祭子
2022-07-18 13:12:02
22020文字
Public FF7/R×A/TLKG
 

■EXISTENCE OF OPPOSITE POLES■

∠[ν]-εγλ0010/04
エヴァンは南へと向かう車中にいます。待ち受けていたのはある男のとんでもない秘密でした。
※サイト掲載テキスト(20201022初出)

■EXISTENCE OF OPPOSITE POLES■
∠[ν]-εγλ0010/04


 午前八時。ここが数年前のミッドガルなら、通勤ラッシュの渋滞にいらいらしていただろう。だが道路が滞る心配はない。そもそも道がないのだ。
 エヴァンは荒野をひた走っている。行先は、旧ミッドガル市から南方に連なる山地だ。その中央付近にひょっとして地獄があるのかもしれないと彼は思った。
 なぜ自らを苦難な境地へと追いこむのか。エヴァンはこたえを知っている。地獄からの招待状を破り捨てる意気地がないからだ。挫けそうになったそのとき、タイヤがくぼみに取られた。慌ててステアリングホイールを切るものの、痩せた砂がいっきに舞い上がって視界を妨げる。それでなくても新品だったはずのフロントガラスは、とっくに砂埃でざらざらだった。
 年式の古いこの高級車は、もとはドイルの私物だった。彼が車を持っていたことをエヴァンは不思議に思っていたのだが、のちのち理由を知って納得した。ドイルは神羅社員だった。都市整備部というのは待遇がよかったのだろうか。一般社員ですら車が買えるなら役員秘書なら、その役員はと考えかけて、やめた。ともあれドイルは再び神羅カンパニーとコネクションをつけたらしい。今、長期出張にでている。アイシクルロッジという辺鄙な村の再建だと言っていた。その手付金なのか、以前エヴァンがジュノンに向かう途中で乗捨て――ざるを得なかったのだ。決して故意ではなかっ――た車は神羅が回収し、村に戻って来たときにはフロントガラスが嵌まっていたというわけだ。
 エヴァンは少々複雑だった。勿論分かってはいる。いつまでも仲間うちのコミュニティーだけで、この先も生きていくことは難しいのだと。ドイルもレズリーもきちんと仕事を見つけている。エヴァンは内心焦っていた。今は探偵社のようなことをやってはいるが、所詮彼のそれは素人経営だった。広告一つとってもうまく打ちだす方法を知らない。結果、事務所で閑古鳥を買うことになった。
 まるでごっこ遊びだ。エヴァンはアクセルペダルに乗せた足から力が抜けるのを感じた。
 いずれ軌道に乗せたいと思いつつも、当面の生活を維持するにはキャッシュが必要だ。だが、じっとしていても金が湧いてでてくることはない。金がないなら働かなければならない。働くには村のそとの世界に踏みだす必要がある。
 ミッドガルはミッドガルエッジへと名を変えて、目覚ましい変遷の只中にあった。あの日、あの雨のあと、星痕症候群がふつと消えてからは、なおのこと時代の流れが加速したようにエヴァンは思う。街に健康な働き手が増えたからだろうか。企業がエッジの参番ストリートにこぞって店舗をかまえ始めた。つい先月には、金融機関までもが営業を再開した。メテオショック以前には当たり前の光景だったというのに、エヴァンは何ごとかとひどく驚いた。皆が奉仕の心で持ちつ持たれつだった世情は、いよいよ資本主義の復活に取って代わるのだろう。もともと元気だった彼がいつまでも避難民に甘んじていては、探せばいくらでも転がっているチャンスを拾い損ねてしまいそうだった。
 エヴァンは再びドイルのことを考える。そして神羅カンパニーのことも。現在のグループの総帥をエヴァンは誰だか知っている。あの男のもとで、神羅はまた躍進を遂げるだろう。ドイルはきっと己の先見性に感謝する日が来る。
 エヴァンにも神羅に縁故があるといえばある。それにあやかるべきか。彼がかれこれ悩み始めて、すでに数箇月が経つ。これから行く先に、こたえがあるかもしれなかった。
 エヴァンはをステアリングホイールを握り直す。ドイルの留守中、村の住人は車を自由に使っていいと言われていた。エヴァンは喜んだ。いまだに外縁を広げていくエッジは、徒歩での移動が日に日に厳しくなっている。たまに舞いこむ依頼には急を要するものもあった。そのくせ報酬がガソリン代ととんとんになることもある。だがそれも今は信頼を勝ち得るための経費として泣くしかない。見た目はぼろだが、きちんと走る。移動手段があるだけましだった。
 いや、いっそのこと車などなければよかったのに。エヴァンはいよいよ近づく稜線に、現実を突きつけられる。そうすれば「足がないんだ。行けない」と断ることができた。ちょっと待て、本当にできただろうか。助手席に置いたバックパックを、彼はちらっと見た。なかに隠した小包を思うたび、げっぷを耐えなければならなかった。
 五日前、ルーファウス神羅からの電話は突然だった。
「二日後の一五時、お前宛に荷物が届く。お前が受け取れ。中身を確かめず、誰にも言わず、場所を明かさず、持って来い」
「言ったらどうなる」
「どうもこうも、お前の手札を見てみろ。言うなどと、そんなカードはないはずだ、エヴァン」
 携帯端末の受話部分から、硬質な声がエヴァンに念を押す。よく似た顔をしているというのに、顎の骨格が少し違うだけでこうも低い声質になるのか。エヴァンは初めて電話ごしに話した異母兄のそれに驚いたのだった。そして己の手札の少なさに気づく。その日から、おくびは止まらない。
 ヒーリンロッジは、やはり新緑と川のせせらぎが美しい地獄なのではないか。ブレーキペダルを足裏で押しつけたい彼の意思とは別に、アクセルを踏みこんでしまうのは、待たせている相手がルーファウスだからだ。 
 ドイルの車は年寄りのわりに元気だ。豪快に車塵を巻上げながら目的地へと進む。数箇月ぶりに訪れたヒーリンロッジは、開拓が進んでいた。以前はなかった重機や建材がふもとを占領している。すでに一部は敷地になっていた。ロッジ区画付近に到着したところで、SUV車から男が降りてきた。あざやかな赤毛が手を振っている。
「よく来たな、エヴァン。元気にしてたか」
「まあ、それなりに」
 レノは人懐こい笑顔を浮かべている。両手を広げながら近づいてきた。ハグされるような間柄ではなかったはずだ。赤毛に向けて両手を伸ばすべきか否か、エヴァンは迷った。それは無用の心配だった。
「ほら、万歳するんだぞ、と」
 レノはエヴァンの両肩に手を置く。それから全身をまさぐられた。セキュリティーチェックだ。エヴァンは思い知らされる。ここは神羅カンパニーの正門なのだと。
