私がミスラさんに恋をしたのはいつのことだったか。母様がまだ生きていて、ミスラおじさん、ミスラおじさんと懐いていた頃だったか、それとも母様が死んで、あの人が葬式にすら出なくて、めっきり顔を見せなくなって、偶然から賢者の魔法使いになって再会してから、だろうか。
とにかく、私はミスラさんのことが好きで、好きで、しょうがなくて、あの濡れたような声色に名前を呼んでほしくて、わざと彼がくつろぐ談話室(あの人なりに寝ようとしていたのだろう、悪いことをした)を訪れたりした。それはミスラさんは母様と約束をしているから、私を無碍に扱わないと知ってのことだった。そしてミスラさんはいつだって面倒くさそうな顔をしているけれど、結局は私の名前を呼んでくれる。ルチル、と。約束をしているから仕方がないって顔で、私の名前を呼んでくれる。でも、それは全部母様との約束からで、私とは約束をしてくれなくて、ミスラさんは私にも、ミチルにも、約束のために等しく愛情のようなものを注いでくれる。ぶっきらぼうで分かりにくいけれど、私とミチルを愛してくれる。多分、母様との約束がそうさせるのだろうけれど。マナ石を食べさせようとしたのも、私とミチルが弱いからで、悪意があったわけじゃないだろう。そもそも、死者とともに生きてきたミスラさんには悪意などないのだ。北の国の魔法使いらしく力が全てで、そこにイカサマはない。だから母様もミスラさんに約束をさせたのだろう。私たちのことなんか、結界をはって閉じ込めるか安全を考えて宝石に何なりすればいいのに、ミスラさんはそうしない。私たちに自由をくれる。そして面倒臭そうに私たちを、私を守ってくれるのだ。
私はミスラさんのことが好きだった。賢者様がそうするように、彼を眠らせてやりたかった。でも私には魔力が少なく、賢者様のような不思議な力もない。だから、初めてミスラさんの部屋に入ったのは、賢者様の代わりをしますだなんて大仰なことを言ったからだった。南の国には安眠のためのハーブがあるんです、お約束の呪文もあります。賢者様の力にはかなわないかもしれませんが、ミスラさんのお役に立てるかも。
私はその時笑っていて、これが失敗したらシャイロックさんのバーでお酒でも飲もうかなんて思っていた。幸い東の魔法使いたちとともに賢者様が依頼に出立していたから、そんなことにはならなかったのだけれども。
でも、奇跡は起こった。私がハーブを焚いて呪文を唱えた時、確かにミスラさんは目を閉じて深く息を吐いたのだ。私は嬉しくて、ミスラさんが眠るベッドの側で呪文を唱え続ける。呪文というより、童謡を歌い続ける。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
それは母様が寝たくないとぐずる私に歌ってくれたものだった。魔女が使うものなのだから、もしかしたら本当に呪文だったのかもしれない。私は知らぬ間に呪文をこめていたのかもしれない。
こうして、ミスラさんは賢者さんがいない夜、私を閨に誘うようになった。眠れないんです、あなたの歌、寝れないこともないんですよね。そう無表情に言って。
ミスラさんに歌を歌うたび、ハーブを焚くたび、私は彼に触れたくてしょうがなくなった。触れたいだけじゃない、キスがしたい、抱かれてしまいたい、強く強く、約束なんて理由にしないで私を愛してほしい。でも、そんなの叶うわけがなかったのだった。そしてミスラさんも、そんなこと望んでいなかったのだった。
「その歌、チレッタがよく歌ってくれました。ごっこ遊びが好きな魔女だったもので」
ある夜、なかなか眠れなかったミスラさんはそんなことを言った。そうだ、そういえばこの歌は、母様から教わったのだった。でも、ミスラさんにも歌っていたなんて、母様は、ミスラさんのことをどう思っていたのだろう。ただの弟子? ただの厄介な弟分? それとも父様とはまた違った約束を交わすくらい大切な男?
