祭子
2022-07-18 13:34:08
30208文字
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■FURY BRAND■

∠[ν]-εγλ0010/06
エアリスは連絡もなく帰らない夫の浮気を疑います。夜明けに現れたのは血まみれの愛犬でした。
※pixiv掲載テキスト(20210106初出)

■FURY BRAND■
∠[ν]-εγλ0010/06


 ブロードビーンを裏ごししながら、エアリスは顔を上げた。
 キッチンの縦長窓から見える空は、橙色から赤色、赤色から赤紫色、そして紫紺色へと色を変えていく。窓枠いっぱいに星がちりばめられても、ルーファウスは帰って来なかった。
 エアリスは調理スペースを見渡した。ニョッキに成形されるはずの生地や、あとは煮こむばかりの緑色のピューレ。カッティングボードの上の刻まれたセージは、ぱさぱさに乾いていた。
「これじゃあ、香り、飛んじゃったね」
 このまま調理を続けて、一人で食べる気にはなれなかった。エアリスは吐息をつく。食材をしまい、エプロンを取る。と、キッチンの照明を消した。
 ルーファウスが社外で会合の場を持つことは、間々ある。今日はタークス数人とダークスターを引き連れて、エッジへでかけていた。商談が終わったあとに先方の接待を受け、そのまま会食におよぶこともある。そんなときは、決まって彼は連絡をよこした。意外にも律儀だ。以前そう褒めたところ、「意外は余計だ」とルーファウスはへそを曲げた。それでも彼が出張にでると、一本の電話と土産を欠かさなかった。エアリスは彼の気遣いも、たまに見せる子供じみた態度も好きだった。
「どうしたのかな」
 エアリスはリビングへ向かう。窓際のカウチソファーに腰を下ろすと、本を開いた。彼が退屈しのぎにと用意してくれたものだ。はやる気持ちを抑えながら、一章ずつ大切に読んでいるところだった。だというのに、気がそぞろで一文字も頭に入らない。
「まさか、酔払っちゃって帰れない、とか」
 エアリスは言ったそばから首を振る。彼は多種多様のアルコールをたしなむが、酒豪というわけではない。だがそのどれにものまれているところをエアリスは見たことがなかった。一度くらい正体をなくすまでルーファウスを酔わせてみたかったが、それはそれで恐ろしいことになりそうだ。いまだエアリスは勇気がだせないでいる。
「ひょっとして、これが『夫の不貞行為』っていうやつ、なのかな」
 彼女はしょげた。今、彼のとなりに誰がいようと、人倫にはずれているという言い方には語弊がある。エアリスはルーファウス神羅の妻だが、彼の恋人ではない。その妻という立場も、彼のIDの配偶者欄を借りているだけのことだ。ルーファウスの心がほかの誰かに向けられていようとも、彼女は口を挟める立場ではなかった。
 ただ彼は特定の相手を、この婚姻中にはつくらないだろう。ルーファウスは不貞を働く父親に辟易していた。妻帯者でありながら多くの女性と関係を持ったこともさることながら、そのあとの始末の悪さにだ。隠し子は一人や二人ではなかった。不遇の身の上に生まれて、亡くなった子供もいるという。
 ルーファウスは妻も子供も一人でいいと言った。プレジデントボンボンなどという、いつかの醜聞が嘘のように、彼は潔癖だった。
 それでも、とエアリスは俯く。ルーファウスはマネキンのように整った顔立ちをしているが、彼も生身の成人男性だ。荒ぶる熱を持て余し、狂おしい夜をすごしたいときもあるのではないか。
 エアリスはくちびるを噛む。ルーファウスは妻とともに眠りながらも、彼女を慰み者にはしていない。エアリスはまだ誰の熱も知らない無垢な身体を、両腕で抱き締める。彼には今、熱を向けたい誰かがいるのだろうか。そして、この先、誰か一人にだけ向けられるのだろうか。ルーファウスに心も身体も愛される誰かが現れるのだろうか。羨ましい。いや違う、妬ましいのだ。彼の未来にエアリスは嫉妬をしている。
 エアリスはゆるゆると首を振る。開いたページの上で両手を組みあわせた。長い息をつく。ビジネスパートナーとまではいかないが、ハーブサプリメントの提案は続けている。何気ない会話や料理、ボードゲームはハウスメートのままでも楽しめるはずだ。ならば彼にとってこの婚姻に利点はあるのだろうか。ルーファウスを縛りつけるものになってはいないだろうか。エアリスはここしばらくのあいだ、自問を続けてきた。だがこたえはいつも一つきりだった。悩みながらも、結局彼女はルーファウスの妻でいることを、自ら手放せない。
 エアリスはうろたえる。この恋はどうしてだか、ひどく独り善がりだった。恋慕が邪魔をして、今までのように聞き分けよくできないのだ。悋気から目を背けることすらできない。好きな人の幸せを他者に託すことが、とても難しい。
 せめて、とエアリスは呟いた。ルーファウスが己へ課した制約に苦しむことがないよう、いつかその日が来たときには、彼の配偶者欄を空欄に戻してもらおうとエアリスは思った。『したいことリスト』にも書いておかなければ。離婚してください、と。
「仕方ないよね。だって、わたし」
 しんと静まり返ったリビングに落ち着かず、エアリスは声にだす。だがそれは一人きりを助長させるだけだった。
「遅くなる。先に寝ていろ」
 エアリスは彼の電話ごしの声を思いだす。たった一〇秒のそれが彼女に与える安心を、エアリスは今更ながらに思い知った。結局一ページも繰られなかった本に、しおりをそっと挟んだ。電話をしてみようか。彼女はサイドテーブルの携帯端末を見る。だがルーファウスの横にいるかもしれない人のことを思うと、手が伸ばせない。浮気ではなく本気ならば、婚姻解消を先に言いだすのは彼のほうかもしれなかった。
 エアリスは靴を脱ぐと、カウチソファーに膝をかかえるようにして横たわった。星空を眺めながら思う、恋心は厄介なものだと。恋をすると、前向きでばかりいられなくなる。今、まさにそんな状態へ陥っていた。エアリスは睫毛を伏せる。
 不安のある未来より、楽しかった過去を思いだしてばかりいる。
 目を閉じて思い浮かべるのは、お帰りなさいと言って彼を迎える明日のことではない。昨日、クロゼットでルーファウスと交わした、取り留めのない会話だった。


 ベッドルームとゲストルームのあいだにあるクロゼットは広々としていて、ちょっとしたセレクトショップのようだった。仕事を終えたルーファウスは、まずここで鎧を脱ぐ。
「明日、エッジへ行くことになった」
 服飾品が陳列するキャビネットにカフスボタンを転がす。ネクタイをほどきながら、ルーファウスが言った。エアリスは預かったジャケットとベストにブラシをかけている。彼は業務中に白色を好んで身につけるが、コーヒーの染み一つつけない。所作が丁寧なのだろう。彼女は毎度のことながら感心している。
「急だね」
 エアリスは眉をよせる。彼のスケジュールはこと細かく組まれている。至急の案件となると、あまりいい話ではないのかもしれない。しかも明日は久々の休日で、ルーファウスは心待ちにしていたはずだった。
「ルーファウス、憂鬱なの」
「分かるのか」
 頷く彼女に、ルーファウスはかすかに笑った。ドレスシャツのボタンをはずす。彼は面白くなさそうに言った。
「融資額の件でな、先方が上役をだせと、だだをこねているらしい。経理部長ではお手上げだと、私に話が上がってきた」
「ひょっとして、MTR社でしょ」
 ルーファウスは驚いたようだ。エアリスは数日前に提出したデータを顧みる。先方から回収したキャッシュフローとルーファウスのクラッキングデータの相違点をいくつか挙げた。彼の冴え冴えしい眼差のなか、途中しどろもどろになりながらも何とか言い終える。と、エアリスは上目でルーファウスをうかがった。
「七〇点だ。ぎりぎりだが、及第点をやろう」
 じっと耳を傾けていた彼が、申し分なさげに口端を吊り上げた。
「じゃあ、あとの三〇点は」
「明日、考えておけ。こたえあわせは、私が戻ってからだ」
「ヒントは」
「なしだ」
「うわ、ルーファウス先生、今回、すごく厳しいなあ」
 エアリスはブラシをいじくる。不満げな教え子をルーファウスが宥めにかかる。彼女の手からスーツを取り上げると、彼はおのずからポールにぶら下げた。
「課題は冗談だ、忘れろ。お前に渡したデータには、かかわりのない部分だからな」
「でも、あとの三〇点、気になるんだけど。わたし、いつもぎりぎりで合格でしょ。八〇点、一回くらい、取ってみたい」
「八〇点をやすやすと取れるようなら、お前を役職に推薦したいところだが」
 ルーファウスはトップスに腕を通しながら言った。彼が選んだのは、七分丈のサマーニットだ。品のいい薄紫色をしている。七五点から、壁は急に高くなるのだとルーファウスは続けた。エアリスは彼の脱ぎ捨てたドレスシャツを拾って、首を横に振る。にわかに習い覚えた知識でこえられる壁ではなさそうだ。七五点の先にいる賢人たちに、彼女は憧憬をいだいた。
