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ナガレ
2021-11-23 23:53:05
9589文字
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The blue is right there.(ぶぜまつ)
2021/12/4開催のwebオンリー、ぶぜまつパーティー!トライアルで展示していたもの。ちょっとした出来心から、豊前にかくれんぼを仕掛ける松井。話の都合上、審神者がちらっと出てきます。
「松井江、松井江」
「主?」
執務部屋。松井が一振りで書類整理をしていると、本日休養日の審神者が声を掛けてきた。提出期日の近い書類や厄介な書類は無いはずだ。何か急ぎの用件でもできたのだろうか。しかしそれならこの声色は変だ。審神者はどこか楽しそうな様子だった。
「何かあったのかい?」
「松井江、この間の誉でスタンプカードが埋まったよね。まだ褒賞を聞いていないなぁと思って」
「あぁ、その件か
……
」
戦意向上に繋がればと、この本丸では顕現すると誉スタンプカードというものが配られる。松井はすたんぷかーどが何か知らなかったが、その時に近侍だった刀が教えてくれた。誉スタンプカードとは誉を一つ取るごとに判子を一つもらえる制度で、この小さな厚紙(これがすたんぷかーどというものらしい)の升目すべてが判子で埋まると褒美を貰える。褒美は高価なものや無茶なものでなければ何でもよくて、お菓子や酒の肴を選ぶ者もいれば、美術品を求める者もいる。中には小旅行に繰り出す者もいるそうだ。
先日、松井も初めてスタンプカードの升目をすべて判子で埋める事ができた。その時審神者に何か欲しいものはあるかと聞かれた松井だが、特に欲しいものが無かったので考えておくと言って回答を留保した。それは今も同じで、これと言って欲しいものは無かった。
「特に今これが欲しいというものが無くてね」
「そっか。別に物じゃなくてもいいよ」
物でなくても構わない。その一言に松井はある事を思いついた。物でなくてもいいのなら、こういう事は褒美として可能だろうか。松井の申し出に審神者は少し驚いた表情を見せたが、なかなか面白い事を考えるねと話に乗ってくれた。決行は三日後。その日は自分も彼も非番だ。
――
それから三日後、朝。松井は二畳ほどの閉鎖空間にいた。閉鎖空間だけれども、特に息苦しさは無かった。ここは審神者が霊力でちょいちょいと作り出した空間。とある条件を満たさない限り、松井はここから出る事ができない。外の様子が分からないのは心細いだろうと、審神者は松井に持ち手がついた手鏡のような不思議な道具を渡してくれた。審神者の霊力で満たされている区域、すなわち本丸の中ならこの道具で景色を映す事ができる。審神者とは一体何者なのだろうかと疑問に思わなくもないが、刀剣という鋼の無機物から刀剣男士を顕現させる事ができるくらいだ。何でもありなのだろう。
さて、ここに何を映そうかな。映すものは決まっているけれど、うまく映るだろうか。松井の思念に応じて手変わっていく手鏡の中の景色。今は朝餉の時間だ。広間で朝食を摂っている豊前江の姿を手鏡は映してくれた。
「
……
松井の奴、結局来なかったな」
そろそろ朝餉の時間が終わるという頃になっても同胞は姿を見せなかった。朝に決して強いとは言えない彼だが、夜戦への出陣や不寝番だったり、夜更かしで寝坊をしない限り朝餉の場には顔を出す。食事は血を作るものだからと、松井ができる限り三食きっちり食べるようにしている事を豊前は知っている。昨夜は夜戦でも不寝番でもないはずだし、夜更かしもしていないと思う。おそらく。珍しい事もあるものだ。
「松井だってたまには寝過ごす日もあるんじゃないの?」
「そーだよな。最近忙しかったみてーだし」
