祭子
2022-07-18 14:08:50
13215文字
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■BE CLOSETED WITH■

∠[ν]-εγλ0010/07
エヴァンの素朴な疑問が神羅夫妻の夜のあれこれまで芋蔓式にあらわにします。卒倒しそうです。
※pixiv掲載テキスト(20210410初出)

■BE CLOSETED WITH■
∠[ν]-εγλ0010/07


 ヒーリンロッジのてっぺんにある豪邸は、今日もエアコンディショニングが行き届いている。省エネルギー時代などと騒がれる昨今でも、二階フロアは快適だった。キッチンでは義姉が昼食の支度をしている。夫妻の愛犬は、彼らのあいだを行ったり来たりだ。リビングに異母兄と二人、エヴァンは紅茶を飲んでいた。
 センターテーブルにはティーセットと、焼菓子がそえられている。エアリスがエヴァンのために焼いてくれたクッキーだ。初めて訪れたときにだされた茶請けを彼は気に入っていて、それからというものの、エアリスは毎回のように用意してくれる。なかに練りこまれているハーブやジャムが違うので、飽きることはなかった。
 それとは別に、エヴァンからの差し入れがあった。先月怪我をしたルーファウスへの、見舞いの品だ。プレートに行儀よく盛られている。ただのシュークリームがそれだけで上等の菓子のようになった。いささか窮屈に見えた神羅夫妻の丁寧な暮らしぶりにも、慣れてきた。高価に違いないティーカップを持つエヴァンの手が、ぶるぶるとふるえることも――あまり――なくなった。
 いくらでも食べられるが、キッチンからいいにおいが漂いだしている。ランチのために、そろそろ胃袋を空けておかなければいけない。エヴァンは伸ばしかけた手を引きこめてから、ルーファウスを見やる。義姉が席をはずしているあいだに、この男には聞いておきたいことがあった。
「なあ、社長。あのときさ」
 エヴァンは声をひそめた。ルーファウスの自宅は広い。リビングのソファーから、ダイニング、そしてその奥にあるキッチンまで間仕切りはない。だというのに、大声を張らなければ聞こえないのではないかと思うほどに、エアリスの背中は遠かった。
 それでもエヴァンは、びくびくしながら義姉の様子をうかがっている。
「俺が初めて配達した荷物のことだよ。中身のこと、何も聞かされてなかったからさ」
「今更、何だ。文句でも言いたいのか」
「そうじゃなくて。あれさ、さっさと手放したかったんだけど、かばんからだしてから、しまったと思ったんだ。今渡して平気なのか。隠したいんじゃないのか。義姉さんに見られたらやばくないかって」 
「どういう意味だ」
 ルーファウスはわずかに首を傾げた。一人掛ソファーにもたれて、足を大きく開いている。腰をかける位置がポイントだ。深ければ深いほど、リラックスしているらしい。今でこそそれがこの男の――咄嗟に身をかわす必要性がないときの――くつろいだ座り方なのだとエヴァンも理解している。だが、知らない人間からすれば「ルーファウス神羅は、ふんぞり返って偉そうにかまえている」と、いい気持ちはしないだろう。
 それでも、誰一人として、面と向かっては文句を言えないに違いない。ソファーの脇にはモンスターのような大型犬が伏せている。真丸の目玉からは今一つ表情が読み取れない。エヴァンが身じろぎするたびに、長い耳がぴくぴくする。夫妻から「お前は」「あなたは」警戒されていないと聞かされてはいるものの、いまだ彼は犬を撫でる気にはなれなかった。
 その向かいの、五人掛の真中が、いつの間にやらエヴァンの定位置になった。センターテーブルには届け終えたばかりの小包が置いてある。この大きなテーブルがエヴァンは大好きだった。ルーファウスとの適当な距離を保ってくれるからだ。だが今だけはこのへだたりがもどかしかった。
「その、こっそり買って、こっそり届けさせようとしてたからさ。ばれたらまずいんじゃないかと思って」
