この本丸の主である審神者は蒐集家だ。モノを集めては愛で、手入れをして整理する。それはよく知る旧知の刀にも通じるものがあった。とはいえ、少しは現状を省みてもらいたいとも思う。集めた品を納める蔵は一杯で、これは新たな蔵を用意するべきかもしれないというところまできていた。残念ながら本丸の運営資金に余裕が無いので、その件については先送りになっているが。
詰め込まれて手狭になった蔵は、手の空いた刀剣男士で時折片づけをしている。元はモノだった彼ら。同じモノが乱雑に放置されているのを見ると、ついつい手を出したくなってしまうのだ。今日の蔵整理は松井江だった。
この辺りを整理しようかと、松井は荒れた区画に目星をつけた。一つずつ審神者の集めた品々を順に並べ、自分なりに系統立てて棚に戻していく。実に単調な作業だが、松井はこういう作業が嫌いではなかった。畑仕事よりもよっぽど性に合っていると思う。松井は黙々と出しては並べ、並べては戻す作業を繰り返していた。
半分ぐらい片づけた所で、松井は片隅で埃を被る古い銅鏡を見つけた。銅鏡と言ってもそれは松井のよく知る磨いた鏡面に姿を映す形の鏡ではなく、水を張ってそこに姿を映すものだった。実用ではなく儀式に用いられたものだろう。しかしそんなものが何故ここに?
やけにこの鏡が気になった松井は、薄く積もっていた白い埃を手で払った。薄い鏡の裏面には見た事のない文様が描かれており、水を張るための窪みにも何か描かれているみたいだ。しかし薄れていて何が描かれているのかはわからなかった。……そろそろ休憩しようかと考えたところだ。休憩も兼ねて松井は鏡を持って蔵の外に出た。行き先はすぐ近くにある井戸。好奇心には勝てなかった。
松井は汲んだ井戸水で軽く鏡の埃を洗い流すと井戸の縁に鏡を置き、手で水を掬って窪みに水を張った。ゆらゆらと揺れる水面。水の鏡は松井が想像したよりもずっと鮮明に映った。水面に映る自分の顔は毎日洗面所の鏡で見ている顔と同じで、特に目新しいものでも何でもない。それがほんの少し微笑んだ。
――微笑む?
松井は微笑んでなどいない。今は訝しんで眉間に少し皺の寄った難しい顔をしているはずだ。しかし鏡に映る自分の顔ははっきりと口元に歪んだ弧を描いていた。……これはまずいのでは?そう直感した松井は、急いで鏡に張った水を捨てようとした。しかしそれよりも一瞬早く、鏡の中から真っ白な手が伸びてきて、松井の腕を掴んだ。
「……っ!」
その手はとても冷たく、腕を掴まれた松井が思わず動きを止めてしまうほどだった。氷水に浸されたような冷たさに、松井の表情が強張る。早くこの手を振りほどかないと取り返しのつかない事になる。松井は真っ白な手を振りほどこうとしたが、掴む力は強くてびくともしなかった。
これはまずいと思い、声を上げようとした時にはすでに松井は鏡の中に引きずり込まれていた。鏡は虚しく空を映している。しばらくすると、鏡の中からずぶ濡れになった松井がよじ登るようにして出てきた。その顔色は蒼白を通り越して蝋のように真っ白で、血の気が感じられなかった。
きゅっとずぶ濡れの内番着の裾を絞る松井。次に鏡に張られた水を地面に撒いて捨てると、何やら考える素振りを見せ、濡れた鏡を持って本丸の外に向かった。
*
同時刻。豊前江は松井を探していた。どこにも松井がいないのだ。本丸の中をぐるりと一周しても、松井の姿が見当たらない。一仕事終えて時間ができたので松井の手伝いをしようと思い蔵に行ったものの、そこに松井の姿は無かった。松井が仕事を放り投げてどこかに行くとは思えない。一体どこに行ったのかと、豊前の表情が曇った。何か予期せぬ出来事があったのではないか。こういう時の豊前の悪い予感は往々にして当たる。
松井を見たら俺が探していた伝えてくれとすれ違う男士達に言づてを頼みながら、豊前は松井を探した。しかし松井は見つからず、また蔵の前に戻ってきてしまった。やはり松井の姿はない。
「松井の奴、どこに行ったんだ……?」
蔵の扉は開けっ放し。ついさっきまで片づけをしていたであろう場所には、軍手がきちんと揃えて置いてある。少し休憩をしようとこの場を離れたとしか思えない光景だった。そういえば、この蔵の近くには井戸がある。手を洗おうとした松井とすれ違いになっていた可能性もある。豊前は井戸に向かった。――いない。
