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碧
2023-04-23 18:47:43
10309文字
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海闊天空(冒頭部分サンプル)
海闊天空、冒頭部分のご紹介です。
海闊天空
一.海角天涯
海角天涯(かいかくーてんがい):
二つの地がきわめて離れていることのたとえ。天の果て、海の角という意味。
-----------------------
「慶事を耳にしたのだが」
いつものように寒室をふらっ、と訪れた江澄は少し不機嫌そうに言った。
「え
…
あ
…
それは
…
」
不意を突かれた藍曦臣は、手にしていた茶碗を落とした。
ぱりん、という音と共に、ぬるい茶の感覚が膝に染みていく。
「水臭いな、澤蕪君。こんなめでたい話、俺とあなたの仲なら真っ先に教えてもらえるものかと思ったぞ」
憮然としつつ、尚も江澄は言い募る。
「あの
…
その
…
申し訳ございません」
おろおろと藍曦臣は謝った。
「なんてな」
にやっ、と江澄は笑う。
「早く知らせてくれなかったのはさておき、まずはおめでとう。趙の娘さんだって?あそこじゃ家柄も申し分ないし、綺麗な人だって聞いてるぜ。堅物に見えてなかなか隅に置けないな、あなたも」
「
…
ありがとうございます」
ぺこり、と藍曦臣は頭を下げた。
「あーあ、しかし悔しいなあ。俺の方が見合い歴は長いのに、あっという間に先を行かれるなんてな。まあ天下の澤蕪君ならば仕方がない。だが見てろよ、絶対すぐに追いついてやるから」
尚も笑いつつ、江澄は軽口を叩いた。
が、すぐに真顔になった。
「大丈夫か、澤蕪君?随分顔色が悪いぞ。何か悪いものでも食べたんじゃないのか?」
「いいえ
…
」
「ふうん?まあいい、気をつけろ。一生で一番幸せな時だ、体調を崩していてはつまらないぞ。
っと、こんな時間か。今から藍湛のところに打ち合わせに行ってくる」
「終わったら此方に寄られますか?」
必死の面持ちで藍曦臣は尋ねた。
「ああ。勿論だ。見合い成功の秘訣を聞きたいしな」
ひょい、と江澄は立ち上がった。
「
…
あの」
「なんだ?」
「江宗主も
…
その、少し顔色がお悪いようで
…
」
「ああ、これ」
江澄は少し笑った。
「ここのところ仕事が忙しくて、碌に寝ても食べてもないんだ。大丈夫、一時的なものだ」
驚いても、悲しんでも下さらないのですね。
彼が去った後、茶で濡れた着物も拭かぬまま、ぼんやりと藍曦臣は座りこんでいた。
そんな祝福、あなたから受けたくはなかった。
そう思いつつ、江「宗主」が自分、藍宗主に対して他に一体どのような反応ができただろう、とも思う。
彼ー江晩吟とは、あの思い出したくもない観音廟の日から友と呼べる仲になった。
きっかけは、彼が世を儚み閉関した自分を気遣い、忙しい身にもかかわらず足繁く通ってきてくれるようになったことだった。
"あの日、同じように衆前で本音を曝け出す羽目になった同士だろう。傷を舐めあうには丁度いい"
何故自分のことをそこまで気にかけてくれるのか、と問うたとき、彼は笑顔で答えた。
そう、だから最初は彼の言う通り、同士みたいなものだったのだと思う。
しかし時が経つにつれ、どんどん彼はそれ以上の存在になっていった。
いつの間にか、彼の訪問の日をまだかと指折り数えて待っている自分に気づいた。
彼との話は本当に絵に描いたような四方山話で、なんということもないのだがいつだってとても楽しかった。
"海、行きたいよな"
ある日ぼそりと彼は言った。
"海、ですか?"
"ああ。俺、水のある風景を見ていたら心が落ち着くんだよ。そりゃ、湖はいやというほど見ているが、やはり海というのは広くて眺めているだけで気持ちがせいせいする。若い頃に一度見たきりだが、そのうち暇ができたら行ってみたい。ただぼんやりと砂浜に座って波を眺めるんだ"
"いいですね"
珍しく江澄は身体を乗り出した。
"澤蕪君もそう思うか?よし、じゃあいつか一緒に行こう"
"いいですね。約束ですよ”
宗主同士が旅など荒唐無稽なこと甚だしいけれど、そんなふんわりとした、実現しっこない約束を交わしあうのもまた楽しかった。
"そうだ。澤蕪君、頼みがある"
ふと真顔になり、江澄は言った。
"なんですか?"
