祭子
2022-07-18 13:18:37
20973文字
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■SET EMOTION ON FIRE■

∠[ν]-εγλ0010/04
異母弟のとある一言がルーファウスにわだかまりを残します。解消すべく妻をデートに誘います。
※pixiv掲載テキスト(20201120初出)

■SET EMOTION ON FIRE■
∠[ν]-εγλ0010/04


「なあ、エアリス」
 ルーファウスの妻がトレイを持ってリビングへと戻った。グリーンアップルに似た香りを連れている。エアリスはハミングをやめて、小首を傾げた。機嫌がいいのは、彼女がここへ来て初めての来客を迎えたからか。
 エヴァン・タウンゼントが帰ったあとのプライベートフロアは、いつにも増して侘しい。だがこの気配がルーファウスは嫌いではない。田舎暮らしもずいぶんと馴染んだものだ。
「お前はチョコボに乗りたいか」
「何。突然どうしたの。ルーファウス、ひょっとしてチョコボ、好きなの」
 エアリスは目をしばたたかせたあと、意外、と言った。センターテーブル脇に膝をついて、茶器を並べる。半ば伏せられた目、扇状に広がる長い睫毛をルーファウスは見下ろした。
「ね、エヴァンと何かあったの」
 五人掛の中央で足を組む彼の前に、ティーカップが置かれた。空の胃に優しいメディカルハーブだった。
「分かるのか」
「ルーファウス、あの子帰ってから、ちょっとへこんでる」
 一七時の夕日はまだあざやかな橙色を帯びきっていない。それは今の彼の心情のように曖昧な色味だと、ルーファウスは思う。
 かわいそうだ、とエヴァンは言った。エアリスをかわいそうだと。
 ルーファウスはハーブティーを啜る。現状を見れば大概の人間がそう捉えるのだろうということは、理解ができる。善性の女が世間の不興を買う会社の、その代表に嫁いだということも。まだうら若く話し好きだというのに、繁華な街から離れて暮らさざるを得ないことも。エヴァンのそれは害心のない、とても素直な所感だとルーファウスは思う。だが。
 エヴァンは卑屈なところはあるが、中流階級育ちにありがちのニュートラルな人間だ。善悪のどちらにも降り切ることができない。確固たる信念がないままどちらか――この場合、善意――にふらっと傾いたとき、主観に偏るのは仕方がないことだ。しかもエヴァンにはエアリスの特殊な事情を伏せている。神羅がさんざんに『古代種』を広報に使ったので、名称くらいなら聞き齧っているに違いない。だがこれほど身近にいるとは、お伽噺のような種族が実在することすら思いつきもしないだろう。いっさいの情報を与えないまま、一般人に客観性と想像力を逞しくしろと言っても、土台無理な話だ。だがエヴァンの独善が、ルーファウスには煩わしかった。
 彼は足組みをとく。となりに座ったエアリスは、自身のカップに息を吹きかけている。
「お前のことを、あいつは囚われのお姫様か何かと勘違いしているらしい」
 成行きとはいえ、エアリスはルーファウスの意志で保護をした。不自由はないように計らっているつもりだ。それができているという自負もあった。だというのに、エヴァンの憐憫が彼の心底におどんでいる。
 ルーファウスはもう一口飲んでから、カップをソーサーに戻した。エアリスが何やら含み笑っている。
「じゃあ、悪の魔王様があなたってことね」
「だろうな」
「ちょっと違うかな、エヴァン君。ルーファウスは、王子様。しかもお姫様といっしょに囚われてる」
 ルーファウスは思わず頬をゆるめた。胃があたたかいのはハーブティーのおかげだろうか。
「けど、その王子様も、最近はちょこちょこおでかけ、してるから」
「仕事だ」
「分かってるけど。お姫様といたしましては、お留守番、ちょっと退屈です」
 エアリスはわざとくちびるを尖らせて見せる。ルーファウスはソファーにもたれる。と、へその上で五指を組みあわせた。
「チョコボファームへデートを勧められた。お姫様はチョコボは好きか」
「なるほど、そういうこと。好きだけど、乗ったらだめでしょ、今のわたし」
 エアリスが残念がって言う。人差指で手の甲を打つ彼の脳裏に浮かぶのは、草原だ。頭絡や鞍具を着けたチョコボが一羽、ばたばたと暴れる様子はひどく奇異なことに違いない。
「だろうな」
「そもそも、ほら、乗れないだろうし」
 さらりと続けるエアリスがもの悲しかった。ルーファウスは口を噤む。彼女が思念体であることをつきつけたいわけではない。
「でもね、あなたが乗ってるとこ、見てみたい」
「そんなもの見てどうする」
「あなたがチョコボに振りまわされたり、慌てたりしてるとこ、見てみたいの」
 彼女の悪戯な眸が湯気の向こうにけぶっている。ルーファウスは自失しかけるのをかろうじて押しとどめる。だが溜息はこらえきれなかった。
「だって、ルーファウス、いつも落ち着いてるんだもの。変なところ、探してるんだけど」
「何を探しているのだ、お前は。恰好の悪い夫よりは、幾分ましだろう」
 そうだけど、と言いつつもエアリスは納得をしない。
「恰好悪いとこっていうより、かわいげ。ほら、怖いものとか、苦手なものとか」
「たとえば」
「そうね。キャロットのグラッセ、食べられないとか。でも、あなた、好き嫌いないでしょ。ないどころか、見ていて気持ちいいくらいよく食べるし」
「お前の失敗したオムレツでもな」
「あれは、薄焼き卵、ちょっと破れちゃっただけだもの。味、おかしくないから。もう」
 ルーファウスは黄色のぼろをまとった紡錘形を思いだした。そしてエアリスを見る。羞恥にほんのりと色づく頬が背けられる。かわいげとはこういう姿を指すのであれば、彼から同様のものを見つけることは難しいだろう。しかし、とルーファウスは思い直す。
「なあ、エアリス。お前は私がチョコボに乗れないと、決めつけているだろう」
 え、とエアリスは声を上げた。耳横から垂れる巻き髪が、首の動きにあわせてたわむ。
「あなた、車と船と飛行機、あるでしょ。すごく立派なの。わざわざ怪我しそうなの、乗らないのかと思って」
「あれはにおうしな」
「チョコボじゃだめか。うん、分かった。じゃあ、ほか探すね」
