祭子
2022-07-18 13:54:24
40698文字
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■YOU GIVE ME BUTTERFLIES INSIDE■

∠[ν]-εγλ0010/07
亡父の不動産整理にでかけます。ルーファウスの憂鬱など妻にはすっかりお見通しのようです。
※pixiv掲載テキスト(20210303初出)

■YOU GIVE ME BUTTERFLIES INSIDE■
∠[ν]-εγλ0010/07


 ルーファウスは夢を見ていた。
 小さなルーファウスが、まだミッドガル壱番街にある『白亜のお城』に住んでいたころの夢だった。
 母親のベッドルームを訪れるのは、午前の学習時間の合間の三〇分、それから午後の空いたときを見計らって少しだけ。枕元のサロンチェアに、ルーファウス以外の誰かが座っているところを彼は見たことがなかった。廊下は騒然としていたが、重厚な扉が閉じられてしまえば、室内は無音に近い。ルーファウスのいないときに誰かがいてくれるといい。広い部屋で、ベッドから動けない母親が退屈を持て余していたらかわいそうだと、彼は思った。
「それは困ったことね。じゃあ、今日は何をお勉強したの、ルーファ」
 背当てのクッションに上半身をうずめながら、母親が微笑む。ルーファウスはほっとした。今日はきちんと話ができそうだ。母親は時折、ちぐはぐなことを言う。そんなときは、決まって面会を切り上げなければならなかった。
 あのね、とルーファウスは身を乗りだした。心は弾んでいた。長らく病院暮らしだった母親が帰ってきて、六日になる。そしてもう入院しなくてもいいのだと、執事から聞かされた。こんなに喜ばしいことはない。だというのに、執事も使用人も、皆いちように暗かった。退院したはずだというのに、前室にはいつも主治医や看護師が控えている。不思議だった。
 そして母親が帰って来た日から、父親を見かけていない。一度も。
 勉強の話だけでは、つまらないだろう。ルーファウスはほかに何か面白いことはなかったかと、小さな頭を捻った。
 そうだ、と彼は窓外を見た。白皙の頬がまたたく間に紅潮した。今日は珍しく――彼の住む東棟にある――庭に鳥が来ていた。ここからでは姿は見えなくても、囀りは聞こえるかもしれない。ルーファウスは窓を開けたかったが、勝手にそうすると叱られることを思いだした。悪い人がこっそりと入って来るらしい。叱責を受けるのは彼ではない。使用人は執事に怒られ、執事は父親に叱られる。自身でない誰かが咎められるのはかまわないが、不機嫌になった父親と居あわせるのは避けたかった。せっかくの夕食は味がしなくなる。ルーファウスの大好きなクレームブリュレもだ。硬いカラメルの層をスプーンで割る高揚感も、口のなかで蕩けるカスタードの甘さも、すべて台なしになる。だから惜しいけれど、鳥の話は諦めた。
 それでも彼は館内で父親を見かけると、あとを追いかけた。秘書や護衛を押し退けてとなりに並ぶと、父親はよく息子の頭に手を置いた。父親とまわりの大人たちとの会話が途切れることはない。だからルーファウスは邪魔をしないように、父親の逞しい大腿に掴まっておとなしくしている。
 頭を撫でられるのが好きだった。何も特別なことをしていなくても、褒められたような気になるからだ。
 ルーファウスはとたんにさびしくなった。父親は快闊だった。不機嫌を翌朝に持ちこさない。朝食はいつも父子二人、向かいあって食べた。多忙な父親だったが、それを欠かさないでいることをルーファウスは知っていた。執事が内緒だと言って教えてくれたのだ。朝食はいつも美味しかった。
 ファミリーダイニングルームにどこからか蝶が迷いこんできた日のことを、ルーファウスは母親に教えてあげようかと思った。父親と二人で部屋中を追いかけて、そとに逃がした話だ。だがそれももう何日前のことになるだろうか。何となく言いづらくて、結局ルーファウスは今日のチューターの話を続けた。
 それに窓を開けると寒いかもしれない。母親の手はいつもふるえていた。
「ねえ、ルーファ。これをあなたにあげる」
 今もそうだ。ブランケットの下から伸びてきた左手は、頼りなげにゆれている。ルーファウスは骨ばったそれをそっとつつみこんだ。
「本当はね、ルーファのお嫁さんにあげようと思っていたの」
 母親は悪戯っぽく笑う。彼の手のひらに転がるのは、指輪だった。
「母さんも、父さんのお母様、ルーファのお祖母様からいただいたのよ。お祖母様はルーファの曾お祖母様から」
「じゃあ、すごくお年寄だね、この指輪。今、何歳なのかな」
「まあ、ルーファったら」
 指輪を日差しにかざして、ルーファウスは言った。小さな輪っかに、小さな石、そしてたくさんの小さな傷がついていた。母親はゆっくりと首を振る。
「母さんも、知らないの。これはね、神羅のおうちにずっと伝わっている、大切な指輪なのですって」
「どうして大切なの。母さんはもっと大きい石とか、きらきらした石のついてる指輪、たくさん持ってるでしょ」
 もらうなら、そっちのほうがいいのではないか。たとえば、とルーファウスはナイトテーブルに目をやった。両親の結婚指輪の、片割れがいた。母親のそれには彼女の眸と同じ色のダイヤモンドが嵌まっている。中央に大きな石と、リング全周には小さな石が敷きつめられていて、ルーファウスはそれを尾を引く流れ星のようだと思った。棒きれのようになってしまった指には、いささか大きすぎるのだろう。今はプラチナトレイにきちんと置かれている。
 女性はきらびやかな宝飾品を好むものだ。正式なデビュー前から何度か社交場に顔をだしているうちに、まだ幼い彼でもそれを悟っていた。ルーファウスは神羅の指輪を見つめる。みすぼらしくすら見える、それを。
「これは特別。世界に一つしかないの。だから、もらえるのは世界で一人だけなのよ」
 不満げに突きだしたくちびるを、母親はつまんだ。そっと、そしていとおしげに。
「ルーファも、ルーファだけの大切な人の指に、嵌めてあげてね」
 ルーファウスはしっかりと頷く。納得したわけではない。彼はやはり見栄えのいい指輪にこそ価値があると思っている。しかもこの指輪を身につけるのは、神羅グループの次期総帥の妻だ。もっとふさわしいものに取り替えたい。そう思いつつも、彼は母親の宝物をおろそかにしてはいけないことくらい、わきまえていた。
 ルーファウスの口元にふれていた手が、ぱたりとベッドに落ちた。
「母さん、眠いの。また、たくさん眠っちゃうの」
 母親は力なく頷いた。そっか、と彼は呟く。本当はもっと、ずっと話をしていたかった。母親が眠るというのなら、枕元についていたかった。昔、ルーファウスが具合を悪くするたびに、よりそっていてくれたときのように。わざわざ使用人を下がらせてまで、父親と並んで一晩中ついていてくれたときのように。だがそれは主治医に止められていた。ゆっくり眠れば、そのぶん早く元気になるのだと言われれば、従うしかなかった。
 おのずから席を立とうとする息子を、母親が引き留める。
「母さん、もう少ししたらね、今までよりうんと長く眠ってしまうの。ごめんね、ルーファ」
「どうして謝るの。眠いなら、ゆっくり眠ったらいいよ」
「母さんが眠ってしまったら、ルーファは一人ぼっちよ」
「父さんがいるよ」
 ルーファウスは咄嗟に嘘をついた。嘘にしたくなかったので、父親には今日こそ帰ってきてほしいと願った。
「そうね。二人がいっしょにいてくれると、嬉しいわ。父さんったら、皆の前ではあんなに偉そうな顔しているけれど、さびしがりだから」
 母親が懸命に手を伸ばす。嬉しいと言いながら、悲しげな顔がとても気になった。ルーファウスは慌ててチェアに座り直した。母親譲りの淡い金色の頭を、そしてふっくらとした頬を、冷ややかな手が撫でている。   
「優しい子」
 ルーファウスははっとした。幼い姿が、いつの間にやら現在の彼に変わっている。目線もずいぶんと高くなっていて、見下ろした先に母親の顔があった。ルーファウスは顔中を苦渋にゆがめた。彼の鼻は母親のにおいを間違いなく嗅ぎ取った。
 ベッドルームを支配する、圧倒的な死のにおいだった。


 ルーファウスは明け方に目が覚めた。背中と脇がいやな汗でぬれている。息も荒い。見慣れた天井にかっと開いた双眸を据えたまま、しばらく動けなかった。
 母親は心の病だったと、ルーファウスが分別のつく年齢になったころに、そう教えられた。今思えばなるほどと思うところはいくつもあった。何に心を囚われてしまったのか、母親の晩年は荒れていた。まっとうに会話ができる時間は、少なかった。知識を身につけてからは実際にカルテを通覧した。免疫力が低下した身体は、さまざまな病魔を惹きつけたようだ。直接の死因はよくある不全系の疾病だった。だが彼女の精神が崩壊するほどのダメージの原因を、ルーファウスは知らない。
 ジュノンエリア南西部に旧公国領があった。門閥の子女として慈しまれてきた母親は、神羅総帥のパートナーとなったことで否応なしに矢面に立たされた。成上がりの神羅の、トロフィーワイフ。血統だけの女。そんな悪罵の正体は、羨望と妬心だ。ルーファウスはそれらを身近にして育った。あしらい方も心得ている。だが、深窓で、人間の善性の部分だけに囲まれて大人になった彼女には、悪意をいなすことは難しかったに違いない。そうして怨嗟の声は、母親をひどく苛んだのだろうか。
 ルーファウスは思う。あんなちっぽけな指輪など、早くに捨ててしまえばよかったのに、と。
 肩にかかる生ぬるい何かに、ルーファウスはわれに返った。エアリスの寝息だった。
 相変わらず彼は、入口から遠いベッドの端で眠る。変わったのはエアリスの位置だ。彼女の呼気がルーファウスの肩に届くか届かないかの、曖昧な距離。すぐに引きよせることも、ともすれば組み敷くことも容易いというのに、ルーファウスにはそれができないでいた。
 こんこんと眠る彼女は、あどけない。ルーファウスは幼子の寝顔など見たことがなかったが、きっとこんな風なのだろうと思う。子供は、ルーファウスにとって無垢の象徴だった。時折、くるりとカーブを描いた睫毛が、小刻みに振れている。くちびるに微笑のかたちをとどめているのは、彼女のことだ、きっと甘い菓子の夢を見ているに違いない。近ごろエッジで流行っているらしい焼き菓子を、また取りよせてやろうとルーファウスは思った。
 ルーファウスはふと気づく。いつの間にやら、全身の緊張がとけていた。女の寝姿に冷汗を引かせられるとは。ずいぶんと情けなくなったものだと自嘲する。だが。
 たかが女の寝顔ではあるが、ただの女のそれではない。エアリスは無論、子供でもなかった。
 ブランケットの上からでも分かるほどに、横臥する肢体は肩から腰、腰から尻、そして大腿へとまろやかなラインをあらわに描いている。もともと――彼女をここへ連れ帰った日から――無垢と色香のアンバランスな女だとは思っていた。今もそれは変わらない。
 変化したのは、ルーファウスの見方だった。エアリスはもうあのころのハウスメートとは違う。
 だから、ルーファウスはエアリスの曲線を、手のひらでなぞりたかった。ブランケットを剥ぎ、パジャマのボタンをすべてはずし、そうして白い肌に指を這わせたかった。それを許さないのは、彼の過去のトラウマだ。
 せめて抱きよせるくらいなら、かまわないだろう。汗が引き、とたんに冷えてきた身体をあたためたかった。ルーファウスはエアリスの髪に伸ばした手を、すんでのところで引きこめた。安らかな彼女の邪魔をするのはしのびない。ルーファウスは苦笑する。遠慮とは無縁だった男がここまで変貌を遂げるものなのかと、こんな些細なことで実感する。
 以前、持て余していた『不器用な男』の正体を、彼はすでに知っている。ルーファウスはしかし、自身の、そんなただの男の部分が嫌いではなかった。
 静かに上体を起こすと、彼はヘッドボードに背中を預けた。昨日、ブラインドをきちんと閉じ損ねたようだ。スラットの隙間から、まだ仄白い陽光がしのびいってきて、ベッドルームに濃灰色と淡灰色の縞を描いている。ちょうど目の高さに明るい部分が当たっているが、ルーファウスは顔をしかめたものの、光を避けることはしなかった。何せ古い建物だ。採光はおろか調光ですらリモートコントロールができない。今、ベッドからでて、わざわざ窓辺により、ブラインドを下ろす気にはなれなかった。
