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ナガレ
2022-03-22 21:51:02
10481文字
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ブリリアント・ホリディ(ぶぜまつ)
豊前と松井のとある(計画的な)非番の日。2022/3/26開催のwebオンリー、ぶぜまつパーティー!のペーパラリー企画用展示していたものです。
「主、これの決裁頼む」
そう言って豊前江が執務部屋にいる審神者の所に持ってきたのは二枚の紙。その紙はどちらも『外出届』と書かれている。普段の外出、たとえば万屋への買い物や近場の散策程度なら事前の申請は不要だ。なのにわざわざこの用紙を使って外出の申請をしてくるという事は、どこか遠くへ行くつもりなのだろうか。
審神者は用紙に書かれた行き先を見た。行き先は政府の保養所。なるほど、確かにこれは遠出に該当する。二枚あるという事は、本丸の誰かと一緒に行く事なのだろう。次に審神者は名前を確認した。一枚は紙を持って来た豊前の署名が、もう一枚には松井江の名前が何故か豊前の字で書かれていた。審神者はぴんと来た。
「そーいうこと。ついでに非番もよろしく」
審神者は大きな電子端末を操作すると、全刀剣男士の予定表を画面に表示した。申請日付の予定は、豊前が元から非番。松井は本丸待機になっている。この日は待機の人数も足りているしまぁいいかと、審神者は松井の予定を変更した。それを横から覗き込んでいた豊前はまだ何か言いたそうにしている。
……
そういう事か。仕方ないなと言って、審神者は次の日も『非番』と予定を書き換えた。松井の予定だけではない。豊前の予定も当然変更した。
「あんがとな。松井には俺から伝えとく」
決裁印の押された外出届を審神者から受け取ると、豊前は執務部屋をあとにした。次の目的地は松井の部屋だ。執務部屋に松井はいなかったから、自室で事務仕事をしているんだろうなと思って訪ねてみれば、予想通り松井は部屋で何やら書き物をしていた。
机の上に広げられた書類や帳面と、事務作業班御用達の何かすごい高機能な電子端末。豊前は見ただけで頭の痛くなってくるような代物だが、松井達はそれを難なく使いこなしている。ちょうど作業が一区切りついたところなんだと言うと、顔を上げた松井は机の上の書類や帳面を片隅に寄せて豊前を招き入れ、部屋の隅の座布団を勧めた。じゃあ遠慮無くと座布団を持って来て隣に座った豊前は、早速松井に話を切り出した。
「どうしたんだい?」
「明後日、松井も非番になった。出掛けっぞ」
「非番?僕、聞いてないんだけれど
……
」
予定の変更があれば審神者もしくは近侍から連絡が来る。しかし松井は何も聞かされておらず、電子端末にも連絡は来ていない。一体どういう事だろうかと訝しむ事、数秒。松井は豊前が手にしている二枚の書類に気がついた。
……
署名をした記憶は無いのに、何故か僕の名前が書いてある。
書いた覚えの無い外出届と、それを手にしている企み顔の豊前。松井は事態を理解した。用意周到だと言うべきか、手を回すのが早いと言うべきか。「今度非番が重なったらどこかに出掛けたい」と松井が言ったのを、豊前はしっかりと覚えていたのだろう。まさか、その機会を待つのではなくて自ら作り出すとは思わなかったけれど。
