サナトリウム文学みたいなもの。豊前が語る、松井と過ごした四季について。明示はしていないけれど、死ネタです。松井を看取った豊前の話とも言えそう。本丸特殊設定でも現パロでも、お好きな時間軸でどうぞ。
夏の終わり、松井とここにやって来た。山に囲まれた静謐な澄んだ空気の中にひっそりと建つ一軒家。すぐ目の前には小さな湖があって、桟橋が架かっていた。家具類は備え付けだから、必要な物は着替えと身の回りの品と趣味の物や嗜好品ぐらいしかなくて、ふたりとも荷物は少なかった。
とりあえず玄関先に荷物を置くと、ぐるりと外を回って庭に出た。庭は芝生に覆われていて、一角には花壇があった。あの部屋の窓からなら花壇が見えそうだ。そう言うと、松井はその部屋を僕の部屋にしようと言った。異論はない。松井の部屋の場所が決まった。
玄関先に戻り、松井の荷物を決まったばかりの松井の部屋に運び込む。部屋の中にはベッドと書斎机と本棚にタンス。タンスは和洋それぞれ用意されていて、小さな鏡台も置かれていた。白色と薄い青色でまとめられたこの部屋を松井は気に入ったようだ。
さて、自分の部屋はどうしようか。できれば隣室かここに近い部屋がいい。部屋の中を見回すと、扉の存在に気がついた。一体何の扉だろうか。油の切れた蝶番の重たい扉を開けると、隣の部屋に繋がった。この扉は部屋と部屋を繋ぐ中扉だった。ちょうどいい。中扉で繋がっている隣の部屋を使わせてもらう事にした。
居室がもう一部屋あったので、そこは共用の物置部屋として使う事に決めた。と言っても、置いておく物は何も無いが。それぞれ備え付けの収納で事足りてしまった。他には洗面所、浴室、厠、台所と食堂、居間、客間。客間を使う事は無いだろうけど、あって困るものではない。
「秋になったら花壇に球根を植えようよ。春に咲かせるんだ」
松井の部屋の窓から見える花壇に色とりどりの花を咲かせる。目標が一つできた。どんな花がいいのかと尋ねても、松井は君が決めてとしか答えてくれなかった。責任重大だなと苦笑で返すと、秋に届くようにいくつか注文した。まだ先だというのに、ふたりして春の訪れが待ち遠しかった。
秋、天高く晴れた日にふたりで花壇に球根を植えた。春に咲いた時の光景を想像しながら、窓からの見栄えが良くなるように植えていく。何色の花が咲くのか今から楽しみだと、松井は丁寧に土を被せていた。赤、黄色、白。どんな花が咲くのかまだわからないが、その日をふたりで迎える事ができたらいいなと思う。
作業を終えて額に浮かんだ汗を拭っていると、松井は湖畔に行きたいと言った。秋晴れの昼間でも水辺は冷える。松井にコートを羽織らせて、マフラーも巻いた。松井は暑いと文句を言っていたが、体の事を思えば当然だ。
松井の歩みに合わせて、ゆっくりと湖畔に向かう。たっぷりと時間をかけて辿り着いた時には少し風が出ていて、湖面に小さな波を作っていた。湖を囲む木々は鮮やかな赤や黄色に色づいており、線対称で湖面をも色鮮やかに染めている。
紅葉を見る事自体は何度もあったが、こんなにも目の前でひとり占め――いや、ふたり占めする機会は無かった。自分も松井もその美しさに圧倒され、息を飲んでしまう。綺麗だと呟いたきり言葉を失ってしまった松井の横顔も綺麗だと思ったが、さすがに恥ずかしくて面と向かっては言えなかった。
紅葉の季節が終わって枯れ葉が舞う頃になると、松井は少し痩せた。松井自身もそれをわかっているのか、一日三食をきっちり口にしようとしていた。でも、三食とも食べ切る事のできた日の方が少なかった。朝晩冷え込むようになると、外へ出る事も少なくなった。
外に出ない分、松井は家の中で積極的に動くようにしているみたいだが、一度に動きすぎて息を切らしている時もある。本を読んだり映画を見ているだけではつまらないし僕も家の事を手伝いたいと松井は言うが、見ているこちらの気が気でないのであまり無理はしないでもらいたい。とりあえず、乾いた洗濯物を畳む係と洗った食器を拭く係に任命した。これなら椅子に座ったままでもできるから。
