祭子
2022-07-18 13:37:37
8466文字
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■THE SIGHT TOOK HIS BREATH■

∠[ν]-εγλ0010/06
病室で神羅夫妻が何やらいちゃつきだしました。退室の機会を逃したエヴァンが途方に暮れます。
※pixiv掲載テキスト(20210111初出)

■THE SIGHT TOOK HIS BREATH■
∠[ν]-εγλ0010/06


 エッジの弐番アベニュー、弐番ストリート、一一ブロックにある総合病院にエヴァンはいた。
 特別病棟にある個室は、どれも前室と寝室とに分かれている。まるでホテルのスイートルームのようだ。前室にはソファーセットのほかにも会議テーブルまで設えられていて、こんなときまで大勢の人間に囲まれなければならない要人は大変だと、彼は思った。
 勿論、エヴァンは特別病棟に入院できるようなステータスの持ち主でもなければ、そもそも病人ですらない。病室の主は神羅社長で、エヴァンは神羅夫人のつきそいのようなものだった。
 エアリス・ゲインズブール・神羅は泣いていた。
 ダブルベッドの上、ルーファウスにすがりついている。ルーファウスは彼女をそっと抱き留めていた。エアリスの啼泣が鼻を啜り上げる音に落ち着くまで、何も言わずにあやしていたのだった。
「それで、エヴァン。お前はいつまでそうやって、息をひそめているつもりだ」
 異母兄に声をかけられて、エヴァンはびくつきながらも、ほっとした。彼は完全に退室のタイミングを失っていた。壁かオブジェか、せめて二人の邪魔にならないものに徹しようとしていたが、そろそろ限界だった。
「ごめん、声かけづらくてさ。今更だけど」
 エヴァンはスカーフを手慰みにする。今朝方エアリスに呼びだされ、ともに病室へ駆けつけたものの、ルーファウスは彼に挨拶をする間も与えなかった。朝帰りだとか、浮気だとか、夫婦喧嘩が始まったのかと思いきや、何やら深刻な話が続いた。そしていつの間にやらいい雰囲気だ。介護仕様とはいえ、ちょうどベッドの上にいる。このまま美男美女が戯れあえば、映画のようなワンシーンができあがるだろう。だが兄夫妻のそれなど見るに耐えない。
「あのさ、もし今からいちゃいちゃするんなら、ちょっと待ってほしいかな、なんて。邪魔だよな、俺」
 ルーファウスの腕のなかで、ひゃあ、とエアリスが変な悲鳴を上げた。慌てて身体を起こそうとする彼女を、しかしルーファウスは離さなかった。どうやら彼は妻のぐずぐずの泣き顔を見せる気はないらしい。
「そうだな」
「廊下で待っていようか」
「それこそ、今更だ」
 エアリスはルーファウスの両腕の檻から何とか逃げだして、シーツで顔を拭っている。
「ごめんね、エヴァン。わたし、自分のことで、いっぱいいっぱいで」
 赤い目の下には、青いくま。一睡もできなかったと彼女は言っていた。エヴァンはエアリスに同情していた。パートナーが撃たれたと聞いて、平然でいられるほうがおかしい。それに寝足りないときの不調は、エヴァンにも身に覚えがある。
「寝てないんじゃあ、テンションおかしくても仕方ないよ。旦那さんが怪我したんだし。でもこれで一安心だな」
「そうなのか、エアリス」
「だって、眠れるわけ、ないじゃない」
 ふいっと横を向いた拗ね顔が、あいらしかった。ルーファウスは目を細める。と、彼女の薄桃色をした頬を撫でた。きゃあ、と小さな悲鳴を上げたのはエヴァンだった。小っ恥ずかしくて、彼は両手で目をおおう。
「だから、続きするんなら俺そとでるから、待てってば、社長」
「いちゃいちゃとか、続きとか、そんなのしません」
「何だ、しないのか」
 ルーファウスが面白がっている。エアリスはくちびるをすぼめた。
「しないってば。もう、ルーファウスまで」
 手櫛で髪を整えながら、エアリスは居住まいを正した。まだ疲れた顔をしているが、朝の憂いは晴れている。エヴァンは安心した。
「仲直りできたみたいでよかったな、義姉さん」
