祭子
2022-07-18 13:47:49
10434文字
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■THINGS DO NOT CHANGE; WE CHANGE■

∠[ν]-εγλ0010/07
ルーファウスは初めて訪れた妻の実家で拗ねます。エアリスに寝室を分けられてしまったのです。
※pixiv掲載テキスト(20210205初出)

■THINGS DO NOT CHANGE; WE CHANGE■
∠[ν]-εγλ0010/07


「もしかして、わたしのせい」
 社長室の執務デスクごしに、ルーファウスはエアリスを見上げた。しゅんと突っ立つ彼女を手招きする。
「なぜ」
「ほら、ID、あなたの。ヒーリンの住所、登録してたでしょ」
 エアリスは動かない。さらにしょげる彼女が、いじらしかった。
 昨夕、ヒーリンロッジのふもとで一悶着があった。『神羅ビル』付近で発砲音など、ルーファウスは久しぶりに聞いた。しかもターゲットは神羅社長だという。彼女はそれを気に病んでいて、昨晩は寝苦しかったようだ。もぞもぞと、しきりに身体の向きを変えていた。
「わたしと結婚したから、ここ、ばれちゃったのかな」
「あれをクラッキングできるような頭があるなら、こんな愚直なやり方はしない。お前のせいではない」
 ルーファウスはあくびを噛み殺す。エアリスの溜息とそのたびにゆれるベッドのせいで、彼の眠りもまた浅かったのだが、黙っておくことにした。
 タークスからことの顛末は、すでに聞きおよんでいる。あまりにもお粗末だった。
 ふもとにあるパブリックハウスの出入り業者がルーファウス神羅の所在を知り、情報屋に売ったらしい。襲われたのは、しかしルーファウスではなくエヴァンだった。どうやら異母弟はエアリスの晩餐の誘いを断って、パブリックハウスでたびたび遊び耽け、宿酔のままモーテルでだらしなくすごしていたらしかった。それを出入り業者が神羅社長と間違えたのだ。ルーファウスは腹をかかえて笑った。そのあとで感心もした。エヴァンの第一印象は、不甲斐ない顔つきをした子供だった。それが今になって神羅の血統に見紛われるとは。ようやく据わりだした――なけなしの――胆力が、エヴァンの外面に表れだしたということだろうか。
 エヴァンを保護したあとのタークスの仕事は、早かった。情報屋も情報を買ったらしいちんぴらも、どこか遠く、誰も知らないところへ旅立たせたという。無論、情報提供者もいっしょにだ。出入り業者は堅気だったが、一度でも裏取引をした人間をタークスは一般人とはみなさなかった。生活費稼ぎにいのちがけとは本末転倒もはなはだしい。
 ルーファウスは立ち上がる。執務デスクの前面にまわりこみ、天板に腰かけた。
「主賓の私を差し置いてパーティーとはな」
 エアリスがあまりにも不憫だったので、ルーファウスは昨日の様子をかいつまんで説明した。エヴァンのことは伏せておく。言えば妻は、夫を差し置いて義弟を心配するに違いなかった。心外だ。それにルーファウスはエヴァンをもう少しヒーリンロッジのふもとで遊ばせておきたかった。今、あの近辺は開発の真只中で、人の出入りも多い。多種多様な業種とコネクションを取りつける、いい機会になる。
 ルーファウスはエアリスの腰に手をまわす。両足のあいだに、彼女はおとなしく引きよせられた。彼の肩に手を置きながら、エアリスがくちびるを尖らせる。
「もう。そんなパーティー、参加禁止だから」
「当面は諦めている」
 オフィスへと通じるドアを、ルーファウスは一瞥した。今回はエヴァンの不運ですんだが、「ルーファウス神羅がヒーリンというところにいるらしい」といううわさはすでに一人歩きしだしている。どこまでほっつき歩いて、誰を連れて来るのか見当がつかなかった。
「ツォンとジャッドが、また私を鳥かごに押しこめる画策をしているからな」
