祭子
2022-07-18 14:28:21
17940文字
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■BE ENRAPTURED WITH OVER■

∠[ν]-εγλ0010/08
ジュエラーの娘のくだりで妻に諭されます。宿願の一つを果たしていたのだと知り吃驚しました。
※pixiv掲載テキスト(20210528初出)

■BE ENRAPTURED WITH OVER■
∠[ν]-εγλ0010/08


 レセプションルームで、ルーファウスは珍しく歓談していた。手ずから淹れた茶を振る舞うのは、無論初めてのことだった。
 ジュエラーはティーカップをソーサーに戻した。感嘆の吐息をついている。
「冷めても、香りが立つのですね。これはいい」
「妻の手製だ。ハーブから育てている」
「何と」
 ルーファウスとカップを見比べながら、男は二の句が継げないでいる。思った通りの反応に、ルーファウスは悪戯がうまくいったような気分になった。
 ジュエラーから連絡があったのは、結婚指輪を受け取った翌日のことだった。婚約指輪のデザイン画を差し替えたいとの申出に、ルーファウスは快諾した。それから半月を待って、ジュエラーを本社へと迎えた。ダークスターも慣れたもので、主と来客の二人きりのフロアでもくつろいでいる。ジュエラーは初めて彼の愛犬と対面したときですら見せなかった顔をしていた。
 驚きましたが、と前置きをしてから、男が柔和に笑む。
「そうと知った今では、納得するばかりでございますね。これで満を持してお渡しすることが叶います」
 アタッシュケースから紙の束を取りだす。と、ジュエラーはデザイン画を彼の前に並べた。
 ひときわ目立つ巨石は、どれも緑色だ。台座には、以前ジュエラーのメゾンでルーファウスが一目惚れをしたエメラルドが嵌まることになっている。エアリスの翠眼に近いそれを、いかようにして引き立てるのか。ジュエラーが一枚ごとに説明している。リング部分や脇石はさまざまだったが、センターストーンはすべて同じシェープだった。
「ずいぶんとかわいらしいな」
「神羅様に伺ったお話と、お写真から察するに、奥様はもともと優美な意匠が映える方だとお見受けしておりました」
 頬杖をやめて、ルーファウスは身を乘りだした。デザイン画を手に取る。相変わらず緻密な仕事をする男だ。これらが実物になればさらに輝きを増すのだと、彼はすでに知っている。
 ほかに花々しく輝くプリンセスカットや、せっかくの巨石本来の美々しさを活かすエメラルドカットとも迷ったのだと、ジュエラーは続けた。
「奥様からいただいたお手紙を拝読して、やはりこれしかないのだと確信いたしました」
 心臓をデフォルメしたそれは、そのままハートシェイプと言うらしい。いささか少女趣味かとも思ったが、エアリスの優しい部分をかたどるのにふさわしい。ルーファウスは頷く。
 何よりも、ルーファウスがエアリスを慕う心のかたちによく似ている。エアリスには愛を言葉にするなと言われた。彼はほくそ笑む。ならば目に見えるかたちに変えて突きつけるまでだ。
 ルーファウスの心を身につけたエアリスを想像する。きっとよく似あうだろう。
「妻は誰へだてなく気安い性質でな。しかも見目があれだ。身内には驚かれた。あなたも意外だと思うか」
 エヴァンの反応を思いだしながら、ルーファウスは困ったように言った。
「いいえ、まさか。ですが、そうですね。神羅様はいささかシャープなお顔立ちでいらっしゃるでしょう。正直に申し上げますと、立ち並ぶにふさわしいパートナーにもそのような方を選ばれるのかと」
「あなたも、私の趣味は派手で高飛車にでるようなやつだと、そう言いたいようだな」
「いいえ。知的で自立したハンサムな方なのかと申し上げたつもりでございます」
「よく言う。だがな、私の妻も、たいがいハンサムだぞ」
「おや、ついつい余計なことを。ですが、神羅様。それもまだご先代様がご存命のころのことです」
 父親の醜聞や彼自身のそれは、あの美しい古都まで騒がせたらしい。ルーファウスは微苦笑する。いよいよ会社が軌道に乘りだしたあかつきには、一度母親の生家を訪ねてみようかと彼は思った。
 ルーファウスは母親の葬儀を最後に、祖父母とは会っていない。ずいぶんと老齢だが健在らしい。今更父親のフォローをするつもりはないし、彼自身が謝ることも何一つとしてない。ただ、神羅家への恨みつらみがあるのなら、彼はそれを聞く耳は持っている。何せ祖父母は老い先が短い。死んでからでは、彼らのかかえるわだかまりをとくことができないのだ。ルーファウスのためではない。娘を理不尽に失った親のために、彼はそうしたかった。
 ルーファウスは改めて決意を固める。少しでも早く会社を立て直さなければならない、と。
 負債をわずかなりとも返済し、世に役立つ神羅カンパニーを祖父母に見せたかった。母親がただ一人残した子供が、そうするところを見せなければならなかった。たとえ世界の平定と母親のいのちを天秤にかけ、後者に傾くのだとしてもだ。彼女の幸せだけを望んでいたとなじられようが、それでもルーファウスは母親の生きた証は今もなお確かに存在するのだと、彼のやり方で示してやろうと思った。
 ジュエラーの含み笑いで、彼はわれに返る。