豊前に断りを入れて松井が電子端末で本丸の予定表を確認すると、連絡こそ来ていないものの松井の予定は『非番』に変更されていた。松井よりも少し上の欄に名前が載っている豊前もまた、『非番』だ。
「せめて先に言ってもらいたかったな。別にいいけれど。どこに行くんだい?」
豊前のことだから、当然行き先も決めてあるはずだ。松井は行き先を尋ねた。しかし豊前は当日のお楽しみだと言うだけで教えてくれようとしない。とんでもない場所に連れて行かれるのではないかと、松井に一抹の不安が過ぎる。その不安はしっかりと顔に出ていた。
「そんな顔すんなって。安心しろ。変な場所じゃねーよ。松井もきっと気に入る」
「君が言うなら間違いないのだろうけど、本当に大丈夫?」
「俺のこと、信用できねー?」
「そんなことはないけれど
……
わかったよ。信じる」
元から松井は豊前に弱い。だめかと聞かれればどんな無茶振りでも承諾してしまうし、お願いだと頼まれれば引き受けてしまう。本当に松井の嫌がる事はしないという、絶対的な信頼があるからこそなのだが。(これは余談だが、豊前も豊前で松井には勝てないと常々思っている。なので、この辺りはどっちもどっちである。)
「朝、飯食ったら迎えに来る。少し早めに出たいから、そのつもりでよろしくな」
松井は早起きが苦手だ。どうせなら前夜からこの部屋に泊まって早朝に起こしてくれてもいいのだがと、松井はちらりと豊前に視線を向けた。松井の視線に気づくと、豊前が苦笑いを浮かべた。
「起こしに来てやっから頑張れ」
仕事の邪魔して悪かったなと言うと、豊前は松井の頭をくしゃりと撫でて立ち上がった。撫で方が乱暴だったのか松井の髪は乱れ、額が露わになった。手櫛で直そうとする松井の手を掴むと豊前は身を屈めて、その白い額に軽く口づけをした。音が聞こえたのはたぶん気のせい
……
じゃない。
「じゃーな」
ひらひらと書類を持った手を振って部屋を出て行く豊前。残された松井は額を押さえ、顔を赤らめた。
――
休憩だ。休憩しよう。それがいい。このまま仕事の続きをしても間違いを連発するに違いない。というか、座布団ちゃんと元の場所に戻してよ。松井は声にならない声で呻くと、ぱたんと文机に突っ伏した。
*****
翌々日、朝。宣言通り豊前は松井を起こしに来た。布団を頭まですっぽり被って籠城している松井を「起きろ起きろ」と言って布団の上から揺さぶり強引に起こすと、目を覚ました松井が二度寝できないように掛け布団を剥ぎ取った。
恨めしそうな松井の視線が豊前に突き刺さる。しかしそんなものはどこ吹く風。朝飯を食べている間に出掛ける用意をしておいてやるからと、豊前は松井を部屋から追い出した。ついでにタオルも持たせた。
ここ僕の部屋なんだけどなとぼんやり思いながら、片足をまだ夢の中に突っ込んだままの松井はのろのろと厨に向かった。朝食はいつも広間に用意されるが、時間がまだ早いので準備が終わっていない。時間前に朝食を食べたいのなら厨へ取りに来る事というのが暗黙の了解だった。
朝食を摂った事でようやく目が覚めた。顔を洗った松井が自室に戻ると、ちょうど豊前が荷造りを終えたところだった。布団も押し入れの中に片づけられており、豊前が選んだと思わしき今日の松井の衣類が表に出ている。ちょっとそこまで行く程度なら内番着、気合いを入れてめかし込む必要があるなら軽装。しかし豊前が松井の衣装箪笥から引っ張り出したのはそのどちらでもない、洋装の普段着だった。