ここ最近の松井は出陣続きで、その合間を縫って実務に勤しんでいた。夜遅くまで部屋の明かりが灯されていた日も多く、寝過ごしたと言って慌てて朝餉の会場であるこの広間に入ってくる朝もあった。
そんな中、ようやくやって来た休養日。今日くらいは朝寝坊をしようと決め込んでいてもおかしくない。桑名の言うように、たまにはそういう日があってもいいだろう。己をそう納得させると、豊前はとっくに食べ終えて空になった膳を持ち上げた。隣の桑名江はまだのんびりと食べている。自分で洗い物をするという条件で、多少の時間延長は認められているからだ。
「豊前、今日非番なんだよね?暇なら畑仕事手伝ってよ」
「悪ぃな。先約があるけ。そーいうのは適材適所っつーだろ。俺に頼むな」
(豊前、僕と同じようなこと言ってる
……
)
どこかで聞いた事のある豊前と桑名のやり取り。少々音が遠くて不鮮明ではあるが、この不思議な手鏡は映像だけではなくて音声も伝えてくれる。松井も桑名に暇なら畑仕事を手伝ってくれと言われ、似たような事を言って返した記憶がある。畑仕事をそこまで嫌っているいうわけではないが、自ら率先してやろうとは思わない。松井は畑仕事よりも事務仕事の方が好きだし、自分に向いていると思っている。そう、適材適所だ。松井はうんうんと頷いた。
と、そんな事を考えているうちに豊前の姿は手鏡の中から消えていた。豊前、豊前
……
と念じながら松井が慌てて追いかけると、広間をあとにした豊前がちょうど庭に出たところが映った。庭を突っ切った豊前の向かった先は本丸創設当初に建てられた古い手合わせ用の道場で、刀剣男士が増えて手狭になったため道場としては使われていない。その代わり、篭手切江の希望でレッスンスタジオとして使われていた。スタジオを一から建てる事には予算の兼ね合いもあり難色を示されたが、旧道場を改装して使う事を提示したら通ったのだという。誉スタンプカードが貯まった褒美として篭手切の求めたものはレッスン用のスタジオだった。
ちなみに豊前は現世で使える運転免許を取りたいと申し出て、学科試験に四苦八苦しながら免許証を手に入れた。桑名は今ある畑の隣にビニールハウスを設置したいと要求し、立派なビニールハウスを獲得したそうだ。五月雨江と村雲江も、まだ誉スタンプカードは埋まっていないが褒美として欲しい物があると言っていた。そう思うと、松井が褒美として求めた物は少々異色かもしれない。
スタジオで篭手切と合流した豊前。前々から今日は篭手切のレッスンに付き合う約束があると言っていた。篭手切曰く、りいだあに是非覚えてもらいたいものがあるらしい。今日はその覚えてもらいたいものとやらのレッスンなのだろう。見たら皆さんきっと驚くと思いますと言っていたものを先に覗き見するのも何だか悪い気がするので、松井は手鏡の中に映る景色を消した。
しんと静まりかえった一振りきりの空間。何だか眠たくなってきた。好都合なことにこの空間の足下はふかふかで、枕になりそうなものもある。松井はごろんとその場で横になった。
……
何か一枚肌掛けになるものが欲しい。松井はごそごそと手を伸ばした。ここにはちょうどいいものがある。松井は肌掛け代わりに薄手の掛け布団を拝借すると目を閉じた。
それから数分もしないうちに、松井の意識はゆっくりと遠のいていった。
――
よく寝た気がする。しばらくして松井は目を覚ました。今は何時だろうか。ここには時計が無い。起き上がって拝借した掛け布団を畳んで元に戻すと、松井は割らないようにと脇に除けていた手鏡を引き寄せた。鏡面にそっと手をかざす。ぼんやりと本丸の中のどこかの景色が映り、次第に焦点が合って鮮明になっていく。そこは誰もいない旧道場、レッスンスタジオだった。スタジオの壁に掛けられた時計を見て松井は少し驚いた。思ったよりも寝ていたのか、今は昼餉の終わった時間だった。
誰もいないという事は、もうレッスンも終わったのだろうか。豊前はどこに
……
と、手鏡に向かって松井が念じる。景色が一度乱れた後、鏡面は再び豊前の姿を映し出した。