松井の姿はどこにもないが、豊前は不自然に濡れた地面が気になった。まるでここで水を溢したかのような、真新しい濡れ跡。そして謎の跡が蔵の近くにある井戸から本丸の端に向かって伸びている。まるで、ぽたぽたと雫を垂らしてできたような、足跡みたいな水の跡が。
……何か嫌な予感がする。こういう時の嫌な予感は当たるのだ。己の直感を信じた豊前は水の跡を辿った。蛇行しながらも本丸の外へ外へと向かっていく水の跡は、このままいくと本丸の敷地の外に出て行ってしまう。敷地の向こうも審神者の霊力によってある程度は空間が続いているそうだが、その先がどうなっているのかは誰も知らない。知っているのは、その先に行ったら戻ってこれないという事だけだ。
もし松井が審神者の霊力が届かない場所まで行ってしまったらどうなる?早く松井を見つけないと取り返しの付かない事になる。そう思うと焦りが生まれ、自然と早足になった。松井、松井と彼の名前を呼びながら、豊前は水の跡に沿って松井の姿を探した。――見つけた。本丸の隅で豊前は松井らしき後ろ姿を見つけた。
やっと追いついた。そう安堵したのも束の間、豊前は何かおかしいと訝しんだ。後ろ姿でもわかる。松井は全身ずぶ濡れだった。
「松井……?」
名前を呼ばれた松井が、ゆらりと顔を豊前に向けた。振り向いた松井の表情に、豊前の背中を冷たいものが走る。――これは刀剣男士でも玉鋼でも人間でもない。豊前の知っている松井ではなかった。
「……きさん、松井じゃねーな」
松井は豊前の問いに答えず、口元に歪な弧を作って能面のような感情の読めない顔で豊前を見るだけだった。結界を突破して侵入した時間遡行軍ではなさそうだが、一体何者なのだろうか。豊前は最大限の警戒体勢を見せた。本丸内では有事を除き、帯刀禁止。当然豊前も武器となる刀を今は持っていない。目の前の松井が松井でないのなら、本物の松井はどこにいる?まず問うべきはそこだ。
「……松井はどこだ」
警戒心を隠さずそう尋ねると、松井が笑みを浮かべた。――明らかな嘲笑。どうやら彼は簡単に口を割るつもりは無いらしい。多少の怪我は覚悟して、空拳で挑むしかなさそうだ。仮にこれが松井だったとしても、体術なら豊前の方が上。豊前はどうかこれが本物の松井ではありませんようにと願った。これが明らかに敵なら話は別だが、緊急事態でも出来る事なら松井を傷つけたくなかった。
じりじりと豊前が松井との距離を縮めても、松井は嘲笑を浮かべたまま動かない。本当にやりにくいことこの上ない。豊前の間合いに入るとようやく松井が動いた。ちらりと手にしていた鏡を豊前に見せる松井。一体何のつもりかと豊前は動きを止めた。何の真似かはわからないが、また何だか嫌な予感がする。嫌な予感の根拠は無いけれど、あの鏡は早急に取り上げた方がいい。そんな気がする。身柄の確保は後にして、松井からあの鏡を取り上げるのが先だ。豊前は作戦を変更した。
豊前の強みはその速さ。ぐっと足の腱に力を入れて一息で間合いを詰めると、豊前は松井の腕を掴んだ。そしてその冷たさに怯んだ。――人肌よりも、鋼よりもずっと冷たい。その怯んだその隙をつかれ、掴んだ豊前の手は松井に振り払われてしまった。
ふ、と嗤笑を見せた松井が鏡を持ったまま腕を大きく振りかぶる。松井はあの鏡を割ろうとしている。薄くて脆そうな古い銅鏡。あれを割らせてはいけない。
「松井!」
豊前の鋭い叫びに、腕を振り下ろそうとした松井が動きを止めた。
「……それ、こっちに寄越せ」
寄越せと言っても素直に渡してくれるはずも無く、今度は鏡をぎゅっと抱え込んでしまった。豊前を据わった目で睨めつける松井。手荒な真似はしたくないが、こうなったら力ずくで取り上げるしかない。仕方ねーなと豊前は大きく息を吐いた。
「松井」
目の前のこれは松井の姿だけれども、おそらく松井ではない何か。そう頭ではわかっていても、全身で拒否する姿勢を見せられると弱ってしまう。
「大事になる前に渡してくれ」
嫌だ嫌だと拒むように鏡を強く抱え込む松井。先ほどの動きとは大違いだ。よほど大切なものなのだろうか。下手に刺激させないようにしながら豊前が一歩前に出ると、松井の肩が大きく跳ねた。このままあれを取り上げてしまえば――
