突然降って湧いてきた、時の政府主導の大規模演習。出陣機会に恵まれていなかった刀達は久しぶりの武働きだと勇み喜んでいたが、審神者や近侍勢からはいくら何でも急過ぎると悲鳴が上がった。
演習の部隊編成はどうすべきか、通常の出陣や遠征、日課の演練はどうやって回そうか。当然、本丸を運営していくための人手も必要だ。審神者達は刀帳を見ながら執務部屋で膝を突き合わせ、ああでもない、こうでもないと、朝からずっと話し合っていた。
審神者と近侍勢が刀剣男士のやりくりを行う隣で、松井江の属する勘定方は小判の帳簿を睨みながら頭を痛めていた。演習に出れば出るほど小判は羽が生えて飛んでいく。もちろん蓄財はあるけれども……。
審神者が大規模演習の報せを受け取ったのは昨日の夜の事。中身を読んでくらりと目眩がした審神者の「明日からのことは明日の朝一番に決めよう」という考える事を放棄した一言で、その時は解散した。しかし所詮は先送りをしただけ。しわ寄せは翌日――すなわち今日やって来た。松井は朝からずっと執務部屋に詰めていた。
朝食が終わり次第、執務部屋に集合。これは長丁場になりそうだと直感した松井は、飴の袋と濃い目に淹れた珈琲の入った水筒、固形の栄養補給食をいくつか執務部屋に持ち込んだ。松井の判断は正しかった。
気持ちを落ち着けるために飴を舐め、帳簿を睨みながら電卓やそろばんを弾いていると、昼食の時間はあっさり通り過ぎていた。――絶対にこうなると思っていたんだ。諦めの境地で松井は栄養補給食を珈琲で胃に流し込んだ。
演習に向けた男士のやりくりと小判のやりくり、その間の本丸運営のやりくり。すべての話がまとまって松井達が解放されたのは、八つ時を過ぎた頃だった。
気分はすっかり赤疲労だ。肉体は肉体でも、主に頭脳に疲れが来ている気がする。執務部屋をあとにした松井達はお疲れ様と互いを労り、渡り廊下の辻で解散した。空腹を抱え厨に何か食べるものを求めに行く者、気分転換がてら風に当たりに行く者。松井はとりあえず自室に戻る事にした。
(疲れたな……)
凝り固まった肩をぐるぐると回しながら、重たい足取りで廊下を歩く松井。本当なら今日は非番だった。仕方ない事とはいえ、本当なら今頃は……。
はぁと大きくため息をつくと、松井は自室の隣の隣、同じ江の者の部屋の前で足を止めた。
「……豊前いる?」
「松井?」
松井が足を止めたのは豊前江の部屋の前だった。部屋の外から声を掛けると、すぐに中から返事が返ってくる。非番の豊前がこの時間に部屋にいる事は珍しい。松井のハの字眉毛がさらに下がった。
今日、松井には豊前と出掛ける約束があった。非番が重なった事と知った時からの約束だった。夕べ、明日の朝一番で執務部屋に集合と近侍の男士から告げられた時、松井は先約があるからと渋った。しかし審神者をはじめとするあちらこちらに頭を下げられ、当の豊前自身にも「また今度でいいから」と言われてしまったらどうしようもない。
皆でそろばんを弾いている間はそれに集中していたので気にならなかったけれど、終わった途端に豊前に対する申し訳なさが押し寄せてきた。せめて何か埋め合わせがしたいと思い、松井は豊前の部屋の前で足を止めた。
声を掛けてきた松井は部屋の障子を開けたものの、なかなか中に入ってこない。何か用事があるから部屋に来たのではないのだろうか。そんな所で突っ立っていないで中に入って来いと、豊前は松井を招き入れた。
「話し合い、もう終わったのか?」
「うん。とりあえず何とかなりそうだ」
とりあえず座れと豊前は松井に座布団を勧め、ついでに松井お気に入りのふわふわクッションも渡した。豊前の隣に座ると、松井は渡されたクッションをぎゅうと抱き締めた。特に理由は無いが、何となく落ち着くのだ。
「お疲れさん」
「すまないね。約束を反故にしてしまって」
「仕方ねーっちゃ。また今度行こーぜ」
松井の力が必要だったのだから仕方ない。もし予定通り出掛けたとしても、松井はずっと上の空だっただろう。豊前は松井の理解者だ。松井の事を思えば、仕切り直しが正解だった。