私は何も言えなかった。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい。そんなふうに歌を歌って、ハーブをきつく焚いた。でも、ミスラさんは眠るのを諦めてしまって、ベッドから立ち上がると、部屋の隅に置いてあったワインのボトルを開けた。
「深酒は、眠りにくいですよ」
私は震える声で言った。チレッタ、チレッタ、チレッタ。ミスラさんは母様のことをそう呼ぶ。父様がそう慈悲深く呼んでいたように、それよりもずっと親しくそう呼ぶ。私をルチルと呼ぶよりずっと、深く深く名前を呼ぶ。私は悲しくなる。ミスラさんが約束をしたのは母様で、私じゃない。私がどれだけミスラさんに近づこうとも、その約束には勝てない。ミスラさん、ミスラさん、どうして私を見てくれないんですか。ミスラさん、ずるい、大切なものがあってずるい。もう二度と手に入らない大切なものがあってずるい。ミスラさんがチレッタと呼ぶたび、私は彼が憎くなった。
「それじゃあ、今日は効果はないようですし、私はこれで……」
「飲んでいかないんですか?」
「深酒は眠りづらいって言ったでしょう?」
時計を見れば、もう十二時を過ぎていて、ミスラさんもつらいんじゃないか、と私は思った。でも母様の名前を聞いて勝手に苦しくなって、私はミスラさんから離れようとした。でも、ミスラさんに腕を掴まれて、私は部屋から出ることが出来なかった。
「もう一回してくださいよ。これは休憩です。あなたの歌、チレッタの声に似てていいな。思い出しますよ、俺が……」
「や、やめてください、私、やっぱりもう今日は……」
「どうしてです? 疲れましたか?」
違う、疲れてなんかない。私は勝手に悲しくなって、愛している母様に嫉妬して、ミスラさんが母様の名前を呼ぶたびに嫉妬して、歌も満足に歌えなかった。だからミスラさんも眠れなかったんじゃないかな。私がめちゃくちゃな感情をこめて歌を歌ったから、だから。
「俺が嫌いになりましたか? オズもオーエンも、ブラッドリーも、双子も俺のことが嫌いです。北の国の連中はみな俺のことが心の底では嫌いです。死者だけが俺のことを認めてくれました」
「そんな、ことな……」
私は掴まれた腕を振り払おうとする。しかしうまくいかない。ミスラさんの力は強くて、私をまたベッドの側に座らせようとする。でも、本当は私はミスラさんのベッドで一緒に寝たい。だって賢者様とはそうするんでしょう? お二人の中に何もないのは知っています。でも、母様との間にも何もなかったのでしょう? 何もない関係の方が、強く思い合う関係より絆になることがあるって、私は知っているんです。
「また歌ってください。静かにしていますから。チレッタみたいに歌われると、よく眠れる気がするんです。騒々しい人だったのに不思議だな」
そう言われて、私はまたハーブを焚き、歌を歌う。子守唄を歌う。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
ミスラさんが目を閉じ、静かに息を吐く。私は歌を歌い続ける。なるべく母様の節を思い出して、ミスラさんが母様を思い出せるように。なるべく、私じゃなくて母様を見てくれるように。
「ルチル、お前最近あんまり料理食わねぇけど、味覚でも変わったか?」
夕食のヒレ肉をフォークで突きながら水ばかり飲んでいると、私の様子を気にしたのだろうか、それとも料理人としてのプライドが許さなかったのだろうか、任務から戻ってきたネロさんがやって来て言った。私はそれを聞いて無理矢理肉を飲み込み、「大丈夫ですよ」と笑った。でも、自分を誤魔化すことは出来なくて、「最近、ちょっと眠れなくて」と、笑った。
「ミスラみたいなこと言うんだな。賢者様に手を握ってもらうかぁ?」
「そんな、子どもみたいなこと……」
「でも、ミスラってそうでもなきゃ眠れないんだろう? 難儀だよな。一番弱い部分を、弱い人間に見せなきゃいけないんだからさ」