「お前が松井じゃねーのはわかってる。金輪際悪いことしないんだったら、見逃してやってもいい。それこっちに渡して、松井を返してくれたらな」
豊前はゆっくりと諭すように提案をした。ここまで言ってもだめなら交渉決裂だ。力づくで奪って身柄を拘束するしかない。手荒な事はしたくないが仕方ない。これが最後通牒だと、豊前は「ほら」と手を差し伸べた。差し出された豊前の手と、胸に抱えた鏡。松井の視線が二つの間をゆらゆらと彷徨うように行き来した。その間、松井は瞬き一つしなかった。
豊前と松井の間に流れる沈黙。豊前は辛抱強く待った。しばらく逡巡していた松井だが、ようやく心を決めてくれたらしい。おずおずと抱えていた鏡を豊前に向かって――
「……っ!」
鏡が豊前の手に渡るその直前、突然松井が悶えて膝をつき、鏡は音を立てて地面に落ちた。何から逃れようとして身を捩った松井の手が豊前に当たる。当たった松井の手は、死人のように――いや、死人よりも冷たかった。さっきよりも冷たいのは気のせいだろうか。
はくはくと口を開閉しながら助けを求めている松井。この松井は声が出せないのだと豊前はようやく気がついた。藻掻く松井はまるで水の中で溺れているようにも見える。何が起きているのか豊前には理解できなかった。呼吸もままならない様子の松井は、救いを求めるように豊前に向かって手を伸ばしている。その手を取ればいいのだろうか。――手を取ってもいいのだろうか。ふと湧いた疑問が豊前に躊躇いを生んだ。
「!」
躊躇っていた豊前の目の前で松井の体が弾け飛んだ。水風船が弾けた時のように、冷たい水が豊前に向かってぴしゃりと飛んでくる。松井が苦しみ始めてから弾けて消えるまではあっという間で、あとには大量の水と鏡だけが残された。
「何が起こったんだ……?」
姿の見つからない松井、目の前で弾けて消えた松井であって松井でないもの、残された鏡。とりあえず報告しておくかと水に濡れた鏡を拾い上げようとした時、御神刀の一振りを引き連れて審神者が慌てた様子でやって来た。
「あぁ、やっぱり!」
「……主?やっぱりって、どーいうことだ?」
「本丸の結界の中で慣れない者の気配が見つかったから探していたんだよ」
豊前なりに審神者の説明を要約すると、何だかおかしな気配を感じたから御神刀連中と一緒に探していた。探している途中で豊前と同じように地面の濡れた跡を見つけ、この先に気配の元があるのではないかと、祓いながら辿ってきたのだという。この鏡が根源らしい。
「そのうち処分しないとって先延ばしにしていたけど、この機会に処分するか」
審神者曰く、この鏡は悪いものが憑いているから処分してほしいと言われ引き取ったものらしい。処分してくれとは言われたものの、はいそうですかとあっさり処分してしまうには惜しくて、とりあえず蔵に入れておいたそうだ。そして、どうしようかとずるずる先延ばしにしていたとの事。御神刀が後ろでため息をついていた。審神者は長い長いお説教を喰らう事になりそうだ。
「処分にも色んな方法があるけれど、今回は普通に割ろう。で、その後お清めの祈祷をしよう」
御神刀も審神者の案に賛成した。こういう時は物理的に破壊してしまうのが一番手っ取り早い。叩き割ろうとしてせーのと鏡を大きく振りかぶった審神者を豊前が止めた。
「豊前江?」
「……待ってくれ」
豊前は審神者の手から鏡を引ったくると、来た道を引き返して井戸の前に戻った。よく見たらこれは古い水鏡だ。使い方は何となく知っている。この窪みに水を張るのだ。井戸桶には水がまだ残っていた。もしかしたらこれを蔵で見つけたアイツも――。豊前は鏡を井戸の縁に置くと、窪みに水を張った。鏡の真ん中でゆらゆらと揺れる水面。豊前はじっと目を凝らした。豊前の嫌な予感はよく当たるのだ。――松井に関する事は特に。
「豊前江?どうした?」
「……こんな所にいたんか。主、この中に松井がいる」
「え!」
審神者も豊前に倣って水面を覗き込んでみたが、ゆらゆらと揺れる水面に映る自分の顔が見えるだけだった。しかし豊前には水の中に沈んでいる松井の姿が見えるのだという。
