祭子
2022-07-18 11:34:08
14982文字
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■SWEAR BLACK IS WHITE■

∠[ν]-εγλ0010/01
新参の護衛を見るなりルーファウスは激怒します。彼の冷眼に動じない女が不思議でなりません。
※サイト掲載テキスト(20200909初出)

■SWEAR BLACK IS WHITE■
∠[ν]-εγλ0010/01


 ルーファウスの憤怒は、はなはだしかった。
「これは何だ」
 声を荒げることはない。まして暴力をふるうわけでもない。ルーファウスは社長室のエグゼクティブチェアに深く腰かけている。アームレストに肘を立て、人差指でこめかみを打っていた。物腰はいたっていつも通りだ。
 ただツォンが連れてきたそれの存在を知るやいなや、アトモスフィアが一変した。青色をした一対の眸で、黒服の四人を睥睨する。デスクを挟んで矢面に立つツォンは、頭頂から踵まで串刺しにされた気分がした。つい数箇月前、アンダージュノンでセフィロスの思念体と初めて対峙したさいにもよく似た感覚に囚われた。が、あれの比ではない。
 ツォンはそれに目を向けようとしたが、ルーファウスの視線の檻からのがれられない。腰の後ろで手を組んだまま、ツォンは硬直していた舌をほぐす。
「ガードハウンドのワンオフブリード型です。ようやく実用段階まで生育しましたので、本日づけで実地投入しますが、よろしいですね」
「事後報告か。いい度胸だな」
 ルーファウスはタークスからようやく目を離した。ガードハウンドはすでにルーファウスを主と認め、彼の真横につき従っている。生後一〇箇月だが、体つきは成体に近い。双方が立ち並べば、犬の頭部は長躯のルーファウスの胸のあたりに届きそうだ。
 社長が犬を見ているわずかな隙に、ツォンは吐息をついた。が、後ろに控える部下はかわいそうなもので、圧倒的な怒気を前にいまだ息をつめている。ツォンはこの状況をあらかじめ想定していた。その上で彼らを同席させた。
 ヒーリンロッジのふもとに住まう年かさの連中に、近ごろは悪がきなどと呼ばれているらしい。無論、神羅カンパニーのイメージ回復は喜ばしいことだ。ルーファウスは風評に昔から頓着しないが、ツォンにはこの付近一帯の住人に会社の印象操作を担わせようとする目論みがある。だが、今ではない。
 この中途半端な状態はどうにも締まりがなかった。社員も増えてきたなか、初っ端から舐められる神羅を見せるわけにはいかない。社内のたるんだ空気を引き締めるなら、まずは神羅の中枢にいる者からだ。ツォンはこの場に呼んだ部下には、とくに期待をよせている。
 ルーファウスはデスクに両肘をつく。それから五指を組んだ。いまだ厳しい顔つきだ。
「そうではない。なぜ用意した」
「一昨年前、あなたが拉致されて、われらの人員不足を痛感しました。猫の手も借りたいところでしたが、猫はあのどさくさに紛れて野良になりましたので」
「その猫に、お前は助けられたのではなかったか」
「はい。ですが猫は気まぐれです。すぐに爪を立てます。今だってそうでしょう」
 猫は餌をやれば美味そうに食いつくくせに、決して家に戻ろうとはしなかった。それどころかそとでWROなどという大きな群れをつくる始末だ。恩知らずなあの猫は、群れのボスとなって元飼い主に威嚇をする。
 ルーファウスはそれを面白がり、重用しているが、ツォンは忌々しく思う。
「だから、犬なのか」
「ええ。何せあなたの専属軍用犬は強靭で、素晴らしく従順でしたから」
 ツォンは努めて表情を変えずに言う。
 二年前、巨大企業が総くずれしていくなか、ツォンはルーファウスに与する人物を見定めることに難儀していた。主だった役職づきは死亡か離反、その下の管理職になると会社存続よりも己の保身を優先したからだ。反神羅を掲げられるよりましだが、信用もできない。同部署の元上司や部下に声をかけながら、彼が目をつけたのはダークネイションだ。ほかの量産型の軍用犬とは違い、あれは科学部門が改良を重ねた強化品種だった。リンク設定された人間を生かすためだけに存在する。