一番弱い部分を、弱い魔法使いに見せたのは誰だったか。ミスラさんじゃないか、私に弱い部分を見せてくれたのはミスラさんじゃないか。母様を思っていたって、私の歌で眠ってくれたのはミスラさんじゃないか。どうして忘れていたのだろう? どうして私は、ミスラさんが私に最も弱い場所を見せてくれたことを理解しなかったのだろう。
私は母様になりたかった。母様になって、ミスラさんに子守唄を歌ってあげたかった。でも、ミスラさんが今弱い部分を見せたのは私にだった。母様じゃない。もう手が届かない人を思っていても、今は私を見ていてくれるのだ。
「そう、ですね。このお肉、とっても美味しいです。ネロさんの代わりの料理人さんのご飯も美味しかったんですけど、今日は格別ですね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」
ネロさんが笑う。私は食事をとる。ミスラさんの姿はない。また自室で眠ろうとしているのかもしれない。あまり食事でお腹を膨らませると、眠れないって言うから。
(ミスラさんに、また歌を歌ってあげようかな)
私はそんな自分勝手なことを思って、食事を下げ、ミスラさんの部屋に向かった。でも、わずかに扉を開けたそこには先客がいて、ミスラさんと手を繋ぐ賢者様がいて、私はそれに打ちのめされて、どうしようもなくなった。どうして私はいつもうまくいかないんだろう、ようやく乗り越えられたと思ったのに、私の前に横たわるのは、そんな話の以前のことだった。ミスラさんは、賢者様に手を握られて眠りにつく。そこにはハーブも、子守唄も必要がない。心でつながっているように、二人はともに眠り入る。
私は扉を閉め、自室に戻る。どうしてか泣きたかったけれど、そううまくはいかなかった。泣きたい時ほど呆然としちゃうんだなって、私はぼんやりと考えた。
私は母様の代わり、私は賢者様の代わり、ミスラさんが優しくしてくれるのは母様との約束があるから、でも、ミスラさんは約束も何もしてない賢者様にも優しい。私の特別が消えてゆく。つらくて、つらくて、どうしていいか分からなかった。でも、もうミスラさんの部屋を訪ねることはないだろうなって、それだけは分かった。私は力を抜いて、普段着のままベッドに寝転がった。少し寒かったけれど、布団を着る気にはなれなかった。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
私は小さく母様から習った歌を歌った。その時初めてぽろりと涙が出て、私はミスラさんのことを、愛しているのだと知った。あの厄介な男の人を、私は本当に心の底から愛しているのだと知った。
◆
私の生活からミスラさんがいなくなっても、魔法舎での暮らしは全く変わらなかった。魔法の勉強をして、依頼がくれば遠くへゆき、人々と触れ合い、大いなる厄災に備える。もちろんミスラさんにとっての私は母様との約束の対象であるから、どこにいても彼の気配は感じたし、それがたった一つのよすがでもあった。ミスラさんは私を守ってくれる、私のことが好きじゃなくても、そうしなきゃ魔力を失ってしまうから、それほどまでに魔法使いにとっての約束は重い意味を持つから。
こんな時に思い出すのも変だけれど、初めて好きになった女の子は、ちょっとだけミスラさんに似ていた。偏屈で、人と一緒にいるのを嫌って、でも一人きりじゃあ寂しくて、私に意地悪するふりをして、それでも一緒にいたがった女の子。その子は泣きそうな顔で私に好きだと言って、私たちは付き合うことになって、でもその子は南の国の風習で若くして結婚してしまった。羊数十頭と引き換えに、見知らぬ土地の年上の男の、三番目の妻になるために、どこかに行ってしまった。