「ばれたらまずいもの、とは」
「ほら、あれ。あれとかそれとか、これとか。立派な成人男性の必需品」
 エヴァンは股間を指差して、やはり小声で言った。ルーファウスは呆れたようだ。
「ポルノコンテンツのたぐいのことを言っているのか」
「分かりやすく言うと、そう。エッチなビデオディスク」
「お前の話は間怠い。仮にビデオディスクだったとして、伏せるほどのことではないだろう」
「隠さないのかよ。神羅さんちはオープンだな。羨まし、いや、何でもない」
 エヴァンは首裏をぼりぼりと掻く。怪訝な顔をしたルーファウスが、ゆっくりと足を組み上げている。相変わらず白色が好きなようだが、それがクロップド丈のパンツとデッキシューズとなると若干印象が変わる。トップスもリネンシャツで、勿論ネクタイはない。髪は後方へ撫でつけているものの、思い返してみれば、最近はこの男のかちっとしたスーツ姿を見ていなかった。
「そもそもだ。そんなものは、私に必要だったことがない」
 ただ、何を着せてもこの男は『ルーファウス神羅』で、迫力はそのままだ。だからなのか、エヴァンが言えば失笑を買いそうな台詞も、ルーファウスの口からでると妙に納得がいく。エヴァンは鼻白んだ。
「それもそうか。お相手なんて選り取り見取りだったもんな。さすがだな、社長。プレジデントボンボンも伊達じゃないわけだ」
「すぎたことを今更とやかく責められても、どうにもしようがない」
 男はキッチンに目をやった。つられてエヴァンも。アイランドキッチンのまわりを、エアリスはせわしなく動いている。それからコンロ前に立って、鍋を掻きまわしだした。後方からだとよく目立つ、腰のしなやかなカーブにエヴァンは思わず見入った。
「今は、私の女は一人だけだ」
 とたん、ルーファウスのゴシップをあれもこれもと思いだして、エヴァンはぞっとした。たぎる熱情を一身に受けなければならないあの細い腰は、さぞかし大変だろうと同情した。それはそれとして。
「義姉さんの腰、いいよな」
 正直なエヴァンは、気づけばそうもらしていた。しまったと思ったときには、もう遅い。ルーファウスに溜息をつかれた。
「私を前に、そんなことは臆面もなく言えるのだな。分からないやつだ」
「ごめん。いや、本当、いかがわしい気持ちじゃなくてさ。花車だよなあ、義姉さんって。中身、ちゃんと内臓つまってるのかな。両手で掴めそうだろ。掴んでみたい。うわ、今のなし、許して」
 ルーファウスは妻に顔を向けたまま、くつくつと咽喉を鳴らしている。わずかに首を振ったあと、アームレストに頬杖をついた。
「いや、かまわない。私も初見から思っていた。あれの腰は、いいな。無性に掴みたくなる。掴んで、押さえつけて、きつく打ちつければ、どうなってしまうのだろうな」
 打ちつける。何を。あれか。どれだ。いやいや、やっぱりあれしかないよな。エヴァンがそう結論づけたところで、はたとルーファウスを見る。どうなってしまう、とは、どういうことだ。
 エヴァンの目の前に、二通りのこたえがある。存外、この男はエアリスを優しく抱くのだろうか。それとも、彼女から無体を強いることは禁じられているのだろうか。いずれにせよ、ベッドの上で強引でないプレーに耽るルーファウスなど、にわかに信じがたかった。世間を賑わせたゴシップとまるで結びつかない。エヴァンは不審げに男を見た。
「やりたいのか、社長。本当は、やってるんじゃないのか。がつがつって」
「やりたい、とは」
 はっきり言え、とたしなめられたが、エヴァンは口ごもる。あの日の荷物のことをちょっと確かめたかっただけだ。だというのに、まさか神羅社長と猥談をすることになるとは、想像すらしなかった。しかもこの先は、神羅夫妻のこみ入った事情だろう。
「や、いや。えっと、アッパークラスの人は何て言うんだ、こういうの。いたす、なのか。まぐわう、かな。ていうか、俺は何を言ってるんだよ」
「セックスのことを言いたいのなら、していないぞ」
