第4回ぶぜまつwebオンリー「ぶぜまつスプリングパーティー!」で展示していたもの。非番の豊前(赤疲労)が松井がひとりじめする話。豊前にとって松井は一番のおくすり。
戦の合間にこんな豪勢な弁当が食べられるなんてと感動した。団子も食べ放題だと聞いて喜んだ。そうやって喜んでいられたのも最初のうちだけだ。確かに弁当は美味しかったし、団子も美味かった。最初は。何度同じ戦場を駆け抜けただろうか。ようやく赤疲労状態になって本丸に帰ったら、弁当を渡されて休憩もそこそこにまた出陣。赤疲労でない時は団子を渡された。食べると疲労がぽんと飛んでいく不思議な団子。あの団子には怪しい薬が入っているに違いない。
そんな調子でここしばらく戦場を駆け抜け続けた豊前江は、ふらふらと自室に向かって歩いていた。一瞬でも気を抜いたらこのまま廊下でぶっ倒れる。何とか部屋まで辿り着き、できれば布団の上で倒れたい。出陣中は団子の力で誤魔化していたけれど、集中力も体力も限界だった。何でもいいから寝たい。眠れるかわからないけれど、とりあえず倒れたい。
しばらく帰っていなかった自室。部屋の障子を開けた豊前は同胞達に感謝した。豊前の帰還に合わせて用意してくれたのか、部屋にはすでに布団が敷いてあり、その上には内番着が畳んで置かれていた。戦闘衣装から内番着に着替えると、豊前はそのまま布団に一直線
――ではなく、何故か枕を持って部屋を出た。脱いだ戦闘衣装はそのまま放置してきたが、今はまだ片づける気力が無かった。目的地は隣の隣の部屋。隣の部屋の住人はすでに夢の中らしく、部屋の明かりは消えて真っ暗。その隣の部屋の明かりはまだついている。豊前の気配に気づいたのか、部屋の中の人影が動いた。
「豊前?お帰り。出陣おつかれさま」
「たでーま
……」
人影の正体は豊前と同じ江の者・松井江だった。寝支度をしていたのか、松井は寝間着浴衣に薄い羽織り物を引っ掛けていた。勝手知ったる松井の部屋。豊前は無言で中に入った。部屋の中にはすでに布団が敷かれている。いつも松井は寝る直前に布団を敷く。宵っ張りだからこの時間はまだ起きているはずのに何故。しかし今はそれを考える余裕が無い。豊前は持参してきた枕を布団に置いた。
「とりあえず、寝る。三日間の非番をもらったけ、明日は起こさなくていーから
……」
そう言って松井の布団に片側に潜り込むと、最後まで言い切るか言い切らないかで豊前は寝息を立て始めた。まさにおやすみ三秒。掛け布団を豊前の肩まで引き上げると松井は苦笑いを溢した。彼の部屋と自分の部屋、どちらにも布団を敷いておいて正解だった。そう、豊前の部屋に布団を敷いて着替えを用意したのは松井だった。
限界まで酷使した肉体は休養を欲している。豊前はこのまま朝まで起きないだろう。豊前の部屋に敷いた布団とおそらく脱ぎっぱなしの衣類を片づけるため、松井は立ち上がった。常夜灯だけ残して部屋の明かりを落とす。おやすみと声を掛けても、豊前は微動たりしなかった。
* * *
――腹が減った。
空腹を感じた豊前は目を開けた。明け方にも空腹を感じて一度目を覚ましたと思うが、如何せん記憶は曖昧だ。その時は食欲よりも睡眠欲の方が勝ったのだろう。抱き枕よろしく横の松井を抱き込んで再び寝入った気がする。しかし抱き込んだはずの松井は腕の中にいない。のろのろと寝ぼけ眼で体を起こすと、豊前は部屋の中を見回した。部屋の主はいなかった。
昨日まで働きづめだった豊前は非番だが、松井は違う。内番か事務仕事かそれとも出陣か。寝ぼけ頭で何だったか思い出そうとしていると、カタンと音がして部屋の障子が開いた。
「起きたのか?おはよう」
「おはよーさん
……」
障子を開けたのは松井だった。障子の向こうの日の高さから推測して、今は午前十時過ぎといったところか。この時間に内番着姿でここにいるという事は、少なくとも今日の松井は出陣ではない。夜戦でない限り、出陣部隊は朝一番に本丸を発つ。
「そろそろ起きるかなと思って、厨から軽食を貰ってきた。おにぎり食べる?」
「
……貰う」