その子は嫁入り前の夜、家を抜け出して私に約束してと言った。絶対に迎えに来ないでって、初めてしたキスは今でも宝物だから、それだけを糧に生きていくからと、私を揺らがせないでと言って、綺麗な花嫁衣装を着て私の前から去っていってしまった。私はその約束を守るかどうか迷った。私は魔法使いだからどこにだって行ける。人が住めないような辺境にでも飛んでいける。そこで野良仕事をして、女の子ともに一緒に暮らすことだって出来るだろう。でも、私は約束を突きつけられ、飲み込むしかなかった。彼女の真剣な瞳に、うんと言うしかなかった。思えばあれが私がした最初の約束なんだろうと思う。あの頃の私はまだ幼かったので、人間と魔法使いの恋がどうなるかなんて知らなかった。父様と母様は全うしたけれど、それは長命な母様が死んだからだ。それが分かっていて、あの子は約束という形で私に別れを突きつけたのだろう。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
私はぼんやりと歌を歌いながら、女の子のことを思い出した。一緒に干し草の上で眠った女の子のために歌った歌は、いつの間にかミスラさんのそれに変わってしまっていた。やっぱり、私はミスラさんのことを愛しているのだろう。彼が母様との約束のために私を守ってくれていると分かっても嬉しいから、でも苦しいから、私はあの人が好きなんだろう。寂しくて、生きるのに不器用で、大切なものを作らない人。魔法使いとしての正しい生き方をする人。たった一つ、母様との約束を除けば、あの人は北の国の魔法使いらしい人だった。何者にも揺るがされない、そんな人だった。
ミチルが熱を出した。ミチルを診察したフィガロ先生によると、最近流行している風邪だと言われた。薬を煎じたから飲んでね、魔法もかけておいたから安心だよ、ちょっと苦いけれどね。私はフィガロ先生に礼を言って、兄様にうつちゃいますと真っ赤な顔をしてぜえぜえ言うミチルのベッドの側に座った。思えば、私は小さい頃からミチルとずっと一緒だった。この子がこんなつらそうな顔をしていると私も悲しくなってしまう。でも大丈夫、フィガロ先生の診察は確かだから。隣の家のおばあちゃんだって、フィガロ先生の診察で、余命わずかだって言われてたのに今も長生きしている。
「すみません、兄様。なんだか、最近元気がないのに」
「私が? 私は大丈夫だからミチルは寝てなさい。私はここで見ていてあげるから。ふふ、子守唄でも歌ってあげようか?」
「いいですよぉ。もう子どもじゃないんですから。一人で眠れます。みんな僕を子ども扱いして、嫌だなぁ……」
子ども扱いか。確かに私はミチルを子ども扱いしているかもしれない。ミチルはもう一人で眠れるのに、強くなろうとして石まで飲み込んだのに、私はまだミチルがどこか死んでしまいそうな気がして、目を閉じる様子を見ているのが怖かった。私の魔力を注ぎ込んだ少年は、今はずっと私より強い。彼はどんどん強くなるだろう。迷いつつも、強い意志でマナ石を飲み込んだのだ、ミチルは。強くなるために、弱いのは嫌だって。
(私も、マナ石を飲み込んだら、ミスラさんの気持ちが分かったのかな……)
強いものこそ全てって北の価値観が分かったのかな。ミスラさんに寄り添ってあげられたのかな。彼を眠らせるだけじゃなく、一緒に戦えたのかな。守られるだけじゃなくて、ミスラさんを守れたのかな。
(だめだめ、もう考えないって決めたんだから)
ミスラさんのことは好きだけど、もう考えないって決めたんだから。私はそう思って、ミチルの額に乗せてある濡れタオルを替えた。ミチルは苦しそうだった。ただの風邪とはいってもつらいのだろう。魔法を分けあたえるように、つらさを分かち合えたらいいのにって思う。でも、それは無理な話なのだった。
「兄様、やっぱり、子守唄、歌ってくれますか? 母様との思い出の歌」
「いいよ、ミチルはあの歌を聞くとすぐに寝ちゃったよね、ミスラさんみた……」
「兄様?」
「ううん、なんでもない。歌ってあげようね。聞いたら薬を飲んで眠るんだよ。眠りも薬だからね」
眠りも薬だから、眠れないミスラさんはつらいんだろうな。今も賢者様と一緒に寝てるのかな。賢者様はお優しいから、私にもお優しいから、ミスラさんに頼まれたら断れないんだろうな。いや違うかも、賢者様からすすんでミスラさんを助けようとしているのかも。それくらい、ミスラさんは魅力的だったから。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミチルくん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
