古びたボロボロの踏み板を裸足で歩き、船着場の先端に立つ。まだ朝日の昇り切っていない海は凪いでいた。突端に腰を下ろし、足をブラつかせると、時々波の勢いで弾かれたしぶきが足に触れる。
持参した手作りの細い釣竿を下ろし、頼りない針の先に餌を付けると、片手で勢いよく放って着水させた。
別に釣果は期待してない。ただここにこうして座って、朝になり切るのを眺めてたいだけ。ここに来たばかりの頃はただそれを眺めていただけだったが、この景色に慣れ切った現地の住民からしたらその姿は奇異なものに映るらしかったのでスタイルを変えただけ。
でもたまに、迂闊な小魚が針に食いつくこともある。それは持ち帰って朝食にするが、なければハムエッグで足りるから本当に期待なんてしてない。
遠くに漁船が見え始め、海の色が変わり出す。
僕の見えすぎる目は暗いうちからサングラスをかけていたけれど、現地では珍しいことでもないのでそれはうまく溶け込んだ。
日本では目立つ長身も、珍しい髪色も、青い目も。それはそれで目を惹くと言われはしたが、今ではずっと馴染んだ。東京の街では十年以上住み着いても全く馴染んでくれなかったのに。
どちらかというと白かった肌も自然に焼けて、今では赤く腫れ上がらせることもなく過ごせてる。紫外線も過ぎると火傷みたくなるから、僕の無下限は有害なものと認識しちょっとした日焼け止めみたいにしてちょうど良い焼き加減を調節しているのだろうか?
最初にこの岬に降り立ったのは、長期を約束された任務だった。だけど僕は任務が終わってもそのまま帰らずに、この漁村に居続けた。
魚は美味しいし、貝類も悪くない。ちょっとケミカルなくらいの極彩色に彩られた菓子だって、甘さ加減が絶妙だ。ついでにお茶も美味しい。僕は下戸で酒は飲まないから、いつもどこからか楽しげな音楽が聴こえる軒先から、陽気な男たちに座って飲んでいけと誘われるのを断るのはちょっと弱るけど。
日本から、五条の家から、高専からは未だに「帰ってこい」としつこく言われているけれど、学生の時から――いや、既に入学前から任務をさせられ続けていたのだから、そろそろまとまった休暇を得てもいいだろう? と勝手に決めて放ってある。
家のことは、任せられる人間も居るから現状維持だけさせてくれることはそんなに心配していない。
ちょうど年度替わりだったから、担任を放棄したのは2日だけだ。僕の可愛い生徒たちも学年が上がっただろうが、他の誰かが担任を代わってくれたはず。
正直言って、ここの生活は楽しい訳じゃない。
現地の菓子も嫌いじゃないが、たまには舌に馴染んだ日本の製菓会社の菓子も食べたくなる。ここでは新作のコンビニスイーツも手に入らないから、来る前に目をつけていた新作プリンは食い逃してしまった。
借りた家はボロボロで、虫とかイモリとかいつの間にか入り込んでいるけど、狭いなりに天井は高いから快適だ。たまには湯船にゆっくり浸かりたいとは思うけど、それをやると途中で湯が尽きるから考えものだった。
簡易的だけど僕の身長にも無理のないキッチンは明るい原色で彩られてて、ここだけなんだかオモチャみたいだった。僕はそこでプリンを作って食べたけど、以前に食べた手作りプリンみたいにうまくいかなかった。
ネットで調べたら、すが入ったって状態で滑らかさがなかったようだ。だけど甘さは完璧だった。あのプリンには甘い甘いカラメルがかかっていたけれど、プリン自体は普通の甘さだったからね。
プリンを山ほど食べて、ソファに寝そべりペーパーバックのミステリ小説を読んでいるうちにいつものように寝落ちるから、しばらくベッドは使っていない。