「
……
松井、昼飯も食ってねーのか」
この時間まで一度も顔を合わせないのはさすがにおかしい。豊前は昼食のついでに厨当番の男士に松井を見ていないか聞いてみたが、彼も松井を見ていないという。その場にいた他の男士達にも聞いてみたが、誰も朝から松井を見ていなかった。自分が知らないだけで朝からどこかに出掛けているのかもしれない。何か不測の事態があれば審神者が言ってくるはずだ。若干腑に落ちないところもあるが、豊前はそう結論づけた。
朝からどこかに出掛けているというのは半分当たりで半分外れだ。ここは本丸と違う場所でもあり、本丸の中でもある。松井がいるのは豊前がその気になればすぐ見つける事ができる所なのだが、豊前は気づいていないようだ。それもそうか。仮に自分が彼の立場だったとしても、まさかこんなところにいるとは思わないだろう。いつになったら気づくかなと、松井は企み顔でほんのりと笑みを浮かべた。
「でも、珍しいな。あいつが何も言わずに出掛けるなんて」
松井は非番の日にどこかに出掛ける時、豊前に行き先を告げてから行くようにしている。どこに行くのか知られたら困る時はちょっと出掛けてくると行き先を濁す事もあったが、それは豊前への贈り物を買いに行く時や今度一緒に出掛ける時のための衣服を買いに行く時ぐらいで、黙って出掛ける事は滅多に無い。
「腹すかせてなきゃいーんだけど」
ちょっと待て心配するのはそこなのか。松井は思わず心の中でツッコミを入れた。僕って空腹を抱えているような印象なのかなそんな事ないと思うんだけれどと、松井は自身が豊前にどう思われているのか少々不安になった。確かに見た目を裏切る食べっぷりだと言われる事は多いけれども、大食漢の男士達に比べたらかわいいものだ。
明日から食べる量を減らそうかと松井が悩んでいると、廊下の向こうから誰かが豊前の名前を呼んだ。
「豊前さーん!」
「ん?どーした?」
ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。短刀だ。
「よかったらみんなで遊ぶのに付き合ってもらえませんか?声を掛けたら思ったよりも増えちゃって
……
」
「いーぜ。何すればいい?」
「かくれんぼの鬼をお願いします」
かくれんぼの舞台は本丸の中で、畑周辺と建物内は不可。隠れる役は主に短刀達、探す鬼の役目は豊前と他数振りの男士だ。これはある程度の偵察値が無いと辛いだろう。かくれんぼなのに見つけてもらえなかったらそれはそれで悲しいよねと、短刀達は鬼役になれそうな男士を探していたらしい。なるほど、これも適材適所だ。
「かくれんぼはおやつの時間まで。鬼のみなさんは百まで数えたら探し始めて下さいねー!」
始め!と掛け声がかかると、短刀(と一部の脇差)達は蜘蛛の子を散らすように散らばった。その機動力はさすがとしか言い様がなく、あっという間に視界から姿を消した。豊前も機動力には自信のある方だが、ここまで俊敏に動けるかというと怪しい。身のこなしで短刀達に勝つのは不可能だ。
……
と言うか、だ。
「
……
極の奴もいるんだよな?俺達で見つけられんの?」
「さあ
……
」
暇を持て余した極を含む短刀達の本気の遊びについていけるのだろうか。軽く顔が引き攣る豊前達。その姿を見て松井はくすりと小さく笑ってしまった。
(やる事もないし、僕も鬼をやろうかな
……
)
今の松井は心情的にはかくれんぼで隠れる役だが、鬼が探しに来てくれそうにないのでとても暇だ。ここから動く事はできないが、松井には審神者が貸してくれた手鏡がある。隠れた短刀達を探す豊前の姿を追いかけながら、松井もかくれんぼに参加する事にした。
