祭子
2022-07-18 12:59:19
17713文字
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■RISE AND SHINE■

∠[ν]-εγλ0010/03
夫であり恋人ではない男性と眠りながらエアリスは夜ごと『神羅社長の大冒険』に耳を傾けます。
※サイト掲載テキスト(20200820初出)

■RISE AND SHINE■
∠[ν]-εγλ0010/03


 雨の音でエアリスは目を覚ました。ナイトテーブルのアラームクロックは五時三二分を示している。だというのに、三月の太陽はまだ眠っている。
 エアリスはとなりに横たわるルーファウスを見た。クイーンサイズのベッドは十分に広く、故意に手を伸ばさないかぎり互いにふれあうことはない。目を凝らすと、暗がりのなかにかろうじて彼のシルエットを捉えることができた。肩が規則正しく上下している。きっと寝顔も安らかだろう。エアリスはほっとした。
 空はもう四日ほどぐずついている。悪天候が続くと、ルーファウスは体調をくずした。
 ルーファウスはミッドガルの社長室から脱出するさいに、頸部の筋と肋骨、踵を損傷した。彼の立場であれば、過伸展損傷など万全の体制で根治が可能だった。そのはずだった。すぐに病院に収容されたはいいものの、生憎と肝心のリハビリテーションの初動はひどいものだった。
 そのあとの紆余曲折――エアリスはそれを『神羅社長の大冒険』と呼んだ――を経て、彼はヒーリンロッジに腰を落ち着けた。一年ほど患っていた星痕症候群から回復し、リハビリテーションが再開できる生活に戻ったころには、すでに後遺症は慢性化していた。
 昨晩は後頭部から体幹部にかけての疼痛がひどかったようで、ルーファウスは早々にベッドに入った。エアリスは蝋のような顔色をした彼に薬を勧めたが、ルーファウスは首を振った。短期間のうちに依存性のある薬をずいぶんと摂取したので、あまり頼りたくないのだと言った。そして彼は潔癖だった。マテリアを使わない。魔晄の恩恵を自身のまわりからすべからく遠ざけていた。そうなると、エアリスにできることはかぎられてくる。
 ルーファウスが眠りにつくまで背中をさすることは、昨晩が初めてではなかった。
 ふとエアリスは考える。神羅社長と並んで眠り、彼の身体の調子を気遣う。健やかな寝息に安堵しながら朝を迎える日がくるなど、彼女は夢にも思わなかった。何より不思議なのは、ヒーリンロッジで迎えた初日の慌てぶりが嘘のように、今、この状況にしっくりと治まっているということだった。
「図々しい女だって、あなたなら言うんでしょ。本当、遠慮のかけらもなしに、すぱっと」
 エアリスは声をひそめて笑った。そんなことを言われようものなら、言い返す文句はもう決めてある。けれどあながちはずれていないことも事実だ。あれから三箇月。厚かましいことばかりお願いしている自覚はある。
 エアリスは一二月の、あの日の夜の初々しさを思いだす。


 ミッドガルのスラム伍番街から荒野を抜け、目的地へ近づくにつれてロケーションはひなびていく。オフロードをただただ直進していた車両は、山ぞいに差しかかると今度は蛇行した道をひた走った。灰色の岩棚にはロッジが点在している。さらに上がりきった先に、社員の慰安用とは別の特別な区画があった。神羅家の別荘だ。それが現在の神羅カンパニー本社兼神羅社長の居宅だった。
 ロッジの二階がルーファウス神羅のプライベートフロアになっている。
 内装は建築当時の流行りなのだろうが、今となっては少し古めかしい。だが造作家具を除いた調度はほとんどが新しかった。メテオショックを免れたルーファウスの別邸から運ばせたものだった。
 道中もさることながら、リビングからの眺望にエアリスは愕然とした。あたりはものの見事に木々と岩だらけだ。岩壁のところどころに滝口があり、それらが集まって河川をつくっている。清涼なおもむきは保養地らしくて好ましい。
 ヒーリンロッジは、しかし彼女の想像とまるで違っていた。たとえばコスタ・デル・ソル。そんな賑々しい場所をいちばんに思い浮かべたのは、ルーファウスにはそういった派手やかさがつきまとっていたからだろう。
 それは夜になるとなお顕著に、彼のイメージから乖離した。
「真暗。あっちもこっちも、そっちも」
 リビングは半円状になっていて、五枚の大窓が嵌っている。吹貫部分にはいくつもの高窓が並んでいるが、すべて黒インクで塗りつぶしたかのようだ。エアリスはブラインドを下ろしながら、ルーファウスを振り返った。彼はソファーで憩っている。すでに寝支度は終えていて、ホットウイスキーを飲んでいた。
 エアリスもルーファウスから一揃いのナイトウェアを借りている。パジャマもガウンもシルクで、蕩けるような肌ざわりが心地いい。
「何もないとこだね、本当に」
 唯一、彼らしいところといえば、高さくらいだろうか。ヒーリンロッジの標高と神羅ビルの七〇階、きっとよく似ている。
「ちょっとだけ、怖いな」
 この時期、この時間、窓際から入りこむ外気は冷ややかだ。エアリスは湯冷めする前にガウンの前身頃をあわせると、ベルトを結んだ。
「怖いのか」
「うん。わたしだって、ミッドガル育ちだから。こんな夜、慣れてない」