「それ、何。お前、一人なの。てか、それ、何。何入ってんの」
 エヴァンのバックパックに、タークスの眼光が刺さる。さすがは泣く子も黙る黒服だ。いきなり核心にふれてきた。げっぷどころか、何か違うものまで吐きだしそうだ。
「社長への差し入れ。せっかく呼ばれたんだから、手土産の一つでも持って行けって」
 嘘だ。エヴァンはいくつか考えてきた口実を言った。「中身を確かめず、誰にも言わず、場所を明かさず」の通り、彼はここにいる。中身のことを彼は知らない。そしてエヴァンの動向を、エッジの連中には誰一人として打ち明けてこなかったのだ。いやな汗がでた。
 ふうん、とレノは言った。中身を改める気はないようだ。レノはSUV車を指差す。近くで見ると、悪路走行――ひょっとして、ボディにいくつかあるくぼみは銃弾の痕なのか――に耐えてきたらしい立派な面構えをしていた。エヴァンを助手席に誘導してから、反対側にレノが乗りこむ。すぐに出発するかと思いきや、レノは眉をひそめた。
「お前、また何かしたのか」
「またって、何。何かって、何」
「だってさあ、あそこに部外者入れるなんてな、初めてなんだわ」
「あそこって、どこ。前の、あのロッジじゃないのかな」
 レノは口端を吊り上げた。エヴァンはいっきに青ざめる。『前の、あのロッジ』のことを思いだす。ルーファウスを人質にして、エヴァンがナイフを向けたときのことを。報復だろうかと思いかけて、首を振る。あれは狂言だった。ナイフを突きつけるよう仕向けたのはほかでもないルーファウスだ。初めて会ったばかりの異母弟を立てるためだけに、自ら人質になるような潔い男だった。それ以外に、エヴァンはルーファウスの為人を知らない。
 縁など、それきりだと思っていた。エヴァンのナイフを握る手がひどくふるえていたことなど、あの男は気づいていたに違いない。ルーファウスのエヴァンに対する評価は、取るに足りない一般人に終わったはずだ。だから荷物を預けられた理由に――勿論、睡眠を削ってまで何度も考えたが――心当たりはない。何かしらの犯罪の片棒を担がされているのかと心配にもなった。だというのに、エヴァンは今ここにいる。たった数分の会話で人に義務を負わせる、あの男の話し方に今更ながら彼の両腕が粟立った。
「悪いな、エヴァン。立ち会いはいらないって言われてっからな。俺もほいほい顔だすわけにはいかねえんだぞ、と。あそこは特別だ」
 レノは気さくに彼の肩を叩いた。エヴァンはバックパックを抱き締める。それをレノが横眼で見ている。
「俺が社長に襲いかかったらどうするんだよ。見張ってたほうがいいんじゃないのかな」
「喧嘩しに来たんなら、思う存分兄弟喧嘩してこい。まあ、社長んとこには俺よりおっかない護衛がいるからな。安心、安心」
 悪気もへったくれもない言い方だった。レノはシリンダーをまわす。セルモーターを作動させると、ややして車が鈍く唸り始めた。思わずドアハンドルをがちゃがちゃと引張るが、ロックされていてびくともしない。エヴァンの背後からレノの腕が伸びてきて、あっという間に視界が真黒になる。
「一応な。捕まえる側と捕まる側の形式美ってやつ。久しぶりだからな、加減が分からねえや。おい、エヴァン、きつくないか」
 目元を厚手の布でおおわれたようだ。そんなことをされなくても、道順なんて覚える気などない。二度と来ない。そう毅然と告げるはずのエヴァンの口から、か細い悲鳴が上がった。
「さてと。社長の私邸にご招待だ。喜べ、お前がお客様第一号だぞ、と」


 目隠しは、エントランスホールのなかほどまで来てようやくはずされた。
 エヴァンは頭上に掲げられた社章に威圧される。それからウェイティングブースも兼ねたフロアの広さに驚いた。エヴァンの自宅がいったい何棟収まるだろうか。建物はおろか、この山一帯が神羅の土地だとレノが言っていた。名乗る姓の、格の違いを見せつけられた気がした。
 靴音が立つのもはばかられるほど、広間は静かだ。立ちつくすエヴァンを、レノが手招きする。ホールは二階天井まで吹き抜けで、三方にずらりと並ぶ窓から陽光が降り注いでいる。まだ明かりの灯っていないはずのクリスタルシャンデリアが、ちかちかと明滅していた。
「好きなほうからどうぞ。上った先にドアがあるから、その前で待ってろよ」
 レノが指差したのは、一対の馬蹄型の階段だ。ゆるやかな曲線の片方へと、エヴァンは仕方なしに向かう。何度も振り返ったが、レノは両手をひらひらさせるだけだった。
 階段を上がりきってすぐ、エヴァンは足を止める。壁の真中にドアがある。両開きのそれは、鋼鉄だった。素人目にもあとから取り換えられたのだと分かるほどに、リッチな内装にはそぐわない。きっと防犯のためなのだろう。ずいぶんと厳重なことだと思いながら、ノックしかけたところでドアが開いた。エヴァンは絶叫した。紫紺色の巨躯が唸り声を上げている。階下から大笑が聞こえたが、レノに腹を立てる余裕はなかった。剥きだしの歯を唾液でぎとぎとにして、赤色の目玉がエヴァンを捉えて離さない。
「ディー、バック」
 モンスターは硬質な声に従順だった。歯牙がエヴァンの鼻先を掠める寸前で、すかさず飛びすさる。
「紫色。大きい。これってベヒーモスの子供かな」
「私の愛犬だ」
 長い廊下を、犬を従えた男が悠然と歩いている。車椅子を手放したということは星痕症候群を克服したのだろう。誂えのよさそうなベストとスラックス、そしてぱりっとしたドレスシャツを着ている。互いに立ったまま対面した異母兄は、すらりとした長躯だった。
「久しぶりだな、エヴァン」
 ルーファウスが言った。エヴァンは最初に言うべき言葉を用意していた。口を開く。
「どうも」
 エヴァンはそれきり口を噤んだ。ジャケットは羽織っていないとはいえ、スーツは彼へ戦闘服並みの威圧感を与えた。エヴァンのまわりにそんなかしこまった恰好をする人間がいないからだ。そもそも何を着ていようが中身がルーファウスであることに変わりはない。挨拶も苦情も頭のなかから消えていて、かろうじて絞りだした一言はどうにも冴えなかった。
 背面で何やら無慈悲な音がした。ドアの閉まるそれだった。エヴァンは思わず振り返る。
「何だ、もう帰りたいのか。そうしてもいいが、今、このドアを開けられるのは私とディーだけだ」
 エヴァンは半ば青ざめた。生体認証を――ルーファウスか犬のように――パスするか、手動でコード入力しなければ開閉ができないのだという。勿論、エヴァンにはどちらの権限もない。これでは幽閉されたも同然だった。
「お前を迎え入れたのは、ディーだぞ。客人が珍しいのでな、少々はしゃいでいる。そう怖がってやるな」
「別に、怖がってなんか」