手にしていた盆を机の上に置くと、松井は盆の上の布巾を取った。盆の上にはおにぎりが三つ並んだ皿が載っている。ふあ、とあくびを一つすると豊前は布団の中から抜け出した。こんなにも寝たのは久しぶりだし、寝過ぎて少々体が痛い。豊前が腕を回して肩を動かしていると、松井がぱっと口元を押さえて視線を逸らした。これは何か見てはいけないものを見てしまった時の反応だ。あと、笑いを堪えている時。
「寝癖ついてる。顔を洗うついでに直してきたら」
「マジか」
拭くものなら貸してあげると言って柳行李の中からタオルを一枚出すと、松井は洗顔料と一緒に豊前に渡した。一度癖がつくとなかなか直らない松井と違って、豊前の髪は変な癖がついても水で軽く濡らして乾かせばすぐ元に戻る。元から緩く癖のある髪質だという点を差し引いても羨ましい限りだ。洗面所に行く豊前を見送ると、松井は茶櫃の蓋を開けて湯呑みを二つ用意した。万屋街の蚤の市で買った、釉薬が色違いの湯呑み。片方はいつしか豊前専用になった。そのうちこれも付喪神になるのだろうか。戯画に出てくるような小さな手足が生えた湯呑みは見てみたいと思う。
「ところで、今日はこれからどうするんだい? 非番を貰ったと聞いたけど」
顔を洗って戻ってきた豊前は完全に目を覚ましていた。いただきますと同時に手を伸ばし、ぱくぱくとおにぎり三つを完食した。余程の空腹だったのだろう。豊前はその間一言も発しなかった。松井もそれを理解していたから、あえて話しかけなかった。話す時間はこの後たっぷりある。
ごちそうさまと言って両手を合わせ、一息つく豊前。腹を満たした彼に緑茶を淹れた湯呑みを渡しながら松井は尋ねた。昨夜、三日間の非番を貰ったと豊前は言っていた。眠りの沼に腰まで浸かりながらの発言なので少々怪しいところはあるが、少なくとも今日一日は非番だろう。自分も非番なら豊前に付き合いたいところだが、松井には今日も事務仕事がある。
「特に何もやることねーし、どうすっかな
……」
「それならゆっくり体を休めるといい。疲労は手入れじゃ消えないからね。休養が特効薬だ」
「そーだな
……」
立ち上がって松井の布団を畳むと「ついでに厨に返してくる」と言って空の皿と盆を持ち、豊前は自分の部屋に戻っていった。いくら松井が深い仲の相手とはいえ、自室の方が落ち着けるはずだ。しんと静まりかえる松井一振りきりの部屋。
……特に何か思うわけではない。松井は事務仕事に戻った。
松井が眉間に皺を寄せて帳簿とにらめっこしていると、部屋の外から「入るぞ」と声が掛かり、何故か豊前が一時間程で戻ってきた。湯でも浴びてきたのか、やけにさっぱりとした姿で髪が少し濡れている。先ほど洗顔ついでに寝癖を直してこなかったのは、後で湯浴みをするつもりだったからなのだろう。
「どうした?忘れていった枕ならそこに置いてあるし、たおるは今度洗って返してくれればいいよ」
「非番の間、何もしないことにした」
「うん
……?」
会話が噛み合っていない気がする。書類仕事の手を止め、松井は豊前を見上げた。豊前の視線は松井ではなく机の上に置かれた書類の山に注がれている。本丸の運営に関する情報はすべて電子機器でやりとりできるのに、何故か紙は無くならない。松井達がモノ
――刀だった時代からずっと。
「篭手切が遠征でいねーから、れっすんは無い。畑の手も足りてる。書類整理なら手伝える」
豊前は部屋の隅に置かれていた座椅子(年末年始の宴会の余興のくじ引きで豊前が当てたのだが、自分は使わないからと松井に渡した。この座椅子は人をだめにするらしいが、松井は僕は刀剣男士なのだからという矜持で何とか抗っている)を引っ張ってくると、松井に向かって無言で手を伸ばした。
……豊前の意図がわからない。特にやる事は無いし、何もしないとついさっき宣言したのに。松井は小首を傾げた。
「何もしないんじゃなかったの?」
「松井の手伝いは別っちゃ。ほら、そっちの終わったやつ貸せ。綴じるんだろ?」
「え、ちょっと待っ
……髪の毛!濡れるから!」
松井は机の上の書類を取ろうとする豊前を制止した。書類を豊前から遠ざけて上から空の書類箱を被せると、代わりに机の下の小間物入れを引っ張り出して私物のヘアドライヤーを手にする。手伝ってくれようとする豊前には申し訳ないが、これらはすべて政府への提出書類だから濡らされると非常に困る。先に濡れた髪を乾かしてからにしてもらわないと。コンセントを電源タップに差すと、松井は豊前の背後に回った。