 光と音のない夜。ネオンサインが恋しいとまでは言わない。何せ魔晄の代替エネルギー供給には限度があった。
 ヒーリンロッジ付近一帯の電力は、天然ガスと水力とでまかなわれている。ただロッジ同様に発電施設自体が老朽化しているため、潤沢に生産できるというわけではなかった。そしてつくりだされたエネルギーは、もっぱらふもとの開発に充てられていた。
 それでもせめてほかの建物に明かりがともっていればとエアリスは思う。ぽつんと取り残された気持ちにはならないだろうに、と。しかしヒーリンロッジに住まうのは、ほとんどが星痕症候群から快方したばかりの人々だ。夜は早くに休んでしまう。彼らは体力がなくても動きやすいように、ふもとの平地にある施設へ移っている。ロッジ区画は神羅カンパニーがすべて押さえているが、関係者はルーファウスの護衛を二人残して出払っていた。
 エアリスは彼の近くに立った。ルーファウスは高窓を見上げてから、口を開く。
「雲がなければ、もう少しましなのだが」
「どうして」
「このあたりのイルミネーションはな、天上にかがやく。しかも省エネルギーどころか、エネルギーフリーだ」
 まだ湿ったままの髪を、ルーファウスは掻き上げた。何のことかと問いかけて、エアリスは頷く。星だ。エアリスは旅の途中、あちこちで見た星空を思いだす。それは地上が暗ければ暗いほど照りきらめいて見えた。このあたりならば、星はどのように見えるのだろうか。
「あなたでも、星、見るんだ」
「まあな。福利厚生で利用するだけでなく、一般向けに観光誘致していれば採算は取れたはずだ。親父はこういうところがずさんだった。リピーターはつかないだろうが、宿泊日数は少ないだろうから回転率が上がる」
 ミッドガルの富裕層ならもの珍しさに飛びついただろうに、とルーファウスは言った。エアリスはぽかんとしたあと、困ったように笑った。
「何だ、そっち系のお話ですか」
「それはそうだろう。わが社には今、事業展開を任せられる幹部クラスが圧倒的に足りていない。ビジネスモデルの構築まで、私にまわってくる。どのようなささいな着想でも大事にするぞ」
「案外ロマンチシストなとこ、あるんだって、感心しかけたのに」
 ルーファウスの頭にはアイデアと数字と、ほかに何がつまっているのだろう。エアリスは勧められた酒を断わると、少し腰を屈めた。彼の双眸を近くから見つめる。
「目、交換してあげよっか。あなたとわたしの目」
「交換すると、何が見える」
「星が、きれいに見えます」
 ルーファウスは怪訝な顔をした。それから睫毛を伏せて微笑した。
「緑色の眸もなかなかにいいが、このままで困っていないのでな。私の目にも星くらいきちんと美しく映るぞ」
「そうなの」
「色数で言えばミッドガルが勝つが、総数で比べれば足元にもおよばない。何せヒーリンの星は満天を埋めつくすからな。一見の価値はある」
「すごい」
「捨てるには惜しい観光資源だぞ、まったく」
「またお仕事の話、してる。でもせっかくなら、ここ、住みたいな。だって一泊とか二泊だけなんて、勿体ないでしょ。わたし、きっと飽きない。それに神羅ならお金取るのに、住んだらただなんだもの」
「人が居つけば、星の明かりは半減するが」
「そっか。それもそうだね」
「だが面白そうだ。当面は行楽より住居か。宅地も不足していることだしな。道が一本あれば、動線も悪くない。一考しよう」
 ルーファウスは顎をつまんだ。それから口角を上げる。彼なら町一つくらい本当につくってしまいそうだ。まずいことを言ったかもしれないとエアリスは思いつつも、リアリスティックな彼がそこまで着目する星空は気になる。
「わたしも、見てみたい」
「晴れたらな」
「じゃあ、天体観測できない夜は、何してるの」
 この山中に遊興施設があるとは思えない。ルーファウスは足組をといて、空になったグラスをテーブルに置く。
「寝酒が終われば、あとは眠るだけだ。ヒーリンは夜も朝も早いぞ」
「健康的だね」
 やはりそうなるのか、とエアリスは肩を落とす。ルーファウスはふと首を傾げた。
「お前にも睡眠は必要か」
「うん。だいたいのことは、生きてたときといっしょ。多分」
「そうか。なら」
 ルーファウスはいったん睫毛を伏せて、考えこむ。ややしてゆっくりと顔を上げた。顎まで届く前髪の隙間から、青色の眸が覗いている。
「今晩から、どこで眠る」
 彼の声音が変わった。低音はそのままに、つやが加わったのだ。エアリスは目を丸くした。
「私のベッドルームは、あちらだ。今日はよく動いたので、疲れた。私はもう休むが、お前はどうする」
 ルーファウスはエアリスのガウンに手を伸ばす。ベルトの結び目に指をかけて、彼のほどよく開いた足のあいだに引きよせた。
「私のベッドはな、クイーンサイズだ。少々手狭だが、二人なら眠れないこともない」
 大きな二つの手のひらが彼女の腰部を掴む。エアリスのへそのあたりに額をつけるようにして、ルーファウスは俯いた。彼のまとう香りが近づく。ウッディ系だが、尖ったところのないそれ。
「お前の手折れそうな腰は、いいな」
 エアリスの目下には、いつもは髪に隠れた襟足がある。男性らしい太い首と、産毛の薄い白皙。肉は削げていて若干薄くはあるものの、肩幅はしっかりとある。神羅社長だった彼が、何か別のいきものに見えて、エアリスは動けない。何も考えられない。やがてルーファウスがくつくつと笑いだした。