 彼女は気恥ずかしそうに、それでもはっきりと頷いた。ベッドの背面に悠々ともたれてから、ルーファウスはエヴァンを見やった。
「頼みがある、エヴァン。エアリスを家まで送ってくれ」
「いいけど。社長はどうするんだ」
「私はしばらく帰れないだろうな」
「入院が長引きそうなのか。怪我の具合ってそんなに悪いのかな」
「それは大事ない。だが残務処理がすむまでは、念のためヒーリンには戻らない」
 ルーファウスの眼差は厳しい。つい先程まで妻に向けていたそれとは違う。これは神羅社長の顔だとエヴァンは気づいた。おのずと背筋が強張る。
「私の生存はまだ不確定情報のままだ。ただ、ヒーリンが神羅の拠点ということは広まっている。あの場所には非戦闘員も増えてきたのでな。神羅社長の住まいは別にあることにしたほうがいい」
 病気療養中とでもふれこんでおこう、とルーファウスは続けた。エヴァンは頷く。彼が訪れるたび、『本社ビル』ですれ違う神羅社員は増えていた。それにふもと付近の開拓も順調なようで、工事業者や入植者たちで賑やかだった。ヒーリンロッジに通ううちに、エヴァンにも顔見知りができた。気のいい連中に誘われるままパブリックハウスで飲み、そのままモーテルで一晩明かしてから帰ることもある。神羅夫妻には内緒だ。寄道がばれようものなら、エアリスはきっとあの豪邸に引き留めるだろう。「夕飯、たまには食べていって」、「あ、お酒、いける口なんだ」、「帰り、危ないし、もう泊まっちゃえば」、彼女のはしゃぐ声が聞こえそうだ。だがエヴァンにはまだ、ルーファウスやいかつい顔をした犬と、一つ屋根の下で眠る勇気はなかった。
「ひょっとして、ルーファウス、囮になるの」
 心許なさげに、エアリスが言う。ルーファウスは大仰に肩を竦めた。
「おびきだすには、それがいちばん手っ取り早い」
「怪我したばっかりなのに」
「心配するな。昨日は油断していたが、私もタークスもな。だが今は違うぞ。本気のタークスなど、私も久々に見た」
「うわあ、それはちょっと、相手の人たち、かわいそう」
 エアリスは両手を口元に当てた。エヴァンはやや驚いた。会社組織の一部署でありながら、タークスは人道問題など意に介さない人間の集まりだった。エアリスは彼らの裏の顔を、なぜ知っているのだろう。首を何度か捻ったあと、それもそうかとエヴァンは納得した。
「さすが、社長の奥さん。連中のこと、よく分かってるんだな」
「うん、まあ、いろいろとお世話になりましたから。あの人たち、本当、ひどいんだから」
 それきり閉口した彼女に、ルーファウスが苦笑している。エヴァンはしばし考えた。これは恩を返すチャンスかもしれない、と。
「なあ、社長。前に探してたじゃないか、替え玉候補」
 エヴァンは身代わりを申しでることにした。ルーファウスのいつかの冗談を、まさか本気で受け止める日が来るとは。だが彼は神羅夫妻には恩がある。取り分け義姉には。
「あれって、まだ有効かな」
 エヴァンの探偵社を、エアリスは何かと気にかけてくれている。先月、彼女から預かった仕事関連の書籍はためになった。難しいところはエアリスが噛み砕いて教えてくれた。その言いまわしが時折ルーファウスに似ていることに、彼女は気づいていないようだった。
 小難しいタイトルの書籍の、その持主を考えるとおくびがでそうになるが、とにかくエヴァンはマーケティングリサーチを始めた。パートナーとはしっかりと事務所の方針を話しあう機会を設けた。たまにそれぞれの主張が大きく食違うこともある。以前の彼なら、好いた相手の機嫌を気にしているうちに、気勢などそがれていただろう。だがエヴァンは少しだけ変わったのだ。パートナーを立てることもあれば、どうしても譲歩できないときには相手を説伏せる努力も怠らなかった。うわべだけを取り繕っていたころが嘘のように、エヴァンは熱弁をふるう。そうするとパートナーは彼に一目置くようになった。おのずと二人のなかも深まったように思う。
 だからといって探偵社が繁盛しているわけではない。むしろまだ閑古鳥の巣立ちにはほど遠い。それでも手をこまぬいて嘆いていたころを思うと、わずかなりとも前進している気がする。空いた時間は知識を身につけるための、特別な余暇だとエアリスは言った。焦らないで、とも。彼女の言葉は、エヴァンにとって一筋の光明だった。
