その日、松井は珍しく定時過ぎに仕事が終わった。松井の務めている会社は決してブラック企業ではないのだが、如何せん業務に余裕のある時と忙しい時の差が激しすぎる。繁忙期はごみ箱がエナジードリンクとブラックコーヒーの空き缶で埋まり、終電で帰るか始発で来るかの二択を迫られる事もザラにある。
今は繁忙期前のわりと余裕がある時期、言わば嵐の前の静けさだ。休むなら今のうちと言わんばかりにこぞって休暇を取り、定時に帰っていく。来たるべき時に備えて体と精神を休めておかねばならない。
オフィス全体がそんな空気なので松井も日が明るいうちに会社を後にしたのだが、どうも気分が晴れない。理由は分かっている。帰り際に回された案件だ。それはたまにやってくる非常に面倒な案件で、しかも期日が短い。誰もが忌避した案件は松井が担当することに決まっていた。隣の部署に呼ばれ、ほんの数分間席を立っている間に決まっていた。
(弁当買って帰ろう……)
同居人の豊前は今日は帰りが遅いので、家に帰っても夕飯が無い。こういう時こそ豊前の「おかえり」が聞きたいのに。松井は鬱蒼とした気持ちのまま電車に揺られ、アパート近くのスーパーで弁当とサラダ、あと缶ビールを買った。松井は甘めの酒が好きなのでビールは滅多に飲まないが、今日は何となく飲んでみたかった。種類はよく分からないので、前に豊前が買っていたものと同じものを買った。
家に帰るととりあえずスーツから普段着に着替え、コンビニ弁当を肴に缶ビールを飲み干した。いつも飲むカクテルよりも少し量が多かったが、開けてしまったからには飲むしかない。よく豊前は一度にこんなにも飲めるものだ。
腹は膨れたが、心のもやもやはまだ消えない。気分転換が必要だと判断した松井は、財布とスマートフォンと鍵を持って家を出た。目的地は駅の隣にあるアミューズメント施設だ。
――ゲームセンターのシューティングゲームで一心不乱にゾンビを撃ちまくったら最高記録を更新した。それでもまだ気分が晴れてくれないので、施設内にあるバッティングセンターに足を運んだ。ひたすらバットを振り抜き続けたら打率四割台を記録した。ペナントレースなら打率王とホームラン王と得点王の三冠も達成できる成績だった。
それなりの気晴らしはできた。しかしまだ足りない。あともう一押しが欲しい。しばし考えた後、松井は一度アパートに戻ることにした。道すがら「仕事終わったら連絡して」と豊前にメッセージを送った。豊前の仕事が終わるまであと二時間、戻った松井は無言で備え付けのクローゼットを開けた。本人は気づいていないが、今の松井の顔を豊前が見たら、これはかなりの重症だと言うだろう。
*****
仕事を終えて職場を出た豊前は、松井からのメッセージに気がついた。帰りが遅い日だと知っているのに連絡が欲しいと言ってくるのは珍しい。電話を掛けようかとも考えたが、とりあえずメッセージを返すことにする。「今から帰る」と打ち込んだところで人の気配を感じ、ふと顔を上げると目の前には松井がいた。
「松井?」
豊前が声を掛けると、松井が無言でぐいぐいと背中を押してきた。大きめのバックパックを背負う松井の手にはヘルメット。ツーリングにはちょっと……いや、かなり遅すぎる。豊前がどうしたのかと問い掛けても松井は答えない。意固地になった松井の口を割らせるのには骨が折れる事を知っている豊前は、とりあえず好きにさせる事にした。
「ここ行きたい」
駐輪場に停めた豊前のバイクの前でようやく松井が止まり、ずいっとスマートフォンを突きつけた。スマートフォンに表示されていたのは住所と地図。地図上の施設には見覚えがある。大学生の頃から時々お世話になっている、休憩もできる宿泊施設、平たく言えばラブホテルだった。
「明日は平日だろ?」
「会社は直接行くから大丈夫」
バックパックの中身は着替えということか。スーツに皺がついても知らないぞ。豊前としては明日は早番なのでできれば早く寝たいところなのだが、目が据わっている松井に言っても聞いてくれないだろう。一体何があったのやら。松井にとって面白くない何かがあった事は間違いないので、向こうで宥めて寝かしつければいい。案外すぐに寝てくれるかもしれない。
「わーったよ。ほら、行くぞ」
豊前と松井を乗せたバイクは滑るように夜の街へと繰り出した。
*****
「……で、どーしたんだ?」
バイクを走らせること十分と少し。目的地に着くと半ば豊前を引きずるような形で松井が部屋を決めてルームキーを受け取った。同性だと断られる場合もあるが、ここはすんなりと入れた。元からOKなのか、同性だと気づかれなかったのか、それとも松井の圧に押されたのか。松井が選んだのはこの手の施設としてはシンプルな内装の部屋で、行為を楽しむといういうよりも、それだけを目的にしているような部屋だった。
二人の城ではできない事もあるので、今でもこういった場所に行く時はある。しかし豊前には今の松井の目的が分からない。そろそろ教えてくれる頃合いかと、ダブルベッドに押し倒されたところで豊前は松井に尋ねた。