「奥様はしとやかに見えて、少々突飛な方でいらっしゃる。そしてお優しい。私はあのような読んでいてわくわくするような、それでいながら気持ちがすっと凪ぐようなお手紙をいただいたのは、初めてでございます」
 何を思いだしているのか、ジュエラーは楽しそうに肩をゆらしている。エアリスが手紙にしたためた内容を、彼は知らない。ただ、ルーファウスに長らく縁のなかった祖父母を顧みることまでさせた女だ。きっとあの踊るような文字で、飾らない言葉で、素直な気持ちを綴ったのだろう。
「今回のデザイン画も、どれも素晴らしい。あなたの人を見る目は確かなようだ。あれは優しさが具現したような女だからな」
 ルーファウスはおのずと目を細めた。それを何も言わずに見ていたジュエラーだったが、しばらくして「神羅様」と言った。
「先だって、私は宝石は面白いと申し上げました。神羅様からの、いいえ、S様のご依頼を受けたのは、前者の通りで間違いございません。ですが、もう一つ、理由があるのです」
 ルーファウスは紙の束から顔を上げる。彼はわずかに驚いた。口調は穏やかだったが、ジュエラーの顔つきは仄暗い。この男の負の感情を、ルーファウスは初めて見た。
「私事なのですが、私の娘が星痕症候群を患いまして」
「ほう。恨み言なら、聞くぞ」
 ルーファウスのにやりと笑う顔にも、影が差す。デザイン画をテーブルに戻し、背筋を伸ばす。そうして『神羅社長』を刺す雑言の刃に備えたものの、しかし痛恨を訴えたいというわけではないようだ。ジュエラーは首を横に振った。
「私は家業を貴んでおります。娘は私に師事していて、お恥ずかしながら、私は師として彼女の才能の伸びしろを楽しみにしておりました。ですが、それがいけなかったのでしょう。こんな古くさい街はいやだとミッドガルへでて行って、それきりでした」
 ジュエラーは自嘲した。男の仕事にかけるプライドは、もはや疑う余地もない。肉親の情に甘えることは許さなかったのだろう。彼らのあいだにどのようなやり取りがあったのかは、ルーファウスにはうかがい知れない。ただ師の才能が卓抜するほどに、師事する側に焦りはつのるだろうことは察しがついた。師は眼前にうずたかく壁立し、ただ茫然と見上げるだけになる。こえられないと絶望したとき、門弟はそこで気持ちがねじけてしまうのだ。そして尊敬すべき師は、いつしか障壁になる。
 どこかで見た構図だと、ルーファウスは鼻を鳴らした。ジュエラーの娘は逃げだすだけまだましだろう。叛心をいだき、いのちまで脅かそうと画策する不逞のやからもいる。
 ねじける前に必要だったのは、いったい何なのだろう。適切な助力とは。ルーファウスは考える。無論、壁を低くすることではない。それではばかにしてることと変わらない。ジュエラーの娘がほしかったものとは、そしてルーファウスがほしかったものとは。だが、彼には分からなかった。
「ミッドガルの惨状を知って、何とか連れ戻したものの、すでに発症しておりました」
 ルーファウスは伏せかけた目線を男に向ける。と、眉をひそめた。ミッドガルで発症したということは、初期の罹患者だ。まだ鎮痛剤の流通にはほど遠いころあいだった。
「雨が降っただろう。『大いなる福音の日』だったか。あれには当たらなかったのか。ならば、ミッドガルの教会に湧いた泉のことは」
「うわさを聞いてはいたのです。ですが、あのころ情報は本当に迷走していて。雨や湧水で治るなどと、私は信じなかったのです。本当のことだと知ったのは、泉が枯れたあとでした」
「では、ご息女は」
 ルーファウスは息をつめる。余程強張った顔をしていたのだろう。ジュエラーが「ああ、すみません」と厳しかった顔つきをゆるめた。
「鎮痛剤と、それからのちに市場にでまわった治療薬のおかげで、一命を取り留めました。あなたのおかげです」
「それはよかった。本当に」
「ですから、あの日、神羅様がご来店された日、これは巡りあわせ以外の何ものでもないと思いました。あなたにお返ししきれないほどの恩の、その一部だけでも何とかまかなえる機会をいただいたのだと」
 だからか、とルーファウスは納得した。結婚指輪のデザイン画を納めるさい、宝石商の財産ともいえる貴石をルーファウスへと預けたのは。ジュエラーにとっては娘のいのちをあがなうに、それでも足りなかったに違いない。その気持ちは、今なら彼にも少し分かる。慈しむ存在の代替になるものなど、何もない。
「神羅様がおこしくださった日は、五月の新緑の美しいころでした。すらっとした若木のような立姿が印象的で、わが家ではあの日のことを『瑞々しい緑の人の日』と、そう呼んでいるのですよ」
 ジュエラーはそう言って、茶目っぽく目笑した。ルーファウスは安堵する。この男には少し余裕のある態度が似あう。
「神羅様はご存じでしょうか。星痕を患った人は、間際に黒い水に溺れるらしいのです。娘は溺れたあと、すがった希望が宝石だったのだと言いました。ミッドガルでは家業とは無縁の業種で、それなりに身を立てていたらしいのです。ですが、宝石をまだ見つくしていないから、死ねないのだと」
「親子だな」
 ジュエラーは言葉につまったようだ。大腿の上で組んでいた五指に、力がこもる様子が見て取れた。ルーファウスは無言で続きを促す。ジュエラーは明るく言った。今は回復を待ちながらも、ジュエラーに師事しているのだと。
 男が取り戻せたのは、娘か後継者か、その両方なのか。自身のことではないというのに、ルーファウスは胸の空くような気分になる。