 なぜこんな夢を見たのか。原因は分かっている。今日の『出張先』のせいだ。ルーファウスの憂鬱が、彼の口角を下げた。
 モノクロームの部屋で、彼はふと母親の形見の指輪を思う。あの小さな宝石は、何色をしていたのだったか。今しがた見た夢を思い返すが、色は見つからなかった。
 では現物は今、どこにあるのだろう。あのあと自室に戻って、どこに指輪をしまったのだったか。ルーファウスは思いだした。宝物入れのなかだ。その宝物入れの在処をたどって、年数をさかのぼる。白い大きな建物に、彼はたどり着いた。
 ミッドガルで最初に建設されたセクター、壱番街。居住区よりもメインピラーに近い市街地一帯を独占して、神羅邸は神羅本社ビルと同時進行で建てられた。
 かの邸宅は圧巻で、そして鋼鉄の都市にあっては異質だった。
 白壁の端正厳格な古典様式で、中央のレジデンスをかなめにして、左右の二棟がそれぞれに連結棟で連なっている。庭は五つあった。庭園が三つと小庭が二つだ。贅沢にも黒土が厚く敷きつめられていて、樹木も芝生も枯れることはなかった。
 東棟がルーファウスのための居室群だった。二階の日当たりのいい部屋に学習室がある。大窓を背にした机の、二段目のひきだしを小さなルーファウスは宝箱にしていた。ルーファウスのまわりはものであふれていた。だというのに、その程度のスペースでこと足りるほど、彼には大切にしたいものがなかったのだ。
 ルーファウスは記憶のなかの、そのひきだしを開けた。何かがいくつか転がっていたが、靄がかかっていてよく分からない。かろうじてかたちをとどめていたのが、母親の指輪と、そして遊園地の入場チケットだった。
 ゴールドソーサーのオープニング式典で、記念すべき一組目の来場者として、彼の父親がわざわざ財布からギルをだして購入したものだった。その半券を小さなルーファウスは大切に取っていたようだ。ルーファウスは嘲笑う。今思えば何ということはない、報道向けのただのパフォーマンスだろう。あの財布もスタッフが用意したものに違いない。
 そして指輪。母親の葬儀のあと、しばらく経ってから、ルーファウスはそれが神羅家に伝わる婚約の証なのだと知った。
 あれはまだ、ひきだしのなかにあるのだろうか。ルーファウスは指輪の所在を思いだそうとして、諦めた。
 結局、父親は母親の臨終に立ち会わなかった。正妻の身体が脆弱なのは、神羅の魔晄炉に精神エネルギーを吸われたからだと、世間は嘲った。そして父親の女絡みのスキャンダルを、男はやはり健康な女を好むのだとあわれんだ。そんな口さがない大人たちのよもやま話が分かる年ごろになって、父親に腹を立てて投げ捨てた気がするし、母親の形見を誰にも渡すものかとそのまましまっておいた気もする。覚えていなかった。ただミッドガルの本邸から持ちだしてはいないはずだった。
 だとすれば、今ごろ瓦礫の下に違いない。ミッドガルはメインピラーに近いほどライフストリームの怒りが甚大だった。怒りという言い方はそぐわない、とエアリスにたしなめられたことがある。ライフストリームは、それの枯渇した部分を補うために循環するシステムらしい。だが彼は激怒という表現がぴったりだと思っている。
 メテオが落ちるという日、ルーファウスは白色と緑色の光の帯を見ていた。あれは循環などという生易しいものではない、無法な力だった。暴力的なまでの奔流になるほど、付近の土地からエネルギーを使い切ったのは、神羅だ。市民に『白亜の城』と呼ばれたルーファウスの生家は、おかげで跡形もない。探しだすことは不可能だった。
 どうやらルーファウスは、手にしたものをことごとく失う巡りあわせにいるらしい。因果な話だ、と呟いた彼は、しかし自身のことを不運だとは少しも思っていなかった。
「どうしたの」
 寝惚け顔が枕に沈んでいる。
「変な夢を見た」
「どんな夢、見たの」
 エアリスはぼんやりと、しかし彼を懸命に見上げている。ルーファウスは思わず片手で口元をおおった。自身がどのような顔をしているのか確かめようがない。薄闇のなかで、彼女にはどのように映っているのかも。半睡のまま、それでもしきりに目を開けようとしている彼女を見るに、妙な顔をしているのかもしれなかった。
「ね、教えて」
 エアリスの眸の色は、目覚めの色だ。新しい朝を迎え、そして夜を終えるまでに、彼女はまた彼の知らない何かを教えるのだろう。一日の始まりにふさわしい色をしている。だが。
「まだ朝には早い。起きてから話す」
 今度こそ彼の手が柔らかな髪にふれた。何度かすべらせているうちに、エアリスはまた目蓋を閉じた。ベッドの上の右手に左手を重ねている。左手の薬指に指輪を嵌めるまで、もうすぐだ。ルーファウスは小さく笑った。
 ルーファウスはようやく宝飾関係者の当たりをつけた。ジュノンエリアの老舗ジュエラーで、コンタクトはすでに取ってある。エアリスにはまだ内密にしている。いくつか贈ったジュエリーは既製品だったが、エンゲージメントリングとウェディングリングは一から誂えるくらいの甲斐性はある。
 神羅の女を縛りつけた指輪は、ミッドガルの崩壊とともに消えた。失くしてよかったと、ルーファウスは思った。


 明け方の遠慮がちだった薄日はどこへ行ってしまったのだろう。まだ八時前だというのに、ダイニングルームの大窓から差す陽光は力強い。暑い一日になりそうだった。ルーファウスはいささかうんざりした気持ちで、カトラリーを握る。
 エアリスのレーズンブレッドをちぎる手が、とうとう止まった。
「お母さんの形見、探せないのかな」
「まだ気にしているのか」
 夢の話をしたところ、案の定エアリスの眉が曇った。朝の食卓の話題にはそぐわなかったと、当の本人は平然としているというのにだ。母親を悼み、恋しがっていた幼いルーファウスはもういない。夢に見るまですっかり忘れていた指輪を、惜しむ気持ちもなかった。
「ね、何とかならないの」
「言っただろう。あの家はもうない。ディーの鼻でも、さすがに嗅ぎ当てることは無理だな」
 何せ神羅は星に嫌われている。たかが家屋一つにいたるまで容赦がない。プレートごと、三〇〇メートル下の奈落にまで引きずり落された。同じメインピラー近くにありながら、今でも美しい絵画のようなゲインズブールの家とは雲泥の差だった。
 ルーファウスは苦笑いをこらえながら、ポーチドエッグにナイフを入れる。
「だけど、お母さんとの思い出なんでしょ」
「思い出は、ものにだけ宿るわけではないだろう」
 パンのかけらを口に入れながら、エアリスは彼を見澄ましている。近ごろのエアリスは以前にも増して手ごわい。ルーファウスの――能弁という武器を駆使した――話術で丸めこむことができなくなってきたのだ。おかげで彼は嘘をつけなくなった。
「いい思い出もなかったしな、あれには」
 ルーファウスは何の気もなしに言った。だが彼女の咀嚼がぴたりと止まる。きっと母親と幼いルーファウス、互いが互いを失った二人へ同情しているに違いない。ややして彼女は重い溜息をついた。
 嘘をつけば暴かれ、正直に告白すると相手を悩ませるのであれば、いったいどうすればいいのだろう。ルーファウスは困ったように、だが情愛をこめて妻を見つめる。
「ほら、卵が冷める。見てみろ、ちょうどいい半熟具合だぞ」
 今日の献立はスモークサーモン、スリービーンズサラダ、そしてスピナックのソテーとポーチドエッグだ。なめらかな黄身が濃い緑色をしたスピナックに絡む。ルーファウスはそれを口に含んだ。葉菜のあくの強さも、バターと卵につつまれて舌ざわりがまろやかになる。シンプルだが美味かった。
 落とし卵をつくるのは、ルーファウスの役目だった。ビネガーの加減を覚えるとそれは面白い作業なのだが、エアリスには相変わらず難しいらしい。彼の料理のレパートリーは、今ではエアリスより多い。彼女の実家で見つけた、養母のレシピノートのおかげだ。凝った料理からちょっとしたテクニックまで満載だった。ためになるというのに、エアリスはそれに目を通す気がないらしい。いわく、「ルーファウス、すごい。味つけ、お母さんそっくり。うちのレシピ、これで守れるね」だ。どうやらエルミナ・ゲインズブールのそれが、神羅家の『家庭の味』になるらしい。エルミナが知れば卒倒するだろう。ルーファウスはくつくつと笑った。
「ね、ルーファウス。今日の出張、だいじょうぶなの」
 何のことかと、彼はフォークを止める。しばらく言いあぐねていたエアリスだったが、意を決したようだ。真正面からルーファウスを見た。
「寝てるときまで、嘘、つけないよね。あなたでも、さすがに。行きたくない日、ルーファウス、いつもうなされてる」
 彼は瞠目した。そんなことはまったく知らなかった。夢の内容など毎回覚えているわけではない。が、言われてみれば、特別な施設検分の日は寝起きから気怠いことが多かったように思う。
 特別な施設とは、先代の私的な不動産のことだ。そのほとんどが、いわゆる情婦を囲うためのものだった。
 一軒家もあれば、アパートメントハウスもある。立地もさまざまだ。先日向かったのは、コスタ・デル・ソルのビラだった。自然に囲まれた平屋だったせいか、メテオショックのさいにもライフストリームの目こぼしに与ったらしい。ほとんど無事だった。困ったのは、ゴールドソーサー付近のアパートメントハウスだ。神羅家本邸と同じような惨状だった。だからといって放置しておくわけにはいかなかった。現在、あの付近一帯の解体工事を進めている。
 父親はすべての建物にセーフルームや金庫を設置していた。開錠できるのは、今やルーファウスただ一人だ。何がでてくるか、彼にも予想がつかない。検分のすんだ物件をかんがみれば、ルーファウスに有益なものは少ないのだが、しかし第三者の目にふれていいものも一つもなかった。彼が自ら動くしかなかった。
「お前も来るか」
 ルーファウスはカトラリーを置いた。躊躇しながら、エアリスを誘う。
 今日、彼が向かうのはカーム郊外の、森中の孤家だった。タークスの事前調査は終えていて、安全は確保できている。あとに残るのは、開錠の必要な地下のセーフルームだ。ほかの物件と異なるのは、父親の執心具合だった。建てられた時期は、ルーファウスの母親が死んで一年と経たないころだった。そして父親が最後に訪れたのは、彼が死ぬわずか一週間前だ。
 憂鬱か唖然か、それとも不安か。よく分からないものが、ルーファウスを苛む。
 検分のたびに父親の派手な遊興ぶりを知るが、それに腹を立てているわけではない。意外な道楽や、新しい趣味にもどんどん取り組む、ルーファウスの知らなかった父親のそんな旺盛なところに驚きはしたものの、むしろその気持ちは分からないでもなかった。何せ金を持て余していると、遊び方にはこと欠かない。そして彼らにとって遊びも投資のうちだった。
 そのなかでも取り分け長く楽しんでいたらしいのが、下半身の享楽だ。それも理解はできる。『プレジデントボンボン』などという蔑称が週刊誌を賑わせていたころのことだ。セックスに耽ることは、単に気持ちがよかった。父親への反目や、それから生じる得体の知れない焦燥を、暫時ごまかすことにも役立った。彼もまたたいがい快楽を追及しつくしていて、その報いも受けた。女で失敗したことが、一度ある。今もなお心因の制裁は続いていて、ルーファウスには今、性的な能力がない。
 ルーファウスは一連のできごとを回思しかけて、やめた。胸糞が悪い話だ。朝の食卓で、妻を前にして考えることではなかった。
 ただ、とルーファウスはグラスに手を伸ばす。好きな女がそばにいて、手をだせないというのももどかしいものだ。応報に囚われたままの、思いのほかデリケートな神経にも、嫌気が差す。
 その点、父親は違った。女で何度しくじろうとも、享楽は晩年まで続いた。その結果、愛人やその子供の増悪をじかに向けられて、ルーファウスの手を煩わされたことは一度や二度ではなかった。だが、それだけのことだ。