「恰好いいよね、女性幹部。ほら、OC社の常務さんみたい。あそこの常務さん、やり手よね。それに、すごく美人」
「顔の造作は云々してやるな。それで仕事をするわけではないだろう。執行役にまで昇りつめたのなら、尚更だ」
「ルーファウスも、顔で損したこと、あるの」
 どうだろうな、と彼はあでやかに笑う。エアリスはそれを肯定と受け取った。人は目や耳に入りやすい情報に翻弄される。整った見目が実績をかすませるのは本意ではないのだろう。とくに彼の場合、容姿のほかに姓名もついてまわる。ルーファウスの『個』が正しく評価される機会は、いまだもって訪れそうにない。エアリスはこの現状にやきもきしているところだった。
 OC社の常務執行役もそんな風に気を揉んでいるのかもしれない。エアリスは反省した。だが、それはそれとして、ルーファウスと並んでも見劣りのしない容姿はやはり羨ましかった。
「MTR社の代表もあれくらい実力があれば、私も直談判を聞き入れる甲斐があるのだが。何せあの代表は、小胆だ」
「そんな気の弱い人、あなたにお金、せびるかなあ。ね、明日、だいじょうぶなの」
「私は今日はもう終業した。つまらない男の話はやめておこう」
 ルーファウスは肩を竦める。と、ずらりと吊るされたパンツのなかから、彼はデニム生地のストレートを選んだ。かちゃかちゃとベルトへと手をかけた彼に慌てて背を向けながら、エアリスはこっそりと笑う。彼女がヒーリンロッジへ来るより以前から、クロゼットの一角にはカジュアルウェアがあった。「それは労働服だろう」と見向きもしなかったルーファウスは、近ごろになってようやく綿布の機能性のよさに気がついたようだ。長い足には青色のストレートも黒色のスキニーもよく似あう。
「何だ、エアリス。にやにやと」
 何でもないよ、と言って、エアリスはプレッシング機器にスラックスをかけた。彼に悟られてはいけない。次はどうやって「メリヤスの丸首など、肌着ではないか」と敬遠しているティーシャツの、あの気楽さを知ってもらおうかなどと考えていることは。
 エアリスは彼の訝しげな目線をかわしながら、小首を傾げた。
「ね、ルーファウス。明日、晩ご飯、食べてくるの」
 休日はルーファウスもキッチンに立つ。ケータリング業者は、彼が休みを取った時点ですでに断っていた。
「いや、長居する気はない」
 ルーファウスがいやそうに言う。一人なら軽くすませるつもりだったが、彼が夕飯に間にあうなら話は別だ。がんばった彼をねぎらわなければ、とエアリスは思案する。
「じゃあ、ご飯、用意して待ってるね」
「メニューは」
「ポテト、たくさんあるから。ニョッキにしようかな。ね、ソース、ブロードビーンとトマト、どっちがいい」
 オットマンに腰かけて、ルーファウスは靴を履き替えた。ようやく彼は今日の戦いを終えて、戦士からただの男の恰好になった。
「ブロードビーンだな。赤ワインを冷やしておくか」
「明日のテーブル、カラフルだね」
 心なしかほっとして見える彼に、エアリスは後ろ手を組むと、にこりと歯を見せた。
 

 クロゼットでのできごとにひたっているうちに、深夜に差しかかった。だがエアリスは何もする気が起きない。シャワーをあびることも、眠ることすらも。ただ大窓の向こう側で移りゆく星座と、着信を告げることのない携帯端末をぼうっと眺めていた。
 そうしてまんじりともせず明け方を迎えたエアリスは、獣の咆哮ではっと起き上がった。何やら階下が慌ただしい。エアリスはパンプスを履く間も惜しんで、エグゼクティブフロアへ直通の階段を駆け下りる。と、同時にフロアとオフィスをへだてるドアが開け放たれた。照明がいっせいに点灯する。冷静が常のタークスたちの、差し迫ったやり取りが、エアリスの耳に突き刺さる。「撃たれた」、「増援を向かわせろ」、「搬送先は」、「そいつらを逃がすな」、そして「社長の容体は」と。エアリスは両手で口を押える。こみ上げる吐き気をがまんした。
 主のいないエグゼクティブフロアを、ダークスターが落ち着きなく動きまわっている。頭部と耳を低くして、唸りながら。エアリスの全身から血の気が引く。ダークスターの動線にそって血痕がぼたぼたとしたたっていた。
 秘書とタークスが宥めようとしているが、ダークスターはほとんど野生だった。
「ねえ、ディー。手当てしよう。ちゃんと治さないと、社長に心配かけちゃうよ」
 ジャッドがタオルを広げて差しだすが、ダークスターは背中の触手で床を打って、世話役を牽制する。タークスがジャッドの襟首を慌てて引張った。
「下がれ、ジャッド。鎮静剤が効くまで、いったん離れるぞ」
「ディー。いい子だから、これちゃんと使うんだよ」
 ジャッドは仕方なしに頷く。タークスがマテリアのセットされた首輪を放った。どすんという音に、ダークスターが猛り唸る。
「あれだけ薬ぶちこんでも、動けるのかよ。おっかねえな。社長が死んだら、誰がこいつの面倒を見るんだ」
「ちょっと。縁起でもないこと言わないでくださいよ。社長が死ぬわけないです。え、死んだりしませんよね。まさか、死んでませんよね」
 ジャッドはずいぶんと弱気だ。ダークスターから視線を逸らさないまま、タークスは秘書の腕を引いてあと退った。それからぞんざいに言う。
「分からん。撃たれたとしか聞いていない」
 ドアが閉まると人声や物音がいっきに遠退いた。エアリスはがくがくと自由の利かない足を叱咤する。二階に走り、タオルとブランケットをかかえてルーファウスの愛犬のもとへと急いだ。
「ディー、座って。ほら、ここ」
 ダークスターは鼻声で鳴いたあと、床に敷いたブランケットに四肢を投げだした。エアリスは首輪に指をかけると、マテリアを発動させようとした。が、人間用の防具とは勝手が違うらしい。緑色のそれはただの硝子玉のままだった。
「ね、ディー、マテリア、使って。だいじょうぶ、ルーファウス、怒ったりしないから」
 だがダークスターは見向きもしない。ルーファウスは魔晄の遺産を敬遠している。マテリアもそのうちの一つだ。人工マテリア生成は旧神羅の魔晄エネルギー技術だった。それらを頼れば彼がいくつもかかえていた不調の快癒も早かっただろうに、ルーファウスはそれをよしとはしなかった。ダークスターはかたくななところまで主人にそっくりだ。
「あなたが痛い思いしてるほうが、あの人、悲しむよ。ね、ディー、お願い」
 エアリスは首輪を犬の鼻先にそっと置いた。ぴすぴすと鼻を鳴らしている。乳緑色の燐光が巨躯をつつみこむのを見届けながら、彼女はわずかにほっとした。エアリスはダークスターの巨躯を拭きながら、負傷の具合を確かめる。肩口に銃創が一箇所あった。上質なビロードのような青紫色の皮膚を汚したのは、ほとんどが返り血なのかもしれなかった。エアリスはくちびるを噛む。この健気ないきものの首裏から肩甲骨のあたりを、ゆっくりと撫でる。
「ディーが守ってくれたの、あの人のこと」
 ダークスターは首を持ち上げる。と、力強く鼻息をついた。彼女にはそれが誇らしげに見えた。ありがとう、と耳の付根にエアリスは口づけた。
 酸痛のもたらす緊張がやわらいで、鎮静剤が作用したのだろう。ダークスターの腹部がゆっくりと上下している。気がつけば、山に住む鳥がさえずっている。すでに夜は明けきっていた。
 皆はまた出払ったのだろうか、フロアは静まり返っている。エアリスはのろのろと立ち上がった。体液で汚れた身体をシャワーで清め、リビングへと戻る。サイドテーブルに置きっ放しの携帯端末は、いまだ何の知らせもよこさない。エアリスは携帯端末を胸にいだく。しばらくそうして立ちつくしていた。
 彼女を正気づけたのは、またも鳥の地鳴きだった。生気に満ちたそれが彼女の憂いをわずかに晴らした。エアリスは携帯端末を操作する。だがコール音は無残だ。何度も何度も鳴り続けるだけで、エアリスと彼女の大切な人をつなげてはくれなかった。
「会いたいよ、ルーファウス。会いたい」
 エアリスはカウチソファーに沈みそうになる身体を、奮い起こす。ぐちゃぐちゃの頭のなかでもつれている情報を、丹念にほどいていく。昨晩、ルーファウスはエッジに行くと言った。タークスの告げた搬送先は、病院らしき名称だった。容体を問うということは、いのちは無事なのだろう。けれど、とエアリスの顔に影が差す。ルーファウスの怪我の程度は。襲撃されたらしい彼の心境は。それを考えるといても立ってもいられない。
 エアリスは意を決した。エッジへ行こう、と。だが彼女は市内の地理はおろか、エッジへ行くすべを持たない。
 エアリスは手のなかにある、ルーファウスのもとへと導いてくれるだろう羅針盤を見る。携帯端末には、もう一つ、番号が登録されている。
「おはよう。珍しいな、義姉さんから電話くれるなんて。配達のことだったら、この前さ、社長に伝えたんだけど」
 聞いてないかな、とエヴァンが殺伐とは無縁の調子で言った。エアリスは思わず双眸をぎゅっと瞑った。嗚咽をがまんする。顔が似ているということは、骨格が似ている。おのずと声質も。エヴァンのくせのない話し方は、ルーファウスとはまるで違う。が、耳朶をくすぐる低音は、否応にも彼女の恋しい人を思いださせた。
