祭子
2022-07-18 14:12:42
10792文字
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■MAY IT BE■

∠[ν]-εγλ0010/08
エアリスはクロールを教わっています。夫の思い出嫌い克服作戦をこっそりと練りながらです。
※pixiv掲載テキスト(20210324初出)

■MAY IT BE■
∠[ν]-εγλ0010/08


「天使ちゃん」
 ルーファウスのアルバムを開いたときの、あの感動をエアリスは忘れられないでいる。
 金色の薄い産毛と水色の眸。丸い顔、丸い手、丸い腹。あまりのあいらしさに、エアリスはことあるごとに彼を「天使ちゃん」と呼んだ。彼のアルバムへの複雑な思いは、勿論察しているつもりだった。
「思い出は、人を苦しめるから」
 そんな風なことをルーファウスに説いたのは、確かにエアリスだった。あのころの彼女は母親や友人、大切な人のつらい思い出になることが、耐えられなかった。だが、その呪縛からエアリスを解放してくれたのは、ほかでもないルーファウスだ。
 たった九箇月の暮らしのなかに、二人の喜怒哀楽がぎゅうぎゅうにつまっている。
 ルーファウスが撃たれたときのことを思い返せば、搬送先に着くまでの正気でいられなかった道中がよみがえる。ルーファウスからの贈物はジュエリーケースに出張先の土産話といっしょにしまってあって、イヤリングにもブローチにも思いだし笑いが止まらない。それらはもう『エアリス・ゲインズブール・神羅』をかたちづくっている大事な一部で、抉り取るようなことはできない。
 エアリスは気づいた。彼女のこれまでの『今』の積み重ね、その一つ一つが、それを共有した誰かの一つ一つでもあることに。思い出を残していく側は、そうして記録や記憶となって大切な人の一部になれる。エアリスが誰かに残した何か『一つ』が苦しめるものだったとしても、その傷ですらすでに誰かの一部だ。
 ルーファウスの場合、傷を残したのが父親だった。
 だが父子のあいだにどれだけ確執があったとしても、それもまた彼の一部だ。アルバム――父親の愛情――から目を逸らせる彼のかたくなさですら、今のルーファウスをつくりあげてくれたものなのだ。エアリスが愛したのは、器用なくせに不器用な、そうして成り立っている『ルーファウス神羅』だった。
 思い出を残された側が、それらと向きあうことが難しい時期があるのは仕方がないことだ。だが、この先、思い出を受け入れる準備が整ったときに、追想にひたるための確たる証がないのはさびしい。記録も記憶も、どちらも欠けてはならない。忘れてしまえばいいなどと、エアリスはもう二度とは思わなかった。
 過去は変えることができず、それを受け止めなければならない現実は厳しい。だが未来はまだ決まっていない。いつか星に還るエアリスが彼の一部になったとき、楽しいことも悲しいこともすべてルーファウスに優しく残るように。
 思い出が未来の彼の負担にならないように、エアリスはとある作戦を立てた。
 エアリスは神羅家のアルバムを抱き締めながら、微笑む。彼の両親にまで後押しされるとは、まさか思ってもみなかったけれど。
 何よりも、思い出そのものに罪はない。エアリスの頬がゆるむ。かわいいものはかわいいのだ。
「ね、天使ちゃん」
 そのたびにルーファウスは眉をしかめていたが、やめろとは言われていない。言われたところでエアリスには改めるつもりもなかった。
 大きくなったルーファウスも、天使だったから。


 シークレットガーデンには東屋がある。据えつけのテーブルとベンチもずいぶんと古いが、すべて石造りのためか今でも十分に機能している。管理棟から近いここは、当時の管理人にとっても秘密の休息所だったのかもしれない。そんな風なことを、ルーファウスは言った。
