ナガレ
2023-09-15 22:54:36
2033文字
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さくらんぼ(ぶぜまつ)

さくらんぼの茎を口の中で結べる人はキスが上手いとか何とかという話。そこら辺のジャッジは松井にさせるのがうちの豊前です。

 小腹が空いたから何か貰ってくる。現世の雑誌を眺めていた豊前の隣で足の爪紅を塗り直していた松井は、そう言いながら立ち上がると部屋を出て行った。久しぶりに非番の重なった二振りだったが、特にやりたい事も行きたい場所も無かった。だったら今日は一日中何もしない日にしようと、贅沢な閑暇の過ごし方を選択した。
 とは言え、何もしない日でも生理的欲求には勝てない。空腹を覚えた松井は硝子鉢に入った艶々の桜桃と共に戻ってきた。

「厨で貰ってきた。豊前も食べるかい?」
「そーだな。少し貰う」

 読んでいた雑誌を閉じると、豊前はむくりと起き上がった。寝そべったまま読むなんて行儀が悪いことこの上ないが、今日はそれが許される日だ。すでに桜桃で小腹を満たし始めた松井の横に腰を下ろすと、豊前も洗い立ての新鮮な桜桃を一つ摘まんで口に入れた。噛んだ果肉からじゅわりと広がる甘味と酸味。果肉は適度に固く、味の均衡も申し分ない。この実は当たりだ。
 美味いと感じている豊前とは対照的に、松井は少し眉根を寄せていた。すっぱ……と小声で呟いていたので、酸味の強いものを引いたのだろう。ごくんと飲み込むとすぐに次の桜桃に手を出していた。今度は下がり眉のままだったので、当たりの果実を引けたらしい。
 そんな松井を横目に豊前が二つ目の桜桃(先のものに比べると酸味が強く感じられたが、これも個体差だろう)を咀嚼していると、松井が実の無くなった桜桃の茎を指で摘まみながら豊前に話しかけてきた。

「一説によると、この茎を口の中で結べる者は口吸いに長けているそうだ」
「へー。そうなんか」

 豊前の反応は松井の予想通りだった。松井は豊前がこの話題に食いつくとは微塵も思っておらず、世間話として振っただけだ。特に深い意味は無い。話を続ける気もないので、松井は次の桜桃を摘まんでぽいと口に放り込んだ。今食べた中では一番甘味の強い実で、松井は目尻を下げた。
 満足な松井とは逆に、豊前は難しそうな顔をして口元を真一文字に結んだままもごもごと動かしていた。先ほどの自分のように、やけに酸味の強い実でも引いたのだろうか。豊前は甘味の強いものよりも酸味の強い桜桃の方が好みだと前に聞いたのだが。口周りの筋肉を中心に表情筋すべてが動いている豊前。松井ははたと気がついた。……違う。この動きは咀嚼ではない。

……案外難しいもんだな」
「挑戦していたんだ」

 松井からは見えないように、ぺっと茎をちり紙に吐き出す豊前。どうやら松井の世間話に挑戦していたらしい。

「真偽の程は定かじゃないからね。仮にできたところで、だからどうしたって話だ」

 硝子鉢に残った桜桃はあと一つ。ほとんど一振りで食べてしまったから、最後の一つは豊前に譲ろうか。松井はどうぞと硝子鉢を豊前の方に押し出そうとしたが、松井が動くよりも先に豊前の手が動いた。

「んぐっ」

 顔の両側から固定するように豊前に両手で押さえつけられた。豊前とはそれなりの深い仲だし、松井もうぶではない。豊前が何を望んでいるのか読む事はできる。今日はすでに何度か戯れるように口づけされている。だから今回もそれかなと思った。しかし松井の予想は裏切られた。
 目が合って掠めるようにちゅっという、今日何度か交わしたなんて可愛らしいものではない。諸々すっ飛ばされて最短距離で侵入された。べろちゅーなんて言い方は生ぬるい。喩えるならば口内押し込み強盗である。松井は少し待ってくれと抵抗したが、豊前に押さえ込まれてしまった。縦横無尽に動かれて混乱する中、松井は理解した。もしかして豊前、さっきやろうとしてできなかった事をまたやろうとしているのではないのかと。
 松井がどれだけ訴えたところで離してもらえないので声にならず、豊前が着ている内番着の黒色のTシャツの襟首を掴むのがやっとだった。肺活量も豊前の方が上だから、なけなしの抵抗も弱まる一方。これ以上続いたら息ができなくて溺れてしまう。口吸いで酸欠だなんて冗談じゃない。もう無理だと松井が最後の力を振り絞って突き飛ばそうとした時、ようやく豊前が松井を解放した。

「自分じゃよくわかんねーけど、松井はどう思う?」
「そんなの知らないよ……。比較対象が無いから比べられないし……

 全身に血を巡らせるためには酸素が必要不可欠である。ぜーはーと荒い呼吸の松井が深呼吸も混ぜながら新鮮な酸素を取り込んでいる横で、豊前はそうかそうかと何故か上機嫌だった。豊前は硝子鉢に残っていた最後の桜桃を摘まむと、自分で食べるかと思いきや松井に向けてきた。

「最後の一個だ。松井が食べろ」
「え?あぁ。貰うよ……

 豊前が松井に手ずから食べさせようとするのはよくある事だ。今は誰かに見られる事もないから別に構わない。松井は素直に受け入れた。果肉の歯ごたえ、瑞々しさ。甘味の中にも適度な酸味がある。最後の一つが一番美味しかった。


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