 ルーファウスはエアリスの肩に額を伏せた。オフィスでは彼の潜伏場所と警備配置の調整中だった。ルーファウスの私的な不動産も含めて、候補はいくらでもある。だがいかんせん彼の意にそわない場所ばかりだ。始終、ルーファウスの動向が監視される。それ自体はどうということはない。人間の目にも機器の目にも、さらされることには慣れている。たとえば他者なら密やかに楽しみたいこと――セックスやマスターベーション――ですらはばかる気はなかったし、興が乗れば実際にやってきた。羞恥心は、ルーファウスが生きていく上でもっとも邪魔なもののうちの一つだった。
 問題は無粋な目のせいで、そのどこにも彼女を連れそわせられないことだ。ルーファウスはエアリスを一人にしないと決めている。
「ね、ルーファウス」
 セットされた金色の髪を梳きながら、エアリスが言った。柔らかな声音だった。ルーファウスは顔の角度を変えると、彼女を間近に仰ぎ見る。むだな肉のない顎のラインが、美しかった。
「ミッドガルでいいなら、わたし、いい場所知ってるよ」
「お前がか」
「あ、疑ってる。すごいんだよ。ボディーガードなんて、いらないようなところ、なんだから」
「あの二人を説得できるのだろうな」
 のろのろと身を起こすルーファウスの頬を、彼女は両手で挟む。勿論、とエアリスは自信たっぷりに頷いた。
「うち、来ますか」


 かくしてルーファウスの妻の実家は、見事社長秘書とタークス主任に安全を保証された。それからわずか二日後、彼は伍番街スラムを初めて訪れることとなった。日暮れごろのことだった。
 ゲインズブールの家がどれほど素晴らしい隠宅か、ルーファウスがプレゼンテーションを進めるさなか、ツォンはあとにも先にも見せたことのない顔をしていた。非常に見ものだった。彼のとなりで、エアリスが目を丸くしたあと、思いきり笑いだしたくらいだ。つられそうになるのを必死にこらえて、ルーファウスは何とか自由な幽閉を勝ち取ったのだ。
 だというのに、彼は憮然としている。
「暑い」
 七月の陽気に中てられて、空調機器のない部屋はもう深夜に近いというのに、うだるようだった。額の汗を拭いながら、ルーファウスは一人きりの部屋を見まわす。すでに明かりは消したが、二つの両開き窓と天窓から月光が差している。夜目に困ることはなかった。
 ハウスクリーニングは――二年半ものあいだ、家人の不在が嘘のように――完璧だった。屋根裏のゲストルームは、家具の配置までも彼の意向にそって変えられている。ベッドはドアや窓から離し、壁にはつけない。ベッドボードとマットレスのあいだ、そしてベッド下にも片手用の銃火器が用意してあった。すべてルードの指示だろう。タークスのなかでいちばんつきあいが長いのは、実はルードだった。見目とは裏腹にこまやかな気遣いをするあの男は、ルーファウスのライフスタイルもきちんと洞察している。
 ならばベッドは、せめてダブルサイズに入れ替えておくべきではないか。ルーファウスはシングルサイズのそれに腰かけて、大仰に吐息をついた。ダークスターの耳がぴくぴくと動いた。どうやら愛犬もこの暑さに参っているらしい。冷えた板敷に寝そべったきり、頭すら上げなかった。
 しかし熱帯夜がルーファウスを不機嫌にしているわけではない。スプリングの硬さは好みでないものの、ベッドサイズそのものに不満があるわけでもなかった。
「妻に共寝を断られるとは、思いもしなかった」
 わざわざ声にだしてみて、あまりの間抜けさに吹きだした。
 就寝時間になり、この家の娘が彼をゲストルームへと案内した。それからそそくさと踵を返そうとする彼女に、怪訝な顔を向けた。だが「久しぶりだから、自分の部屋で、休みたいの」と言われてしまえば、ルーファウスはほかに引き留めるすべを持たなかったのだ。
 だが彼はドアに目を据え、待っている。エアリスがノックするのを。ルーファウスには確信があった。
 ルードの行動パターンを、ルーファウスは回思した。あの男はフェミニストだ。エアリスや彼女の養母の部屋にはいっさい手をつけていないに違いない。ということは、ベッドメーキングしてあるのはこの客間一つということになる。ちょうど階下から咳きこむ声が、次いでくしゃみも聞こえた。そろそろかというところで、遠慮がちなノックだ。ルーファウスは悠然と迎え入れた。
「わたしの部屋、すごく埃っぽい。明日掃除するから、今晩だけ泊めて」
