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ゆい
2023-12-19 13:13:20
9542文字
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幸福論は捨ててきて
【宗みか】自分を大切に出来ないみかちゃんと大切を教えたいしゅうくんの話
影片が、またぬいぐるみを拾って帰って来た。
恐らくゴミ捨て場で無駄にあれこれ触ったのだろう、制服や髪に埃や木の葉がこれでもかとこびり付いている。門限を破った言い訳には一切耳を貸さず、とにかく全ての衣類を剥いで汚れ烏は浴室に押し込んだ。こっそり持ち込もうとしていたぬいぐるみは勿論没収し、リビングに用意しておいた洗剤入りの湯を張った専用の風呂桶に沈めておく。床を汚さないように敷くシートも押し洗いする為の手袋も、気付けば随分使い込んでしまっている。感慨とも呼べぬ疲れを覚えつつ、次は軽く払っておいた制服を手に取る。あと一年は必ず着るであろう制服は、丁寧に汚れを落として生地を傷めないようにブラシをかける。もはや指先が覚えてしまった手間も何度目だって気を抜かずに繰り返した。凡俗は何時も見せかけに騙されて、少しでも隙を見せればすぐに君を軽んじるから。せめて僕の手が届く範囲にいる内は、君が正しく評価される為の手助けをしよう。
「あっ、うさちゃんもお風呂や」
「レディの入浴を覗かない。あと五分はそのままだよ」
ぱっとリビングに飛び込んで来た声は、真っ直ぐにぬいぐるみの浸かる風呂桶へと跳ねていく。ソファーに座る僕の足元へ躊躇無く膝をつき、濁った水面を見つめる旋毛に自然とブラシを持つ手に力が篭もった。お風呂上がりに直接床へ座ってしまえば入浴の意味が無いだろうに。君が温もりを手放してまで拘る価値がそのぬいぐるみにあるのか、僕にはまだ判断が出来ない。汚れも厭わず胸に抱いて帰った彼女は元の色が思い付かぬ程にくすみ、耳も片方千切れて瞳の輝きと艶すら失っていた。項垂れ凍える姿はお世辞にも可愛らしいとは思えず、首元の見窄らしいリボンだけが彼女が持ちうる唯一だった。それでも影片は開口一番、大事にすると僕の目を見て言った。影片が役目を終えたぬいぐるみや人形を集め出したのは何時からだったか。誰もが目を背けたがらくた達を、彼は自身も泥に塗れながらいくつも拾って帰ってきた。もう大丈夫やで、怖くないよ、おれがずっと一緒やからね。ぼろぼろの命達に触る時、影片は毎回同じ呪文を唱える。約束と呼ぶにはあまりに拙い願いも縫い込むように針を動かす姿は、見方によっては痛々しくもあった。人は、幼い頃に享受出来なかった何かを生涯追い求めると言う。影片にとっての何かは、恐らく既に取り返しの付かない形で歪み終わっているのだろう。自身に刻まれた致命的な空白は決して埋まらことはないから、せめて誰かが同じ虚しさを受け取ることが無いように。代替だとしても一心に慈しみを注ぐ影片を見る度、僕は彼の善性を好ましく思う。一番欲しい時に貰えなかった言葉は、一生君を苦しめ続けるだろうけれど。諸々を諦めた君が今度は与える側に回るというのなら、その前に僕も君にあげたいものがある。
身を乗り出すようにして覗き込んでいた身体が不意に足元から震えて揺れる。それはそうだろう、春は近いと言ってもまだ防寒着の手放せない季節なのだから。咎める声が彼を呼ぼうと息を吸うが、全て満ちる前にさっと立ち上がった影が転がるように僕の隣へ落ちた。スプリングを派手に軋ませながら体育座りで収まった影片は、吐き出すタイミングを完全に逃した僕に向けてへらりと笑う。
「お洗濯、何時もお任せてごめんなぁ」
「‥君は細かい部分が雑だからね。来月からは一人なのだから、面倒がらずにやるのだよ」
余計な酸素に少し舌が縺れたけれど、小言と一緒に無理やり喉奥に押し込んでやる。自分で冷えに気付いて温かい場所まで移動出来たのだから良しとしよう、以前だったらこちらが声を掛けて肩を揺らすまでは決して動けなかったのだし。