「初期の罹患者の生存率は、あまりよくなかった。病には、ご息女の心持ちの強さが勝ったのだろう」
「神羅様のおかげです。痛み止めがなければ、治療薬まで間にあわなかったでしょう。末期になると、それはもう」
 ひどい有様で、と続くはずの言葉はのみこまれた。それもそうだろう。いくら娘が死を免れたとはいえ、口にするのもおぞましいに違いない。あの劇化した発作をルーファウスは身をもって知っている。
 とたん、背筋が怖気立つ。それを払拭するかのように、彼は首を振った。
「言っておくが、わが社は製薬にはノータッチだぞ」
「おやおや、そうでしたね」
 二人は笑みを交わす。だがすぐにルーファウスは真剣な顔つきになった。
「だがな、私の妻の名誉のために、これだけは知っておいてほしい。あの治療薬は、エアリスがいなければ完成しなかった」
「奥様は研究職でいらっしゃったのですか。それともお医者様でしょうか」
「いや、花屋だ」
 ジュエラーは非常に驚いている。ルーファウスは笑いたいところをこらえた。誇張しているわけでも、ましてや偽言でもない。彼は真直ぐに男を見る。
 本当はのちに『大いなる福音の日』と呼ばれることになった、あの日の雨のこともルーファウスは話したかった。さらにさかのぼって、メテオショックのこともだ。人知れず祈り、死んでいき、死んでからもなお人知れず人々を救ったエアリスのことを、ルーファウスは世に知らしめたかった。
 以前、ルーファウスの努力がまわりから認められないことが悔しいと、彼女は腹を立て、そして泣いた。今ならよく分かる。エアリスの偉業を誰も知るよしもないことが、彼は許せなかった。奥歯を噛み締める。いっそのことエッジ市の記念碑に、セトラの名と彼女をたたえる詩でも刻んでやろうか。ルーファウスはこめかみを掻きながら、空笑う。そんなことしようものなら、当の本人に「ばかなことしないで」と叱られるに違いない。
 そもそもルーファウスが間近に接してきたエアリスは、腕のなかに抱き締めたいのは、セトラではない。ただの女だ。彼はエアリスが亜人でも混血でも気にしないが、愛したのは彼女の人らしい部分だった。語るなら、エアリスが彼女らしく生きた軌跡がいい。ルーファウスは視線を落とす。だが、いったいどうすればいいのだろう。
 ルーファウスはやきもきしている。エアリスが思念体として彼の前に顕現した、その根拠解明は依然として進展がない。それもそうだろう。今、彼の手元にあるのはファレミス博士の研究資料と、神羅がイファルナを確保してから得た情報だった。『ネオ・ミッドガル計画』に欠くことのできない代物として、紙媒体、旧型メディア、そんな研究黎明期の古い情報まで、いっさいがデータ化されてプレジデント神羅のもとへと集められた。裏を返せば、それ以上の情報をルーファウスは持っていないということだ。何度見返したところで――たとえば僻地の研究施設の、壁の走り書きの映像まで目を凝らしたが――何も見つからなかった。
 わずかな可能性といえば、セトラにまつわる遺跡だろう。だが、それらもメテオショック当時、ルーファウスはすでに調査の手をまわしていた。何せジェノバの再来に立ち向かうには、星の神秘などという不明確なものにすらすがるほかなかったのだ。
 ウッドランドエリアの神殿は、しかし黒マテリア生成のさいに消失した。近辺をさぐらせてみたものの、ほかにそれらしい遺跡は見当たらなかった。アイシクルエリアにある都も同様だ。ただし、祭事の場所へと下りる階段は固く閉ざされていて、彼には手のだしようがなかった。今もなお人をよせつけないでいると、そう言ったのはヴィンセント・バレンタインだった。どうにもしようがないと、溜息をつきかけたルーファウスの口唇がわななく。
 一つ、ルーファウスは可能性から目を逸らせている。エアリスをセトラの都に連れて行くことだ。
 さんざん見つくした情報のなかからないものを探すより、試みる価値はある。星は彼女の祈りになら耳を傾けるのかもしれない。そう考えるたびに彼の脳裏を掠めるのは、花車な背中にある傷痕だった。都の、ルーファウスが見たこともない祭壇で、彼女は死んだ。行けば、エアリスは思いだすだろう。一人祈った心細さを、胸をつらぬいた激痛を、そして生きることが叶わなくなった無念を。
 ルーファウスは呻きそうになるのを、すんでのところでこらえる。彼の愛する女は、神羅が英雄のために拵えた長刀に刺し抜かれたのだという。刀を持つばけものもまた、神羅がつくりだしたものだった。あの場所へと、今、向かうことに耐えられないのは、きっとルーファウスだ。
 結局、彼は何もできないままだった。星を相手に、ルーファウスは非力だった。悔しさだけがつのる。せめてもと彼が願う――しかできないことが、また悔しい――のは、エアリスがこの二度目の人生に満足できるまで地上にとどめておくことだ。だが、彼女にどれほどの猶予があるのか、それだけのことすらまるで分からないままだった。
「なるほど。ですから、ハーブティーにもお詳しいのですね」
 ジュエラーがティーカップを見ている。その隙に、ルーファウスは片手で顎を揉む。顔の強張りをほぐしておきたかった。
「それで、今、ご息女の予後は。治療薬を待ったということは、鎮痛剤は長く服用したのだろう」
 ええ、とジュエラーは曖昧に頷く。あまり芳しくはないようだ。やはりか、と彼は思う。