 ルーファウスは黙ったまま、彼女の様子をうかがう。エアリスは彼からも小さなベッドからも目を逸らせている。長い睫毛にふちどられた目蓋が、しきりにまばたく。そして頬はあいらしい桃色に色づいていた。自室で休みたいという嘘を、彼女の素直な部分が自ら暴いている。エアリスは気づいていないのだろうか。
 ルーファウスは手招きをした。
「なあ、エアリス。なぜベッドを分ける必要がある。今更だろう」
「うち、一人用のベッドしか、ないんだもの。広いのが、いいの。贅沢に慣れちゃったね、わたし」
 何とか言い繕いたいらしいエアリスが、珍しく苦笑する。ためらったあと、彼のとなりに座った。細い髪がシーツの上に広がる。
「本当はね、恥ずかしいの」
 音のない夜に、スプリングの軋みはやけに耳に残る。ルーファウスはかすかに笑った。
「分かっている」
「だって、近すぎる。眠れないよ、これじゃあ」
「今、私たちは並んで座っているだろう。身体を横たえたところで、何が違う」
 むう、と何やら文句を言いたそうに、エアリスはくちびるを突きだす。だが面と向かっては言いにくいようだ。そのもどかしさからか、険のある目つきになる。
「寝ついてしまえば、お前は横に誰がいようが分からないだろう。ほら、思いだせ」
「何を」
「お前が初めて私のベッドで、すっかり眠りこけていた日のことだ。間の抜けた顔でな」
 きょとんとした顔が再び難しくなる。「あのときとは、いろいろ違うんだから」と言いながら、彼女はルーファウスの二の腕をはたいた。
「だが、そうだな。暑い。この暑さは、目を瞑っても変わらない。これでは眠れない」
 ルーファウスはげんなりした。両手を後ろについて、天井を見上げる。エアリスはようやく相好をくずした。
「閉め切ってるからだよ。窓、開けよう」
 驚くルーファウスを尻目に、エアリスは窓と扉を開放する。最初に窓から入ってきたのは、音だった。水が高いところから落ちこむ音、それが流れる音。さざめく草木。虫が羽をこすりあわせている。思いのほか戸外は騒がしい。すると今度は風が吹いた。新しい風が、淀んだ熱気を部屋のそとへと追い立てる。
「ほら、どう。冷たくてきれいな水、流れてるから。夜はね、涼しいんだよ。ルーファウス、どうしたの」
 エアリスは心地よさげに伸びをした。確かに肌にふれるそれは、さらりと乾いていて、快い。だが彼は動揺した。
「窓を開けて眠るなど、考えたこともなかった」
「怖いの」
「落ち着かないだけだ」
 ルーファウスは首を振る。ダークスターはすっかり寝息を立てている。侵入者やモンスターの気配はないのだろう。そうと分かっていても、彼の生来の環境に窓の開いた部屋は一つもなかったのだ。違和感を覚えるのは、仕方がなかった。
「お前は何とも思わないのか。このあたりは治安が悪かっただろう。何もなかったのか」
「黒い服着た誰かさんたち、出入りするせいで、怖い家だってうわさ、流れてたみたい。ご近所さん以外、お客さん、なかったな」
「それはそれは。わが社の不手際で、とんだ風評被害をこうむったな」
「気にしてないよ。うわさ、都合がいいから放っておこうって、お母さんも言ってたし。おかげでか弱い女二人暮らし、防犯には困りませんでした」
 ルーファウスはなるほどと思う。彼女のしたたかさは、養母に似たのかもしれなかった。
「私はもう少し繊細にできている」
 エアリスはサンダルを脱ぐ。と、ベッドに上がった。
「どの口が、そんなこと言うのかな。もう、仕方がないなあ。ほら、不安なら、いっしょに寝てあげる」
 それはエアリスが彼女自身に言い聞かせているようだった。口調とは裏腹に、声が緊張している。エアリスはシーツの上のわずかな空白を、ぽんぽんと叩いた。ルーファウスは彼女の気力がくじけないうちに、ベッドに入ることにした。
 二人は片寝をする。ルーファウスは左肩を下にして、扉に顔を向けている。エアリスはその真逆だった。これがいつものポジションだ。ルーファウスは人の気配があると眠れない性質だった。それも彼女と暮らすようになって、変わった。むしろ徐波睡眠の割合は増えているようだった。ようするにぐっすりと眠れているということだ。
 だが、これはさすがにどうだろう。呼気の届く距離に小さな顔があって、ルーファウスは空笑った。
「近いな」
「でしょ。わたし、やっぱり、眠れない」