"俺が死んだら、うちの師弟に気づかれぬように骨を少しばかりとって、海に撒いてくれないか"
"え
…
"
思わず藍曦臣は固まった。
"縁起でもない、とか言うなよ。この商売、いつ死ぬかなんてわからない"
彼の顔は笑っていたが、目は笑ってはいなかった。
"俺の魂は勿論死んだ後も蓮花塢と共にあるが、けれどほんの少し故郷を離れ、見知らぬ大海のまにまに揺られてもみたいという欲もある。だから、あなたより俺が先に死んだら骨を海に撒いてくれ"
"私の方が年上ですからそれはなかなか難しいのではないかと"
"かもしれないな。でも、あなたはうんと長生きしそうだ"
江澄はにやっ、と笑った。
"とにかく、約束だぜ?こんなの、あなたの他に頼める人はいない"
そう言ってもらえたことが嬉しく、藍曦臣は深く考えず、気づくと頷いていた。
"けれど、死ぬだのなんだの、という話をするには私達は余りにも若くはありませんか。曲がりなしにも私達は長命の仙師ですからね。まだまだ生を享受する時間は長いですよ"
"確かにそうだけどな"
江澄は、少し遠い目をして言った。
"
…
だけど澤蕪君。永遠なんてものはどこにもないぞ"
確かに、そうだ。
彼が帰った後、藍曦臣は茶が冷えるのも忘れぼんやりと考えていた。
永遠なんてものはない。
例えば、こんな風に彼と親しく語らうだけの時ですら、いつかは終焉が訪れる。
この時を少しでも引き延ばすにはどうすればよいだろう、と彼は考えた。
それは、二人が宗主であり続けることだ。
つまり、私もまた宗主であることを全うしなければならない。
宗主同士の彼と私が添い遂げるだなんて、夢のまた夢だ。
そんなことは微塵たりとも望んでいない、といえば嘘になるが、望むだけ虚しく、辛いだけだ。
それならば、宗主同士として共にいられる方法を模索するまでだ。
彼は叔父を訪ね、何年も断り続けてきた見合い話を受ける旨を告げた。
§
藍曦臣と趙家の娘、若晴の華燭の典は姑蘇藍氏らしく簡素に、しかし大々的に執り行われた。
宴会には珍しく、いや前代未聞のことではあるが地元の銘酒、天子笑が振る舞われ、招待された仙師たちは大いに酔っぱらい、素面の花婿を讃えた。
そんな彼等に微笑みつつ、彼はただ一人の姿だけを目で追っていた。
その人は、義兄の魏無羨、そして聶懐桑と楽しそうに大声で笑ったり話したりしている。
何を話しているのだろう?
どうも二人して、何かの話で盛んに彼をからかっているようだ。
彼が真っ赤になって、何やら必死に言い返しているのが見える。
駄目です。彼をそんなにからかっては。
彼は私のー
藍曦臣はそっと頭を振った。
彼は私の
…
何でもない。ただの良い友人だ。
けれど、少なくともこの友人関係だけはいつまでも続く。死が二人を分かつまで。
「おめでとう、澤蕪君!」
いつの間にやら、先程まで眺めていた彼の義兄ー魏無羨、聶懐桑ににやにやと取り囲まれていた。
「あ、みなさん、どうもありがとうございます」
いつもの涼し気な笑顔で応える。
けれどその実、彼等の顔は碌に見てはいなかった。
「実はさあ、もうじきめでたくなる奴がもうひとりいて
…
」
へらへらと魏無羨が言う。
「はい?」
少し声に険が出たのは、嫌な予感が走ったからだと思う。
「あー、待て。それは俺が自分で言う」
ふらふら、と彼等に割って入ったのは当の本人、江澄だった。
彼も相当酔っぱらっているらしく、眼がとろんとしていた。
頬もほんのり赤いが、なぜかは分からないがその頬は普段より痩せこけているように見えた。
「あーなんだ、澤蕪君、まずはおめでとう。末永く幸せになってくれ」
「ありがとうございます」
おざなりなようでいても、やはり彼から直接聞く祝いの言葉は嬉しい。
「で、だ。俺もさほど後塵を拝すことなく、後に続けそうだ」
あれほど賑やかだった宴会の喧騒が、一気に掻き消えた。
今、何て言った。この人は。
「正直、流石の俺もこれだけ連戦連敗では駄目だと思い始めてたんだ」
機嫌よさそうに江澄は言った。