「エヴァン、ごめんね」
「どうしたの。何かあった」
 エアリスは窓外を見やる。山間の朝もやに日光が燦々と反射している。リビングからダイニング、その奥に続くキッチンまで見まわす。いつもならば、そろそろ朝食の時間だ。調味料を多少間違えても、トーストのすみをわずかに焦がしても、笑って食べてくれるルーファウスはいない。
 純白の光のあふれるリビングで、彼女はとうとう泣きくずれた。
「ごめん。助けて」


 平和ぼけしすぎたな。
 ルーファウスは目を覚ましてすぐに、そんなことを思った。
 見慣れない天井に一瞬緊張するが、機材や内装から彼はここが病院だと思いだした。上体を起こそうとして、疼痛に呻く。術着のあわせ目から脇腹のあたりに包帯がのぞいていた。ルーファウスは仕方がなく電動ベッドのリクライニングを起こした。
「撃たれたのだったか」
 サイドテーブルには彼の私物――腕時計や携帯端末、タイクリップと揃いのカフス――が整然と並べられている。クロゼット前には濃紺色のスーツが一揃い吊るしてあるが、もともと彼の着ていたそれは見当たらなかった。ルーファウスは小さく笑う。昨晩、エアリスにスーツを汚さないことを褒められたばかりだ。だというのに、白色を銃弾で焦がし、血痕でだめにしたので処分したなどと、どう言い繕えばいいのだろうかと。だが笑みはすぐに掻き消した。これは笑い話ですますことはできないだろう。
 腕時計は九時三〇分を指していた。明るい時間だというのに、個室のカーテンはすべて閉められている。病院に運びこまれてから、半日近くも正体なく眠りこんでいたようだ。処置のさいに使用された麻酔剤のほか、催眠剤も投与されたらしい。ルーファウスが化学合成物の服用を断って、ずいぶんと経つ。メディカルハーブで浄化された身体に、最近の睡眠不足も相俟ってそれらは効きすぎたようだ。頭も身体もやけに鈍麻している。ルーファウスは舌打ちをする。睡眠剤はおそらくタークス主任の指示に違いない。失血で蒼白になりながらも、彼がヒーリンロッジに戻ると我を張ったからだ。
 ルーファウスは襟足を掻きむしりながら、携帯端末を手に取った。着信は明け方に一件。ブロードビーンのソースは美味くできたのだろうか。たった一度きりの電話を、彼女はどのような面持でかけたのだろう。彼の怪我の理由を知れば、エアリスは何を思うのだろうか。ルーファウスは胸のあたりの、手の届かないところがじくじくと痛んだ。
 リダイヤルできないまま、彼はバックライトの消えた画面を眺める。黒い鏡に映る顔は、憔悴していた。
 子会社や傘下企業は、今は資金が潤沢で機嫌がいい。そのはずだった。手のうちに丸めこんだはずのそれらに、今、牙を剥かれるとは。それもそうか、とルーファウスは納得する。
 彼の生存を知った人間の、その一部は亡者のままでいるルーファウスを嘲笑っているに違いない。安全な墓の下から資金や資材をばらまいて、いまだ選る側のトップに君臨している気でいるのだろう、と。だが二代目はばか社長で、一度会社を大きく傾けている。偉大な父親の庇護を失った若造に、取って代わろうという野心家が現れてもおかしくはなかった。亡者の墓所を暴くことのできる、この機に乗じて一矢を報いてやろうと、過去の怨恨を持ちだすやからもいるだろう。今回のように。
 だが彼の見苦しい顔の原因は、そんな些末なことではない。
 ルーファウスは端末を腹の上に置く。と、目を瞑った。まだ神羅社長としての実績を残していない彼への評価は、そんなものだろう。相手を甘く見たばかりに、自身が傷を負う羽目になるのも仕方がない。だが彼女はどう思うのだろう。美徳も悪徳も、公正も不正も気にすることなく、ルーファウスは彼へ敵対するものに挑むつもりだった。あの澄んだ翠眼に、汚いやり方はどう映るのだろう。
 ルーファウスはかっと目を開けた。ああ、と吐息をもらす。憔悴の原因はエアリスだ。ルーファウスは彼女の反応を気にしているのだ。善悪も美醜も優劣も、すべての価値は彼がおのずから判じてきた。それを他者にゆだねたことなど、一度もなかったというのに。
 これは弱みだと、ルーファウスは思った。己の決めた生き方をつらぬこうとする彼の、障壁となるものだと。
 この先、ルーファウスは障壁をこえる――彼女を困らせるような、怒らせるような、悲しませるような――ことに躊躇を覚えるだろう。それでも彼には戦線から引く気などまるでなかった。
「私はお前を泣かせるのだろうな」
 商談をしくじったことより、彼女の涙が悔しい。ルーファウスは携帯端末を握り締める。
 エアリスは時折、一人で泣いているようだった。目尻や鼻頭が赤いことがある。ルーファウスは彼女の泣き顔を、教会で保護したあの日以来ついぞ見ていない。気丈な女だ。だがエアリスのそんな心のしたたかさも、そして彼女を一人で泣くように仕向けている己の不甲斐なさも、ルーファウスは腹立たしかった。
「一人で泣くな、エアリス」
 ルーファウスはとても長い息をつく。せめてエアリスに嘆声を上げさせることのないよう、迂路をさぐってもいいのではないか。彼女のために何か譲歩してもかまわないのではないか。そんならしからぬことを彼は考えた。これは厚意などではない。誰もが誰にでも向けることのできる、そんな満遍ないものでは。
 これは、ルーファウスがただ一人と決めた女にだけ、そそぐ好意だった。
 障壁すらもいじらしく思えるほど、エアリスは大切な女だというのに。脇腹を押さえながら、ルーファウスは宙を見据える。彼はいつもあと少しのところで、間違うのだ。口惜しくて仕方がなかった。
 たとえば昨日のこともそうだと、彼は奥歯を噛む。特別な感情をはっきりと自覚した今なら、やりようもあっただろうに。これが星の采配なのだろうか。そう思ったとたん、苛立ちを覚えた。ルーファウスはシーツを掴む。繊維がぎりぎりと悲鳴を上げた。


 今、ルーファウスは子会社の選別をつめている最中だった。
 社長室にタークス主任と秘書を呼びつけて、彼はディスプレーを見据えている。旧神羅カンパニーは子会社も含めてコングロマリットの形態を取っていたが、ルーファウスはグループの中核企業を残してほかは解体するつもりでいた。
 新組織下で業務の立て直しを図ってはいるものの、やはり巨大企業をかつてのまま事業継続するには限度がある。それならばいっそ部門ごとの専門性を活かし、他企業として独立させる方向に踏み切ることにした。ルーファウスは当面、資金や資材支援を惜しまないつもりでいる。勿論、含むところはある。父親のつくりあげた大きなものが、ルーファウスの指を擦り抜けてほとんど残っていない。己の手のひらの小ささが悔しかった。しかし今は、何をおいても『世界の再建』が優先だった。
 必要であれば、いずれまた組みこめばいい。ルーファウスはそう考えている。
 事業が順調に運び、神羅への借りを返し終えて対等の立場になる日が来ることを、彼は楽しみにしているのだ。そうして他企業となった会社の支配権――合併や吸収分割、株式交換もいいだろう――を再び獲得し、神羅を自身の思い描くかたちに築き上げるのだ。ルーファウスには生まれてこの方、競争相手というものがいなかった。何ごともワンサイドゲームではつまらない。
 そもそも旧神羅のように一企業が市場を独占していては、いつになってもキャッシュとノーハウとヘイトはルーファウスのもとに溜まるばかりだろう。別段、怨憎を恐れているわけではない。打ち明けて言うと、ルーファウスもまたスリルを好んでいる。
 エアリスには叱られた。「将来のライバル、あなたが育ててどうするの」と。そのあとで仕方ないといった風に微笑みながら、「スリル、大事だものね」と彼の背中を押した。ルーファウスは思わず笑みをこぼした。
「社長。いかがされましたか」
「いや、何でもない。さて、コスメチックス事業部の件だったか」
 ルーファウスはゆるゆると首を振る。ややして挑むように二人を見上げた彼は、神羅社長の顔に戻っていた。
 メテオショック以来、コスメチックス事業部の生産ラインは止まっていた。在庫は過多だが、いかんせん消費期限というものがある。市民の衛生維持のためにも、そろそろ次の生産ライン確保を実行に移す段階だとルーファウスは考えていた。
 幸いなことに浴室化粧品製造は水質にこだわっていたおかげで、主だった工場はグラスランドエリアにほど近い川ぞいにある。メテオショックの渦中にあっても、工場一帯は無事だった。魔晄都市からうんと離れ、風力に頼ったベースロード電源で稼働していたそれらは、ライフストリームの目こぼれにあったようだ。
 電力は確保できている。委託先を数社にしぼり、雇用をつのれば、工場の稼働にこぎつけることができそうだった。
 候補先の財務諸表に目を通しながら、ルーファウスは指示を下す。一社目の経営は堅実だった。いくつかの難局をこえれば、軌道に乗るだろう。だがいかんせん運転資本が心許ない。ルーファウスはツォンに目をやった。
「弾を用意しろ」
「いかほど」
「三〇〇〇万ギルだ」
「こちらは」