後で正式な伝達があるだろうけれどと、松井は先ほどまでの話し合いで決まった事を豊前にも話した。豊前も練度が上限に達してからそれなりに日が経つ。有志との手合わせだけでは物足りないのか、久しぶりの出陣機会を喜んでいた。同じ部隊に入れるといいなと言う豊前に松井も頷いた。松井も練度が上限に達してからは、ほとんど戦場に出ていない。血が流れる事はあまり好きではないけれど、演習なら血は流れない。たまには刀を振わないと腕が鈍ってしまいそうだ。
と、そんな事を豊前とつらつら話していると、文机の上に置いてある小瓶が松井の目に入った。豊前が自分で買ったとは考えにくい。誰かからの贈り物でもなさそうだ。小瓶には無理にラベルを剥した跡がある。空き瓶を貰って使い回したのだろうか。
松井の視線の先に気づいた豊前が、文机の上の小瓶を手に取った。
「それ、何だい?」
「これ? 飴玉」
豊前が小瓶を軽く振ると、中の丸い青色の飴玉が転がって、からんからんと硝子に当たる音がした。飴玉の色は青色で、表面には金粉が塗されている。それはまるで海にも見えるし、星の瞬く夜空にも見える不思議な青い色だった。
あぁ、何だかすごく甘そうだ。飴玉の甘さを想像した松井の喉がごくりと鳴る。松井は一つ欲しいと言って手を伸ばしたが、豊前にだめと言われて小瓶を遠ざけられてしまった。
「……意地悪」
「意地悪じゃねーよ。これは松井が食ったら毒になっからだめ」
そう言うと、豊前は小瓶を文机の上に戻した。む、と眉頭を寄せて口を尖らせる松井。甘くて体に悪いもの。そんなの頭が疲れている時には最高じゃないか。すっかり臍を曲げてしまった松井に、豊前は苦笑いするしかなかった。
「ちょっと待ってろ。違うやつがあったはずだ」
そう言うと、豊前は小間物入れの中をごそごそと漁った。この青色の飴玉は松井に渡せないが、たしか他の甘いものがあったはずだ。……あった。
「代わりにこれやんよ」
「何これ?」
「金平糖。篭手切がくれた」
豊前は松井の手に金平糖の入った包みを乗せた。金平糖……と呟きながら、手に乗せられた包みを開く松井。包みの中には金平糖が入っていた。赤、黄、緑。色とりどりの小さな甘い星が並んでいる。豊前が今日のところはこれで許してくれと言うので、松井は許す事にした。
小さな星をいくつか摘まみ、舌の上に乗せる。――うん、甘い。でもちょっと違う。金平糖も甘くていいものだけれど、松井の欲しいと思った甘さではなかった。とは言え、甘いものには変わらない。疲れた頭に砂糖の甘さが染み渡っていく。松井が金平糖をがりがりと奥歯で噛み砕いていると、豊前が松井の名前を呼んだ。
噛み砕かれて小さくなった砂糖の塊は口の中でほとんど溶けてしまった。残った欠片を飲み込むと松井は返事をした。
「何?」
「甘いもん欲しい?」
「あの飴玉くれるの?」
松井が期待の眼差しを向けると、豊前は首を横に振った。松井の言う事なら何でも聞いてやりたい豊前だが、あの飴玉だけはだめだ。どれだけ欲しいと乞われても、あれを松井に渡すことはできない。
「もっといーもの」
そう言うと、豊前はにっと笑って自身を指差した。なるほど、確かに甘いものだ。納得した松井は目を閉じた。
目を閉じると、肩の辺りを掴まれゆっくりと引き寄せられる。ぽすんと布地の当たる音。豊前の腕の中にすっぽりと収まった事を松井は体温と鼓動の音で感じた。額やら瞼やら鼻の頭に温もりが落ちてきて、そのくすぐったさに松井が身を捩る。
両頬を包み込むように触れる豊前の手。もっと甘くていいものをくれると言ったのになかなかくれない。焦れた松井が早く頂戴と無言で主張すると、やっと甘いものが唇に押しつけられた。
* * *
それから数日が経った。非番の松井が自室で一振り静かに過ごしていると、買い出し帰りの豊前が顔を出した。万屋への買い出しのついでに、お土産を買ってきてくれたらしい。
「手、出して」