「そんなことよりも、狭い。落ちそうだ。しかもそとがうるさい。これでは私も眠れない」
「文句ばっかり。うるさいのは、あなたもでしょ」
「黙らせたければ、エアリス、場所を代われ」
「え、何」
 うろたえる彼女には見向きもせず、ルーファウスはエアリスをまたいで背面にまわる。無論、眠りにつきやすい体位というものはある。だが彼が優先するのは、扉に弱点を向けないということだ。それも今、建具が全開の狭い室内では、身体の向きなど取るに足りないことのように思えた。
 ルーファウスは笑わずにはいられなかった。環境や習慣、それらを片っぱしからくつがえしていく女の、腰のくびれに腕をまわす。と、引きよせた。抵抗されるかと思いきや、エアリスはされるがままだった。
「わたしね、ルーファウスに会うまで、ここにいたの」
 静かに、エアリスは切りだした。
「わたしの部屋ね、あのとき、掃除したから、だいじょうぶだと思ったんだけどなあ。家って、人、いないとすぐだめになるね」
「そんなものなのか」
「そっか。ハウスクリーニングが当たり前だものね、あなた」
「世間知らずだと、呆れているのか」
 エアリスはわずかに首を振る。長い髪がはらはらとシーツに垂れる。白いうなじが薄闇のなかに際立つ。
「そういう暮らし、してる人なんだって、思うだけだよ」
 エアリスの声音は、優しい。ルーファウスはゆっくりと目を閉じる。
「一人のほうが、ちゃんと眠れたけど。でもね、今のほうが、ずっといい」
 ルーファウスの左腕に指をすべらせた。その先にある彼の手に手のひらを重ねて、エアリスは囁く。
「きっと、もう、一人は耐えられない。だって、一人は、さびしい。一人はさびしいことなんだって、あなたが教えてくれたの」
 あの一二月の雨のあと。一人、教会と自宅を行き来しながら、彼女は何を思っていたのだろう。さびしさとはいったい何なのだろう。ルーファウスは考えた。
 たとえば出張先のホテルだ。ダブルベッドが広く感じること。すぐとなりにあるはずの、寝息は聞こえない。朗らかな挨拶とともに迎えられない朝。ルーファウスはわずかに驚いた。彼ですら一人の夜にもの足りなさを覚えるようになったのだ。情の深い彼女のことを思うと、ルーファウスは苦しくなった。花車な肢体をいっそう深くかかえこむ。この女を一人にしてはいけないと、そう強く思った。
「よくこらえたな」
「がんばったよね、わたし。だから、あなたに会えた」
「私も、強がりなお前に会えたな」
 風と体温の低いエアリスが、ルーファウスの火照りをやわらげる。ようやくまどろみかけた、そのときだった。
 きょきょきょ、と夜鳴く鳥がいっせいに囀りだした。ルーファウスは思わず片肘をついて、半身を起こした。慣れているらしいエアリスが、くすくすと笑っている。
「何だこれは。うるさい。眠れない」


 暑くて眠れない。狭くて眠れない。うるさくて眠れない。そう不満をもらしたのは誰だったか。
 窓という窓から太陽光が差しこんで、ルーファウスを照りつける。手の甲で目をかばいながら、部屋を見まわす。涼夜はすっかり鳴りをひそめている。せめて夜風を一陣、起きがけに残してくれていれば、寝汗で目覚めることもなかっただろうに。
 ルーファウスはのろのろと上体を起こす。時計に目をやって、驚いた。九時に差しかかろうとしている。常時であれば、それは神羅社長の出社時間だった。ルーファウスは額に張りつく髪を掻き上げる。彼をまたしても深い眠りにいざなったエアリスは、すでにいなかった。
 開け放たれたままの扉の前で、ダークスターが立ち上がった。主が起きるのを待っていたらしい。ルーファウスのパジャマの裾を引張った。
「分かった。起きる」
 チェストの上の着替えとハンドガンを見ながら、考える。身支度より先にまずシャワーだ。ハンドガンをホルスターごと掴むと、ルーファウスはバスルームへと向かった。階段のなかほどまで下りて、立ち止まる。リビング中の建具が開け放たれているというのに、人の気配はなかった。
 庭先から不自然な水音が聞こえる。ダークスターは緊張していない。むしろ主をそとへ連れだしたいようだ。ちらりとルーファウスに目をやってから、エントランスドアをくぐった。円卓にハンドガンを置く。と、ルーファウスはダークスターを追う。