「だがエアリス、お前はバージンだろう。私が今、散らしてしまうにはしのびない。もうしばらく猶予をやろう」
 おもむろに身を起こすと、彼はそのままソファーに背中を預けた。腕組みをして、ぽかんと口を開いたままの彼女の様子を見る。それから眉をひそめた。
「照れるか、いやがるか。せめて驚くなりしないのか、お前は」
「驚いて、動けないの。ひどい。からかったのね」
「お前が冗談につきあえるようなら、そのつもりだったが。どうやらざれあうには、お前はまだいたいけないようだな」
「これって、いい年してそういうお話、ついてこれないのかって、ばかにされたのかな」
「違う、納得しただけだ。行くところがないとはいえ、不思議だった。お前はよく知りもしない男の家に、のこのこと着いてきたのだからな」
 ルーファウスの声はすでに硬質なものに戻っている。だが微笑は相変わらずつややかだった。エアリスの下腹部によみがえるのは、くすぐるように響いた彼の声、ルーファウスの額の熱。腰のあたりにふれた長い五指。その拍子に彼女の頬が淡い桃色に変わった。
「鈍いな。今ごろか」
「だって。そっか、ルーファウスって男の人だったんだ」
「私が女に見えるのか」
「見えないよ。ごめん。何だかまだ、テレビのなかの人って感じ、抜けなくて」
「昼間もそんなことを言っていたな」
 エアリスはガウンのあわせ目を握り締める。と、あと退った。ルーファウスは笑いだした。
「まさか、男として認識されていなかったとは。それはさすがに考えになかった。お前はそのへんの幼女より、見る目がない」
 エアリスは大きな双眸をゆがめるようにしてルーファウスを見る。きつい眼差を向けられた当の本人は、しかし満足そうだった。
「それでいい。お前は私の初めてのハウスメートだ。意識されると面倒くさい」
「面倒って、うわあ。意識され慣れてる人の台詞だね、それ。いろんな人、振りまわしてきたんでしょ」
「否定はしないが、長引かせもしなかったぞ。駆け引きが楽しいのも、最初のうちだけだ。私に言いよる人間は、金品かセックス、あるいは美食が目的だからな。遊惰でつきあっていても煩わしいだけだ」
 ルーファウスは飽き果てたといった風だった。道理であしらい方に遠慮がない。エアリスは呆れそうになったところで、ふと考える。
 上面を撫でただけのつきあいで、彼は満足なのだろうか。だとしたら、一定の距離を保ち続ける対人関係が当たり前になるなど、いったいどのような環境で彼は育ったのだろう。利己の目的意識もなく、彼の個に近づいた人はいないのだろうか。
 ルーファウスの本質を知る人は、この世にどれくらいいるのだろう。
 さびしくないの、だとか。一人は平気なの、だとか。開きかけた口を、エアリスは噤む。それは彼に対して失礼だ。エアリスは彼の価値観を知らない。映像や役職ごしのルーファウスしか知らない彼女には、今は何も言えることがなかった。
「廊下の突き当たり、左の部屋が空いている。ベッドは簡易的なものだがな」
「ここ、ほかに誰かいたの」
「誰も。星痕の発作でな、汚してしまったときにすぐ移れるように用意したものだ。そろそろ処分を考えていたのだが」
 ルーファウスはソファーに立てかけてあった杖を掴む。捨てずにおいてよかったな、と彼が立ち上がった。
「寝心地は保証しない。寝つけないようなら、私のベッドへ来い。鍵は開けておく」
 エアリスは吃驚した。彼の――誤解を招きそうな言い方は改めたほうがいいとは思うが――厚意にではない。彼女は知らなかった。ルーファウスは。
「星痕だったの」
「まあな」
 彼は振り返りもせずにベッドルームへ消えた。リビングにはトップノートが立ったあとの、涼やかな香調だけが残った。
 エアリスは茫然と立ちつくした。メテオ襲来時、神羅カンパニーの本社はまだミッドガルにあった。彼が魔晄都市にとどまっていたとしても何も不自然ではない。そして最初に罹患した人の多くは、ミッドガルでライフストリームを直接あびている。
 ライフストリームのなかで、エアリスは星痕症候群の果てに亡くなった人々をたくさん見てきた。彼らは精神エネルギーとなってもなお、ジェノバの遺伝思念の意のまま、憎しみに拘泥していた。そうして星に還れずにいた精神を、彼女は一人ずつ丁寧に解放してきた。死者となってからも、憎しみのピースとして扱われる姿はあわれだった。
 それは生者にもいえることだった。憎悪や憤懣、そういった暗部だけを背負うように、人はできていない。だから本来備わっている――非自己から自己を守る――システムが抵抗をする。だが残念なことに、抗っているうちに体力は落ち、気力は削がれて、ほとんどの人がジェノバの遺伝思念に負けてしまうのだ。
 だというのにルーファウスは生き延びた。エアリスは疲れきった精神が持っていた記憶を読み取ったことがある。黒い水に溺れたあと、発作のたびに熱にうなされる。はげしい痛みをともない、膿は泥のように噴出するのだ。おぞましかった。記憶を思いだすだけで、足がふるえる。彼はあれを耐えたのか。
 それは負の気持ちを上まわる、強い気持ちがあったということだ。強い気持ちの正体とは、一体何だったのだろう。きっとそれがルーファウスの個にほかならない。
 エアリスは胸の前で手を組む。目を瞑った。何に祈るわけでもないが、それはもう彼女のくせだった。