「探すな、そんなもの。だいたいチョコボに頼らなくとも、私はいつもお前に振りまわされてばかりいるが」
「もう、どこが。適当なことばっかり言うんだから」
「態度にださないだけだ」
 小指で横髪を払いながら、エアリスは睨むような目つきをする。ルーファウスは彼女のめまぐるしく変わる顔つきを見ることが、いつからか楽しみになっていた。
 ルーファウスは自己の情感を外形に表さない。本来なら吐息すらしれっと飲み下す。若年のころから溜息一つにしてもブラフをかけてきた。大人に交じるには、そうせざるを得なかったのだ。弱音のこもった息などつこうものなら、相手がつけ入る隙になりかねない。そうして脆弱を補い、気を張って生きているうちに、いつからか他者を惑わせるようなやり方が彼の常になっていた。それが近ごろおかしい。ルーファウスは彼女の前でこぼした溜息の回数を数えようとして、諦めた。
 エアリスはカップを両手でかかえたまま、ルーファウスを覗きこむ。
「溜めこむの、あんまり身体によくないよ。ね、たまには、童心に返ってみれば。チョコボ乗って、ハンズアップして、思いきり叫んでみよう」
「遊園地の遊戯設備でもあるまいし。手を上げて、手綱はどうする」
「あ」
「私を落鳥させる気か。お前は意地が悪い。そもそもチョコボファームなどと言いだした、あいつのせいだな」
「エヴァン、なかなかやるね。あなたの今の顔、あの子に見せてあげたい」
 ルーファウスは眉間に深いしわを刻んでいる。翻弄される側にまわるなど、彼は考えたこともなかった。だがこれは仕方がない。いわゆる『一般人』との交流とは縁遠かったのだから、まだ――エアリスやジャッドもそうだ。彼女らの実直な――感覚が掴みきれていないだけだ。そんなことを思案しているうちに、はたと気づく。これでは言訳ではないか、と。ルーファウスは思わず片手で両眼をおおった。
 二人の足元に伏せていたダークスターが、おろおろと主を見上げている。異母弟が彼に弁明をさせることができたのは、一般人だからなのか、それとも神羅の血のせいなのか。どちらもいやだと思った。
 ふと彼は後者が気にかかった。ルーファウスとエヴァンは同じ男の遺伝子を継いでいる。エヴァンにわざわざ電話をかけた理由は、そこにある。
「お前はどう思う」
「どうって、エヴァンのこと」
 ルーファウスは頷く。そうね、と言いながら彼女はカップを置いた。
「捻くれてないルーファウスって、あんななのかな」
「捻くれ者でない私など、それはもう別人だ」
「ごめん、拗ねないで」
「拗ねてはいない」
 ルーファウスは憮然とした。エアリスがくすくすと薄い肩をゆらしている。
「冗談だってば。神羅の人にだけ、見えるよね、わたしのこと。ディーもね、神羅さんちの子だし。不思議」
 ダークスターを撫でながら彼女は言った。ルーファウスはエアリスの察しのよさに満足する。
「見えてたね。ね、エヴァンのこと、わざと呼んだの」
 ルーファウスは彼女の顔色をうかがう。と、慎重に頷いた。理由は二つあった。勿論、物的流通のことはただの口実だ。後期のモニタリングならともかく、初期のテスト運用に彼は素人を使わない。ルーファウスに見えるものが、エヴァンにも見えるものなのか。それを試すことが一つ目の理由だった。
 三月下旬に差しかかったあたりから、彼はことあるごとに人を呼んだ。以前、薬品倉庫に使っていた多目的ロッジを、社屋のロビーに変えた。ロッジ区画の――社内では正門と呼ばれている――入口近くにあるので、利便もよかった。そのなかに設えたレセプションルームで、ルーファウスはエアリスを彼のかたわらに控えさせて、相手の面識を得られないかと試みたのだ。ただ彼もまだ幽居中の身なので、呼びよせられる人物は神羅関係者にかぎられた。ヘッドハンティングに成功した幹部クラス、復職したタークス。出生地、年齢、経歴ともに多様な顔ぶれだ。分母はそう大きくはないが、サンプリングとしては悪くなかった。
 そのなかにはタークスオブタークスや、宝条研究所の燃える尾をした実験動物もいた。ヒーリンロッジに神羅が巣食っているといううわさを、どうやら聞きつけたらしい。大方WRO局長の差金だろう。彼らがロッジ区画周辺を嗅ぎまわっていたところをタークスが突き止めた。反対するタークスを押し切って、ルーファウスは彼らを直々に招いた。ちょうどいいと思った。神羅の闇の果てにいる男と、稀少な種族の獣。彼らならあるいはと思ったが、そうそううまくはいかなかった。
 誰も彼も、彼女の瑞々しい翠眼を見つめることが叶わなかったのだ。
「ディーのことがあってから、考えてはいた。そうだな」
 ルーファウスとダークスター、そしてエヴァン。エアリスを視認するのに必要なのは、今のところ神羅家の遺伝情報だ。思念体と神羅の関係は、いよいよその線が濃くなってきた。
 仮説を立証するには、父親の落し胤がもう少し必要だ。『怯え』と『期待』の消息はすでに掴んでいる。引きあわせてみる価値はあるか。ルーファウスは顎をつまむ。
「ほかの異母兄弟にも会ってみるか、エアリス」
 エアリスは黙っている。彼女が承諾するなら、すぐに手配はできる。彼が独り決めをしないのは、一度エアリスを傷つけたからだ。それも手ひどく。
 ヴィンセントとレッドXIII()は、エアリスが旧神羅ビルを出奔してからの知人に違いない。報告によれば、彼女たちが旅を連れあった期間は短かった。そしてエアリスは彼らと離れて旅を急いだ。だからその程度の、行きずりの縁なのだろうと、ルーファウスは当然のように思ったのだ。
 彼にしてみれば別段気にかけるべきことは一つもなかったのだ。そうしてセンターテーブルを境目にして彼女たちを対面させた。向かいあう。会う。そう思ったのも、ルーファウスだけだった。
 あのとき、エアリスの横顔を見て、ルーファウスはこの一連のやり方が間違っていたのだと気がついた。
 会うというのは、互いが互いを認識しあうことから始まる。一方的なそれが、エアリスに少しずつ傷をつけたのだ。役職候補はルーファウスとばかり握手をしたがる。タークスに復職した顔ぶれには、古代種の監視任務に就いていた者もいただろう。彼女には挨拶の一声もかからないままに面談は終わる。そして傷を抉ったのが彼らとの対面だった。
 ルーファウスは乾いた咽喉をハーブティーで潤す。カップを持つ手に、余計な力がこもる。