「けど、やっぱり悄気ずに頑張ってみるものだな。いい人に巡り会えたよ。今年の秋には俺も式を挙げるつもりだ」
酔ってもいないのに、ぐるぐる回る。
彼も、魏公子も、誰も彼も。
「
…
澤蕪君?」
異変に気付かれたのであろう、心配そうに此方を覗き込んだ彼の手をがしっ、と取る。
嫌だ。あなたは誰も娶らないで。
あなたを抱きしめ、熱い吐息で囁き、素肌に触れていいのは私だけだ。
彼が見知らぬ女人とぴったり重なり合い、切なげな喘ぎ声で腰を振る姿を想像しただけで気が狂いそうになる。
しかしここまで考えて、それがまさに自分が今宵から行うことを期待されている行為だ、と初めて気づいた。
同時に、どうしてそんなことに今まで気づかなかったのだろう、と愕然とした。
私はとてもではないが、そんなことはできない。
ただ一人を除いて。
「おい、手を離せって。花嫁様に嫉妬されるのはごめんだぜ」
笑い声が聞こえて、するっと手が逃げていく。
「あと、俺には祝福のお言葉はないのか?」
はっとして顔を上げる。
そこには、至極真面目な顔の江澄がいて此方を覗き込んでいた。
さきほどまでの酔っぱらって柔らかく崩れていた男とはまるで別人のようだった。
その時、藍曦臣は気づいた。
この人は、全く酔ってはいない。
「
…
おめでとうございます」
「ありがとう」
途端に彼は破顔した。
心から嬉しそうな笑顔だった。
「あなたに祝ってもらえると本当に嬉しいな。これからは既婚者同士、宜しく頼むぜ。たまには嫁の悪口も
…
っと、おっと、失礼」
江澄は傍らの藍曦臣の新妻に微笑みかけた。
「という訳で、たまには旦那様をお貸しくださいね。奥様」
彼が言っていることが、頭に入ってこない。
嫁?旦那?奥様?
誰が?誰が、誰の?
そして既婚者同士?
あなたと、私が?
「
…
すみません。少し気分が悪くなったので中座します。申し訳ない」
藍曦臣はふらふらと立ち上がった。
「そりゃいけないな。奥様、彼を連れて行ってあげてください」
江澄は心配そうに言った。
「じゃ、ゆっくり休め、澤蕪君。俺たちが代わりに盛り上がっておいてやる」
「すみません
…
」
「謝るなって。じゃあ、お休み」
「お休みなさい」
江澄は再び、満面の笑みを浮かべた。
藍曦臣はその笑顔を暫くじっと見つめた後、頭を下げた。
一か月が経った。
藍曦臣は、娶った妻に一切触れようとはしない。
妻は訝しげな、そして哀しそうな顔で日々仕えたが、彼は彼女と顔を合わす度に"すまない"と掠れる声で謝罪するばかりだった。
しかし、彼の頭の中に妻のことはなかった。
今の彼は、ひたすら文がくることだけを恐れる日々を過ごしている。
それは即ち、江澄の華燭の典の案内だ。
それを受け取ったならば、人の形を保てる自信はなかった。
自分は妻を娶っておきながら、なんて身勝手な。
そう己を戒めつつ、"死刑宣告"をただ粛々と待つ日々が続いた。
「澤蕪君!!」
雲深不知処では珍しくどたばたとした足音が聞こえたのち、がらっ、と寒室の戸が開いた。
「どうしたんだ。騒がしいな」
顔を上げた藍曦臣は、走ってきた思追の顔色に息を呑んだ。
「
…
何があった?」
「江宗主が
…
」
瞬時に彼は立ち上がり、思追の前に立った。
「彼が、どうした?」
遂に、結婚なさるのだろうか。
胸が痛いほど疼いた。
思追は途切れ途切れに答えた。
「お亡くなりになりました」
その後のことはよく覚えていない。
気づけば剣に乗っていた。
どうやって剣を制御していたのかも定かではない。
蓮花塢の見慣れた大広間には大勢の師弟が詰めかけていて、皆が皆涙に掻き暮れていた。
そこに闇雲に分け入り、真中に一人横たわる人のもとへと向かう。
穏やかで、とても綺麗な死に顔だった。
なんならそのうちひょいと目覚めるんじゃないか、と思った。
そして起き上がって辺りを見回して、なんだお前ら人のことをじろじろ見て、と皮肉な笑みを浮かべるのだ。この人は。きっと。
けれど、いつまでたっても彼は目を開けることはなかった。