 この時期、東屋は青々とした蔓草におおわれている。石の白色と草の緑色が見た目にも涼やかだ。真昼の照射が厳しいさかりだったが、屋根板の下ならさえぎることができる。ぬれたラッシュパーカーと水着も、体内にこもる熱を逃がすのにちょうどいい。
 ルーファウスの休日と、月夜の明るい時間帯に、エアリスは彼から泳ぎ方を教わっているところだった。進捗はあまり芳しくない。ルーファウスは「海だと、もう少し勝手が違うのだが」と苦笑しながらも、根気よくコーチを続けていた。
 ヒーリンロッジ山間の岩盤部には、大小さまざまの窪地がある。それらは濾過した雨水の溜まり場になった。窪地を囲む岩盤から湧きでる水は、そうしていったん蓄えられ、滝口からこぼれて渓流になる。ヒーリンのいたるところで見られる情景だった。
 秘密の庭にある湧泉もそのうちの一つだ。直径は広いところで三〇メートルほどもある。今では神羅家のプライベートビーチだった。もともと水遊びが得意らしいルーファウスは、暇を見つけては庭に通っている。浮きにくいのは難点だが、真水は身体がべたつかないところがいいらしい。『断崖の保養地』ではなく『星と水の豊かな癒しの山小屋』で再開発地区にまわせばよかったなどと、ひっそりとうずもれている観光資源をルーファウスはいまだ惜しんでいた。
「本当なの」
 そろそろ正午だ。一区切りをつけて、自宅へ戻ろうかというころあいだった。ルーファウスが彼女を驚かせたのは。
「あれ、天使ちゃんの誕生日だったの」
 エアリスは頓狂な声を上げた。
 あれとは、プレジデント神羅が初期設定に使うパスワードのことだ。先月、カーム近郊の別荘でエアリスが見た四桁の数字は、実はルーファウスの生まれた月日なのだと、今になって彼は言ったのだ。平然と。
 セーフルームの前、あのときテンキーから消えた数字が、いきなり重要な意味を帯びてくる。
「じゃあ、神羅の広報、でたらめだったってこと」
 日除けのパーカーを差しだしながら、エアリスは首を傾げる。彼の――上半身と、ハーフパンツ型の水着から伸びる膝下の――素肌はすでに薄らと赤い。だがルーファウスはそれを受け取らなかった。きっと日が暮れるころになって「肩がひりつく」と文句を言うのだろう。毎度のことだったが、彼は懲りない。エアリスもまたいつものように吐息をつくものの、無理強いはしなかった。その理由が分からないわけでもないからだ。
 ルーファウスは肌に残る傷痕を、己の弱さの証だと思っている。ボーディングスクール時代は、同年代の子弟の気安さでこれも勲章だと自慢をしていたようだ。それは成人して放蕩に飽きるまで続いたらしい。女受けはよかったと言われたときには内心むっとしたものの、ルーファウスが終始自嘲気味に話すので、彼女は不満をもらせなかった。
 エアリスは悲しかった。彼の身に降りかかった幾多もの惨事――拉致や襲撃――を聞いていると、これだけの怪我ですんだことが奇跡のように思う。だがルーファウスはそんな風に考えていない。一〇の災難のうち九を退けたところで、まわりの評価や関心は残りの一に集中する。だから不本意ではあるものの、失敗の証は隠すのだと彼は言った。
 シークレットガーデンは、そんな彼が自由でいられる場所だった。尊重したかった。
 それにデスクワークが多いルーファウスが外気浴や気分転換をすることには、彼女も賛成だった。エアリスにできるのは、日焼けの炎症を抑えることくらいだ。アフターサンローションのストックを思いだす。そろそろなくなりそうだった。消炎作用のあるハーブを、いくつか摘んで帰ろうと思った。
