えなくもない」
「そういうことじゃなくて」
 ならばシークレットガーデンが、ゲインズブールの庭もいい。口内を占領するのは、もったりとしたクリームだ。パンごと何とか咀嚼しながら、ルーファウスは思案する。
 彼の耳に、エアリスの含み笑いが届いた。
「もっと変なあだ名、つけられちゃうね。『へこへこ社長』とか、『ブランコ社長』とか」
「おい、エアリス。へこへこはまだいい。お前との解放的なセックスは、気持ちいいだろうからな。誰に何を言われても気にならない。だが、私もブランコに乗るのか」
「ルーファウスったら。わたしね、普通の人は『へこへこ』のほう、いやがると思うの。言われるのも、見られるのもだよ」
 ルーファウスはビアで甘味をしっかり流しこむ。と、空になった瓶を転がした。エアリスは膝立ちになる。そっと両腕を差し伸べると、ルーファウスの顎の輪郭にそわせた。
「そうじゃないルーファウスだから、わたし、きっと毎日が楽しいんだね」
 エアリスの満面に、再び笑みが咲き綻んだ。彼女の手のひらへと、ルーファウスは顔をうっとりとすりつける。
「だけど、そとでするなんて。わたしも、とうとう変態の仲間入り、なのかな」
「ようこそ、エアリス」
「あんまり、歓迎されたくないんだけど。だけど、楽しいことは、二人でしよう。ね、ルーファウス」
 ふれそうでふれない二人のあいだに、バニラビーンズのよく発酵した香りが広がった。
「いっしょにいろいろして、笑ってるあなた、見ていたい。ずっと」
「お前にならできるだろう」
「泣かせないようには、気をつけるけど。拗ねたり、困ったり、かわいい顔も見たいな」
「好きなだけ振りまわすといい」
 左手の中指がルーファウスのこめかみから頬を、そして顎先までをなぞる。エアリスのもう一方の手は彼の側頭にもぐりこんだ。翠眼は穏やかだった。ただただ碧眼を見つめている。
 ルーファウスは細い腰へと腕をまわした。じりじりと引きよせる。すでに吐息の交わる距離だった。甘い息を吐くくちびるは、しかし一向にルーファウスのそれに重なる気配がない。
「なあ、エアリス」
「ん、何」
「キスをするタイミングだろう、これは」
「だよね。分かってる」
「私は待っているのだが」
「しないよ」
「焦らすな」
「だって、ルーファウス、ビア、飲んだところでしょ。さっきのキス、苦かったんだから」
 ルーファウスはがまんができなくなった。エアリスの肩口に額を伏せる。と、声を上げて笑った。
 来月、一〇月の終わりごろ。秋が深まる前に。 
 あろうことかルーファウスにブランコを勧める女と、ルーファウスのキスの催促を無下にするセトラの女と挙式する。


■END■
(健やかに生き、よく笑い、たくさん愛す)

20220123