「俺も着替えてくる。準備できたらまた来る」
「わかった。待ってるよ」
荷造りを終えた鞄の口を閉めると、豊前は自分の用意があるからと言って松井の部屋を出て行った。一体彼は何を用意したのだろうか。松井はつい今し方口を閉められたばかりの鞄を少しだけ開けてみた。
……
軽装だ。鞄の中には松井の軽装一式が入っていた。道理で外出するだけにしては大きい鞄を用意したわけだ。となると、足元は軽装に合わせるために用意したあの靴にしよう。編み上げの、あの靴だ。豊前が用意してくれた本日の装い一式だが、あの靴に合うボトムスだけ変更させてもらおう。あと、せっかくだからあの髪留めも出そう。松井は小間物入れに手を伸ばした。うきうきと心が弾んでいるのは気のせいだ。
諸々の身支度を終えた松井が豊前を待っていると、部屋の外から声が掛けられた。まだ着替えている途中かもしれないから、一応気を遣ってくれたみたいだ。「どうぞ、入って」と松井が返事をすると、部屋の障子が開いて豊前が顔を覗かせた。黒一色でまとめた洋装は豊前にとてもよく似合っている。思わず見とれていると、豊前が松井の髪飾りに気づいた。
「それ
……
」
「どう? 洋装でも似合うと思わない?」
「そーだな。よく似合ってる」
用意ができたなら出発するぞと、豊前は松井の鞄を手に取った。お姫様扱いされる気は毛頭無いので、松井は鞄を奪い返した。豊前だって荷物を一つ肩から掛けているのに。財布、通信端末、ハンカチ、ちり紙。忘れ物は無い。行き先は結局教えてもらっていないが、悪い場所ではなさそうだ。わくわくしていると顔に出ている松井を見て、豊前が小さく笑った。
今はちょうど朝餉の時間帯。会場である広間に向かう男士がすれ違い様にどこに行くのかと聞いてくるが、豊前は内緒と言うだけだ。ならばと松井に尋ねる者もいたが、残念だが松井もどこに行くのか知らされていない。「僕も知らないんだ」と言って豊前の後ろをついてった。
「ね、そろそろ教えてくれてもいいと思うのだけれど」
「何を?」
「今日の行き先」
廊下を渡り、そのまま玄関へ。靴を履いて門の外に出た。外に出たのだからもう教えてくれてもいいだろうと、松井は豊前をせっついた。しかし豊前はもう少しでわかるからの一点張りで教えてくれない。豊前がそう言うならと一度納得した松井だったが、あまりのつれなさにむくれてしまったのは豊前にも伝わったみたいだ。松井に驚いてもらいたいから着くまで内緒にさせてくれと言われ、手を取られて軽く握られた。本丸からは離れたので誰も見ていないとは思うが、往来で手を取られるだなんて初めてだから少し恥ずかしかった。
「転送装置使えばすぐ着くけど、たまにはのんびり移動すんのもいーだろ」
「そうだね。ここから歩くのかい?」
「いや。あれに乗る」
少し歩くと万屋街の出入り口である大門が見えてきた。どこの本丸からでも万屋街の方向に向かって歩くとこの大門に辿りつくのだという。門の中には万屋街だけでなく、大きな遊戯施設や歓楽街、花街もある。万屋街は本丸とはまた別の時空にあって、あの門が転送装置ではないかというのがもっぱらの噂だ。豊前は門の外に停まっている一台の乗り物を指差した。
――
政府機関が運行している乗合バスだ。松井は乗った事が無いが、色んな時空を行き来する事ができる転送装置のようなもの
……
らしい。あれは予約制だと聞いたのだが、いつの間に予約していたのだろうか。
「予約確認?