そして朝になったら、ぶらりと船着場まで散歩に出て、釣果を期待しない釣り糸を垂らす。
日本で痺れを切らした奴らが、そろそろここに来るって話は聞いてた。もう少し休暇をちょうだいよ、何もすることなくて暇だけどこの生活は気に入っているんだから。
だけど僕を連れ帰ることは、特級任務に値するらしい。ほんと上の連中は、僕を連れ戻したらこき使う気満々なんだろ。
別に任務なんてどーだっていい、面倒くさいだけですぐに終わる。困難なんて何もない、むしろここでの生活の方が困難は多いくらい。一級呪霊を払うよりも、街の雑貨店で目当てのものを探し出す方が大変だ。店内なんて僕の借家より小さいのに。
ここではほとんど英語が伝わらないから、それがネックなんだよね。もちろん日本語なんてここに来て以来ずっと聞いてない。だから――、
「五条先生!!」
久々に聞いた僕を呼ぶ声に、不覚にも僕はビクッと震えた。――えっ!? て記憶と現状の認識が混乱して、危うく船着場から海に落ちかけた。
「見つけた!!」
だけど、駆け寄ってきた身体を受け止められるだけの体勢も踏ん張りもきかずに、結局僕はそのまま海に落下した。釣竿はどっかに流れて行ってしまった。
耳を覆う泡の音。透明度の高い水中で目を開くと、サングラスもどこかに弾け飛んでた。ゆらゆらと揺れる視界に、細かな泡に包まれた悠仁が居た。
海中だってのに目を見開いて驚いている。あのね、こうなったのは君のせいだからね。
そう、全部君のせい。
だけど釣竿を失った僕の手は悠仁の肩に触れて、腰を抱き寄せ、キラキラの海面を見上げ沈んだ分だけ上を目指す。
うっかりと無下限術式を解いてしまったのは、驚いたからだけじゃない。
「プハッ!」とほぼ同時に聞こえた僕らの呼吸に、悠仁を見ると彼も僕を見ていた。濡れてペタリと張り付いた髪から顎の先から海水が滴らせたまま、笑い出す悠仁を僕は離す。悠仁の身体は一瞬沈みかけたけど、すぐに体勢を整えた。
船着場の突端から5メートル以上は離れてる海面に、僕は悠仁の勢いを思い出し呆れる。突進という言葉がぴったり来るようなそれは、車にノーブレーキでぶつかられたようなものだ。
僕は悠仁に何も言わずに船着場まで泳いだ。所々腐りかけたような支柱にはびっしりとフジツボがくっ付いてるし、仕方なくヨイショと海中を蹴って踏み板に手をかけ身体を引き上げた。
「悠仁」
船着場の上から手を伸ばしてやると、僕の腕を掴んだ悠仁も這い上がる。いつの間にかすっかりと昇り切った日差しが照り付けて、サングラスを失くした目には眩しかった。
■
「悠仁、いつの間に特級になったの?」
尋ねる僕に、
「なってねーけど? 変わらず一級」
悠仁はタオルでガシガシ頭を拭きながら笑った。
僕を連れ戻すのは特級案件だって言ってたから、傑か憂太が来るのかと思ってた。
あのまま家に連れて帰り、悠仁をバスルームに押し込んだ。僕は庭の水場のホースで水を浴びて、着替えお茶を入れる。海に落ちることはそうそう無いけれど、砂や潮風にベタつくことは多いから慣れている。
「先生も焼けるんだね」
やっぱりこれも慣れで上半身裸のままでお茶を入れてたから、まだ薄らと焼きあとの残る肌との境目を見たのだろう悠仁に言われ苦笑いする。
「俺とプール行った時は、真っ赤になるだけで引いちゃったろ?」
なんだかずいぶん懐かしくなるような話をされ戸惑ったが、まだ1年も過ぎていない去年の夏の話だ。
「そりゃ3ヶ月も居ればそれなりに馴染んでもくるよね」
僕は気を取り直して言い、ダイニングテーブルの上に置いたカップに茶を注ぐ。まだ熱いから冷ましてと言った僕にうなずいた悠仁は、イスに座った。
「ねえ、これってハニートラップってやつ?」