「何だ、そういうことか。してないんじゃ、どうなるのかなんて、そりゃ分からないよなって、まじかよ。社長、やってないのかよ」
 腰を掴んでがつがつどころか、行為そのものを。
 エヴァンは思わずテーブルに両手をついた。ティーセットががちゃがちゃと音を立てる。倒れる寸前のミルクピッチャーを押さえて、セーフ、と安堵した。取り乱しているのは彼ばかりで、ルーファウスは平然としている。エヴァンは耳の穴をほじる。聞き間違えたのかもしれない。庇護と支配、両極端な欲を掻きたてる腰つきを前に、あの『ルーファウス神羅』が何もしないとは考えられなかった。
「ちょっと待って。社長の言うそれって、あのさ、あれをあれに入れるあれのこと、だよな」
 踏みこんでいいものか迷ったものの、彼は好奇心に勝つことができなかった。注意深く男を見る。
「お前の言うセックスの、あれを指すのがペニ」
「うわ、分かった。もういい、その先はだめ、言ったらだめだ」
「おかしなやつだな」
 そうか、おかしいのは俺なのか。そう納得しかけたところで、エヴァンは目を剥いた。
「新婚なのに、レス。ルーファウス神羅が。嘘だろ」
 心のなかの驚愕が、口から声をともなってだだもれる。言ってはいけないそれは、きっといちばん聞かせてはならない男の耳にも届いたに違いない。エヴァンは頭をかかえた。恐る恐るうかがうと、ルーファウスはにやりと口角を吊り上げていた。
「なあ、エヴァン。最近は少しましな顔になったと、エアリスと感心していたところだ。だというのに、お前ときたら」
「はい」
「言いたいことは、はっきりと言え。聞きたいことがあれば、聞いていい。だがな、後悔するくらいなら、口を開くな。お前の仕事は秘密厳守が第一だ。そしてクライアントのプライベートへは、必要以上に容喙してはならない。分かるな」
 頬杖にしていた左腕を下ろして、ルーファウスは背筋を伸ばした。神羅社長の貴重な講釈の始まりだ。エヴァンは頭のなかのピンク色のもやもやを、急いで振り払う。と、真面目な顔になった。
 容喙とは、口だしを意味する。ルーファウスの話はいつもそうだ、知らない言葉がぽんぽんと飛びだして来る。分からないままにしておくと、せっかくの講釈もむだになる。だからエヴァンは極力その場でルーファウスに聞く。そんな雰囲気でないときはあとから調べるようにしている。そうこうするうちに神羅社長の小難しい話は、調査に携わる者への心がまえへと差しかかっていた。肝心の話の全容は今一つ把握しきれていない。だが、新しく言葉を知ること、それだけでもエヴァンには十分な価値があるのだった。
「いちいち本音をもらしていては、それでは仕事にならないだろう。お前は声にだす前に、一度息を止めろ」
 なるほど、とエヴァンは頷く。さらに耳を澄ます彼を、ルーファウスは真向から見据えている。
「一度でも口にしてしまえば、なかったことにはできなくなるのだからな。時間というものは、一分一秒ですらさかのぼれない。これは仕事以外でも、すべてに当て嵌まることだ。肝に銘じておけ」
 そんな子供だって知っていることを、わざわざ口にするルーファウスの顔つきはいつになく真剣だった。
 時間の流れは、前にも後ろにも操作できない。この世界を支配している理法の一つだ。だが、当たり前のことすぎて蔑ろにしがちなところでもある。エヴァンにも苦い思い出がある。母親とのすれ違いのことだ。
「過去は戻らない。そして未来も有限だ。一秒でも惜しめよ」
 珍しく念押しまでされて、エヴァンは神妙な面持ちになる。
 もう二度と手に入らない母親との時間。今、同じ時間を生きることでつながっている――パートナーや村の仲間、神羅夫妻もそうかもしれない――人々との、いつまでも同じ流れのなかにいられるともかぎらない時間。つながりは、いつか必ず切れる。エヴァンはエッジに拠点を置いているが、仕事の人脈は今やヒーリンのほうが広い。ひょっとしてこの先、ここへ転居することになればエッジの知人とは疎遠になるのかもしれなかった。ほかにも死別、仲違い、切り口はさまざまだろう。