 鎮痛剤の有効成分は、本来なら天然のニビ熊の尾に含まれる生薬だった。しかし、量産型のそれは生薬に近似した化合物だ。何せ星痕症候群は全世界に蔓延した。薬をあまねく行きわたらせるために熊を狩っていては、製剤が追いつかない。加えて錠剤に形成するための賦形剤も含んでいる。結果、体内には吸収されなかった化合物が残る。だが臓器はそれを取りこみ、濾過しようと躍起になる。星痕症候群で弱りきった身体には、負担がかかるばかりだった。ルーファウスはその悪循環を断つ方法を知っている。
「私の身内に、星痕だった男がいる。ずいぶんと長く、鎮痛剤を服用していた」
 ルーファウスは小さく笑った。彼にいちばん近しい男の話だ。嘘ではない。
「ほとんど中毒だった。あれがなければ何もできないほどにな。だからなのだろう、副作用にはずいぶんと悩まされたらしい。それがどうだ、妻の用意したハーブを煎じて飲み続けさせたところ、劇的によくなった。薬剤というものは、結局は異物だ。そんなものは、とっとと排出してしまうにかぎる」
 ジュエラーは静かに聞いている。時折ティーカップに目線を落としては、思案を巡らせているようだった。雨も泉も信じなかった男が、草なんてものをにわかに信じるだろうか。
「デトックスさえできれば、回復もおのずと早まるだろう。妻に用意させる。近日中には届くよう段取りをするので、試すといい」
 ルーファウスは男を見据える。
「私の妻を信じてはくれないか」
 それはそれは、とジュエラーはかしこまった。
「願ってもないお申出です。奥様にはお礼を申し上げたい」
 感極まったらしい男は行儀よく組んでいた手で、今は口元をおおっている。ルーファウスは首を振る。エアリスよりも、ジュエラーよりも、二人を会わせたいと願うのはほかでもないルーファウス自身だった。だが、それは叶わない。
「失礼いたしました。僭越でございましたね」
「そうではない。あなたは礼を指輪で返してくれた。十分すぎる礼だ。それでも気がすまないのであれば、エメラルドの指輪に謝礼をこめてくれればいい。あとは、そうだな、またエアリスに手紙を書いてやってはくれないか」
 喜んで、とジュエラーが何度も頷いた。それから「実はこちらを」と、アタッシュケースから封書を取りだす。
「奥様のお手紙が、実際にお会いしてお話を伺っているかのように楽しかったものですから。私もお返事を差し上げたくなって、ついつい筆を走らせてしまいました」
 ルーファウスは封書を受け取る。グリーティングカードとは違い、厚みがある。ライトブルーの爽やかな色あいも趣味がいい。エアリスの喜ぶ顔と、そのあと勇んでペンを執る姿までもが目に浮かぶ。
 封書をブレストポケットにしまいながら、ルーファウスはふっと笑った。
「読み終われば、妻はすぐにでもあなたへの手紙をしたためるだろうな」
「でしたら、私も奥様へお返事を差し上げてもよろしいでしょうか」
「文通とは、またアナログだな。だが、それもいい。悪いが、妻につきあってやってくれ」
 言いながら、彼は席を立つ。茶を淹れ直すためだった。恐縮するジュエラーを片手で制して、前室へ向かう。それからしばらく談笑は続いた。
 ジュノンエリアのうわさ話から、話が再び後継のことになったとき、ルーファウスは父親を思った。死んで清々したことに、いつわりはない。だが近ごろは父親の不在を厄介だと思うことも、ままある。何せ巨大に成長しすぎた会社の、そのすべての牛耳を執る男を失ったのだ。いまだルーファウスは采配に迷うことがあった。さらには彼の与り知らない案件も、まだあるに違いない。聞きたいときに聞ける相手がいるということは、きっと楽で心強いことなのだろうと彼は思った。
「偉大な師というのは、師事する者にとって最大のライバルだからな。必ずこえたいと思うものだ。衝突もあるだろう。だが、ご息女にはまだまだあなたの指導が必要ではないだろうか」
 アームレストに肘をつき、こめかみを指で突っつく。それらしいことを口にしながら、ルーファウスはわが身を振り返る。
 壁のこえ方など請わなかった。こえられない壁なら、壊してでも通り抜ける気でいたし、実際にそうした。惨憺たる結果だったが、そのなかから得るもの――タークス――もあった。が、しかし彼はそんなやり方などこの先いっさい選ばないだろう。破壊することなく利用すれば、むだがなかったのだから。
 だがルーファウスの父親は死んだ。死んで、彼の人生は何度目かの、そしてかつてない転機を迎えた。メテオショックだ。文字通り地に落ち、這い、迷い、道を探して自ら歩みだした今の生き様を、ルーファウスはとても気に入っている。彼は手の動きを止める。妻のおかげで謝意の必要性――何せエアリスは怒らせると恐ろしい女なので、ルーファウスは礼も詫びも素直に言うことにしている――を身をもって知った今なら、あるいは父親の墓前に礼の一つでもかけてやれるだろうか。そう考えかけて、ルーファウスは渋面になる。すべての元凶にかけたい言葉など、今更ない。
 せいぜい感謝できることといえば、父親がパスワードを変えなかったことくらいだ。数字の並びにはいまだ納得がいかなかったが、ルーファウスはそのおかげで解錠処理の手間をかけずにすんだ。
「技術が継がれるというのは、いいことだ。だがせっかくの美しいジュエリーを、あの古都だけで独占するのは、いかんせんずるいな」
「ずるい、ですか」