「手ぇ突っ込んだら、いけっか……?」
そう言って内番着の袖を肩まで捲り上げて思いっきり腕を伸ばしてみたが、沈む松井にはわずかに届かない。触れそうで触れられないところに松井はいた。もう少し近づく必要がありそうだ。豊前は一度腕を水の中から引き抜いた。
「悪ぃ。落っこちねーように、足掴んでてくれ」
腰に巻いていた内番着の上衣を解いて落とす。Tシャツは濡れてしまうが仕方ない。深呼吸を繰り返す事、数回。大きく息を吸って止めると、豊前は勢いよく上半身を水の中に入れた。冷たい水はまるで冬の海。水の中から見上げる水面がうっすらと赤いのは――。ここは松井の言えない過去を心像した世界なのかもしれない。
ゆらゆらと揺れながらゆっくりと沈んでいく松井。その顔色は白蝋のように白く、意識も呼吸の有無もわからない。豊前は松井に向かって思いっきり手を伸ばした。まだ、届きそうで届かない。この中に体ごと落ちてしまうわけにはいかないが、その辺りは一人と一振りがかりでしっかりと掴んでくれているので大丈夫だと信じたい。豊前はさらに身を乗り出して松井に近づいた。
ほぼ半身が水の中に浸かる。これ以上沈んでいってしまう前に、早く引き上げないと。そのまま限界まで手を伸ばすと、やっと松井に手が届いた。手が届けばこちらのものだ。豊前は松井の腕をしっかり掴むと、そのまま自身の方に引き寄せた。水の冷たさにそろそろ全身の感覚が無くなりそうだった。それでもこの手を離すわけにはいかない。豊前は松井の体をしっかりと両手で捕えた。
「……っぷは!」
松井を抱えたまま、豊前は上半身の筋肉すべてを使って身を起こした。まず先に外に出た豊前の体が引き上げられ、次に豊前に抱えた松井の体がずるりと鏡の中から引き上げられた。
「松井、松井……松井!」
ずっと水の中にいた松井の体は、血が通っているか怪しい程に冷たい。豊前はその冷たい体を、脱ぎ捨てた内番着の上衣を広げた上に横たえた。次に松井の胸に耳を寄せる。心臓はまだ動いているが、呼吸の音は聞こえてこなかった。応急手当は顕現当初の必修科目。豊前に迷いは無かった。あご先を持ち上げて気道を確保し、親指と人差し指で鼻をつまむ。あとは覚えた通りに行えばいい。
大きく松井に息を吹き込む事二回。けほけほと水を吐いて松井が意識を取り戻した。豊前達が松井松井と呼びかけていると、呼びかけに気づいた松井がぼんやりと目を開けた。手入れの用意をしてくると、審神者は御神刀を連れて屋敷に戻っていった。御神刀の彼は今日の近侍だった。
「豊前、僕は……」
「……冷たかっただろ。温まりに行くぞ」
今は何も考えなくていい。豊前はまだ冷たい松井の頬に両の手のひらを当てて包み込んだ。
かつて鏡は鎮物だったと聞く。神を鎮めて邪鬼を払い除けるため、この鏡も捧げられたのだろう。物言えぬ鏡の中で松井が見ていたもの。それは松井が刀剣男士の松井江である限り切り離したくても切り離せないものにも似ていて、松井は目を逸らす事のできなかった。
もしあのまま水の中に囚われたままだったらどうなっていたのだろうか。沈んでいく松井の体は冷え切って、そのまま果てしない底で――。最悪の光景だ。豊前は頭を振って追い出した。
審神者のいうおかしな気配はこの鏡のもので、あの松井は水鏡に映った鏡像。松井を身代わりにしてその姿形を写し取る事で顕現し、冷たい水の中から逃れようとした。
大事にはせず見逃してやると言った豊前のことを信じて鏡を渡そうとしてくれたからよかったものの、もし豊前が見つけるよりも先に鏡を割られていたら。きっと松井は失われたまま帰ってこなかった。ずっとひとりで水の中を漂い、沈んでいた。
「……豊前?」
「何でもねーっちゃ。そろそろ手入部屋の準備もできただろ。行くぞ」
豊前は上衣ごと松井を横抱きにして抱き上げた。少しずつ体温は戻りつつあるが、それでも松井の体はまだ冷たい。早く温めてやりたかった。
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いつだって松井を引き上げてくれるのは豊前だと信じてる(私の中の大サビ)
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