……
あー、これか?」
乗り込もうとしたところで面布を着けた運転士に止められた。予約の有無を確認しないと乗せる事ができないとの事だ。この乗合バスは予約制なのだから、当然である。豊前は電子端末を操作すると、出てきた画面を運転士に見せた。画面と二振りを見比べて、頷く運転士。所属している本丸と打刀二振りの予約が確認できたので、豊前と松井は無事に乗せてもらえた。ちょうど発車時刻だったのか、荷棚に荷物を置いた二振りが座席につくと、扉が閉まって乗合バスは静かに動き出した。他の乗客はいなかった。
「こーいうのも、悪くねーな」
「僕、初めて乗ったよ」
「俺も実は初めてなんよ。万屋街の大門から直行便が出とるって教えてもらったから、せっかくだし乗ってみてーなって」
二人掛け席の窓側、窓枠に肘をつきながら豊前がそう言った。他に誰もいないからと、手は握られたままだ。本丸を出た時はさりげなく添えられている程度だったのに、今はがっちりと指と指とを絡められている。豊前とは恋仲というか、その、まぁそういう仲だから、別にこうやって手を握られても変ではない。ただ、顔の熱を冷ます方法が無いのは少し困る。仕方が無いので、松井は豊前越しに窓の外を見て誤魔化した。
窓の外の景色は街から郊外、そして鄙の風景へと移り変わっていく。一応昨日は早めに床についたのだが、やっぱり早起きは苦手だ。豊前もあれこれ松井に話しかけてくるわけではなく、窓の外を見ながら時折声を掛けてくる程度で静かだった。
……
眠い。走行車両の小さな振動と適度な物音が眠気を呼び寄せ、思わず小さな欠伸が出てしまう。どうしよう、抗えない。気づくと松井は豊前の方に体が傾いていた。
「
……
松井?」
どんどん間延びしていた松井の相槌だったが、ついにそれすら無くなった。窓の外を見ながらぽつぽつと話しかけていた豊前は松井の方を向いた。目を閉ざす松井。その体は少しこちら側に傾いて、微かな寝息が聞こえる。やはり早起きは辛かったのか、いつの間にか松井は眠ってしまっていた。豊前は繋いだ手を一度外すと、松井の頭を抱き寄せてしっかりと己の肩に乗せた。
松井を起こしてしまわないように気をつけながら、ポケットから電子端末を取り出して時間を確認する。目的地に着くまではもう少し時間が掛かるから、このまま寝かせておいてやろう。もう一度手と手を重ねると、肩と半身に感じる重みを心地良く感じながら豊前はぼんやりと窓の外の景色を眺めた。
「
――
い、松井。着いたぞ」
「んん
……
」
体が揺れている。誰かに体を揺さぶられている事に気づいた松井がぼんやり目を開けると、ぼやけた視界に飛び込んできたのは赤い色。豊前が至近距離で覗き込んでいた。豊前が覗き込んでいる事を認めたぱち、と音を立てて松井の瞳が開く。松井が目を覚ました事に気づくと、豊前は顔を離した。
「おはよ。着いたぞ」
「え!もう?」
「松井が寝てる間に着いた」
ほら、と窓の外を指す豊前。外の景色は山間だった。
席を立って荷棚から鞄を下ろすと、二振りは乗合バスを降りた。山の中にいるからか、肌に触れる空気がどこか涼しく感じられる。松井は胸いっぱいに澄んだ涼しい空気を吸い込んだ。目の前には一軒の建物。これは話を聞いた事があるし、写真で見た事もある。政府の保養所だ。保養所と言っても、その設備やサービスは旅籠や旅館と変わらない。
「ここに連れて来たかったの
……
?」
「そーいうこと。こういうところで何も考えずにのんびりするのもいーだろ」
羽を伸ばすってやつだなと、豊前はにんまり笑みを浮かべた。そしてすたすたと建物の入り口に向かって歩いていく。松井が慌ててその後ろ姿を追いかけると、豊前は入り口の前で立ち止まって振り返った。
「走ると転ぶぞ」
「それならひとりで先に行こうとしないでくれ」