 長くルーファウスのそばにいたが、星の守護獣との攻防以降は姿を見ていない。おそらくは当時の本社ビル最上階がウェポンの直撃を受けたさい、崩壊に巻きこまれたのだろう。エグゼクティブフロアにはオペレーション・シスター・レイにかかわる特別チーム――兵器開発を筆頭に治安維持、都市開発の三部門が手を取りあうという、未聞の事態――で騒然としていたはずだった。ほかにも社長護衛のソルジャー、そして秘書が多数常駐していた。結果は死屍累々だ。ルーファウスがあの場から逃げおおせたことは、無論、僥倖だろう。だが、それを差し置いても残念だと、ツォンは思う。自称ソルジャーの男とも渡りあえる果敢な犬だったというのに。
 一昨年の冬、ルーファウスがカームで失踪してから、ツォンは捜索と同時にダークネイションのコピーを用意することにした。幸か不幸か、旧本社ビルのメインシステムはダウンしていた。ツォンはまず現地に赴いた。瓦礫と化した科学部門にもぐりこみ、元データを見つけなければならなかった。幾重にも設けられたパスワードの手動解除、ラボから逃げだしたモンスターの相手、研究者独自の言語の解読、そしてさらに凶悪なモンスターの相手。旧本社ビル付近にのさばるモンスターは、もうしばらく放置しておくことにした。外部からハッキングされる心配はないものの、あのくず山には持ちだしを許してはいけない秘密ばかりが埋まっている。ミッドガルの精査に人員が割けるようになるまでの、用心棒代わりにちょうどいい。
 そうして持ち帰ったデータは解析が不能な状態だった。だがツォンは諦めなかった。
 春ごろには稼働可能な施設の確保とスタッフ召集までが着々と進み、元データの復旧にも成功していた。
 ルーファウスの消息を掴んだのは同年の秋だったが、その少し前にはガードハウンドの二倍体細胞が完成した。ただ困ったことに、培養ポッドを探しだすまでに思いのほか時間を取られた。その上、ようやく手に入れた培養ポッドは旧型で、成体まで育成することが叶わなかった。
 ようするにパピー状態のガードハウンドを、等倍の時間をかけて、人の手で飼育しなければならなかったのだ。ツォンはハンドラーまで手配する羽目になった。
「ぜひ、お役立てください」
 ここまで手をかけて、準備できたのはたった一頭だ。ツォンは雇用主を見据える。だがルーファウスは簡単には頷かなかった。
「私は、私の理念をお前たちに伝えた。伝わっていると思っていたが」
 ツォンは首肯する。ジェノバから始まった悪夢。「終わらせてやる、完全に」がルーファウスのくだした社命だった。彼はそれにともない、生命に人為的な手を加えるような研究からは今後いっさい手を引くと言った。
 兵器製造や、さんざん人体を弄んで得たノーハウは、人々の健康に貢献できるよう変針するとも言った。負債返済の一環として、医療関連事業に力を入れる。加えて――まっとうな――医療従事者や技師の育成機関も必要だった。死にかけてみてようやく五体満足でいることのありがたみが身に沁みた、とルーファウスらしい口振りで宣言した。
 すでに創薬および製薬事業は始動しているが、本格的に動くにはまだ人が足りない。それ以上に、旧神羅カンパニーの現状把握が追いついていなかった。
 ミッドガル跡地を含め、神羅の息のかかった研究所や施設の数は途方もない。遠隔で操作できるシステムに関しては、ルーファウスがすべて一元管理をしている。旧施設や今回の精査で所在が判明した建物は、タークスではパスワードが解除できない。ルーファウスの体力の回復を待って、実地検分する以外に手立てがなかった。
 そのためにもルーファウスを裏切らない護衛が必須なのだ。
「重々承知しています、社長」
 ルーファウスの眼差は冷ややかだ。一同は見上げられているというのに、眼下に置かれた気分になる。ツォンは勘気を甘んじて受け入れる。ルーファウスが嫌悪している闇に、手をだしたという自覚はある。
 それでもガードハウンドはむだにしたくはない。
 無益にしたくないのはツォンが費やした労力のことではなく、ルーファウスのパーソナルスペースにまで立ち入れる貴重な護衛だ。ガードハウンドなら、今後行われるだろうさまざまな交渉の場にも連れそわせることもできる。プライベートフロアへの出入も自由だ。犬ならば、何を見、何を知っても、言葉や文字に変えることができない。
 ツォンは後ろ手を組んだまま、少し顎を上げた。今は何をおいてもルーファウス神羅の存命が第一だった。そのためならば、当人の不興を買おうがツォンは知ったことではなかった。
 ツォンは社長の背面の壁を見上げた。社章に使われた赤色が際立っている。
 仮に彼とは別の一派――たとえばあのどら猫集団――が、この先の時代を拓く立役者となっても、真に当代を支えるのはルーファウスだとツォンは信じている。そしてルーファウスが統率する神羅にこそ、所属する価値がある。