「特に目立ったお怪我などはないのです。心の臓を何かで一突きされたらしく
…
」
年配の師弟が目頭を押さえながら言った。
「どこで、
…
襲われたのですか」
誰か、他人が話しているようだと思った。
そして、どうしても"殺された"とは言えなかった。
その決定的な言葉さえ口に出さなければまだ彼を呼び戻せるのではないか、という儚い願いが過る。
「雲夢の北、川の源の山地です。最近悪質な傀儡が出没しておりまして
…
」
「そうですか」
"傀儡"の言葉を聞くや否や藍曦臣はすっ、と立ち上がった。
その立ち居振る舞いはいつものように優雅だったが、彼の顔を一目見た師弟は一瞬涙をも忘れ、息を呑んだ。
彼が戻ったのは翌日の朝だった。
蓮花塢には魏無羨、そして弟の藍忘機が到着しており、大広間の江澄の躯の傍で呆然と座っていた。
「澤蕪君
…
!てかどうしたの、その恰好
…
」
魏無羨は涙に暮れながらも驚愕の眼差しで彼を見た。
「ああ。夜狩から戻ったところですので」
彼の白い装束はあちこち血に塗れ、破れ、汚れていた。
「それはまさか
…
」
「ええ」
藍曦臣は頷いた。
恐らく北の山には今、惨殺された傀儡の死屍が累々と積みあがっているに違いない、と魏無羨は思った。
葬儀の記憶も、殆どない。
ただ、皆が泣き叫んでいるのを藍曦臣はぼんやり他人事のように眺めていた。
さほど江澄と仲の良い間柄でもなかった弟ですら、一掬の涙を流していた。
だが、藍曦臣だけは一人、遂に一滴も涙を見せることはなかった。
一日経ち、遺体は荼毘に付された。
骨だけになった姿を見た時にやっと、どうやらあの人は本当にいなくなったらしい、と腑に落ちた。
崩れ落ちんがばかりに泣き崩れる魏無羨の横で、藍曦臣は人目を盗んで密かに江澄の指の骨を少し拾い、袖の中に隠した。
それから一月後、雲深不知処から五十里ほど離れた海岸に藍曦臣の姿があった。
蓮花塢では江澄の月命日の弔いが行われていたが、彼は行かなかった。
その代わり、一人でひたすら砂浜を歩いた。
初夏の日差しを受け、海は蒼く、きらきらと輝いている。
その眩しさに思わず目を細める。
あたりは人っ子一人おらず、寄せては返す波の音と、己がしっとりと湿った砂を踏みしめるざり、ざりという音以外聞こえるものとてない。
ふと、目の前に自分と彼、二人の幻が見えた。
皮肉屋と名高い彼だが、やはり海を見ると浮き立つ気持ちが抑えられぬらしく、波打ち際を軽やかな足取りで歩む。
いや、走る。
"うわー、やっと来れたな、海! "
"余り近づくと濡れますよ、江澄"
"ここだと大丈夫だ。
…
わっ、意外と波、来るな"
案外大きな波に裾を濡らし、江澄は慌てて飛び退った。
"ほら、言わんこっちゃない"
"まあ、いいだろう。折角の海だ"
彼は此方を振り返って微笑んだ。
紫の眸が、陽光を受けてきらりと輝く。
藍曦臣は瞬きを一つした。
途端に幻は消え去り、彼は一人、波打ち際に立ち尽くしていた。
「
……
」
濡れるのも構わず、彼はその場に座り込んだ。
そして、声にならない嗚咽を上げた。
今まで流れなかった涙が次から次へと溢れ出し、潮と共に砂に染み込んでいく。
何を、間違ったのだろう。
多分、何もかもを間違った。
共に宗主として並ぶ道しかないと決めつけたことも。
そのためには妻を娶るしかないと思いつめたことも。
思い切って道侶となってくれと誠心誠意願っていたならば、もし彼を失ったとしても悔いはなかっただろう。
悲嘆に暮れつつも、せめて彼と一時想いを通じ合えたという思い出を胸に一生を過ごせたのかもしれない。
もしかしたら、さっきの幻のように海を共に眺めたという思い出も残せたのかもしれない。
たとえ良い返事が得られなかったとしても、少なくとも彼に自分の気持ちを知らしめたという満足は残っただろう。
けれど、彼は何も知らぬまま逝った。
そして私は一人、この海岸で立ち尽くすだけだ。
懐から包みを取り出し、そっと開ける。
そこには、江澄の指の骨が二欠片入っていた。