むうと松井が唇をへの字に尖らせる。無意識であろう突き出た唇を掴んでやろうかと豊前は一瞬思ったが、松井が怒りそうなのでやめておいた。松井が追いつくのを待つと、二振りで並んで建物の中に入った。
旅館や旅籠のような趣きは無いし少々年季は入っているが、建物の中は手入れも清掃も行き届いていた。羽を伸ばすのには何の問題も無さそうだ。事務室と一体化している受付の中にいる職員に声を掛けると所属する本丸の番号と名前を聞かれた。予約の確認だ。本丸番号と豊前江および松井江である事を告げると、すぐに部屋の鍵を渡された。自分達で部屋まで行けという事らしい。二振りはエレベーターに乗った。
「おー、いい眺め」
用意された部屋は二振りで使うには立派過ぎる部屋だった。床の間付きの広々とした二間で、ガラス戸の外には縁側。縁側から一望できる景色も大変素晴らしかった。春には桜が、初夏には新緑が、秋には紅葉が楽しめるのだろう。今がどの時季でもないのが惜しいくらいだが、それでも十分に楽しめる景色で、豊前は荷物を置くと早速縁側に出た。
建物のすぐそばが遊歩道になっているのか、ちらほらと散策する人(ここは政府の施設だから、審神者や刀剣男士だろうか)の姿が見えた。絶好の行楽日和とまではいかないが、山間の景色を楽しむのにはちょうどいい。まずは一服、茶を淹れようかと茶櫃を開けた松井は、鞄に軽装が詰め込まれていた理由に思い当たった。
軽装自体は随分と前に受け取ったが、まだ一度も身に着けて外に出掛けた事がなかった。本丸の中で数回着ただけである。もしかして、豊前の鞄の中身も軽装ではなかろうか。豊前にしては荷物が大きかった。松井が期待を込めてちらりと豊前を見やると、察した豊前が部屋の中に戻って鞄の口を開けた。鞄の中から出したのは軽装だった。
「昼飯の前にちっと歩くか」
「うん」
茶は後だ。開けた茶櫃の蓋を閉めて元の場所に戻すと、松井はいそいそと軽装に着替えた。豊前も着替えを始めている。着物を羽織り、帯を巻く。襟巻はさすがに暑いので、これは広げてショールとして肩に掛けよう。ふわりと広げた襟巻きを羽織ると、松井は姿見で己の姿を確認した。おかしな所は特に無かったが、髪留めがずれていたので差し直した。先に用意の終わった豊前は部屋の入り口待っていた。
「終わったみてーだな」
「待たせてしまってすまない」
「気にすんな」
部屋を出て鍵を掛けると、松井は豊前に手を握られた。それほあまりにも自然な流れで、松井はすぐに気づけなかった。気づいたのは外に出てからで、遊歩道の小石に躓いた時に体を引っ張られたからだった。
誰か見ているかもしれないと、松井は繋がれた手をやんわりと解こうとした。自分達が気にしなければ誰も気にしない。何人かすれ違ったが誰も見ていなかった。だからこのままでと豊前は逆に力を込めてきた。
このままだと繋ぎ直されて、バスの車中で繋がれていた時みたいに指と指をしっかりと絡める形にされそうだ。誰も見ていなかったとしても、それで外を歩くのは流石に恥ずかしい。松井は今の状態を受け入れる事にした。
木々の間に敷かれた遊歩道をのんびりと歩く。時折ぴゅうと吹く風も羽織ったショールを翻すほどではなくて、適度な涼しさが心地良かった。てくてくと歩いていると視界が広がり、二振りは川辺に出た。川には橋が掛けられており、川の向こう側に水遊びを楽しむ短刀達の姿が見えた。
「川の向こうに公園があるみたいだ。行ってみる?」
「行ってもいーけど、そろそろ腹が減ったろ?」
「う
……
」
豊前の指摘で松井が少々ばつの悪い顔になった。さっき腹の虫が小さく鳴いたのを聞かれていたみたいだ。仕方ないじゃないか。朝食を食べたと言っても食パン一枚とコーヒーを一杯だけだ。松井の胃は寝起きからしっかり活動できるようにはできていないのだ。君の体と一緒にしないでほしい。松井は拗ねた。