「ただ、社命を受けるより先にガードハウンドは生まれていましたので。今更、処分するにはしのびないでしょう」
 ルーファウスは組んだ手に額を乗せて、俯く。フロアに重圧な沈黙が続いた。そのあいだ、彼の肩がかすかにふるえていたのを、ツォンは怪訝な顔で見ていた。ふと気づく。ルーファウスは笑みを噛み殺している。怒りながら、笑う。なぜ。
 ツォンは職務上、人の情感を読み取ることに長けている。ルーファウスも例外ではなかったが、彼のそれはふとしたさいに深淵に沈んでツォンですら目を凝らしても見えなくなる。とくにルーファウスがミッドガルを出奔してからは、それが顕著だった。
「そうか。分かった」
 ルーファウスは長息をついた。あとわずかでも彼が緘黙をつらぬいていたなら、ツォンの部下はこの圧につぶされていたかもしれない。そんな瀬戸際を見計らったかのように、このフロアを支配する男は身体を起こした。
「食えない男だ。いいだろう。私のガードドッグとして役立てよう」
 そう言いながらチェアを引き、足を高く組み上げる。ルーファウスはようやく怒りを収めた。
「ありがとうございます」
「ただし、今回かぎりだ。以後は背信行為と見なす。言訳はいっさい聞かん。やましいことがあるなら、早々に片づけておくことだな」
 薄く笑いながら言われて、ツォンは目を伏せた。
「なあ、ツォン。お前がそれほどに推してくるくらいだ。こいつがいれば、多少セキュリティーはゆるくしてもかまわないのだろう」
 散歩くらいは一人で行きたいのだが、と言われればツォンは容認せざるをえなかった。ルーファウスは満足げにふんぞる。
「ほかに用件は」
「はい。グラスランドエリアの発着場と、スキッフ確保の件ですが」
 ツォンは別件の報告をいくつか始めた。ルーファウスは質疑を一つ二つ挟みながら、耳を傾けている。それも終わり、下がろうとしたところで、部下たちの戒めがようやくとけた。ぴんと伸ばしすぎた反動なのか、レノの背中がいつにも増して丸い。
「お前の猫背でないところなど、久々に見たな」
「もう怒ってないのか、社長」
「怒りは持続させるものではない。何せ疲れる。双方ともにな」
 ルーファウスは目笑した。ガードハウンドは主の横の何もないスペースをちらちらと見ていた。その大きな頭を、ルーファウスは撫でている。それから犬に向かって、口に人差指を当てて見せた。レノは首を捻った。
「それに私は犬が好きだからな」
 ツォンは退室前にルーファウスへ一礼をする。ボディーが総革張りのチェアは、弱冠の社長では風格が追いつかないだろう。一時は社長が判断を誤ったのではないかと、疑ったこともある。だが今はルーファウスにこそふさわしい椅子だと、ツォンは感心した。


「社長、やっぱり底が知れないな」
 エグゼクティブフロアから、ミニキッチンを抜けてオフィスへと戻る、たった二枚のドア。閉めたとたん、あたりの空気が緩和した。頭頂から噴きだす汗を拭って、ルードが言った。まだ背中がびりびりするとぼやきながら、しかしレノの声は弾んでいる。ツォンはレノの肩をねぎらってから、自席に着く。ラップトップを開くと、手早くタイピングしだした。
「底が見えるような人間には、お前たちはついていかないだろう」
「主任、そっくりそのまま返すぞ、と」
「そうだ、ツォンさん、久々に生き生きしていたぞ」
 歓談する彼らのわきを、イリーナが擦り抜ける。足運びは不安定で幽鬼のようだ。血走った目のまま、自席へたどり着けずにソファーへと沈んだ彼女に、レノがにやついた。
「イリーナちゃんは、社長の逆鱗、そういや初めてか」
「はい」
「あの人、お育ちがいいからな。普段はあんまり感情に抑揚ねえもん」
「はい」
「美人が怒ると、迫力倍増するよな」
「はい」
「こりゃ、聞いてないぞ、と」
「はい」
「なあ、ルード。イリーナのおっぱいすんげえ盛ってるけど、あれ本当はBカップなんだぞ、と」
「聞こえてます。セクハラです。訴えます。私の勝訴で先輩は死刑ですていうか私刑にします。あとでオフィス裏に来てください」
 ほっと息をついてから、イリーナは背筋を伸ばした。
「タークスに赴任したてのころは現場ばっかりで。社長と近しくさせていただくようになったのって、ここに来てからだから」
 イリーナはまばたきすることを思いだしたようだ。みるみる眸に潤いが戻る。
「やっぱり神羅はこうでなくちゃですよね。悔しい、あのくそスロップにさっきのうちの社長見せつけてやりたかったです。けど社長が元気になられて、本当によかったです」