 知らずと口を衝いてでたのは、誰の影響か、子供じみた言句だった。ジュエラーが困惑している。ルーファウスもまたわずかに驚いたものの、改めはしなかった。
「そうだ。ずるい」
 言いながら、ルーファウスは大仰に両手を広げて見せた。
「見ての通り、現在わが社は立て直し中で余力がない。だが軌道に乗れば、エッジでのプロモートを任せてみないか。どうせならブライダル部門を立ち上げようか。わが社のスタッフは、どうやら愛される神羅を目指しているらしい。言えば、乗り気になるに違いない」
 悪評を、慶事の明るさでおおい隠そうそうというあたりが、いかにも神羅らしい。ルーファウスは鼻で笑いながらも、これは案外と良案なのではないかと思う。
「ご息女の若い力も、きっと活きる。互いに悪い話ではないだろう」
「素晴らしいことだと存じます。まだまだ先の見えないご時世です。明るい話題は、一つでも多いほうがよろしいでしょう」
 ルーファウスは居住まいを正す。
「あなたの助力がほしい。ご息女の成長具合も確かめられるぞ」
 ジュエラーの娘は故郷での約束されたステータスを捨て、あの繁栄と衰微のはげしい魔晄都市で立身したのだという。そんな跳ねっ返りの部分が、彼は嫌いではなかった。無論、彼女の実力は未知数で、じかに確かめる必要はあるとルーファウスは思っている。だがほかでもないジュエラーが認め、教示しているのだ。先物買いしたところで、大きく損をすることはないだろう。
「是非、ご連絡をお待ち申し上げております。そのさいには、私の懇意のテーラーとドレスメーカーをご紹介いたしましょう。ブライダルともなれば、特別の衣装が不可欠でしょうから」
 ジュエラーは右手に反対の手を重ねる。それからわずかに首を傾げた。丁寧な所作も、その口振りもくずすことはしないらしい。だが、ジュエラーは親しげにめくばせをした。
「ご夫妻で、ことに先立って彼らの腕をご確認なさっておかれるのもよろしいかと」
 ルーファウスは瞠目した。やがてまいったといった風に首を振る。相変わらずそつのない男だ。ジュエラーの言わんとすることを察して、彼はドレス姿のエアリスを思い浮かべる。
「それは願ってもない提案だ」
 ルーファウスは目を細める。ドレスの色は、純白だった。
 ジュエラーを清々しい気分で見送ったあと、彼は妻に電話をした。なぜだかいい酒を飲みたかった。
「なあ、エアリス。今晩は親父のワインを開ける。クラッカーを焼いてくれ」


 午後からの執務もルーファウスは順調にこなした。合間に第伍観測所――『カームの親父の別荘』とは呼びたくないルーファウスが名づけた――に連絡を入れた。ジュエラーとの雑談のなかで、一件、気になったことがあったからだ。
 ジュノンでは近ごろ不可解な事件が起きているらしい。人が忽然と姿を消すのだという。少し前に、彼は第伍観測所から同様の報告を受けたばかりだった。誘拐と見なそうにも犯行側からの音沙汰はさっぱりなく、家財はおろか金品ですら持ちだされた様子がないため蒸発だとも決めつけられない。なるほど『忽然』という表現がぴったりだった。
 第伍観測所から新たに得た情報と言えば、エッジやカームでもやはりコンスタントにその現象が続いていることが一つ。さらにカーム付近では、一般人に扮したWRO職員を見かけるようになったということだった。
 ルーファウスは一抹の不安をかかえつつも、現況ではどうにも動きようがなかった。続報を待ちつつ、目下の仕事を処理していく。ふと彼はショートボックススタイルのひげ面を思いだす。WRO局長にゆさぶりをかけるのも面白いかもしれない。フロアには彼の喉を鳴らす音だけが、くつくつと低く響いた。
 そうして仕事を切り上げたルーファウスは、いつもの夕食の時間を少しすぎたあたりでダイニングテーブルに着いた。
「何だ。今日は手がこんでいるな。いいことでもあったのか」
「いいことあったの、あなたでしょ。だから、がんばってみました」
 エプロンをはずしながら、エアリスが彼の手元を指差した。ワインボトルを、ルーファウスは澱が立ちのぼらないよう慎重にかかえている。
 彼のワインセラーのなかで、いちばんいい酒が父親の別荘からくすねてきたビンテージワインだ。特別な日に開けると決めていた。
 例外は、二度目のプロポーズの夜だけだ。特別な日に特別の乾杯をしたかったが、そうなるとせっかくの幸せの食卓に父親の赤ワインが並ぶことになる。無粋だと思った。躊躇したのち、ルーファウスは彼の気に入りのシャンパーニュを選んだ。だが今日は違う。父親にこそ、見せつけたい気がした。
「今日はね、ちゃんと味見したから、だいじょうぶ」
 胸を張るエアリスに、ルーファウスは吹きだした。開栓する手をいったん止める。もう少しでボトルをゆらしてしまうところだった。だというのに苛立つどころか、むしろほっとしている。エアリスは大雑把なようでいて、やはり気遣いの女だ。たった三言の電話から、彼の機微を察したらしい。ダイニングは食欲を掻きたてる香りに満ちている。四種のクラッカーが用意してあった。メインはルーファウスの好物だ。たっぷりの夏野菜をトマトとガーリックで煮こんだそれは、変哲もない家庭料理だ。だがスライスされた野菜は円を描いてきちんと並び、夏野菜特有の色味のあざやかさが相俟って、見目もいい。何よりも料理があたたかい。彼女の優しさは的確だった。
「ああ、そうだな。いいことがあった」
 妻の腰に手を回してダイニングチェアへとエスコートする。グラスを差しだす。三分の一ほど注いだワインは、澄んでいた。
