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ナガレ
2023-04-29 21:28:12
4225文字
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爪紅(ぶぜまつ)
第4回ぶぜまつwebオンリー「ぶぜまつスプリングパーティー!」の開催記念webアンソロ『桜花爛漫』に寄稿したもの。豊前と松井のとある春の日の出来事で、今日もぶぜまつは仲良し。 ※web横書き用に改行等調整しています。
「
……
あ」
作業を終えて体を伸ばしていると、ふと指先が目に入った。左手の薬指、その指だけ緑青色の爪紅が少し剥げている。剥げているといっても自爪の先端がわずかに見えているだけだが、一度目に入ると気になってしまう。このまま放っておいても特に問題は無いけれど、作業もちょうど一段落したところだし気分転換がてら塗り直そう。机の上に広げた書類や帳面を片付けると、松井江は机の下に置いてある小間物入れの箱を引っ張ってきた。そして蓋を開け、二度目の「あ」を発した。箱の中にはほとんど中身の入っていない爪紅の小瓶。使い切ったから今度買いに行こうとしていた事を思い出した。
まぁ、これも気分転換だ。急ぎの仕事は先ほど終わったし、ここ数日ずっと机仕事だったから外に出るのも悪くない。今日は佐保姫の機嫌も良いのか、春疾風も落ち着いている。行き先は万屋だから内番着のままでも問題ない。
松井は愛用している小ぶりの財布と念のための電子端末を持って部屋を出ると、審神者の執務部屋に顔を出して一声を掛けてから玄関に向かった。
「
――
松井? 出掛けんのか」
「豊前」
松井が内玄関で靴を履いていると、偶然通り掛かったのか豊前江に声を掛けられた。朝、今日は特に予定も無くて暇だし天気も良いから走りに行こうかなと言っていたので、とっくに出掛けているものだと思っていたのだが
……
。
疑問符を浮かべる松井の内番着のポケットからわずかに見える財布。それに気づいた豊前は松井の行き先に思い当たった。
「万屋なら俺も一緒に行く」
「別に構わないけれど、走りに行くのは?」
「予定変更」
豊前はここで少し待てと松井に言うと、ぱたぱたと小走りで廊下の向こうに消えた。そして数分もしないうちに戻ってくる。二振りは連れ立って万屋に向かう事にした。
こうやって豊前と出掛けるのは久しぶりかもしれない。松井は少しだけ浮かれた。行き先は万屋で二振りとも内番着だけれども、逢い引きには違いない。一応、豊前とはそういう間柄なので。
「何買うんだ?」
「爪紅。さっき塗り直そうとしたら、切らしていることを思い出してね」
ほらここと、松井は豊前にほんのわずか爪紅が剥げてしまった指先を見せた。豊前の顔に〝塗り直す必要あんのかそれ?〟と大きな文字が浮かぶ。忙しかったらそのまま放置していたかもしれないが、ちょうど空き時間ができたし、見つけると気になって仕方ない。ですくわーくの気分転換だと松井は返した。
本丸から万屋街までの道のりは、どこの本丸にもある専用の転送装置を使えばほんの一瞬だ。万屋街の一角にあるいつもの店で、松井はいつもと同じ品番の爪紅の小瓶を手に取った。目当ての物は見つかったし、ここに長居をする必要はない。松井が横を向くと、豊前がじっと違う色の爪紅を見つめていた。
「
……
落とすやつも持ってんだよな?」
「除光液のこと? 持ってるけど
……
」
「そっか。じゃあさ、この色試してみよーぜ」
ぱっと豊前が違う品番の小瓶を手に取って握り込んだ。何色かと松井が尋ねるよりも早く、豊前はついでにこれもと言わんばかりに松井の手にあった爪紅を攫っていく。そしてすたすたと一振り会計台に行ってしまった。その早業に松井はぽかんとするしかなかった。我に返った松井が追いついた時には、もう豊前は店の外に出ようとしていた。
「袋はいらんちゃって断ったけど、別によかったよな」
ほらよと、会計済みのテープを貼られた爪紅の小瓶が松井の手に戻ってくる。豊前がまとめて会計をしてくれたという事に気づいた松井は慌てて財布を取り出したが、これぐらい気にすんなと豊前に笑顔で断られてしまった。曰く、試し塗りをさせてもらう分だと思ってくれればいいとの事。そんなの別にいいのにと思った松井だが、ありがとうと言って素直に受け入れる事にした。
ところで、豊前は何色を買ったのだろうか。わざわざ試してみたいと言うくらいだから、松井が普段使っている色と似た色ではなさそうだ。松井は豊前に何色を買ったのかと直球で聞いてみたが、帰ってからのお楽しみだとはぐらかされてしまった。三回聞いたが三回とも同じ答えだったので、帰るまで教えてくれる気は無さそうだ。
――
と、そんな調子でやんややんやと話しながら二振りは本丸に帰ってきた。行きもあっという間なら、帰りもあっという間だ。審神者の執務部屋に二振り揃って顔を出し、戻ってきた事を告げるとそのまま松井の部屋に向かった。
「これ試させてくれ」
部屋に入るなり豊前が内番着のポケットから出したのは、赤色と淡紅色の爪紅だった。赤色の爪紅といえば加州清光が、淡紅色の爪紅といえば村雲江が思い浮かぶ。しかしこれは彼らの愛用している色とは異なる色で、豊前が松井に選んだのは洋紅の赤色と桜の淡紅色だった。こういう色の爪紅は遊びでも塗った事がない。どんな印象になるのか松井には見当がつかなかった。