 五社目のずさんな帳票に、ルーファウスは苦々しい顔つきをした。ツォンが追加資料を差しだす。不動産、車、女。彼が提供した金は、代表の私欲に消えたらしい。
 不正を隠し通そうとする気概があれば、それは評価する。ルーファウスを騙し通せる策略家ならば、いっそのこと引き抜きたいくらいだ。だがこれはいささか粗略にすぎる。
 こうしてルーファウスは種を蒔き、水をやってきた。発芽したはいいものの、その先伸び悩むことは往々にしてあった。せっかくの新芽だ、しばらくは成長を補ってやる必要がある。いずれは実りのいい木に育ったとしても、のちのち腐り枯れることもあるだろう。惜しいが、そうなればすぐさま伐採するしかない。だが最初から腐った芽に手を入れるほど、彼は慈善家ではなかった。
 ルーファウスはキーボードに五指をすべらせる。と、五社目のデータをそっくり削除した。
「残念だ。実弾だな」
 でしょうね、とジャッドが言った。こういうやからは改心をしない上に、開き直って武器を振りかざすのが落ちだ。性質の悪い芽は、根こそぎ刈り取ってしまうにかぎる。
「伍番アベニューに手をだすとは。あの付近の土地は、わが社が差押えていたはずだ。いい度胸をしているな。物件は回収しておけ」
「代表がばかだと従業員がかわいそうですね。ちょっと僕に時間もらっちゃってもいいですか。一社目と、それから二社目に斡旋できないか、手配してみます」
「任せる。結果いかんでは、その二社に人件費分を上乗せしよう」
「次はMTR社ですが、融資額に不満があるようです」
 ルーファウスは顎をつまむ。MTR社もまた、旧神羅のコスメチックス事業部の委託先候補だった。ルーファウスが独自に収集したデータと先方の提出したそれとには、明らかな差異がある。が、この差異の行きどころは不明だ。そして数字の羅列で見るMTR社は、実際のところずいぶんと興味深かった。積極と消極が入混じっていて、ちぐはぐな金の動きをしている。MTR社の代表は、壮年の男だ。旧神羅時代からのつきあいはあったようだが、ルーファウスは面識がない。当時の元帳を開いてみれば、小規模工場の代表は実着だが面白みのない金の運用をしていた。ルーファウスは怪訝に思う。それが今になってなぜ、と。
「経理部長の上役にお会いしたいと申しているようですが、いかがなさいますか」
 ルーファウスはしばらくの黙考ののち、頷く。違和感の原因を取り除いておきたかった。タークスを役職に仕立てて向かわせようか。だがルーファウスは万が一のことより、己の好奇心を優先した。
「ジャッド。私のスケジュールは」
「明日と六日後が終日フリーですね」
 ルーファウスは頬杖をつく。秘書を軽く睨んだ。
「どちらも私の休日だろう」
「はい。ほかは予定でぎちぎちですよ。平日は、夜なら空いてますけど」
 ジャッドがタブレットを片手に、しれっと言う。近ごろのルーファウスは至急の案件を除いて、私人としての時間を優先していることを秘書は知っている。性根の据わった人間は好ましいが、青年にいたっては動じないにもほどがある。もともとルーファウスに与する素質はあったが、ここまで化けるなどと彼は思ってもみなかった。ジャッドに並び立つツォンの、澄ました顔がまた何とも憎らしい。
「社長は頼もしい秘書をお持ちですね。私としても助かっています」
「うわ、ありがとうございます、主任。僕、照れちゃいますよ」
「なかよしだな、お前たちは。私をいじめるときは、とくに息がぴったりだ」
 ルーファウスは睫毛を伏せる。と、嬉しい誤算に微笑した。
「夜はプライベートタイムだ。邪魔をするな。仕方がない、明日でいい」
 夕食には間にあうように戻る。そのつもりでルーファウスは、翌日エッジ市内にあるホテルへ向かった。
 パーラールームで応接したMTR社の代表は、終始能面のようだった。目尻のしわが薄く見えるほどに。
「では、わが社との取引続行は難しいということだな」
 ルーファウスはソファーに軽く預けていた背を起こす。と、立ち上がった。MTR社の違和感の正体は、彼の斜め前に座る愛犬が教えた。ここへ来てからダークスターは、しきりに己の鼻先を舐めている。緊張のサインだ。警戒を剥きだしにして唸りこそしないが、自宅のリビングで、彼の妻と戯れているときのような無邪気は皆無だった。
 壮年の男は無表情の裏に、ただならぬ憎悪を隠している。
 ルーファウスは後悔した。タークスに任せていれば、今ごろ彼はブロードビーンのフリッターの準備に取りかかっていたはずだった。衣には粉にしたチーズとブラックペッパーを入れるといいのだと、エアリス――正しくは彼女の母親のレシピなのだろう――から聞いた。赤ワインにあうだろうそれを、彼は試すつもりだった。つまみ食いをする妻をたしなめることも、楽しみにしていたというのに。
「金の話は、これで終わりだな。さて、本題に入ろうか」
 言いながら、ルーファウスはジャケットの襟を正す。両手はラペルを掴んだままとどめておく。
「あなたが生きていると知って、どんな思いでいたか」
 仮面に入るひびの音を、ルーファウスは聞いた。男の素顔には苦渋が張りついていた。ルーファウスが冷めた目を向ける。せっかくの休日を台なしにしてまで彼が知りたかったのは、こんな見飽きた顔ではなかった。
「神羅はこの先の新しい世界に、不要だ。あなた方の過ちはどうあがいても償いきれるものではない」
 ルーファウスはエアリスへだしかけた課題を思いだした。あとの三〇点、そのほとんどは神羅への恨みつらみで占められている。
 この場合、彼らの口にする神羅とは社名ではなく、姓だ。すなわち神羅父子に何かしらの恨みを持っている。実直な経営をする男を変えるほどの理由は、しかしルーファウスには分からなかった。怨念は会社という漠然とした存在より、目の前にいる個人にこそ向けやすいだけなのかもしれなかった。そうやって、ルーファウスはただ生きているだけで人に呪われる。
 ルーファウスは失笑した。金をアンバランスに使いこむことで、社長をおびきだす。小者だという評価には再考が必要だろう。まんまと撒餌に食いついた己が、愚かしかった。
「それはあまり賢明な判断とは言えないだろうが、仕方がない」
「覚悟はできています」
「なるほど」
 男がふところから取りだしたのは、拳銃サイズのマシンピストルだった。不慣れな手つきで銃口を上げる。それより先に動いたのはルーファウスだ。ラペルをくつろげると、脇下のホルスターに手を伸ばす。だがルーファウスは躊躇した。彼の脳裏を掠めたのは、エアリスだった。かれんに笑う、あの女だ。この男にも連れあいはいるのだろうか。家族は、子供は、友人は。
 ルーファウスの手は動かなかった。
 男の首元にダークスターが食らいつく。即死だ。が、男の情念が引金を引いた。巨躯と男のあいだで銃が暴発する。ダークスターの肩口から鮮血が飛び散った。向かいのビルに控えていたタークスの狙撃が、男のこめかみを撃ち抜く。窓硝子が派手に飛散する。ルーファウスは咄嗟に目元を腕でかばいながら、姿勢を低くする。脇腹がかっと熱いが、かまっている暇はなかった。ルーファウスはあたりを素早く見まわす。ダークスターはよろけながらも死体から離れない。男を押し倒し、顎ごと顔面を噛み砕いたあと、主の眼前に飛び退く。がくんと前肢を折ったものの、すぐさま態勢を立て直してから入口に向かって吠え続けた。
 ここまでまたたきのあいだのできごとだった。そしてこの先もまた、あっという間に片がついた。 
 犬の咆哮か、男の銃声か、硝子の割れる音か。どれが引金になったのか不明だ。隣室のベッドルームからタークスが、入口からは男の手勢がなだれこんで来た。花瓶が割れ、花びらが舞い上がる。テーブルがひっくり返って、冷めたコーヒーが絨毯に染みを広げる。上質な織物壁紙に血しぶきがかかって、まるで下手くそなストリートペイントだ。インペリアルスイートとはほど遠いこの部屋でパーティーをするには、いささか人数が多かった。そして派手に遊びすぎだ。まだ新築物件だというのに、殺傷沙汰などという曰く因縁をつけては申訳が立たない。ホテルには手厚い補償を、ルーファウスは考えなければならなかった。
 ルーファウスは煩わしく思いながら、つい先ほどまで悠々と足を組んでいたソファーの影に身をひそめる。ようやく動くようになった手で銃をかまえる。応戦する。相手はプロのようだ。しかも動きは組織立っている。MTR社の代表は、余剰の現金をこのために使ったのだろう。
「社長、ご無事ですか」
 制圧のすんだ室内に、静寂が戻った。タークスが一人、ルーファウスに駆けよる。ほかは死体の検分に当たっている。
「問題ない。それよりディーを」
 ルーファウスはまだ興奮冷めやらぬ愛犬を見る。肩口の流血は止まらない。首輪にはマテリアは嵌まっていない。彼が常々そう指示しているからだ。ルーファウスは起き上がり、再度ソファーに腰かけた。代表を一瞥する。
 三点射を選択したことは正解だ。男の銃の扱いが素人だったことも功を奏したようだ。バースト機能は弾が必要以上にばらける。すべてダークスターに命中するはずだったそれは、一つは忠犬を、もう一つはテーブルを、最後の一つがルーファウスに当たった。