尋ねた僕に、悠仁は「熱ッ!」と口をつけたばかりのカップから離れた。
「だから熱いって言ったろ?」
「先生が変なこと言うからタイミングミスったんだろ!」
悠仁は「はひ」と舌を見せてから、今度は慎重にフーフーとお茶の表面を吹いて口を付ける。
「ねえ、これ本当にハニトラじゃないの?」
チラ見せされた悠仁のベロと、どこかあどけないばかりの仕草に身を乗り出した僕に、
「言い方ぁ!」
悠仁は赤面し及び腰になった。
船着場の根元に置いてあったスーツケースは水没を免れたから、悠仁は着替えを持っていたが下着以外は強引に僕のを押しつけ着させた。
僕と悠仁とでは体格差があるものの、悠仁も良い体つきはしてるので不自由なほどブカブカというものではないが、ちょっと目のやり場に困るほどには首回りが緩かった。目のやり場もなにも、そんな下心もあって着るよう言ったのだけれど。
「だいたい俺じゃハニーにならねーだろ」
悠仁はボヤくように言うけれど、そんなことない。というか、僕にその手の複芸が通じるのだとしたら悠仁以外の配役はあり得ないって、ワザととぼけてんだろうなこの子。
「僕を連れ戻しに来たんだろ? 上からの指示で」
テーブルの上に行儀悪く頬杖をつく僕に、
「別に……言われたから来た訳じゃなくて、俺の意思」
悠仁は僕の言って欲しかった言葉を言って、ニカッと笑った。
「悠仁は僕に日本に戻って欲しいの?」
「そうだよ」
「戻ってもいいの?」
「――いいに決まってんじゃん、高専は元々先生の居場所だろ? もし居なくなるなら……俺の方だって思ってる」
悠仁は初めて気まずそうに言うと、またズズッと茶を啜る。その額にはじわっと汗を浮かべているのに。
「ねえ、やっぱりこれハニトラだよね?」
テーブルの下の足先で悠仁のすねを軽く蹴る。一人暮らしのダイニングセットなんて小さなもので足りるから、テーブル越しに手を伸ばせば届いてしまう。
「だから違ぇッて……」
悠仁は答えながらもソワソワと視線を外し、また顔を赤らめた。
「街の方にホテルとったの? 今日泊まっていける?」
尋ねる僕に、
「ヤんねーよ?」
悠仁は言って足を引っ込めるけど、僕の視線に負けるようにしてこっちを向いた。
「いいよ、添い寝するだけで」
言う僕に、
「添い寝もしねえ、ソファ借りるからいい」
「この家、蚊帳もないし僕の無下限に触れてないと虫に這われまくるかも」
つれないことを言う悠仁の手に、テーブルの上で触れ微笑むと「うぐっ」と唸られた。熱帯地方へ渡航する時には必ず聞かされる、蚊を媒体とした病気への対処法を思い出しているのだろう。
だけど本当に嫌ならば、僕の手など払ってホテルに帰ってしまえばいい。僕は日本に帰るとは言わないけれど、そしたら悠仁はまたこの家に訪ねてくるだろう。1週間くらいは――説得の時間を与えられているはずだ。
「先生、ずるい」
可愛いことを言う悠仁に、
「だって先生だもの」
僕が言うと、悠仁はそれを理由にするようにして一度だけ首を縦に振った。たぶん今のうなずきは、今夜泊まって行ってくれるってことだと思う。
「良かった」
呪術関係者となんて顔も合わせたくないって思っていた僕だけど、悠仁だけは違う。いや、この世界中で悠仁だけに会いたかった。他は何ひとつ必要ないってくらいに。
何故なら僕と悠仁は恋人同士だったからだ。
■
僕と悠仁は恋人同士だった――だったって言うのは、過去形だから。
「先生、俺やっぱり五条先生とは付き合えない」
初めて悠仁とセックスをした次の朝、僕はベッドの上で言われた。
まだ裸のままベッドに潜り込んでいた僕に、すっかりと身支度を整え高専へ帰って行こうとしている悠仁に。