「ね、聞かせて」
「いいだろう。だがまずは乾杯と、それから腹拵えだな」
 ディナーは美味かった。ルーファウスは四種のクラッカーの、特にオレガノが赤ワインにあうと褒めた。プレーンにディップソース代わりの煮こみ野菜を乗せても、食が進む。エアリスはほっとした様子だった。夕食の支度中、香辛料のラベルを慎重に確認する妻の姿を思い浮かべて、小さく笑った。
 空腹が落ち着いたころに、ルーファウスはジュエラーとの話を聞かせた。無論、エメラルドの指輪のことは伏せておく。それでも彼が話すごとにエアリスの顔は輝いていく。彼女にしては珍しくアルコールも止まらないようだ。空のグラスを差しだされるたび、ルーファウスは苦笑しつつも注いだ。
 食事を終えたあとも、二人は場所を変えてワインを楽しんだ。リビングは消灯したままだが、ダイニングからもれる仄明かりと窓外から差す光でこと足りる。カウチソファーからは夏の星座がよく見えた。
 ルーファウスはクラッカーをつまむ。となりを見れば、やはりエアリスは満面に笑みを浮かべている。ワインを傾ける手も止まらないようだ。仰け反る咽喉から、こくこくと小気味いい音がする。
「何だ、お前のほうが機嫌がいい。何があった、教えてくれ」
「教えなくても、あったでしょ、ちゃんと。ルーファウスのお話のなかにね」
「ジュエラーの手紙のことか。読みたければ、今読んでもいいぞ」
「それはね、明日のお楽しみに取っておくの。だって、たくさんの嬉しいこと、いっぺんに楽しんじゃうの、勿体ない。だから、違うよ。あのね、娘さん、助かったでしょ。これからもっと、たくさんの人、助かる」
 ルーファウスは首を傾げる。新規に罹患することがなくなったとはいえ、星痕症候群の収束にまだ時間を要することは確かだ。だが治療薬は都市部以外にも大方行き渡っていて、今は誰もが回復期にある。「もっと、たくさん」というほど、未治療の罹患者はいないはずだった。
「それが、嬉しい。あなたのがんばり、ちゃんと花、咲いた」
 花、と訝しげに問う。ううん、とエアリスは小さく唸る。それから悪戯な顔つきをした。
「借金って言ったほうが、あなたには分かりやすいのかな。負債、一つ返せたね」
「そうか。そういうことになるのだな」
 星痕治療とは、ジェノバ因子を取り除くことにある。が、そもそも因子はライフストリームを介して体内に巣食うのだ。因子に侵された黒い水を思いだして、ルーファウスはわずかに眉をひそめた。治療薬は、ジェノバ因子ごと体内にとどまるライフストリームをも排除する。それはおのずと魔晄中毒の特効薬にもなった。
 魔晄炉を廃し、倫理にはずれるような人体実験から手を引いた今でも、中毒に陥る人々はいまだあとを絶たない。これからもなくなりはしないだろう。なぜなら、ライフストリームは星を形成するものの一部だ。地上のどこにあってもおかしくはないのだから。
 これまでもライフストリームが自然と湧きでる地域はあった。が、メテオショック以降、それが突如として噴出する事例が各地で確認されている。荒野に多いのは、それが星の患部だからに違いない。星は己を癒すためにライフストリームを傷口に宛がう。治療が完了するまでに、いったいどれほどの時間を要するのか。ルーファウスに分かるのは、人間の定めた時間の概念では換算しようがないということだった。
 加えて、ルーファウスが懸念していたのは、メテオショックのことがあってなお、化石燃料に手をだす人々だった。星の蓄えに手をだしてはいけない。痛い目に遭う。案の定、原油の採掘業者がライフストリーム層を掘り起こしてしまうという事故が頻発している。
 そうして高濃度のライフストリームをあびた人々は、重篤な中毒症状を引き起した。体内に残るライフストリームが星のいのちの本流とつながっていて、絶えず流れこむ膨大なエネルギーに精神が蝕まれ続けるのだ。それも治療薬を用いてライフストリームさえ取り除けば、本流と切り離すことができる。あとは精神面のケアをすればいい。時間はかかるだろうが、何の手立てもなかったころに比べれば――希望があるだけはるかに――ましだと彼は思った。
 ルーファウスはすでに知っている。決してライフストリームが悪なのではない。手に余るものへ手をだしたがる人間も、それほど悪ではない。悪は、人間の知識欲の満たし方の、その下手さ加減だった。
 星の傷を治すことなど、ルーファウスにはできないだろう。無害の新エネルギーをたちまちに用意することも叶わない。だがエアリスの言った通り、この先も不慮の事故で中毒症状に困窮するだろう「もっと、たくさん」を救う薬はある。
 魔晄事業を撤廃した今、『魔晄中毒』などという呼称はただちに変えるべきだ。魔晄と聞けば、半ば当然のように神羅と結びつくに違いない。風評被害もはなはだしい。そんなことを毒突きながらも、ルーファウスは胸がすっとする思いがした。ヒーリンの山裾から山頂へと吹き抜ける風のように、強く、そして爽々と彼のしこりを払い除けたのだった。
「なぜ気がつかなかったのだろう」
 カウチソファーはゆったりともたれるには、背面が低い。かまうことなく背中を預けると、ルーファウスは長息をついた。これで神羅の負債をわずかなりとも返せたわけだ。赤ワインを星影に透かす。今日の祝杯にぴったりの酒ではないか。ルーファウスはグラスの残りをいっきに流しこむ。見たか、親父。