 ルーファウスは左脇腹を押さえる。肉を抉られたようで、失血がひどい。タークスがすぐさま止血に取りかかった。うまくやったと褒めてやりたかったが、男にしてみればルーファウスに息がある時点で失敗だ。神羅社長の賛辞など、仮に聞こえたところで嬉しくはないだろう。
「今、この男の会社に別動隊を向かわせています」
 向いのビルを仕切っていたツォンが、主のもとに合流した。ルーファウスは頷く。
「その男の雇った組織を洗いだせ。一人も逃がすな」
 ツォンは近くにいたタークスに指示をしている。経済界と裏社会、二つ――金銭と暴力――が手を組むと厄介だ。この界隈では昨今、神羅社長の生存がうわさになり始めていた。ルーファウスは高値で売れるだろう。所在地の情報も、彼自身の身柄であれば尚更に。それはいっこうにかまわないとルーファウスは思っている。生きているという事実は、どこかに何かしらの痕跡を残すものだ。こうしてあちらこちらに顔をだすようになった以上、いつまでも隠しおおせるなどと、気楽に思ってはいない。何よりも、とルーファウスは視線を鋭くする。彼にはいつまでも亡者でいる気などないのだ。
 だがヒーリンロッジに、今、暴力をよりつかせるわけにはいかなかった。何せ彼の妻はとても心配性だ。
「われわれの失態です。申訳ありません」
 一同が起立をし、主に向き直った。ルーファウスは頷く。と、作業を続けろ、と短く言った。
「ですが、再三申し上げましたでしょう。顔をだすのもけっこうですが、防弾チョッキくらいはお召しいただきたいものですね」
「こんなときまで説教か、お前は。だがそいつは相打ち覚悟だったぞ。これが爆破物だったら、胴着ではどうしようもあるまい」
 それに防弾用の胴着は着脹れる。いまだ体重が戻りきらない細面の彼に、脹れ上がった上半身など見栄えが悪い。ルーファウスは浅い息を繰り返しながらも、薄ら笑う。ツォンはこれ見よがしな大息をついた。
 タークスが圧迫止血を試みているが、血の色はあざやかなままだ。ツォンがルーファウスの脈を取る。
「これは専門の処置が必要ですね。主任、弐番アベニューの病院を手配します」
 それでいい、とツォンは言った。星痕症候群治療薬の開発や投与にかかわった医療従事者は、そのまま神羅傘下の医療機関に配属している。ここから近いのは六番アベニューにある病院だが、ルーファウスのプライバシーを守るためなら多少の移動は仕方がない。
「一五階の西棟を準備しておけ。お前とほか二名は社長の警護に当たれ」
「はい。では三班がこのあと掃除屋の手配をすませてから、オフィスに戻ります。ダークスターは三班に任せましょう」
「待て」
 タークスの会話に、ルーファウスが割って入る。
「私は自宅に帰る。お前が縫え」
「やぶさかではありませんが。残念ながら、今は裁縫道具を持参しておりませんので」
 ツォンが片眉を上げて見せた。部下は目礼して、その場をはずれる。
「それに私が組織を追います」
「お前がわざわざ行くのか」
「はい、殺してきます。あなたは裁縫のプロに任せますよ」
 ルーファウスは己の状態を客観的に見まわす。四肢のふるえは止まらず、体温を失っていくばかりだ。おそらく顔色は相当に悪いだろう。意識はしっかりしているものの、先程から頻脈が続き、肩で息をしている。ヒーリンロッジまでの荒々しい道のりを二時間、ルーファウスは耐えられる気がしないと思った。
 何よりも雪白のスーツは血を吸って、しとどにぬれている。こんな姿をエアリスに見せるわけにはいかなかった。
「私は帰りたいのだがなあ」
 弱音をもらすあたり、意識もおかしいのかもしれない。タークス主任も訝しく思ったのだろう。主の様子を慎重にうかがっている。
「そんなにご自宅が恋しいのですか」
「おかしいか」
「ええ、意外です。メテオショック以前のあなたなら、ご在宅だったことなどほとんどありませんでしたから。それにミッドガルと違って、何もないでしょう」
 あの山は、とツォンが珍しく私見を挟む。ルーファウスは曖昧に頷いた。
「そうでもないぞ。今日はな、ブロードビーンソースのニョッキを食べるはずだった」
「社長が調理をなさるとは聞いていましたが、ずいぶんと庶民的ですね」
「まあな。たまに塩と砂糖を間違える。生煮えだったこともある。だが、できたての料理というのは、いいものだな」
 ルーファウスはキッチンに立つ妻の、楽しげな鼻歌を思いだしながら目笑した。


 医療用ベッドに上体を預けたまま、ルーファウスは乳緑色のなめらかな舌ざわりを想像した。食べることが叶わなかった夕食を惜しむ。
 こめかみを揉みながら、彼は眉間にしわをよせる。この感覚をルーファウスは知っている。薬のカクテルがもたらすグロッギーだ。ルーファウスはひどい顔を――縫合したばかりの傷がなければ――身体ごと、まずは冷たいシャワーで洗い流したかった。
 携帯端末を手にしたまま逡巡していたルーファウスが、ようやく通話ボタンを押す。電話一本かけるのに、これほど尻ごみしたことはなかった。
「ルーファウス、怪我、だいじょうぶなの」
 コール音はたったの二回、まだ心の準備ができないうちから彼女の声が聞こえて、ルーファウスの心臓が跳ね上がった。まったく、と彼が苦笑をする。エアリスと出会ってからというものの、ルーファウスは幾度となく己の情けない部分を突きつけられてきた。
「何で笑うの。もう、何て人」
 切羽つまっていた声は尖り、そして。
「生きてるのね」
 エアリスの泣き嗄れていた声が、涙で湿り気を帯びていく。きっと腫れているに違いない目元を撫でてやりたかったが、手を伸ばしたところで届くはずもない。ルーファウスはもどかしさに苛立つ。
「エアリス。もう一人では泣くな」
「だいじょうぶ。一人じゃないから」
「どういうことだ」
 ルーファウスはむっとして、耳を澄ます。何かが低く駆動する音と、砂利を弾くような音。どうやら車中のようだ。彼は額を押さえた。エアリスが一人ではないということは、選択肢は二つだ。無論、ダークスターでは運転ができない。
「エヴァンがなぜそこにいる。そもそも、お前は今どこにいる」
「分からない。そっち、向かってるんだけど。ね、ルーファウス、今、どこ。エッジであってるよね。どこの病院なの」
 エアリスの声が再び潤む。
「なあ、エアリス。言い直すぞ。私以外の男の横で、泣くな」
「無茶、言わないで。だって、あなた、わたしの横にいてくれないじゃない。どこにいるの」
 懸命に嗚咽をこらえる彼女が、いじらしかった。そのかれんさがルーファウスのじくじくと痛む胸のうちに、とどめを刺す。今すぐ抱きよせたい衝動に駆られたのは、彼女のためか、それとも己のためか。
 ルーファウスは前髪に指をくぐらせる。冷静さを欠いていることに気がついて、彼は自嘲した。
「分かった。今、言う」
 ルーファウスは病院の番地と部屋番号を伝えながら、髪を掻き上げた。昨日の整髪料が残ったままのそれは指通りが悪い。エヴァンも来るなら警護に話を通しておかねばと考えたところで、身なりを清潔にすることが先かと彼は思い直す。シャワーは無理でも、せめて顔くらいは洗いたい。彼女の心労を助長させるような顔など見せたくはなかった。彼は努めて沈着を装う。だが。
 ここぞというときルーファウスは、父親の前では男の子だった。そして好いた女の前では、ただの男でしかいられないようだ。
「早く来い、エアリス」
 彼女を呼ぶ声は、期待に満ちて、ひどく掠れていた。


 エアリスが病室に入ると、ルーファウスはすでにベッドのリクライニングを起こした状態で待っていた。顔色がすぐれないが、気力はあるようだ。彼はいつもの調子で、そう睨むな、と言った。
「怒っているのか、朝帰りの夫を」
「まだ、帰って来てないでしょ。ここ、家じゃないよ」
 エアリスはそっとベッドに腰かける。睨んでいるわけではない。そうやって力を入れていなければ、安堵でくずおれてしまいそうだった。
 仕方なしに鋭くなる目元と、ハンカチでこすりすぎた鼻は真赤だった。彼女は化粧で誤魔化そうとしたが、一睡もできなかったこともあって肌のコンディションは最悪だった。その上、エッジへ向かう車中――電話ごしとはいえ――ようやく彼の無事を確信して、エアリスの涙腺がまたゆるんでしまった。ルーファウスには泣くなと言われたが、どうにも止めるすべがなかったのだ。
「浮気かと思ったの」
 軽口を言って、彼女は笑おうとした。失敗した。きっとぐちゃぐちゃの顔をしている。だがエアリスはルーファウスから目が離せなかった。青色の双眸がまたたきをし、彼女を見つめ返している。それが奇跡に近しいことのように思えた。
「何だ。私は信用がないな」
「だって。ルーファウスだって男の人だし、その、いろいろあるでしょ。でもね、こんなことなら、浮気のほうがよかった」
 エアリスは腹部の上で組まれている彼の手に、自身のそれを重ねる。ルーファウスの豊かな睫毛がぴくりと動いた。
「商議の席など久しぶりで、調子に乗った。少し煽りすぎたようだな。ディーは無事か」