「そうだ。親父がパスワードに使う以上、公表するわけにはいかなかったのだろう。私もずいぶんと長いあいだ、偽の誕生日を信じていた。方々から祝いもされたぞ」
 自社は勿論、各界の名士や一般のファン、そして――表沙汰にはなっていないが――犯罪組織からもこぞって祝われたのだと、彼は続けた。プレジデント神羅の嫡子の誕生パーティーは、毎年ニュースになっていた。神羅のプレスルームがスラムの大型ディスプレーを占有してまでしきりに言い立てるので、エアリスも何となく覚えている。あの賑々しい催事がすべて絵空ごとだったとは。
「神羅って、嘘ばっかり」
 タオルの隙間から眸をのぞかせて、ルーファウスは彼女の反応を面白がっている。頭をがしがしと拭いている彼から、タオルを取り上げる。と、エアリスは吐息をついた。彼女が大事にしている金髪を、当人がぞんざいに扱うからではない。
「そんなの、ルーファウス、ちゃんと楽しめたの」
「楽しむだとか、それ以前の話だ。茶番だが、あれは私の仕事だった」
 ルーファウスは軽く肩を竦めた。彼が仕事と言うのなら、どのような面倒ごとでも手抜きはしない。きっとそつなく――彼らしく傲然と、にこりともせず、だが美々しい外貌でまわりを圧しながら――こなしてきたに違いない。
「ね、恋人は。恋人くらい、本当のお誕生日、教えたの。ちゃんとお祝い、してくれたの」
 ルーファウスをベンチに座らせる。エアリスはタオルを広げると、丁寧に水気を取り始めた。わざわざ彼の背後にまわったのは、ぶすっとした顔を見られたくないからだ。エアリスは料簡の狭さにうんざりする。ルーファウスの未来にも、過去にすら嫉妬をしているなんて。
「知りたいのか、そんなこと」
「知りたくないけど、知りたい。複雑なの、わたし」
 ふっと笑って、ルーファウスは首を振る。
「偽の誕生日を祝われた。それなりに楽しみもした。だが個人的なつきあいのある人間にも、知らせてはいない。何せ神羅カンパニーのトップシークレットだ」
 どこから漏洩するとも分からない。そう、ルーファウスは言った。
「私の生まれた日を、私が教えたのはお前だけだ。なあ、これで機嫌を直せ、エアリス」
「直ったけど、でもね、やっぱり複雑」
 仕上げに襟足を拭き終えて、テーブルにタオルを置く。手櫛で髪型を整えながら、彼女の口からもれるのはやはり溜息だ。彼のいた環境は、聞けば聞くほど特異だった。
 ルーファウスが生まれた日は、エアリスにとって喜ばしい日になった。そんな吉事を、彼が何ごともない一日と同じようにすごしていたのかと思うと、どうにもやるせない。
「ね、ルーファウス」
「お前はまったく、妙なところで気に病むので困る」
「あなたが気にしなくても、わたしがいやなの。だって、特別の日、だよ」
「そんなもの、何も特別なことなど」
 エアリスは彼の両肩に手を置いた。
「違う。あなたにとって、じゃない。わたしにとっての、特別の日なの」
 手のひらから、彼の息をのむ気配が伝わる。
「だから、わたしを安心させて」
「それなら仕方がない」
 そう言って、ルーファウスはわずかに俯いた。
 エアリスは広い背中を見下ろす。ぼこぼこと浮いていた背骨は、ほどよく筋肉にうもれている。背面に傷痕がないのは、彼の負けん気のおかげだろう。ルーファウスのことだ、誰かに傷つけられるときですら後ろなど見せなかったに違いない。誇らしいような、悲しいような、エアリスはそんな捉えどころのない気持ちに振りまわされる。
「その日になると、親父が花束をよこした」
 ぽつりと彼がそうもらしたのは、ややしばらくしてからだ。エアリスははっと顔を上げた。
「カードも何もなかったな。幼いころはそれが不思議だった。家をでてからは、寄宿舎や私の自宅までわざわざ送られてきた。律儀なことだな」