「なんで?」
って聞いたら、
「先生は俺となんか居ちゃいけない人なんだよ」
一番聞きたくない言葉を聞かされた。それならば、嫌いと言われた方が諦めもつくだろう。
つまり何? その前の晩のことは、僕に愛された思い出としてとっておくための儀式だったって訳? だってあんなにお互い求め合っただろ? 何度も「好き」とか「愛してる」とか、もう照れもなくなるくらい当たり前に、数え切れないくらい言い合って、幸せに笑って。それを嘘にされたみたいで僕は憤った。
悠仁はまだ15で、子どもで。けれど大人の事情を想像して悩むくらいには、ものごとを弁える歳だった。弁えていなかったのは僕の方だ。
「嫌だよ、別れない」
再びベッドへ引きずり込んで、嫌だと言う悠仁の制服を脱がす。僕が悠仁のためにカスタマイズしたその制服は似合っていたし、こんなふうに引き裂くみたいにして脱がすつもりなんてなかったのに。
僕がどれだけ君のことを狂おしく想っているか、それが通じればいいと思った。だから最初は強引にでも、途中から愛を囁く甘いセックスになるつもりだった。
なのに僕は逃げようとする悠仁を抑え込むことに興奮していて、アドレナリンの増加に伴い破壊衝動にも似た性欲のまま理性を完全に放棄した。
気づけばそこには傷つき咽び泣く愛し子がいて、欲望を吐き出し終えたことに満足して笑う僕が居た。
2週間の海外任務は、最初から決まっていた。
その翌日、僕は実際の5倍は重く感じるスーツケースを引きずってこの島にやってきた。
最初の印象は、暑いし虫は多いし海の匂いは不快だし最悪、って感じ。だけど呪霊の群れを祓い終えた岩壁から臨む朝日が美しくて、それに魅了された。
それから3ヶ月もここに居残っている。
僕の愛情から逃げた悠仁を傷つけて、僕は彼を傷つけた僕から逃げた。
最初は呪霊を殲滅出来ていないという報告をしていたが、ひと月が過ぎたころ「帰りたくないから休暇扱いにして」と宣言した。
一般企業なら許されないことでも、僕の席を置く呪術界なら無理を通せる。実際、特級術師の九十九由基なんて今ごろどこに居るのか誰も把握できていないだろう。ここに居ると分かっているだけ、僕の方がマシに思える。
五条のことは五条家の奴らに任せて、高専のことは傑に任せて、僕は全ての責任を放棄した。このくらいのことしたってバチは当たらないほど、呪術界にもあの国にも貢献してきたつもりだ。
ただ、悠仁には会いたかった。
会いたくて会いたくて、夜ごと夢にみた。
そこでの悠仁は僕を許して、僕を愛してくれた。
「ずっと一緒に居てあげるから、俺の隣に帰って来て」
僕にキスをして言う悠仁を、僕はそこでも愛という名の欲望で汚し続けた。
「そろそろ潮時だよ」
10日ほど前に交わした通話。電波越しに言う傑の声に、僕は抗う言葉を投げたけど、
「君を連れ帰る任務は特級案件だ、どうやら上も折れるらしいから帰って来い」
傑は言って、低く笑った。まるで我がままな生徒をなだめすかすみたいにして。交渉人としては失格だ、僕は大いに反発した。
電話を叩き切っ……スマホだから出来なかったけど、切って電源まで落としてソファに放り投げて、海まで走って服のまま飛び込んだ。
飛び込んだけど、無下限状態だから僕は濡れないまま息を止め夜の海面を見上げた。大きな月の灯りが透明度の高い海水を眩しいほど通り抜け、僕にまで届く。
悠仁に会いたいよ――って、その時も思った。僕を迎えに来るのが悠仁なら、「ずっと一緒に居てあげるから、俺の隣に帰って来て」って夢の中の言葉を告げてくれるのなら、僕は明日にでも日本に帰るのに。