言われるがまま松井が手を差し出すと、手のひらを上に向ける形にさせられた。豊前が内番着のポケットの中から取り出して、松井の手のひらの上に乗せたのは小さな透明の箱。箱の中には小さな丸いものが並んでいる。一体これは何だろうかと松井が首を傾げると、豊前は飴玉だと答えた。
「とても飴には見えないね」
硝子細工みたいな飴玉。その色は豊前の部屋で見かけた青色ではなくて、赤い色をしていた。
「何って言ってたっけ……しろっぷだったか? 中に蜜が入ってるんだとよ」
「そうなんだ。とんぼ玉みたいで綺麗」
松井は箱の蓋を開けて、中から一つ取り出した。摘んで持ち上げて光に翳してみると中身が透けて、液体が入っているのがわかった。どんな味がするんだろうか。きっと甘いのだろう。松井は早速一つ舐めてみた。
口にした飴玉は想像よりもずっと甘く、松井の顔は思わず緩んでしまう。このままじわじわと舐めて溶かすのもいいが、今の松井は好奇心の方が強かった。飴の外殻を奥歯で噛んで砕くと、中から砂糖水のようなものが溢れてくる。砂糖の甘さにほんの少しだけブランデーの苦みが混ざっていて、これは癖になりそうな味だと松井は思った。松井は自他ともに認める甘党だった。
飴とシロップの甘さをじっくりと堪能するよりも早く口の中から早く消えてしまったので、松井は二つ目の飴玉に手を伸ばした。
「気に入ったみてーだな。あんまし食べ過ぎんなよ」
松井の甘いもの好きを知る豊前が、苦笑交じりに釘を差す。松井は大丈夫だと言うが、松井が「江の者達みんなで食べてくれ」と渡された和三盆の菓子を独り占めしてしまった事は記憶に新しい。松井もそれを覚えているのか、少々ばつの悪い顔になった。
「俺にも一つくれ」
「……一つだけだからね」
松井が渋々といった体で箱を差し出した。豊前は端っこの一つを摘むと、ぽいと口の中に放り込んだ。
「ん。甘い」
「君の部屋にあったものよりも?」
「どーだろな。どっちも甘ぇっちゃ」
作戦失敗。ころころと口の中で飴玉転がしている豊前は、松井にあれの味見させてくれる気は無いらしい。二つ目の飴玉もうっかり噛み砕いてしまった松井は、もう一つ……と箱の中に手を伸ばした
緑青色に染められた松井の指先が赤色の飴玉を摘む。同じ赤色に見えるけれども、よく見ると微妙に色合いが違う。さっきのは茜空みたいな赤い色、今度のは唐紅みたいな赤い色。本当に硝子細工みたいだなと、松井は飴玉を眺めた。
部屋の明かりに当てて透かしたり、少し傾けてみたり。何となく似た感じの色だなと、豊前の虹彩に重ねてみたり。
きらきら、ちゃぷん。そんな擬音が赤色の飴玉から聞こえてきそうだった。
「あ……」
そうやってしばらく眺めていた事で松井の体温が移り、飴の部分が少し溶けてしまったのだろう。うっかり強く摘んでしまったのか、口の中に入れる前に飴玉は割れてしまった。
割れた飴の中から溢れてきたシロップが、松井の指をゆっくりと伝っていく。やはりブランデーが混じっている。シロップは透明ではなくて、わずかに色が付いていた。
「甘い」
松井は指についたシロップを舐め取った。砂糖から作られているからなのか、少しべたべたする。行儀の悪い事だけれど今は大目に見てほしいと言い訳をして、松井は指の腹を舐った。……視線を感じる。視線の主は豊前だった
「垂れてっぞ」
割れてしまった飴玉の殻をがりがり削っていると、豊前が松井の手首を掴んだ。そして指先をぺろと一舐めされた。その生温い感触に、びくんと松井の肩が跳ねる。
「……甘いな」
自分では何とも思わない行為も人にされると恥ずかしい。松井は手を引っ込めた。
「残りは明日にしようかな」
「そーしとけ」
食べたのは三つだけだから、まだ箱の中には飴玉が並んでいる。松井は箱の蓋を閉めて、文机の上に置こうとした。
その時、松井の脳裏に豊前の部屋の文机の上にあった小瓶の中身、青色の飴玉の事が再び過ぎった。松井が食べると毒になるという、青色の丸い飴玉。だめだと言われると気になるし、欲しくなる。人の子の心身というものは思った以上に欲深い。さっき躱されたばかりだというのに。