「おはよう」
 エアリスが大きく手を振っている。それはいい。オーバーサイズのティーシャツをワンピース代わりにして、白い足を剥きだしにしている。それもいい。だが川の浅いところに膝までつかっているのは、いったいどういうことだろう。ルーファウスはカバードポーチを抜け、板石を敷きつめた小道を横切る。川のふちから、エアリスを見下ろした。
「何をしている」
「見て分からない。お洗濯」
 川面に朝の光が反射して見にくかったが、エアリスの片手にはぬれたリネン――ピローカバーのようだ――が握られている。岩の上にはランドリーバスケットがあった。ルーファウスは後ろを振り返る。二階のバルコニーでひるがえっているのは、シーツや薄手のブランケットだった。小花柄のそれらは、彼女の自室のもののようだ。結局羞恥がまさって、寝室を分けるということなのだろうか。ルーファウスは何となく面白くない。
「洗濯機、さすがに壊れてたから。でもね、そのほうがよかったかも。水、すごく気持ちいい」
 ざぱんと水しぶきを上げたのは、ダークスターだった。涼やかな水音とエアリスの歓声を前に、がまんができなくなったようだ。
「ルーファウスも入れば」
「スイムウェアがない」
「また、そんな上品なこと言って。そのまま入って、ついでに洗濯しちゃえば」
「お前が大雑把すぎるんだ」
 そう言いながらも、愛犬同様、それらの魅力には彼も逆らえなかった。ルーファウスは汗で張りつくパジャマを脱ぐ。ズボンに手をかけたところで、エアリスに真赤な顔で「変態」と罵られた。
「あなたのほうが、ぜったい大雑把。下着と水着、全然違うから」
「ほとんどプライベートビーチのようなものだろう。細かいことを言うな」
「細かくない。だめ」
「ぬれた布が張りついたら、気持ちが悪い」
「だめ。がまんして」
 渋々ながら、ルーファウスは裾を膝上までロールアップにした。それからスニーカーを脱いで、川に入る。間抜けな恰好に、エアリスの笑み声が弾けた。ルーファウスはむっとする。水面を蹴るようにして彼女に飛沫をあびせる。たちまち上がる悲鳴に清々したのもつかの間、遊んでいると思ったのだろうダークスターが、浅瀬を走りまわった。全員びしょぬれになった。
「ずいぶん澄んだ水だな。ここは本当にミッドガルか」
 ルーファウスはまず足裏の感触に驚いた。へどろどころか、砂利がぬめることもなかった。苔が生えていないということだ。
「でしょ。昔から、こうなの。あのね、バルコニーから見ると、よく分かるんだけど。深いとこ、もっとすごいよ。ね、見てきたら」
 エアリスの視線の先、上流の深いところへとルーファウスは向かった。途中、足がつかなくなったあたりから泳ぐ。ダークスターが嬉々としてついてきた。ルーファウスは川底をのぞいて、再び吃驚した。流れはゆるやかだというのに、やはり石や砂利は本来の色のままだ。沈殿物のない水中は、川底まで日光が届いている。どこを見まわしても明るかった。
 ルーファウスはバックストロークの体勢で、水面に浮かんだ。川の流れに乗らないよう、時折水をゆっくりと蹴る。
 もともとこのあたりはプレート上部の排水の影響を受けなかったと、エアリスから聞いてはいた。ルーファウスはゲインズブールの庭を一目見て納得した。排水でこれだけの緑は育たない。ではこの水はいったいどこから引きこまれているのだろう。清流の源泉を思索するうちに、彼は既視感の原因を思いだす。教会の泉だ。水質調査で検分をした、色度も濁度もゼロのあの水とよく似ていた。メインピラーにほど近いこのあたりは、造成工事のさいに地中深くまで鋼菅を埋めこんでいる。そのうちの一本が、ライフストリーム層に食いこんでいるのかもしれなかった。
 ルーファウスは立ち泳ぎをしながら、エアリスを振り返る。
「すごいぞ。お前も来い」
「わたし、泳げないの」
「なぜ」
「それ、聞いちゃうの」
 ルーファウスは失言に気づく。古代種の行動記録をさかのぼっても、海やプールは見当たらないに違いない。彼女からあらゆる自由を制限してきたのは、いったい誰だったというのか。舌打ちしてから引き返した。パジャマが大腿に張りつき、重たかったが、もはやそれは気にならなかった。頭を振って水気を払う。となりでダークスターも巨躯をぶるぶるとふるわせている。主従のまわりに架かった虹を見て、エアリスが笑っていた。