だからその次の朝から、必ず船着場に座り釣り糸を垂らすようになった。
それまでもそうして朝の時間を過ごすことはあったが、その日からは毎日だった。
悠仁がこの岬に来たら、きっとここから僕を探すだろう。船を降りてすぐそこに、一番に見つけられる場所に陣取った。
だからまさか、後ろから突撃されるなんてこと想定していなかったんだよね。驚いて、喜びとか戸惑いとか、なんて謝ったら良いんだろう? なんて躊躇いは、僕と悠仁を包む海の泡の中に溶けてった。
■
悠仁が訪れたのが朝で良かった。危うく埃くさいベッドで共寝することになるところだった。やっぱりホテルに泊まれば良かったと思われるところだった。
シーツや濡れた服の洗濯を終えたらそこから20キロ先の街に出て、失くしたサングラスの替えを探したんだけど、学生時代に使ってたようなラウンドフレームのものしかなくて……仕方なくそれを購入した。
そのあと昼食をとったんだけど、漁村ではお目にかかれないスイーツを食べ喜ぶ僕に、
「そう言えば日本のお菓子お土産に持って来たんだった! ホテルに置いたまんまだ!」
悠仁が言うから、僕は喜んだ。さすが悠仁、分かってるよね。
それから悠仁がチェックインしてたホテルに戻り、僕をロビーで待たせた悠仁は階段を駆け上がって行った。本当は僕も部屋について行きたかった――片時も視界から悠仁を離したくなかった――けど、我慢して良い子で待ってた。
そのあとは、街とはいえ漁村よりは開けてるって程度だったから、観光する場も無くアイスを食べたくらい。
大家の爺さんに借りた今にも壊れそうなオンボロトラックで戻ると、悠仁を指して「あれは誰だ?」と尋ねられた。その人は英語混じりに話せる人だったけど、
「僕のいい子だよ」
って返したつもりの言葉は通じなかった。日本語しか分からない悠仁はきょとんとした顔をしていて、僕も何となく現地の言葉を繋ぎ合わせて言い直してみたけれど、どうやら悠仁は僕の息子だと伝わってしまったらしい。
なんだか大歓迎されて夕飯までご馳走になったんだけど、僕よりもむしろ言葉の通じない悠仁の方がその家の家族と打ち解けてしまっていた。さすが陽キャのコミュ強、棘との会話成り立ってんのも伊達じゃない。
その夜は、悠仁を腕に抱いて久しぶりにベッドで眠った。
腕に抱いただけで何もいかがわしいことなんてするつもりは無かったけど、久々の悠仁の匂いには興奮して眠れないと思ってた。
だけど違った。興奮よりも、悠仁が腕の中に居るという安堵の方が優っていたようで、僕はいつもソファで眠る時の何倍も深い眠りに落ちた。深い深い眠りで、夢さえも見ないまま。
目が覚めたのはもう朝というには遅い時間で、とっくに日は昇りきってた。
隣に悠仁が居なくて、僕は裸足のままベッドを飛び降り狭い家を大股で駆けた。戸口や廊下の壁やチェストなんかに何度もぶつかって、オモチャみたいな彩りのキッチンで悠仁を見つけるなり、抱きしめてた。
「せ、先生?」
戸惑う悠仁の声に、僕はほうっと安堵の息をつく。
「居なくなったかと思った……夢かと」
悠仁を腕に抱いたまま言うと、肩を震わせ笑われる。
「先生を連れてじゃなきゃ帰れないよ、俺」
悠仁は言って、僕の腕の中でくるりと振り返る。キッチンには作りかけのサンドウィッチがあって、お茶を入れる湯も沸かされていた。
「このキッチン高くていいね、腰が楽」
悠仁は笑うように言って、
「顔洗って来なよ、ヒゲも伸びてる」
よれよれなままバッグハグしてる僕の頭を手探りでタップして言うと、
「そしたらどこか外で食べよっか?」
眩しいくらいの笑顔で振り向き言った。
そのあと身支度を終えた僕と悠仁は、海の見える岸壁の上へ並びサンドウィッチを食べた。