 では、何にもやもやしているのだろう。ルーファウスは自身のことだというのに、胸のうちの靄の向こうが見透かせなかった。
 諦めて、グラスを飲み干す。ピッチャーに手を伸ばすエアリスを止めて、ルーファウスはフレッシュジュースを自ら注いだ。トマトベースにレモンと塩味が効いていて、あと味は爽やかだった。
「ね、ルーファウス、眉間しわしわ。いやなら、無理しないで」
「そうではない。少し別のことを考えていた」
「じゃあ、本当について行っても、いいの」
「施設検分といっても、今回は親父の別荘だ。まあ、遺産整理といったところか」
「だけど」
「お前の心配はよく分かる。無論、タークスもついて来る。だが、問題はない。車は別だ」
「どういうこと」
「喜べ、運転手は私だ。私とディーと、ドライブを楽しまないか、エアリス」
 困惑の顔がゆっくりと綻んでいく。勿論、とエアリスは大きく頷いた。
「お父さんの別荘ね。ね、写真あるかな。ルーファウスの写真、見たい。小さいころとか、ルーファウスの家族の。きっとすごくかわいいんだろうね」
「期待はするな」
「見たいな」
「なら想像力を働かせろ。私の顔を若返らせればいいだけだ」
「難しいこと、言うのね。ハイティーンくらいまでなら、何とか想像つくけど。それより前ってなるとね。ね、面影、ちゃんと残ってるの。今も、かわいいところ、ちゃんとあるの」
「あるだろう。どこを見ている」
「探してるんだけど。やっぱり、見つからないんだもの」
「まだ諦めていなかったのか」
 彼はわずかに首を振った。静かな所作で、食事を続ける。ルーファウスの『かわいげ』を探すエアリスのいくつかの作戦は、どれも失敗に終わっていた。先だって、チョコボファームへでかけたときもそうだ。チョコボ車の手綱を器用に操った彼に、エアリスは「そつがない」と鼻にしわをよせていた。
 どうやらルーファウスのかわいらしい部分は、過去をあさったほうが早いと気がついたらしい。そう彼が言うと、エアリスはしかし否定した。
「だって、大きなルーファウスのかわいいところは、今のあなたから見つけたいから。だからね、本当にただ、小さなルーファウス、見てみたいだけ。赤ちゃんのときでもいいし、五歳だっけ、パルマーと宇宙の話してたころって。それも、いいよね。大きくなっていくあなた、見てみたい」
 エアリスはゆっくりと目を細めた。
「ずっと思ってたの。ほら、『坊ちゃん』の昔話、聞いてから。今朝の夢のお話ね、聞いたらまた思いだしちゃった」
 パルマーめ、とルーファウスは眉根をよせる。
「今も十分素直でかわいらしいだろう、私は」
「どうでしょうねえ」
 エアリスが悪戯っぽく首を傾げている。期待をするな、と再度言いかけた口を彼は閉じた。きっと彼女の望むものはない。ルーファウスの写真など、一枚も。
 代わりにあるのが父親の愛人と子供のそれだ。なかには三人並んだ写真もあって、本妻とその嫡子よりも親子らしく見えた。
 エアリスをがっかりさせるだろうか。それとも優しい彼女を、また悩ませ、そして傷つけてしまうのだろうか。きっとその両方に違いない。だがルーファウスは、彼女に何と言っていいか分からなかった。こんなときにかぎって、そつのない男は行方をくらます。
「どきどきしてきちゃった。どうしよう、何、着ていこうかな」
 エアリスは花開くように笑っている。それが萎れるのだとしても、また咲かせる自信はある。何よりも。エゴイスティックな彼を、それでもエアリスは許すのだと知っている。だから連れて行くとルーファウスは決めた。
「お前の実家と違って、空調は効いている。羽織るものは持っていけ」
 いつも一言多いと文句をつけながらも、彼女は頷く。パンを行儀悪くいじくり、口に入れようとして、皿に戻す。浮足立つ様子を隠しもしない。
「ね、ワンピース、オプティカル柄の水色のと、オーナメント柄の紫色、どっちがいい」
「紫だな。カシュクールデザインがいい。今はそれよりも、エアリス。冷める前に、ほら、朝食を食え」
 子供のような妻を、ルーファウスはたしなめる。エアリスは慌てたようにビーンズを食べだした。
「言っておくが、今日の私の運転は、少々荒くなりそうだ。覚悟しておけ」
「それは、気にしないけど。だけど、不思議。タークス、運転しないのね」
 親父の遺産整理はな、とルーファウスは切りだす。
 秘匿性の高いものや有用なものがあればすぐに持ち帰るので、施設検分には人足と運搬車が必要だった。たいていは車両が二台あればこと足りる。だが先代の物件へ向かう場合にかぎり、ルーファウスはもう一台用意させた。なぜなら。
「その場合、私はたいがい機嫌が悪いらしい。私がわざわざ運転するのは、気を遣ってやっているからだ。だからといって、あいつらが私を乗せたがらないのは、怠慢だと思わないか」
「行き先、お父さんの別荘でしょ。そんなに身がまえなくたって」
 エアリスが呆れている。父親への反抗期の延長だと、そう彼女は思っているに違いない。
「あとね、ルーファウス、普段からスピードすごいよ」
 彼女の言う普段とは、ヒーリンロッジの山道のことだ。ルーファウスはロビーでの来客応対に彼女を同伴することは、とうにやめている。が、気分転換の『本社ビル』内のドライブには連れだしていた。機嫌がよくても、どうやらアクセルペダルは踏みこんでいるらしい。ルーファウスはこめかみを人差指でこつこつと突いた。
「そうだったか」
「うん。エヴァンの運転、見習えば」
「あんなにのろくさい運転では、目的地に着くまでに、日が暮れてしまうだろう」
 むすっと彼は言う。皿に置いたナイフが、珍しく音を立てた。あらあらと呟いてから、エアリスはルーファウスを真直ぐに見つめた。
「わたしは乗りたいよ。あなたの、横」


「これじゃあ、タークスの皆、いっしょにいたくないの、分かるよ」
 アシストグリップにすがりつきながら、エアリスが言った。
「車のなか、空気重すぎ」
 ヒーリンロッジを出立したのは、一時間ほど前だ。到着まであと二時間強はかかると告げると、「そんなに」とエアリスはいささか青ざめていた。
 三台の車が連なって、車塵を上げている。先導車両と後続車両にはタークスが、あいだに挟まれた車両のステアリングホイールをルーファウスが握っている。さながらパレードのようだったが、土埃にまみれたオフローダーや幌車では派手やかさは皆無だった。
 ようやくミッドガル跡地がフロントガラスの左前方に入りこむ。こうして遠くから見ると、エッジ市は旧神羅ビルのはずれにある小さな集落でしかなかった。まるで保護者の大腿にしがみつく幼子だ。これは面白くないな、とルーファウスは思った。
「何だ、横に乗りたいと言ったのは、お前だ。後悔しているのか」
「してないけど。運転はね、やっぱりちょっとだけでも、エヴァン、見習ってほしいかな」
 ふん、とルーファウスは鼻を鳴らした。さらにアクセルペダルを踏みこむ。
「前の車がスピードをだすからだ。ついていかなければ、荒野で迷子になるぞ」
「あなたが、前の車、煽るからでしょ。煽り運転、だめ、禁止。それにこれじゃあ、酔っちゃいそう」
 加速度がぐんと大きくなるなか、エアリスはシートに押しつけられた身体を起こす。それから後部座席を振り返った。ダークスターは慣れたもので、座席に寝そべって視覚情報を遮断している。
「お前も眠っていればいい」
「それはいや。せっかくのドライブなのに、勿体ないもの」
 エアリスはそっと彼の二の腕にふれた。
「ね、ルーファウス。せっかくの、おでかけだよ」
 ルーファウスは息をのむ。通常はださないスピードで走行している自覚はある。ステアリングがぶれそうで彼女に目を向けることはできない。が、どのような顔つきをしているかは想像にやすい。ややして彼は鼻で息をついた。
「だから言っただろう。機嫌が悪いらしいと」
 ルーファウスの双肩の強張りがゆるんでいく。心なしか、声の棘も抜けた気がする。
「機嫌が悪いって言うか」
「何だ、言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい」
「お父さんの別荘行くとき、いつもそんな顔してるの」
 そんな顔とは、と聞き返すと、エアリスはわずかに口ごもった。
「ルーファウス、悔しそう。それに、ちょっと弱気」
 ルーファウスは愕然とした。父親の遺産整理のたびに彼を苛む模糊の正体は、弱気だったらしい。
 言われてみれば、なるほどと思う部分もある。父子のあいだが不仲なのは、まだいい。それはルーファウス自身の問題だからだ。だが彼の実母が蔑ろにされて、面白いわけがない。
 容姿も教養も、愛人たちに劣るような母親ではなかったはずだ。父親の趣味は一貫していて、髪色も虹彩もたいてい似通っていたが、母親のそれは透明感があって美しかった。母親の短所らしいところといえば、劣弱な身体と早世だという、たったの二つだ。だというのに、生きているだけで敵わないなどと、そんなことは理不尽ではないか。
 そしてそれは父親の個人名義の物件の数だけ、かたちとなってルーファウスに突きつけられる。
 大人のルーファウスは、またかと呆れるだけだ。だが、もし情婦に費やす時間が妻への追悼に充てられていれば。もしくは、幼いルーファウスに与えられていたのであれば。父子の間柄にも何かしら変化があったのかもしれない。幼い彼の心細さが、父親の遊興を知って自立に変わり、尚早に父親から離れることもなかったのかもしれない。
 前方車両のリアハッチを睨みながら、ルーファウスは考える。父親が存命のうちに、もう少し実りのある話もできただろうか。組織の土台づくりは今のところ順調だった。ルーファウスの――過重にかかえている――実務を各部署へ振り分けて、いよいよ経営に専念する時期を迎えている。経営の舵取りや、理念の明確な策定。先人である父親に聞きたいことが、今になっていくつかある。
 そうすればルーファウスは、と考えかけてやめた。
 たらればの話は嫌いだ。今更くつがえすことのできない仮定に囚われるほど、無益なことはない。
 過去に目を向けようとする、そんな弱い部分を部下には見せまいと、ルーファウスはおのずと虚勢を張っていたようだ。それが他者には威圧と感じるのだろう。車中を支配する彼のアトモスフェアは、相当な重圧だったに違いない。
 ルーファウスは安堵した。胸のうちの靄が一つ晴れた。ようやく得たこたえは彼の弱い部分をさらけるものだったが、それでも満足していた。ルーファウスは真実を貴ぶ。しかし、そうなると。
「お前の目に私は、どう見えているのだろうな」
 人の機微に敏いタークスや、本人ですら気づかないでいたルーファウスの心のうちも、エアリスにかかると透けて見えるようだ。そこにいるルーファウスは、いったいどれほど情けない姿をした男なのだろう。
「どうもこうも、ルーファウスはルーファウスだよ」
 愛情に満ちた声は、エンジン音に掻き消されそうだった。これは勿体ない。ルーファウスはわずかにアクセルをゆるめた。
「お前には敵わない。今のうちに白状しておく。これから向かうのは、親父の愛人宅だ」
 ちらりと助手席を見る。案の定、彼女の行楽気分を損なってしまったようだ。エアリスは眉根をきつくよせていた。
「母が不憫だ。それを毎度見せつけられることにも、私は疲れていたのかもしれないな」
 ルーファウスは苦笑する。利き手でないほうで髪を掻き上げた。
「マミーズボーイの気はないと、思っていたのだが」
「それ、仕方ないよ。だって、大事な人、ひいきするの、当たり前でしょ」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
 アームレストへ置いた右手に、エアリスの両手がかぶさる。
「何を見ても、同情はするなよ」
 ルーファウスはかすかに笑う。今になって情けをかけられたところで、幼いルーファウスには届かない。大人になったルーファウスがどれだけ慰められたところで、幼いルーファウスが受けた傷が癒えることはない。今の彼を支えることのできる稀有な女でも、それは決して。
 だが、彼の手は今、あのころにはなかった至上のぬくもりにくるまれている。十分だった。
「きっと、お前の望むものは何もない。騙すように連れてきた。悪かった」