 短めの金髪を散らしながら、顔を上げる。がんばって熊を狩った甲斐がありました、と彼女は大声で言った。レノとルードは顔を見あわせてから、肩を竦める。ツォンは眉間をかいた。
「お前も大した狂犬だぞ、と」
 まるでガードハウンドのような彼らは、それぞれのデスクに戻って一息ついた。ややしばらくして上座にあるドアがノックされた。入室したのはジャッドだった。
「あれ、どうしたんですか。皆さん、うきうきした顔して。お父さんの説教終わってやっと遊びに行ける、みたいな」
「あんたのたとえは庶民すぎて、分からないのよ」
「イリーナは楽しそうっていうより、怒られて半べそかいてるって顔だけど」
「うるさい」
 年齢の近い二人は、すでに気安いなかだ。イリーナはそれを快く思っていないようだが、彼女にもそろそろ後輩が必要だった。部署は違えども、切磋琢磨にちょうどいいとツォンは思っている。
「お、いいにおいだぞ、と。それ、くれ」
「僕はあなたたちのお茶くみじゃないんですけど。これ、社長のだし」
「社長室には入らないほうがいい」
 ルードが言った。ツォンはラップトップから目を離さずに口を開く。
「そうだ、ジャッド。今日から社長は犬を飼われることになった。世話は任せる。マニュアルはお前のフォルダに入れておいたので、確認しておいてくれ」
「分かりました。でも急ですね」
「サプライズ。驚かせてやろうと思ったんだけどなあ」
 後頭部で手を組んで、レノはぐずぐず言う。
「ああ、それで。皆さん、社長に怒られたんですね。勝手に拾ってきていったい誰が世話をするんだ、みたいな。まあ、僕のようですけど。じゃあさっきのお父さんの説教って、あながちはずれじゃなかったんだ」
 イリーナが青年をじっとり睨み上げているが、ジャッドは無視している。
「犬ですか。いいなあ、僕も犬好きなんです。あとで撫でさせてもらおうっと」
「俺、犬にけつ噛まれてズボン破られるのに、五〇〇ギルだぞ、と」
「じゃあ、私はジャッドが威嚇されて半べそかくのに八〇〇ギルです」
 レノとイリーナに視線を向けられて、ルードはサングラスの奥の目をしかめる。
「俺はパスだ。いきなり世話をさせるなんて、ジャッドの手に余るだろう。大丈夫なのか、ツォンさん」
「問題ないだろう。あれは社長の機微を読む。ただ、世話には多少体力がいるかもな」
 ツォンがしれっと言い退けるのを聞きながら、部下はそれぞれに気の毒そうな顔をジャッドへ向ける。が、青年は呑気だ。
「大型犬なんですか。犬種は。長毛種だったら嬉しいな。社長にもぴったりですよね、ゴージャスな犬」
「残念だが短毛種というか、ヘアレスだ」
「ルードさんとお揃いですね。じゃあ、歯とスキンケアには気をつけてあげなくちゃ」
「耳が兎みたいに大きくてね。すごくむきむき、筋骨隆々って、ああいうのを言うんだよね。ちょっと羨ましいくらい」
「強そう。社長の護衛にちょうどいいですね。ガードドッグぽい感じかな」
「当たってるけど見当違いっつうか。まあ、あれだ。紫色っぽいつうか青色っぽい肌で、目は赤くて真丸。尻尾は二つあるぞ、と。けつと背中」
 背に尻尾、と呟いてからジャッドは沈黙した。目が虚ろになる。
「かわいい、かわいい、わんちゃんだぞ、と」
「そういうことですか。撫でるより先に、マニュアル頭に叩きこまなきゃ」
 状況を理解したらしいジャッドに、ツォンは感心した。善良な青年に見えて、ジャッドは胆力が据わっている。口も堅い。ルーファウスのこととなるとさらに貝を閉じたようになる。ツォンはそれを目の当たりにしたことがあった。
 新規採用や再雇用で人材は集まりつつある。とはいえ、社長の身辺に置ける人間というのはかぎられてくる。生活空間に立ち入らせるとなると、さらに条件は厳しい。本来であればハウスキーパーは外注業者が担うはずだった。だが現状は守秘義務の上に成り立つ雇用契約が結べる状態にない。ルーファウスの日常生活が、不備なくいとなまれるような環境を整えること。それはタークスには困難だった。タークスにはタークスの仕事があって、生活を物質的な面――家事一般だ――から支えることには、残念ながら向いていない。その点、ジャッドは及第だった。要は適材適所の問題だ。
 社長はいい拾いものをした。ツォンはルーファウスの幸運を寿ぎたくなる。
「ちょっと僕、コーヒー淹れてきます。頭しゃきっとしなきゃ」
「俺、ホットお代わりだぞ、と」
「私はカフェオレにして」
「俺はアイスで頼む」