 そのときになって、エヴァンはいったいどのような行動を起こせばいいのだろう。どうすれば母親のときと同じ失敗を繰り返さずにすむのだろう。
 エヴァンが慎重に頷いたところで、ルーファウスの背中が再びソファーの榻背に預けられた。
「それはともかくとして。お前の問いにこたえようか」
 ルーファウスが微笑する。ここへ来て、たまに見かけるようになった男の笑み顔は、あでやかだった。エヴァンは思わず生唾をのんだ。
「セックスレスとは、少し違うな。まだ一度もしていない。新婚だがな」
「え、ん、はあ」
 思わず大声がでた。慌てて口を押えるが、もう遅い。エアリスがレードルを片手に振り返る。目があうと、かれんに笑ってから、何ごともなかったかのように調理を再開した。エヴァンがルーファウスに驚かされることは、彼女のなかですでに茶飯事になっているようだ。だがエヴァンには反論する余裕も、むくれることすらできなかった。
「言ったそばから、これだ」
 ルーファウスはこめかみを押さえている。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。本当におかしなやつだな、お前は」
 おかしいのは、どっちだ。そうか、やっぱり俺か。いやいや、どうなんだこれ。エヴァンはもうわけが分からなかった。
「このさい、『正直探偵社』に舵を切り直したらどうだ。クライアントの話に同情しながら泣いて、大げさに驚き、そして最後はともに笑ってやるといい」
 ルーファウスはぞんざいな口振りだが、しかしエヴァンは「それもいいかも」と思った。事業は軌道に乗るどころか、いまだスタートラインをよちよちと歩きだしたばかりの状態だ。それでも長く続けたいと思えるようになった仕事だった。できることなら、自分らしさはなくしたくない。
 だが、しかし、けれどもエヴァンは、今はそれどころではないのだ。
「いやいや、待って。俺、今度こそ聞き間違えたのかな。だよな。きっとそうに違いない」
「エアリスとセックスをしていない」
「社長、ちょっと待って、社長。それはだめだろ、明け透けすぎるだろ。義姉さんに悪い」
「聞かれたから、こたえたまでだ。お前も気になったから聞いたのだろう」
 それを言われると、エヴァンは否定できない。エアリスの背中に詫びてから、上目でルーファウスをうかがう。
「キスは」
「それも、していない」
「ハグは」
「ハグは好きだな。特に、抱いて眠るのがいい。あれが来てから、よく眠れるようになった」
「社長、爺さんかよ。そもそもさ、そんなんでいつつきあってたんだよ」
「つきあって、とは婚前の交際のことか。なら、そんなものはない。強いて言えば、今だな。楽しいぞ」
 ルーファウスはあっけらかんとしている。エヴァンは頭をかかえたくなった。知りあってから結婚までの期間、プロポーズのこと、彼が以前得た情報と今得たばかりのそれを統合しようとして、失敗した。神羅夫妻の軌跡は、エヴァンが正しいと思う恋の順序に当て嵌まらなさすぎた。
「なあ、社長。告白はどっちから。まさか」
 恐々とルーファウスをうかがう。男は肩を竦めた。
「それがな、しようとしたのだが、エアリスにするなと言われた。つい先日だ」
 エヴァンは困惑した。告白をせずに愛情を伝える方法を、彼は知らなかった。そもそも交際期間もなく、結婚してから告白――未遂――というパターンがあるなど、思いもおよばなかった。ドラマで見た政略結婚だろうかと考えかけて、エヴァンはテーブルの上のシュークリームを見る。ルーファウスの凄惨な銃創が脳裏に浮かんだ。数年前ならともかく、しかし今となっては『ルーファウス神羅』といっしょになる利点はないように思えた。双方に利益を生まないのであれば、駆け引きの絡む婚姻は成立しないだろう。
 そしてエアリスの出自は依然として不明だった。エヴァンがそれとなく話を振っても、明るくかわされる。親しみやすいというのにミステリアスなところが、何となくそそる。そんな不埒なことを思いつつ、首を捻る。いよいよ二人のなれそめは闇のなかだ。いくら目を凝らしても、彼には何も見えなかった。