 ルーファウスは彼女の薄い左手に指を絡めた。エアリスは首を横に振る。いいの、と優しく言った。
「朝のこと、わたしも謝らなきゃ。わたし、浮かれて要らないこと、いっぱい言ったよね」
「私は気にしていない」
「だけど」
「生憎と私のアルバムも、ミッドガルのごみ屑になった。写真が見たいのなら、データがあったはずだ」
 ルーファウスは旧神羅の基幹システムのなかに、神羅家のプライベートエリアがあることを知っている。見たいと思ったことがないので、まだ手つかずだ。が、彼女が喜ぶのであれば、写真の数枚くらい見繕ってもいいかと思った。だがエアリスから返ってきたのは、生返事だった。
「ね、ルーファウス」
 彼女の人差指がルーファウスの手の甲に、もじもじと円を描いている。爪先のネイルエナメルは、朝食のあとでエアリスが慌てて乗せた銀色だ。白みがかっていて涼やかな仕上がりだった。
「それって、やっぱりあなたがしなくちゃいけないことなの」
「死んだ肉親の恥部だからな。従業員に見せるにはしのびない」
 ルーファウスは冗談めかして言ったが、彼女の笑いは誘えなかった。
 秘匿すべき神羅の闇も、無論ある。だがルーファウスの第一の目的は、プレジデント神羅にかかわった連中――愛人やその子供――を知ることだ。顔や出自、父親と別れたあとの境遇を調べることで、ルーファウスに仇なすか否か、判別の材料になる。現に前者とはやりあったことがある。顔を知っていたおかげで、ことなきを得た。
 近い将来、いわゆる『骨肉の争い』は間々起こりえるのではないかと、ルーファウスは考えている。
 今は負債をかかえた会社だが、この先は違う。ルーファウスは必ず神羅カンパニーを立て直す。そのときになって甘い蜜に群がるだろう虫は、今のうちに駆除しておきたかった。
 かわいそうなのは、その蜜をいっそルーファウスから横奪しようと画策する虫だろう。
 愛人の子供が自身の意志でもって台頭しようとするのなら、まだいい。かつてソルジャー部門統括まで昇りつめた男のように。だが先代の遺児を担ぎだそうとするやからが厄介だった。財界や犯罪組織、そういった勢力にかたちばかり推しだされただけの、何の心がまえもない遺児は、神羅という重石に必ずつぶされる。
 いずれにせよ、ルーファウスは売られた兄弟喧嘩は、買う気でいる。昔から、荒ごとには慣れている。
 プレジデント神羅は会社を大きくしすぎた。神羅姓を名乗るだけで恨まれる。
 それは子供だろうと容赦をしなかった。ルーファウスが初めて誘拐されたのは、まだ非力な年ごろだった。あのとき足首にかせられた刑具は、幼い肌を傷つけ、今も薄らと痕が残っている。ルーファウスは、それでも自身の家庭環境に感謝せざるを得ない。陰謀の渦中に身を置き、厳しい修養課程を組まれ、心身ともに鍛え上げられた。
 彼はほかの愛人宅で見た写真を思いだす。子供は無邪気に笑っていた。ルーファウスがすでに対外的な笑み方を覚えていた年ごろだった。
 そうしてプレジデント神羅が後継に据えたのは、ルーファウスだった。父親の叱責を受けながら、傷ついてきた子供時代にも意味はある。
 それでかまわない。神羅を負うに足りる男は、ルーファウスただ一人でいい。
「これは私の仕事だ」
「神羅社長の、それとも、ルーファウスの」
「どちらともだな」
「わたし、あなたの秘書で、あなたの妻だから。どっちにしたって、ついていく」
 きっとエアリスは今、とてもあざやかな双眸をしている。見たい。
 ルーファウスは運転中だということを失念した。彼女へと顔を向けたとたん、車体が列からはずれかけた。前向いて、とたしなめられて、仕方なしに彼はステアリングホイールを握り直す。エアリスの強く輝く眸を見られないことが惜しかった。
「だから、ね、ルーファウス」
 アシストグリップに再びしっかりと掴まりながら、エアリスが言った。
「そんな面倒ごと、さっさとすませて、おうち帰ろう。朝、仕こんできたピクルス、きっと漬かってる。それで一杯、飲んじゃおう。ほら、アクセル全開」
 ぶっ飛ばせ、と物騒なことを言うエアリスを、ルーファウスは笑った。妻がかたわらにいる心強さを知らない父親が、初めてかわいそうだと思った。


 カーム市街の南東部に硬葉樹林が広がっている。プレジデント神羅の別荘は、木々にうずもれるようにして建っていた。
 車から降り立ったルーファウスは、ジャケットを羽織る。カフスをぴんと引張るのは、スタイルを整えるためもあるが、腕の古傷を隠さなければならないからだ。
 父親は魔晄の結晶を、幼いルーファウスには与えなかった。代わりに手厚い医療体制が敷かれたものの、外科的な処置には限界があった。結果、彼の体躯にはいくつもの傷痕が残っている。まだ自衛もままならなかったころの、未熟の証だった。
 ルーファウスが父親の庇護を離れてからも、彼自身はマテリアを重用しなかった。与えられなかったものに手を伸ばす。そんなさもしいまねはするまいという意地があったのかもしれなかった。
 別段、肌の美しさを競うような業種でもない。傷痕自体は気にならないが、それがあるだけで弱者だという印象を与えかねない。ならば洋服で隠すしかない。役員に就任してからはとくに気をつけた。夏日でも、同様だった。
 白色の三つ揃えをかっちりと着こんでいる彼を前に、エアリスが「見てるほうが暑い」とぶつくさ言っている。ルーファウスはそ知らぬふりをしながら、ざっとあたり見まわした。タークスは哨戒のため、すでに配置についている。森閑とした敷地は、夏の虫の声以外、何の気配もしなかった。
「意外。何ていうか、その」
「親父の成金趣味とは、ほど遠いな」
 珍しく口ごもる彼女に代わって、ルーファウスが言った。庭園もプールも、ヘリポートもない。ミッドガル本邸のセントラルホールにすらすっぽりと収まるような、こじんまりとした平屋だった。前庭――というにはしのびないほどの狭小さだ――には手斧が刺さったままの切株。大きな屋根とカバードポーチは、ゲインズブールの家を彷彿とする。が、いかんせんこれは。
「ここ、どう見てもきこりさんの家でしょ。ね、ここで本当に間違いないの」
「経度緯度とも、ここであっている。物件も、確かに親父名義だった」
「お父さんなら、金ぴかにくらいしそうなのにね。せめて壁、白色か水色に塗ったら、かわいいのに」
「目立たせたくなかったのだろう。立地といい、本気で世間から隠したかったらしいな。さて、何がでてくるやら」
 無垢の材木そのままの建物を見上げて、ルーファウスは肩を竦めた。エアリスが先に歩きだす。後手を組みながら、顔だけを彼に向けた。
「ね、行こう、ルーファウス」
 ここで外観を眺めていても仕方がない。彼はダークスターを伴うと、屋内へ入った。
 床板がひどく軋む。安普請ぶりがよく分かる。電力の使用状況から、父親は女が切れるたびにここへ入りびたっていたようだ。本命なのか、都合のいい女なのか。ルーファウスには判断しかねた。
 リビングの中央に立ち、ルーファウスはあたりを見まわした。建具や調度、そして雑貨。いやな予感がした。汗が冷えていくのは、何も空調が効いているからだけではない。竦む彼の背中を、エアリスがさする。
「家のなかもさびしいね。さてさて、お目当てのぶつ、どこにあるの」
 エアリスが明るく彼を導く。ルーファウスは予感の正体を確かめる、その覚悟を決めた。
「ぶつ、というよりは、部屋だ。地下にセーフルームがある」
「地下、あるんだ。しかもセーフルームだなんて、やっぱりお金持ち仕様だね」
「お前の言う金持ちは、嫌味に聞こえる」
「そんなことないよ。ない、はず」
 ルーファウスは彼女の額を小突くふりをしてから、こっちだ、と言った。あらかじめ頭のなかに間取りはインプットしてある。屋内を一通り確認してから、地下室へと向かった。
 ワインルームに入り、壁一面のボトルラックの、その一角をスライドさせる。現れたのはセーフルームの鋼鉄の扉だ。脇にあるテンキーが青白く光っているのは、稀少な永久燃料を使っているからだった。ここへ来て、彼はようやく神羅の英知を目にした。
 ルーファウスはテンキーに指を伸ばした。ここにかぎらず、暗証番号の初期設定はいずれもルーファウスの誕生日だ。そのせいで、略歴とともに公開されていた彼の誕生日は、フェークにせざるを得なかった。世間どころか、社内の人間も――人事部や広報課も例外なく――それを信じていた。生まれた日ですら感慨はない。だというのに、でたらめな日に、自社を含めたあちらこちらが主催する『ルーファウス神羅』のバースディーパーティーへと臨まなければならない主役の微笑は、いつも氷のようだった。
 女の出入りする家くらい変えておけばいいだろうに、と彼は鼻白む。それが情婦へのせめてもの情けではないのか。しかしルーファウスはその考えを打ち消した。多くの愛人をかかえていた男に、そもそも礼接もへったくれもない。
 もう幾度となく開錠しては、そのたびに暗証番号を変えている。今回もそうだった。誕生日を叩きこみ、続けて再設定専用の数字を入れる。するとパネル全体が点滅しだした。新たなパスワードを入力しろということだ。たったの四桁など、心許ないにもほどがある。設定可能な最大の桁数で上書きしてから、ルーファウスは扉を開いた。
 とたん、照明がいっせいに点灯した。フロアはヒーリンロッジの自宅リビングほどの広さだ。黒色と焦茶色、渋い香りの本革とエボニー材。床材はマーブルだ。一階とは打って変わって、父親らしいシークな設えだった。だが、やはりルーファウスは違和感を覚える。
 天井は有孔板だった。おそらく壁も防音仕様なのだろう。扉を閉めると、虫の声がぴたりとやんだ。それだけで涼しく感じるが、実際フロアは空調が効いている。換気システムにも問題はない。有事でもおおむねすごしやすそうになっている。だがルーファウスはジャケットを脱いだ。息苦しくて仕方がなかった。
「だいじょうぶ」
 かろうじて頷いてから、ルーファウスはまずミニキッチンをのぞいた。空のブランデーグラスと小さなプレートが、シンクにそのまま残っている。おそらくつまみものだったらしいチーズには、黴がはびこっていた。ルーファウスは眉をしかめながら離れる。
 フロアの中央には一人掛ソファーとサイドテーブルがあった。卓上のブランデーボトルと葉巻ケース――と、灰皿にはまだ吸い口を切られていないそれが、一本ある――に、ダークスターが鼻を近づけている。しつこいほどににおいを嗅いでいるものの、不審がる様子はない。ルーファウスは何となく面白くなかった。
 ざっと見まわしてみて、目につくのはオーディオビジュアルを楽しむためのシステムだ。ソファーの前方には巨大なスクリーンとスピーカー、後方には再生機器を収めたラックとやはりスピーカーが並んでいた。まるで小さな映画館だった。
 一席だけの特等席、その左手の壁面には名画とキャビネットが並んでいる。キャビネットにはブランデーボトルと葉巻ケースがいくつも収められている。どれも父親の好んだ銘柄だった。ここか、と彼は飾り棚を横にスライドさせる。現れたのは金庫だ。
「何、入ってるのって、聞いてもいいのかな」
「もう聞いているだろう」
「わたし、正直なの。ごめんね」
「いや、いい。お前に隠すつもりはない」
 なかにあったのは、記録メディアケースと茶封筒、そして重厚な装丁のアルバムだった。装丁には見覚えがある。いやな汗が、再び背中を伝う。
 金庫から取りだした一式は、サイドテーブルに置いた。ルーファウスはラックにあるプロジェクターをセッティングし始める。
「ルーファウス、顔色悪いよ」
「映像の内容だがな、何となく想像がつく」
「今、見るの」
「こんなもの、自宅に持ち帰りたくない」
 ルーファウスの腰に柔らかなものが絡まる。エアリスの腕だった。ルーファウスは微笑んだ。
「わたし、そばにいるから」
「そのためにお前を呼んだ」
 このフロアで腰をかけられるものといえば、彼が座を占めた一脚だけだった。ルーファウスは大仰に両手を広げた。
「私の膝に座るか、エアリス」
「ばか」
「遠慮をするな」
「してません、もう。椅子、何でほかにないの」
 こんなところに来てまで、アームレストがエアリスの定位置になった。彼女が着くのを見計らって、ルーファウスはリモコンを操作する。