「ふふ、母様が側にいるみたい。嬉しいなあ。でも、苦い薬は嫌かも」
母様みたい。母親を知らないミチルのその言葉に、私は胸がきゅうとなった。ミスラさんが私の歌を母様に似ていると言ったのも、深い意味はなかったのかもしれない。私は母様の血を引いているから、自然と魔力の質も似ているから、だからそう感じたのかもしれない。だったら悪いことをしたかもしれない。また、ミスラさんに会いたいな。そう思いながら煎じた薬をミチルに飲ませる。そして額をふいて、もう寝るんだよ、って微笑む。とびっきり優しそうな顔をして、ミチルを安心させようとして、形を作って。こんなふうに笑う時、私はあの女の子を思い出す。最後に会った時も私は笑っていて、安心させようとして笑っていて、泣くことすら出来なかった。あの女の子が去って行った後も、私は泣かなかった。それが南の国では当たり前のことだったから。私が心から泣いたのは、ミスラさんのためにだけだった、いや違う、ミスラさんのことを好きだと悟って、愛していると悟って、自分を憐れんだからだった。
こんなんじゃ駄目だなあって思う。今度ミスラさんに会ったら、眠れているか尋ねてみようか。きっと大丈夫って言われるだろうな。だって賢者様の力があるんだから。
私は寝入ったミチルを眺めて、ドアを開け、また閉じる。そして廊下を歩いて、談話室に向かった。まだ夜も浅いけれど、みんなシャイロックさんのバーに行くから、今は誰もいないだろう。そう思って私はスケッチブック片手に談話室に向かう。最近あんまり絵を描いてなかったなって思い出して、ミスラさんがどうやったら眠れるか、ハーブの配合なんかに夢中になって、趣味を忘れていたなって思い出して。
「あれ、ルチルじゃないですか。ミチルは大丈夫なんですか?」
談話室の扉を開けた時、ミスラさんの声がした。見ればそこにはミスラさんしか座っていなくて、私たちは二人きりだった。ミスラさんの部屋で二人きりになったように、私たちの他には誰もいなかった。
「だ、大丈夫ですよ。フィガロ先生にお薬ももらいましたし。フィガロ先生の薬はよく効くんです。南の国では評判のお医者さんなんですよ。どんな患者も診てしまうんです。そして治しちゃって……」
「あなたが来ないから、俺、眠れないんですけど」
「え?」
フィガロ先生の話をしていたのに、ミスラさんは不思議なことを言った。眠れてない? どうして? 賢者様と眠っていたんじゃないんですか?
「賢者様に手伝ってもらってるんですがムラがあって困ってるんです。今から俺の部屋に来ませんか」
「いや、私は……」
「そんな目をして、俺以外に大切なものってあなたにあるんですか?」
大切なもの、大切な兄弟のミチル、大切な頼れるお医者さんのフィガロ先生、何かあった時には助けてくれるレノックスさん、それから、魔法舎の人々や、賢者様。大切な人は私にはたくさんいる。でも、ミスラさんは多分、小さい頃、母様が語ってくれた、父様と一緒に箒で空を飛んだような、そんな人なんだ。でもどうしてミスラさんはそんなことを言うんだろう。私の気持ちを察していた? 気づかれていた? 眠るミスラさんに愛されたいって思ったことを、気づかれてしまっていた?
「駄目です、私、ミチルの面倒をみなきゃいけないから、もう行きます」
「ミチルは強い子です。それにフィガロが診てくれます」
「私は、ミチルが大切です。フィガロ先生も、レノックスさんも、みんなも……」
目が熱くなる。みんな大切、みんな私の大切、でも、欲しいものはあなただけです、ミスラさん。いつから気づいていたんですか? 私は母様に似た誰かでしかなかったんじゃないんですか? 母様と似ているから優しくしてくれているんじゃないんですか? 母様との約束があるから優しくしてくれているんじゃないんですか?