「毎日、忙しいから、あなた。会社、立て直すっていうより、ほとんど一からつくり直してるみたいなものでしょ」
「まあな」
「お父さんに文句たれてるひま、ないくらいだものね」
 ルーファウスは目をしばたたく。目まぐるしく変わる情勢への応対と、エアリスとの日常を楽しむことで、彼の一日はあっという間にすぎる。父親への劣等や焦燥などすっかり忘れていた。善くも悪くも、それらはルーファウスのパーソナリティーを形成するものだったはずだ。彼は愕然とした。
 背もたれに両肘を乗せ、天井を仰ぐ。目を閉じる。軸となるものが薄らと消えかかっているというのに、彼がしっかりと立っていられるのは、中心部分がすでに別のものへと挿げ替わっているということだ。ふとジュエラーの言葉がよぎる。ルーファウスは彼自身の人生を歩んでいる。まったくその通りだった。
 いい年をして、ようやく親離れができそうだった。情けないはずの己を彼は褒めてやりたくなった。
「ね、ルーファウス」
 弾む声に、彼は目蓋を持ち上げる。
「ほら、お祝い」
 エアリスがボトルを差しだした。ルーファウスはそれを断って、グラスをサイドテーブルに置く。すると彼女はワインを手酌でやりだした。すでにいつもの酒量はこえているはずだが、どうやらまだ飲み足りないらしい。
 言葉遣いが子供っぽいのは、もとからだ。顔も肌も、新雪の色のままだった。話の内容はしっかりしていたので彼は気に留めなかったが、ひょっとしてエアリスはずいぶんと酔っているのではないだろうか。小さな頭が、左右にゆれている。
「ほどほどにしておけよ」
「何で。楽しいお酒だもの。そういうのって、ほら、何て言うんだっけ。あれ。ま、いっか。飲んじゃおう」
「酔っているのか、エアリス」
 エアリスは目を丸くした。それから、うわあ、と残念そうな声をだす。
「酔払いに酔ってるのって、真面目に聞く人、初めて見た」
 けたけたと笑いだす彼女に眉をひそめたものの、自覚があるならいいだろう、とルーファウスは好きに飲ませておくことにした。小生意気な彼女の、その鼻頭は取り敢えず指で弾いておく。
「祝いか。そうだな」
 ルーファウスは顎をつまむ。魔晄中毒の特効薬は、プレジデント神羅が何よりも求め、そして手にすることが叶わなかった唯一のものだった。ようやく己の力で父親に白星を一つ、上げることができた。いや、とルーファウスは首を振る。エアリスの力を借りて、二人でだ。
 ジュエラーに約束したハーブティーを、いっそのこと商品化するものいいかもしれない。デトックスが必要なのは、何も星痕患者だけではなかった。心身ともに衰弱した中毒患者でも、身体に負担なく不要物を取り除くことができるだろう。取り立てて不調をかかえていない人々にいたっては、壮健な身体づくりに役立つに違いない。エアリスのハーブには、ほかにも緊張をほぐす効果や、気分を爽やかに一新するものもある。それらをサプリメントや茶葉として売りだしてみるか。
 ふと二人の前の道が、また少し開けた気がした。ルーファウスはゆっくりとくちびるを吊り上げる。
 ルーファウスとエアリス、二人で新たに会社を設立するのだ。社名は彼女にちなんだものがいい。石碑に名を刻む名誉は拒んでも、それなら反対はしないだろう。そうしてエアリスの生きた軌跡を、この先に残すことは可能ではないだろうか。
 ルーファウスはクラッカーを齧る。エアリスの口にも一枚押しこむ。夕飯はしっかりと食べてはいたものの、アルコールばかりを立て続けに胃へ入れないほうがいい。
 出資することはやぶさかではない。人々の健康増進事業なら、神羅カンパニーの今後の方針にも合致している。ただし、ビジネスとなればルーファウスのエアリスの薬草知識に向ける目は、経営者のそれになる。彼女が定期的に提出するハーブサプリメントの配合レポートは、一度しかるべき研究施設に預けるべきだろう。
 あとはエアリスの経営手腕を磨くばかりだ。今まで以上に『ルーファウス先生』は厳しくなるだろう。が、きっと彼女はそんなことすら楽しむに違いない。「ね、ここ、どういう意味。じゃあ、こっちは」と、貪欲に質問するだろうエアリスがありありと彼の目には映っている。
 ルーファウスはとたんにそわそわと浮足だってきた。笑いが止まらない。
「神羅家に、いや、私に嫁いだ女は大変だな」
「何、突然」
 妻として、ときには恋人として。友人や秘書もほしかった。そして共同経営者として彼のとなりに肩を並べなければならない。相手に求めるものが多すぎる。
「お前とでなければ、結局のところ私は、結婚など長続きしない男なのだろうな」
「そうかもね。優しいけど、やっぱり変な人だもの、あなた」
 特に笑いのつぼ、とエアリスが不思議そうに夫を見上げている。変人につきあえる妻もたいがいだろう。ルーファウスは睫毛を伏せると、また笑った。
「せっかくだ。エアリス、変な男のとなりでウェディングドレスを着てみるか」
 ジュエラーからの提案を話すと、エアリスはたいそう驚いた。
「すごい。何だか、結婚するみたい」
 ルーファウスは呆れた。経営学を叩きこむ前に、きちんとした花嫁に仕立て上げておかなければならないようだ。
「みたい、ではないだろう。まだ自覚していないのか。お前は私と入籍した」
「それは、その、分かってるよ。指輪、すごいのもらっちゃったし。プロポーズだって、『はい』って、返事した。お祝いのカードも、そう。わたしね、ルーファウスの『奥様』なんだって。そんな風に書いてあって、嬉しかった」