 ややして照明は消灯し、白いスクリーンに庭園と女が投影された。若く美しい女だ。やはりか、とルーファウスは何とも言いがたい嘆息をもらした。
「ね、ルーファウス。この人って」
「そうだ。私の母だ」


 ミッドガル本邸の、ルーファウスの庭だった
 花をつけ始めた低木を、小鳥がゆらしている。だとすれば、映像は朝の様子なのだろう。
 彼の居室群は東棟だ。朝いちばんの日光がふんだんに注ぐ。上空に立ちこめるスモッグをつらぬくほどの、眩いそれを求めて稀に鳥の群がやって来る。そんな日の午前は、賑やかだった。
 ルーファウスはかろやかな葉音や、鳥の囀りを思いだした。が、スピーカーからは何一つ音声が流れてこない。不具合ではなく、わざわざミュートにしているらしかった。父親の心情を図り損ねて、ルーファウスは音量を上げる気になれなかった。
 母親はカメラにしきりに話しかけている。溌溂とした笑顔だった。ふとカメラの視点が低くなる。母親の手を降り切って、ルーファウスが走りだした。三歳をすぎたころだろう、しっかりとした足取りだ。母親が慌てて追いかける。ルーファウスは満面の笑顔で逃げる。カメラの視点は、そんな二人をずっと捉え続けていた。
 ルーファウスは戸惑った。彼の知る母親は、歯を見せて笑う人ではなかった。ころころと表情を変える人でもなかった。こんなによく動く母親を、彼は見たことがなかった。
 子供を抱き上げた母親が、カメラに近づく。どうにかそれを取り上げようと何度も何度も手を伸ばす。そのたびにカメラにうまくかわされて、母親が血色のいいくちびるを尖らせては、また破顔した。
 この花やいだ顔は見たことがある。エアリスがルーファウスに向けるそれだった。そして。
 母親がようやくカメラを取り上げたようだ。視点が上へ下へと暴れたあと、映りだされたのは父親だった。まだ若く、細い。そしてその顔つきは、ルーファウスがエアリスに向ける顔そのものだった。
 ルーファウスの知らない、両親の安寧があった。愛慕も幸福も、満ち満ちていた。
 がまんができなくなって、ルーファウスはプロジェクターを電源ごと切る。フットライトの心許ない明かりだけが、フロアに残った。


 ルーファウスはアームレストに肘をつき、片手で両目をおおっている。何も言わない彼を気遣ってか、エアリスも口を閉ざしている。彼女の指がルーファウスの襟足を、ただただゆっくりと梳いていた。
 彼が照明をつけたのは、しばらく経ってからだった。
「いつもであれば、愛人か、その母子の写真があるはずだった。映像は、これが初めてだ。しかも」
 妻とその息子も初めてだ、とルーファウスは呟いた。これはいったいどういうことだろうか。
 セーフルームの違和感の正体は、一人掛のソファーだ。一階も同様だった。リビングもダイニングも、椅子はおろか何もかもが一人分の用意だった。バスルームにもベッドルームにすら、女の気配はついぞ見当たらなかった。そしてこの別荘の質素な設えは。
 ルーファウスのいやな予感は的中した。耳によみがえるのは、病床に就いた母親の、か細い声だった。
「母さんね、山小屋みたいなところに、泊まってみたいわ。ルーファと、父さんと。お部屋の端と端でもお話しできるくらい、小さなところ。暖炉に、薪をくべてみたいの」
 元気になったらどこへ行こうか。そんな相談をしていたときのことだ。護衛も使用人もお留守番ね、と彼女は言った。小さなルーファウスはそれに不安を覚えた。一家のまわりには、つねに大勢の取り巻きがいた。だが彼は精いっぱいの虚勢を張った。
「あら、ルーファにはまだ難しいかもしれないわ。薪は父さんに割ってもらいましょう。あの人は力持ちだから、きっとできるわね」
 旧家の子女だった母親も、ルーファウスと同様、一人きりですごすことはなかったのだろう。他者の手を借りず、薪を手に取る。そんなことすら楽しそうに思えたのだろうか。
 思い返してみれば、母親が目に見えて痩せていった、そのころからだった。父親が家を空けだしたのは。
「あいつは逃げたのか。負け犬は、どっちだ。ばか親父め」
 妻の今わの際から逃げ、二度と会えなくなってから、彼女の願いを叶えていったい何になるというのか。結局、妻の死から逃げきれずに、一人、妻の夢にこもって、父親は何を思っていたのだろう。
「家族も金で買えればよかったのにな、親父」
 ルーファウスは空笑った。それはとても乾いていた。妻と同じ色を持つ、健康な女にぬくもりを求め、家族のレプリカをつくっては、失ったものの代わりにはならないと捨てる。そしてまた繰り返す。そのうちにルーファウスの自我も確立し、父親から離れていった。そうして父親はただ一人、映像のなかの『ある幸せな一日』に帰って行くのだ。父親の侘しい背中が見えた気がした。
「そんな言い方、しないで。言葉にしたら、だめ。傷つくのはお父さんじゃない、ルーファウスだよ」
「私は傷つかない」
 ルーファウスは父親の求めていたものを知った。家族だ。
 今になって分かったところで、幼いルーファウスには、やはり届かない。
 大人になったルーファウスが知ったところで、幼いルーファウスが受けた傷は、やはりそのままだった。それはもうどうしようもない。
 胸にわだかまるものはある。それを傷だというのなら、そんなものはルーファウスの心底にあるがらくたを隠す箱に、ぶちこんでおけばいい。
「私にはな、どうしようもない気持ちをしまっておく場所がある。きちんと鍵はかけてある」
 ただ、これまでに受けてきた傷も含めて、今の彼を形成している。何も不満はない。
「今更、どうということもない」
 どうかなあ、とエアリスが困ったように言った。
「ルーファウス、優しいから」
「私は優しさなど知らない」
「そんなことない。そりゃ、分かりにくいし、なかよしの人限定だけど。だけどね、すごく優しいよ」
 襟足をいじっていたエアリスの手が、肩に止まる。心地いい重さだ。
「今の映像ね、見ちゃったこと少しだけ後悔しそうになったけど。やっぱり、見て正解だったね。あなたのお父さんの後悔、知ったから。ルーファウスはこの先、間違えない」
 エアリスの話し方は、早朝に散り敷く雪に似ている。
「あなた、そういう人だもの。大切なものにきちんと気づいて、大事にできる人。ルーファウスは間にあうよ、だいじょうぶ」
 耳から入る声が、ルーファウスのどこか奥底まで深々と染み入る。雪との違いは、彼女のそれは驚くほどにあたたかいということだ。
 父親は愚かだ。母親の存命中に気がつかなかった。間にあわなかったのだ。そして穴に落ちた。もがき苦しんだものの、這いあがることができないままに死んでしまった。穴に名前をつけるとすれば、永遠の喪失だ。
 ルーファウスは愕然とした。髪を振り乱しながら、頭を上げた。真正面を見る。
 彼の行く道にも、黒く大きな穴が開いていた。今、はっきりとそれが見えた。ルーファウスの顔は、恐怖に引きつっていた。
「いや、私は間にあわなかった」
 ルーファウスはいずれエアリスを失う。いや、すでに失っている。
「私はあと少しのところで、いつも選択を誤る」
 少し前まで不自由だった身体を、彼は思いだす。
 メテオショックは彼の判断で避けられるものではなかった。ウェポンがミッドガルを襲ったことも。だがそのあとのルーファウスの動向は、彼自身が決めてきた。
 旧本社ビルから命からがらに逃げ落ちて、取り敢えずの潜伏先に彼はカームを選んだ。ここから間違っていたのかもしれない。もしくはカームで護衛を断った時点か。そのせいで彼は怪我や病を負った。世界復興にかける一年を、そうしてルーファウスは無為にすごさざるを得なかったのだ。
 あのときの選択を間違いだとは思うが、しかし後悔はしていない。ルーファウスは生まれて初めて彼の取り巻きから離れ、一個人として立ちまわり、そうして人の厚意を知った。知らなければ、あの日、伍番街の教会で見かけたエアリスを、彼は保護などしなかっただろう。
 だが、これでは間にあったとは言えない。エアリスは思念体だ。星の恩恵か、新たな使命か、得体の知れない力で顕現してはいるものの、彼女の在り方は生者とは言いがたかった。
 底の知れない穴から、目が離せない。穴もまた彼をまんじりと見ている。ルーファウスは呻いた。
「私はいつもあと少しが、間にあわない。遅い」
「遅くても、ちゃんと取り戻してる。会社だって、社員さんだって、そう。でしょ」
 ルーファウスは首を振る。
 会社は己の手で再生することができる。人員は、今を生きている人間だ。それらは時間と労力をかければ、いくらでも取り戻せるものだ。だが。
「私は間にあわなかった。エアリス。私はお前を失った。生きているお前を手に入れる前にだ。お前は殺された」
 死んだ人間はよみがえらない。エアリスが息をのむ気配がした。ルーファウスは顔を彼女に向ける気力が湧かなかった。
 すぐかたわらにいるエアリスは、しかしいつ星へ還るのか、まるで分からない。ルーファウスは手をつくしているが、古代種と思念体の謎はいっこうに判明しなかった。
 死病を患い、いのちの終わるときをただ待っていた母親と、何が違うというのか。ルーファウスは暗澹とした。父親とは、結局のところ同類ではないか。
「神羅のせいじゃないよ」
「神羅」
 ルーファウスのくちびるがわなないた。手が握りこぶしをつくる。短く切り揃えたはずの爪が、肉に食いこむ。痛い、と感じたときにはすでに彼は激昂していた。
「そんなものは、今、関係ない」
 ルーファウスは怒鳴った。サイドテーブルを思いきり蹴り飛ばす。葉巻ケースの蝶番がはずれ、硝子の灰皿が飛んだ。ブランデーボトルが派手に割れて、彼の足元をまだらに汚す。アルバムや封筒、父親が残した母親との思い出も。
「神羅の話など、していない。私は、エアリス、お前の話を、お前と私の話をしている」
 彼女が怯えているのが見て取れた。それもそうだろう。ルーファウスは今、怒り狂うよりも、さらに恐ろしい顔をしている自覚はある。
「私が見すごした。お前をわざと逃がしたことも、私が判断を誤った。あのまま確保しておくべきだった。間にあわなかった。いや、もっと、ずっと以前からだ。私は間違っていた」
 メテオショックは避けられないものだと思っていた。だが本当にそうだろうか。
 父親が死んだ日、旧本社ビルに囚われていたエアリスを自由にした。
 ターニングポイントは、あの夜の、ヘリポートだったのだろうか。古代種を実験体ではなく賓客としてもてなしていれば、事態は変わったのだろうか。ルーファウスは力なく首を振った。
「古代種のレポートは定期的に目を通していたし、報告はそれ以上に受けた。会議では何度も議題に上った。『約束の地』究明に欠かせないファクターだったからな。だが私は『古代種』の個体そのものに、興味を持たなかった。お前の名前もうろ覚えだった」
 ルーファウスは声高に、一句ごとを絞りだすように言い立てる。冷静はすっかり欠いていた。
 二五年前のあの日。
 亜人種の母子がミッドガルに来て以来。
 父親が古代種に固執していたことへの反発が、長らくルーファウスの根底にあった。それは否めない。だから『約束の地』は独力で手に入れるつもりでいた。
 父親が頼りとするものへ、ともにすがりつきたくはなかったのだ。
「エアリス、エアリス。お前の名前を、呼べばよかった」
 一度でも声にだしてみれば、気がついただろうに。『エアリス・ゲインズブール』という名の持つ、穏やかで美しいその響きに。
 だがそうはいかなかった。重役会議に席を持つようになったころには、すでに彼はねじけていた。父親のやることなすこと、すべてを否定していた。まるで子供だった。 
「お前が生まれてから、同じ場所にいたというのに、生きていたお前に、一度も目をかけなかった」
 同じ子供でも、変に知恵をつける前に会えばよかった。ルーファウスは歯ぎしりをする。幼く素直なルーファウスなら、あるいは。
 だがそんな機会は訪れなかった。父親は幼いわが子に研究施設や実験場を見せなかった。非道を伏せたいという、センチメンタリズムから来るものではない。現実問題としての安全対策だ。とくに科学部門や兵器開発部門はその特異性から、感染症や不慮の事故が懸念される。マテリア開発のさいには、試験用に貯蔵していた魔晄エネルギーが暴発して、急性中毒者をだしたこともあるらしい。科学部門のラボでは、異変した生体が逃げだすこともままあった。子供を近づけるわけにはいかなかったのだろう。