「拗ねんなって。また後で来たらいーだろ」
「
……
そうだね」
気を取り直してそのまま遊歩道を一周する事にした。木々の緑と川のせせらぎ。ここにいると時間遡行軍との戦いの真っ最中である事を忘れてしまいそうだ。ゆっくりと散策するようにしながら歩く松井の歩調に合わせて豊前も歩いてくれる。いつもなら「早く行くぞ」と言って引っ張って行くのに。それに気づいた松井が繋がれたままの手に少しだけ力を込めると、びくりと豊前の手が跳ねた。
――
不意打ち成功。してやったりと思ったのも束の間で、すぐに力強く握り返されて引き寄せられてしまった。誰か見ていたらどうするんだ恥ずかしいと抗議の意を込めて松井が豊前を睨むと、誰も見てないと返された。その辺りは抜かりない豊前だった。
のんびりと遊歩道を一周して部屋に戻ると、タイミング良く立派な昼食が運ばれてきた。旬の食材をふんだんに使用した会席の膳の上、お造りの盛り合わせと牛鍋の用意を見つけた豊前と松井の視線が合う。少しだけならいいよなと、膳を置いて一度退出しようとした給仕係を呼び止めた。豊前に好きなものを選んでいいと言われたので、松井は越中の清酒を頼んだ。
すぐに盆に乗った清酒の徳利が一つと硝子のお猪口が二つやって来た。お猪口をそれぞれ手に取って、互いに酌をする。そして「いただきます」と言って同時に口をつけた。切れ味と甘みがいい塩梅で、ぐいぐい飲めてしまいそうな味だ。でも、後で露天風呂に行きたいから今は我慢。適度に杯を傾けながら、二振りは料理に舌鼓を打った。
寄せ豆腐の先付け、麩と茸が入ったすまし汁の椀物。お造りの盛り合わせ、牛鍋、川魚の塩焼き、釜飯と味噌汁、甘味のあいすくりん。贅沢の限りを少しずつというのがこの会席のコンセプトなのだろう。一品一品だけ見ると物足りないかもしれないと思ったが、食べ終えてみると丁度いい量だった。
「ごちそーさまでした」
「ごちそうさまでした」
「よし。腹が落ち着いたら、露天風呂行くぞ」
落ち着いたらと口では言うが、満腹で動くのが億劫な松井を横目に豊前は浴衣やバスタオルの用意を始めていた。日帰りだというのに部屋での食事だけでなく浴衣まで用意されているとは思わなかった。確かに、ここ数日出陣や事務仕事が続いて疲弊していた。しかし言ってしまえばそれだけで、息抜きと称するには贅沢すぎる。
同じように仕事続きの男士は他にもいるのに、自分だけここまで甘やかされていいのだろうかと満腹の腹を擦りながら松井が悶々としていると、風呂に行く用意の手を止めた豊前が松井の方を向いた。松井の考えている事なんてお見通しだと言わんばかりの顔だった。
「俺も来たかったら松井を誘った。だから気にすんな」
外の景色でも見てるから風呂に行ける状態になったら呼んでくれと言うと、豊前は縁側に繋がるガラスの戸を大きく開けた。開け放たれたガラス戸から吹いてくる風が心地良くて、松井は目を閉じた。松井が目を閉じてしばらくぼんやりしていると、待ちきれなくなった豊前がそろそろ行けそうかと声を掛けてきた。
……
よし、いい感じに腹もこなれた。松井は立ち上がった。
部屋の外に出ると、まずは館内案内を探した。エレベーター前に置かれた館内案内を見たところ、露天風呂は大浴場の中から行けるらしい。なのでまず二振りは最上階にある大浴場に向かった。昼食の時間帯という事もあり、脱衣所にも浴場内に人影は無かった。このまま貸し切り状態の大浴場で湯に浸かるのもいいなと一瞬考えたが、やはり露天風呂も体験しておきたい。広い大浴場の一角にある外に通じる引き戸を開けると、青空が飛び込んできた。露天風呂と言っても小さな檜の浴槽が置かれているだけのものだったが、本丸では体験できないものだから気分が違う。息抜きどころか羽を伸ばしすぎている気がするが、抗えない。松井がぬくぬくと肩まで湯に浸かっていると、隣の豊前が次は部屋風呂が露天もいいなと呟いた。