 ルーファウスは顎で奥を指示した。犬がしきりにエヴァンのにおいを嗅いでいる。彼は男のあとを早足で追った。
 廊下を抜けた先に広がるのは、清澄な朝日をふんだんに採光したLDKだ。地獄は、天国だったのか。正面には五枚の大窓、青空と新緑と薄灰の岩棚を一望に収めている。調度の配置も素晴らしい。なかでも彼の興味を引いたのは、円形のソファーセットにグランドピアノ、そしてミニバーだ。エヴァンの想像する金持ちの生活がそこかしこにあった。また棒立ちになる。
「そう硬くなるな。適当にくつろぐといい」
 ルーファウスは一人掛に座を占める。それから綽々と足を組み上げた。足元には犬が伏せている。同じ台詞、同じ所作をする自身を想像しようとして、エヴァンは失敗した。まず犬を手懐けられる気がしなかった。
「その前に、これ」
 エヴァンはバックパックを下ろす。小包をテーブルに置いてから、向かいに腰かけた。怪しいものは早々に手放してしまいたかった。
「何だ、その顔は。心配するな。危険物や事件性のあるものではない」
「でも誰かに知られちゃまずいんだろ。てっきり秘密のものなのかと思ってた」
「秘密には違いないのだが」
 ルーファウスは何やら楽しそうだった。エヴァンにはわけが分からないが、犯罪から遠退いたことにひとまず安心する。それもつかの間、彼はふと視界のすみに映る花やいだ色あいに息をのんだ。
「じゃあさ、今渡してよかったのかな。隠したいんじゃないのか。見られたらやばくないのか」 
 ルーファウスはわずかに首を傾げる。
「どういう意味だ」
「その、社長がこっそり買って、こっそり届けさせようとするものなんだろ。ばれたらまずいんじゃないかと思って」
 エヴァンは声のボリュームを下げる。リビングの入口に人が立っている。女だ。
 ひときわ目を引くのは大きな双眸だった。薄化粧だが、口だけはつやのある薄桃色に塗られている。半開きのくちびるが、朝露にぬれた蕾のようだ。女は花だ。そう思ったところで、有体なたとえ方しかできない己の発想の乏しさをエヴァンは嘆く。思わず支えたくなるほどに女の線は細かった。それをさらに強調するようなワンピース姿だが、首の付根から脛まで肌をつつましやかに隠しているので、印象は楚々としていた。
「ね、ルーファウス」
 はんなりとした声音が、一瞬彼に緊張を忘れさせた。エヴァンと目があうと女は左右をきょろきょろしてから、後ろを振り返った。エヴァンは慌てて顔を逸らせる。深いバックスリットから覗く、大腿の白さが眩しかった。足に絡まる裾を捌きながら、女はゆっくりと歩みよる。
「どうしよう、ルーファウス。わたし、この子と目、あうんだけど」
「そのようだ」
「見ちゃだめだったのかな」
「声、聞こえてるみたい」
「そうだな」
 近くで見る女の目は緑色をしていた。そこかしこで芽吹いている若葉より、瑞々しい。弓なりの眉をわずかによせている。彼女の心許ない顔を向けられたルーファウスは、しかし依然として楽しそうだ。
 不躾だと分かっていても、エヴァンは女に見入っていた。年齢は自身とそう変わらない気がする。使用人ではないだろう。二階フロアへはタークスですら入室を遠慮するという。そして話し方がやけに心安い。秘書だろうかと思いかけて、彼は首を捻る。従業員というには服装が蠱惑的だ。そしてやはりボスに取る態度ではないだろう。この男をファーストネームで呼ぶことを許された関係。だとすれば、とエヴァンは生唾を飲む。
「社長の女なのか」
「秘密のな」
「俺、やばいもの見てしまったのかな」
「エヴァン。もう少し楽しく、長く生きたいか」
 こくこく。エヴァンは浅く、早く頷く。顎をしゃくるようにしてルーファウスは彼を見下ろした。
「なら、分かるな」
 ぶんぶん。エヴァンは深く、何度も頷く。満足そうなルーファウスに向かって、女は肩をそびやかす。
「もう、お兄さんでしょ。意地悪しないの」
 エヴァンはぎょっとした。咎める声は柔い。が、神羅社長を面と向かって非難する女の豪胆さには、冷汗が吹きだしそうだった。兄弟として、当然のように扱われていることにも動揺する。いったいルーファウスは父親の醜聞をどのように話したのだろう。そもそも、この男にとって不義の証であるエヴァンはどのような存在なのだろう。エヴァンは今更ながらことの重大さに気づく。
「ね、ルーファウス。わたし、自己紹介してもいいかな」
「いいだろう」
 ルーファウスは上に向けた手のひらをすべらせるように差しだす。笑顔になると、女はとたんにかわいらしくなる。
「わたし、エアリス。エアリス・ゲインズブール・神羅。よろしくね」
「俺はエヴァン・タウンゼントだ」
 エヴァンはこたえながら首を傾げる。エアリス。どこかで聞いたような名前だ。だが彼の頭のなかは今いろいろと考えることで混みあっていて、思いだそうにもそれどころではなかった。
「ちょっと待って。神羅って言ったのかな、今」
「妻だ」
「あれ、今何て。え、嘘だろ。待って、待って」
「エアリスは私の妻だと言った」
 ソファー脇で立ち止まったエアリスを、ルーファウスが見上げた。女は笑顔だ。爪先に淡い桃色を乗せた指が、男の肩にそえられた。
「夫がいつもお世話になってます」
 今度はルーファウスが吹きだした。人形のように表情のパターンがない男なのだろうと思いこんでいた。こんな顔もできるのかと、エヴァンは口をあんぐりと開いた。
「エアリス、何だそれは」
「いいでしょ。一度、言ってみたかったの」
「満足したか」
 エアリスが頷くと、ハーフアップの長い髪が機嫌よさげにゆれた。確かに睦まじいようだ。だが恋人の甘やかさとは異なる、友人同士の近しさともまた違った、二人のかもす雰囲気は独特だった。
「社長に囲われてるのかと思った。けど」
 エヴァンは母子家庭だった。彼は夫妻というものを間近に知らない。初めて接するそれが兄夫妻になるとは、夢にも思わなかった。しかも神羅夫妻なのだから、世間一般のそれとはかけ離れているに違いない。だが、少なくとも隷属の間柄には見えなかった。エヴァンは何となく安堵した。
「親父といっしょにするな」
「ごめん。あ、違う、すみません」
「女は一人でいい。そう決めている」
 エヴァンは吃驚した。ルーファウスがかつてゴシップ紙を賑わせていたことは、ミッドガル市民なら誰でも知っているだろう。さすがに実名を載せるのははばかられたのか、プレジデントボンボンなどという浮名でこの男の交遊関係が実しやかに報じられていた。エヴァンもまた、妬みをこめてうわさ話に興じたことがある。だが、今思えばそれはいったいどこまでが真実だったのだろう。