冬、初雪が降った。松井はこのまま朝まで降り続けば積もるかなと、新雪を踏むのを楽しみにしている。せっかくだし、居間の薪ストーブに火を焚いてみようか。そう提案すると、松井も同調してくれた。空調が整っているので今まで使っていなかったが、一度使ってみたかったらしい。薪を発注するついでに、薪ストーブの使い方を調べる事にした。調べるのは松井の仕事だ。
雪が積もるか気になって眠れないという松井に、体に障るから早く寝ろと言ってどうにか寝かしつけた。ここに来てから、松井は子どものような一面を時折見せるようになった。甘えているのだ。そんな松井を仕方ないなと言って甘やかしてしまう自分も大概だが。
雪は朝まで降り続け、松井が目を覚ます頃には数センチ積もっていた。雪自体は止んでしまっていたが、新雪を踏むという目的ならこれで十分。体を冷やすのはよくないから、松井にはしっかりと着込ませた。着膨れした松井のシルエットが思ったよりも丸くて、くすりと笑ってしまった。
松井の手を引いて外に出た。一面に広がる銀世界とまではいかないが、庭は真っ白だった。秋にふたりで植えた花壇の球根は、この冷たさに土の中でじっと耐えているのだろうか。
と、そんな事を考えていたら松井が足を滑らせて転びかけた。支えるのが間に合って事なきを得たが、肝が冷えた。松井には常々過保護だと言われているが、そうなってしまうのも当たり前だ。きゅっきゅと新雪を踏みしめる松井。楽しそうで何より。
そうこうしていると空がどんよりと曇ってきたので、また雪が降り出す前に家の中に戻ろうと松井に声を掛けた。が、松井はもう少し外にいたいと拒否をした。雪が降り始めるところを見たいのだと言う。松井の気持ちがわからなくもないので悩んだが、松井の好きにさせてやる事にした。ただし、見たらすぐに戻る事、戻ったらストーブの前で温まる事を条件として。
それから少しして、この家で初めての新年を迎えた。今年もよろしくと挨拶を交わすと、松井はさすがに疲れたと言ってそのまま居間のソファーで眠ってしまった。以前は真夜中でも起きている宵っ張りの松井だったが、ここに来てからは遅い時間まで起きている事が本当に少なくなった。
すうすうと微かな寝息を立てて眠る松井。部屋に連れて行こうと抱き上げた体はひと頃に比べて随分と軽くなっており、否応なしに現実を思い知らされた。
春、秋にふたりで植えた花壇の球根は力強く芽吹き、春一番が吹く頃には花が満開になった。黄、白、紫。縞の入った花もある。君が決めてと言われて選んだものだったが、我ながら良いものを選んだと思う。アヤメにも似た花弁を持つ小ぶりの花だった。
今日はあたたかいし、外に出ても大丈夫だろう。そう判断したので松井に声を掛けた。松井も窓から見える花壇の光景に、近くで見たいとうずうずしていたらしい。タンスの中から着替えを出して松井に渡すと、着替えるから出て行ってと言われてしまった。
今さら何を言っているのやら。そう顔にも出ていたのか、松井が唇を尖らせた。枕を投げつけられては困るので、部屋の外でおとなしく松井を待つ事にする。ベッドの上から投げたところで、今の松井の力では届かないのだけれども。
しばらくすると、着替えた松井が顔を出した。
「庭まで歩けるか?」
「心配し過ぎ」
松井は不満げな表情だったが、ここ最近松井は外に出ていない。食も細り、三食きっちりどころか、日に二食が精一杯、それも粥や柔らかく煮込んだうどんぐらいしか食べられなくなってきていた。松井自身がどれだけ食べようとしても、体が受け付けてくれないのだ。