 六五階は魔窟だと、当時のルーファウスは護衛たちの愚痴を聞いたことがある。牙が生え、紫色の粘液を垂れながらうごめく怪物がいるのだと。そんなところに、彼が自ら足を向けるはずもなかった。
「一度も話しかけなかった」
 慣れない大声に咽喉がひりつく。わずかに咳きこんだあと、ルーファウスはこぶしで口を拭った。
 一度でよかったのに。ただ一度でも引きあわせられていれば。
 ルーファウスが気に留めなくとも、エアリスはそうではないはずだ。彼女も最初は警戒するかもしれない。だが好奇心を抑えられる性質ではない。研究所では見かけることのない子供が、目の前に現れたとすれば、彼女はどうするのだろうか。ルーファウスが尻ごみするほどに近づいて、彼の眸をのぞきこむだろう、きっと。彼女のあざやかな翠眼に、ルーファウスは囚われていたに違いない。
 六五階はばけものの巣窟ではなく、古代種などという亜人種が捕らえられているわけでもない。あいらしい子供が母親と住んでいるのだと、ルーファウスは気づいたはずだ。
 友人になれただろうか。
 それとも、妹のようにかわいがってやれただろうか。
 ルーファウスは男として、エアリスという女を愛したかった。だが男女の情をいだくまでの幼少期に、エアリスへの救いの手が必要なのであれば、友愛でも親愛でも、もう何でもかまわなかった。ルーファウスが彼女を気にかけ、父親の暴挙を止めていたなら、彼女の生母は死なずにすんだだろう。そうして彼が古代種に星のシステムの教えを請うていれば、メテオショックは回避できたのかもしれない。
 そうすれば、今、ルーファウスのそばにいるエアリスも、あるいは。
「エアリス」
 ゆるゆると、彼は頭を振る。
「私はいつお前に手を伸ばせば、間にあったのだろう。どうすれば、お前を死なせずにすんだ。お前を死なせたくなかった」
 手のひらを、ルーファウスは彼女の胸膈に置いた。エアリスは身を引きかけたものの、不躾な手を払いはしなかった。ルーファウスは手の下にある傷痕を、背中側から見かけたことがある。彼女は背中の見えるワンピースの日には、必ず髪を下ろしている。ゆるやかに波打つ髪で肌と引きつったような傷痕を隠すためだろう。エアリスの生を奪ったそれが、今は彼女の少し早い心音をルーファウスの右手に伝えている。
 結局、ルーファウスは手を差し伸べるどころか見向きもしないままに、彼女に出会った。生き生きと目まぐるしく表情を変えるというのに、今を生きていないエアリスに。
 セーフルームは静まっている。空調の動作音すら聞こえない。しばらしくしてから、柔和な声でルーファウスは名前を呼ばれた。
「たらればのお話、嫌いなんでしょ」
「大嫌いだ」
 手の届かないものは、すべて過去にある。ぎりぎりと歯を食いしばりながらもらしたそれは、ほとんど声にならなかった。
 ルーファウスの肩をエアリスは何度か撫でてから、立ち上がった。
「ね、ルーファウス。わたしたち、ここに来るまでにたくさんのこと、選んできたでしょ」
「ああ」
「小さいころから、ずっと」
「そうだな」
「ほかにもっといい方法、あったかもしれない。遠まわり、いっぱいしたかもしれない。一つ一つ、がんばって考えて、悩んで、選んで。だから、どれも大事。一つでも欠けてたら、だめ。あの結末じゃなきゃ、今、わたしたち、ここにはいないから」
 エアリスが懸命に笑おうとしている。真赤に腫らした双眸から、今にも大粒の涙が湧きでてきそうだった。だが彼女はこらえている。ここで泣いていいのはルーファウスであってエアリスではないのだと、彼女自身を説き伏せるかのように。
「だから、これでいいの。これじゃなきゃ、だめ」
 ルーファウスは力なく笑った。
「そんなことは、分かっている。分かっているんだよ、エアリス」
 エアリスは うん、と言いながら、彼の乱れた前髪を丁寧に耳にかけた。それから床に散らばった父親の遺品を拾い始める。ルーファウスは彼女を目で追う。琥珀色にぬれたそれらをカーディガンの袖口で拭っている、健気な背中を。
「ルーファウス、これ」
 アルバムの背表紙からはみだしている白い何かを、彼女は差しだした。封書だった。透かしの入った上品なそれは、開いていた。ルーファウスは宛名を見、それから裏返す。
「母から父に宛てたものだ」
 文字はかすかにふるえている。きっと晩年に書かれたものなのだろう。そのころの母親に手紙を綴ることのできる分別があったとは。ルーファウスはわずかに驚いた。
「お母さん、きれいな字。それに、きれいな名前ね」
「字も名前も、お前のほうが好きだな、私は」
「もう、こういうときに素直になるの、本当にずるい」
 エアリスは両頬を桃色に染めながら、また肘掛に座った。これどうするの、と問われて、ルーファウスは眉をしかめる。
「人の手紙を暴く趣味はない」
「うん、分かった。家に帰ったら、ちゃんと封しとくね」
「持ち帰るつもりなのか」
「嘘でしょ。わたしのほうが聞きたい。持って帰らないの」
 ルーファウスは困惑した。父親の後悔をルーファウスが持っていて、いったいどうすればいいのか分からない。タークスにセーフルームは処分対象だと指示をくだすつもりだった。
「見たくないなら、見なくていいの。見たくなったら、勝手に見てごめんねって、謝ってから見ればいいよ」
「だが」
「ここ、暗証番号、変わってなかったんでしょ。お父さん、あなたに見られても困らないって、思ってたかもしれないね。それにね」
 エアリスは眉尻を下げる。ルーファウスはこの顔つきの意味を知っている。
「お母さんとお父さんの、思い出のもの、何も残ってないのって、ちょっとさびしいんだよ」
「お前ならそう思うのだろうな。だが、私は」
「ルーファウスにも、そのうち分かるから」
 曖昧に頷くルーファウスに、彼女はそれらを半ば強引に押しつけた。手紙を傾けた拍子に、何かが転がり落ちる。彼は思わず宙でそれを掴む。安っぽい指輪だった。
「これ、お母さんのでしょ。結婚指輪かな」
「いや」
 ルーファウスは思いだした。夢の指輪は彼が捨てた。記憶のなかの、窓から投げ捨てたそれが放物線を描く。窓や庭のカラフルな情景とともに、色を失っていた指輪が彩色される。小さな石は、こんな色をしていたのか。
「朝、話しただろう。神羅家の婚約指輪だ」
 彼の庭の、芝生に埋もれたはずのそれは、父親に届けられたのか、父親が拾ったのか。どちらにせよ、母親とルーファウスのアルバムとともに、あの男が金庫に収めたのだ。
 ではこの茶封筒は。
 ルーファウスは茶封筒を開く。母親のカルテだ。今となっては珍しい紙媒体だった。不審に思いながらも、診療録に目を通す。ルーファウスは驚倒した。母親の既往歴や病症録、治療方法やその経過も、彼の知るそれとはまるで違っていた。そして死因までも。母親の死因は魔晄中毒だった。
 ルーファウスは眉をきつくよせる。そうと分かれば、納得することばかりだった。
 母親との面会時間は決められていた。晩年ほど、それは短くなった。息子には見せられないほどに、ほとんど自我を失っていたのかもしれなかった。小さなルーファウスが畏怖していた、彼女の支離滅裂な話は、精神エネルギーから膨大に流れこんだ知識のかけらだったのかもしれない。
 当時、神羅家に仕えていた医師団は、母親の死後、間もなく総入れ替えされた。妻を救えなかった彼らへの、あの男の当てつけなのだと思っていた。使用人の一部も、新しい顔ぶれになっていた。有体やなり方だが、証拠隠滅を図ったらしい。
 父親はこれを世間や関係者からだけでなく、実子にも伏せていたのか。なぜ。
 醜聞を隠匿したいがためか。それもあるだろう。新エネルギーともてはやされていた魔晄エネルギーに、社長の妻が侵されたなどと皮肉もはなはだしい。新事業はいっきに落日のものとなるだろう。
 だが、果たしてそれだけだろうか。父親が約束の地にかけた異様なまでの執念を思いだす。
 星に近しい存在、古代種への入れこみよう。純血の古代種が死んだと知ったときの、耳をふさぎたくなるような怒罵と、半狂乱ぶり。その子供へは、わざわざ会社の精鋭組織を派遣するといった執拗さだった。彼女たちなら魔晄エネルギーの本質を理解し、それに侵された人間の救い方を知っているのではないかと、一縷の望みをかけていたのだろうか。
 妻への贖罪と鎮魂のつもりか、葬儀のあとも古代種は手放さなかった。そうしてあの男が諦めることなく進取していたのが、ネオ・ミッドガル計画だ。炉から無理やりに汲み上げるのではなく、星がおのずと湧出する魔晄エネルギーの潤沢な土地こそが、これからの主軸となるクリーンエネルギーになるのだと豪語していた。ルーファウスが役員に就任したころには、すでに魔晄中毒は一般の知るところとなり、企業の社会的責任――とくに魔晄炉作業員の安全管理――を社内外から問われるほどの問題になっていた。だが、父親はそれにはまるで無頓着だった。
 あの男は、ただただ己だけの約束の地を追っていた。彼のなかの『至上の幸福、星が与えし定めの地』では、彼女はきちんと中毒から回復し、再び屈託なく笑っていたのだろうか。
 何がクリーンなものか、とルーファウスは鼻を鳴らす。彼はすでに魔晄――ライフストリーム――の厳しさと優しさを、その身をもって知っている。あれは万能のものではない。ライフストリームは人間のためだけの幸福を与えるようなものではない。
「ばかだな、親父」
 ルーファウスはカルテの終わりに、走り書きを見つけた。久々に見た、父親の筆跡だった。どうしてだか、胸が痛くなった。
「夢を見るなら、身の丈にあったものにしておけよ」
 叶える手立てのない夢は、夢ではない。ただの妄執だ。一代で一国を築いた男とは思えない危うさが、見え隠れしていた。その誤った執着は、どれも妻のためだったのか。彼女の産んだ子供には、朝の爽やかな日光がいちばんに差す館を与えた。ルーファウスに人為的な魔晄の結晶を与えなかったのも、そのためか。
 ルーファウスは長い吐息をついた。カルテを閉じる。と、一式を肘掛に置いた。いずれにせよ、何もかもが手遅れだ。
「私も、親父も。私たちは無様だ。救いたいものが、救えない」
 ルーファウスは父親の心情が、手に取るように分かる。あの男が病床の妻の枕元に近よらなかった理由はただ一つ、恐怖だ。
 いつ消えるか分からない事情を持つルーファウスの妻。
 いつ死ぬか分からない病魔をかかえた父親の妻。
 二人は同じものと対峙している。
 勝てない相手の名は、死という。
 どうしようもない。
 そうして喪失の恐怖から逃げたのだ、父親は。だがこれだけは、ここから先は、父親とは違う。ルーファウスは逃げるつもりなど毛頭なかった。
「なあ、エアリス」
 何、と困ったように小首を傾げる彼女の腰に、ルーファウスは片手をまわす。
 この恐怖は、違う角度から見ると姿を変える。愛情だ。このいとおしい存在から、どうして逃げられるというのだろう。
 ルーファウスは目を逸らさない。逃げない。
 だがこの恐怖に打ち勝つすべを、ルーファウスはまだ見つけていない。彼女が星へと還ったとき、黒く深い穴にはまることは避けようがないだろう。そして今の彼は、喪失の穴から這いでるすべを持たない。
 せめて。
「お前は一人で行くな」
 エアリスを、ルーファウスは膝の上に引きずり下ろした。小さな悲鳴が上がったが、かまうことなく力をこめる。もう片方の腕も彼女に絡めて、鎖骨のあたりに額を押しつける。抱きよせるというより、すがりつく。惨めな恰好だったが、ルーファウスは気にしていられなかった。
「お前を見送るのは、私だ。一人では行かせない。還るときは、私に言え」
「でも、いつ、どうなるのかなんて、わたしにだって分からない。だって、わたし、星の声なんて何も」
「何とかしろ」
「もう、暴君」
 金色の頭を、エアリスは胸に掻き抱いた。つむじに頬をうずめて、呟く。
「ルーファウスのお母さんの気持ち、分かる」
 彼の髪を梳く長い指の感触は、いつもと変わらず心地がいい。頭皮にかかるエアリスの息があたたかかった。ルーファウスはさらにきつく抱き締める。