 交遊関係のことだけではない。ばか社長などと、いつの間にか広まった嘲罵の正体は、メテオショックのさいに何もできないでいた人々の不安と不満がかたまりになったものだった。やはりエヴァンもそのなかの一人だった。だがルーファウス本人と実際に話をしてみれば、そうとは呼べなくなるだろう。難点は、昔も今もルーファウスと面接できる機会が稀だということだ。
 ルーファウスの真実を垣間見たエヴァンは、思わず呟く。
「意外だ」
 エアリスに向けられるルーファウスの眼差。二人をつなぐ妙な安定感。それを間近にしたエヴァンのなかで、世間に塗固められた『ルーファウス神羅』という肖像画の顔料が一欠片、剥がれた気がした。
「何のことだ」
「いや、あの。そうそう、社長の女の趣味って、プレジデントと全然違うんだなと思って」
「そのあたりは、親父の遺伝子に支配されなかったようだ。お互いにな」
 派手な顔をした男二人が、ようやく笑みを交わした。エアリスはくちびるを尖らせている。
「きれいな顔した人たちにそんなこと言われると、わたし、立場ないんですけど」
「母親とは系統が違うだけだ。お前もそう悪くない」
「言い方、もうちょっとあるでしょ。ね、エヴァン、聞いて」
「はい」
「神羅さんちの男の人って、あなたたちのお父さんもだけど、素直じゃない血、流れてるみたい。エヴァンは気をつけてね」
 すでに思い当たる節がある彼は、曖昧に返事をした。性格がねじけているのは劣等から生じたものだと思っていた。今になってこんな妙なところで血筋を持ちだされるとは。しかも比較対象は巨大企業の創始者とその後継だ。エヴァンはいたたまれない気持ちになった。
「機嫌を直せ、エアリス。ご所望の品だ」
「ありがとう、ルーファウス。エヴァン」
 エアリスは後手を組む。と、わずかに腰を屈めながらエヴァンを見た。やわらいだ顔つきが、やはり花のようだと思ってしまう。
「それって、神羅夫人のだったんだ」
「本当に危ないものじゃないよ、安心して。あのね、本なの」
「ほん」
「ここ、たくさん本あるんだけど。ジャンル、偏ってて。ルーファウス、フィクションって読まないから。ほら、恋愛小説とか」
「れんあいしょうせつ」
 エヴァンの全身から力が抜ける。ぐにゃぐにゃになった彼を高級に違いないソファーが抱き留めた。
「あとは経営のお勉強のための本と、それから野草の図鑑。オンラインでお買物、便利だね」
「通信販売かよ」
「そうだ。神羅は今、いくつかの企業と提携を始めている」
 エヴァンは何とも言えない気持ちになった。オンラインショッピングという販売形態は、プレート上部でもアッパーミドル以上の特権だった。ミッドガルがつぶれて、彼はそんなシステムがあることすら忘れていた。だというのに世のなかはいつだって金持ちに優しい。エヴァンはどうにも納得がいかない。
「受注から決済と発送までは、おおむね良好だ。ただ、まだ配送に難ありだな。三日もかかった」
「悪かったな。車の準備に手間取った」
 ルーファウスに軽く睨まれて、エヴァンは咄嗟に嘘をついた。手間取ったのは、心の準備だ。
「冗談だ。安価な携帯端末の開発も進んでいる。市内なら年内には、エッジ・カーム間なら、あと二年もあればかたちになりそうか」
 ルーファウスが鼻で笑った。彼のはった虚勢など見透かしたようだ。それから、車両の整備と人員の確保ができ次第だ、と続けた。ルーファウスは顎をつまむ。
「今はまだ試験段階だがな。いずれ金持ちだけのサービスではなくなるぞ」
 エヴァンの声なき不満を聞き届けたかのように、ルーファウスが言った。神羅社長はすっと姿勢を正す。
「弊社が市民の皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げる。今後はなおいっそうクオリティオブライフ向上に、万全の体制で取り組んでまいる所存だ」
 ひゃあ、とエヴァンは頓狂な声を上げた。ルーファウスは目礼してから、にやりと笑った。
「まあ、通販も詫びの一つだな」
「いやそれ、ごめんの規模がおかしいんじゃないのか、社長」
「でしょ。わたしも同じこと言ったの。でもね、使ってみると、すごく便利。使えるなら使わなきゃ、勿体ないよね」
「そりゃそうだけど」
「そろそろ金の流れを堰き止めているものを撤去せねばなるまい。ボランティアもそうだ。いつまでも無償で働かせるわけにはいかないだろう。雇用の確保ができれば、おのずと金も動く」
 ただただ呆然としているエヴァンを、ルーファウスは見据えた。
「資本が歩きだせば、時代の変遷もまた速くなる。お前も奔流に押し流されないよう、どこかにしっかりと掴まっておけ」
 エヴァンははっと息を止める。世界を動かす歯車の、その要が見えた気がした。
「何でそんなこと、わざわざ俺に」
「これも何かの縁らしい。忠告ぐらいはしてやる」
 ルーファウスはエアリスにちらっと目をやってから、吐息をついた。エヴァンは歯を食いしばる。彼が掴まるべきは探偵社だろう。だがここで神羅社長にほかの働き口を執りなしてもらうという選択肢もあるのだ。この男のプライベートフロアに呼ばれた時点で、エヴァンに与えられた特恵だろう。
「あの、社長」
 自ら切り開く自由か、それともこの先確かに生き抜く安定か。エヴァンは正解をさぐる。
「何だ」
 ルーファウスはゆったりと足を組み直した。エヴァンと同じ色をした双眸で、異母弟を捉えている。いたたまらなくなって俯く。何でもない、と彼は悄然と言った。
「実験なら、直接ここに配達してもらったらよかったんじゃないのか」
「ヒーリンは陸路では厳しいな。動線と安全の確保には、しばらく時間がかかる」
 エヴァンはぞくぞくした。それは水面下では何かしらがすでに始動しているということだろうか。つい数箇月前まで大病を患っていた、この男のもとで。
「そもそも、届け先を私の自宅にするわけにはいかない。何せいまだ潜伏中の身なのでな。思いついたのがお前だった」
「何だよ。だったら住所を貸せって、最初に言ってくれればよかったんだ。ていうかさ、陸路は厳しいってどういうことだ」
 ルーファウスは何も言わない。薄らと笑みを刷いている。エヴァンは空恐ろしくなった。
「ひょっとして、俺は試されたのかな」
「おやおや。試すとは心外だな」
「ルーファウス、またおかしな言い方、したんでしょ」
 ルーファウスとエヴァンは顔を見あわせる。と、エヴァンが口を開いた。
「中身を確かめず、誰にも言わず、場所を明かさず」
 エアリスは眉をひそめる。
「ほら、やっぱり」
「やっぱりとは、何だ」
「言い方、意地悪」
「悪気はないぞ。齟齬をきたすのは、それは深読みした相手が悪い」