なので、当然体力も落ちている。たかが庭先までとは言え、心配になってしまう気持ちもわかってもらいたい。物言いたげな松井を宥めながら庭に向かった。冬の間は枯れて茶色だった芝生も、今は若草色を取り戻している。庭に出たら花壇はすぐそこだ。
色とりどりの花が咲き誇る花壇。その前で松井はぽつりと一言、切望と呟いた。それはどういう意味かと尋ねたが、ただの独り言だと誤魔化されてしまった。独り言だと言われてしまっては、それ以上追求できない。気まずい空気を察したのか、この花はまた来年も咲くのだと松井が教えてくれた。
夏、松井は少しわがままになった。避暑地のようなこの場所でも暑いものは暑いから、夏の暑さに苛立っているのかもしれない。今日の要望は「暑いから氷水を張った盥に足を漬けたい」だった。盥と冷たい井戸水は用意できるが、盥に張った水に浮かべる量の氷は無い。
今日発注すれば明日には届くから今日のところは我慢してくれと伝えたが、松井はそれじゃ嫌だと駄々をこねた。今すぐに涼みたいのだと言う。こんなのはまだかわいらしい方だ。先日は癇癪に近かった。
松井が寝ているうちに用事を済ませてしまおうと、外に出たのがいけなかった。外出している間に目を覚ました松井は発作を起こしていた。勝手にどこへ行っていたのか、どうして苦しい時に近くにいてくれなかったのかと詰問してくる松井。その問いにどう返そうかと戸惑っていると、すまない少し言い過ぎたと松井は口を閉ざした。
ここに来てからそろそろ一年になる。一年前と比べて松井のできる事は少なくなっていた。思い通りにならない体が疎ましいのだろう。こんなはずではないのにと、頭と体がちぐはぐでもどかしい。それをわがままという形で発散させているのだ。
「スイカならあるけど、どーする?」
「……少し食べたい」
用意してくるから待ってろと言って松井の部屋から退出しようとすると、背中に松井の小さなごめんねという声が届いた。謝る必要はどこにもないのにと思う。わがままを言ってくるうちはまだ大丈夫。怖いのは松井が甘える事もわがままを言うことも無くなった時だ。
秋、それは十五夜から一月ほどが過ぎた頃だった。秋の夜長という言葉に相応しく起きていると、松井がこちらの部屋を覗き込んだ。二つの部屋を繋ぐ中扉はいつも開いている。何かあったのかと問うと、松井は口籠もってそっぽを向いてしまった。白磁よりもずっと白い白皙に赤味が差していた。
まさか熱でも出たのかと慌てていると、そうではないと言われてしまった。うろうろと視線を右に左に彷徨わせていた松井だったが、意を決したのかこちらを見て目を合わせた。そこには久しく見ていなかった情欲の色が浮かんでいた。
一度だけでいいから抱いてほしい。松井はそう請うた。前なら一度だけでいいのかと軽口混ぜながら喜んで応えていた。でも、今の松井の事を思うとそれはできない。やんわりと諭すように断ったが、一度でいいからお願いと、松井は繰り返した。これが最後のわがままだと言わんばかりだった。それに気づけないような浅い付き合いではない。立ち上がると、両手を広げて松井を迎え入れた。
元々肉付きの薄かった松井。痩せぎすの体でみっともないから見ないでくれと無茶な事を言ってきたが、そんな事はない。松井はいつだって綺麗だ。思ったままを伝えると、松井は恥じらいながらもかつて己の手で拓いていった体を見せてくれた。そういうところは変わっていなかった。静かにゆっくりと、一晩かけて松井を抱いた。
松井は次の日から三日三晩熱を出した。熱が下がると、今度は丸一日眠り続けた。目が覚めても松井の食欲はほとんど無くて、汁物のようなものしか口にできなくなっていた。松井は冬を越せないだろう。越せて春の訪れを迎える事ができたとしても、それは誤差の範囲。ふたりともわかっていた。
その日から、松井はわがままを言わなくなった。