 ルーファウスはしたいことをすればいいと言った。ならば彼のパーソナリティに向きあうのはどうだろう。せっかく間近にいるのに、何も知らないままでいるのは勿体ない。
 そうと決めたとたん、したいことが湧いてでてくる。書きとめておかなければ忘れてしまいそうだ。明日になったらノートを一冊分けてもらおう。エアリスは顔を上げると、リビングの照明を消した。


 それから二週間と経たないうちのことだった。
 エアリスは夜中に物音で目を覚ました。よくよく耳を澄ますと、それは呻き声だった。階下のオフィスにはタークスが警備のために交代でつめているが、勿論タークスの声ではない。エアリスはガウンを羽織ると、隣室へ向かった。
「ルーファウス」
 ノックをするが、返事はない。少し迷ったものの、エアリスはドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
 ドアの正面にはリビングと同じ大窓が二枚嵌められている。日が昇れば見事な断崖と、彼女が長老と名づけた――まわりの樹木がどれも赤ん坊に見えるほどに立派なので、樹齢も図抜けているに違いないと思っている――巨木が臨める。反対側の壁に豪奢なベッドはあった。フレームはホワイトレザーで、ヘッドボードはクッションタイプになっている。彼の言った通り、クイーンサイズだった。狭いと難色を示していたというのに、ルーファウスはわざわざ端――出入口から遠いほう――に横たわっている。
 エアリスはナイトランプを灯すと、デコラティブピローに囲まれた顔をそっと覗きこむ。暖色の明かりのもとでも、彼はひどい顔色をしていた。
「具合、悪いの」
「少しな。もう治まる」
 ルーファウスは掠れた声をだした。こめかみには静脈が浮き立っていて、彼がずいぶんと苦痛に抗っていたことを示していた。エアリスは気遣わしげに口を開く。
「痛いの、どこ」 
「環椎の付根から胸椎と、棘筋」
「待って。ちょっと待って。それどこ」
 エアリスはぷっと吹きだしてしまった。ルーファウスもわずかに笑声をもらす。首から背骨にそって胸のあたりまで痛むのだと、彼は言い直した。
「背中、さすろうか」
 エアリスはいったんベッドを降りた。反対側からベッドに上がり、彼の背面に座って手を伸ばす。と、肩首にふれた。ルーファウスがぴくりと反応した。
 一階と二階をつなぐ階段は二箇所ある。リビングと中央廊下の突き当たりだ。そのどちらも――ルーファウスが居宅にすると決めたときに――当時の重厚な木製扉を鋼鉄のそれへと入れ替え、堅固な認証システムを導入したらしい。ルーファウスが上下を行き来しない日は、次に扉が開くのは午前八時だ。タークスのつきそいのもと、ケータリング業者が朝食を運びに来る時間だった。人気のないこの広いフロアで、彼は一人で耐えているのだろう。そしてそれを自若と受け入れている。
 けれどルーファウスの当然は、エアリスにとって当然でないこともある。
「ごめんね」
 気がつけば、エアリスはそんなことを呟いていた。
「お前がなぜ謝る」
「初めてじゃないんでしょ。わたし、ずっと気がつかなかった」
 エアリスは視線を落とした。気づいたからといって、彼女でなければできないことなど何もない。たとえば治癒。ライフストリームと切り離されてから、彼女はセトラの力をふるえないでいる。せめて風を操る力くらい残っていれば、体力を少しなりとも回復することができただろうに。
「お前が気にすることではない」
 でも、と言いかけてやめる。ヒーリンロッジへ来てから、彼をじっくりと見てきた。ルーファウスは他者から手を差し伸べられることを期待していない。だがだされた手を、彼はわざわざはね退けることもしない。今だってエアリスの手はきちんと彼に届いている。
 相変わらず分かりやすい反応は見受けられないが、いやではないようだ。これでは一歩とは言えない、けれど半歩くらいは近づけたのではないか。エアリスはくすくすと笑った。
「手強いなあ」
「何のことだ」
 何でもない、と首を振って、彼女はルーファウスの浮きでた背骨を撫でる。ゆっくりと。
「わたしね、前はマテリア使わなくても、回復マテリアみたいなこと、できたんだよ。いろいろ。ね、知ってた」
「いや、知らないな。古代種には、約束の地探索以外に期待していなかったのでな」
「もう。そういうとこ本当、最低」
「分かった。今度、古代種関連のデータを見直しておく」
「ええ、今更ですか。ちょっと恥ずかしいから、やだ」
「どっちだよ」
 ルーファウスは呻きと笑いの混じった、変な声を立てた。エアリスは慌てて背中をとんとんと慰撫した。
「最低か。おそらく何百、何万と言われてきたはずなのだが。面と向かって言われたのは、そういえば初めてだ」
「初めてって、嬉しいよね」
「場合によるだろう。最低はどうかと思うが、いや、そうでもないか。正直な所感を聞く機会に恵まれないのでな、珍しくていい」
「でしょ。癒しの風、起こせたらよかったのに。ポーションとかマテリアで回復するより、あったかくて気持ちいいって、旅してたころは好評だったんだよ」
「毒性と副作用がなければ、何でもいいが」
「かわいくないなあ、もう。安全なのがお望みなら、ご飯たくさん食べて、身体動かして、体力つけることからだね」
「それでは時間がかかるだろう」
「でも、堅実」
「訂正だ、即効性もほしい」