 近ごろは彼女の恩情にすっかり馴染んでしまって忘れがちになるが、本来ルーファウスに向けられるべきは優しさではない。怨憎だ。それができないエアリスならば、彼女の旅を助けた――とエアリスは思っているらしい。何せ彼女は土地勘もなければ、地図を読むことすらできなかったのだという――あの一行に、旅の同行者以上の感情をいだいたことだろう。そして彼らとの友好は、エアリスが一行から離脱してそれきりになった。叶うなら、じかに伝えたいことが山ほどあるに違いない。
 そんなことはよくよく考えてみれば明白ではないか。だというのに、ルーファウスは彼女に突きつけてしまったのだ。何人もの人間を使って、友人をも使って、エアリスが地上のいきものではないのだと。誰の目にも映らず、声は誰の耳にも届くことなく、誰かにふれることすら叶わない。彼女が恐れていたそれらを、改めて。
 エアリスの横顔が、忘れられない。
 ルーファウスは今まで我を立ててきた。それを悪いとも思わないし、改めるつもりもない。組織には統率力が必要だ。組織が巨大化するほどに、半ば強引なそれが。ただ麾下を引き離して走っていては、いずれ誰もついて来られなくなる。一人きりで走る社長に意味はあるのだろうか。
 ルーファウスはカップを飲み干した。珍しく音を立ててソーサーに戻す。エアリスが遠慮がちに口を開いた。
「それ、もう少しあとでも、いいかな」
 ルーファウスはほっとした。神羅の血統と死んだ古代種。采配を振る星の意図とは。このまま追及を続けて、謎をつまびらかにすべきだ。そうして不憫な彼女を生命のサイクルに戻してやらねばならないと、ルーファウスは考えていた。その半面、問題を先送りにしたい自身もいる。真実に近づけば近づくほど、この生活の破綻が早まる。それはルーファウスを迷わせた。
 エアリスは独走しがちな彼の枷になる。ルーファウスに足の止め方を教えることのできる彼女は、得難い人物だ。手放すのが惜しい。
「もうちょっと、エヴァンとなかよくなってから」
 もう一度、彼女は上目で伺いを立ててくる。ルーファウスは、そうするといい、とこたえた。
「私はエヴァンのせいで『へこんでいる』らしいというのに、お前は機嫌がいい。そんなに客が嬉しかったのか」
「それもあるけど」
 エアリスはパンプスを脱ぐ。と、ソファーの上に立てて揃えた両膝をかかえこんだ。
「あなた、家族って言ってくれたから。わたしのこと、そう言ってくれたでしょ。あの場しのぎの嘘でも、軽口でも、嬉しい」
 膝に頬を乗せて、彼を見上げるエアリスの口元は綻んでいる。気恥ずかしそうな様子が初々しい。
 婚姻を結んだ二人は紛れもなく家族だ。ID台帳もそれを証明している。だから嘘ではない。その一方で、彼には家族というシステムが分からなかった。父親と母親、そしてルーファウス。一家が家内に揃っていた時期は短い。顧みようにも、幼いルーファウスの残した記憶を手繰るには、遠い日のことすぎた。
「私たちは二人きりの家族だろう」
 言いながら、ルーファウスは戸惑った。この関係は、エアリスのために自ら用意したものだ。だがこれが正しいかたちでないことは重々承知している。彼女の望む家族ともほど遠いに違いない。それでも彼女は喜んでいる。
 制限のある生活のなかからささやかな幸福を見いだすエアリスが、あわれだった。これではかわいそうなどと言われても仕方がない。ルーファウスは自身の不甲斐なさに、苦笑するほかなかった。
「本気なの」
「努力はしている」
「怪しいなあ」
「なぜ」
「だって、ルーファウス、笑ってるんだもの。でもね、やっぱり嬉しい」
 エアリスは目を細める。それから頭を起こした。
「ね、エヴァンは」
「なぜあいつの名前がでてくる」
「だって、弟なんでしょ」
「半分な」
「ルーファウスが弟だって言うから、会ってみようかなって思ったのに」
「分かった。これから考える」
 ルーファウスは再三の吐息をついた。彼にやすやすと溜息をつかせるような家族は、今のところ一人で十分だ。
「エヴァンより、まずお前だ。お前の退屈しのぎを考えねばな」
「ね、ルーファウス」
「何だ」
「ありがとう」
 これが二つ目の理由で、本来の目的だ。エヴァンにも伝えた通り、エアリスの話相手がほしかった。
 彼女の言うように、体調が戻ってからルーファウスはでかけることが増えた。神羅の資産の選別にいよいよ着手するときが来たのだ。ヴィンセント・バレンタインとは密かにコネクションを断たないでいるのも、このためだった。あの男はルーファウスが生まれる前の神羅を知っている、貴重な情報源だ。ルーファウスはあの男から父親の時代の社史にない歴史を学び、そしてヴィンセントの機動力を活かして僻地の設備精査に一役買わせるつもりだった。否とは言わせない。タークスを辞職するのは死ぬときと決まっている。だとすればヴィンセントは半永久的に神羅の人間だ。ルーファウスは彼をこき使うつもりだった。
 ただルーファウスは彼の留守中のことをあぐねていた。彼の外出にはダークスターをともなう。となればエアリスはコテージだけでなく、この世界でただ一人きりになる。
 思わず眉をよせるルーファウスの横で、エアリスは足をくずして横座りをした。
「でもね、それはもう、いいの。退屈してたのはちょっと前まで。今はほら、お仕事あるし、お仕事の勉強もしなくちゃ。明るいうちは、きちんと働いて。それから」
 テーブルに積み上げられたままのハードカバーを、エアリスは手に取った。甘ったるいタイトルをいとおしそうにかかえこむ。
「あなたがいない日の夜は、本、読むね」
 背表紙をなぞる細い指を、ルーファウスは目で追う。読了後につくはずの彼女の満足げな吐息を思うと、少々無理をしてよかったとルーファウスは思うのだ。
 エアリスが俯いた拍子に、前髪が鼻梁にかかった。邪魔そうだった。ルーファウスは手を伸ばしかけて、われに返る。
 行き場を失くした手は、再び彼の腹の上に置いた。不思議な女を、ルーファウスはまじまじと見た。これほど長い時間をすごしているというのに、金品もセックスも求められない相手は初めてだった。どうかしたの、と聞いてくるエアリスに、彼は首を振った。変わっているのは彼女ではない、変わったのがルーファウスだ。自覚はある。悪い気はしなかった。