 いのちがかかってますので、と踵を返した青年に、遠慮を知らない声がかかる。ジャッドは頷いた。何だかだと言いながらも、お人好しだ。タークスに一般人が馴染んでいることにも、今更ながらツォンは苦笑した。
「主任もどうですか」
「俺はいい。すぐにジュノンの生体研究所へ向かう」
 現地研究員はツォンが自ら編成したチームだ。腕がよく、分別もある。このまま解散してしまうには、勿体ない人材だ。研究員らに次の職務を与えて、引き留めておきたかった。何よりもガードハウンド強化改良にかかわるいっさいのデータ消去は、自身の手でやらなければ気がすまないのがツォンの性分だった。
 何せ主の命令はぜったいだ。データ一つ流出させるわけにはいかなかった。ツォンはラップトップを小脇に挟み、席を立つ。車のキーを握りながら、一度だけ振り返った。
「休憩もほどほどにしろ。尻尾のある後輩に、引けは取るなよ」


「ね、今のってイリーナでしょ。熊、狩ったって、聞こえたけど」
 空耳じゃないよね、とエアリスは小首を傾げている。
 ツォンがガードハウンドと部下をともなって入室する前から、エアリスは社長室にいた。通常であればそっと席をはずす彼女がそのまま居あわせたのは、何もルーファウスの怒気に射竦められたからではないようだ。エアリスは終始ガードハウンドの視線を気にしていた。
 そして今は、心配そうに壁の向こうを見ている。
「あなたに怒られて、おかしくなっちゃったのかな」
 ルーファウスはつい笑いそうになるのをこらえた。エアリスの人生には、熊を狩る女など存在しなかったに違いない。
「心配するな、あれは本当に熊を狩ってきたぞ。イリーナがおかしくなったわけではない。ましてや、私が叱ったせいでもない」
「あなたの怒ったとこ、初めて見た。ね、わんちゃん、ご主人様怖かったよね」
 ガードハウンドの尻尾がすっぽりと股のあいだに挟まっていたのを、彼女は見逃さなかったようだ。それでもすでに彼を主として控える姿は、いっそ健気だった。ルーファウスはガードハウンドの首筋を撫でた。懐かしい感触に、一瞬指先が強張った。
「仕方がない。いけないことをしたら、その場ですぐに叱らなければ。躾とはそういうものだ」
 ルーファウスはフロア西側に設けられた応接スペースまで、杖をついた。ジャケットを脱いでソファーの背に引っかける。と、上座にある三人掛に座った。そのあいだもガードハウンドは主の一挙手一投足に注目し、つき従っている。
「こいつがお前を気にして落ち着かないのでな、内心冷や冷やだったが」
 ルーファウスはハンドサインを示す。よく躾けられていて、犬はコマンドの通りに伏せた。せわしなく動く尻尾が、まだ幼い。
「嘘。途中から笑いそうなの、がまんしてたでしょ」
「あれは仕方がないだろう。ツォンが悪い」
「あなた、怒ったり笑ったりで忙しくするから、わんちゃん、そわそわするし。わたしのこと、不審者みたいに見てくるし。わたし、動いたら噛みつかれるかなって、気が気じゃなかったんだから」
「誰か気がついただろうか」
「レノがね、ちょっと変な顔してた」
「レノか。あれは目聡いからな」
 犬のそれにまで敏感なのは知らなかった、とルーファウスは言った。エアリスはソファーの肘かけ近くに立つ。
「ちゃんと褒めてあげたら」
「それはまず直属の上司がすべきだ。あれにも部下を指導するという役目がある」
 エアリスは不思議そうに彼を見下ろしたあと、くすくすと笑った。
「ルーファウスって、いいお父さんだね」
「どうしてそうなる」
「どうしてかなあ」
 彼女は嬉しそうだった。ルーファウスはエアリスを不審そうに見るが、彼女の関心はすでに別へと移ったようだ。ガードハウンドを覗きこんでいる。
「ね、ルーファウス。この子、撫でてもいいかな。ちょっと試してみたいの。見えてるなら、さわれるかな」
「おそらく問題ないだろう」
「噛まないよね」
「私がお前を噛めば、こいつもためらうことなく噛みつくだろうな」
「じゃあ、あなたはわたしのこと、噛まないでね」
 ぱしんと乾いた音がした。エアリスが彼の二の腕を気安くはたいたのだ。犬が困ったように主を振り仰いだ。エアリスに害意がないことも、ルーファウスが彼女に排他的な感情をいだいていないことも、ガードハウンドには見抜かれている。主従のリンクはうまくいったようだが、ルーファウスは困ったように笑った。
「私のハウスメートだ。エアリスという。ほら、挨拶してこい」