「普通さ、相手の気持ちぐらい、ちゃんと確かめるだろ。何でいきなり結婚まですっ飛ぶんだ。抱き枕がほしかったのかよ」
「女を抱き枕にはしたことがない。する気も毛頭なかったのだがな。今では、あれ以外を抱いて眠る気にはならない」
 ルーファウスは依然として淡々としている。だから聞きすごすところだったが、この男の口からでるのはどれもただ一人の女を思う台詞だ。とたん、エヴァンは赤面した。
「エアリスと結婚してもいいと思えたので、したまでだ。それで何も問題はない」
 こともなげに言い退けるこの男が、ただただすごいとエヴァンは感心する。ルーファウスの告白は、こんな風にして日々の会話のなかに織り交ぜられているのだろうか。ぽっぽと熱を帯びる頬を押さえながら、エヴァンはしかし気の毒に思う。ルーファウスの手練をもってしても、セックスはおろかキスすらまだなんて。
「ボンボンかたなしだよな」
「まだあれを信じているのか、お前は。マスコミの話は鵜のみにするなと言っただろう」
 ルーファウスが呆れている。主の非難を汲み取ったのか、ダークスターまでふんと鼻を鳴らした。
「何だよ、プレジデントボンボンって、あれがせねたなのか」
「半分はな」
「半分かよ」
 その半分だけでも、あんな性癖や、こんなプレーでとんでもない話になっていることを、義姉は知っているのだろうか。エヴァンはもう一度、エアリスに憐憫の目を向ける。いっそこのまま清い関係でいたほうがいいのではないかと、彼女に言いたかった。が、言えばエヴァンはルーファウスに社会的に抹殺されるに違いない。
 ルーファウスが前髪を掻き上げながら、ゆっくりと口端を吊り上げる。
「お前の親父は、もっとすごかったぞ。記事にはならなかった部分が、特にな」
 ウータイで地雷を踏んで粉々になった――顔も知らない――父親を思い浮かべかけて、ふと違うことに気がついた。どうにも彼はまだ神羅という名に馴染めない。このままでもいいかと、エヴァンは思い始めた。
「俺は違うからな」
「どうだろうな。生まれが生まれなら、お前も同類だ。金があれば、遊びたくなる」
「だったら、尚更だよ。よくがまんできてるよな、社長。やりたくならないのか」
「お前の言葉を借りるとすれば、やりたくて仕方がない」
 頬をゆがめてルーファウスは言った。エヴァンはこの男の困った顔など、初めて見た気がした。
「皆、私が派手な女と、派手に遊ぶことが好きだと思っているようだが。なあ、エヴァン。お前は知らないだろうが、神羅にはな、一途な血も流れている。あの親父ですらだ」
「え」
 笑えない冗談だ。そう言いかけたエヴァンの口をふさいだのは、ルーファウスの悩ましい吐息だった。
「私は、どうやらその血が濃いらしい。あれ以外とセックスする気が、まるで起こらない」
「やりたいのに、でもやってない。それって」
 何で、という前にエヴァンは息を止める。確かに、こうすれば言葉は声にならない。ルーファウスが鼻で笑った。
「何だ、やればできるではないか。だがな、エヴァン。顔にはしっかりと書いてあるぞ、『何で』とな」
 ルーファウスが犬にビスケットを与えている。紫色の太い首を撫でながら、エヴァンへ横目を使った。
「別段、隠すほどのことでもない。聞きたければ、聞け。聞けるものならな」
「また何か試されるのかな、俺」
「どうだろうな」
 しばらくのあいだ、二人は黙ったまま視線を交わした。先に目を逸らせたのは、やはりエヴァンだった。
「だめだ、無理。聞けない。怖い」
 ルーファウスが「根性なしめ」と、足を組み替えながら微笑した。エヴァンは背もたれに沈む。何をこんなに疲れているのだろう。ことの起こりは、最初の荷物とちょっとした疑問だった。エヴァンは天井を仰いだ。雑談のつもりで振った話が、まさかこんなあらぬ方向へ転がるとは。
 エヴァンは――今日、何度目になるのか――エアリスにこっそりと詫びる。