 エアリスにかけた情は、彼女から笑顔とたまに叱咤になって返ってくる。それが興味深くて彼はあれやこれやと世話をかく。
 尽力する価値はあると、そんなことをルーファウスは思っていた。


 昨年のことだ。
 ルーファウスがヒーリンロッジに落ち着いて、最初に手をつけたのはライフラインの確保と金融の調整だった。
 ルーファウスは星痕症候群の発作に絶え絶えになりながらも、種蒔きは入念にした。ようやく芽吹いたころあいを見計らって、通信の普及とマスコミュニケーションの回復に取りかかるはずだった。だが大衆伝達に向けてラジオ放送を整えはしたものの、それ以外はあとまわしにした。必要な情報は取り急ぎ音声で伝えることで間にあう。加えてニュースの公表方法を操作することで、世論をルーファウスの望む一定方向に導くことができる。いい方向にも、悪い方向にもだ。
 たとえば崩壊した旧本社ビルを狙う、いわゆる火事場泥棒の対処だ。ルーファウスは見苦しいまでの活力に半ば感心しながらも、ラジオ放送を役立てた。零番街付近の『ライフストリーム濃度』――などという造語を用意したのも彼だった――が危険レベルをマークしていることを理由に立入禁止を伝えたところ、それらは鳴りをひそめた。せっかくメテオショックを生き延びたいのちだというのに、奇病で失いたくはなかったのだろう。何せ星痕症候群の死に様は空恐ろしいものだった。
 実際のところ、メテオの回避にともない、ライフストリーム濃度は致死量どころか中毒にいたらないまでに急落している。勿論、この情報は電波に乗せていない。
 あの美しい雨のあと、星痕症候群が完治する病気だと分かってから、再び強盗が増えた。ルーファウスは今度こそ呆れつつも、次に発令したのはモンスターの警戒令だった。
 廃墟に野生のモンスターが巣食っている。エッジ郊外までを食物を求めて下りてくるようになっため、近づかないようにと。それと並行して、神羅はモンスターの習性をかんがみ、人里への出没ポイントと時刻とを割りだすことにした。『モンスター注意報』と称して、日々放送している。市民には重宝されているらしい。
 無知は、時折救いになる。ルーファウスはそう思った。
 モンスターは本当だが、野生のモンスターという表現は適切ではない。
 檻を失った科学部門の実験動物が、ミッドガルをうろついているという報告は、以前から受けていた。タークス主任からはモンスターを旧本社ビルの守衛代わりに放置しているとも聞いている。モンスターにしてみれば迷惑な話だろうが、しかるべきタイミングで駆除し、神羅の印象操作に役立てるらしかった。市街地を襲う異形のニュースは当面絶えないに違いない。だが、これもまた人を遠退ける一つの手段になる。それでいい、とルーファウスは思った。
 神羅らしさに、彼はほくそ笑む。神羅はこの先も神羅であるべきだった。
 それを差し置いて、ルーファウスはオンラインショッピングの調整を推進めた。テストケースとしてテナントをつのるため、まず彼が声をかけたのは出版社や玩具製造業だ。これが軌道に乗れば、テレビ放送でまかなうはずだった娯楽を提供できる。二年と少しを生きるために、ひた走ってきたエッジ市民の息抜きとなればいい。だがもとを正せば、それらはエアリスのためだった。
 彼女は時間を持て余していた。
 エアリスは家事一つすることがないのだと嘆いた。ルーファウスの秘書がハウスクリーニングサービスやランドリーサービスを手配しているからだ。
 そんななかでも、彼女は働き者だった。状況が許すのだから自適にすごせばいいものをと、当初は蔑視していたルーファウスも、途中から見方を変えた。ちょうど彼女の子守歌を聞いたころからだ。そのうちによく動く姿を、長い髪を、細い腰を、彼は目で追うようになっていた。
 一度、ルーファウスは聞いたことがある。なぜ家政婦のまねごとまでするのかと。彼女は「働こうとしないものは、食べることもしてはならない」とこたえた。教会の聖具室で見つけたバイブルに、そう書いてあったのだと。エアリスはこの倫理観が気に入っているらしく、たとえ思念体だとしても働く能力を持っているのだから何もしないわけにはいかないのだと微笑んだ。
 その日、ルーファウスは古代種レポートにあった、彼女の一日の行動記録を改めて読み返した。なるほどと彼は唸る。エアリスはアルバイトをかけ持ちし、孤児院や医師の手伝いに日々奔走していた。ゲインズブール家への出納記録をさぐる。神羅からの金の流れは、彼女の養母への遺族基金といった正当な手続きを踏んだものばかりだった。レポートを一読したときには気がつかなかったが、スラムのなかで逞しく生きる姿が、今ではありありと彼の脳裏に浮かべることができる。
 そのバイタリティーを活かして、彼女は何もないところからどんどんと仕事を生みだした。
 シークレットガーデン――と名づけたのはルーファウスだ――もその一つだ。別荘の管理棟の背にそびえる岩壁の、その奥には彼女が見つけた窪地がある。日中はシークレットガーデンでハーブ栽培や摘みたてのそれの仕こみをしている。が、夜は野良仕事ができない。そうなると今度はメディカルハーブのレポートをまとめだした。被験者はルーファウスだ。先月にはレジュメにメディカルハーブの処方レポートをそえて、あろうことか「わたしを御社で雇ってはいただけませんか」と社長室へ乗りこんで来た。ルーファウスは大いに笑った。そして二つ返事で選考をした。エアリスが見事、神羅社長づきのセクレタリーへの採用を勝ち取ったのが、少し前のことだった。
「ね、ルーファウス。ここ、もうほかに本ないの」
 エグゼクティブフロアの一角には三方を書棚で囲んだライブラリーがある。書架を眺めて、エアリスは言った。ジャッドのおさがりの経済学入門書を棚に戻すと、吐息をついた。
「何だ。もう読み終えたのか」
「わたしが読めそうなのはね」
 彼女が目を逸らせたのは、古い時代の思想家らが並ぶ棚だ。
 別荘を本社に改築するにあたって間取りに手を加えたものの、書架はそのままだった。ルーファウスは書棚にもたれていた身体を起こすと、彼女の横に並ぶ。ダークスターも彼に倣った。ほかには機械工学や情報工学、航空宇宙工学。武器屋上がりの父親らしい蔵書では関心も向かないだろう。しかも情報としては相当古い。犬の鼻がしきりにひくついている。黴臭いのかもしれなかった。ほかにも書籍といえば、とルーファウスは思い起す。地下に片づけた荷物のなかには児童書がある。おそらくルーファウスのために用意されたのだろうが、彼はそれをここで読んだことがなかった。エアリスなら喜ぶだろうか。だが彼はそれらを引張りだしてくる気にはなれなかった。