そのうちの一つを握りしめ、少しの仙力を込め、できるかぎり沖へと投げた。
随分遠くでちゃぽん、という音が聞こえたので、恐らく岸に戻ってくることはないと思う。
もう一欠片の骨は、大事に懐の中に仕舞った。
「これからも時々来ますね。江澄」
そう呼びかけると、藍曦臣は海に背を向けた。
その後藍曦臣は、再び閉関の身となった。
娶った妻は、結局一度も手を触れることなく離縁した。
時が流れ、いつしか「雲深不知処の長老」と呼ばれるようになった彼は、髪に霜を置いた後も長く生きた。
最期は可愛がった師弟達、そして弟とその道侶に囲まれ、眠るように亡くなったという。
§
目が覚めた。
ベッドから起き出し、寝室を出てそのままリビングへと向かい、大きな掃き出し窓のカーテンをさっと開けた。
途端に眩しい陽光と目に沁み入るような青く輝く海が飛び込んでくる。
いつもながらこの部屋は掛け値なしのオーシャンフロントだな、と思う。
今日もいい天気になりそうだ。
ランニングウェアに着替え、イアホンをつけ、マンションを出る。
エントランスの前の道を渡ってすぐ目の前は砂浜だ。
ここの浜は肌理の細かい砂なので大変走りやすい。
「藍さん、おはようございます!」
毎日すれ違う、黒いドーベルマンを連れた若い男が挨拶した。
「ああ、おはようございます。阿澄も元気そうですね」
「ええ。いつもどおり力が有り余ってますよ」
「そりゃいい。名前だけのことはあるね」
彼ー藍曦臣は笑って、ぽんぽん、と"阿澄"の頭を叩いた。
くうん、と犬は鼻を鳴らし、彼にすり寄った。
そこから、藍曦臣は軽く流す感じで走った。
ここに越してきてから、朝のランニングはすっかり日課となった。
おかげで最近は仕事柄凝りがちな身体が随分軽くなったと感じている。
春まだ浅い頃ではあるが、海は今日もきらきらと陽光を浴び眩しく光っている。
それを横目で眺めつつ彼は微笑んだ。
少しでも海の
…
彼の近くにいたくて、居を選んだのは大正解だったと思う。
ひとしきり走りマンションに戻ると軽くシャワーを浴び、シリアルと牛乳の朝食を摂る。
食べつつ新聞に目を通していると、スマートスピーカーが機械的な声で"そろそろお家を出てください"と告げた。
「はいはい。分かりましたよ」
すっかり癖になった相槌を打ちつつ、藍曦臣は慌てて残りのシリアルをがっつき、シンクに食器を浸した。
そしてジャケットをさっと羽織ると、車のキーを手に部屋を出た。
彼の愛車は青いminiだ。
乗り込んで暫くすると、電話がかかってきた。
スマホと連動させているのでハンズフリーで「もしもし?」と出る。
「
…
兄さん」
「ああ、忘機か。どうした?」
「
…
」
珍しく弟が口籠った。
「なんだよ。言ってみなって」
笑いを含みつつ問いかける。
「
…
あの。恋人が
…
できました
…
」
藍曦臣は危うく赤信号を突破しそうになった。
「お前に!恋人か!いやあ、これは先を越されたなあ
…
」
「申し訳ございません」
「いやなんで謝るんだよ。良かったね」
「ありがとうございます」
「名前は何ていうの?」
「魏無羨、です」
もう一度心臓が跳ねる。
「そう。じゃ、いつか私にも会わせてほしいな」
「ええ」
電話を切ってからも、暫し動悸が止まらなかった。
彼、藍曦臣には前世の記憶がある。
それも一切合切、詳細に渡り覚えている。
だが、弟にはその記憶が全く無い。
長じて後、過去の色々なことを尋ねてみたが、彼は兄の頭がおかしくなった、とばかりに訝しげな顔で首を傾げるばかりだった。
いや、弟だけではない。
高校、大学と聶明玦、そして聶懐桑の兄弟と一緒だったが、二人もまたそのような記憶は一切持ち合わせていなかった。
つまりどうやら、この世界で前世の記憶を持ち合わせているのは自分一人であるらしい、と藍曦臣は悟った。
別にそのことに関してはさしたる痛痒も感じておらず、通常の生活にも支障はない。
ただー
ただ一人、来世ではなんとしてでも添い遂げたいと思った人には未だ出会えていない。