 そう声をかけると、ガードハウンドはエアリスに飛びかかった。エアリスはいきおい余って尻もちをつく。くすぐったそうに身体を捩る彼女にはおかまいなしに、犬は白い顔を舐めている。においのチェックも怠っていない。二本の尻尾は機嫌よくしなっていた。
 未熟ではないが、やはり落ち着きがない。そして好奇心のかたまりだった。ツォンのレポートにある通り、犬が人の手で育てられたからだろう。一〇箇月もともにすごせば情も移る。まわりからずいぶんとかわいがられたに違いない。
 それとも、これが神羅製のいきものだからだろうか。エアリスへの懐き方は、ルーファウスが彼女に気を許した度合を見せつけられているかのようだ。どうにも気まずい。
「私はこんなにイージーなのか」
 ルーファウスはソファーにもたれて、腕を組む。どこまでが犬の性分で、どこからがルーファウスとリンクしている部分なのか。あまり考えたくはなかった。
 犬の巨躯の下からエアリスの「助けて」という笑い声がした。ルーファウスはステイのコマンドをだす。ガードハウンドは名残惜しそうに彼女の頬を一舐めして、離れた。
「どうしたの」
「いや。元データを復元したというのなら、こいつの脳の連合野には私の遺伝子情報が組みこまれている。そんなものを復元したことにも、腹が立つ」
 もとを正せば、本人の与り知らぬところで、彼の根幹にかかわる部分を濫用されていたことが心外だ。製造元は科学部門だが、要人警護は治安維持部門の管轄だった。その統括はプレジデント神羅の腹心だ。結局はルーファウスの父親の差し金だろう。思わず溜息をついた。
 エアリスは身体を起こすと、彼の膝にそっと手をそえた。薄く化粧をした顔が、唾液でぬれている。ルーファウスは手巾を差しだした。
「でもね、間違えて生まれてきちゃったなんて、思わないでね」
 エアリスは一心に彼を仰いでいる。緑色の双眸に囚われると、逸らすことが難しくなる。
「コピーって言ってたでしょ。前の子の」
 彼女は眉根をよせた。くちびるには微笑を浮かべているというのに、時折そんな風に頼りない顔つきをする。
「前の子と、比べたりしないでね。本物だって、言ってあげてね」
 ルーファウスはゆっくりとまばたきを繰り返した。しばらくのあいだ、彼女の切ない訴えを玩味する。
「分かっている」
 そうこたえると、彼女はほっとしたようだ。コピーと名のつくものには、お互いにずいぶんと振りまわされてきた。だからといって、複製を厭ってはいない。ルーファウスはジェノバ戦役の英雄と呼ばれる運び屋を、ふと思いだした。同一になるようつくられたとしても、別のものになったほうがいい場合もある。
 ガードハウンドも、そうなるといい。ルーファウスはそう思った。
 彼はガードハウンドのことですら、以前から腹立たしく思っていた。改良を重ねるたび消えていったいのちは途方もないだろう。そうしてルーファウスのもとに送られてきた強化品種も、おそらくは。長く暮らした相棒のような存在だった。ダークネイションがいれば、キルミスター医師に拉致された主の行方などすぐに見つけたはずだった。
 しかし、とルーファウスはガードハウンドを見る。新しくつくりだされたいのちは、コピー元など踏襲しなくていい。
「つくられたものに罪はない。分かってはいる」
「うん」
「要は育て方次第だな。こいつは甘やかされていたようだ。なかなかにてこずりそうだな」
「じゃあね、最初に愛情いっぱいのプレゼント。ほら、名前」
 ルーファウスは沈黙した。エアリスはどうしたことかと彼を見ている。
「名前、つけてあげなきゃ」
「レポートに型番があっただろう」
「それ、名前じゃないよ。わたし、古代種って呼ばれるの、いやだったな」
「それは」
「いやだったの。すごくいやだったなあ」
「エアリス」
「なんて、今のは冗談。だけど、名前は本気。これからずっと、あなたのそばにいる子でしょ」
 ルーファウスはそっぽうを向く。そんな風に考えることができた時期もあった。だから前の犬にはルーファウスが名前をつけた。幼いなりに懸命に考えて。
「そう思うのなら、お前がつけろ」
「それって、責任重大。ね、前の子、何て名前だったの」
「言うつもりはない」
「どうして」
「どうしてもだ」
「もう、変な人」
 どうしようかな、とエアリスは小首を傾げた。両手でハンカチーフを握り締めながら、ガードハウンドをさまざまな角度から眺めている。
「じゃあね、ダークスター」
 ルーファウスは目を瞠った。なぜ、という言葉はかろうじてのみこんだ。
「あなたと初めて見た星空の感動、こめてみました」
 エアリスは悪戯っぽく笑っている。ルーファウスは思いだす。