 明日、ルーファウスはでかける。エアリスにはしばらく時間を持て余す夜が続くだろう。
「お前が退屈に倦んでいるのは、理解ができる」
 ルーファウスは困ったように首を傾げた。彼自身、長らくヒーリンロッジから外出することができなかったのだ。スラックスの前ポケットに指を差しこむ。と、彼は爪先で床をこつこつと打った。
「仕事がなければ、つまらなさに殺されるところだった」
 ルーファウスが向かうのは、ミディールエリアの科学部門分室八号だ。着陸帯から施設までは距離がある。鬱蒼とした森、雨季の湿った外気のなかを歩くのかと思うとぞっとしない。が、滞留している実地検分を進めなければならなかった。ただ、歩くこと自体に不都合はない。メディカルハーブの解毒がてきめんに効いたようだ。体調のいい日は、身体がとても軽い。
 ほかにも対外的な仕事はある。子会社や他企業との交渉のなかで顔をださねばならないものには、彼自らが動いた。神羅社長の生存に驚いたあと、反応はたいてい二極化した。諸手を挙げて歓迎されるか、片手で握手を求めつつ反対の手に銃を持つか。後者と決裂した場合、あとはタークスの仕事だった。
 エアリスは大きく伸びをした。しなやかな背の動きと、小さな唸り声が猫のようだ。
「夜もお仕事、しよっかな。ほら、あなたから預かったデータね。入力、まだだから」
「それはだめだ、エアリス。わが社は不要な残業を認めていない」
「社長さん、お休みの日も出張なのに」
「それを言ってくれるな。だが仕事をするのは日中だけだ。夜はプライベートタイムだからな」
 ルーファウスは思想家の背表紙を順に目でなぞる。父親は意外にも勤勉だったようだ。政治学や権謀術数は分かるが、民主主義を唱えた書籍があることに失笑した。これが先代の経営のいったいどこに活かされていたのかと、父親を詰問したくもなる。
「これを読んでおけ。タイトルのわりに内容は分かりやすい」
 豪奢な装丁の一冊を選び、エアリスに渡す。ぱらぱらとめくってから、これスリプルですか、と眉尻を下げた。ルーファウスは吹きだした。エアリスは犬の鼻先に本を近づける。ダークスターの鼻がまたひくひくと動いた。
「ルーファウスと同じにおい、するのかな。ほら、お父さんの」
 お父さん、と首を捻ってからルーファウスがげんなりした。エアリスが笑う。
「まあ、もうしばらく待て。何とかしてやる」
「それは楽しみだけど。病み上がり、なんだから。無理しないでね」
「お前のハーブ園のおかげだな。多少の無理は利く」
「そんなつもりでお手伝い、してるんじゃない」
 彼女の厳しい眼差は、思いやりの証だ。ルーファウスはすでに何度も向けられていて、かわし方も心得ている。
「だが、予定していたより早くことが進められるのは、やはりお前の力ぞえがあってこそだ。これで負債の返済期間も、幾分か繰り上げできるだろう」
 茶化すように言ってから、ルーファウスはエアリスに向き直る。意志には意志をぶつける。彼の厳しい眼差は、信念を曲げないという意思表示だ。
「感謝している、エアリス」
 しばらく二人は目を見交わす。先に逸らせたのは、エアリスだった。まだ少し納得していないようで、表情は硬い。
「本当に無理はだめ、だからね。身体、辛くなったらすぐ休むこと。武器は多めに持って行ってもいいけど、ちゃんとまわり、頼ること。あと、これ、いちばん大事。モンスターに遭っても、面白がって一人で突っこまないこと。ね、約束」
「子供か、私は」
「聞き分けの悪い大人は、子供より性質、悪いの。あなた、前科あるから」
「そんな何年も前のことを持ちだすな」
「元ソルジャーに喧嘩ふっかけるなんて。そんなのずっと話のねたにされるに、決まってる」
 デリバリーサービスのあの男は、元ではなく自称だ、と言いかけてやめる。どちらにしても身体能力的に変わりはない。ルーファウスは肩を竦めた。
「ね、ルーファウス。元気に帰ってきてね。あなたも、ディーも」
 エアリスは不安げに彼を見上げている。ルーファウスの二の腕に白い手がそえられる。ルーファウスは観念した。彼女の優しさを神妙に受け取ると、頷いた。
 そして七日前。
 ようやくそれは実現した。彼はリビングのバーカウンターにラップトップを開く。と、ミニバーでアルコールの支度をしているエアリスを呼んだ。
「今から本を買いに行くぞ」
「でも、もう夜中だよ。それに」
 トレイにナッツを乗せてから、彼女がとなりに座った。マルドワインにルーファウスは満足する。春先の夜はまだ冷える。こんなときにも彼女のハーブや香辛料は役に立っていて、グラスからはレモンピールとシナモンの香りが立っていた。
「こういうときはな、エアリス。通信販売という手がある」
 画面には総合ショッピングモールが客の来店を待ちかまえている。試験段階なので、まだテナントは一〇数社だ。それでもエアリスが頬を紅潮させている。ルーファウスはグラスに口をつけた。彼女のカクテルはシロップが多めだったが、最近は甘い酒も悪くない。
「さあ、ショッピングに行こうか」
「すごい。ルーファウス、すごい」
 エアリスの視線は画面に釘づけだった。憂い顔も笑み顔も、緑色の双眸は変わらず瑞々しい。だが彼女には花やいだ顔つきがよく似あうと、ルーファウスは思った。


 そうしてルーファウスの献身が今朝、彼女の腕のなかに届いた。エアリスは背表紙をもう一度撫でてから、そっとテーブルに戻す。
 ルーファウスを見上げると、もの言いたげな彼と目があった。読みたいの、とエアリスは聞いてみる。彼は難色を示した。フィクション――しかも恋愛小説――は好みでないらしい。配達物の中身はともかく、実際にことがうまく運んだのでルーファウスも内心ほっとしているに違いない。配達員に課題は残るとこぼしてはいたが。
「ちゃんと、家、着いたかな、エヴァン」
「寄道していなければな。とうに着いている時間だろう。あのあたりのモンスターが活発になるのは、日が暮れてからだ」
「モンスター、でるの。何それ。ちょっと、それ、聞いてないよ」