ちょっとやそっとじゃ登れないような切り立った岸壁のことだから、近所の住人には見られないよう窺ったあとヨーイドン! で一気に登り、僕が余裕で頂上に先着した。
「ちえっ、やっぱ3ヶ月くらいじゃブランクにもならないか~」
悠仁は悔しげに言うけど、嬉しそうだった。
「僕が帰らないって言ったら、悠仁はいつまでもここに居てくれるの?」
10メートル以上は鋭角に切り立つ岸壁から足先を遊ばせ言う僕に、悠仁は呆れたような目をしたけど、
「さすがにいつまでもって訳にはいかないけど、また来るよ」
迷いのない口調で言って、微笑んだ。
日差しは強かったけど海風がここまで届いて涼しい。目敏いカモメにサンドウィッチを奪われないよう口に押し込むみたいにして、笑いながら食べた。
水筒に入れて来たお茶を飲んで、ゴツゴツとした岩肌に転がったら悠仁に覗き込まれる。
「悠仁のプリンが食べたい、前に僕に作ってくれたやつ」
牛乳と卵と、あと砂糖もたっぷりとあったはずだと思い言うと、
「良いけど、今日?」
首を傾げる悠仁に、
「うん、今日。あの時より甘くして?」
甘えるよう言ったら、「OK~」と軽く了承された。
「先生、オリーブのピクルス残ってるけど食べる?」
尋ねられ、「うん」と答えたらピックに刺さった黒オリーブが差し出される。口を開けるとつるりと滑らかな黒が入って来て、噛みつき咀嚼すると唾液が滲んだ。
「ねえ悠仁、キスして」
次はオマエがいいと言うようねだると、もう一度僕を覗き込んだ悠仁が覆い被さるよう僕に顔を近づけ、柔らかな唇を押し付けて来たら――僕はその身体を抱き寄せて、ゴツゴツと背中に刺さる岩肌を感じながらも、夢中で悠仁の口へとベロを突っ込むキスをした。
「……ピクルスの味」
複雑そうな顔で言う悠仁に笑い、
「親子でベロチューしちゃダメじゃん……」
昨日勘違いされたそれを持ち出し笑うから、
「バレなきゃ大丈夫だよ」
内緒ごと囁くように言ってやったら、
「酷っでぇ、パパ」
悠仁は冗談に乗るように言ったけれど、僕はその響きに無性に興奮してしまった。
■
その夜も悠仁は僕の家に泊まった。
そして僕と悠仁は、その日から3日間かけてセックスをした。
最初は優しく、傷を労るように、舐めるように。何度も何度も「ごめん」って謝る僕に、悠仁も同じ数だけ「ごめん」って言うから切なくなった。
2日目は激しく、会えないでいた隙間の寂しさを埋めるように、ただ愛したくて。何度も「好きだ」という言葉を交わした。
そして3日目には、2人してグズグズになるほど快楽だけを求めた。獣の交尾のように何もかも忘れて熱を散らし続けた。
「先生ぇ、もう食べるもんないんだけどぉ」
裸のままベッドから出て行ったと思った悠仁が、僕のTシャツだけをまとって戻って言った。
逆光のせいで白いシャツの中まで透けて、ものすごくそそられる。眼福だ。
「ねえ、先生聞いてる?」
ベッドに這いあがり僕の顔を覗き込む悠仁の、無防備な裾から尻を撫でたら予想通り素肌に触れる。
「こら、触んな!」
悠仁は僕の手を払い除けるとその場に座り込んでガードするが、そのくらいで僕が諦めるはずはない。
「ゆうじ~~♡」
首すじにキスをしたら、そこには既にいくつもの跡が残っている。悠仁の肌は健康的に見えて、割と跡が残りやすい。愛した数だけ残した証明のスタンプだ。
「もうヤんないよ? そろそろ人間に戻ろ?」
獣になってじゃれあい続けてた僕らにお終いを告げる悠仁に、僕は不満の声を漏らしながらも笑ってた。幸せ過ぎて、この生活がいつまでも続けば良いのにって思う。
呪術も五条も関係なく、悠仁だって器の……アレ?