「また、そんな言い方して、もう。義理じゃないでしょ、それ」
 ふん、とルーファウスは鼻を鳴らす。彼の口調は、取り立てて何の感慨もなさそうだった。が、しかしその表情はどうだろう。エアリスは彼の肩ごしに覗きこもうと、首を伸ばす。ルーファウスは逃げるようにしてそっぽうを向いた。エアリスは声を殺して笑う。深追いはやめておくことにした。
「もっと、あなたのお父さんのお話、聞かせてほしい」
「私の親父の話をお前が聞いて、どうする」
「わたしね、秘密の作戦、あるの。たくさん。そのうちの、一つ」
 ルーファウスの首に腕を絡めて、エアリスは耳元にくちびるをよせる。上体を彼の背中に預けながら、囁いた。
「言ってみろ」
「だから、秘密。妻にはね、夫に言えない秘密、一つや二つくらい、あるんです」
「ならば最初から伏せておけ」
 わずかに笑ってから、そのうちな、とだけ彼は言った。
 今回の作戦に名前をつけるなら『オペレーションアルファ・まずはお父さんとの思い出を客観的かつ簡潔に妻へ説明してみましょう』だ。エアリスはくすくすと笑う。その拍子に彼女の横髪がルーファウスをくすぐる。こそばゆいと文句を言っているが、エアリスは聞こえないふりをした。
 カームの別荘から戻った――日の晩は、結局彼女は泣いて、泣き疲れて眠ってしまったので――翌日、エアリスは本格的に『ルーファウスの思い出不信克服』へと取り組むことにした。彼女が立てた作戦は、ルーファウスに最愛を捧げるという、いたってシンプルなものだ。エアリスから愛されることに慣れて、いつか閉ざした思い出の扉を開く彼の、その不安をやわらげることができるように。思い出からあふれだす愛情を、恐れなくてもいいように、と。
 相変わらずルーファウスの未来は眩しいままで、直視することは難しい。だが、過去でも未来でもない現在、ルーファウスのとなりによりそっているのは、ほかの誰でもないエアリスだ。今、このときだからこそ彼のためにできることは、きっといくらでもあるはずだった。
 第一段階が、オペレーションアルファだ。そのなかには、神羅家のアルバムを最後の一ページまで二人で見るというミッションも入れた。あわよくば写真にまつわる回想話が聞けるかもしれない。そんな打算もある、ちゃっかりと。
 それにしても、とエアリスはいささか驚いている。初めて興味を持った『父親』というものが、プレジデント神羅になるとは夢にも思わなかった。
 よくよく考えてみれば、父親とは縁のない人生だった。だからなのか、彼女が父親という存在へと向ける感情は、希薄だった。
 養母の夫は、一目も会うことが叶わないまま戦死した。エアリスが少女の粋をでるころまで、スラムには戦争で父親を亡くした子供が絶えなかった。
 そして顔も知らない実父。生母は父親のことを話さなかった。エアリスの父親というより、父性を持ついきものがいること自体を伏せたかったのかもしれない。エアリスが恋しがらないように、悲しまないでいいように。父親の死を知って、あの逃げ場のない小さなフロアで、幼い娘が仄暗い感情を持て余さなくてもいいように。
 エアリスは苦笑する。親子とは母子のことを指すのだと、子供のころは本気でそう思っていた。だがラボラトリーのスタッフの何気ない会話のなかで、彼女は実父の名前を知った。ファレミス博士は神羅の科学者だったとも。そう聞いて、正直あまりいい気はしなかっことを、今でもはっきりと覚えている。エアリスに向ける科学者たちの目は、皆いちように爛々としていて気味が悪かった。何よりも、彼らは連日のように母親を苛んだから。
 結局、母親にはファレミス博士のことを何一つ聞けなかった。