 わがまま、と肩を突っつく。と、エアリスは開きかけた口を噤んだ。肩息はいつの間にか治まっていた。そろそろ休んでもらわなければ、彼の朝は意外と早い。
「わたし、今はこんなことくらいしか、できないけど」
 くせのない金髪を散らして、ルーファウスはスタンダードピローに顔を半分うずめている。きれいな髪色だとエアリスは思った。
「お前の手は、あたたかいな」
 散漫な様子で、ルーファウスは言った。エアリスは目を丸くしたあと、微笑んだ。
 彼の背筋から次第に強張りがとけ、呼吸がゆるやかになる。肩ごしに彼の伏せられた長い睫毛が見えた。エアリスはそっと手を離して、ベッドを降りた。
「おやすみ、ルーファウス」


 そんなことが何度か続いたある深夜のことだった。彼の寝息を子守歌にして、エアリスはうっかり眠ってしまった。
 ルーファウスのベッドは、簡易ベッドは勿論のこと、エアリスが今まで身体を休めてきたどのようなそれとも違った。座っているだけで尻から蕩けてしまうような感覚がして、どうにも抗えなかったのだ。それに彼の腰部から立ち上る寝香水――サンダルウッドの涼やかなミドルノート――にもくらくらしてしまった。
 ルーファウスの起床時間になり、彼の大笑でエアリスは目覚めた。慌てふためいたが、それでも起き上がることもできないほどに彼女はベッドのとりこになっていた。
「すごい、このベッド。人をだめにするベッドだね」
「何だそれは」
「お金持ちのベッドって、天国みたい」
「これがか」
 ルーファウスは満足していないようだ。彼がこれまでどれほどの贅沢を凝らした環境で暮らしてきたのか、エアリスは想像しようとしてすぐに諦めた。ベッドやシルクの寝具だけで彼の人生を推し量るのは、あまりにも乱暴だ。そんなことよりルーファウスの体調はどうだろう。エアリスはようやく彼の部屋にいる目的を思いだした。
 上半身をヘッドボードにもたせかけて、ルーファウスはエアリスを見下ろしている。すっきりとした顔をしていた。ほっとしながらも、この状況に釈明は必要ではないか。
「普段はこんなこと、しないんだから、ぜったい。男の人といっしょに、こんな。あの、誤解しないでね」
「分かっている。疲れるなら、つきあわなくてかまわない。慣れている」
 痛みにか、一人にか。
「慣れないで」
 羞恥心などすっかり忘れて、エアリスは声を尖らせた。が、だらしない恰好のままでは、彼を圧倒することは叶わなかった。
「お前はいつもそうなのか。誰かにつきあって、自身の時間を浪費する」
「わたし、そんないい人じゃないよ。あなたはハウスメートだって、言ってくれたけど。わたし、ただの居候だもの。お世話になりっ放し、いやだから」
「対価というわけか」
「そういう言い方、好きじゃないけど。それに浪費なんて、思ってないよ。せめて時間を捧げてるって、言って。わたし、やりたくてやってるだけ。それに」
 ルーファウスは続きを促そうと黙っている。エアリスはためらった。彼から譲ってもらったノートに書きだしている『したいことリスト』。そのなかには、恩人にお返ししたいこと、同居人といっしょにしたいことも綴られている。それを面と向かって告げることは、やはり恥ずかしい。
 エアリスは気力を振絞って身を起こす。髪とガウンのあわせ目を直した。
「それに、お金持ちのベッド、気持ちいいから」
「なるほど」
 曇天の朝、まだブラインドを開ける前の室内、ルーファウスは一笑した。薄暗いなかでもエアリスにはそれが眩しく見えた。
「気に入ったのなら、ここで眠ればいい。秘書には最近ランドリーサービスの利用が増えたと、訝しまれていることだしな」
 エアリスは世話好きな彼の秘書を思いだす。ジャッドはぶつくさと文句を垂れながらもルーファウスを心配しているようだった。それでも彼はルーファウスのプライベートフロアで起こったことを詮索しないし、ルーファウスも彼には遠慮をしていない。秘書もまた星痕症候群だったと聞いた。エアリスやタークスには分からない何かを、二人は共有しているのだろう。
「もうしばらく猶予をやろうとは言ったが、その気になっても襲うなよ。私の心づもりが、まだできていない」
 彼は口端を吊り上げた。これもまた彼らしい冗談口なのだろう。軽く睨んでから、エアリスは頷いた。
 その夜、初めて彼といっしょにベッドに入った。
 いつものように寝酒をたしなんだあと、ルーファウスは立ち上がった。体調はいいらしく、杖は使わなかった。思わず俯いてしまったエアリスの顎をつまみ上げて、「生憎と今夜は星が見えない」と言った。そういえば今日は終日曇っていたと、エアリスはぼんやりと思った。
 それぞれに寝つきやすい体位があって、二人はおのずと向かいあっている。場所を変われば顔をあわせずにすむのだが、ルーファウスがドアから離れた場所がいいと言い張るので、結局このままだ。
 手を伸ばせば届くが、だからといって伸ばすことのない距離。ずっと人恋しかった彼女を満たす、ちょうどいいへだたり。ただ困ったことに目を開けると、エアリスを安心させていたはずの気配は人のかたちにとって代わる。彼女と年齢の近い、生身の男性の姿だ。エアリスは濃灰色のブランケットを目の下まで引き上げた。
「眠らないのか」
「だって、緊張しちゃう。寝顔、見ないでね」
「大口開けて寝すごしておきながら、今更何を」
「あなただって、いびきかいてる」