「ねえ、悠仁ぃ」
「なに? 先生」
「アイツらよく悠仁を国外に出したね、宿儺のことなんか言ってなかった?」
「えっ? 今さら!?」
そう、今さらなんだけど、悠仁がここに来てから宿儺は一度も口を開かなかった。僕らが散々セックスする動物になっていても、文句ひとつ言わなかった。口出されても興醒めで困るけど。
「俺、別に任務でここ来たんじゃないんだよね」
しかし更に今さらなことがらを告げられ、
「ハ?」
僕は戸惑う。
「え、悠仁も逃げて来ちゃったの? 僕のこと追いかけて」
だからそんなことを聞いてみたら、
「あ、それは違う。ちゃんと許可はもらって来た」
甘くスパイシーでちょっとスリリングな愛の逃避行が始まってしまうのでは!? と浮き足立ちかけた僕の言葉は、キッパリと悠仁に否定される。
「俺がここに来たのはさ、夏油先生について来たんだよ」
「夏油先生!?」
それはもちろん初耳だったけど、そもそも傑が悠仁から「先生」と呼ばれているのも初耳だった!
「は? 先生!?」
何故だかそれがすごくショックで、
「五条先生が海外出奔しちゃったので、代理で夏油先生が担任してくれてんだよね」
しかも担任!? 傑はフリーの呪術師やってて、同時に高専の仕事も請け負ってるから元々悠仁とも面識があった訳だけど、まさか高専で教師やってるなんてアイツ言ってなかったし聞いてない!!
「帰る!!」
「へっ!?」
「だから、日本に帰る!!」
「えっ!? どったの急に」
僕はベッドから飛び降りて、昨日ちょっとだけ着てたTシャツを着てパンツも穿かずにスウェットだけ履くと、ベッドルームから飛び出した。
なんで傑が「夏油先生」とか呼ばれてんの!? 僕が居なくなったらそうなるとか聞いてない! 別に日下部さんでもいいじゃん! 他にもなんか適当にいるだろ!? ええい、人手不足だな! 呪術界!!
「帰るのかい?」
「帰るよ!!」
「じゃあ、明日の朝の便でチケットを3枚用意しよう」
「よろしく!!」
「――って、エエッ!?」
ガバリと振り向いた先のソファで、傑がティーカップでお茶飲んでた。
コイツ絶対ぇワザとだ!! 気配消してやがった!!
「夏油先生!?」
例の眼福Tシャツで追いかけて来た悠仁の口から、傑を先生と呼ぶ声なんて直接聞きたくなかった。
そしてさりげなく悠仁を隠す僕を見て、
「さすがに3日も連絡を断たれては私も腰を上げるしかなかったんだ、許してくれるかい?」
いけしゃあしゃあと言うその言葉に歯噛みしたけど、たぶんコイツの方が何倍も怒ってる。アー……知ってたけど、ヤバ。
「教え子に中途半端に手を出し放り出すようなマネをした悟以上に悪いやつも居ないけどねえ?」
そしてノンブレスで嫌味を言うと、
「もうこれ以上、特級案件増やしてくれるなよ?」
薄ら寒い笑みを浮かべながら付け加え、僕のボロい家のドアをブチ壊すくらいの勢いで閉めて出て行った。
たぶん、日本に――高専に帰ったらいまの100倍やられる……。
「五条先生」
悠仁の声に振り向くと、彼はらしくなく少し気後れするような目で僕を見ていた。
「帰ってくれるの?」
悠仁の言葉にうなずき、
「悠仁のところに帰るよ、隣にいてずっと離さないから覚悟して」
夢の中で悠仁から繰り返し言われた言葉を、今度は僕の言葉で彼に告げる。
「りょーかい!」
悠仁は軽い口調でおどけたように敬礼して見せるけど、もう僕から逃げないと誓ってくれた。
それから僕らは3日ぶりの日差しを浴びて、最後の洗濯をした。