 ルーファウスなら知っているに違いない。面識はなくとも、何かしら資料は残っているだろう。何せファレミス博士はセトラ研究の第一人者だ。そして神羅社員だった。
 エアリスは息をのむ。自身のルーツを知る、これがチャンスなのかもしれない。期待と不安が綯い交ぜになる。一人で知る勇気はないけれど、ルーファウスがすぐかたわらについていてくれるなら。
「どうした」
 いつの間にか、彼の首にまわした腕が強張っている。エアリスは慌てて力を抜いた。
 ルーファウスには父親と向きあわせようとしているのに、エアリスが逃げていては説得力に欠ける。折を見て彼に確かめてみようと、彼女は決めた。ルーファウスの父親と同じように、エアリスの実母や彼女自身を大切に思っていてくれるといい。
 そう思いながら、ルーファウスの父親がわが子を思って贈った花束を想像する。派手好きの父親のことだ、花束といっても部屋を埋めつくすほどのアレンジメントだったのかもしれない。それともやはり目立たないようにこぢんまりとした、だが一本一本が高価な交配種だろうか。いずれにしても。
「ね、ルーファウス。花束、よかったね」
「よかったと思うのは、お前のほうだろう。気はすんだか」
「うん。嬉しい」
「お前は変わっているな」
「だって、わたしの大切な人の、わたしを幸せにしてくれてる人の生まれた日だよ。お祝いされたら、嬉しい」
 ルーファウスは彼女の腕に指をかける。ゆっくりとさすりながら、なるほど、と言った。
「それなら分からないでもない。お前の誕生日なら、むしろ私自ら祝う」
「あなた、もうお祝いしてくれたよ」
「あれは、半分は成行きだっただろう」
 エアリスは思わず笑った。成行きというには、彼は思いきりがよすぎた。プレゼントのために結婚までするという、ルーファウスはそうやって何につけても極端で豪胆だった。
「でもね、誕生日のこと、先に言いだしてくれたの、ルーファウスだよ。わたし、黙ってたのに。わざわざ気にかけてくれたでしょ。IDもTVディナーも、わたし、嬉しかったから」
「お前は欲がない」
「あるよ、それくらい。だから言うけど、次はルーファウスのばんね。ちゃんとお祝い、してもらおう」
 ルーファウスの手の動きが止まった。
「ね、ルーファウス。施設検分っていうの、ちゃんと終わったら。パスワード、全部変え終わったら、広報には本当の誕生日、載せてね」
「今更か」
「そう、今更。しれっと、やっちゃって。皆、吃驚するね」
 エアリスは彼の横顔を覗きこんだ。眉間にしわがよっている。
「ルーファウス、またあの派手で賑やかな世界、戻るんでしょ」
「表舞台には、無論返り咲く。だが、つきあいは面倒くさいな」
 田舎に引きこもりすぎた、とルーファウスが言った。エアリスはしわをくすぐるが、だが頑固なそれは伸びない。
「だめ。どうせ、皆また、『神羅社長』のお祝いしてくれるんでしょ。だったら、本当の誕生日がいい」
 ルーファウスは渋っているが、いずれ彼が地位を回復すれば、そのステータスに群がる人々はあとを絶たないだろう。そして会社はそれを有効に活用する。広告宣伝や名士との社交場としてだ。彼も重々承知しているに違いない。それでも言わずにはいられなかったようだ。
「お前の大切な人の誕生日が、義理や餌に使われても、それでも嬉しいのか」
 半ば投げやりに、ルーファウスはこぼした。
「それはそれで、会社の利益になるでしょ。あなたの大好きなやつ。それにあなた、ファン、たくさんいるから。ルーファウス、見た目だけは万人受けするもの」