冬、ここで迎える二度目の新年だ。一年前は居間で新年を迎えたけれど、今年は松井の部屋で新年を迎えた。年を越したら起こしてくれと頼まれていたので肩を軽く揺すぶって起こしたが、松井はほんの少し目を開けただけですぐ眠りの底に引き戻されてしまった。このところ松井は寝てばかりだった。
初日の出が昇りきると松井は目を覚ました。何も変わらない朝の光景。今日の松井の食事はとろみをつけたすまし汁に、少しだけ魚のすり身を入れたもの。松井もこれぐらいならまだ口にできる。今年もよろしくとは、最後までどちらも言わなかった。
年明けから数日。起きると窓の外は雪化粧に覆われていた。日の光が雪に反射して眩しくて、少し目に痛かった。松井は起きただろうか。中扉の向こう側を覗くと、体を起こした松井が窓の外をじっと見ていた。外に出たいと思っているのだろう。
おはようと声を掛けると、案の定松井は窓の外を指差した。言わなくてもいい。わかってるから。いつものようにタンスの中から勝手に服を引っ張り出して、着替えさせた。次に自室の備え付けの洋箪笥の中からコートを引っ張り出した。松井に羽織らせるためだ。松井には何枚も重ね着をさせたのに、すんなりと羽織らせることができた。いつの間にかこんなにも体躯の差ができてしまった。
少し待っていろと言って、自分も急いで着替えを済ませる。コートは松井に貸したから、代わりにいつものブルゾンを羽織った。おとなしくベッドの上で待っていた松井を抱き上げようとしたら、自分で歩けるからと訴えてきた。しかしその訴えは聞いてやれない。厠に行くにも壁に手を当てて伝い歩きをしているぐらいなのに、玄関まで歩いて行かせられるか。
玄関に置いた椅子に座らせると、靴を履かせた。松井は踵の高い靴を好んでいたが、もうずっと履いていない。今の松井にはバランスを取って立つ事も難しいのだ。再び抱き上げると、玄関の外に出た。まだ誰にも踏み荒らされていない一面の雪化粧。真新しい雪の上で松井をそっと下ろした。
下りた松井が雪を踏む。一歩、二歩、三歩。三歩目でふらついた松井を咄嗟に抱き止めた。すまないと謝る松井だが、その視線は湖に向けられていた。松井の青色の瞳は揺れていて、さざ波の立つ湖面を思い起こさせた。
「春になったらあの湖にボートを浮かべたい。その上に寝転んで空を見上げるんだ」
それはわがままでも頼み事でもない、松井の希望――切望だった。
春、花壇は土が見えたままだった。松井は来年も花が咲くと言っていたが、あれだけ植えたはずなのに花は一つも咲かなかった。花が萎れて枯れた後の世話の仕方が悪かったのかもしれない。今さら何を言っても遅いし、再挑戦する事もできないのだが。
庭の芝生は青々と若草で萌えているけれど、花壇だけは寂しい姿を晒している。それを窓越しに見ながら玄関に向かった。手にはトランクケースが一つだけ。元々自分の持ち物は少なかった。着替えと身の回りの品と趣味の物ぐらいしか持ち込んでいなかったし、大きなものや嵩張るものは別にして送った。送った荷物は自分の持ち物の一箱だけだった。
松井の持ち物はほぼ全て処分した。手元に残したのはここに来たばかりの頃に撮った写真が数枚、最後まで欠かす事の無かった爪紅の使い差し、肌身離さず身に着けていた首飾り、ただそれだけ。来た時はふたりだったのに、出て行く時はひとりだった。
雪解け水は松井を攫っていった。なぁ、松井。お前は今どこにいるんだ?
問い掛けてみたところで、春風は何一つ答えをくれなかった。
【終】
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サナトリウムだけど、療養所というよりは横光利一の『春は馬車に乗って』に出てくるような家屋をイメージしています。
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