スイッチをオンにすると、ぶぉんと音を立ててモーターが回り始めて温風が出てくる。豊前は自分でやるからいいと言うが、自然乾燥派が何を言うのやら。日夜ヘアドライヤーと格闘している自分の方が絶対に得意だ。松井は豊前のくせっ毛をわしゃわしゃと掻き回しながら乾かすと、ついでに手櫛で軽く整えた。こんな感じでいいだろう。
「
――はい。乾いたよ」
「あんがとな」
「どういたしまして。手伝ってくれようとしたのにすまないね」
「俺もそこまで気が回らんくって悪かった」
空の書類箱を拝借すると、豊前は松井から処理の終わった書類を受け取った。不揃いの書類を番号順に並べて綴じていくだけの作業は単純かつ分かりやすくて良い。隣の松井が書類仕事を進める小さな物音を聞きながら、豊前は時折さぼりつつ淡々と手を動かした。
……何となく波長が合うのだと思う。松井といる時の沈黙は嫌いじゃなかった。
手を動かすこと、およそ二時間。帳簿や電卓と格闘していた松井の腹の虫がきゅうと小さく鳴いた。もしかして聞こえたかい?と恥じらう姿に、豊前は何も聞こえていないぞという顔で「そろそろ昼飯食おーぜ」と提案した。新しい血を作るのには食事が必要だ。
「豊前がずっと部屋にいるの、何だか変な感じだな」
午後も豊前は松井を手伝った
――と言いたいところだが、昨日までの疲労が残っていたのだろう。松井が気づいた時には座椅子で船を漕いでいた。これは人間も刀剣男士もだめにする座椅子だ。事務仕事をする時には絶対使わないようにしよう。きっと僕もだめにされる。松井はそう決意した。
疲れているのならこのまま寝かせておいてやりたいところだが、この肉体は人の子と同じだ。いくら部屋の中とはいえ、薄着では風邪をひいてしまう。松井は豊前を揺り起こそうとしたが、手がその肩に触れる前に止まった。眠っていても美丈夫は美丈夫。その顔立ちに思わず見惚れてしまった。
……おっと、いけない。このままでは豊前が風邪をひく。しかし起こすのも忍びない。少しの間考えると、松井は大判の膝掛けを持ってきて豊前に掛けた。
――というのが、本日午後の出来事だった。豊前が目を覚ましたのはちょうど八つ時で、二振りで仲良く老舗和菓子屋のどら焼きを食べた。茶請けの菓子にうるさい者達が、わざわざ現世まで足を伸ばして買い求めたという逸品だ。睡眠とおやつでしっかり目が覚めた豊前は、午前中よりもハイペースで松井の事務仕事を手伝った。豊前が急かすものだから、松井の作業速度も自然と上がる。その結果、このまま進めれば明日中に終わるだろうというきりの良いところで今日の作業を終えた。
昨夜は松井の布団を半分借りた豊前。さすがに今夜は自室で寝るだろうと思った松井の予想に反して、風呂から戻ってきた豊前は松井の部屋にやって来た。豊前と一緒に過ごす事、それ自体は珍しい事ではない。だが、豊前がおはようからおやすみまで松井の部屋にずっと居るのは珍しかった。
「嫌だったか?」
「いや。そんなことない」
夕べと同じく、布団一つに枕二つ。夜更かしの松井も今宵はすでに布団の中だ。肩と肩が触れあう距離で豊前と言葉を交わすのが何だかくすぐったかった。床を共にした事だって何度もあるのに。豊前にもう寝るぞと言われて寝床に入ったものの、まだ眠気はやって来ない。何か話をしていればそのうち眠たくなるだろう。昨日はおやすみ三秒だった豊前も今日はまだ起きている。
「豊前は明日どうする?」
「何もしない」
「僕の手伝いも?」
「それは別」
「じゃあ明日もお願いしようかな」
「おー
……」
冷え性の松井は春先まで湯たんぽを使っている。二振り分の体温と足元の熱で、豊前の相づちが少しずつ間延びしていく。これはそろそろ落ちそうだと、松井は少しだけ距離を詰めた。案の定、数分もしないうちに豊前は眠りの世界に旅立っていった。
「
……おやすみ」
もう少しだけなら近づいてもいいかな。ほんの数センチだけさらに近づくと、松井もゆっくり目を閉じた。松井はあまり寝付きがよくない。でも今夜はすぐに眠れそうだ。隣の豊前につられ、いつしか松井も眠りに就いていた。
* * *
