松井が目を覚ますと隣はもぬけの殻だった。寝ていたら起こしてくれと頼んだのに。玄関から物音が聞こえてくるので、豊前はまだ家にいる。今なら間に合う。
むくりと起き上がって、手探りで届くところに置いてあったシャツに腕を通した。そして着てから気づいた。これは豊前のだ。
間違えて着てしまうのは今更なので特に気にする事なく、豊前が「いつでもこっちに来ていいから」と引っ越しの時に奮発して買ったダブルベッドの中から這い出ると、松井はペタペタと素足のまま玄関に向かった。
寝室を出て廊下と玄関を仕切る扉を開けると豊前がいた。
「……起こしてって言ったのに」
「ちゃんと起こしたぞ」
物音は下駄箱を開ける音だったのか、ちょうど豊前が靴を履いたところだった。松井が後ろから拗ねたように声を掛けると、苦笑いが返ってきた。
早朝、豊前は松井を起こした。すぅすぅと小さな寝息を立てている松井に小声で声を掛けただけだが。昨日は寝るのが遅かったし、休みの日まで早起きをさせたくない。だから黙って出ていこうとしてのだが、見つかってしまった。
見つかってしまったなら仕方ないと、松井に背を向けていた豊前が振り向いた。
「朝飯、冷蔵庫の中にあるから」
「気を遣わなくてもいいのに。ありがとう」
豊前は朝食兼昼食のつもりで松井の食事を用意しておいた。松井は放っておくと食べないという選択肢を選ぶから。松井の健康は豊前によって作られていると言っても過言ではない。
「……スーツ、珍しいね」
「今日は展示会だからな。正直、着慣れん」
限りなく黒に近いダークグレーのスーツ姿。豊前は表に出るような職種ではないのだが、何故か展示会の人員として招集された。もしかしたら社内の偉い人や取引先が来るかもしれないので、それなりの恰好をしてこいとも言われたらしい。
「ネクタイは?」
夏場ならクールビズでノーネクタイというのもわかるが、今は夏ではない。わざわざ服装を指定してくるぐらいなのだから、ネクタイも必須だろうに。松井は首を傾げた。
「……一応、持ってる」
言葉を濁す豊前のスーツの内ポケットの中から、濃紺色のネクタイが出てきた。スーツ自体、年に一回着るか着ないかだ。高校の制服にもネクタイがあったが、とりあえず身に着けていれば許された。しかしビジネスシーンではそうもいかない。
要するに、何度かチャレンジしたけれどうまくいかなかったのだ。諸々察した松井は、ちょっと貸してと豊前からネクタイを奪った。
「これでも毎日やってるからね」
邪魔になるので背広を脱がすと、松井は豊前の首に腕を回した。突然近くなった距離にドキリとする豊前。松井に他意は無いのだ。たぶん。
「…あれ?」
自分が身に着ける時とは向きが逆のせいでうまくいかない。松井は少し考えた。
「豊前、そこ座って」
豊前が言われるがまま上がり框に座ると、松井が後ろから覆い被さってきた。さっきよりも、もっと距離が近い。というか、密着している。思いもよらぬ接触に豊前の思考回路が停止した。
松井はそんな豊前の様子に気づかない。これならいつもと同じ向きだから考えなくてもできると、しゅるしゅるとネクタイを操り、器用に豊前の首元を飾った。
「できた。かっこいいよ」
「はー……帰ったら覚悟しとけ」
「?」
満足げな松井とは対象的に、豊前の顔は険しい。差し出がましかったかと、松井はしょんぼり肩を落とした。いつもとは違う装いというだけでも十分に格好いいのだが、もう一手間加えてさらに格好いい豊前になって欲しかっただけなのに。
「ごめん。余計なお節介だったかな。すぐに解くから……」
豊前は結び目に伸びた松井の手を掴んだ。自分でやれと言われても同じようにできる気がしない。現場担当として営業の隣でニコニコしているのが今日の仕事とはいえ、体裁は繕わねばいけない。
「あんがとな。このまま行ったら怒られるところだった」
豊前がそのまま指先にちゅっと唇を落とすと、松井がぽんっと瞬間沸騰した。気障ったらしい事をしてしまったと、豊前も少し照れた。
「何時に帰れるかわかんねーから、夜は適当に食べてろ」
「ううん。待ってる」
「そっか。早く帰んねーとな」
もう少し松井との会話を楽しんでいたかったが、もう家を出ないと間に合わない。豊前は背広を松井から受け取って羽織った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
出ていく方が相手の頬にキスをするというのが二人の暗黙のルール。豊前は見送る松井の頬に口づけると、軽く彼の下唇を一舐めして出ていった。
松井が呆気にとられているうちに、ガタンと音を立てて玄関が閉まった。松井はぺたりと座り込んでしまった。
――あんなの反則だ。
今すぐ弊社の営業職になってほしい。そこに立って……いや、受付に座ってるだけでも売上が一気に上がりそうだ。でも、ちやほやされてる豊前は見たくない。
きっと豊前は知らない。学生時代、持ち前の華やかさと面倒見のよさで常に囲まれている豊前を、輪の外の松井がどんな思いで見ていたのかを。豊前はそんな松井をずっと見ていた。でも松井はそれを知らない。
「どんな顔でおかえりって言えばいいんだ……」
顔から熱が引いていかない。ただでさえ見慣れぬ装いで動揺していたところに、あの仕打ち。後ろから近づいた時には整髪料の微かな香料にすらときめいてしまった。
そういえば、覚悟しておけって言ってたけど、僕は一体どんな覚悟をしておけばいいのだろうか。松井はしばらくその場から動けなかった。
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スーツは好きですか?
好きです。ネクタイも好きです。
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