 ルーファウスはセンターテーブルごしにエヴァンへと顔を向ける。値踏みするように一瞬鋭くなった。
「ただ、エヴァンが約束ごとをどう処理する人間なのか、多少知りたいとは思ったがな。いかんせん私は言葉が少し足りないようだ。気をつけよう」
 ルーファウスは肩を竦める。言葉とは裏腹に、悪怯れる様子はこれっぽちもない。これは確信犯だとエヴァンは思った。相手に誘い水を向けておいて、自身は素知らぬふりを突き通す。この男のペースに嵌まったと気づいたときには、すでに主導権はルーファウスの手中にあるのだろう。血管が透けて見えそうなほどの白皙だというのに、ルーファウスの面の皮は十二分に厚いようだった。
 もう、と男を睨むエアリスは、しかし優しい顔をしていた。
「ごめんね、エヴァン。吃驚したでしょ」
「いや、まあ。うん。驚いた」
 問題ない。そんな風にして人前で恰好をつけたがるエヴァンは、どうやら家に置いてきてしまったらしい。彼は神妙に頷く。
「でもね、ルーファウス、面白い人だから。早く慣れてね」
 また首肯しかけて、はたと止まる。慣れろとは、次があるということだろうか。エヴァンは畏縮する。そもそも次や、そのまた次があったとして、彼がこの男を面白いと思えるゆとりができるのだろうか。情けないことに、自身のことながらはなはだ懐疑的になる。
 エヴァンは溜息をつく。足りないものは分かっている。胆力だ。そうエヴァンが嘆いたとき、彼はふとエアリスの出自が気になった。ルーファウスを修飾する美辞麗句や悪口雑言は数多とあるが、この男を面白いなどと形容した人間をエヴァンは彼女のほかに知らなかった。ルーファウスの為人が分かるほどのかかわりを、エアリスは育んできのだろう。同じ場所にいるだけでひどく疲れるこの男の、すぐ近くで。これはすごい度胸だ。考え悩む彼の名前を、エアリスが呼んだ。
「ね、このあと、時間あるかな」
「はい」
「疲れた顔してる。帰りの運転もあるでしょ。少し、休んでいって。お茶、淹れるね。コーヒーと、紅茶、どっちが好き。ほかがいいなら、ハーブティーと、あと果物があったからスムージーつくろっか」
 神羅夫人はずいぶんと気さくだった。エヴァンが戸惑っていると、神羅社長が口を挟んだ。
「紅茶にしておけ。美味いぞ」
 じゃあそれで、とエヴァンが言うと、エアリスはキッチンへと向かう。途中でふと立ち止まった。
「ね、エヴァン」
「はい」
「小説ね、ずっと読んでたシリーズがあって。もう一回読み直したいなって思ってるの、あるんだけど。また、通販、頼んでもいいかな」
 エヴァンは気づけば頷いていた。ルーファウスとエアリスはまったくタイプが違というのに、巡り巡ってそっくりだ。彼女もまた、つべこべ言わせずに相手の承諾を得る力を持っている。恐ろしい夫妻だった。


「社長って結婚してたんだ。知らなかったな」
 ニュースになってたっけ、とエヴァンは首を捻っている。
 いい香りのする紅茶と、彼女との会話に助けられて、エヴァンはようやくくつろぐことができた。茶請けのクッキーがこれまた美味い。甘味の香草が練りこまれているらしく、甘いというのに後味はさっぱりしている。クッキーも、ハーブまでエアリスの手製と聞いて、エヴァンは驚いた。彼女は家庭的かつ庶民的だった。だが、どちらもルーファウスには縁遠そうだ。二人が知りあったいきさつは、やはり想像がつかなかった。
 神羅家の御曹司、代表取締役副社長兼執行役員、現社長。そんな男の婚姻ともなれば、世間をゆるがすビッグイベントだろう。しかも美男美女だ。エヴァンはニュースを見落とすはずがないと思った。内々にすまされたのだとすれば、会社が広告塔にしなかった理由が分からない。気にはなるが、ことはルーファウスの一身上の都合だ。
 聞くに聞けずもやもやしているエヴァンを助けたのは、当事者だった。
「先々月な。入籍だけだが。まだ新婚だぞ」
 ルーファウスは何でもないことのように言った。エヴァンは紅茶を吹きだす。エアリスが慌てて布巾を差しだした。
「知りあってからは、そろそろ四箇月か」
 さらに咽せる彼の背中を、エアリスが介抱している。道理で知らないはずだとエヴァンは思った。四箇月前といえば、彼がルーファウスの異母弟だと知らされた日よりあとのことだ。そしてメテオショック以降、神羅社長はいまだ死んだままのはずだ。死人の結婚はニュースになりようがなかった。
 それにしたって、とエヴァンは布巾を握り締める。
「まさかのスピード婚。予想外すぎる」
 エアリスは照れくさそうな顔をした。伏せられた睫毛が扇状に広がる。
「二年くらい前にね、ちらっと会ったんだけど。自己紹介もしたのに。この人、あんまり覚えてないみたいで」
「あれを出会いのうちに入れるな。それならば、私はお前がミッドガルへ来た日を知っているぞ。親父がずいぶんと浮かれていたからな」
「それこそ、わたし、赤ちゃんじゃない」
 彼女はエヴァンのとなりに腰を下ろした。彼は再びエアリスの出自を考える。親の決めた許嫁、借金のかたに売られた女、地元有力者の娘。幽居中の神羅社長と出会い、たった二箇月で結婚にまでいたるプロセスを考えてはみたが、どれもぴんとこなかった。エヴァンは彼女を盗み見る。彼のカップに二杯目を注いでいる。今にも鼻歌を歌いだしそうだ。少なくともエアリスからは婚姻を強要された女という、人生の悲哀は見られなかった。
 だとすれば、これは少しさびしいことではないのだろうか。エヴァンには若い夫妻が閑住に甘んじていることも不可解でならない。
「結婚式は」
「予定にないな」
「でも神羅の社長の結婚だろ。派手にしないのか」
「派手なのって」
「あれみたいなやつ。ほら、社長の就任式典。俺さテレビで見てたよ。すごかったよな。パレードなんかしたりしてさ」
「パレードは、遠慮しておきます。やりすぎでしょ。あれ考えた人、ちょっとどうかと思うの」
 式典の主役を前に、エアリスはしかめ面になる。エヴァンはルーファウスの様子を恐々とうかがった。
「言っておくが、私はあの企画にはいっさい口をだしていないからな」
「そうなのか。てっきり社長が仕切ってたのかと思ってた。だって、社長は派手好きなんだろ」
「お前もか、エヴァン」
 いささかうんざりした様子で、ルーファウスは髪を掻き上げている。「お前たちはマスコミに振りまわされすぎだ」とたしなめた。そのマスコミュニケーションを牛耳っていたのは神羅じゃないか、という不平はエヴァンには言えなかった。
「でも、ドレス着て、たくさんの人に祝われてさ。女の子ならそういうの期待するんじゃないのかな」
「それはね、いいの、エヴァン」