「早くやれるといいな、社長」
 そもそも神羅夫妻がきちんとやることをやっていれば、彼はこんな困憊はしなかったのだから。
 何よりも、エヴァンは今やルーファウスの側に肩入れをしている。男は、結局男の味方だ。好きな女と深いところでふれあえないなんて、自身の身に置き換えてみれば、とても恐ろしいことだった。
「俺さ、このあいだも気が気じゃなかったんだけど。いちゃいちゃするもんだと思ってさ」
 訝しそうに、ルーファウスが眉をひそめている。エヴァンはソファーに胡坐をかく。クッションを抱き締めて、吐息をついた。
「病院だよ。ほら、社長が撃たれたとき。俺なりに気を遣ったんだけどさ、あれって余計な世話だったわけだ」
「いや、そんなことはない。エアリスとは話をしたかった。邪魔が入る前にな」
 ルーファウスは組んでいた足をとく。と、前のめりの姿勢になる。ゆるくセットされていた前髪が顔の左半分をおおった。エヴァンの嫌った金髪は、この男にはよく似あっている。
「あのあと、レノに私が文句を言われたぞ。『社長の弟に髪の毛、むしり取られるところだったぞ、と』とな」
 ルーファウスが部下の言葉尻をまねた。意外なこともするのだと、エヴァンはわずかに驚いた。
「仮にあのとき、エアリスと戯れたい気分だったとしてもだ。お前の言うところの、いちゃいちゃだな。だがあんなところで、私はエアリスを片手間には抱かない」
 大腿の上に前腕を乗せたまま、ルーファウスは目線だけを上げる。前髪の隙間から、青色の両眼がエヴァンを強く見ている。
「時間は有限だが、無理強いはしない。しかけることも、私はしたくはないのだが」
 エヴァンはまごついた。だからといって、エアリスから百戦錬磨のこの男を誘わせるのは、あまりに無茶だろう。獅子に、丸腰で立ち向かう栗鼠ではないか。
「待ってたら、本当に爺さんになってしまうぞ」
「それは、困る」
 そんなにやりたいのかと、茶化すつもりの言葉をのみこむ。エヴァンはしきりにまばたきをした。ルーファウスの顔が一瞬曇ったように見えたからだ。
「一秒でも惜しめと言ったのは、私だったな」
 わずかに俯いたルーファウスだったが、すぐに上体を起こした。乱れた前髪を、後ろへ流す。そうしてソファーにもたれた男は、エヴァンの知る泰然としたルーファウスだった。
 ああ、とエヴァンは間延びした声を上げた。
「俺、やばいこと言ったかも。義姉さん、ごめん。本当、何度もごめん」
「心配するな。何よりも、あれの気持ちが肝心だ。私はプレーを楽しみたいのであってレイ」
「社長、だめだって、それ。言わなくてもいいってば」
 エヴァンがうろたえるが、ルーファウスは少しも動じない。犬用のビスケットを、もう一枚差しだしている。
「私はな、エヴァン。私たち二人のタイミングを待っている。そのときが来れば、ゆっくりと、一晩かけて大切に抱く」
 美味そうに食べている犬を見ながら、ルーファウスは艶然と微笑した。
「そのうち慣れたころに、がつがつとむさぼってみるのもいいかもしれない」
 思わず見惚れそうになって、エヴァンは慌てて首を振る。それから鼻にしわをよせた。
「何だこれ。俺さ、もしかしてずっと惚気られてたのかな」
「そうかもしれないな」
「そうかもって、曖昧だな」
「何せ初めてのことだ。私にここまでさせるとは、あれはいい女だな」
 ルーファウスは指に着いた粉を払う。わずかに顎を上げた顔が、得意そうに見えた。
「ほら、まただ」
 エヴァンはいい加減、閉口した。そのときだった。かちゃかちゃと、陶器のふれあう音が二人へと近づいてきた。エアリスがトレイをかかえている。
「ね、さっきから、エヴァンの悲鳴、聞こえてるけど。いじめられてない。だいじょうぶなの」
 ぶんぶんと、エヴァンは首を縦にゆらす。ふと目の前のほっそりとした女が、そのうち惚気男にがつがつされるのかと思ったとたん、目のやり場に困った。
「ね、顔、赤いよ」
「問題ないよ、義姉さん」