失態を誤魔化す為の笑みになるべく優しい言葉を選んだ筈なのに、ざらりと影片の頬へ影が落ちる。みるみるうちに無邪気さが萎んで眼差しすら頼りなく泳ぎ出すから、こちらの方が戸惑ってしまう。ぎこちない沈黙が数秒下りて色違いの瞳の中で僕の頬まで強張る頃、不意に眼差しが僕から逃れるように一つ瞬く。
「‥おれ、お師さんみたいに全部完璧に出来る自信無い。きっとぬいぐるみだけで精一杯や」
泣き笑いのような表情でそう呟いて、すぐに俯いた声に息が詰まる感覚がした。さらさらと落ちた黒髪が伏せた睫毛や鼻筋を覆い、漏れ出す筈の感情すらも隠していく。自分以外にはどこまでも気を遣える癖に自分のこととなると酷く鈍感で冷淡な君に、最低限の身繕いを教えたのは僕だ。最初は僕の自尊と虚栄の為、次は罪滅ぼしと期待を込めて。そして、今は。口を開けば色んな理由を挙げられるけれど、言葉にした途端に全てが嘘臭くて大袈裟に化けるから。沢山の言い訳を奥歯で噛み潰して、それでも残った思いに注意深く舌先で触れる。ブラシを静かに膝へ置き、少し悴んだ手を艶めく黒へ伸ばすと薄い肩はやっぱり跳ねた。それでも退かずに掴んだ毛束を一筋も溢さず待てば、恐る恐るでも瞳は再び僕に戻って来る。
「ここは舞台上では無いから完璧は求めない。代わりに、全てを丁寧に扱いたまえ。一つ一つに心を込めて、尊いものだと敬いながら大切に触れる。僕が君に求めることはそれだけだ」
不安で埋め尽くされた黄色と青の海が波打ちながら忙しなく揺れている。潮の満ち引きのような困惑の推移を見守りながら、静かに自分が出した答えの正否を待った。途方に暮れて下がりっぱなしの眉がやがて柔らかな輪郭を取り戻すまで。開閉ばかり繰り返して落ち着きが無い唇が弱々しくとも確かに僕の名前を呼べるまで。
「おれにも出来るやろか」
「勿論。もし迷った時は僕の手順をなぞると良い。僕は何時だって君のことを丁寧に扱っているつもりだからね」
「相変わらずすごい自信やなぁ‥。でも、ちょっと分かった」
お師さんの真似ならやってみる。幾分明るくなった表情で擽ったそうに影片が笑う。僕の言葉がどれだけ正しく届いたかは分からない。噛み砕いて言い換えて単語や助詞を何度組み直しても、伝わらないものは幾らでもある。だから、せめてこの瞬間を忘れないで欲しい。大切にされていると感じた時の照れ臭さを、誇らしさを、物珍しさを、どうか君が受け取ったままの姿で。
「うさちゃんのリボンは、綺麗にしたらまた巻いてあげようと思うねん。きっと大切なものやと思うし」
「良い考えだね。誰にだって手放したくないものはあるだろうから」
「おん!おれがうんと別嬪さんにしたるからな!」
やっと調子を取り戻して夢を語る影片にそっと息を吐いて、指に絡めた髪をようやく撫でる。上手に乾かせているし、ヘアオイルも教えた通りに使えているようだ。君が自分を大切に出来ないのなら、こうして一つずつ大切を生活の中に嵌め込んでやれば良い。そうしていつか僕が与えた大切でぴかぴかになった君を見られたら、少しくらいは臭い嘘もとびきりの真になるかもしれない。今夜も言い付け通り光る君を眺めながら、胸の中でこっそりそんなことを思った。
※
床に倒れる影片を見るのは、これで何度目だろうか。
数日掛かりのソロの仕事をようやく終えて日付も跨ぐ時間に家の扉を開ければ、リビングの冷たさの底から安らかな寝息が聞こえた。すぐそこにソファーがあるのに、どうしてわざわざ寝辛い場所を選ぶのだろう。溜め息も白く消える室内は一応電気は点いていたが、暖房の類はとうの昔に消えたらしい。スリッパ越しでも分かる冷気が蹲る床でブランケットに一応は包まって眠る影片の周りには、綿ごみやら糸くずが散らばっている。傍らのテーブルには色とりどりの釦や端布に囲まれて随分見違えた兎が座っていた。わざと足音を立てて近付いても、脱いだコートと鞄を少し乱暴にソファーへ置いても、健やかな寝顔に変化は無い。