 二人の初めての天体観測は、曇天だった。黒色に近いダークブルーの空。わずかな雲の切れ間からのぞいたのは、赤味を帯びた二つの星。ルーファウスはガードハウンドに声をかけた。主に顔を向けられて、赤色の双眸がきらきらとまたたいていた。まるであの夜の星のようだ、などと思いかけて、眉をしかめる。ロマンチシズムとは無縁だったはずだ。だが。
「いい名だ。ではディーと呼ぼう」
 ルーファウスはほっと息をついた。彼の肩から力が抜けた。
「ディー」
「DARKのDだ」
「STARのSじゃないんだ」
「闇より星が美しいことは分かるが、まあ無難にイニシャルにしておこう」
 嘘ではない。だが真実でもない。ルーファウスは同じ愛称で、同じ姿をした違う犬を呼んでみる気になったのだ。どれほどの気力がいることか。そんな感傷的な話をすれば、彼女はいったいどのように反応するだろう。彼は前髪を掻き上げた。
「よかったね、ディー。ご主人様にニックネーム、もらっちゃったね」
 エアリスがダークスターに顔を近づけると、またべろんと舐められていた。ルーファウスは苦笑する。主を間違えてはいないだろうか、と。
「ね、ルーファウス。お仕事終わったら、散歩行こう。この子、連れて」
 ルーファウスは頷く。今までは秘密の散歩だった。これからは護衛がいる。堂々とエントランスから出入りしてやろうと、彼はほくそ笑んだ。
「あれだけ怒ったら、疲れたでしょ。気分転換しよう。わたし、近くにすごくいい場所、見つけたの」
 そう言いながら、エアリスは立ち上がった。乱れたスカートの裾を直して、ソファーの肘かけに腰を下ろす。 
「お前は恐れないのだな、私を」
「だって、スラムじゃ罵声なんて普通だし。それどころか、取っ組みあいの殴りあい、だもの」
「それは穏やかではないな。お前は慣れているのか」
「アルバイト先のカフェがね、夜はちょっとお酒もだしてて。絡まれるのもしょっちゅうだったから。かわすのけっこううまいよ、わたし」
「タークスはいったい何をしていた」
「酔払いといっしょに飲んでた」
 ルーファウスは顔をしかめる。エアリスは楽しそうに手をあわせた。
「叱らないでね。売上に貢献してくれてたんだから。経費で落ちないって、ぼやいてたけど」
「今更、目くじらを立てはしないが。職務遂行にかけては、ある種私以上にプライドのかたまりかと思っていた。たとえ子供のお守りでもな」
「最後の、聞かなかったことにします。だって、危なくはなかったから。タークスがね、伍番街の酔払いは上品なほうだって、言ってたし」
 ルーファウスはスラムの喧騒を想像する。アルコールにのまれてくだを巻く。もらす文句は大方神羅への不満だろう。不満があるから、またアルコールで自身を見失う。そこまで考えたところで、出口が見当たらずにげんなりした。『楽』と『怒』は切り離したほうがいい。酒は酒として楽しめばいいものを、とルーファウスは思う。
「ルーファウス、怒り方まで静かだよね。あなたのほうが、うんと上品」
「褒められた気がしない」
「褒めてないよ。だって、品がいいの、見た目だけ。あなたの怒り方、殴る蹴るを通りこして、いきなりナイフ突きだしてるみたい。誰も逆らえない」
 さんざんな言われようだが、あながちはずれてはいない。ルーファウスは彼女の洞察に感心した。
「でもね、怒ってる理由、真っ当だから。そこはね、褒めてあげよっか」
 エアリスは言った。ルーファウスは首を横に振る。
「お前は怒らないのか」
「わたし、怒りすぎて疲れちゃったの」
「何だ、お前もスラムの喧嘩に交ざって、騒ぎ飽きたのか」
 そうやって揶揄しようとして、ルーファウスはやめた。原因など明白だ。父親を殺され、母親とともに幽閉される人生。弱っていく母親の間近にいながら、何もできない。両親だけではない。そんな風にして、彼女のまわりではたくさんのいのちが無下に扱われたはずだ。あまつさえエアリスは彼女自身の未来までも失った。
「それはもう怒りというより、憎しみに近いのではないか」
 ルーファウスは己の手のひらを見る。彼もまた神羅という名で、この手で加担した。明確な殺意ではないところが、性質が悪い。のろのろと背もたれから離れると、テーブルのあたりを睨んだ。
「憎しみじゃなくて、諦め、かな」
 ルーファウスははっとして面を上げた。彼女は静かな横顔と声をしていた。
「この話、今はやめよう」
「やめたところで、私の近くにいれば、否応にも思いだすだろう。私は」
