去年は雨を恐れてすぐ軒の下や玄関に移せるように中庭に飾られた七夕飾り。今年はよく晴れて雲も無さそうだからと、本丸の裏に広がる庭園の真ん中に飾られた。水辺近くに何本もの支柱で支えて立てた大きな笹。その頭上には天気予報通り雲一つ浮かんでいない夜空には天の川が流れており、川を形作る星々は金銀真砂と呼ぶに相応しい。
さらさらと揺れる笹の葉に飾られた折り紙の吹き流しや短冊。内番や事務仕事に追われて昼間に見に来ることが叶わなかった松井江は、夕飯の後に一振りでそれを丁寧に見ていた。
無病息災、健康祈願、家内安全、兄弟円満。必勝祈願や誉をたくさん取ると書かれた短冊もあった。商売繁盛や五穀豊穣、芸事上達あたりは誰が書いたのかわかりやすい。天下とだけ書かれた短冊もあった。願い事ではなくて野望の域ではという気がしなくもない。
中には夕飯のおかずを注文している短冊もあったが、それは願掛けするよりも厨当番に直訴した方が早いと思う。あと、最新の遊戯道具が欲しいというお願いも今日願うべきものではない。給金を貯めるべきである。
短冊一枚とはいえこんなにも個性が出るものかと感心していると、季語をたくさん見つけられますようにと書かれた短冊を見つけた。その後ろにぴたりと貼りつくようにこれからはずっと雨さんと一緒にいられますようにと書かれた短冊が飾られている。願い事も飾り方もあの二振りらしくて、松井は一振り笑みを浮かべた。
ちなみに松井の願い事は、今年も去年と同じく針仕事の上達だ。無難に本丸の皆の健康を願ってもよかったが、この辺りは誰か他にも書いているだろうと思って今回もやめた。今年はすぱんこーるを綺麗に縫い付けられるようになりたい。
(そういえば、豊前の短冊はどこだろう……)
確か彼は朝の早い時間に飾り付けていたはずだ。松井はぐるりと笹の周りを回ってみた。――あった。笹の葉の間に隠れていた、裏が赤い短冊。そこに書かれていたのは諸願成就の四文字だった。記名がなくてもわかる。見慣れた筆跡のそれは、みんなの願い事が叶えばいいという豊前の願い事。松井の知る限り、豊前の願い事はいつもこれだ。松井は豊前のそんなところも尊敬している。でも、同じくらい寂しかった。僕にくらい、本当の願い事を教えてくれてもいいのに。松井の心の内がどんよりと曇り始めた。
……だめだ。湿っぽくなってしまった。七夕飾りも堪能したし、そろそろ戻ろう。松井が屋敷に戻ろうとすると、向こうから足音が聞こえてきた。その足音は徐々に近づいてきて、すぐそこで止まっていた。
「松井?」
「豊前」
足音の主は豊前江だった。松井の姿が見あたらない事に気づいた豊前は、松井さんなら七夕飾りを見に行ったと思いますよと言われてここに来た。聞いたとおり、松井は庭園の七夕飾りのところにいた。
目の前には松井と豊前を隔てる水路。流れる川を模したこの水路には小さな橋が架けられているが、そこまで行くのは面倒だ。これくらいの幅なら飛び越えられなくもないと判断した豊前は水路を飛び越えた。ぴょんと飛び越えた豊前が松井の元に辿り着くと、松井はきょとんとしていた。不意を突かれた顔だ。
「どーした?」
「……いや。何でもない」
君が牽牛じゃなくてよかった。思わず松井はそんな台詞が思い浮かんでしまった。こうも簡単に川を越えられては、天帝もきっと苦労しただろう。苦笑いしそうになった松井は、軽く咳払いをして誤魔化した。
「七夕飾り見てたんだな」
「うん。今年も立派だなと思って」
大太刀や薙刀達よりも背の高い、大ぶりの笹。たくさんの短冊や飾りを吊るされても、支柱を連れて堂々とした佇まいで立っている。ぬるい夜風に笹の葉が揺れて、豊前は先ほど松井が吊るした短冊を見つけた。
「篭手切が喜びそうな短冊っちゃ」
「七夕は乞巧奠だからね」
元を辿れば技芸の上達を祈る行事だ。一つくらいはこんな願い事があってもいいだろう。去年この願い事を見つけた雅を愛する刀は、松井の願い事を風流だねと言ってくれた。
「ところで、豊前の願い事は何だい?」
「俺の?」
「そう。豊前の」
自然に尋ねる事ができた、と思う。彼の書いた短冊を見つけられなかったとも、本心を知りたいとも、どうとでも取れる問いかけを松井は投げた。どう答えるかは豊前次第。松井の心の内を測ろうとしているのか、豊前は押し黙り考え込む素振りを見せた。
「……今まで行ったことのないくらい遠くに行ってみてーな」
豊前の答えは何となくわかってた。みんなの願い事が叶う事だと言われた方が辛いから、この答えでよかった。松井に遠くに行きたいという豊前を止める権利は無い。権利は無いけれど、せめて行く前には一言告げてから行ってほしいと思う。そして無事に帰ってきて欲しい。牽牛と織女も一年に一度は逢えるのだ。だから僕も一年は待つ。
風も出てきたし、そろそろ見納めにして戻ろうか。松井は最後にもう一度と、七夕飾りを見上げた。
「――いつかすげー遠くに行って、見たことない景色を見て。で、その時に松井が横にいたらいーなと思う」
その言葉に、松井がぱっと視線を豊前に戻した。てっきりこちらを見ていると思った豊前のまなざしは、七夕飾り越しにどこか遠くの世界を見ていた。
「あんまし遅いと他の奴らも心配する。戻るぞ」
てっきり帰りも水路を飛び越えるのかと思いきや、豊前は橋の方に向かって歩き始めた。水路は松井にだって飛び越えられる幅だし、ここを突っ切るのが屋敷までの最短距離なのに何故?松井は小首を傾げた。
「少しぐらい遠回りする方がいーだろ」
数歩進んだところで松井がついて来ていない事に気がついて、豊前は振り返った。振り返ったかと思いきや、置いていくぞと言って松井を待たずにまた先に行く。しかしその歩みはやけに緩やかで、まるで松井が追いつくのを待っているみたいだ。気を抜くと緩んでしまいそうになる口元を引き締めて、松井は豊前を追いかけた。
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