 ルーファウスが笑みを噛み殺している。エアリスは「ならいいけど」と言いながらも、夫を不審そうに見ていた。
「お昼の支度ね、もうちょっとかかりそうなの。お茶、新しいの、置いておくから」
 エアリスはティーポットを取り替える。清涼感のある香りがするハーブティーだった。湯気の立つそれは、冷房の効いたフロアで飲むのにちょうどいい。自宅のうだるような暑さを思いだして、エヴァンはげんなりした。
「カレンデュラの香りがするな」
「当たり。食前茶にちょうどいいと思って。レモンバームとレモングラスをベースにしてね、カレンデュラ、入れてみたの」
 エアリスはルーファウスの脇に立って、かわいらしく首を傾げた。
「どうかな」
「なるほど食欲増進させて、多少の失敗はごまかす気か。調味料は間違えるなよ」
「もう、エヴァンの前でばらさないで。ちゃんとお母さんのレシピ通り、つくってるから。だいじょうぶ」
「エアリス、私にもそのくらい気を遣え」
 ルーファウスは辛辣だ。言葉も眼差も。エヴァンならきっと射竦められる。だがエアリスは軽くいなしている。そしてそんなやり取りを、二人は楽しんでいるようだった。
 この二人は不思議だった。会うたびに印象が変わる。
 友人のように気安く、夫妻のように落ち着いていて、そして恋人のようにホットだ。日によって、時間によって、会話の内容によってそれはころころと変わる。いったい、どれが本当の関係なのだろう。エヴァンには分からなかった。
 一つだけ、最初から変わらないのは、ルーファウスとエアリスを取り巻くアトモスフェアだ。大きな木の下、木洩れ日につつまれて二人は肩をよせあって憩っている。明るいうちはいい。だが陽が落ちたり、雲が立ちこめれば陽光のぬくもりを失う。そんな危うい安らかさだ。エヴァンはどうしてだか泣きたくなった。病院の廊下で、彼を突然襲った悲愴感に少し似ていた。
「どうしたの」
 穏やかな声がエヴァンの名前を呼ぶ。緑色の双眸を前に、彼は何も言えなかった。ただただ首を振る。
 夫妻が顔を見あわせている。ややして、ルーファウスが口を開いた。
「なあ、エヴァン。お前の言う普通が、いったい何を指しているのか私には分かりかねるが。私たちが世間一般の常識からずれているのだとしたら、私はかけ離れたままでかまわない」
 エヴァンははっとした。見開いた彼の視界には、自信に満ちた男とそっとよりそうかれんな女がいる。
「ままならないこともあるが」
 ルーファウスはエヴァンに目配せする。と、妻の腰に手をまわした。
「これが私たちの普通だ。おおむね満足している」
 エアリスを見上げて、ルーファウスは目を細める。エヴァンは息をのんだ。
 同じような造作をしているというのに、エヴァンは容貌を褒められたことがない。自信を差し色にすれば、ルーファウスのように目もくらむような、そんなあざやかな男になれるのだろうか。
「ね、弟の前だよ」
「かまわない。どうやら、今日の私は惚気たい気分らしい」
 本気と冗談の割合の分からない男だった。頬を桃色にしたエアリスは、ルーファウスの腕からのがれようとしている。咲いたりしぼんだり、いつも花のような人だ。ルーファウスの肩を遠慮なしにはたく姿にはぎょっとしたものの、エヴァンはそんな二人を黙って見ていた。
「もう、戻るから」
 調理機器のアラームに呼ばれて、エアリスはキッチンへそそくさと向かった。その後姿を追うルーファウスの眼差は、何か眩しいものを見るようだった。
「あれは、花のようだな」
 ルーファウスが満足そうに言った。エヴァンは呆気にとられたのち、笑いだした。
「社長もかよ」
「も、とは何だ」
「いやだって、発想が一般人と同じだよなって」
 ルーファウスはしばらく考えてから、睫毛を伏せた。
「仕方がない。誰が見ても、そう思うだろう。エアリスは花のような女だ」
「ああ、はいはい。言ってろよ」
「惚気だと、先に話を振ったのはお前だ。つきあえよ」
「いやだよ。何が悲しくて、社長のそんなもの聞かされなきゃならないんだ。恥ずかしい。背中がむずむずする」