 相変わらず生活はかつかつだったが、エヴァンの日々はおおむね充実している。
 ルーファウスから送金される――通信販売の荷受け兼ヒーリンロッジまでの配達――報酬は、口座にそのまま残っている。母親の残した退職金のほとんどが実父からの慰謝料と知ってからは、手がつけられなくなった。少なくともエヴァンのなかで、神羅と母親と彼自身との折合がつくまでは、どれも寝かせておくつもりだった。
 これは二人への恩返しと、あわよくば神羅を知るチャンスかもしれなかった。
「ここで寝ていればいいんだろ。俺が変わろうか」
 タークスもいるなら安心だと、エヴァンは思った。だがルーファウスはいい顔をしなかった。
「いや、これからすぐに離れる。病院の人間を巻きこむわけにはいかないだろう。それにな、エヴァン」
 腹部の上で指を組みあわせながら、ルーファウスは顎をしゃくる。手招きどころか顎の動き一つで人を操ろうとするルーファウスは、横着だ。だがエヴァンは逆らえない。前室と寝室の境目からベッドの足元まで、彼はおずおずと近づいた。
「ちょっとした非日常を楽しみたいだけなら、やめておけ」
「そんなつもりじゃない」
「では、間の抜けた正義感か」
 エヴァンは朱をそそぐ。エアリスがルーファウスをたしなめる。だが彼女もまた、エヴァンの提案には反対のようで、困ったように眉尻を下げている。
「なあ、エヴァン。見えるか。お前の前には今、一本のラインがある。境目をこえれば一般人ではいられなくなる。そんな危ういラインだ」
 エヴァンはルーファウスの顔を見た。傷一つないきれいな肌をしている。だが首から下はどうだろう。術着からのぞく二の腕や胸元には古い傷痕があった。いくつもあった。包帯の下の銃創もひきつったような醜い痕を残すのだろうか。たちまち顔色を変えるエヴァンに、異母兄は落ち着いた声で言った。
「よくよく考えることだな」
 エヴァンがエアリスに目を向けると、彼女はかれんに微笑む。それから、ありがとう、と言った。
「だけどさ」
「人の女より、自分の女に目をかけてやれ」
 これは暗にルーファウスからの忠告なのだろうか。パートナーに心配をかけるようなことはよせ、と。
 ひょっとしてルーファウスがエヴァンを病室から締めださないでいたのは、彼に『神羅の女』を見せるためだったのかもしれない。傷つき、泣く、あわれな姿を。たとえばエアリスのように。もしかするとエヴァンの母親や、ルーファウスの母親、神羅にかかわった女たちへの悲況を知れとも言っているのかもしれなかった。
 エヴァンは渋々ながら頷く。ルーファウスがかすかに笑んだ。ルーファウスに借りをつくりっ放しでいることが空恐ろしいので、さっさと清算してしまいたいのが本音だ。だが、礼意は別のかたちで返すしかなさそうだった。
「さて、そろそろ迎えが来る。着替えを手伝ってくれ、エアリス」
 エアリスは立ち上がる。きょろきょろと室内をうかがってから、クロゼット前に用意されていたスーツ一式を手にした。そのあいだに、ルーファウスは術着の腰紐をほどき始めている。
 本当に今更だけど、と前置きしてからエヴァンは口を開いた。
「やっぱり、廊下で待ってる」
 今、エヴァンが二人のためにできるのは、そうして夫妻水入らずの時間を邪魔しないことだった。ルーファウスはしばらくと言ったが、それが三日ですむのか一箇月かかるのか、エヴァンには想像がつかなかった。
 ただ、と彼は眉を曇らす。早朝の電話、エアリスは泣いていた。エヴァンが駆けつけてもまだ、彼女は泣いていた。いつも朗らかな彼女の、あれほどまでに苦しそうな顔は初めて見た。花のようなエアリスがルーファウスのいないあいだに萎れなくてもいいように――ついでに、この男がそれを気に病まなくてすむように――きっちりと話しあってほしかった。
 ちなみに。友人の肩を借りるように抱きつかれたことは、内緒にしておく。友人を慰めるように肩を抱いたことは、口が裂けても言えない。ルーファウスに知られようものなら、きっとエヴァンは三回くらい水力発電用の水路に流されるに違いない。