 伍番街スラムの、大型ディスプレー前の人だかりを思いだす。頭のてっぺんから足の爪先まで、パーティーシーンのために飾り立てられた『ルーファウス神羅』の登場には、人々も――普段は何かと神羅への不平をもらしていながらも――一目置かずにはいられなかったようだ。とくに女性は年齢を問わず、いっときの夢を見る。ルーファウスにエスコートされ、絢爛なパーティー会場へと向かう場面をだ。だが彼のとなりは、海を渡るより遠いところなのだと、すぐに夢破れるらしかった。
 それにね、とエアリスは微笑む。
「義理だけじゃないよ。ジャッド、友達でしょ。きっと心からお祝いしてくれる。タークスも。エヴァンも、そうだといいね」
「あいつらは、そうかもしれないな」
「でしょ。わたしも、お祝いするから」
 ルーファウスは振り仰いだ。何がそんなに意外だったのか、驚きと当惑でただ目を見開いている。
「本当の誕生日、教えてくれて、ありがとう。わたし、もうちょっとで嘘のお誕生日、お祝いするところだった」
 エアリスはサプライズで祝おうと、プレスルームのバックナンバーデータで彼のプロフィールを調べていた。もしこのまま偽りのその日を迎えていたらと思うと、血の気が引きそうだった。彼にまた虚しい思いをさせるわけにはいかない。
「何だ、祝ってくれるつもりだったのか」
「当たり前でしょ。うんと先のことは、約束できないけど。年に一回のことくらいなら、ルーファウスの誕生日なら、楽しみにしたって、それくらい許されるかなって。もしも叶わなくてもね、黙ってたら、あなたには気づかれないでしょ。そう思って」
 いっそうゆれる青い眸は、彼らしくない。それが不思議とかわいらしく見えて、エアリの胸がきゅうと締めつけられる。
「だからね、こっそり準備してたのに。でももう、ばらしちゃったから。サプライズ、できなくなっちゃったね。お祝い、できなかったら、ごめん」
 ルーファウスの一心な眼差が、彼女を引きよせる。思わず彼の顔に頬ずりしそうになったところで、エアリスはわれに返った。慌てて身を起こそうとしたが、ルーファウスが彼女の腕を掴んで離さなかった。
「ね、離して」
「却下だ」
「どうして」
「なあ、エアリス。そのまま掴まっていろ」
 そう言うなり、彼はいきなり立ち上がった。エアリスの尻の下に腕をまわして持ち上げる。背負われるかたちになって、彼女はさらにまごつく。
「やだ、ちょっと、下ろして。もう、どこ行くの」
「もう一泳ぎするぞ。この夏のうちに、せめて息継ぎができるようにはしたい。いい加減、パーカーを脱げ」
 水の抵抗がやわらぐのだとルーファウスは言うが、エアリスは首を振る。ジャッドの用意した水着は、相変わらずだった。普段の露出の多いワンピースに慣れたとはいえ、パジャマは今でも上着だけだが、さすがに下着より布の少ない恰好を――ほかでもないルーファウスの目に――さらす気にはなれなかった。それからもう一つ。エアリスがラッシュパーカーを着こんでいるのは、肌を隠すためだけではない。彼は素肌だ。肌と肌がふれあうと、近ごろはどうしてだか二人のあいだのその不思議な熱をもっと手繰りよせたくなる。むずむずする。そんな衝動を、もしもルーファウスに悟られたらと思うと、ひどく。
「恥ずかしいから、いや。ね、どうしてそんなに熱心なの」
「コーチとしての資質が問われる」
「ちょっと待って。本当に、何、目指すつもりなの、ルーファウス」
 冗談めかした彼の口振りに、エアリスも小さく吹きだす。ルーファウスは今、経済学のチューター、コンサルタント、料理家の顔を持っている。そして最近ではマニキュリストやピアノの先生まで始めた。ほかにもあるが、きりがない。
「ただの会社経営のはずだったのだが。お前のせいだな」
 ルーファウスがおかしそうに言った。エアリスは目を細くする。彼が歩くたびに髪がエアリスの顔をくすぐる。金髪は、太陽光線に負けないくらいまばゆい。それ以上に、さまざまな経験の機会を与えてくれる、ルーファウスの気持ちが嬉しかった。