 エアリスは頷いた。彼はほっと吐息をつく。
「あのね、マテリア、使ったから。あの子、あなたに遠慮して、マテリア使おうとしなかったから、わたしがお願いしたの。ね、ルーファウス、あなたも」
「ディーには悪いことをした。だが、私は人工マテリアは使わない」
 ルーファウスは口を閉ざした。頑固ね、と口を尖らせるものの、エアリスは彼が簡単には頷かないことを知っていた。それがルーファウスのポリシーだった。第三者が挫いていいものではない。けれど、とエアリスは項垂れる。回復マテリアに頼れば、銃創などすぐに癒えるに違いない。ルーファウスが痛い思いをするのがいやだった。彼を傷つけるものが疎ましかった。彼にはどのようなことをしてでも、生きていてほしかった。
 だがルーファウスは玉座に座を占めるだけの生き方を、よしとはしない。すっと引き下げた彼女の手を、今度はルーファウスに捉えられた。
「浮気を疑がわれるような夫で、意固地な男だ。実家に還りたくなったか」
「こんな危なっかしい人放って、どこへも行けません。わたし、まだ、還りたくなんてない」
 エアリスのきつく結ばれたくちびるが、わなないている。ルーファウスは皮肉げな微笑を消した。
「お前が来るまで、考えていた」
 静かに口を開いたあと、ルーファウスはその続きを何やら言いあぐねている。エアリスの手首を掴む手が、じっとりと汗ばんでいる。
「なぜお前を、わざわざ血生臭い男のそばによこしたのかと」
「それなら、わたしだってちょっとくらい、慣れてる。場数、踏んできたつもり」
「スラムの喧嘩やモンスター相手の戦闘とは、わけが違う。私のまわりにある暴力はな」
「それは」
 エアリスは口ごもる。彼を痛めつける暴力は、個々の諍いといった範疇に収まるものではない。政治的な謀略であったり、横行するテロリズムであったり。それらは彼の与り知らぬところで画策され、ある日突然にこぶしを振りかざしてくるものだった。
「いい武器をチョイスしようが、それを使いこなそうとトレーニングしようが、結局このざまだ」
 ルーファウスは自嘲する。エアリスはぞっとした。左脇腹の傷が内側にずれていたら。あと数一〇センチメートル上だったら。今回はわずかのタイミングで、彼は助かった。だが、次は。
 明日が来るとはかぎらないのは、何もエアリスだけではない。術着からのぞく、薬液の染みた包帯が、今、まざまざと彼女にそれを知らしめた。
「なるほどと思ったよ。神羅の、私の無残な死を見せるために、お前はここにいるのではないかと」
 え、と顔を上げたエアリスの、全身がいっきに粟立った。
「お前に報復を遂げさせてやろうという、星の計らいかとな」
 寒気が止まらない。思わず腕組みするようにして己を抱き締めたかったが、腕は強張って自由が利かない。彼女はまばたきすらもできないまま、ルーファウスを凝視する。
「それとも、あれか」
「ね、ルーファウス」
「お前への褒美ではなく、私への教戒なのかとも思った」
「ルーファウス、やめて。お願い」
「私に大切なものを与え、私を優しさでほだし、お前を泣かせて私を傷つけ、いつか私から奪うことで、私に喪失を知らしめしたいのかと」
 人でなし。エアリスはルーファウスのことを、初めてそう思った。
 彼の告白が、今は苛立しい。片恋でいいと思っていた。そうでなければならなかった。だが、今、確かにルーファウスは愛情の片鱗をあらわにした。いずれ消える思念体の恋だけれど、この一瞬だけは身に余る歓喜に、エアリスはうっとりとひたってみたかった。それなのに、と彼女はルーファウスを見上げる。愛念がこもった言葉で、彼はエアリスの負の感情を煽る。
「顔も知らない人間から、神羅が奪ってきたものを思い知れと。この生活が、やがて星からの戒めになるのかと。私は」
「やめて」
 エアリスは甲高い声を上げる。ルーファウスは動じない。傷をかばいながら起き上がり、彼女と向きあう。
 エアリスにはルーファウスの血肉を代償にしてまで叶えたいことなど、何もない。そんなことも推量できないルーファウスと、傷を負ったばかりの彼を憂慮させているエアリス自身が腹立たしかった。彼女は愕然とした。粟立つ肌の、ふるえる身体の、その原因をエアリスは知っていた。怒りだ。
 それは生前、面にだすことのなかった感情だった。まるで喜怒哀楽の一角が欠けた人間のように、うまくコントロールできていたはずだった。だというのに、彼と暮らすようになってから、ルーファウスはエアリスからそれを少しずつ引きだした。最初は取るに足らない苛立ちからだった。
 生活能力の低いルーファウスは、ものを片づけることをしなかった。
 服は脱ぎっ放し、ベッドメーキングもしない。ヒエラルヒーのてっぺんにいる人はこれだから、と嫌気の差した彼女も、しかし見方をすぐに改めた。ルーファウスのまわりには、彼の日常に支障がないよう備えることで生計を立てている人々がいるのだ。ミッドガルの栄華の盛りがすぎた今でも、それは変わらない。むしろこんな時世だからこそ、仕事にありつけることは僥倖だった。彼女はルーファウスのスーツの手入れをしながら、いちいち目角を立てることはやめた。彼に生活の面倒を見てもらっている以上、エアリスもその一端を担うことにした。せわしく動きまわる彼女に何を思ったのか、いつの間にやらルーファウスは革靴の磨き方を覚えていた。一日の終わりに、ぴかぴかに揃えられた靴がある。エアリスは当初の嫌気など、まるで思いださなくなっていた。
 ルーファウスの話術は独特だった。
 人心掌握のための話の技巧やくだくだしい話し方が、癪に障った時期もあった。それらが彼を取り巻く環境で、小さなルーファウスが己の心身を守るために身につけた処世術だと察してからは、エアリスは目を瞑ることにした。今でも彼はエアリスをからかうときには、勿体ぶった口調を使う。軽口ならまだいい。ただし大事なこと話しあうさいには、駆け引きめいた言い方はやめてほしいと、エアリスはきちんと伝えている。ルーファウスは神妙に頷いたものの、実際は難題だったかもしれない。
 何せ話術は彼の大切な武器の一つだ。それを取り上げられたルーファウスの、飾らない言葉は――エアリスが照れてしまうほど――子供のように真直ぐだった。だが彼のアイロニーは以前と変わりない。辛辣すぎて笑ってしまうくらいには、エアリスも慣れてしまった。
 日々のいらいらは、彼と打ちとけていくうち、じかにルーファウスへとぶつけるようになった。彼はエアリスの鬱憤を笑ってかわしたかと思えば、ときどきは真面目に受け止めた。遠慮がちに訴えていたそれも、いつからかためらうことすら忘れた。ルーファウスの前では、いやな感情をごまかすことができなくなっていた。こんな風に、もっとどろどろとした負の感情を惹起する引き金になるとは、エアリスは思いもしなかったから。
 彼の鷹揚に甘えすぎたのかもしれない。エアリスは胸を押さえる。今、彼女の心のうちは、大雨のあとの川のようだ。エアリスはふるえ上がった。
「どうして、何でそんなこと、言うの。そんな言い方、するの」
「お前がいい女だからだ」
 だから星がお前を放っておかないのだろう、と彼は眉をひそめた。ルーファウスの青白い指先が、エアリスの頬の輪郭をつっとなぞる。不意にあふれた涙は、彼の指のあとをたどるようにしてこぼれた。
 セトラを星から絶やした神羅の業は、しかし彼のものではない。そして怒り方を思いだした今でも、エアリスが改めて神羅への厭悪をいだくことはなかった。あるのは、ルーファウスただ一人に向けた憤りだけだ。
「あなたはひどい」
 エアリスは再び声を荒げた。ルーファウスの手を振り払う。涙は止まらない。
「あなたが怪我して、嬉しいわけなんてない」
「エアリス」
「わたし、こんなこと、怒りたくなんてない。泣きたくもないのに」
 黒々とした濁流は、彼女の心底を荒々しくさらい、薄暗い思い出までをも浮き上がらせた。エアリスは目を固く瞑る。いやいやをするように首を振っても、否応なしに目蓋の裏へ映ずるのは幼いころの怒りの日々だった。
 小さなエアリスは、いつも怒っていた。明かりの乏しい研究所でも。どうしてそとにでられないの。どうしてご飯は不味いの。どうしてお母さんは痩せていくの。日の差すゲインズブールの庭でも。どうして神羅の人たち追いかけてくるの。どうしてお友達できないの。どうして変な声聞こえるの。
 どうして。どうして。どうして。
 怒ったところで何も変わらなかった。エアリスが怒ればイファルナが悲しみ、エアリスが泣けばエルミナも泣いた。彼女の負の感情は、大切な人をただ傷つけるだけだった。それを目の当たりにして、エアリスもまた傷ついた。負に負を重ねるだけで何もいいことなどないのだと、幼心に達観した。それ以来エアリスは、人前で怒りを見せないと決めたのだった。
 負の感情は、発し散らす場所をどこにも持たないまま、彼女は己の奥深くにしまうしかなかった。そうして、そんなものなどなかったかのように明るくふるまう。いつからか、エアリスはそうすることに慣れた。そのはずだった。