次がある事を期待してもいいのだろうか。嬉しいような、照れくさいような。高く澄み渡る青空の下、松井は肩どころか顎の辺りまで湯に浸かってしまった。
「松井?」
「
……
何でもない」
そうこうしていると大浴場に人が入ってくる音がしてきた。十分堪能できたから湯あたりする前に出ようかと、二振りは風呂から上がる事にした。揃いの温泉浴衣に袖無し羽織。浴衣の丈が少々短いのが残念だが、既製品だから仕方ない。部屋に戻る途中にあった自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲みながら松井が縁側で火照った体を冷ましていると、部屋の中にいる豊前が松井の名前を呼んだ。まつい、と発音がひらがなに聞こえるのは甘えた発動の証拠。部屋の中に戻った松井が座椅子を引っ張って横に座ると、豊前がすかさず脚の上に頭を乗せてきた。
松井が豊前の膝を枕として借りる事は少ない。だが、貸す事は多かった。みんなを甘やかすのは豊前の仕事だけれど、こうやって豊前に一息つかせるのは松井の役割。この姿を知っているのは自分だけだという優越感が松井の中にじんわりと広がっていく。
「眠い?しばらく寝ていいよ」
「松井も早起きで眠ぃだろ?」
「行きの車中で少し寝たから平気」
読みかけの文庫本を鞄の中に入れてきたはずだ。豊前に一言断りを入れると、松井は体を伸ばして鞄を引き寄せた。
……
あった。鞄の中から文庫本を取り出す。ついでにもう着ないだろうからと畳んで鞄に仕舞い込んだショールも引っ張り出すと、松井は大きく広げて豊前に掛けた。
「足痛くなったら起こしてくれていーから」
「わかった。遠慮無く起こす」
目を閉じた豊前の長い睫毛。おやすみと告げると、松井は文庫本を開いた。
「
――
そろそろ帰る時間かな」
太陽が傾き始め、縁側に面した大きな窓から見える空に橙色が混じりだす。ぱたんと文庫本を閉じた松井が外を見ながらぽつりと呟くと、豊前がむくりと起き上がった。起こす前に起きてくれてよかった。松井が軽く痺れてしまった足を伸ばしていると、目の覚めた豊前が松井の肩を掴んだ。
「
……
まだ帰らせねーぞ」
「ん
……
っ」
寝起きで掠れた声。どこか物憂げな豊前の視線が刺さり、かさついた唇が合わさる。そのまま肩を押されて、今度は松井が仰向けに倒れ込む番だった。見上げた豊前の向こうには夕焼け空。部屋に差し込む夕陽がその少し癖のある黒い髪の毛を照らし、きらきらと輝かせている。
――
あぁ、綺麗だ。松井は息を飲んだ。
「でも
……
」
今日は日帰りの外出だから、このまま長居をするわけにはいかない。松井は戸惑った。戸惑う松井に、これを見てみろと言って豊前が机の上に置いたままの端末を操作して、あるものを見せてくる。画面に表示されていたのは、本日の予定表。豊前と松井の欄は外出となっている。その横の備考欄を見て松井は目を丸くした。二振りとも外泊になっているではないか。松井に外泊届を出した憶えは無かった。
これは一体どういう事かと松井が疑問符を浮かべていると、豊前が答えを教えてくれた。
――
行きのバスで松井が寝てる間に外泊届を出した。元から豊前の計画を知っていた審神者だ。理由を尋ねる事なくあっさりと受理して決裁してくれた。その代わり、土産を要求されてしまったが。
「俺も息抜きしたいんよ。
……
だめか?」
「
……
そう言われて僕が断れないの知っているくせに」
降参、と松井は豊前の背中に腕を回した。すぐに少し痛いぐらいの力で抱き締め返される。温かい体。動かないで、もう少しだけこのままで。そう請うと、松井はそっと目を閉じた。
【終】
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