「別に指十本全部塗らせてくれとは言わねーし、塗ったらすぐ落とす」
「それなら足にするかい? 足なら別に落とさなくてもいいし、十本全部塗ってもらっても構わない」
ちょっと待ってくれと言うと、松井はウエットティッシュで軽く足の指を拭いた。そのうち時間ができたら綺麗に塗り直そうと思って、足の爪紅は先日落としてしまったからすぐに塗れる。豊前に向かって足を投げ出すと、どちらの色を塗ろうかと悩んでいた豊前も色を決めたのか、小瓶の封を切った。選んだのは桜色だった。
松井の足を自分の胡座を組んだ脚の上に固定すると、小瓶の蓋を開けてその先についている平筆で爪紅を取る。そしてそのまま爪にさっと一塗り二塗り。爪紅を塗る豊前の表情は真剣そのものだが、何だか楽しそうだ。松井はその間に手の爪紅を落とす事にした。綿に除光液を染みこませて、きゅっきゅっと爪を磨く要領で落としていく。塗るとかなり長持ちするのに落とす時はすぐに落ちるから、松井はこの爪紅が好きだった。
「
……
よし、できた」
「さすが豊前だ。はみ出しも塗りむらもほとんどない。あとは乾くまでこのまま置いておけばいいよ。すぐに乾くと思うけれど、うっかり触るとよれてしまうからね」
あっという間に足の指は十本とも柔らかな桜色に彩られた。この色も好きだなと松井が目を細めていると、一仕事終えて満足気な豊前が立ち上がり、今度は松井の背後に回って腰を下ろした。松井がどうかした? と聞くよりも先に、緩く腹に腕が回され、肩の上に顎が乗せられた。
「器用なもんだな」
「そう? 慣れだと思う」
確かに利き手に塗るのは難しいが、顕現してからずっと塗っているのでもう慣れた。慣れた手つきで松井の指の先が青色に染まっていく様を、背後の豊前は興味深そうに見ていた。松井には何が面白いのかよくわからないが、豊前的には面白いのだろう。
「今度、手も違う色にしてみねーか?」
「うーん
……
塗っても手入れを受けるといつもと同じ色に戻ってしまうからね。出陣の予定が無い時ならいいけれど、みんなびっくりしそうだ」
好きな色は赤だけれども、松井の爪紅は青色だ。そんな松井が突然爪紅を赤い色にしたら、察しの良い者には裏にいる豊前の存在に気づかれてしまう。勘ぐられたり揶揄われたりするのは、あまり好きじゃない。
十本すべて塗り終えると、松井は豊前に終わったと声を掛けた。塗り立ての爪紅は艶を放っており、あとは乾くのを待てばいい。いつもは「二二〇〇年代なのだから、そろそろ速乾を通り越して即乾になってもいいのでは?」と思うのだが、今は不思議とそう思わなかった。
「一本ぐらいは違う色にしてーな
……
」
「まだ言ってる。そのうちね」
諦めきれない様子の豊前に松井は苦笑するしかなかった。松井の苦笑に気づいた豊前の腕の力が強くなる。それに対して抗議をするよりも先にうなじを舐められ、松井は思わずひゃんと変な声が出てしまった。
……
日の高いうちからそういう事はしないでもらいたい。後ろを向いた松井は文句を言おうとしたが、豊前に口を塞がれてしまった。松井は豊前の狙い通りの行動を取ってしまった事に気がついた。
――
あぁ、もう。仕方ないな。どうせ乾くまでは動けないんだ。松井が豊前に身を預けると、それで良しと言わんばかりに豊前が松井を抱き込み直した。
机の上の皿には桜餅とよもぎ餅が置いてある。それを見つけた豊前が机の上に向かって手を伸ばした。手に取ったのは桜餅。半分食べると、残りは松井の口元に持っていった。
差し出された桜餅をもぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲み込む。今度は茶が欲しくなってきた。そこの水筒を取ってくれと松井が頼むと、よもぎ餅を食べていた豊前が水筒の蓋を開けて少し傾け、飲み口を松井の口元に持っていく。何だか雛鳥みたいな扱いだが、爪紅が乾くまでは動けないのだから仕方ない。
結局、爪紅がすっかり乾いてしまっても二振りはそのままで、どちらも自分から離れようとはしなかった。
――
それから数日、清明を迎える頃。今度二振り揃って非番の日があればどこか出掛けたいという話になった。早速予定表を確認すると、ちょうど次の非番が重なっている。日にちはすんなりと決まった。日程の次は行き先だ。さて、どこに行こうか。
すったもんだの末に行き先が決まったところで、松井が「たまには現地で待ち合わせをしてみたい」という意向を見せた。豊前に反対する理由は無い。二振りは現地で待ち合わせをすることにした。
先に待ち合わせ場所に着いたのは豊前。松井からは支度に手間取ってしまったので少し遅れると連絡があった。松井が待ち合わせの時間に遅れる事は滅多に無い。珍しい事もあるものだ。豊前は慌てなくていいと返した。
今日の行き先は現世のとある複合商業施設。ここはいつ来ても人の子で溢れている。この辺りなら目立たないだろうと選んだ看板の影で豊前が松井を待つ事、およそ十五分。豊前の姿を見つけた松井が駆け寄ってきた。
遅れてすまないと息を切らして駆け寄ってくる松井の姿に豊前が顔を上げる。そして「それ
……
」と小さな声を漏らした。
胸元で肩掛け鞄の肩紐を握る松井の手。その指先は一本だけあの鮮やかな赤色の爪紅で染められていた。
【終】
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