「ずっと、忘れてたのに。あなたのせいだよ」
 エアリスは呻くように言った。
「忘れていたわけではないだろう。お前は、ただ見ないふりをしていただけだ」
 ルーファウスが図星を指す。まったく彼はずけずけと遠慮のない人だと、エアリスは嘆く。
「だったら、見ないふり、していたかった。あなたも、気づかないふり、してほしかった」
「できない。泣かれると困るが、怒っているお前はなかなかに見ものだからな」
 睨まれても、手を払い除けられても、彼は怯まない。そうしてルーファウスは彼女の柔い部分にふれ、エアリスの奥底を暴いていく。そのたびにきらきらと、何か光のようなものが彼女のうちからこぼれていく。
「怒られて喜ぶなんて、変な人」
「私を怒鳴りつける人間など、お前以外にはもうどこにもいないからな。お前も、相手がいなければ怒ることもできないだろう。気のすむまで、怒れ」
「だって、弱くなる」
「怒りは溜めるな。溜めて自滅した男を、私は昨日見たばかりだ」
「でも、怖い」
 エアリスは幼いエアリスを思う。怒りを引き起していたのは悲しみで、怒りを押しとどめていたのは怯えだった。彼女の母親たちがそうだったように、ルーファウスのことも傷つけてしまうかもしれない。いくら彼がタフな精神力をしていても、今は平然としていても、そんなものを向けられていて楽しいはずがない。
 それを彼に訴えたかった。ルーファウスを傷つけたくはないのだと、それが怖いのだと知ってほしかった。いつも誰かに負の感情を突きつけられてきた彼に、そんなことはしたくないのだと。エアリスは懸命にくちびるをぱくぱくと動かすが、だが途中から嗚咽にのまれて、何を言っているのか彼女自身ですら聞き取れない。これでは大切なことが彼には伝わらない。
 ルーファウスは右腕を動かす。子供のように真赤で小さな頬に、彼は手のひらを押し当てた。
「お前が弱くても困る人間は、ここにはいない」
 彼女の滲む視界にあるのは、ルーファウスの真摯な眼差だった。長く、本当に長くこらえてきた彼女の負の感情が、言葉ではなく涙に昇華する。
「いないんだ、エアリス」
 また光がこぼれる。光は、幼いエアリスが心の奥底に追いやった感情のピースだった。かたくなな彼女が、誰にも見せなかった仄暗い部分だ。
 エアリスは驚いた。醜さを厭ってきたというのに、久方ぶりに目の当たりにしたそれは、生き生きと輝いている。それもそのはずだ。怒りは、いきものには不可欠な要素だった。
 今、これから、エアリスはようやく欠けるもののないいきものになれるのではないか。
「そんなこと、言わないで。わたし、甘えちゃうじゃない」
 エアリスは欠けていた最後のピースが嵌まる感覚に、眩暈を覚えた。ルーファウスほどに強引で不躾な人でなければ、取り戻せなかったに違いない。
 何て人だろう。こみ上げるいとおしさに、エアリスはまた鼻がつんと痛んだ。
「甘やかしあいをしようと言いだしたのは、お前だ」
「わたしばっかりじゃあ、不公平だよ」
「そうでもないぞ」
 ルーファウスはシーツで彼女の頬を拭う。赤い鼻頭をつまんでから、彼は苦笑した。
「叱られなければ、分からないこともある。星の采配だと、わずかでもそんなことを思った私が、ばかだった」
「本当にばか」
「私が傷つけば、お前がつらい思いをするだけだというのにな」
 ルーファウスがさも当然のことのように言う。エアリスはさらに赤くなる。自惚れないで、とささやかに抵抗してみせたかったが、結局彼女は何一つ言い返せなかった。
「今回は私がしくじっただけだ。だがな、エアリス。今後もこんなことがあるだろう。ものごとがすべて順調に運ぶとはかぎらない。お前はそれでも私のそばにいられるか」
 エアリスは素直にうんと言えなかった。項垂れると、否応にも包帯が目につく。
「どうして、あなたがこんな目にあうの。あわなきゃ、いけないの」
 血色の悪い肌を睨み、口を開けば、また怒気がわだかまる。
 傷は、ガーゼの下の真新しいそれだけではない。彼には古い傷痕がいくつかあった。エアリスは恐々と手を伸ばした。人差指と中指で下肋部にふれる。ルーファウスはわずかに身じろぎしたものの、彼女の好きなようにさせた。
 急所に傷がないのは、彼をかばって死んだいのちがあったのかもしれない。それとも痛めつけこそすれど、ルーファウスは生かしておかなければ価値がなかったのだろうか。
 エアリスは彼の胸の上でこぶしを握る。みちみち。爪が手のひらに食いこむが、この程度の痛みなどどうということはないと彼女は思った。
「私が神羅だからだろう」
「それは分かってる。でも、今のカンパニー、前ほど大きくないよ」
 それを言ってくれるな、とルーファウスがおかしそうに言う。彼の咽喉を鳴らす音が、くつくつとこぶしに響いた。
「言い直そうか。私の姓が神羅だからだ」
 さらに強張る彼女の手に手をおおいかぶせてから、ルーファウスは丁寧にときほぐす。それから彼は、しなやかに伸びきったエアリスの五指に五指を絡めた。
 政治的な謀略も、横行するテロリズムも、ターゲットは会社ではなく個人だとルーファウスは言う。だが個人が受け止めるには大きすぎる憎悪の念だ。
 これもまた彼の父親の負の遺産の一つだ。が、それすらもルーファウスは継ぐ気でいることを、彼女も勿論知っている。それでも。
「それも、分かってる、けど」
 こんなあたたかな手をした人に向けていいのものではないと、エアリスは思う。歯痒くて仕方がなかった。
「あなたのお父さんがしてきたことと、あなたのしようとしてること、全然違う」
「被害者のお前に言われると、心強いが。それも大方はお前の欲目だろう。私は善人ではない。それに世間の総意というのものはな、エアリス、かたくなだ。神羅家とは、もうそれだけで概念化している。好き勝手な不平をぶつけてもいい相手としてな」
 ルーファウスは軽く吐息をつく。
「生まれたときからずっとだ。死ぬまで変わらないだろう」
 淡々と己の生家を語る彼は、いったい何を思っているのだろう。エアリスにルーファウスの真意は図ることができない。それならばいっそのこと、と彼女は自棄を起こす。
「ああ、もう。わたし、ルーファウスのこと、お婿さんにもらえばよかった」
「ルーファウス・ゲインズブールか」
「そう。似あってるよ」
「そうだな、悪くない。だが私のやりたいことは、神羅でなさなければ意味がない。エアリス、泣くな、ほら」
 分かっている、と彼女は呟いた。彼が『ルーファウス神羅』以外の何者にもなる気などないことを。ルーファウスは『神羅社長の大冒険』のゴールを決めていて、たとえばまわり道を探したり脇道に逸れたり、ときどき迷ったとしても、どのような道をたどっても行先だけは違えないのだと。だからこそ、彼のこの先の平坦でない道筋を思うと、涙は止められない。
「ルーファウスのせいだよ。一人で泣けなくなったの。あなたのせい」
 エアリスはルーファウスを一心に見上げた。
「わたし、悔しい」
 彼女の鬱憤はまだくすぶっていて、ほかの苛立ちをも誘引する。負の感情は連鎖する。ルーファウスに怪我を負わせた、MTR社にも。口さがない世間にも、不平不満ばかりもらす人々にも、彼女の憤りは飛び火した。
「ね、ルーファウス。わたし、悔しいよ」
 メテオショックの前後の、彼の尽力をエアリスは知っている。今もそれは続いている。この先も、ずっと。
「いいことだって、してきたでしょ」
「悪いことのほうが、印象に残りやすい」
「もう。ああ言えば、こう言う。本当、あなたって、いつもそう」
「お前がつまらないことを言うからだ」
 ルーファウスは一度強く握ってから、ゆっくりと手を離した。彼のぬくもりを残したままのそれを、エアリスは胸の前で組む。
「会社を継いで、そろそろ二年半になるか。正直、継いだタイミングは悪かったとは思う。しかも実力とは関係のない、あの社長の椅子は拾いものだ。だが、それもまた私の運なのだろう。まったく、一からつくりあげるより手間だな」
 それでも神羅でなければ、できないこともある。ルーファウスはそう言った。今はまだ、ただのストレスの捌け口でも必要なのだと。そうでなければ、弱者は日々の精神的緊張につぶされる。
 では疲弊するルーファウスは、いったい何が支えてくれるのだろう。矜持や負けん気だけで、この先も彼は一人で立っていられるのだろうか。万が一、それらが挫けたとき、ルーファウスはどうなるのだろう。エアリスは眉根をよせる。
「セフィロスに邪魔をされてそれどころではなかったが、私の本業は会社の代表で、経営責任者だ。私はやっと自身の仕事を始めたところだ」
 嘆くにはまだ早い、と電灯の白昼色のもとで彼は薄づきなくちびるを吊り上げた。エアリスは驚く。どれほど凄絶な人生を送れば、こんな風にあでやかに笑えるのだろう。
「私の振るった手腕が結果を残すのは、これからだぞ、エアリス。まあ、見ていろ」
 エアリスは見惚れた。明快に言い切るルーファウスは、律々しかった。
「そんなことよりだ」
 ルーファウスは首を傾げるようにして、彼女をのぞきこむ。彼は少し困ったような顔をしていた。