「置いて行かれるほうも、置いて行くほうも、つらいね」
 花車な肢体は彼がどれだけ必死に取りつこうと、しなやかに受け止める。むだな肉などないというのに、ルーファウスは彼女の柔らかさに沈んでしまいそうだと思った。
「でもね、ルーファウス、少しだけ耐えてね。これから長く生きるあなたに、よりそってくれる人、きっと見つかるから」
 おままごとみたいな関係じゃなくて、とエアリスが言った。ルーファウスは愕然とした。
「お前は何を言っている」
「あなたの人生、ずっと一人きりなんて、そんなのいやだから」
「いやも何も、私が決めることだ」
「分かってる。だけど、それをいやって思うのは、わたしの自由だよ」
 ルーファウスは無論、生き通すつもりでいる。彼は己の仕事を放って、人生から脱落する気はない。順当に年齢を重ねていくそんな彼のかたわらに、エアリスでないパートナーを置けと彼女は言った。母親が父親の多情を許したように。彼女のような不安定な存在ではない誰かを迎えろと。血を吐くように、苦しそうに、そんなことをエアリスは言うのだ。ルーファウスはとたんに不機嫌になった。
 以前、彼女に人でなしとルーファウスは言われたことがある。だが。
「人でなしはどっちだ、エアリス。私にそんなことを言うのか、お前は」
「だって」
「だってもくそもあるか」
「くそは、言ってない」
「うるさい。私は、生涯に妻は一人だと言った。ままごとのつもりなどない」
 ばかめ、とルーファウスは舌打ちをした。まだ二人揃ってここにいる。だというのに。
「そんなことは、お前がいるうちから言うな。だいたい、お前自身が納得できていないのなら、そんなことをやすやすと言うな」
「簡単じゃない。ちゃんと、いつも考えてる。今も、考えてる」
 彼は声を荒げるが、エアリスはもう怯まなかった。ルーファウスを抱く腕に、力が入る。ほっそりとしたそれが小刻みにふるえている。声もわなないていた。
「あなたのことだけ、考えてる」
 やはり彼女の声は、痛苦に満ちていた。存在しないものへの嫉妬と、しかしそれを許容しようとする彼女の愛情が、せめぎあっている。ルーファウスは思わず身体を起こす。が、エアリスの腕がそれを許さない。ふっくらとした胸に囚われたまま、彼はかすかな吐息をつく。
「だったら私にほかの女を宛がうことは、諦めろ。それは私が望んでいない」
「でもね」
「黙れ」
 彼女の背中を宥めながら、ルーファウスは言った。口振りはまだ刺々しかったが、そのぶん手のひらに優しさをこめる。
 ややして、エアリスがゆっくりと彼から離れた。
「嬉しい。ありがとう。お母さんの気持ち、すごく分かるけど。やっぱり、あなたのお母さんみたいにはなれない」
 エアリスは眉を開いた。目も、今度は鼻先まで赤かったが、やはり嗚咽をもらすことだけはしない。気丈な女だった。両手をルーファウスの顎の輪郭にそえると、すくうようにして上を向かせる。
「本当、信じられない。女の人、取っ換え引っ換え。しかも身代わりなんて。どっちにも、あなたにも失礼、許せない」
「親父に聞かせてやりたい」
「ね、ルーファウス。あなたにも、言っておかなくちゃ。わたしがあなたの妻のうちは、浮気、ぜったい許さない」
「ぜったいとは、それはそれで恐ろしいな」
 二人はくすくすと笑う。立ち上がろうとする彼女をルーファウスは引き止める。エアリスはわずかに抵抗したものの、諦めて彼の膝上に落ち着いた。
「だけどね、わたしがいなくなっちゃったら、どうするの。さびしくなるよ。わたしのこと、鍵のかかるところ、放りこんじゃうの」
「あんながらくた入れのようなところに、お前は入れない」
「じゃあ、どうするの」
「どうもしやしない。そのままだ」
 ルーファウスはわずかに俯く。黒い穴は、やはり行く道の先で彼を待ちかまえている。来た道は、すでに過去だ。ただの一歩ですら引き返すことはできない。エアリスとの別れを避けるために、彼女を捨てて、ゴールへのルートを変える気などいささかも考えていなかった。
 いずれにせよのがれられない穴ならば、穴へいたるまでの道筋を、今このときを何よりも大事にすべきではないのか。
「分かりやすく言ってやろうか。私はな、エアリス、中途半端がいちばん嫌いだ。今までのごっこ遊びのような、曖昧な関係は解消する。だから」
 弁舌をふるうときのように、ルーファウスは感情を語句へと組み立てようとした。
「だから」
 だが、できない。
 ルーファウスの愛情はすでに奔流だった。胸のうちでほとばしっていて、整然とした章句へ変えることができないのだ。そうして気づく。愛情を言葉で伝えようとしたとき、それに技巧はいらないのだと。
 まるで彼女の好む三文小説のように、たったの一言ですむ。あまりのシンプルさに、ルーファウスは眩暈すら覚えた。
「夫婦として、恋人として、私はお前を」
 ルーファウスはエアリスを見上げた。真直ぐに、目でものを言うように、ただただひたむきに。こんな見つめ方があるなどと、彼は今まで知らなった。
「待って」
 人差指と中指を、彼女はルーファウスのくちびるに押し当てた。爪先の白銀色が彼の決心を挫く。
「言葉には、しないで」
「なぜだ」
「気持ちが、思いが通じあっただけで、十分幸せ」
 だって初めてのことだから、と彼女はわずかに頬を染めた。
「夫は勿論だけど、恋人できたの、生れて初めて。すてきね。胸がいっぱい。もう、叫んじゃいたいくらい、幸せ。でもね」
 エアリスはいったん口を噤んだ。それからゆっくりと口角を上げる。
 ルーファウスはエアリスの豊かな表情が好きだった。負の感情でも、それは同じだ。怒りに尖る眸はあでやかだったし、さびしげな横顔には色香を感じている。だが。
「あのね、言葉ってすごく大事。言わないと、通じないことばっかり。だけどね、言葉の持つ力、強いから。強すぎてあなたを縛りつけないように」
 だが、この一人超然とした様子と、諦めが綯い交ぜになったような微笑み方は、どうにもいただけない。それは拒絶に似ていた。ルーファウスは胸騒ぎがして、落ち着かない。
「わたし、あなたを幸せにするの。するって、決めてる」
「それはまた、強くでたな」
 またか、とルーファウスは困った。エアリスは彼が考えもしないようなことを、考えさせようとする。少し前に、それで彼はさびしさというものを考え、その正体を知ったばかりだった。今度は幸福か。
 幸せとは、いったい何だろう。
 ルーファウスは気にしたことがなかった。自身には無縁のものだとも。だがよくよく考えてみれば、彼の人生は今、おおむね満ち足りていた。
 パブリックタイムは、次々と沸き起こる障害も含めてやり甲斐があった。悩むこともあるが、机上の空論で終わらせないよう采配し、それが軌道に乗れば気持ちは晴れやかだった。何かしらの荒事も、それはそれで彼の好戦的な部分を満たすのに役立つ。仕事は順調と言えた。
 そしてプライベートタイムもまた、彼は存分に楽しんでいる。料理を覚え、自ら衣服の手入れをする。フィクションジャンルの小説も読むようになった。読書に飽きれば、彼女の膝枕で、ソファーにだらしなく寝そべる。素直に笑い、苛立ちを隠す必要もなく、そして彼女に言わせるとルーファウスはよく拗ねているらしい。己の知らなかった顔に吃驚することも、ままある。たとえ情けない部分でも、エアリスにならばさらけることに抵抗はなかった。
 そうやって私人として英気を養うことで、また公人らしく果敢と振る舞うことができるのだ。
 エアリスとともにすごす時間は、気楽だ。彼女がいつか――彼が弱みと思い、誰にも立ち入らせないでいる私的な――秘密をかかえたまま消えるからではない。
 ああ、とルーファウスは満足の吐息をついた。
 心を許したのだと、ルーファウスはようやく気がついた。エアリスに、心を。
 無論、彼女が初めての恋人ではない。ほかに信用に足る人間もいる。だが、それは心を許すこととは、また別なのだ。
 自覚とは、不意に訪れるものなのだと、彼は漠然と思う。
 気に入った女はたくさんいた。そばに置いて楽しかった恋人も。惹かれたこともあった。だがルーファウスは相手に深入りはしないし、相手にもそれを求めた。中途半端に愛情を配って、期待させることはしなかった。何せ悪い見本が身近にあった。心地のいい距離の保ち方もその断ち方も、彼はわきまえている。
 だが今回ばかりは勝手が違った。何気ない日常を、日々を、誰かと繰り返したことは初めてだ。それも、これほどに長く。
 途中で彼がいやにならなかったのは、エアリスがすぐ近くにいて窮屈だと感じたことがなかったからだ。ただの一日もだ。窮屈でない、というのがキーポイントだった。
 ルーファウスは『ルーファウス神羅』以外の何者にもなる気はなかった。が、その『ルーファウス神羅』とは、ある種のブランドだ。在り方は、ルーファウスが決めていた。
 見せてはならない――弱さ――部分、慣れてはいけない――甘え――部分。彼が無意識のうちに戒めていた心身の不自由は、本来なら縛られてはならない人間らしい部分だ。それを解放したのが、エアリスだった。
 互いに人となりを知り、互いが許容しあう。己以外の誰かにすべてをゆだねることができるほどの、エアリスはルーファウスの安寧だった。
 彼のこれまでの恋人たちには許さなかった、正真正銘ルーファウスのとなり。エアリスは彼の真横にいる。尊大で気難しく、そして孤高のルーファウスを幸せにする。そんな途方もないことを言いだすエアリスこそ、彼にとって初めてのパートナーと言えるのかもしれなかった。
「お前は、私をどうやって幸せにするつもりだ」
 まったく、とんでもない女だ。ルーファウスは片腕で彼女を引きよせる。バランスをくずしたエアリスが彼の肩に掴まった。
「それはね、ずっと考え中なの。もうちょっと待って」
「だがな、エアリス。私は今の暮らしに不満はない」
 幸せは、いつまでもその場にとどめておくことが難しい。だからこそ、皆、失うことに怯えるのだろう。ルーファウスは両親の映像を思いだす。成功者と旧家の子女。二人の幸せは、最初から長く続くと約束されたものだった。だがそうはいかなかった。期限を切られたからこそ、焦り、惜しんだに違いない。
 はかないものだと、ルーファウスは受け入れようとした。今、手のうちにあることに気がつけただけで、重畳だ。
 しかしエアリスはゆるゆると首を振っている。
「だけどね。今だけじゃ、だめなの。ルーファウス、死ぬまで幸せでいてくれなきゃ。だから」
 エアリスの意志のゆるがない眼差に、彼は一瞬たじろいだ。
 だからか、とルーファウスは納得した。今の彼の幸せはエアリスとともにある。どうやら彼女は自身がいなくなったあとの心配をしているらしかった。
 彼女の愛情の深さには驚くばかりだった。
 幼児期の重要な時期を特異な環境ですごさなければならなかったというのに、エアリスの情操――取り分け感受性や道徳性――は、しかるべき教育を受けたルーファウスより豊かだ。生母と養母が愛娘を一心に慈しんだからなのだろう。愛されることに慣れた彼女は、自身が第三者にかける情にも代償を求めない。実際、エアリスは誰にでも、タークスにすら親切だった。古代種のレポートを見ながら、何度そう思ったことか。テロ組織の首謀者の娘の代わりにその身を差しだしたことには、さすがにお人好しも度がすぎると閉口したが。
 そう考えてから、ルーファウスは苦笑した。神羅社長を愛することに比べれば、幼女への献身など些末なことだった。
 そうだ、と彼は自信をもって頷くことができる。エアリスの情のなかでも、特別の愛情はルーファウスただ一人にだけ注がれているのだと。彼は、しかし呆れた。
「何だ、その屁理屈は。ここは喜んで私の告白を聞き入れるところだろう。普段は大雑把なくせに、お前はここぞというときにかぎって、頑固で頭でっかちだな」
「うわ、失礼しちゃう。すごく悩んでるのに」
 エアリスは子供のようにくちびるを尖らせる。だがビビッドなルージュのせいか、眼差にたぎる情熱のせいか。彼女からただよう濃い色香は、子供のそれではなかった。近ごろのエアリスは、そうしてよく香る。のぼせてしまいそうだと、ルーファウスは思った。