「
……おはよ」
「おはよう
……」
翌朝、目を覚ましたのはほぼ同時だった。二振りの足元にあった湯たんぽはすっかり冷たくなっている。これは後で洗面所に持っていき、中の湯を洗顔の時に使うのだ。二振りして眠い目を擦りながら起き上がると、今朝も豊前の横髪には軽く寝癖がついていた。
「今日も寝癖ついてる」
直らなかったら後で直してあげると言って、松井は布団を上げるために豊前を追い出した。緩慢な動作で布団から抜け出す豊前。豊前がここまで寝起きでぼんやりしている姿は珍しい。この非番は何もしないと宣言したから、いつもの快活さも休みを取っているのだろうか。
このまま朝食のために大広間へ行ってもいいのだが、折角の何もしない怠惰期間だ。松井は先に顔だけ洗ってきたらと豊前を洗面所に向かわせた。その間に松井は豊前の部屋へ内番着を取りに行った。松井が戻ってきてもまだ豊前は戻ってきていなかった。次に松井は今朝の厨当番に頼んで二振り分の朝食を弁当箱に詰めてもらった。今から豊前と一緒に部屋で食べるのだ。
「朝ご飯貰ってきたから一緒に食べよう」
「ここでか?」
松井が弁当箱を二つ持って部屋に戻ると、豊前が洗面所から戻ってきていた。松井の提案に対する豊前の疑問に、勝手な事をしてしまったと松井の眉尻が下がった。昨夜の会話から今日も一日一緒にいてくれると思っていたが、それは早合点だったのかもしれない。今から豊前が大広間に顔を出しても、何か行き違いがあったと思ってくれるだろう。詰めてもらった朝食の片方は昼食にすればいい。
「いや、別にいいんだ。その、勝手な真似をしてしまってすま
――」
「今日の朝飯も美味そうっちゃ。松井はどっちにする?ぱん?」
しゅんと肩を落として前言撤回しようとする松井。しかし豊前はそれに気づかず素振りでいそいそと弁当箱の蓋を開けていた。片方は佃煮昆布の乗った白米と焼き魚と卵焼きの入った和食、もう片方は焼きたてのパンとソーセージと目玉焼きの入った洋食だった。どちらも美味しそうだが、洋食は松井に譲ろう。松井はパン派だから。
「松井?」
「え、あ、いや、何でもない
……」
「そっか。冷める前に食おうぜ」
健康的な血と体と動力は健全な食生活から。いただきますと手を合わせたのは同時だが、豊前は松井よりも食べるのが早い。先に食べ終えてしまったので、松井が食べ終わるのを待ちがてら食後の飲み物を用意する事にした。豊前にいつもの珈琲でいいかと聞かれたので、松井はブラック濃いめを希望した。厨で湯を貰ってくると言って魔法瓶を片手に部屋を出て行く豊前。その後ろ頭には今日も
――。いつもはそんな事無いのに、二日連続だなんて珍しい事もあるものだ。松井は昨日と同じようにヘアドライヤー引っ張り出した。残ったままの彼の寝癖は後で直そうと思う。
「
……本当に今日も僕の手伝いでいいのか?」
食後、松井が空になった弁当箱を厨に返しに行って戻ってきても、豊前はまだ松井の部屋にいた。松井が持ってきた内番着に気づいて着替えており、そのままだった布団は押し入れの中にしまわれていた。着ていた寝間着はというと、軽く畳んで部屋の隅に置いてあった。
「おう。少しは体動かしてーから、午後からちっと外に出るかもしんねーけど」
豊前の言葉に松井は「そう
……」と伏し目がちに返した。自分で言うのも何だが、書類仕事というのは退屈だ。体を動かす方が好きな豊前には尚の事つまらないと思う。暇をしている者達に声を掛ければ、誰か一振りくらいは付き合ってくれるはずだ。無理して手伝う必要はないとやんわり伝えよう。そう松井が切り出すよりも先に、豊前が「それに」と意味ありげな視線を松井に寄越した。
「こうでもしねーと、松井俺のこと独り占めしてくれねーだろ」
それにこっちも好きでここにいるのだからごちゃごちゃ考えるなと言われ、松井がうっと言葉に詰まった。松井は豊前を己の理解者だと思っている。でも、こんなところまで理解してくれなくてもいいとも少しだけ思う。
「さっさと終わらせちまおーぜ。松井もずっと詰めっぱなしだろ。昼は体動かしに行くぞ」
万屋街に新しい蕎麦屋ができたらしいぜと豊前が言う。曰く、開店記念で天ぷらをおまけしてくれるらしい。どうやら今日の昼ご飯は蕎麦になりそうだ。