 エアリスははにかんで俯いた。グラスのリムを爪先でなぞっている。口当たりがよくなるよう、飲み口は薄い。彼女の爪が当たって、かりん、とかろやかな音を立てた。
「でもね、妻は明日も妻だけど、花嫁さんになれる日は一回きりだもの。ちょっと、違うの」
「何だ、それは」
「入籍と結婚、違うってこと」
「同じだろう」
「ルーファウス、一回、女の子になって。乙女心、勉強して。もう」
「もういい、分かった。面倒くさいお前にも分かりやすいように、舞台も用意してやろう」
 すかさずエアリスが彼の大腿をはたく。彼女は遠心性神経に優れているとは言いがたかった。彼のコーチングをもってしても、エアリスはいまだに泳げない。俗に言う運動音痴らしい。だというのに、こういうときの彼女は存外に素早い。ルーファウスは彼女の――ぺちっと撫でるよな――平手を避けられたことがなかった。
「今、面倒くさいって言った」
「待て、エアリス。その手を下ろせ。今の私の話で重要なのは、最後の部分だ。挙式すると言っている」
 平手を再度振り下ろす寸前で、エアリスが固まった。大きな双眸だけが、何度もしばたたいている。
「場所は探しておく。式は、そうだな、エヴァンに準備させよう」
 エアリスはグラスを持ったまま、万歳をする。ちゃぷちゃぷと、透明な赤色が波打っている。それに気を取られていたところに思いきり抱きつかれて、ルーファウスは敢えなく押し倒された。こぼれそうでこぼれない、絶妙なバランスがくずれた。ワインが彼の胸元をドット柄に色取る。カウチソファーまで染め上げられる前に、彼女からグラスを取り上げる。と、そっと床に置いた。
「純白の花婿さん、きれいだろうな」
 ルーファウスに跨ったまま、エアリスがうっとりと目を細める。それから首を振った。ゆるやかにうねる髪が肢体にまとわりつく。
「違うね。きれいな恰好しなくても、ルーファウス、きれいだよ。美人は三日で飽きるって聞くけど、そんなことない」
「口説くなら、しらふのときにしてくれ」
 ついでに「アルコールを入れる前に押し倒せ」と、彼女をからかいたいところだった。が、酔いどれ相手に言って、今、やる気をだされでもしたら困る。平常の状態で、最初は交わりたい。ルーファウスの溜息を、何やら勘違いしたらしいエアリスが口を尖らせる。
「あ、今、酔払いのおふざけだと、思ったでしょ。わたし、本気だから。明日の朝も、ちゃんと言うから。きれいだって」
「分かったから、動くな。腹がつぶれそうだ」
 不安定な身体を支えようと腰を掴めば、彼の上でくすぐったいと暴れる始末だ。そうして一頻りばたついて疲れたのか、エアリスは彼にしなだれかかった。
「ルーファウスの上、すごく気持ちいい」
 エアリスが小さく呻いた。ルーファウスは片手で両眼をおおう。
「いつもと反対だね。あなた、ひんやりしてる。気持ちいい。やっぱり、飲みすぎちゃったのかな」
 言い方に気をつけろと、咎めてやりたかった。だが彼の身体は素直だ。つやめいたエアリスの声音に、脳頭がしびれている。甘美だった。ルーファウスは息をのむ。
「勘弁してくれ」
「ん、何か言った」
「何も」
 ならいいけど、と言いながら、エアリスは彼で涼むことをやめようとしない。自由な女だ。それを非難することもできないルーファウスは、ただただ眉根をよせる。
「ね、明日、ちょっと早起きしてね」
 彼の上体の上で腹這いのまま、エアリスは顔だけを起こす。この目はだめだ。ルーファウスは困ったように笑う。酔っていようが、彼女の眼差はとろんとすることもなく、ひたすらに真直ぐだ。エアリスの翠眼に囚われるより先に、ルーファウスは彼女の身体を押し退けた。
「指輪とカードと、それからドレスのお礼。娘さんのお見舞いのぶんも。ハーブ、たくさん摘まなくちゃ。それから、えっと、どうするんだっけ。選って、きれいにして、乾燥させて。お天気、続くといいな」
 先に座り直した彼女が、ルーファウスを引張り起こす。ほっそりとした手が乱れた金髪を梳いている。
「お茶葉、いっぱいつくるから。手伝ってほしいの。ルーファウス、ちゃんと起きてね」
「お前こそどうなのだ。起きられるのか、この酔払いめ」
「だめだったら、二日酔い用の、庭に入ってすぐ横のところに生えてるから。それも採ってきてね」
 シャワー前のそれにはまだ整髪料が残っている。手櫛で元通りになったらしく、満足そうに頷いたあと、エアリスは彼の二の腕にしがみついた。ルーファウスは引き剥がすことを諦める。冷たい、と機嫌のいい彼女の顔は、相変わらず拍節器のようにゆらいでいる。何かに掴ませておかなければ、万が一、転倒でもされたら困る。
「私が一人で行くのか。しかも宿酔の介抱までさせる気だな」
「だって、楽しいお酒、止められなかったんだもの。明日の朝、ちょっと怖いな」
 もう、とエアリスがルーファウスを睨む。頬をつねられて、ルーファウスは納得がいかない。抗議をしようにも、ふがふがと間抜けな息がもれるだけだった。
「わたしのこと、こんなに喜ばせるあなたが悪い」
 上目遣いで、熱い肢体を押しつけて、彼の愛情を甘やかな声で責めて。ルーファウスは空いた手でこめかみを揉む。無垢なままに、彼を惑わせるこのいきものを、いったいどうすればいい。ルーファウスは途方に暮れた。


■END■
(有頂天)

20210528