 ルーファウスは目を瞠った。
「ごめん。嘘」
 円柱形のシャムを抱き締めて、エアリスは悪戯な眸を向ける。ルーファウスは目笑した。つられて笑うと、張りつめていた気持ちが霧散した。
「あなた、寝つくと吃驚しちゃうくらい静かだから。突っついても、反応しないし。たまに息してるか、確かめてるの」
「そうか、私は寝入っているのか」
「うん、ぐっすり。疲れてるんでしょ。痛むときって、本当に辛そうだもの」
 ルーファウスは黙考したあと、曖昧に頷いた。
「目、冴えちゃった。ていうより、やっぱり眠るには早いよ、まだ」
「なら、少し話すか」
「あなたのお話、聞きたい」
「たとえば」
「面白いお話」
 ルーファウスは横たわったまま、顎に手の甲をそえる。誰にも話したことはないのだが、と前置きをしてから口を開いた。神羅ビル脱出から、ヒーリンロッジに拠点を移し、エアリスと出会うまでの二年近くにいたるあらましだった。彼はそれを毎晩少しずつ話した。
 さんざんな内容だったが、ルーファウスの話し方は小気味好く、彼自身に深刻な素振りもなかったので、エアリスは時折吹きだしてしまった。棘の鞭のくだりなどは、二人して笑い転げたほどだ。
 だが話が星痕症候群までおよんだとき、彼女は気がついた。ルーファウスは後発の罹患者だった。
 エアリスは勘違いしていた。くちびるを噛み締める。
 メテオ襲来時にミッドガルでライフストリームを直接あびて発症した人々、これはもう事故のようなもので、不遇としかいえない。だが後発で発症した人は違う。ルーファウスは自ら死を受け入れたということにほかならない。エアリスは動揺した。
 彼は死から遠いところにいる人間にみえた。心身ともに、誰よりもいちばん遠くに。要塞のような居をかまえ、つねに護衛に随行されて彼もまた護身術を習得している。それらから分断されても、アンビションをいだくような精神はどのような重圧にも耐えられるだろう。そのはずだった。
 彼ほどの生き方をしてきた人間が、不意に生じた隙にすべてをくつがえされて悔やみはしないのだろうか。
 その日、晴れていれば。
 雨が降るより先にキルミスター医師が到着していれば。
 浸水する前にタークスが間にあっていれば。
 ルーファウスは星痕症候群を患いはしなかった。それを彼はもうすぎたことだと笑うのか。エアリスは眉をひそめた。
「わたし、面白いお話してって言った」
「そのつもりで話している」
「それ、あなたには面白いお話なの」
「終わったことだからな」
「でも」
「たらればの話なら、しないぞ」
「わたしも、そういうの好きじゃない。そうじゃなくて。発作、辛かったでしょ。今だって、まだ具合悪いの引きずってる。なのにもう過去のことにできちゃうの」
「瀕死の状況は脱した。誰かのおかげでな。あとに残った痛みでは死にはしない。死を受け入れることと、生を諦めることは違う」
「何だか、それって屁理屈」
 そうではないと言ってから、彼は仰向けになった。ベッドが軽くたわむ。
「私の生とは、すなわち意欲だ。私は自身の宿願を果たすことを諦めてはいない。だが、ああ、そうだ。お前の言う通りだな。最初はきつかった」
 ルーファウスは長く息を吐いた。星痕症候群はかなりの痛苦をともなう。エアリスはわずかなりともそれを知っている。
 痛苦は、死を一時なりとも受け入れた彼の不甲斐なさを、これでもかとばかりに責め立てた。垂れ流した膿で寝具を汚し、鎮痛剤を含めば頭は朦朧とする。思考をさえぎられることで、仕事が中断される。ルーファウスの苛立ちはつのるばかりだっただろう。
「そのうちに開き直った。発作が起きるとな、私は全身全霊であれに抗っているのだと、実感した」
 天井に向ける剣呑な眼差から、ふと険しさが消えた。ルーファウスはくつくつと笑いだす。
「あれって」
「私の与り知らなかった神羅の闇、親父の影、私の忌み嫌うものすべてだ」
 ちらりとエアリスを見やってから、両手で髪を掻き上げた。
「知っているか、エアリス。息も絶え絶えまで追いつめられたときにこそ、人間というのは生き生きとするものなのだと」
「それって、きっとあなただけだと思う」
 そうなのか、と彼は不思議そうな顔をした。順境も、逆境ですら彼にとっては楽しみの一部なのだろう。ルーファウスの強さは特殊だと、エアリスは呆れつつも感心した。
 治療薬開発の進捗も目処が立たず、彼は一年ものあいだを死と向きあっていたのだ。黒い膿にまみれながら、それらを睨みすえるルーファウスの双眸をエアリスはありありと思い浮かべることができた。
 一人で耐えて、一人で立ち上がれる強い人。けれど。
「本当に、それだけなの」
 強さだけをともなって生きていくことは、難しい。
「そうだと思っていたのだが、ああ、違うな」
 彼の頬が一瞬強張った。
「自身をあわれんで、それに腹を立てていた。怒りは力になる。あわれみが力の源泉とは、情けないことだな」
「それ、情けなくないよ。贅沢なことだって思う」
 エアリスはほっとした。彼はそれ――自己憐憫――ができる部類ではないと思っていた。そうではなかった。
 自己憐憫は悪いことではないとエアリスは思う。己が壊れてしまわないうちに、自分自身を慰めることでバランスをとる。弱さと対話し、情けなさを冷笑しつつもそれを認めること。そんな贅沢をしなければ、人生に転がる小石につまずいたとき、いつか起き上がれなくなってしまうのではないか。取り分けてルーファウスの場合、彼の選んだ道を妨げるものは小石どころではないだろうに。