「ヒーリンはエッジから陸路では厳しいと言ったはずだ」
 エアリスがいきおいよく顔を上げる先で、ルーファウスはこともなげに言った。動線と安全の確保にはしばらく時間がかかるとも、彼は言っていた。だがそれは荒野を縦断するに耐えられる移動手段がないという意味でだ。ゆくゆくはエッジ・カーム・ヒーリンロッジを結ぶ幹線道路の建設を予定しているが、まずは人の往来の多いエッジ・カーム間から取りかかるのだとエアリスは聞かされていた。彼の描くインフラストラクチャー計画はしっかりと覚えている。すごいことだと感動もした。だけど、とエアリスはルーファウスを睨み上げる。モンスターの話など聞いていない。
 先に聞いていたらどうしただろう。エアリスは考える。
 ルーファウスから彼の異母弟との面会を持ちかけられたとき、エアリスは嬉しかった。ルーファウス神羅はプレジデント神羅の一人息子、それに疑問を――彼と暮らすまではそもそも興味すら――持ったことはなかった。プレジデントの隠し子というスキャンダラスな話など、揉み消されてきたに違いない。
 だがルーファウスは『神羅社長の大冒険』のなかで、つつみ隠さず彼女に話した。兄弟が何人もいたことには、正直呆れた。そして神羅家の後継として選ばれた彼に兄がいたことが、エアリスの胸をひどく痛めた。ルーファウスにしてみれば、彼の母親より先に特別な愛を受けた女性がいたことになる。彼の兄にとって異母弟は、先に生まれた者を差し置いて父親からすべてを与えられた存在だろう。その異母兄もとうに亡くなっている。ことの顛末を知り、それを淡々と語るルーファウスを目の当たりにして、エアリスはさらに落ちこんだ。いったいどういうつもりで彼が話してくれたのかは、今になっても分からない。
 エアリスの育った環境も特異だったが、どのようなときも家族のぬくもりが足りないと思ったことはない。持っている者が持たざる者をあわれんではいけないのだろう。それでもルーファウスには、あの日溜りのような場所で憩ってほしいと彼女は願わずにはいられなかった。
 そんな折にヒーリンロッジへ招かれたのが、エヴァン・タウンゼントだ。神羅の幹部候補やタークスのように、彼女が視認されなくてもいい。エアリスはルーファウスの親族を一目見てみたかった。ルーファウスが事前に彼女の了承を得てくれたことも嬉しかった。つい数時間前にはエヴァンに「義姉さん」と呼ばれるまでにいたった。最良のできごとばかりが続いて、エアリスはルーファウスへの感謝があふれだすのを止められずに、抱きついてしまいそうになるのをこらえなければならなかった。
 なかでもいちばんに彼女が心躍らせたのは、彼らの関係がまだ真白な状態だったことだ。
 エヴァンはよくも悪くも普通の人だ。理解しがたいものを前に、優位に立ちまわろうとするルーファウスがおかしかった。そうして彼にない部分を補うに、エヴァンはいいチューターになりえそうだとエアリスは思った。その逆もまたしかりだ。エヴァンはルーファウスの図太さを少し見習うといい。お互いに持っていないものの差が開きすぎていて、若干の不安は残るものの、良好な関係を築いてほしかった。肉親との確執がこの先二度とルーファウスを傷つけないよう、エアリスは祈っている。
 だというのに、エヴァンをむざむざ危険な目にあわせてしまった。先に聞いていれば、エアリスはエヴァンとは会わなかった。少なくともヒーリンロッジへ呼びよせることには反対した。
 エアリスは苛立った。苛立ちはふつふつと沸き立って、やがて怒りになる。
 それはエアリスにとって苦手な感情だった。どこにも捨てる場所のないもの、仕方なくずっと胸の奥底にかかえていなければならないものだったからだ。だが今は違う。
「嘘つき。わたし、モンスターのこと、一言も聞いてない」
「嘘ではない。日中にうろついているのは、カームファングくらいだ。敢えて伝えるほどのことでもない」
 ミッドガルエリアに生息するモンスターは己より大きなものを襲わない。車中にいるうちは問題ないはずだ。ルーファウスはそう言った。カームファングならエアリスも知っている。旅のさなか、実際に何度か交戦した。だがそれも得物やマテリアがあったからできたことだ。
「でも、あの子、武器なんて持ってない」
 エアリスは声が尖るのを止められない。ぶつける相手も、その相手が真向から受け止めてくれることも知っているからだ。いい思い出など一つもなかった憤懣という感情が、今はエアリスを生き生きとさせている。それも己を構成する大切なピースなのだと、二五歳になってエアリスはようやく知った。
 一度知ると、知らなかったころには戻れない。
「探偵業をいとなむなら、多少の危険はつきものだろう。今のうちから雑魚相手に対処の仕方くらいは覚えておいて損はない」
「それはそうだけど。でもね、そういうこと、言ってるんじゃないの。わたしのこと、ごまかすような言い方、やめて」
「分かった」
「本当かなあ」
 ルーファウスは心なしか楽しそうだ。そんな様子にエアリスはまた少し苛立つが、大きな声をだしたら幾分すっきりした。今度は心配がじわじわと怒りを侵食していく。
「やだ、わたしったら。怒ってる場合じゃないよね。どうしよう、エヴァン、無事かな」
「お前はせわしい女だな。落ち着け」
「それ、無理。ちょっと、電話してみようかな。ね、本当にカームファングだけなの」
 エアリスは思わず立ち上がった。はだしのままおろおろと歩きだそうとする彼女を、ルーファウスが止めた。
「心配するな。あいつには土産を持たせた。私の気に入りの銃を、二つほどな」
 彼のコレクションは特殊で、取り分けて片手で発砲できるショットガンは兵器開発部門の技術の賜物らしい。重火器に詳しい仲間が驚いていたことを、エアリスは思いだす。
「それは心強いけど」
 それならそうと最初に言ってくれればよかったのに。エアリスはくちびるを尖らせる。ルーファウスは小さく笑った。
「お前は遠慮なくあいつを呼びつけてやれ。エヴァンに話はつけてある」
「いつの間に、そんなお話したの」
「野暮だぞ。男同士の内密の話だからな」
 ルーファウスは人差指を口に当てる。その指で髪を掻き上げてから、窓外を見やった。
「エヴァンにはもう少し場数を踏ませたほうがいい。だが、せっかくの神羅特製をもってしても、あいつの気の弱さは、なかなか補えまい。呼ぶのはかまわないが、話しこむのはほどほどにしておけ」