八つ時になり、かくれんぼは終了した。時間いっぱいまで探し回ったが、豊前達鬼役は全振り見つける事ができなかった。見つからなかったのは包丁藤四郎と今剣。包丁は本当に誰も探しに来てくれなかったと少々ご立腹で、今剣は機動力を生かして隠れる場所を適宜変えていたらしい。彼らのかくれんぼは遊びの範疇を超えており、鍛錬の一環だと言っても差し支えなかった。さすがにこれは保護者太刀らでは荷が重い。道理で誰も参加していなかったわけだ。
(やっぱ、変だよな
……
)
おやつの豆大福を齧りながら豊前は松井の事を考えていた。かくれんぼの後、豊前は短刀達に松井を見なかったかと聞いてみたが、皆口を揃えて同じ事を言うのだ。松井の姿は朝から一度も見ていないと。
「松井、マジでどこ行ったんだ
……
?」
近侍に外出申請が出ていないか聞いてみたが、松井からの外出申請は出ていないと言っていた。もしかしてもしかするとまだ寝ているのかもしれないと松井の部屋を訪ねたが、部屋には誰もいなかった。そう、誰もいなかったのだ。いつもと変わらず整然と調度品の並ぶ松井の部屋の中は空気が冷えており、長い時間誰もいなかった事を示唆していた。
さすがにこれはおかしい。豊前は松井を探す事にした。
(
……
やっと鬼が動いてくれた)
かくれんぼの短刀達ではないが、このまま見つけてもらう事ができなかったらどうしようかとここに来て松井は少し心配していた。かくれんぼなら見つからなかった場合は隠れるのをやめて自ら出て行けばいいだけだが、松井はこの空間から自力で出る事ができないので、見つけてもらわない限りずっとこのままだ。
松井がこの空間から出るための鍵は「豊前に見つけてもらう事」。褒美は物ではなくてちょっとした遊びに付き合ってもらいたいと松井は審神者に申し出たのだ。審神者はまさか松井がそんな事を言うとは思っていなかったから、面白い事を考えるねと言ったのだ。
豊前がその気になればすぐ見つかる所に松井はいるわけだが、彼は見つける事ができるだろうか。いや、見つけてもらわないと困る。豆大福を食べ終えると松井を探して本丸の中をうろつき始めた豊前。松井はその後ろ姿を追いかけた。
「
……
どこにもおらん」
もうすぐ夕餉の時間になるが、まだ松井は見つからない。心当たりはすべて探した。でも見つからなかった。確かに本丸の敷地は畑や厩もあるので広大だが、朝から誰も松井の姿を見ていないというのはおかしい。松井は無断で外出するような性格はない。何か不測の事態があったとしか思えない。
本丸の中で見つからないなら、外に出て探すしかない。もし松井を見たら自分が探していたと言ってくれとすれ違う男士達に言伝を頼むと、豊前は審神者のいる執務部屋を訪れた。
「主」
「豊前江?どうした?」
「ちっと外に出てくる。もしかしたら今夜は戻れねーかも。何かあったら連絡する」
「え!何かあったのかい?」
「松井がどこにもおらんから探しに行く」
豊前の言葉に松井は焦った。主、豊前を止めてくれ!松井は手鏡の向こうの審神者に向かって叫んだ。しかしこの手鏡、向こうの音声を拾う事はできてもこちらの音声を届ける事はできなかった。
「松井江がどこにもいないって、本丸のどこにも?」
「どこにも。朝から誰も松井を見てねーって言うし、中にいないなら外に探しに行くしかねーっちゃ」
外に行く事は伝えたからもういいだろさっさと行かせろと、踵を返して出て行こうとした豊前を審神者は慌てて止めた。
「本当に、本当に全部探したのかい?」
「探したって言ってっだろ」
豊前は気の長い方ではない。審神者は今代の主なので抑えているが、苛立ちが松井のところまで伝わってくる。主、早く豊前にネタばらしをしてやってくれ。僕が責任持って彼を宥めて収拾をつけるから。松井はそう願った。そしてふと思った。ネタばらしによって見つけてもらえたとしても、それは豊前「が」松井を見つけた事になるのだろうか。
松井の焦りが強くなる。このままでは豊前は審神者を振り切って外に飛び出してしまう。松井がいるのは本丸の中、それも
――
「
……
豊前江、灯台下暗しという言葉は知っているだろう?松井江は案外すぐそこにいるかもしれないよ」