「いつも弱音ばっかりじゃ、贅沢じゃなくなるから。ほどほどにしないといけないけど」
「お前はそうやって生きてきたのか」
 エアリスは頷かなかった。
「それはね、理想。本当はわたし、上手に甘やかせないの、自分のこと」
 長い髪を手慰みにする彼女を、ルーファウスはしばらく黙って見ていた。ゆっくりと身体を捩って、横寝をする。彼は長躯だが、並んで寝転んでしまえば二人の視線の位置は同じだ。青色の双眸が緑色のそれを真正面から捉える。
「だからお前は短命なのだろう」
 彼はぞんざいに言った。俯きかけたエアリスは、弾かれたように顔を上げた。
「ひどい。その言い方、すごくひどい」
「ひどいと言われるような生き方が、ひどいのではないか」
「どこがひどいのよ」
「ジェノバ戦役の英雄だったか。あれだけ面子がいたというのに、結局お前は一人を選んだのだろう。頼らなかったのか、頼れなかったのか。どちらにしろひどい話だ」
「わたし、ああするのがいちばんだって、あのときは思ったから。それは」
「ならばお前は己の力量を判断しそこなったな」
「もう、ああ言えばこう言う」
「お前も大概だ」
 言いあううちに、エアリスの気持ちは明るくなる。
 確かにルーファウスは言葉に針を持つ。声音の冷ややかさも相俟って、大抵の人が萎縮するのも頷ける。そうして立てられたうわさが『血も涙もない』なのだろう。だが彼のずけずけとしたものの言いようは、思いのほか心地いい。エアリスはうわべを繕った慰めの言葉より、真実のそれが好きだ。
「次は読み誤るなよ」
 何よりルーファウスには害意がない。彼の言葉づきを正しく受け止めれば、それはむしろ的確なアドバイスだった。ここへ来て一箇月以上が経つが、まだ星の意図どころかヒントさえも見つけられないでいる。だがエアリスは焦ってはいなかった。彼が教会でかけてくれた言葉を、今一度ゆっくりとのみこむ。
 与えられた余暇を、今度は正直に生きてみよう。ほかの誰にでもなく、自分自身に遠慮することをやめて。
 そんなことを考えながら、エアリスは頷いた。
「ね、甘やかしあいっこ、しよっか。あなたもそういうの、下手そうだから」
 ルーファウスはひどく驚いた面様をした。
「長生き、したいでしょ」
 さらに目を丸くして、彼は食い入るようにエアリスを見ている。やがて彼女がいたたまれなくなって眸を逸らせるまで、ルーファウスは見つめ続けた。
「お前の持論は、わけが分からない」
 困ったように言ってから、ブランケットを引き上げた。ルーファウスは目蓋を閉じる。ややして、ふっと軽く笑った。
「明日の夜も星が見えなければ、次はお前が何かしらの話を用意しておけ」


 衣擦れの音でエアリスはわれに返った。いつの間にか雨と、となりに横たわる彼の寝息がやんでいた。
 ルーファウスが身じろぎをしている。エアリスは彼の明るい髪色を見た。寝起きの頬に散らかる金髪を、指で梳いてみたいと思うようになったことは彼には内緒だ。
「何時だ」
「六時すぎたとこ。アラームまで、もうちょっとあるよ」
「いや、起きる」
 エアリスはアラームクロックから目を離す。長く思い耽っていた気がしたが、実際は三〇分程度だった。朝がほんのりと明けている。彼が上体を起こす様子がよく見えた。
「おはよう、ルーファウス」
「ああ」
「具合、どう」
「悪くない」
 ヘッドボードにもたれながら、彼は髪を後ろに撫でつける。整髪料をつける前のそれは、本来ならくせのない髪質をしている。だが寝起きだけは別だった。摩擦でふくらんで、まるでコットンキャンディーだった。ルーファウスは寝癖を気にしないらしい。横顔のシャープな輪郭を、エアリスは寝転がったまま見上げた。確かに顔色はいい。
 ぽこぽこと浮いた背骨は、パジャマの上からでもよく分かる。それもあと数箇月も経てば筋肉にうもれるだろう。彼は意外にもよく食べ、よく運動をした。運動といってもまだリハビリテーションの範囲内だが、弱っていた機能が回復次第、フィジカルトレーニングに切り替えるようだ。トレーナーはタークスで、それぞれの得意分野を持ちまわりで訓練するらしい。これもまた社長業には必要なスキルなのだとルーファウスは言った。きっと『神羅の』社長以外には不要なのではないかと怪しみながらも、エアリスは彼女のできることで応援をしている。できたての朝食をふるまうことは、すでに彼女の日課だった。
 近ごろになってルーファウスが体調をくずす頻度はようやく減ってきている。杖の介助は、もう必要なかった。
「わたしの子守歌、もういらないかな」
「それは続けてくれ」
「寝る前のお話は」
「それもだ」
「仰せの通りに、王様。面白い物語、一〇〇一回しなきゃ殺されちゃう語り手みたいね。でもそろそろ、語り手、交代しよう。あなたのお話、また聞きたい」
「私の話か」
 エアリスも起き上がって、彼と向かいあわせになるようにぺたりと座る。それから大きく伸びをした。三月の早朝はまだ冬の名残をとどめているが、パジャマ一枚でも平気だった。節電中のため常春とまではいかないものの、プライベートフロアの室温は一定に保たれている。スラムでは思いつきもしなかった贅沢だ。ルーファウスはといえば、ブランケットを引き上げながらわずかに眉根をよせていた。寝起きや機嫌が悪いのではなく、単に肌寒いだけだ。それでも彼がヒーリンロッジの環境に不満をもらしているところを聞いたことはない。温室育ちのわりにはがんばっていると、エアリスは好ましく思った。