 特別病棟は室外にいたるまで設えがいい。エヴァンはラウンジのソファーに座った。背中を丸めて、タイルの柄を何とはなしに眺める。彼は溜息をついた。とてつもない密な時間をすごした気がした。
 二人の会話を顧みたものの、エヴァンにはことの次第がよくのみこめなかった。それでもルーファウスは勿論のこと、エアリスにも何やら特殊な事情があるらしいことはうかがえた。やはりそうかとエヴァンは思う。ただの一般市民が神羅社長と出会い、結婚することは、案の定ゼロに近いパーセンテージなのだと。エアリスはエヴァンのいる側からボーダーラインをこえたのではなく、そもそもラインの向こう側の人間だったのかもしれない。あちら側にいる彼女でさえ心を痛めなくてはならない原因に、『神羅』が少なからずかかわっているのだろう。
 ルーファウスにしたってそうだ。エヴァンは異母兄の左手を思いだす。ウェディングリングは見当たらなかった。婚姻を明かすことはおろか、彼が神羅の名乗りを上げることすら一筋縄ではいかないらしい。ルーファウスの才知をもってしても、まだ叶わないとは。何てばけものなのだろう、『神羅』は。
 エヴァンは顔を上げる。眼前にボーダーラインが見えた気がした。うかつにこえようとしたことに二の腕が粟立つのを感じた。その向こう側にある病室のドアを、彼は睨む。
「おう、エヴァン。兄貴の見舞いなんだってな。感心だぞ、と」
 人気のないラウンジに、いつの間にかレノがいた。ロッドで肩を叩いている。エヴァンは無性に安心した。レノののんびりとした声が、非日常を垣間見ていた彼を引き戻してくれた気がした。
「お前、どうしたの。何で泣いてんの」
 レノが彼の前に屈みこむ。嘘、とエヴァンは声を上げる。慌てて頬を拭うと、ぬれていた。
 世界で神羅を負うのはあの二人きりなのだと、エヴァンは今、まざまざと思い知った。どちらかが傷つけば、もう一人が嘆き怒るのだろう。今回のように。だがこれが怪我ですまなければ、神羅夫妻の片割れはいったいどうなってしまうのだろうか。そう考えかけて、エヴァンは思いきり首を振った。
「社長が無事でよかったと思って」
 まさかあの『ばか社長』の心配を本気でするなどと、エヴァンは夢想だにしなかった。
 当初はルーファウスに抗うことができないまま、エヴァンは荷物の転送を請負っていた。ルーファウスから電話が来るたび、心労でひいひい言っていた彼だったが、いつからか「携帯端末、失くしたことにしようかな。いっそのこと壊してしまおうか」とは思わなくなった。人間というものは何ごとにも慣れるよう、厚かましくできているようだ。いや、とエヴァンは考え直す。ひょっとして慣らされたのかもしれない。あの男お得意の人心収攬術で。
 とたんにエヴァンはいやな気持ちになる。ルーファウスの手駒にされた気がすることも、そんな風にして勝手にルーファウスのせいにしているエヴァンの自信のなさにも。ルーファウスの放つ強い光がエヴァンの劣等感を無遠慮に照らしだす。そうしてできる影は、色濃い。エヴァンは憮然とした。
 だがヒーリンロッジへの往復は、そう悪いことばかりでもなかった。
 道中の移動で、エヴァンのドライビングスキルは上達した。片手でステアリングホイール、もう一方で神羅特製の銃をぶち放す日も、そのうちに来るのかもしれなかった。
 神羅邸のリビングでの談話も、エヴァンにとっては意義のある時間だった。ほとんどはエアリスとの他愛ない話だったが、時折ルーファウスが口を挟んだ。世界情勢だったり、ニュースや世間のうわさにも上らないようなきな臭い話だったり。ルーファウスの経済論は――ほとんど理解が追いついていない気もするが――聞き洩らさないようにした。何せ神羅社長の講演会など、稀少にもほどがある。しかもただで学べる絶好のチャンスだった。
 ふもとで知りあった連中とコネクションをつないでおくといいと、それとなくアドバイスをくれたのも、実はルーファウスだった。つないだそれを活かすヒントは、今思えば話のなかにちりばめられていたように思う。