 日が暮れる前に帰してやれ、と言外に忠告しているらしい。エアリスはパンプスを履く。ソファーに座り直した。ルーファウスに微笑みかけながら。
 ルーファウスは自身のまわりに幾重にも濠を巡らせている。一つ一つが深く、飛びこすことは難しい。その上、ルーファウスは彼の選別基準に適わないものを容赦なくはたき落とす。だがそれをクリアしていくごとに見えてくるのは、彼の個人的な部分だ。気難しい男のふところは、思いのほかあたたかい。
 エヴァンは一つ目をうまく飛びこえられたようだ。エアリスはわがことのように喜んだ。
「うん、分かった。うっかり話しこんじゃって、帰れなくなったら、泊まってもらえばいいのよね」
「エアリス、新婚の家にほかの男を泊めるなよ」
 ルーファウスは冗談めかして言うが、心底いやそうな顔つきをしている。二つ目の濠は思いのほか深そうだ。エアリスは声を立てて笑った。
「そもそもだ。次こそすっぽかすのではないか、あいつは」
「エヴァン、すごく緊張してたものね。指なんてがちがちで、かわいそうなくらい」
 ルーファウスはソファーに背を預けて、足を組み上げている。くちびるを閉じると、おのずと口角が下がる。何の変哲もない、彼のリラックスしている姿だ。ただそれだけのことが、彼の正面に座った相手にプレッシャーをかける。それがルーファウスにとって損なのか得なのか、エアリスには図りかねた。
 だが彼女には自信があった。今回にかぎってはいいほうに動いたのだと。エアリスはルーファウスに向き直る。と、胸を張った。
「来るよ、あの子」
「なぜ」
「人はね、スリルなしでは生きられないからです」
 エヴァンはルーファウスの濠を一つこえて、異母兄の意外な面を知っただろう。そうすると次は二つ目の先を知りたくなるに違いない。ルーファウスはルーファウスで、異母弟とはいえ容易に跨がせる気はないのだ。きっとあの独特の言いまわしで威嚇をする。エヴァンはまたたじろぐだろう。それでも興味とそこから生じる高揚感を、きっと殺すことができない。彼の弟なら。
「適度な緊張、人生には必要だから」
 小首を傾げるエアリスを、ルーファウスがじっと見ている。私を度胸試しに使う気か、と言ってから、彼は睫毛を伏せて微笑した。
「スリルを好むか。お前は秘書より、タークスの適性があるのかもな」
「じゃあ、わたしにも、黒いスーツください。ついでにロッドとマテリアも」
「まだ諦めていないのか。私は人工マテリアの世話にはならない。護衛は足りている。私もそこそこ戦えるぞ」
 ルーファウスがこれ見よがしに口端を吊り上げる。彼がそこそこと言うくらいだ、自信はあるのだろう。
 実際ルーファウスは、夜中にうなされることがずいぶんと減った。彼はエアリスのメディカルハーブのおかげだと言うが、それはきっかけにすぎない。体調がいいとルーファウスはトレーニングに勤しんだ。そうすると食が進む。睡眠の質も上がる。総じて彼は規則正しい生活を送っていた。
 エアリスは彼の広い背中をさすることが好きだった。男性特有の熱い体温と立ちのぼる寝香水も、手のひらで感じるルーファウスの安らかな寝息も。わずかにさびしさが残るが、元気な彼の前ではそんなもの足りなさもかすむ。それにまだ子守歌は続けていた。ルーファウスが時折リクエストするからだ。
 この次、彼に歌を請われたら、背中とんとんもオプションでつけてみよう。エアリスは密かにそう決めた。
「あなたこそ。キングなんだから、後ろでふんぞり返っていてよね」
 そう言ったものの、ルーファウスは聞く耳など待たないだろう。現に彼はエアリスを鼻であしらった。
 体力が充実すると、彼はじっとしていられない性質のようだ。早速スケジュールをいっぱいに立てている。仕事量にあわせて、彼のクロゼットにはスーツが増えていく。
 今日も来客を迎えるということで、ルーファウスは休日だというのにかしこまった恰好をしている。ベストとスラックスはオフホワイトだ。彼が仕事着に愛用している白色より、春めいていて優しい印象だった。ドレスシャツも淡色のピンホールカラーで、カラークリップとカフスを紺色にして引き締めている。膨張色をすらりと着こなす彼を、エアリスはさすがだと思った。だが。
「ね、ルーファウス」
 エアリスはソファーに両手をつく。と、身を乗りだした。
 タイドアップが定石なのだろうが、ルーファウスはわざとネクタイをしていない。ジャケットを脱いで、オフィシャルな場ではないというアピールも彼なりの気遣いなのだろう。が、おそらくエヴァンには通じていない。
「弟に会うのに、スーツ、やめよう。それにね、せっかくのお休みだし。次はカジュアルコーディネイト、試してみない」
「私がか」
「ほら、ジャッドが用意してくれたなかに、あったでしょ。ジーンズとか、スニーカーとか。そうそう、ティーシャツ、倉庫に余ってるって言ってたじゃない。販促用の。スタンプの顔、ばんってプリントされてるやつ」
「待て、エアリス。親父の時代の遺物を、私に押しつけるな。それにな、エヴァンにそこまで気を遣う必要はない」
 でも、とエアリスは反論する。せめて身なりくらいは親近感をもたせたい。
「ブルジョアな夫婦みたいだから、わたしたち。あの子、きっと来るたびに、気後れしちゃうでしょ」
「みたい、ではなく本当の金持ちなのだが。それにな、エアリス。お前もたいがい気取った恰好をしているぞ」
 ルーファウスが肩を竦めた。あ、とエアリスは声を上げる。春向けに用意された衣服も、やはりほとんどがハイブランドだった。だというのに、彼女の今日の化粧はおろそかだ。
「ちょっと、わたし、顔と服、バランスめちゃくちゃ。やだ、忘れてた。ちゃんとお化粧、しておけばよかった」
 エアリスは手のひらで頬を挟んだ。誰にも見えないと彼女は諦めていた。人と会う機会を幾度かセッティングされてきたが、今回もうまくいかないだろうと。期待をこめて誰かのためにきちんと化粧をしても、無益に終わる。身を飾る贅沢も、顔にあざやかな色を乗せることも、エアリスにとって数少ない楽しみの一つだった。虚しくなるために、せっかくの楽しみを台なしにはしたくなかった。