箱を文机に置こうとしたまま動かない松井に、どうかしたのかと豊前が声を掛けた。あの飴玉……と松井が口にすると、豊前はまだ気になっていたのかと肩を竦めた。
何度あれが欲しいと松井に言われても、豊前の答えは決まっている。松井のおねだりを聞いて叶えてやりたいという気持ちはあるが、どうしても聞けないおねだりもある。
「あれはだめだ。松井が食べると毒になる」
それなら仕方ないと口では言いつつも、納得していませんと顔にありありと浮かべている松井。豊前は一体どう説明したらいいものかと弱った。言葉で説明するのは元から苦手なのだ。
「毒も薬も元は同じだったりするだろ。集合体だったり名前だけだったり背景が無かったり、そういう奴にとっては薬になるけど、そうじゃねーと毒になるんだとよ。主がくれた時にそう言ってた」
「つまり、あれは豊前とって薬だということ?」
「そーいうこと。だから分けてやれねーんだ。悪ぃな」
郷とお化けは見た事が無い。他の同胞と比べて薄い逸話や本霊となる刀の所在不明という事実が関係してくるのか、刀剣男士・豊前江の中には足元の覚束なさを不安に感じる者もいるという。幸か不幸か、豊前がその不安を感じた事は無かったが。刀剣男士として顕現してからの目が回るような毎日に、そんな事を感じる余裕も無かった。
豊前は感じていなくても、それはあくまで個体差だ。豊前江のような体質の刀剣男士には特別な飴玉が秘密裏に支給される。足元の覚束なさで消えてしまわないように、ふらりとどこか遠くへ飛んでいってしまわないように。
霊験あらたかなこの飴玉は、存在や自我が希薄になりがちな者をこの世界に引き留めておくため、縛りつけておくためのもの。地に足のついた刀が口にすれば重みで沈んでしまうだろう。だから確固たる物語を持つ松井には渡せないのだ。そのまま重力に飲み込まれて、戻って来る事ができないかもしれない。
そんな不思議な飴玉の色と味は、個体それぞれの好みに合わせて作られる。支給にあたりどんなものがいいかと審神者に聞かれた時、豊前は少し考えた後に毒のように甘くて大海原のように青い色の飴玉を所望した。
その時は特に何とも思わなかったが、ふと昔の事を思い返していた時に気づいてしまった。何だかあいつ――近国の家老の家にいた江の者みたいだなと。
刀剣男士の松井江がどんな容姿で顕現するのかも、そもそも刀剣男士として見いだされるのかもわからないというのに、豊前は確かにそこに松井を見ていた。
「なぁ、松井」
豊前が松井を呼ぶ。
「ずっと両手は空けてっから、ちゃんと捕まえといてくれよ」
俺はお前のそばにいる。だからお前も俺のそばにいて見張っていてほしい。いつかどこかに行ってしまわないように。さすがにそこまでは言えないので、ぼかした言い方になってしまったが。少し待っても松井からは何のリアクションも無かった。これは失敗したかもしれない。豊前は何でもないから忘れてくれと言った。
豊前の言葉にきょとんとしていた松井だったが、豊前が忘れてくれと言うと、はあと深く息を吸って吐いた。ちょっとだけあきれ顔なのは何故だろうか。豊前は一瞬怯んだ。
「その両手、いつか僕に貸してくれるために空いているんじゃなかったの?」
「まぁ、それはそうなんだが……」
「安心して。僕、案外重たいんだ」
松井は意味ありげな目線をちらりと豊前に送った。
――あんなものに頼らなくても、重しとしては十分だと思うよ。
松井の台詞に豊前がぴしりと音を立てて固まった。松井には豊前の存在が必要不可欠だし、先に松井を捕まえたのは豊前の方だ。とんでもない殺し文句で僕の事を口説き落としたくせに。今さらどんなに頼まれたって、離してやれないと言うのに。松井はふふっと妖笑を浮かべた。
「松井、お前どこまで知ってんだ……?」
「どこまでだろうね。内緒」
「松井!」
珍しく焦って大きな声を出す豊前。その姿が何だか面白くて、松井はけらけらと笑い声を上げた。
【終】
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