 たまにおくびがでそうな緊張感を、ルーファウスは彼に与える。そんなときはエアリスがやんわりとほぐしてくれるのだ。フレーバーの違うハーブティーや焼き菓子は、いつも美味かった。エアリスは必ず昇降口まで見送ってくれる。「気をつけてね」、「着いたら、連絡ちょうだいね」と、毎回同じことを言う彼女は、異母兄よりも実の姉のようだった。気が向いたらしいときには、ルーファウスもエアリスに並んで立つ。花車な背中によりそう長躯を見ていると、エヴァンは不思議な気持ちになった。
 どちらも確固とした個性を持っていて、それぞれに花やいだ人間だ。だというのに、二人が揃ってようやく一つのかたちを成している。そんな気がしてならなかった。 
 エヴァンはまたたきを忘れて、視線の先のスライドドアに見入っていた。あの二人が別たれるところなど見たくない。二人の意思とは関係ないものに引裂かれるところなど、決して。
「ばか社長のままでいてくれたらよかったのに。だって、俺」
「社長は死にやしねえよ」
 ドアが、再び涙で滲みだした。エヴァンは腕で両眼をこする。レノがからからと笑った。
「でもな、今回はちょっとばかし、鳥かごに入ってもらわないといけないんだぞ、と」
 そう言いながらレノは立ち上がる。耳の裏を掻いてから、天井を仰いだ。
「つっても、あの人、自由人だからなあ。どうなることやら」
 移動の準備が整ったらしい。病室へと靴先を向けたレノの赤い尻尾に、エヴァンが慌てて飛びついた。レノが呻いている。だが彼は必死だった。
「待って」
「痛。首が折れるだろうが。おいおい、何だよ、エヴァン」
「今は入ったらだめだ。お願いだ」
「何でだよ。ていうか、手を離せ。はげちまう。で、何でだめなの」
 口調は相変わらずのらくらとしている。だがレノの眼光は鋭かった。ああ、こいつもタークスだ。怯えながらも、エヴァンは口を割らない。当初の約束を、彼は――秘密をかかえられる性質ではないのだが、口をすべらせたそのあとのことが恐ろしすぎて――ずっと守っている。ルーファウス以外の前で、ヒーリンに咲く花の名はださない、と。そもそもドアを開けて、二人がいちゃいちゃの真最中だったら、叱られるのはきっとレノだ。
「何でもくそもない。タークスなら察しろよ」
「無茶言うなよ、お前なあ」
 毛束を引張っていた手が、はたと止まる。きっとルーファウスは、彼の妻の恥じらう姿を誰の目にもふれさせたくないはずだ。エヴァンは青くなった。レノを止められなかった彼も同罪になるのかもしれなかった。エヴァンは咄嗟に言った。
「社長の願いだ」
「社長のかあ」
 何やら考えこんでいたレノは、ロッドを腰のホルスターにしまった。
「お前、変なやつだよな。さすが社長の弟だぞ、と」
 エヴァンがようやく手を離したところで、ぎくりとした。長い髪が何本か抜け落ちている。そろそろと赤毛のタークスを盗み見たところで、エヴァンとよく似た声に笑われた。
 ルーファウスがいつの間にかドアの前に立っている。ジャケットのボタンをゆっくりと留めながら。
「レノ。せっかくの見舞客を泣かせるな」
「泣かせたの、社長だぞ、と」
 それはすまない、とルーファウスはしれっと言った。こういうところがやはりむかつくのだと、エヴァンは思った。
「ああ、エヴァン。これをヒーリンに届けておいてくれ。ディーが安心する」
 ルーファウスは腕時計をはずした。プラチナブレスだ。文字盤がアイスブルーのそれが、ずしりとエヴァンの手のひらに沈む。
「大切な届けものだ。報酬は弾む」
「今回はいらない。見舞い代わりだからな」
 ハイクラスの腕時計よりもさらに大切なものが、部屋で待っている。エヴァンはとたんに高まる緊張を、おくびといっしょに抑えこむ。ルーファウスはわずかに目を瞠ったあと、異母弟の肩に手を置いた。
「頼んだぞ」
 エヴァンの返事を待たずに、ルーファウスは踵を返す。彼の所作は相も変わることなく悠然としている。本当に撃たれたのだろうかと疑っているうちにも、どんどん男の背中が遠ざかっていく。エヴァンは慌てながらも、しっかりと頷いた。


■END■
(その光景に息をのんだ)

20210111