「髪、せっかく乾いてきたのに」
「そう言うだろうと思った。だからこのままお前を強制連行する」
 泉へと向かう足取りは軽い。杖の介助を必要としていたころの痩身が、ふと脳裏をよぎる。人一人の体重をかかえてもなお余裕のあるルーファウスに、エアリスはほっとした。それはともかく、このままではアフターサンローションでは追いつかなくなりそうだ。
「焼けちゃうよ。ほら、もう、肩が真赤。せめて日焼け止め、塗り直してからにすれば」
「いい。人目も気にせず日光浴など、何年ぶりだろう。コスタのボンボン以来かもな」
 ルーファウスは珍しく声を弾ませている。どんどん深いところへと入っていくが、年月をかけて濾過された水は、明度が高い。足の爪先まで濁りなくよく見えた。
「珍しい。ルーファウス、はしゃいでるね。子供みたい」
「誕生日に浮かれるのは、やはり子供か」
 え、とエアリスは声を上げる。何度かまばたきをしてから、小首を傾げた。
「よかった。誕生日のお祝いなんて、しかもサプライズなんて、価値観の強要だって言われるかと思った」
「半分、正解だ。九箇月前の私なら、お前の言う通りだ。鼻であしらっていただろうな」
「そうれはもう、ばっさりと、立ち直れないくらいにね」
「だが、お前はそれくらいのことでは、もう怯まないだろう」
 正解、とエアリスが意気ごむと、彼は笑った。
「強要じゃなくて、楽しいことの共有ですって、言い返すつもりしてた」
「共有か、なるほどな」
「ばっさりやらないのね」
「見ればわかるだろう。私は子供だからな、ご機嫌だ。そんなものが待ち遠しいなど、初めてだ」
「それはね、大人でも楽しみにして、いいことだよ」
 ルーファウスは何も言わずに頷いた。ご機嫌だ、などと彼は言うが、心が浮足立っているのはエアリスも同様だった。だから気がつかなかった。ずいぶんと沖まで来ていることに。
 深度はすでに彼の鎖骨あたりだ。エアリスでは足がつくかつかないかの境目だった。
「ちょっと、ここ、深すぎない」
「問題ない。深いほうが浮力が働く」
 ルーファウスは彼女を背から降ろして、向かいあう。確かに浅瀬よりは身体が軽い。脇下を支えているのは、彼の頼もしい二本の腕だ。それでもエアリスはどうにも恐ろしかった。
「でも、ちょっと怖い。手、離さないでね」
「離さないと約束しただろう。心配するな。おい、エアリス、何て顔をしている」
 何て顔と聞かれたら、ちょうど小さな子供が泣きだす寸前の、くしゃくしゃの顔としかこたえようがない。エアリスは口をぱくぱくと動かすが、声にならなかった。
「泣かせるつもりはないが、泣きそうな顔はそそるな。リハビリにちょうどいい」
「何のリハビリ」
「それは内緒だ。私にも妻に言えない秘密の、一つや二つはある」
 先程の意趣返しなのだろうか。ルーファウスはふんと鼻を鳴らした。
「それ以上詮索するなら、もう少し沖に行く」
 爪先を伸ばしても水底につかない。そんな妙な浮遊感に、エアリスはもう夫の秘密どころではなかった。彼の二の腕へと必死にすがりつく。
「天使ちゃんは、意地悪ね」
「私は、どちらかといえば悪魔だろう」
「お願い、天使ちゃんでいて。もう少しだけ、せめて足の着くところまで、戻って」
 おろおろとさまよわせていた視線を、ようやく彼に向ける。エアリスは真顔のルーファウスに驚いた。二人は声もなく見つめあう。彼の熱のこもった眼差に、エアリスは怖気も忘れるほどだった。
「仕方がない」
 しばらくして、ルーファウスが相好をくずした。
 陽光を、ゆれる水面が四方にはね返している。銀色の光をあびる彼は、大きな口を開けて笑うルーファウスは、無邪気な天使のようだった。


■END■
(願わくば)

20210324