松井は豊前の上にぽすんと倒れ込むと胸元にぐりぐりと頭を擦りつけて、ようやく口を開いた。
「ちょっと嫌な事があった」
「そっか」
「家に帰ってご飯食べてビール飲んでもモヤモヤしたままだから、ゲームセンターに行ってゾンビ退治してきた」
「ゾンビ退治?あー、松井の好きなあれか」
「そう。すごく調子よくてガンガン撃ってたら、後ろの高校生がびっくりしてた」
「だろーな」
綺麗なお兄さんが一人真顔でゾンビを撃ちまくっているのだ。それが赤の他人だったら豊前だってきっと驚くし、学生の頃に初めてその松井を見た時は驚いた。(余談だが、豊前は豊前で格ゲーをやってみせたところ、松井に「何をどう操作しているのか分からない」と言われたので、この辺りはお互い様である)
「それでも収まらないからバッティングセンターにも行った」
「珍しい」
「ホームラン連発してきた。僕、プロになれるかも」
「元々運動神経悪くねーけど、かっ飛ばしてる松井は想像できねーな」
「でもね、豊前。それでもまだ足りないんだ」
ここに豊前もいれば楽しいのにと口にした時、松井は何が足りないのかすとんと腑に落ちた。豊前だ。嫌な事があるといつも豊前が付き合ってくれた。豊前は「嫌な事なんて遊んで食べて寝て、きれいさっぱり忘れてしまえ」と松井をどこかに連れ出してくれるのだ。二人で大騒ぎながら気晴らしをして、美味しい物を食べて、それから――
「全部忘れるぐらい滅茶苦茶にして、滅茶苦茶にさせて」
ね、耳元でとだめ押しをしてくる松井に、豊前の喉がごくりと鳴る。松井の指が豊前の敏感なところをつつ…と辿った。
「……一回だけな。明日も普通に仕事だろ?」
「そんなやわじゃない」
「だめだ。俺も明日は早番だから」
「わかった。その代わり、凄いのよろしくね」
「その顔はわかってねーな……」
松井はモヤモヤが一周回って何やらスイッチが入ってしまったらしい。ハイテンションの松井に豊前は苦笑するしかなかった。こうなったら、彼のお望み通りにして寝かしつけてしまうのが得策か。こちらも睡眠時間は確保したい。が、ねだられたら結局言う事を聞いてしまうんだろうなという気もしている。豊前は松井に弱いのだ。
「着替えは明日コンビニで買えばいっか」
「ちゃんと豊前の分も持ってきたから安心して」
「……用意周到だな」
起き上がって、ふんすと胸を張る松井。嫌な事は忘れてしまえというのは、塞いだり落ち込んだりしている松井を浮上させるための気分転換フルコースだ。自分からねだってくるだなんて、松井にとってはちょっとでないレベルの嫌な事があったのだろう。豊前だって松井のおねだりを無下になんてしたくない。明日何もなければ、一から十まで全部聞いてやりたい。翌日の事が頭を過ぎってしまう辺り、大人になってしまったんだなと思い知らされてしまった。
「やっぱりだめ?」
「ダメじゃねーよ。汗かいてるからシャワー浴びてくる。すぐ戻ってくるから待ってろ」
「そんなの気にしないのに」
「俺が気にする」
どさくさに紛れて脱がせようとしてくる松井を制止して下ろすと、豊前はおとなしくしてろと言い残してバスルームに向かった。ここのバスルームはベッドルームから丸見えではなかった。よかった。別に丸見えが嫌というわけではなく、見られるよりも見る方がいいというだけだが。見られていることに気づいた松井が口パクで「えっち」と言ってくるのはとても良い。しかし今は求めていない。
バスルームのドアを閉める前にちらりと見た松井は、丸めたスーツの存在を思い出したのか、ハンガーにかけて吊していた。松井自身はやる気満々だが、彼はここに来るまでに滅多に飲まない缶ビールを開けて、ゾンビを滅多撃ちにして、ついでにバッティングセンターにも寄っている。そろそろ酔いが回ってもおかしくない頃だ。前戯と称して軽くいちゃついているうちに寝てくれると助かるのだが。
(……あれはそんなにもたねーな)
豊前は据え膳が出たら両手を合わせていただきますときれいに完食するタイプである。しかし美味しく頂くためには万全の状態でなければいけない。間違ってもメインディッシュに箸を付けようとした瞬間に膳を下げられては困るのだ。目の前で膳を下げられるぐらいなら、最初から我慢して次の機会にする。少しでもおあずけを食らう可能性があるのなら、全力で回避したいと思う方だ。
据え膳からのお預け寸止め生殺しはもう味わいたくない。これは子どもだましだと罵られてもいい。松井よ、恨むなら過去の自分を恨め。豊前の経験と勘が告げている。あの松井は百パーセント寝落ちすると。
――今、豊前の脳内ではシフト表が高速で回っていた。今度の土日の勤務を代わってもらうために。
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脱がした辺りで酔いが回って寝る松井と、そんな気がしていた彼氏豊前。
これまでにも色々とあったから、松井のお世話はお手の物。生殺しも回避できる男。
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