審神者は松井の居場所を知っている。松井の隠れている場所を作った張本人だから。だが、豊前に言えるのはこれだけだ。この様子を見て焦っているであろう松井江。早く彼を見つけてやってくれ。これが審神者にできる精一杯のネタばらしだった。
「すぐそこ
……
。わーったよ」
後で全部説明してもらうからなと言って、豊前は執務部屋を出て行った。どうやら心当たりがあるらしい。審神者はほっと胸を撫で下ろした。
執務部屋をあとにした豊前は自分の部屋に戻ってきていた。自室に戻る前に念のため松井の部屋を再度改めさせてもらったが、やはりがらんとしていた。灯台下暗しとはよく言ったものだ。本丸のあちらこちらを探した豊前だったが、一ヶ所だけ一度も探していない場所があった。
……
自分の部屋だ。
元から物の少ない部屋の中。隠れる事ができるような場所は無い。あるとしたらここだけだ。豊前はつかつかと部屋の奥に向かった。奥の六畳間、床の間の隣。ここは朝一番に開けたきりで、その後一度も開けていない。
一度深呼吸をして呼吸を落ち着けると、豊前は襖の引き手に手を掛けた。そして一気に横に引いた。
「
……
驚いた?見つかってしまったね」
急に飛び込んできた明かり。眩しそうに目を細めると、どこかばつの悪そうな顔で松井は肩を竦めた。
審神者の作った閉鎖空間は豊前の部屋の押し入れとシンクロしていた。松井はずっと豊前の部屋の押し入れの中にいたのだ。
この押し入れの襖は布団の上げ下げの時ぐらいしか開けない。まさかこんな所にいるなんて誰も思わない。松井は一体いつここに入り込んだのだろうか。豊前は今朝の行動を振り返った。起きて、着替えて、布団を上げて、軽く走りに行って。一度部屋に戻ると着替えとタオルを持って風呂場へ。そこで汗を流してから広間に向かった。
……
この時か。
その後は篭手切のレッスンに付き合って、そのまま昼餉。午後は請われるがまま短刀達の遊び相手になった。八つ時になっても松井を見かけない事を訝しみ、夕餉の時間が近づいても誰も松井を見ていないというから不安になって。探してもどこにもいない松井。本丸の外へ探しに行こうとしたら審神者に言われた。すぐそばにいるかもしれないと。
審神者はここに松井がいる事を知っていたに違いない。あの一言が無ければ、布団ぐらいしか入っていない自分の部屋の押し入れを開けようなんて思わなかった。開けて松井の姿を認めた時の衝撃は如何ほどか、きっと松井はわかっていない。
「理由とかそういうのは後からじっくり聞く。
……
ほら、さっさと出てこい」
豊前は松井に向かって手を差し伸べた。松井はその手を取らず、「自分で下りられるからそこをどいて」と言ったが、豊前は無視して無言で手を出し続けた。松井の視線が右往左往し始める。そろそろ腕が怠くなって来た頃、ようやく観念した松井が恐る恐るその手を取った。
――
ぐいっ。
松井の手を掴むと、豊前は思いっきり引っ張った。松井がいたのは押し入れの上段で、それなりに高さがある。その勢いで半ば落ちるように下りた松井は、豊前を巻き添えにしながら畳の上に倒れ込んだ。豊前が下敷きになってくれたので頭を打ったりはしなかったが、豊前自身は大丈夫だったのだろうか。松井が急いで起き上がろうとすると、豊前によってその体を押さえ込まれ、痛いぐらいに抱き込まれた。
「
……
何かあったんじゃねーかって、気が気じゃなかった」
心配させるなと言う豊前の声色は怒っているわけでも咎めているわけでもなくて、松井の身に何事も無くて良かったという安堵の色があるだけだった。
――
たまには豊前を驚かせたい。疾さばかり追い求めていつかそのままいなくなってしまうんじゃないかと危惧しているこちらの気持ちをほんの少しだけでいいから味わってもらいたい。そんなちょっとした出来心から閃いたものだったけれども、自分は彼に要らぬ心配ばかりさせてしまった。松井は大いに反省した。
「
……