部屋も片付け簡単に掃除し、帰国の荷造りをして、急なことだけどと詫びつつ大家の爺さんに家の後始末を依頼した。
家に残ったもので売れるものは売って貰って構わないし、金にならなきゃ捨ててもらうこと、フードストックにいくらか食料が残されてるから食べて欲しいことを伝えて、両替に手数料取られるくらいならと手持ちをほとんど渡して頼んだ。
僕と悠仁はその日の夕飯もご馳走になって、その夜は早めにベッドに入って良い子で眠った。
早朝、まだ日の昇る前に傑からの電話で起こされた。
僕らは日の出始めた頃に海岸を歩いて、朝焼けに染まる空の下キスをした。
この朝の海もとても美しくて、朝焼けが悠仁の瞳に溶け込んでた。
最後にもう一度、悠仁と見られて良かった。
大家の爺さんが街まで送ってくれて、シワシワの目に涙を湛えながら別れを惜しんでくれるのに、悠仁もつられて泣いてた。
「オヤジさんを大事にするんだぞ」
とか言われてんのに、意味も分からないまま号泣しうなずいてる悠仁に笑いを噛み殺した。
爺さんとハグして別れてから、涙目のままの悠仁と傑に呼び出されたホテルへ向かう。一度街へ行った時、悠仁がお菓子を取りに行ったあの部屋だ。
なるほど僕をロビーに待たせたのはそのせいだったのかと気づいたが、あの時は何も不審に思わなかったのだからそうとう浮かれていた。
「懐かしいメガネをしてるね」
傑は僕のラウンドフレームのサングラスを見て楽しげに笑ったが、
「ッせえ」
僕はラフに跳ね除けておいた。
悠仁はそんな僕らを不思議そうに見て、だけど笑う。手の届くところに悠仁の笑顔があるのが嬉しくて、僕は悠仁の肩を抱くよう手を置いて、
「じゃあ帰ろうか」
仕方ないけど悠仁のお願いなら聞かなきゃなと、かがみ込み頬にキスしたら、
「やめろよ! 夏油先生の前で!」
真っ赤になった悠仁が焦って言うのは可愛かったけれど、
「悠仁の先生は五条先生だけでしょ? 傑のことはもう先生って呼ばないで!」
あからさまな嫉妬を隠しもせずに言ったら、絶句された。
そんな悠仁を見る傑の目がわずかに笑みを刷いたかと思ったら、微笑ましげに口元まで吊り上げる。
――ア"?
促すようサングラスをずらし視線を向けた僕に、
「いい潮時だって言ったろう?」
傑はしたり顔で言うと、僕の悠仁の頭を撫でた。
「触んな!」
ガバリと悠仁を抱き抱えて威嚇した僕には、すんっと呆れたような顔したけど。
コイツ分かっててミスリード狙ってたろ? と苦々しくも、同行を願う悠仁を寄越したのはナイス采配と認めざるを得ない。上の連中丸め込むの相当骨が折れたと思うからだ。
「先生たち、俺のこと置き去りにするのやめてくんない?」
僕の腕の中でぶすくれる悠仁が可愛ければ、他のことなんて――もう僕にとって割とどうでも良かったりする。
帰りの滞在時間の長すぎる飛行機の中では、悠仁を離したくない僕に傑の目を気にして素直になれない悠仁とか。
迂闊にも、また傑のことを「先生」と呼んで僕を拗ねさせる悠仁とか。
深夜時間帯もうみんなが寝静まった頃にキスをしていた僕らに気づき、僕の背中に戒めの肘を入れて来た傑とか。
経由した空港で迷子になった悠仁とか。
珍道中ではあったけど、長い休暇の〆も楽しかった。
高専に戻ったら色んな奴らにそうとう詰められるのは分かっていたけれど、彼らへのお土産をパンパンに詰めた帰りのスーツケースは行きの1/5の軽さだったのだから。
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