「祝福を受けたくて結婚したわけではないが。そう思うなら、お前に式のプランナーを任せてやろうか」
 エヴァンは瞬時にして顔色をなくした。ルーファウスは笑みを噛み殺している。なかなか収まらないのか、男はややしばらくそうしていた。
「いずれ発表はする。だが今はまだ神羅に逆風が吹いている。情勢が落ち着くまでは伏せておきたい」
 肘掛に顎を乗せている愛犬とやらにクッキーを与えて、ルーファウスは言った。思いのほか慎重な顔つきをしていた。
 時勢が神羅に不利な状況だと知りながらも婚姻に踏み切ったのは、彼女とは打算を働かせない関係だということだろうか。つまりは恋愛結婚だと。エヴァンは変な顔になった。
 恋と社長。彼にはルーファウスが恋情を優先するイメージが湧かなかった。なぜだろうと考えたとき、ふとちらつくのがマスメディアを介した――贅を凝らし、遊び慣れた無慈悲の――男だった。エヴァンは紅茶を飲みながら、納得する。これが情報に翻弄された結果なのだと。
 目の前の男はどうなのだろう。エヴァンの双眸がじかに捉えるルーファウスは。
 考えかけて、エヴァンはやめた。何も思い浮かばなかったのだ。ルーファウスの内心を推し量れるほど、彼はこの男のことをまだ知らない。
「分かるだろう、エヴァン。家族に危険がおよばないようにだ」
 エヴァンは思わずエアリスを見た。彼女はすっと背筋を伸ばして夫を見つめている。かれんな横顔からは想像もつかないほど、眼差は気丈だった。
「社内でも神羅夫人など存在しないことになっている」
「タークスは。あの人たちも知らないのか」
「気になるなら、一度聞いてみるといい。ただ、お前が神羅夫人の話をすれば、やつらは怪訝な顔をするぞ。そして知らぬ存ぜぬを突き通す。そのあとは」
「その、あとは」
「知っているか、エヴァン。ヒーリンにはな、少し離れたところに水路式の水力発電所がある。水路へ落ちた先には、星へ還る近道があるらしいぞ」
 ルーファウスは薄らと笑った。ほんの一角とはいえ、エヴァンはタークスの仕事ぶりを見たことがある。あれが本物の暴力というものなのだろう。ならばエヴァンの選択肢は一つだ。
 つまるところ、最初に電話口でルーファウスが言った通りなのだ。「お前の手札を見てみろ。そんなカードはないはずだ」と。やはり今も秘密を部外者と共有するというカードを、彼は持っていなかった。
 これでもう何度目になるのか、エヴァンは五日前のエヴァンを呪う。本当の秘密は荷物の中身ではなく、荷物の配達先でもなく、荷物の受取人だったとは。しかも神羅家にかかわるトップシークレットのようだ。膝の上で二つの握りこぶしをつくる。
 今の彼にできる精いっぱいは、ルーファウスの一言一句を記憶――から抹消したいのはやまやまだが、あまりにも強烈すぎて忘れようがないので、頭――のそとへ持ちださないこと。そうやって、ほかの誰でもない自分自身を守ることだけだった。
 ルーファウスなら己に降りかかった難局をどう乗り切るのだろう。そもそも窮状を訴えることがあるのかすら疑わしい。そしてこの男の、いちいち執えどころのない態度を見ていると、秘密の一つや二つくらい平気でふところにしまっていそうな気がした。青色の双眸を、エヴァンはゆがめる。
 顔をパーツごとに見れば、確かに似ている。だがエヴァンはこれまで人から異母兄は勿論のこと、さらに血が近いはずのプレジデントにすら似ていると言われたことがなかった。それもそのはずだ。彼らの外見は仕立てのいい服と、自信と余裕と経験でできていた。どれもエヴァンには足りないものばかりだ。
 仕事探しに、あわよくば縁故を頼ろうとしたことを彼は恥じた。エヴァンの双肩に神羅という姓は過重でしかない。ただ、恥じるだけの分別があったことは救いだった。
 肘掛に頬杖をついたルーファウスが、わざとらしく片眉だけを上げる。
「ほら、また。ルーファウスったら」
 ルーファウスの秘密が手を伸ばした。エヴァンのこぶしに指をかけて、強張りをそっとほぐしている。エアリスもまた神羅姓を名乗っていることを思いだした。
「神羅夫人はすごいな。いや、すごいから神羅夫人なのか」
 彼は盛大に溜息をついた。ぐしゃぐしゃの布巾を抜き取ってから、エアリスが小首を傾げる。
「ね、待って。さっきから、夫人って、それこそばゆい。エアリスでいいよ」
「それは私の妻に馴れ馴れしい」
「じゃあエアリスさん」
「ちょっと他人行儀だね。どうせなら、エアリスちゃんって呼んでみよっか」
「お前な、その歳でそれはないだろう」
「失礼しちゃう。歳なんて気にするなって、言ってくれたの、あなたなのに」
 夫妻が何やら言いあいを始めた。エヴァンはしばらく呆気にとられたあと、慌てた。彼の何気ない一言で、夫婦喧嘩のトリガーを引くわけにはいかなかった。エヴァンはこめかみを押さえる。唸る。この場を収める、自然な言いまわしは。
「あの、奥さん」
「いかがわしいな」
「いかがわしいね」
「何で」
 二人の声がぴったりと重なる。さすが夫妻だ。だが感心している場合ではなかった。エヴァンは必死に考えた。語彙の引きだしを手当り次第に開けていく。ルーファウスの言う通り不躾ではなく、エアリスの希望に叶うよそよそしくない呼び方。エヴァンは指を鳴らした。これだ。
「義姉さん」
 エアリスは翠眼をしきりにぱちぱちさせている。その向かいで、ルーファウスも瞠目した。二人は難しい顔で目配せをしている。異母弟歴トータル二日未満、義弟歴数時間では、さすがにおこがましかったか。だがエヴァンの単語のストックはすっからかんだ。彼がおろおろし始めた、ちょうどそのとき。神羅夫妻が笑いだした。
「うわあ、新鮮。ちょっとどきっとしちゃった」
 朗らかに笑ったエアリスを見る、ルーファウスの顔もまたエヴァンの印象に強く残った。


 結局、エヴァンは昼食まで馳走になった。そのあともエアリスとの談笑は続いた。ころあいを見計らったルーファウスに声をかけられるまで、彼らの時計の針は止まらなかった。慌てたのは、エヴァンだ。日暮れ近くになるとモンスターが出没する。とくに夜行性のモンスターは気性が荒く、運転しながら対処は難しい。そもそも応戦できるだけの戦力など、彼は持ちあわせていなかった。
 見送ろう。そう言って、ルーファウスは建物のそとまで先導した。
 ホールを抜け、エントランスドアをくぐっても目隠しはされなかった。エヴァンはおろか、レノもまた驚いていた。ボスに顎で車を指示されたレノが運転席へと向かう。その背中がエヴァンには嬉しそうに見えた。