 だがエヴァンはエアリスに目を向けてくれた。会う。久々の感覚に、彼女ははしゃいだ。今朝、鏡を前にして化粧をためらっていたエアリスに、だいじょうぶだよ、とアイシャドーパレットを渡してあげたかったが、もう遅い。エアリスは肩を落とす。
「私にはカジュアルを勧めておいて、お前はきちんと身だしなみを整える気か」
「だって、初めての顔あわせだったんだよ。ルーファウスの身内の人」
「親父とは会っただろう」
「あれは違うでしょ。あのころは、怖いおじさんだったから。夫のお父さんじゃなくて」
「夫のお父さん」 
 ルーファウスの声はいささか強張っている。そう、と彼女は頷く。
「今なら、違う風にお話、できたかもしれないね。ほら、息子さんとは親しくおつきあいさせていただいてます、みたいな」
 ルーファウスは目線を宙の一点に据えた。三者が揃う場面を想像しているらしい。青色の双眸がみるみる険しくなっていく。
「恐ろしいことを言うなよ」
 ルーファウスは片手で額をおおった。彼の頭のなかで、エアリスを挟んだ二人はいったい何をしていたのだろう。牽制しあっていたのか、それとも談笑していたのか。珍しく青ざめた彼の様子に、エアリスは笑った。
「何があってもいいように、普段からめかしこんでおけ」
「だって。何があってもって、そんなの」
「何もなくても、私が見ている」
 ルーファウスはエアリスを見つめる。とたんに彼女の頬が熱を孕んだ。エアリスは思わず顔を逸らせた。
「でもね、いつもお洒落してたら、新鮮味、ないでしょ」
 照れ隠しに、彼女はルーファウスのカップへ二煎目を注ぐ。水色が濃い。カップのなかでハーブティーがいつまでもゆれている。彼女の心のなかでも何かが、ゆらゆらと。静めなければとエアリスは焦った。
「おめかししたわたしは、デートのときのお楽しみ、ね」
 日に日にかたちづくられていく何かの正体を、エアリスは知っている。人生で三度目だ。だが今以上にくっきりとした輪郭を持たせたくはなかった。彼との居心地のいい距離を保っていたい。ごまかすことは得意だ。そうやって彼女は生きてきたから。
 エアリスは一呼吸つく。と、明るくルーファウスを振り仰いだ。
「でね、ルーファウス。チョコボファーム、いつ行くの」
「本当に行くのか」
「せっかくのおすすめなんでしょ」
 エアリスはハンズアップのジェスチャーをした。ルーファウスは親指と人差指で眉間を揉んでいる。
「私は騎鳥はしないぞ」
「何でもしていいって、言った」
「していいのはお前であって、私ではない」
「していいは、見ていいってことでしょ。ほら、乗って。ルーファウスがチョコボに乗って慌ててるとこ、見たいの」
「私がプロフェッショナルの騎手なみにうまければ、お前の目的は果たされないのだが」
「じゃあ、目的変更。かわいげ探しじゃなくて、夫の恰好いいところ、見てみたい」
 エアリスは彼ににじりよる。彼の大腿に手をついて、青色の双眸を緑色のそれで捕まえる。ややあって、ルーファウスはようやく彼女の前に陥落した。
「白状する。チョコボは乗ったことがない。お前の読みは当たっていた」
 エアリスは目を大きくしばたたいてから、やっぱり、と吹きだした。ルーファウスがわざわざチョコボを調達する必要はない。あのころ、ミッドガルでチョコボを乗りものとして常用していたのは、ロウワークラスだ。運よく車を手に入れたとしても、スラムではガソリンは下手すると車体より高価だった。そもそもスラムに車を走らせるような幅のある道はなかった。
 ルーファウスの眼前には陸も海も空も、たくさんの道が開けていたはずだ。想像にかたくないというのに、彼の平然とした態度にエアリスはいつも騙される。
 嘘つき。エアリスはそう言いかけた口を、慌てて噤む。今回ばかりは彼女の早合点だった。それにチョコボ騎鳥は彼女なりの冗談のつもりでいた。ルーファウスは彼を介助していた杖をようやく手放したところだ。チョコボに振落とされでもしたら困る。ただ彼にはそろそろ息抜きが必要ではないかと、彼女は心配をしていた。
「ね、ルーファウス」
 そっと呼びかける彼女に、ルーファウスは目を向けた。無言だ。ここで大抵の人間は怯むのだろう。エアリスも彼を間近で知るまでは誤解していた。ルーファウスは相手の話を聞こうとする耳を、きちんと持っているというのに。
 悔しいことに、今後も世間の思い違いは続くのだろう。彼の為人を知らしめることは難しい。だからこそルーファウスが神羅社長として、光の当たる舞台へ返り咲く日が来ることをエアリスは願っている。新しい神羅には、ルーファウスの『個』が如実に現れ始めている。そして今、彼の推進める事業は素晴らしかった。
 ルーファウスはほかの業務と並行して、娯楽の提供に力を入れている。通信販売もその一環だった。おかげでエアリスは、気になっていた書籍を手に入れることができた。だが彼女の満悦の裏側にはルーファウスの労苦がある。彼は夜遅くまでオフィスから戻らないことがたびたびあった。まだ星痕症候群を患っていたころから、病身を押して働きづめだとも聞いている。気保養が必要なのは、彼自身ではないだろうか。エアリスは顔を曇らせた。
 生憎とチョコボファームでは気分転換にはほど遠いのかもしれない。ここいらと高低の違いを除けば、景観に新鮮味がないからだ。ただチョコボは我の強いいきものだ。どれだけ手綱捌きがうまかろうと、乗り手が肌で感じる風はチョコボの気分次第で変わる。リムジンや輸送ユニット、鋼鉄のかたまりでは楽しむことができないことだ。
「あのね、チョコボ車で遊覧なら、どう」
 ルーファウスが瞠目している。エアリスは上目を使う。チョコボのにおいは多少がまんしてもらおう。
「馬車の手綱、操るのも初めてだと難しいのかな。じゃあ、わたしに」
 任せて、と続けるはずだった言葉をルーファウスがさえぎる。
「お前の手綱よりは簡単だろう」
 むっと尖らせたエアリスのくちびるが、すぐに笑みのかたちになる。ルーファウスは側頭にくぐらせた指をそのままに、何やら言いあぐねている。
「お前は私の横で気のすむまでハンズアップでもしていろ」
 彼女を皮肉りながらも、いつもの気取った顔は途方に暮れていた。嬉々としてエアリスは頷く。
 たまに見せる無防備な顔が、かわいらしいと思うようになった。彼女はルーファウスのそんなところも好きだった。
 

■END■
(感情を掻き立てる)

20201120