 表情の薄い人だと思っていたが、情感そのものは人並みにあるのだと彼女はすでに知っている。
「前に話しただろう。ウェポンに襲撃されたあとのことを」
 ルーファウスは腑に落ちないという顔をしている。珍しく歯切れが悪い。
「神羅社長の大冒険ね」
「誰にも話したことはなかったし、誰にも言うつもりはなかった」
「どうして」
「言ったところで、起こったことは変わらない。何も」
「でも、起こったことで、あなた自身が変わった。でしょ」
 ルーファウスは少し考えたあと、頷いた。エアリスはいちばん大きなシャムを抱きかかえて、顎を乗せる。人生の分岐点というのは、誰にでもある。二つか三つか、あるいはそれ以上に。ルーファウスの場合、そのうちの一つが彼の話のなかにあったウェポン襲撃なのだろう。神羅カンパニーへの拘泥の、その根底にある思いが――父親から世界へ――変わったと自覚したときだ。
「わたし、あれから考えたの。あなたの大冒険、最後のボスが星痕じゃなかったら、わたし、今ごろまだ一人ぼっちだったかもって」
「星痕に感謝しておけ」
「病気にそんなこと、しないよ」
「それから言っておくが、冒険の旅はまだ終わっていないぞ」
 ルーファウスは含みのある言い方をした。ぽかんとしたあと、だね、とエアリスは小首を傾げた。曲折を経てようやく拠点を得たが、冒険の目的はまた別にある。そしてまだ彼は神羅の名告を上げていない。無名の男のまま、旅へでる気はないのだろう。ルーファウスにとってヒーリンロッジでの暮らしは、長い冒険のまだ準備段階なのかもしれなかった。
「でもね、あなたの転機が、わたしにとっての転機だったのかも。だから、あなたがこっちの道、選んでくれたことには、ありがとうって思ってるよ」
「選択の正誤を判断するには、早い。だから礼を言われるようなことは、まだしていない」
「してくれた」
「お前がそう思うのは、自由か。私は今までにいくつスルーしてきたのだろうな」
 それまでにも岐路は何度かあったと、とルーファウスは吐息をついた。
「気がつかないまま終わる人だって、いるよ。勿体ないことしてるよね」
「気づいていても、目を逸らせてきたものもある」
「今、ちゃんと見てるなら、だいじょうぶ。あなたは、勿体ないことしないでね」
 ルーファウスは彼女をまじまじと見た。だけど、とエアリスは上目で彼を見つめ返す。
「こんな滅茶苦茶なターニングポイントじゃなきゃ、無視しちゃうなんて。ちょっと信じられないけど」
「言っただろう。私は人でなしだったと」
「スラムのうわさではね、ルーファウス、血も涙もないんだって」
「血も涙もない男が、今更あんな話をするなど、どうかしていた」
 真正面の何もないところを睨みすえたあと、彼はほっと肩の力を抜いた。エアリスに向けた横目は、思いのほか柔和だった。
「だがさっぱりした気分だ」
 ルーファウスはベッドを降りた。ガウンを羽織りながらブラインドを開ける。
「ああ、止んだな」
 ちょうど厚い雲が割れて、ベッドルームに一条の朝日が差しこむ。それはたちまちのうちに広がると、夜の気配をフロアの端へ追いやった。二人は目を眩ませながら、どちらともなく顔を見あわせた。
「いいんじゃないかな、そういうの」
 ルーファウスには仰々しいネオンこそ似つかわしいと、エアリスは勝手にそう決めこんでいた。だがそれは違った。人工的な夜色よりもずっと、朝の透明な光とルーファウスは調和が取れている。白いスーツをまとわない彼は、穏やかな人だった。
「言いたいこと、言いあって。やりたいこと、やるの。ほら、甘やかしあいっこしようって、言ったでしょ。わたしはそうするって、決めてる」
「お前はなかなかに図々しい女だな」
「それ、言われると思った。順応性が高いって、言って」
「どちらにしても、嫌いではないぞ」
「じゃあ、早速、有言実行。ね、ルーファウス。今、何したい」
「お前こそ、何がしたい」
 エアリスは彼の言葉をゆっくりとのみこんだあと、破顔した。彼は不言実行派のようだ。そして行動はいつも早い。ここは遠慮なく甘えてしまおうと、彼女はクッションを放ってから胸の前で手を組んだ。
「咽喉、乾いたな。何か飲みたい」
「いいだろう。オーダーは」
「コーディアルのお湯割り。エルダーフラワーとリンデン、二対一で」
「いい選択だ」
 ルーファウスは踵を返した。颯爽としている。エアリスはブランケットを握り締める。彼が起きて元気な姿が見られることが嬉しかった。
「ね、あとで散歩いこうね」
 ドアノブを握る彼の背中に、声をかけた。ルーファウスは顔だけを向けて、目つきでイエスを知らせる。その拍子に一髪、また一髪と、金色のそれが頬へとまばらに垂れかかる。襟足がだいぶ伸びていた。
 エアリスはヘッドボードにもたれる。ルーファウスが爽やかな香りのする飲みものを運んでくるのを待ちながら、予感した。彼の髪に指を絡めたいと思う気持ちを、がまんできなくなる日が来るだろうと。
 そして予感は日に日に近づいている。


■END■
(ね、起きて、朝だよ)

20200820