心配させてすまなかった」
「心臓に悪いからもうこーいうことはすんなよ」
「うん。反省してるところ」
特大のため息とともに、松井を抱き込む豊前の腕の力が少し弱くなった。しかしまだ解放する気は無いようだ。確かめるように松井の体をぺたぺた触ってくる。松井としては恥ずかしいのでやめてくれと言いたい所だが、非はこちらにあるので甘んじて受け入れるしかない。
「つーか、見つからなかったらどーするつもりだったんだ?」
「ここなら絶対見つかると思っていたから、見つからなかった時のことは考えていなかった」
非番だし朝から出掛けているのかと思われるぐらいで、松井はここまで心配されるとは思っていなかった。夜になれば布団を敷くために押し入れを開けるだろうから、その時見つかると思っていた。もしくはそれよりも早く何らかの用事で押し入れを開けると思っていたのだ。松井のいる側には布団しか入っていないが、もう片側にはタオルや衣類を入れるための収納ケースがある事を松井は知っている。昼間に一度くらいは開けると思っていたが、今日に限って豊前は一度も開けなかった。
「もっと早く見つかると思っていたんだけどな
……
」
「まさかこんな所にいるとは思わねーだろ」
「れっすんの後に着替えたり、途中でたおるを取りに来たりするかなと思ってた」
歌って踊れる付喪神への道は易しくない。篭手切によるれっすんは意外と汗をかくので、松井は豊前がどこかのタイミングで部屋に戻ると思っていたのだが、まさか一度も戻ってこないとは思わなかった。
「急に誘われたらそーなるけど、今日は最初からその予定だったけ。朝飯の時間が終わったらスタジオ集合っていうのも決まってたし」
最初から今日の午前中は篭手切のレッスンに付き合う約束があったので、豊前は朝餉の時からタオルや着替えを持って動いていた。しかし松井はそれに気づいていなかった。手鏡に映していたの豊前の上半身の後ろ姿ばかりで手元まで映していなかった。
「
……
そうか。だから篭手切が何か変なこと言ってたのか」
「変なこと?」
「まさかたおるも着替えも全部持って来たんですか、って
……
ん?んん?」
豊前に一つの仮説が浮かんできた。あの時はそんなにも驚くような事なのかと不思議に思ったが、もし篭手切が知っていたとしたら。何を知っているかって?松井がここに隠れている事だ。
「主は知っててもおかしくねーけど、まさか篭手切も松井がここに隠れているって知ってたのか?」
「
……
さぁ、どうだろうね」
「松井、こっち向け。目を逸らそうとすんな」
豊前は松井の顎を掴んで強制的にこちらに向けさせたが、松井の目は泳いだままだ。もしかしたら篭手切だけじゃなくて他にも知ってる奴がいたのかもしれない。まさか全員グルだったとかそういうオチではなかろうな。そんな豊前の推理は口に出ていたらしく、松井がぽつりと呟いた。
「全員知っていたとか、そういうことはないと思う」
「ってことは、一部は知ってたんだな」
「あ」
しまった、と松井の背中を冷や汗が伝う。
「
……
夕飯は話が終わってからな」
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、あの時の僕の馬鹿。まだ決まらないからと保留を続けるか、素直に何か食べ物や装飾品にしておけばよかったのに。何となく嫌な予感しかしない松井は口を噤んだが、さあ洗いざらい全部吐けとっとと言えと豊前が迫ってくる。何も食べてないからせめて先に夕飯を食べてから
……
という時間稼ぎ作戦も黙殺された。
このままでは無理矢理自白させられかねない。松井は腹を括った。一体どこから話せばいいものか。えーっと、この間初めて誉スタンプカードが埋まったんだけど
……
。
怒らず最後まで聞いてくれと念押しすると、松井は訥々と話し始めた。
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