「なんで泣いてるんですか? 俺、変なこと言いましたか?」
「泣いてません」
「じゃあこれは、何なんです?」
ミスラさんは立ち上がって、私の側にやって来た。そして魔法を使うみたいに気軽に涙を拭うと、自分の唇に載せた。
「泣いてるじゃないですか。しょっぱいですよ。嘘はだめです。俺の勝ちですね」
「ミスラさん……」
「俺が勝ったんだから、俺の部屋に来てください。ハーブを焚いて、あの子守唄を歌ってください。そしたら少しだけ眠れるんです。眠れなかったら……」
「どうしてそんな優しいことをするんですか? 私が母様の子だからですか? 母様の子じゃなかったら、見向きもしなかったんじゃないですか? 賢者様がちゃんとミスラさんを眠りに導いてくれたら、私はいらなかったんじゃないですか?」
言葉は怒涛のように漏れた。でもミスラさんはそれを全部聞き、ちょっと呆れたみたいな声をして、次のように言った。
「知ってます。それは嫉妬です。チレッタも言っていました。あなた、俺のことが好きなんでしょう。人は無意味に泣きますが、あなたもその口ですね。悩むことなんてないのに」
それはまるで告白だった。私はとっさにどう言っていいか分からず、ミスラさんをじっと見つめた。
「悩みます。悩んじゃいます。私、母様にはなれません。ミスラさんの大切な人にはなれません。ミスラさん、私と約束は出来ないでしょう? ミスラさん、私をずっと愛するなんて、父様と母様が約束したみたいなこと、できないでしょう」
「そりゃあそうですよ、気持ちは変わりますからね。魔力を失うのは嫌ですし、これ以上のリスクは抱えたくありませんし。でも、あなたが俺に約束するのはいいんじゃないですか?」
「それって……」
「部屋に来てってことです。俺、本当に眠くて、あなたの子守唄じゃなきゃ駄目みたいなんですよね。賢者様も困ってました。今度謝っておいてください」
ぼんやりとした目でミスラさんが言う。腕を強引に掴む。私はどうしていいか分からなくて、ミスラさんに腕を引っ張られるまま、ミスラさんの部屋に行く。子守唄に眠りの効力なんてない。ハーブも民間療法に毛が生えた程度のものだ。でも愛しい誰か、優しい誰がか側にいれば、眠ることも出来るかもしれない。
「いません、あなた以外に大切な人はいません、みんな大切だけど、種類が違うんです。私は、私は……」
「泣かないでください。俺がいじめてると思われるじゃないですか。オーエンあたりにからかわれたら厄介なんですよ」
「ミスラさん、あなたが大切です。あなたの言うとおり、私はあなたのために約束が出来ます。母様が、父様にしたように」
私の告白に、ミスラさんは何も言わない。それでも階段を上り、私たちはミスラさんの部屋に辿りつく。そこで私たちは自然と抱き合う。そして扉を開けて、真っ暗な部屋のベッドに初めて私は寝転んで、体温の低いミスラさんを温める。魔法を使うのじゃなく、体温で温める。
「ハーブは……」
「いりません。今日はあなたがいればいい気分だったんです。あなたを失くしちゃった気分だったんです、ずっと、ずっと、俺を避けるから、もうあの歌が聞けなくなったかと思った」
ミスラさんが、子どもみたいに私に抱きつく。ミスラさんに親はいない。私ももういないけれど、ミスラさんはずっと一人だった。ミスラさんは、ずっと一人きりで、誰とも馴れ合わないで、なのに私をこんなふうに抱いてくれる。眠りたいからって言って、きつく抱きしめてくれる。私はミスラさんを抱きしめる。強く強く抱きしめる。ミスラさんが好きですって、口に出さないまま伝えようとする。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
「でも、今は歌わないでください」
「え? どうしてですか? 聞きたいんじゃなかったんですか?」
「まだ眠りたくなくなりました。あなた、その意味分かってます?」
「わ、分からないです」
「でしょうね、あなたって、チレッタとは全く違いますね。チレッタならここで俺を殴っていたところです」
ミスラさんが珍しく笑う。私はどうしていいか分からなくて、ただただミスラさんを抱きしめる。ミスラさん、好きですって、母様と全く違う私を好きでいたくださいって、そればかり考える。ミスラさんにも大切な人はいるんでしょう、それは母様だったりするんでしょう。でも私にも大切な人たちはいて、だからおあいこなんでしょう。でも、こんなふうに抱き合ってベッドでじっとしているのは、多分私はあなただけです。
私は目を閉じて、母様を思い出す。最後の方の思い出を探る。