「
――ひい、ふう、み、よ
……松井、一枚足りねぇ」
「ちょっと待って
……あった。はい。こっちに紛れ込んでいた」
「これ綴じたら終わりか?」
「あぁ、終わりだ。助かったよ。ありがとう」
時折休憩を挟みつつも二振りで書類仕事に立ち向かい、昼は休憩がてら蕎麦を食べに行った。注文したのはどちらも天丼とざるそばのセット。味にはあまりこだわりのない二振りだが、この店は当たりだった。また今度食べに来ようと約束をして店を出ると、ちょうど昼食時ということもあり列ができていた。少し早めに本丸を出て正解だった。
戻ってきた二振りは少し食休みをすると、午後もせっせと作業を進めた。豊前も八つ時に少し体を動かしてくると言って出て行った以外は「溜め込みすぎだろ
……」とぼやきながら、松井の隣や後ろでひたすら作業を続けた。その甲斐あって、松井の抱えていた事務仕事は夕飯の時間までにすべて片づいた。松井一振りだけでは今日中に終わらせる事は難しかっただろう。今度お礼がてら食事にでも誘おう。松井はそう決めた。
「勝手に手伝ったのはこっちだ。気にすんな」
松井の心を読んだのか、豊前に先回りされてしまった。それでは僕の気が収まらない。松井が不満を浮かべて唇を尖らせると、じゃあちゅーしてと茶化された。松井が躊躇すると見越しているのだろう。少ししたら冗談っちゃと付け加えるのだ。
……侮ってもらっては困る。松井は豊前が何か言うよりも先に、目の前の唇を奪ってやった。
まさに鳩が豆鉄砲を食らったよう。突然の出来事で言葉の出ない豊前に、松井はしてやったりとにんまりと口元に弧を作った。しかし豊前を出し抜いてやったと上機嫌だったのも束の間で、すぐに倍返しをされてしまった。
* * *
「明日は丸一日非番だから少しくらい朝寝坊してもいいよね」とか、「だったら時間ずらしてどっか食べに行くか」とか、「蕎麦は今日食べたから何か違うものにしよう」とか。そんな事をつらつら二振りで話しながら、昨夜も一昨日と同じように枕を並べた。今夜は足元に湯たんぽが無いから布団の中は少し冷たい。それでも豊前は隣の松井の体温だけで寝落ちしそうになっている。
襲い来る睡魔からの防衛戦。しかし豊前の旗色は悪い。松井は豊前の足を自分の足でつついた。松井の足先の冷たさに、どうした?と眠たそうな声で豊前がゆるゆる目を開いて松井を見る。その顔をじっと見つめる事、三十秒。豊前は松井からのサインを見逃すなんて事はしない男である。松井の援軍を受け、豊前は見事睡魔を退けた。今夜は二振りで夜更かしをする事になりそうだ。
「朝
……」
松井が目を覚ますと、二つ並んでいたはずの枕は布団の外に追いやられて散らばっていた。松井は豊前に腕枕をされて
――ではなく、寝間着のはだけた豊前の抱き枕になっていた。豊前の寝顔を見るのはこれで三日連続だ。
目と鼻の先にある豊前の顔。いつどの角度から見ても端正だなと思う。しばし豊前の寝顔を独占していると、松井はある事に気がついた。
眠る豊前の頤の辺りを見ながら、おもむろに自分の顎先に触れてみる。朝晩化粧水を叩きこんでいるだけありそこはしっとりと滑らかで、松井のそこには特に何も無かった。
――松井は顕現時に支給された剃刀を一度も使った事無い。そもそも使う必要が無かった。でも豊前は違う。毎朝洗顔の時に支給品の三枚刃を使っている。ごく稀にだが、寝ぼけていたのか朝の洗顔後に血が滲んでいる時もあった。
(ふふっ
……)
思わず頬が緩んでにやけてしまう。この豊前を見ることができるのは今だけで、二振りきりで朝を迎える事を許された松井の特権だった。
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気づいてないけど、豊前を独り占めしたかった松井。松井が豊前の特効薬だったらいいな。
ラストのたまに寝ぼけて手が滑っている豊前の小ネタは、これ(
https://privatter.net/p/7876042)の1ページ目にあります。無精髭生えちゃう豊前くんを推してる。
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