 ルーファウスは駐車スペースに背を向けて歩いた。エヴァンも続く。この宏壮な建物は、もともとが神羅家の別荘だったという。広い家に住めば、気持ちも大きく持てるようになるのだろうか。建物を見上げながら、しかし次に彼の頭をよぎったのは「電気代、払えるかな」だった。エヴァンはぽりぽりと首の後ろを掻いた。
 左側に巨木を臨みながら、二人は建物にそって敷かれた遊歩道を抜ける。エヴァンは息をのむ。リビングと同じ眺めが、今度はフレームのない全景で見渡せた。
 昼下がりの春風はまだ暖かい。長めの前髪を風に遊ばせながら、ようやくルーファウスが立ち止まった。
「なあ、エヴァン。頼みを聞いてくれないか」
 エヴァンは忘れかけていた緊張を、瞬時に思いだした。四箇月どころか、どれだけ寝食をともにしたところで、ルーファウスと二人でいることには慣れないだろう。エアリスの度量を羨ましく思いながら、エヴァンは身がまえた。
 ルーファウスはそんな彼の様子を面白がっている。そう思ったがどうやら違うらしい。口を引き結んだまま、両手をスラックスの前ポケットに入れている。ただ立っているだけで様になる男だ。テレビ放送されていたルーファウスのスピーチは、プレジデントの身振り言語とは違って弁舌静かだった。副社長時代も、そのあとも。それでも自信には満ちていた。言葉を切らせている姿など見たことがなかったというのに。
 この男でも言い淀むことがあるのだ。エヴァンは何となくほっとした。
「そう警戒するな。ときどきでいい。エアリスをかまってやってくれないか」
「かまう。妻をかまえとは。これって愛人になれってそそのかされてるのかな。まじか、社長そういう趣味なのか。いやいやそんなまさかだろ。え、じゃあまた何か試されてるのかな、俺」
 心の声がもれているが、エヴァンは気づかない。ルーファウスは鼻で笑った。
「心配しなくていい。エアリスはお前にはなびかない」
「自信満々だな」
「それもあるが、もともとあれは不器用な女だ」
 ルーファウスは建物を仰向いた。半円状に突きでた部分にリビングがある。
「見ての通り、山中のコテージだ。客など来やしない。この小さな箱庭から、エアリスはでられない」
 小さいだって、とエヴァンはむっとする。だがルーファウスはひどく真顔だった。
「あれには身内がいない。友人も、帰る家も、何も。日がな一日、上と下の行き来ばかりだ」
 エヴァンは驚いた。エアリスは終始にこやかで、そんな素振りは一つも見せなかった。思わずルーファウスの視線を追う。大窓の向こうに、あの優美な女がいる。少しさびしそうに茶器を片づけている姿が見えた気がした。
 エアリスは話上手のようでいて、聞き巧者だ。思い返せば、話題はエヴァンのことばかりだった。エアリスの生い立ちはおろか、二人がいっしょになったきっかけすらついぞ聞けないままだった。
 ルーファウスの妻で、近ごろになって社長秘書のまねごとを始めたこと。エヴァンの少し年上で、誕生日の入籍サプライズは嬉しかったがプロポーズはいまいちだったと笑う彼女が、とても眩しかったこと。それ以外のことを彼は知らない。
「義姉さんは孤児なのか。あ、メテオショックのせいかな」
「いや」
「じゃあ、どうして」
「知ってどうする」
「ごめん。こみ入ったことを聞くつもりじゃなかったんだ」
「だが、気になる。そうだろう」
 エヴァンは気まずくなってきょろついた。この男を前に、興味本位の詮索は危険な気がして彼は頷けなかった。
「私からは何も言うことはない。エアリスが話すなら、それはそれでかまわない。信じるかどうかはお前次第だ。どちらにしろ、お前の小心ぶりは存外役に立ちそうだな」
 ルーファウスはにやりとした。言外の意味を考えて、エヴァンは憮然とする。お前には秘密をもらす度胸はない、と明言されたのだ。あながちはずれていないところが、また悔しい。
「いつまで内緒にすればいいんだ」
「どうだろうな。私がウェディングリングを嵌めだしたら、ころあいだと思っていい」
 風が吹き抜けて新緑をゆらす。ルーファウスは頬にかかる髪を掻き上げた。長い指に指輪が光る日をエヴァンは想像した。そのころには人の悪意を乗りこえて、また世界に羽ばたく神羅になっているということだろうか。
 エヴァンは村の顔ぶれを思い浮かべた。プレジデント神羅の非嫡出子であることを、彼はいまだ打ち明けられないでいる。子供ですらその名には憎しみを剥きだしにするからだ。憎悪に奸知を絡めることのできる大人なら、何をしでかすか分からない。怖いとエヴァンは思った。
 神羅姓を名乗ることは彼が思う以上に困難なことのようだ。嫡子やその家族とのライフステージの違いを、エヴァンは改めて思い知らされた。湧き上るのは、しかし今までのような劣等ではなかった。純粋な敬意と、わずかな憐憫。エヴァンは自由のありがたみを知った。
「そのへん、ドライブぐらいならいけるんじゃないのか。チョコボファームで乗鳥体験とかさ。ソフトクリームが美味いらしいよ。人目につかないようにデートできるところなんて、けっこうあると思うけど」
 デート、と男は眉根をよせる。それからルーファウスはエヴァンをじっと見つめた。しばらくののち、男は肩を竦めた。
「私に女連れでチョコボと遊べと言ったのは、お前くらいだ」
「うわ、ごめん。そうだよな。金持ちのデートだもんな」
「金云々ではなく、ステータスに見あったつきあいというものがある。デートという言い方も、いかにもミドル以下だ」
「悪かったな、庶民で」
「だが、そうだな。あれは子供の遊びでもはしゃぐのだろうな」
 睫毛を伏せて、ルーファウスは微笑する。悪意のなかで生き抜いてきた男の、隙のないアトモスフェアに綻びが生じる。エヴァンが知らないだけでもともとこういう顔のできる男だったのか、それとも何かの――彼女に――感化を受けたのか。ふとルーファウスのまわりに花びらが舞った気がした。いよいよ二人の馴初めが気になる。いつか聞けるだろうかと考えて、エヴァンははっとした。すでにまた会う気になっている。これはどちらの術中にはまったのだろう。エヴァンは首を傾げる。茫洋と掴みどころのない男。かれんだが並び立っても引けを取らない女。その両方かもしれない。
「次来るまでに、どこかいいとこ探しておこうか。勿論、大人の遊び場だ」
「なるほど。今が恩の売りどきだな、エヴァン」
「そんなんじゃない。どこにも行けないなんて、義姉さんがかわいそうだ」
 ルーファウスは身体の向きを変えた。前髪が顔の左半分をおおい、男の表情をエヴァンから秘する。
「かわいそう、か」
 それきりルーファウスは何も言わない。エヴァンは怯んだ。人を射竦めることのできる眼差は、こうして隠されるとそれはそれで空恐ろしかった。これが神羅に生まれ、神羅として育った人間にのみ備わるパワーなのだろうかと彼は思った。