ルチル、大切な人が出来たら離しちゃ駄目よ、私はこの子を絶対に離さない。あなたも離さない。あぁ、またお腹を蹴った。きっと元気な子になるわ。大切な弟、大切な家族、そこにミスラさんが加わったら、きっと私は嬉しいだろう。ミスラさんが眠りたくないって意味、本当は分かってますよ。でも、まだ恥ずかしいから、知らんぷりをしているだけで。
私はミスラさんを抱きしめる。また子守唄を歌って、私をぎゅうと抱きしめるミスラさんを眠りたくないミスラさんを静かに、静かに母親が子どもをあやすように抱きしめる。するとミスラさんが不服そうに目を閉じて、私に額を擦りつけてくる。私はそれを受けて、初めて告白する。ちゃんと言葉にして、多分、約束して。
「ミスラさん、好きです。約束したっていい」
「ふふ、いいくどき文句ですね。さすがチレッタの息子です。……あなたはどうか、突然いなくならないで」
ミスラさんは、最後に少しだけ寂しそうに言った。私はそれを抱きしめることであやして、好きです、好きですと繰り返した。
ミスラさんが寝たのは、それからしばらく経ってのことだった。彼は子守唄も魔法もなしに、私の告白だけで寝たのだった。私はそれが嬉しくて、いつかミスラさんに約束をしようと思った。とおくのそらのちいさなほしがいまゆっくりとめをとじる。その時に約束しようって、私は強く思ったのだった。
◆おまけ
ミスラさんと寝る時、私は信じられないくらいの強烈な熱を覚える。あのかさついた手のひらが腹を探る時も、もっと、もっととねだってきつく首筋に噛み付いてもらう時も、私はミスラさんの肌で身体中発熱する。ミスラさんは北の魔法使いらしくどこか芯が冷えているのに、私はどこもかしこも熱くて、もうだめですと苦しむふりをするくせに、その実絶対に離れない。
ミスラさんはセックスの最中、ほとんど何も喋らない。私ばかり好きとか、愛してるとか言って、ミスラさんはそれに頷くだけで、きつく噛みつくだけで、私に愛をささやかない。でも彼も興奮していることだけは分かって、私はそれに泣きそうになる。愛してます、ミスラさん、愛してるんです、あなたが私の身体だけに興奮していても、私はあなたが好きなんです。とはいっても、私もあなたの身体がくれる熱に、欲情しているんですけれどね。これじゃあ、お互い様ですね。
ミスラさんと初めて寝たのは、彼が子守唄を聞きたくないって言った日から、しばらく経ってからのことだった。私はちょっだけびっくりしたふりをして、でももしもの時のために準備していたから、「いいですよ」って、もったいぶったことを言った。ミスラさんは直裁だったけれど、案外ロマンチックな言葉をくれた。例えば、こんなふうに。
「あなた、いい匂いがしますね。石鹸と、精油の匂いかな」
そうですよ、あなたのために身体中を洗って、不思議な魔女から恋に効くって名目で買った精油を塗ったんです。深くまで、丁寧に。
「この上から、あなたに、俺の匂いをつけたいな」
いいですよ、ミスラさんの匂い、私も好きですから。
「あなたの深くに、俺の匂いをこすり付けたいな」
そんなふうに言われたら、身体が火照って私は小さく頷くしかなかった。分かりましたって、いいですよって。
そこから先はあんまり覚えていない。ミスラさんはセックスが上手くて、男の人と初めてするって言ってたくせに私の身体を翻弄して、私は声を涸らしながらもっとして、もっとひどくしてって、忘れさせないでって、約束ができないならせめて私に覚えさせてって、ねだったのだった。ミスラさんはいちいち分かりました、とか、いいですよ、って返事をして、私の身体を切り開いた。自分じゃ触れられないところまでミスラさんのペニスは届いて、私の身体が頑丈で良かったと思った。この調子じゃあ女の人なら壊れていただろうから、初めて男で良かったと思ったのだった。
それから、私とミスラさんは寝る前に思い立ったようにセックスをするようになった。終わった後は私が香を焚いて、子守唄を歌って、ミスラさんをぎゅっと抱きしめる。それがルーティーンになった。ミスラさんは私の子守唄が効かなくても、滅多に賢者様を呼ばなくなった。呼ぶのは、本当につらい時ファけだった。私はそれが意地が悪いって思うけれど本当に嬉しくて、ミスラさんが好きで、何度も何度も、母様が教えてくれた子守唄を歌った。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