 一瞬、「兄貴の」と口をついてでかかった気がするが、エヴァンはそれを気のせいにした。
「それに俺は仕事で来てるんだからな」
「ティータイムに、食事までつくとは、楽しい仕事だな」
「楽しくて何が悪いんだよ。義姉さんの飯も菓子もお茶も、美味い。身を張って来てるんだから、それくらいいいだろ」
 新しくだされたハーブティーも、独特の苦みがあるものの、美味い。エッジにもカフェは増えてきたが、まだドリンクの選択肢は少ない。メニューに載せれば、意外にはやるかもしれないと彼は思った。
「社長、毎日こんな美味いもの、飲み食いしてさ。冷食なんて食ったことないだろ。いいよなあ」
 最後はどうしても妬みやひがみになってしまうが、エヴァンはやめなかった。ルーファウスは「そういうことにしておくか」と、曖昧な表情だった。
「お前は考えすぎてものが言えない性質かと、そう思っていたが。いい兆候だ」
「何のことだ」
 きょとんとするエヴァンに、男は「まあ、いい」とだけ言った。
「ならば、仕事の話をしようか、エヴァン。次に頼む荷物はな、極秘中の極秘だ。無論、私の妻にもだ」
 ルーファウスが薄いくちびるに人差指を当てる。エヴァンは緊張した。足を下ろして、改まる。咽喉が渇いて仕方がない。エヴァンはハーブティーを流しこむ。
「そろそろ準備はしておこうかと思っている」
 腹の上で五指を組みながら、ルーファウスは顎を引く。相変わらずこの男は人を顎で操作する。だが逆らうことのできないエヴァンは、センターテーブルに手をつく。そうしてルーファウスへとよせた顔に、男が耳打ちした。
「コンドームだ」
 飲みこむはずだったハーブティーを、エヴァンはルーファウスの横顔に吹きかけた。悲鳴を上げたのは、勿論エヴァンだった。神羅夫妻には見透かされているらしい。ティーセットのトレイにはすでに布巾が用意してあった。エヴァンは慌ててルーファウスの顔を拭く。
「お前はここで茶を飲むたびに、吹きだしているな。動揺は面にだすなよ、足下を見られるぞ」
 ごしごしこすろうとするエヴァンの手を、ルーファウスが邪険に払い除けた。取り上げた布巾で首元を拭っている。白いリネンシャツの染みはきちんと落ちるのだろうか。はらはらしながらも、エヴァンは不満をたれる。
「誰のせいだよ、誰の。ていうか、俺の名前で変なもの、注文するなよ」
「変なものとは失礼だな。夫婦のいとなみに必要だろう」
 ルーファウスが立ち上がった。エヴァンを見下ろして、何やら含み笑う。
「それからな、エヴァン。お前が運びたがっていたビデオディスクだがな。何ならそれも頼もうか。二人で見れば、エアリスもその気になるだろうか」
 二人で見る。何を。エッチなビデオディスクだ。その気とはどの気だ。どこで誰と誰がのようなシチュエーションでと考えて、エヴァンはあんぐりと口を開いた。
「知らないよ」
 今日いちばんの叫び声が、二階フロアに響き渡る。ダークスターが非難の唸りを上げると、今度はひいっと情けない息がもれた。ルーファウスは片手で口を掴むようにして、笑いをこらえている。どうやらからかわれたらしい。そうと分かっていても、エヴァンは顔中が火照ってどうしようもなかった。
「あまり大声をだすな。また私がいじめたと思われるだろう。お前のせいで、いつも私が叱られる」
 わざとらしく肩を竦めているものの、ルーファウスはやはり鷹揚としている。いやそうに長い耳を倒す犬を宥めてから、「着替えてくる」と踵を返した。途中、キッチンで立ち止まったかと思えば、妻に何やら話しかけている。エアリスは夫を軽く睨んだあと、優しく笑い返すのだった。
 この手の話題はもう降らない。そう言い切れるといいのだが、エヴァンは神羅夫妻の不思議な関係が気になって仕方がなかった。異母弟と義弟という――世にも稀な――ポジションを、当面は利用するのもいいかもしれない。
 エヴァンはそんなことを考えながら、昼食の用意ができるのを待った。


■END■
(密談)

20210410