「エアリス。今はもっと違う言葉が聞きたい。心配したとか、無事でよかったとか」
 エアリスはそっと彼の左胸に手をそえる。あたたかい。いっきに起こり立つ感情が、涙に変わる。心音を手のひらで聞くだけではもの足らずに、今度は耳を心臓に押し当てた。ルーファウスの腕がゆっくりと彼女の腰にわまる。
「ルーファウス」
「何だ」
「ルーファウス」
 翠眼のふちには涙が溜まり、こぼれてはまたみるみる溜まる。エアリスは己の激情を持て余して、彼の術着にすがりつく。喜びで苦しい。
「生きていてくれて、嬉しい」
 声にならない声で、彼女は恋しい男にそう訴えた。
 エアリスは腹を据える。彼女の余剰のいのち。それはセトラに課せられた何かしらの務めを果たすために、星から与えられたものだろう。勿論、忘れてはいない。
 だがエアリスの人生は、エアリスのものだ。たとえそれが使命を帯びたものでも、仮初であろうとも。今になって、聖具室でルーファウスにかけられた言葉を彼女は噛み締める。
「生前にできなかったことを叶えるチャンスだと思え」
 個人の欲求を追求しろと、彼は言った。あの日から『したいことリスト』のノートに、エアリスは思いつくかぎりの願望を綴った。ID、きれいな服を着る、結婚、料理の腕を磨く、そして犬と暮らす。ほかにも日に日に書き足されていく、大小さまざまの願い。夢のなかですら叶えられなかった望みばかり。そのはずだった。だというのに、チャンスは早々に訪れて、彼女の憧憬がどんどんと現実のものになっていく。
 耳と頬で彼の体温を感じながら、エアリスはノートの二ページ目にある一文を思いだす。
 もう一度、恋をしたい。
 まさか結婚よりあとになるとは考えもしなかったが、それも叶った。だがエアリスは、恋をした、その先のことをまだ何も知らない。ちくちくと胸を刺す痛みは、後悔だった。
 一人目は、明るい人だった。だが彼女は明るさのつくる影に気づきながら、彼の悲しい背中を宥めることしかできなかった。
 二人目は、優しい人だった。繊細な彼を助けたかったのに、彼女の行動はあだになった。ずいぶんと痛ましい思いをさせた。
 三人目は、変な人だ。そして最後のチャンスをくれたのが、彼だった。
 ルーファウスはエアリスから醜い感情までをも引きずりだした、唯一の男。
 それを是と言って、受け止めてくれる夫。
 喜怒哀楽、何一つ欠けることのない自然体に生まれ変わらせてくれた恩人。
 エアリスは泣き声を咽喉につまらせた。彼女は気づいてしまった。今度ばかりは片恋で終わらせたくない。エアリスが恋をするルーファウスと結ばれたい。恋をし、恋を結んだその先にある世界を、彼と二人で見てみたいのだと。
 そうしてルーファウスがこの先つつがなく生きられるよう、エアリスは彼女の人生を捧げる。
 彼は果敢の人だ。挑戦ばかりの生き方も、ルーファウスにしてみれば楽しいことなのだろう。だが走り通しでは疲れてしまう。そしてエアリスはルーファウスの人生をともに走り抜けることができない。ならばせめて、ふと足を止めたときに彼がきちんと憩えるものを残したい。ルーファウスの見る情景が殺伐とモノクロームにならないよう、色取りをそえたい。原色でぎらぎらした色あいも面白いかもしれない。パステルの柔らかな色調もいいだろう。これからは彼に謝意を果たすのではなく、恋というわがままな気持ちでつくしたかった。
 だがエアリスは彼のために生きるのではない。彼を生かし、幸せにしたいと思う自身の勝手のために生きるのだ。それは何て贅沢な生き方なのだろう。
「ありがとう、ルーファウス」
 エアリスは彼女自身の人生に、もう遠慮はしない。
 別れのつらさより、また後悔だけを残して消えること。今はそれが許せなかった。彼女の選択が、この先どう影響をおよぼすかは分からない。いかなる結果にもたじろがないよう、エアリスは今、心を決めたのだった。
「わたし、あなたのそばにいたいです」
 消毒用の薬剤と、香水のラストノートをすぎた余香につつまれる。エアリスは晴れやかな顔で泣きくずれた。彼の腕が一瞬強張る。
「心配をかけた。すまなかった」
 彼女をたどたどしく抱きよせながら、ルーファウスはあえぐように言った。


「エヴァン、今日はありがとう」
 ヒーリンロッジへと帰る車中、エアリスはようやく一息つくことができた。
 MTR社から始まった一連の問題はまだ片づいてはいない。残党処理がすむまで、念のためルーファウスはほかの拠点へ移ることになった。またしばらく会えない彼の身を、エアリスはヒーリンロッジで案じることになるだろう。昨晩からの疲労もまだ拭えない。それでも今朝方の、エアリスの心の暗雲は、にわかに晴れだした。ルーファウスはエアリスに差す、一条の光だった。
 ほっとしたのもつかの間、エアリスの平常心が羞恥心を連れて戻ってきた。ああ、とエアリスは呻く。病室にはエヴァンもいたというのに、彼女はかわまず取り乱していた気がする。それはもう、しっちゃかめっちゃかに。彼女は両手で口元をおおった。
「やだなあ、もう。わたしったら、変なとこばっかり見せちゃって。ね、エヴァン、忘れてくれないかな」
「忘れられないよ、あれは。俺さ、夫婦喧嘩なんて初めて見たもん」
「喧嘩なのかな。わたし、一方的に怒ってただけだもの」
「あのルーファウス神羅に、正面切って怒鳴れるのがすごい。もう、衝撃」
 エアリスは次に耳をふさぎたくなった。うう、とまた変な声で唸りだした義姉を、エヴァンが笑った。
「忘れる気も、ないかな」
 軽くステアリングホイールを切りながら、エヴァンはぽつりと言った。窪地を避けると、フロントグリルを再び南方の山地へと向ける。荒地の往来も慣れたようだ。最短距離のドライブウェー――とはいっても、黄灰色のひび割れた広野に轍があるだけだ――を見つけたのだと、エヴァンから自慢げに聞いたことがある。
「俺さ、初めてかも。普通に見えたんだよな、社長のこと」
 エアリスは驚いた。彼を振り仰ぐ。エヴァンはインストルメントパネルにやった目を、前方に戻した。
「あの人でも、奥さんに叱られたら慌てるんだな。ちょっと同情した」
 しらばく考えてから、エヴァンはそんなことを言った。
「二人とも言いたいこと言ってさ、すぐ仲直りできたみたいだし。夫婦喧嘩だよ、あれ。ちゃんとした」
 ダークスターも食わないのではないかとからかわれて、エアリスは赤くなった。それでも彼女は嬉しかった。エヴァンが彼の兄の、神羅社長とは違う顔に気づいたことも。ルーファウスがそれを弟の前で隠さなかったことも。エアリスはへとへとに疲れたが、それ以上の価値は得られたわけだ。
 ほっと息をつきながら、彼女はシートの背面に深くもたれた。
「そっか。それならぱんぱんに腫らした顔、見せた甲斐、あったかな」
「でも奥さん泣かすのは、やっぱりだめだ」
 エヴァンはむっとしながら言った。進行方向を見据えるエヴァンの横顔は、険を含むとルーファウスに似ている。これは二人には秘密だ。言えば、彼らは揃って眉間の同じところにしわを刻んで、ぶすっとするのだろう。くすくすとエアリスは笑った。
「エヴァンも、優しい夫さんになれるよ、きっと」
「も」
「そう、あなたも」
 エヴァンは困った顔をしている。きっと彼は今、異母兄の優しい部分を探しているに違いない。しばらく黙っていたが、結局ルーファウスの情の細やかな部分は見つけられなかったようだ。エヴァンは訝しげに問いかける。
「義姉さんの男の趣味って、昔からあんななの」
 あんな呼ばわりされた夫を、エアリスはおかしく思う。やはりルーファウスは万人に理解されるには、気難しい人だった。もどかしく思う気持ちは、勿論ある。それでもエアリスは不思議とエヴァンには苛立たなかった。彼はきちんとルーファウスを見ようとしている。
「ルーファウスには内緒にしてね。それがね、全然、違うの」
 エヴァンが吃驚してエアリスを見た。轍からはずれた車体ががくんとゆれる。二人の悲鳴が重なった。エヴァンはステアリングホイールにしがみついて、額の汗を拭う。
「義姉さんさ、俺にあんまり秘密教えないでよ。しかもそんなの、胃が痛い」
 エアリスはきょとんとしたあと、顔を綻ばせて笑った。つられてエヴァンも一笑する。
 でも、とエアリスは考え直す。なぜ彼女が恋をする男性はいちように。
「皆、戦う男の人なのかなあ」
 呟きはエンジン音に掻き消える。エアリスは車塵にけぶるサイドミラーに目をやった。ミッドガルとエッジ。父子がそれぞれにつくりあげた街が並んでいる。エッジのアーバンデザインは着々と進んでいるようだ。新興都市はいずれ魔晄都市をしのぐ人口の集中地域になるのだろう。それでも彼は戦うことをやめない。ルーファウスの冒険の終わりは、さらにその先にある。
 エアリスは初めての抱擁のにおいを思いだす。
 疲れた戦士がいつ戻ってきてもいいように。ルーファウスの日常が昨夕の食事の支度から続けられるよう、エアリスはブロードビーンの用意をしておこうと思った。


■END■
(怒りの烙印)

20210106