私たちは幸せだった。普段、みんながいるところでは普通の顔しか見せないのに、ミスラさんは私と二人きりになるととびきり甘い声で、甘い表情で、ルチル、と呼んでくれた。それが合図で、私たちは抱き合って、朝までずうっと抱き合って、ぴったりとくっついて離れなかった。
母様も、父様にこんな感情を抱いたのだろうか? 私に大切な人は絶対に離すなって言った人は、その人はミスラさんだったのだろうか? でも、ミスラさんは私に愛しているとも、好きだとも言わない。私ばかり言って、それだけだ。
「ミスラさん、好きですよ」
「分かってますよ、言われなくても」
「ミスラさんにも好きって言ってほしいな」
「気持ちが変わるかもしれないのに?」
「それじゃあ、今は私のことが好きってことですね」
私は言葉尻を捉えて、わざとミスラさんをからかって、きれいな額にキスをした。目元のクマには入念にキスをした。可愛いミスラさん、可愛くってたまらない。ミチルも小さい頃はすっごく可愛かったけれど、それに匹敵するくらい可愛い。でも、そんなことを言ったら、ミスラさんは怒るかな。
子守唄を歌い終えた私は、ミスラさんにちょっかいを出す。それじゃあ眠れませんよって怒られるまで、好きだって、愛してるってそればかり繰り返す。
「西の国の魔法使いは情熱的って言いますけど、南の国も大概なんですね」
「そうかな。南の国は、まだ危険なところが多いからですかね。明日どうなるか分からないその日暮らしの人も多いし、今言っとかなきゃって思うんです。北の国ではどうですか? 愛してるって言いますか?」
「言いませんよ、そんなの。俺たちは屈服させ合うだけです」
ふふ、じゃあ私もミスラさんに屈服しようかな。そう言って笑うと、ミスラさんは呆れた顔をして、「俺の方がもう、駄目になってますよ」って言った。そして私に深くキスをして、また深く深く私たちは交わった。私たちは汗を垂らしながら、繰り返し交わった。そして朝が来ようとする頃には、ミスラさんはうっすらと寝ているのだった。
ミスラさん、私、まだあなたに約束していませんね。ミスラさんは私が魔力を失うと困るからさせたくないんだろうけれど、私はミスラさんのためなら何だって出来るんです。でもそう言ったら、俺のことを思うなら、どうか危険に立ち向かわずじっとしていろって言われるんだろうけれど。
私はミスラさんにキスをする。眠ってしまったミスラさんにキスをする。眠れ、もっと眠れ良い子ってキスをする。
「おやすみなさい、めをとじて。おやすみなさい、ミスラさん。とおくのそらの、ちいさなほしが、いま、ゆっくりと、めをとじた。おやすみなさい、めをとじて、おやすみなさい」
そして私もあくびをしながら、子守唄を歌い終えると眠ってしまう。朝焼けの中、後少しだけって眠ってしまう。一緒にネロさんの食事を取らなかったらバレちゃうかなって思いながら、でもそれでも私は構わないんです、ミスラさんに愛されてるってことを触れ回りたいくらいなんです、それくらい愛しているんですって、私はミスラさんをぎゅっと抱きしめる。
愛してます、ミスラさん、あなたが心変わりをして、セックスすらどうでも良くなって、私のことが本当にどうでも良くなって、母様とした約束だけが残る悲しい結果になっても、私はミスラさんのことを思い続けます。愛してます、ミスラさん、ずっと、ずっと愛してます。
南の国の魔法使いは穏やかだって言われるけれど、私は大魔女チレッタの息子なんです。弱いけれど、心は苛烈なんです、穏やかって言われるけれど、本当は心の中に激しい心を秘めているんです。あなたはいつそれに気づくのかな。初めて喧嘩をする時かな、またあなたの前で泣く時かな、それがいつ来るかは分からないけれど、私はあなたを強く思います。強く、強く思います。
まだ朝にはちょっと早いけれど、とおくのそらの、ちいさなほしは、もう消えてしまった。だから、約束にはまだ早いのかもしれない。愛し始めの熱烈な感情が穏やかになる時、私は初めてこの人に約束をするのかもしれない。それとも、母様みたいに何かが迫って来た時に、約束を迫る側になるのだろうか? でも、私がさせたい約束って、一体なんなんだろう。無理をしないで、怪我をしないで、血を流したりしないで、私だけを見ていて。ほら、また自分勝手な約束を望もうとしている。これじゃあ駄目だな、そう思うのに、私は満たされていて、ミスラさんが眠る姿をじっと見つめた。
おやすみ、ミスラさん。
おやすみ、少しだけおやすみ、はやる私のこころ。
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