「なあ、エアリス。独りよがりな幸せ探しは、ただの自己満足だ」
「分かってるけど。もう、本当、あなたって手厳しいなあ。じゃあ、どうすればいいの」
「それが正解だ」
「え」
「分からないことは、本人に聞け」
 ぽかんとしたあと、正論だね、と彼女が小首を傾げた。ほっそりとした腕をルーファウスの首に絡めて、エアリスが降参した。
「どうしたら、ルーファウス、幸せになれるの」
「そうだな」
 ルーファウスは顎をつまむ。
 エアリスは彼の幸福を願い、ルーファウスもまた彼女の幸福を望んでいる。幸せは、だがどちらかに偏ってしまえば、いずれどちらかの幸せに影が差す。
 残される者、残していかねばならない者、二人が幸せになれる道は、いったいどこにあるのだろう。
「正直、分からない」
「あなたでも、分からないことあるの」
「あるとも。そもそも、私は幸せというものを、今まで考えたこともなかった。だからな、エアリス」
 何、と不安げな彼女を、ルーファウスは抱きよせる。
「二人の幸せは、二人で探すしかないぞ」
「二人って」
「お前と私のほかに、誰がいる」
 エアリスは返事の代わりに、ルーファウスにしがみついた。
「だがな、エアリス。私の気持ち自体は、今伝えても、あとから言ってもたいして変わらないと思うのだが」
 エアリスはやはり首を振る。ルーファウスは吐息をつく。エアリスが言葉を望んでいないなら、それがルーファウスの未練になり得ると彼女が懸念しているのであれば、仕方がない。ルーファウスは彼女の意思を尊重する。だが。
「私のお前を求める気持ちは本物で、だから態度を改めることはしないし、伏せる気もない。そしてお前が望めば、いつでも言葉にして差しだせる用意がある」
 まったく手間のかかる恋人だった。だが生涯のパートナーに、彼がつくす価値はある。
「忘れるなよ、エアリス」
 彼を抱き締める腕に、力がこもる。エアリスが何度も頷いている気配を感じながら、ルーファウスもまた強く抱いた。互いにどれだけ力をこめようが、互いの身体の凹凸にきっちりと嵌まるので痛くはなかった。まるで一木造りの彫像のようだ。
 二人で一つの何かになる。
 それは唐突だった。ルーファウスは目を丸くした。エアリスを抱きたいと思った。抱くというのは、こんな風にただ抱擁をするということではない。セックスという意味だ。
 首にまわされたしなやかな腕が、大腿の上の弾力にとんだ重みも。間近にあるはずのふっくらと小さなくちびるも、白い歯のあいだからこぼれる湿った呼気までもが。それらはとたんにルーファウスの性を刺激するものへと変わる。
 気持ちとは裏腹に、しかし身体の芯が兆す様子は一向にない。不能なら、それはそれでかまわないと長らく放っておいた。生理現象に煩わされずにすむとさえ考えていた。それが今になって差し障るとは。過去の因果は、彼がかつてのように快楽の炎のなかで身もだえすることを、どうやら許さないらしい。
 初めて愛した女を抱くこともできないとは、情けないにもほどがある。ルーファウスは笑いだした。耳の横でエアリスが、どうしたの、と聞いた。
「私は今、とても恐ろしいことを考えているぞ」
「あなたの恐ろしいことって、それって、面白いってことでしょ。ね、教えて」
 エアリスがわずかに身体を起こす。好奇に満ちた眼差に、何とこたえればいいのだろう。ルーファウスは迷った。
「そのうちな」
「あ、そうやって焦らすつもりですか。意地悪」
 エアリスは彼の両頬を軽く引張った。いつもなら払い除けるが、ルーファウスは彼女のなすがままに任せている。もっと、この白い指にふれられれば、もしかすると。
「焦らされているのは、私のほうだ」
 言って、ルーファウスはまた吹きだした。芯に火を灯したいというのに、それが叶わない。どうにも笑わずにはいられなかった。
「もう、何。意味、分からないよ」
 不服そうにゆがめられた双眸が、ルーファウスを真向から捉える。もっと、責めるように、慈しむように見つめられれば、あるいは。
「教えてくれないの」
「そんなに知りたいのか」
 ルーファウスはわずかに首を傾ける。話すことは、やぶさかではない。問われれば、誰にでもこたえる用意が彼にはある。ルーファウスが犯した過去のひどい仕打ちを、その制裁も、エアリスが聞きたいというのであれば聞かせたかった。だが、こんなところで片手間にすませたくはない。
 ルーファウスは彼女の腰にそえていた手で、ゆっくりと背骨をなぞる。何するの、とエアリスは言って、くすぐったそうに身を捩るばかりだ。彼の悩みとはまるで遠いところにいる、無垢な顔をしていた。
 そんな顔をしていられるのも、今のうちだ。ルーファウスは女のなかで役に立たないからといって、何もできないわけではない。彼には口も手もある。エアリスの四肢と五体、そのすべてに性の歓楽を刻み、喜ばせることくらい造作ない。
 だが、ルーファウスはエアリスと一つになりたかった。ともにあの高みを昇りつめ、その先にある至上の気怠さのなかで、二人、たゆたってみたいのだ。
「なあ、エアリス。もう少し待ってくれないか」
「けち」
「誰がけちだ、誰が」
 明るく笑いながら、エアリスはまた彼の首筋に顔をうずめた。
「待ってる。勿体ぶるくらいだもの。楽しみにして、いいんでしょ」
「お前は困った女だな。それはかまわないが、期待と違っても、文句は言うなよ」
 もっともっと、私を煽れ。
 私に種火をくれるのは、お前だ。
 ルーファウスは言葉をのみこむ。せいぜい失望させないようにしなければと、彼は苦笑するしかなかった。


 結局、金庫にあった一式は持ち帰ることにした。神羅家に伝わる婚約指輪は、帰りの車中、ルーファウスがフロントドア硝子から捨てた。
 ミッドガルエリアの黄土と細砂にのまれ、そのうちに誰の目にもつかなくなるだろう。今度こそ、あの二人だけの、約束の指輪になればいい。そんなことをルーファウスは思った。彼の乱暴なやり方に、エアリスはひどく驚いてはいたものの、ルーファウスを責めはしなかった。「せめて、お墓に供えるくらい、すればいいのに」と、文句は言われたが。
 新しい神羅家の――とはいっても、ルーファウスとエアリス、二人だけの――指輪は、もうすぐ用意ができる。そう、彼女に打ち明けたかった。緑色の眸は、どのように輝くだろう。白色の頬は、何色に染まるのだろう。色あざやかなエアリスの反応を、ルーファウスは逐一確かめたいと思っている。ステアリングホイールを握ったままではそれができないので、やむなく彼は口を噤んだ。
 ほかの遺品は、エアリスが大事そうにかかえている。ルーファウスに捨てられやしないかと、どうやら疑っているらしい。人気のない荒野といえども、そんなものをばらまくことはさすがにはばかられた。何せどれにも神羅一族の顔や名前がしっかりと収められている。とくに母親のカルテは、神羅の機密だった。
「だから安心しろ。ここでは捨てやしない」
「そういう意味じゃなくて。もう。思い出だから、捨てられたくないの」
 お前の思い出ではないだろう。そう言いかけて、彼はすんでのところでのみこんだ。
 伍番街の家に、彼女のアルバムはなかった。エルミナ・ゲインズブールがミッドガルを去るさいに持ってでたらしい。旧神羅ビルから出奔した古代種に軍を派遣したのは、ルーファウスだった。同時に、古代種の搦手を押さえるべく、養母にも追躡の手を差し向けた。彼はそれを都市開発部門に下命した。統括がうまく誘導したのか、養母が家を引き払うと決めたのか。ほどなくしてエルミナがカームへ向かったと、ルーファウスは報告を受けたことを覚えている。
 慌ただしく荷造りしなければならないなか、それでもエルミナが娘のアルバムを手放さなかったことが、エアリスには嬉しかったようだ。しかしルーファウスは負い目を感じている。
 エアリスの思い出の家に、誰も、何もないのは、ルーファウスのせいだった。
 一つだけ、ルーファウスはエアリスの思い出を持っている。アイシクルロッジ再建時に回収した、映像のコピーだ。ファレミス博士と純血の古代種、そして生まれて間もない乳児。ルーファウスは、しかしその映像をエアリスに見せていない。存在することを知らせる勇気すらなかった。
 代わりにはならないと分かってはいるが、差しだせるものは何でもくれてやる。ルーファウスはそう思った。
「そのアルバムはお前にやる」
「ありがとう。嬉しい。でも、どうしたの」
「どうもしない。ヒーリンまで、まだかかる。時間つぶしにはなるだろう。見ていろ」
 だが彼女は、ううん、と言った。
「今はあなたのこと、見てるのに忙しいから」
 横面にエアリスの視線を感じながら、ルーファウスは先導車両に続いてゆるやかにステアリングホイールを切った。道なき道はところどころが雨にうがたれたまま、硬く乾いている。穴に嵌まることは、避けたかった。
「あなたのかわいいところ、見つからないかもしれない」
「何だ、諦めるのか」
「だって、前を見てるルーファウス、やっぱり恰好いいんだもの」
 エアリスの声が困っていた。ルーファウスは瞠目したあと、珍しく襟足をぽりぽりと掻いた。美辞麗句など聞き飽きたはずだというのに、どうにも調子が狂う。それはどうも、とこたえるだけが関の山だった。
「アルバムはね、今晩のお酒の肴っていうのにしようと思うの。ね、いっしょに見ようね。昔話、聞かせてね」
 聞かせてくれなければアルバムをパルマーに渡す、と脅されて、ルーファウスは渋々頷いた。
 パルマーの同期はメテオショックでほとんどが死亡した。過去の栄華を共有できるのは、今やルーファウスだけだった。何かにつけて昔話につきあわされることに、彼は辟易している。だからといってルーファウスが無下に断れば、パルマーは後輩たちに語りだすかもしれない。神羅家のアルバムという恰好の撒き餌を持ちだして。
 アルバムは過去の象徴だった。彼にとって、何に利用されるとも分からない厄介なものでしかない。だが、妻と美味い酒を交わしながら広げれば、少しは苦手意識も変わるのだろうか。
 ルーファウスは溜息をつく。正直なところ、今晩の酒のつまみものはピクルスだけでいい。
「なあ、エアリス。そう言えば、調理台にビネガーがだしっ放しだったが、あれはきちんとキャニスターに入れたのだろうな」
「あ」
 たった一文字、だが悲痛な声。ルーファウスは運転中にもかかわらず、手を額に当て目を瞑ってしまった。
「忘れちゃった。ごめんなさい。おでかけに浮かれすぎて、うっかり、すっかり」
 ビネガーはピクルスの味を決めるかなめとなる調味料だ。ぼんやりしていたからといって忘れるようなものではない。彼女もそれはよくよく理解してはいるのだろう。
「気づいてたなら、教えてくれたっていいじゃない」
 ルーファウスを非難する声は、エンジン音に掻き消されるほどに控え目だった。
「ビネガーだぞ。まさか忘れるとは思わないだろう。それにな、お前が爪を塗るのに忙しそうで、声をかけそびれた」
 声をかけなかったのは、本当は、ルーファウスの目的も知らされず、ドライブだと信じこんでいた彼女に後ろめたい気持ちがあったからだ。それからもう一つ。慌ててめかしこむエアリスに、彼は見惚れていた。
 認めたくはないが、ピクルス失敗の原因の大半は、彼にある。
 ルーファウスは悩む。水と砂糖と塩、数種のハーブにつかりきって、旨味の抜けた野菜だ。自宅に到着するまで、あと二時間はある。リメイクする方法を何とか考えなければならなかった。
 ルーファウスは溜息をつく。だがこれはエアリスへの当てつけではない。彼は今、悩んでいる。
「なあ、エアリス。私はお前のそういうずさんなところが。いや」
 何でもない、と首を振る。エアリスがばつが悪そうに彼を見ている気配がする。
「いいよ。文句あるなら、はっきり言って」
「言えば、治るのか」
「多分、無理」
「お前は、そうやって」
 うっかりと何をしでかすか分からないところまで、いとおしい。
 咽喉まででかかったそれを、ルーファウスは唾液とともに嚥下する。愛情の言葉を声にしてださないというのは、なかなかに難しい。
 ルーファウスはどうしたものかと、再三の吐息をついた。


■END■
(お前は私の心をふるわせる)

20210303