「教えてやる」
「今からでも、泳げるようになるのかな」
「誰がコーチだと思っている」
 夏は始まったばかりだった。ヒーリンロッジに帰れば、シークレットガーデンには泉がある。ルーファウスは思いがけない遊び方を見つけた。
 エアリスはピローケースの水気を切る手を止めた。生地の端をいじくっている。
「でも、怖い。足、つかないんでしょ」
「心配するな。最初は手を貸す」
「手、離さないでね。意地悪、しないでね」
「お前を離したりはしない」
 エアリスはほっと吐息をついた。楽しみだと言う彼女の手から、洗濯物を取り上げる。と、ルーファウスはそれをぎゅっと絞った。
「ね、ルーファウス」
「何だ」
「泳げるようになりたい、なんて、さすがに『したいことリスト』には、書いてないの」
「帰ったら、書いておけ」
「あなたといっしょにいるとね、知らないこと、思いつかないこと、少しずつ減っていくの。ありがとう」
 ルーファウスは頷いた。早速、秘書にスイムウェアを手配させなければ。勿論、二人分だ。ルーファウスはこんなに楽しい予感は久しぶりだった。
 ランドリーバスケットには脱水し終えた洗濯物が入っている。ルーファウスはそのなかにピローケースを放りこんだ。エアリスはバスケットをかかえる。
「干してくるね。それから、バスタオル、持って来るから。もうちょっと、水遊びしてて」
「なあ、エアリス。リネンが乾いたら、ベッドを分けるのか」
 岸へと向かう彼女の前に、ルーファウスは割って入る。彼の顎を伝って、水滴がしたたる。エアリスはぽたぽたと頬にかかるそれを拭おうともせず、目を見開いた。薄らとくまの浮いている目元に、彼は親指をすべらせる。ほとんど眠れなかったようだ。エアリスの初心がかわいらしいとルーファウスは思う。
 だからといって彼から逃げる準備を、隠宅生活二日目からするのか。このあとで自室の清掃もする気なのだろうか。ルーファウスは気が滅入りそうになる。
 だが、エアリスはかすかに首を横に振った。
「あのね、着替えはたくさんあるのに、リネン、替えがないもの。ベッド、汗くさかったら、あなたもいやでしょ」
 ルーファウスは眉を開く。彼を縛めようとしていた鬱屈の拘束を、彼女がそっとほどいていく。
「わたし、言ったよね。一人、もう耐えられないって」
「ああ、聞いた」
「どきどきして、寝られなくてもね。あなたと、二人がいい」
 一度、恥ずかしそうに逸らされた双眸が、思いきってルーファウスを捉える。それだけでルーファウスは満足した。そうだな、とだけ彼はこたえた。
「次の補給物資が届くまで、当面は毎日クリーニングだな」
「ルーファウスも手伝ってね」
「何を」
「何って、洗濯に決まってるでしょ。だって、ルーファウス、力、強いんだもの。洗濯物、水切るの、早い」
 脱水機代わりね、と彼女は小首を傾げている。ルーファウスは何度かまばたきをした。
「お前は」
 それきり、彼は絶句した。私に何をさせる気だ。そう続けようとしたときには、すでに彼女は石畳の小道をたどっていた。今にもスキップしだしそうな、後ろ姿だった。ルーファウスはやれやれと吐息をつく。
「お前といると、知らないことが減っていく」
 もう声の届かない背中に、ルーファウスは言った。
 ルーファウスの知らない世界は、彼にとって決して必要ではないことばかりだった。が、一つ一つ、些末ごとまでが新鮮で面白い。ほかの誰でもだめなのだ。エアリスの見せる世界でなければ、彼は関心を向けはしない。
 だからといって、手洗いはいかがなものだろう。ルーファウスは困ったように笑った。
「次の補給リストには寝具と、そうだな、洗濯機も設置させるべきか」
 ルーファウスは空を振り仰いだ。いい天気だ。濃い青色にころころとした積雲のコトントラストが爽やかだった。わずかだが風もでてきた。朝食はポーチで食べるのもいいだろう。そのあと、仕事が一段落したところで、秘書に手紙を書こう。
 ルーファウスははしゃぐ愛犬を連れて、もう一度、川の上流へ向かった。


■END■
(変わるのは私たちだ)

20210205