「神羅の全部が悪いわけじゃないって、知ってるから。タークスの皆もね、オフなのに自腹でご飯やお酒、頼んでくれて。わたし、困ってると、こっそり助けてくれた」
 いつものように、エアリスはわずかに首を傾げる。頬にかかる巻き髪を小指で払った。
「あなたも、そうだといい」
 エアリスは爪先で床を打つ。こつこつと、硬い音がフロアに響く。
「怒るの、本当に疲れたから」
 ルーファウスは白い横顔から目が離せない。半ば伏せられた睫毛が、小刻みにふるえている。彼の視線に気づいたエアリスが、困ったように眉をしかめた。
「それにね、今のわたし、ただの迷子」
「ただの、エアリス・ゲインズブールか。それでいいのか」
 エアリスはゆっくりと頷いた。
「あなたは大事なお仕事の途中だから。ルーファウスだけど、ルーファウス神羅でいてね」
 ルーファウスには理解ができなかった。己を踏みにじったものを肯定できるのは、強さなのか、皮肉なのか。優しさからくるものなのか、それとも保身のためなのか。エアリスは彼の理解のおよばない、遠いところにいる女だった。もう少し引きよせてみたくなる。
「きっとお化粧、くずれちゃってる。お仕事、邪魔しちゃいけないし、上、戻るね」
 ルーファウスは思わず彼女の手首を掴んだ。細くて頼りない手だった。だがルーファウスの背中の痛みを沈め、荒い呼吸を宥めることのできる手だ。掴んだこの手を、どうすればいい。
「ルーファウス」
 エアリスは驚いていた。ルーファウスもまた思慮的でない行動に、どうしたものかと考えあぐねている。
 ルーファウスは手を離すこともできないまま、眉間のしわを深くした。この手にふれるのは二度目だ。前回は明確な意図があった。では、今回は。これも厚意の続きなのか。
「お前の見つけたいい場所とは、どこのことだ」
 気づけば、そんなことを口走っていた。ルーファウスは自覚した。己のなかに、不器用な男がいることを。
 その男がルーファウスを戸惑わせ、らしからぬことをさせる。困ったことだ。そしてこの男を引きずりだしたのは、エアリスだ。ほかのどのような人間も、他人に優しくすることが下手なこの男の存在を知らないだろう。
「私の知っている場所だろうか」
「どうかな。おうち側からじゃ、見えないから。岩と岩が重なって、入口が隠れてるんだけど、細い道ができててね。抜けると泉があるんだよ。ね、知ってた」
 エアリスはちらちらと、二人の手のつながっている部分を見ていた。ルーファウスの意図が分からないようで、彼女はまごついている。それはそうだろう。彼自身がきちんと把握できていない。
 不器用な男、お前はいったい何者だ。
「いや、知らないな」
「いろんなハーブ、生えてるの。コーディアル、つくりたいなって思ってて」
「やってみろ。私は何をすればいい」
 エアリスは目を見開いた。いつものように気乗りするかと思いきや、彼女は押し黙ってしまった。彼女は不思議な女で、したたかだと思っているととたんに脆い部分が現れる。今にも泣きそうな顔をされて、ルーファウスはますます手に力を入れた。
「あのね」
「何だ」
「レモンとブラウンシュガーの調達、お願い」
 ルーファウスは頷く。彼女の手を引いたまま、二階へと続く階段に向かう。
「お前は顔を洗って、化粧を直してこい。私もでかける支度をする」
「ね、ルーファウス」
「下見だ。案内しろ。ディー、喜べ。散歩に行くぞ」
「お仕事は」
「気分転換が先だ」
 エアリスはぽかんとしたあと、ようやく笑みをこぼした。
「あれだけ怒っといて、すぐにディーとおでかけだなんて。きっと皆に呆れられちゃうね」
 子犬を迎えたばかりの子供みたい、とエアリスは言った。ルーファウスは鼻を鳴らした。大方いつもの身勝手か奇行だと思われるだけだ。まわりの反応など、彼は気にしない。
 そんなことよりも、手に余るのは彼のなかの不器用な男だ。エアリスをバスルームに連れていくまで、この柔い手を離せそうにない。もう少しスマートなやり方も思いつかないなど、何てざまだ。
 ルーファウスは吐息をついた。いちいち動揺するのは、慣れていないので面白くはある。だがこういう得体のしれない男は、早々に飼い慣らしておかなければならなかった。
 ダークスターが巨躯を躍らせる。思案しようとしたところでルーファウスはまといつかれて、足がもつれた。
「おい、急くな。ディー」
 何はあれど、まずは散歩だ。ルーファウスは仕方なく、今は浮かれた子供のふりに徹することにした。


■END■
(目的のためなら手段は選ばない)

20200909