その人も多分、皆と同じ様に前世の、そして自分の記憶などはないのだろうと思う。
けれど、それでもいい。出会えたならば、そこから新しく関係を築いていけばいい。
もう、今度は間違えない。何一つ。
だけどそれもまず、出会えることが前提だ。
とはいえ今までは手がかりもまるでなく、気づけば中年と呼ばれる年頃に差し掛かり、このまま出会えぬまま今世を終えるのか、と焦りを覚え始めていた。
だが今回、確実に掴んだ。
弟の恋人は、魏無羨だ。
ということは彼にはきっと、いや絶対義弟がいる。
鼓動が更に激しくなった。
一気でなくていい。まずはどうにかして知り合って、少しずつ仲良くなろう。
大丈夫、時を経ても記憶がなくても、私達はきっと上手くやっていけるはずだ。
「藍先生、おはようございます!」
駐車場に車を停め、外に出ると歩いていた顔なじみの事務員がにこにこと挨拶した。
「ああ、おはよう」
ここは海に程近いこじんまりした単科大学のキャンパスだ。
彼、藍曦臣はこの大学の文学部で国史学科の教授として教鞭を取っている。
丁寧な授業と優しい人柄(それは単位の取り易さにも反映されている)で、彼の講義は人気が高い。
研究室に入り、ほっと一息つく。
今日の授業は四限からなので、今から授業準備をして昼食をとっても十分余裕がある。
「
…
藍先生!」
ノックののち、ひょいと柔和な顔が覗いた。
「あ、金さん。おはようございます」
彼ー金光瑤は大学出入りの業者の営業マンだ。
どうも藍曦臣は彼に弱く、勧められるがままにほいほいといろいろなものを買ってしまう。
それはやはり前世の後ろめたさのせいに他ならない。
「先生、パソコンをお届けに参りました。事務部の検収は済ませておきましたから。はい、納品書」
「いつもありがとう」
「いえいえ。そうだ先生、今度また新しいタブレットが出ましてね。容量が兎に角大きいし、見やすいんですよ。先生のように電子書籍をたくさんお持ちの方にはぴったり
…
」
またか、と心の中で密かに苦笑いしつつ、やはり強く断れない彼は「じゃあ。またカタログを持ってきてください」と答えた。
「ありがとうございます!あ。このパソコン、セットアップは済ませてありますからすぐにお使いいただけますよ。ではまた」
だから出入りの業者さんは助かるんだよな、と思いつつ、藍曦臣はパソコンの箱を開けた。
全くの機械音痴なので、セットアップなんて言われてもちんぷんかんぷんだ。
起動させると、程なくして学内のポータルサイトが映し出された。
まずはそこにログインする。
このパソコンでの初仕事はこの子の購入依頼手続きにしよう、と藍曦臣は学内の経理システムを立ち上げ、必要な項目を入力した。
程なくしてプリンタががががっ、という音を立てて書類を一枚吐き出す。
それと納品書を手に、彼は部屋を出た。
一階の事務室は窓が大きくて明るく、家具類も新しいのでいわゆる事務という雰囲気ではない。
「あ、藍先生。こんにちは」
担当の事務の女性がにこやかに挨拶してくれる。
「こんにちは。此方の処理をお願いしたいのですが
…
」
「わかりました」
受け取ろうとした女性の手は、しかし空を切った。
「
…
え」
藍曦臣は驚き、いつの間にか傍らに立って書類を奪った男を眺めた。
「藍先生、ですね」
男は彼よりも少し背が低く、肩くらいまである髪の毛を無造作に一つに縛っている。
眼鏡をかけ俯き加減に書類を見る表情は、サイドに垂れる前髪、あるいは横髪のせいでよく見えない。
「この時期にパソコンですか?そろそろ年度末も近いですが、これを用いて研究成果を上げられますか?」
不意に彼は顔を上げた。
眉間の皺、眼鏡の奥に吊り気味で紫に輝く大きな目。
息が止まった。
「ああ、突然失礼いたしました。本日付で此方の大学の経理に係長として着任いたしました江澄と申します。以後宜しくお願いします」
極めて"事務的な"口調で彼は挨拶した。
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