「やっぱり違うよな」
「違う、とは」
「名前だけ神羅でも、どうにもならないってこと。俺は本当の父親のこととか社長のこととか、そういうのまだうまくのみこめてないんだけど。何て言うか、社長のこと兄貴かって聞かれたら、うんって言えない」
 エヴァンは俯いた。
「何もかも衝撃だ。あまりにも違いすぎる」
「それはそうだろう。私を兄と思えとは言わない。お前がエアリスを義姉と呼ぶのは、大目に見よう。あれが喜んでいる。私とお前は、まあ、価値観の問題はあわせようとしてあわせられるものでもないからな。ほかの兄弟とお前なら、どうだか知らないが」
 はあ、とエヴァンは調子はずれの大声を上げた。横を向いたままのルーファウスの正面にまわりこむ。思わず男の二の腕を掴んだ。
「ちょっと待って。待って。ほかにもいるのかよ」
「いるぞ」
 まったく元気な親父だった、とルーファウスは平然としている。だがエヴァンにとっては衝撃の事実だ。一人だけでも持て余しているというのに。プレジデント神羅はいったい何てことをしてくれたのだ。母さんの墓前にどうやって報告しよう。いや、そうじゃなくて、とエヴァンは頭をかかえてしゃがみこんだ。異母兄の結婚といい、新しい兄弟といい、彼の受容力ではこと足りないほどの情報を一日のうちに得た。彼らが男なのか女なのか、何人いるのか、どこにいるのか。今日はもう何も知りたくないとエヴァンは思った。
 沈着な様子のルーファウスを見上げながら、自身の血縁にこの男以上の曲者がいないことをエヴァンは願うばかりだった。
「ともかくだ。義姉さんをかまうっていうのが話相手ってことでいいのなら、好都合だ。俺さ、身近に話しできる女がいなくて。社長の女に手をだすとか、そんな変な意味じゃないぞ。俺は一途だからな」
 彼の言葉のいったいどの部分が琴線にふれたのか、ルーファウスはくつくつと笑いだした。エヴァンはびくついた。
「何だ、あの女とはまだ続いているのか」
「そうだけど。たまに分からなくなる。さっきまで笑ってたと思ったら、何か怒ってる」
「女の機微を男の杓子定規で解釈するな、怪我をするぞ」
「社長もそうなのか。そんなわけないか」
「当たり前だ。ただこれは世の定石だ。覚えておけ、エヴァン」
 怪我ばかりのエヴァンは、大きな溜息をついた。
「義姉さんに相談したいことができたら、電話するよ。荷物も届けるけど、これは仕事だ。社長に恩は売らない」
 エヴァンは言い切る。ほう、とルーファウスが顎をつまむ。そのまま見栄を張り通すはずが、削がれた。エヴァンはぼそっと「今のところは」と濁した。
「自分の女のことくらい、一人で何とかしろと言いたいところだが。まあ、いいだろう」
 ルーファウスはそう言ってから、また二階の大窓を見やった。ややあって、ゆるゆると首を振る。
「私もお前を頼った。お前の気持ちが分からないでもない」
 男の吐息は、この別荘に密やかに咲く、一輪の花のためなのだろうか。だとすれば、エヴァンはルーファウスに同情する。
「話し相手になってやってくれって、最初からそう言ってくれたら分かりやすいのに」
「それもあるが、それだけではない。なあ、エヴァン。私がわざわざ人と会う時間を設けるのに、理由が一つということはない」
「え」
「まあ、いい。では今後の配送についてだ。交渉といこうか」
 ルーファウスは大仰に腕を広げた。それから手を差し伸べる。草むらに尻もちをついている義弟を引き起した。
「報酬はキャッシュでいいか。いや、お前には振込が無難だな」
「どういうことかな」 
「現金を持ち帰って、パートナーにどう説明するつもりだ」
 尻についた草を払いながら、エヴァンはきょとんとする。それから、あ、と間抜けな声をだした。
「口座を開設してやろう。私もキャッシュではやりにくいことが、近ごろ何かと増えてきたのでな」
 取り急ぎ整えておいてよかった、とルーファウスは独り言ちる。エヴァンがぎょっとした。エッジの参番ストリートに並び始めた金融機関、これもまた神羅の采配なのだろうか。エヴァンは自身とそう変わらないルーファウスの肩幅を眺めた。
 この男はどれだけのことを双肩に担っているのだろう。
「社長って、すごい肩してるよな。強い、ごつい」
「トレーニングはしているが、まだ目立つほどではないと思うのだが」
 ルーファウスは怪訝な顔をした。エヴァンは少しだけ笑った。
「また近々、書籍を頼むことになる。お前への報酬とは別に、ガソリンを現物で上乗せしてやろう。名目は都市整備部の、あの男への恩賞としてな」
 車はアイシクルロッジで監督をしているドイルのものだ。それでいいと、エヴァンは頷いた。本の配達にも異論はない。自らの意志で承諾の意を示すのは、ここへ来て初めてのことだった。ようやく胸がすきかけた、そのときだった。
「なあ、エヴァン。お前が乗ってきた車だがな、調子はどうだ」
「問題ないと思うけど。爺さんのくせに元気だ」
「それはよかった。フロントガラスのついでに、バッテリーも交換しておいたからな。車があると便利だろう」
 ルーファウスは彼の肩に手を置いた。その重さに、エヴァンはぞっとした。五日前、彼が電話を受けたそれよりも以前から、ルーファウスは大局を見ていたのだろう。とたんにエヴァンはボードゲームの駒になった気がした。男の意のままに動くそれに。エヴァンの人生観をくつがえすようなここでの数時間は、ルーファウスにしてみれば盤に差したただの一手なのかもしれなかった。対局相手など彼には見当もつかない。そういった相手を常に複数かかえるのが、神羅社長でいることなのだろう。
 ルーファウスは踵を返す。どうやら話は終わりらしい。相変わらずペースは男のものだ。ルーファウスの背中を、エヴァンは再び追った。
 名実ともに神羅でいるこの男が、エヴァンにはやはり恐ろしかった。神羅の力を借りて要領よく生きるには、彼には人生経験と意気地がどうにも足りない。だが不足は満たすことができる。
 縁故のことはいったん忘れようとエヴァンは思った。独力を磨きながら、今は探偵社で足掻くのだ。ただ、時折こうして二人のもとを訪ねて、美味しいお茶とエアリスとの会話を楽しみ、あわよくばルーファウスから知恵を盗むことくらいは許されるだろうか。
 その前に。
「まずはあれを何とかしなきゃな」
「何か言ったか」
「何も」
 エヴァンは首を横に振る。他人の車と、施しのガソリンでは恰好がつかない。ふところに余裕ができたら、まずはタウンゼント号を買おうと、彼は心に決めた。


■END■
(対極の存在)

20201022