リボンだけがくすんだままの可憐な彼女と顔以外全て煤けた雰囲気の彼を数度見比べて、少し考えてから影片により近い場所でしゃがむ。久方振りにまともに見つめた頬は、僕にしか分からぬ程度に窶れていた。影片がぬいぐるみを連れて帰った日から一週間経つが、まともに話をする時間はあの日以降殆ど無かった。一つ屋根の下で擦れ違ってばかりの間、影片も僕と同じく忙しそうではあった。ろくに言葉も交わせぬ中でせめて顔色だけはと窺っていたが、結局またしても僕の言葉は届かなかった。縫い目や生地の扱い方を見れば、影片が仕事と学業の合間を縫ってぬいぐるみと丁寧に向き合っていたことはすぐに分かる。きっとどこまでも愚直に僕の言い付けを守って、ひたすら真摯に僕の真似に徹したのだろう。その結果として兎は月とも見劣りしない変身を遂げて、君は見る影も無く泥のように眠っている。伸ばすと言うより投げ出した手でいつかのように流れる髪に触れた。痺れるような冷たさに合わせて、潤いを無くした黒が力無く指先を滑る。せっかくの美が水の泡と化した絶望よりも、またかと慣れ始めている自分への落胆の方が大きかった。もっと自分を大切にして欲しいと願うことはエゴだ、君が何を大切にして何を粗暴に済ますかは君だけに許された自由だから。だから、今回も伝え切れなかったと独り善がりで悔やむことだって僕だけの自由だ。
「お師さん‥?」
静寂を破られる音が不意に鼓膜を揺らして、意識が真夜中に引き戻される。あらためて見下ろした先には、薄い目蓋から溢れたばかりの稀有な星。まだ殆ど眠りの中にいるのか、こちらを捉えた筈の眼差しにも光はなかなか宿らない。そのままで良いの意味を込めて一つ無言で頷いてみせるが、緩慢な瞬きが不規則に続くばかりで結局瞳は目覚めたまま。ほら、口下手で試し行動ばかりの僕達では、言葉に縋ろうが態度に託そうが結局何時も過不足ばかりだ。
「眠いなら寝室に行きたまえ。ここでは風邪を引くよ」
「んあっ、もう今日やん‥。ちょっと休憩するつもりがしっかり寝てたわ。お師さんもこんな時間までお疲れ様やね」
壁の時計を一度見て無表情に呟いた後、こちらを向き直した影片は笑っていた。至近距離で浴びた嘘偽りの無い親愛の形に弾かれるように指を引く。離れた熱を追うこと無く猫のようにぐっと伸びて縮んだ身体は、気怠げに起きて僕の隣に座り直す。いそいそとブランケットを被り直す様子から、寝ろと諭した僕の声は聞こえなかったフリをすると決めたらしい。もう一度咎めるのも何だか馬鹿らしくて影片の居ない方角を向けば、何を勘違いしたかご機嫌な声が追い掛けて来る。
「うさちゃん可愛くなったやろ。お師さんがアドバイスくれたおかげやで」
「反対に君は随分とお疲れのようだね」
「まぁ、テストやら取材やらの日程丸被りで少ししんどかったけど‥もう全部終わったから大丈夫やで。おまんまもちゃんと食べたし、今みたいに休憩もこまめに取ったもん。おれもちょっとは成長したやろ?」
影片の口から「大丈夫」と「ちゃんと」と「こまめに」が一緒に聞かれた時は大分よろしくない時だ。経験として思い知っている嘘に、背けたままの頬が軋むことを止められない。隣では僕の返事を待たずに取ってつけたような脳天気な話題ばかりが続く。真正面になった兎は相変わらず愛らしく、まるで影片の献身を糧にして生まれ変わったようだった。己の魂を削りながら産み出すものが芸術だと君に教えたのは他ならぬ僕だけど。いくら何でも気安くほいほい削り過ぎだと、他ならぬ僕が思うのだ。
一方通行の会話に流石の影片も何かを察したのか、尻窄みに声と話題が小さくなる。やがて再び落ちた沈黙は互いの呼吸音すら嫌がって、呼応するようにますます空気は冷えていく。せっかく会えたのに顔も見ないでだんまりなどは時間の無駄だ。片付けは手伝うから今夜はもう寝てしまおう。一番妥当な理由を自分のことも納得させているとジャケットの裾に引力を感じて、思わず視線が言葉より先に振り向く。
「お師さん、何や顔色悪いで。そろそろお布団行こ?」
鏡を見ろ、と反射的に怒鳴りつけなかっただけ僕も成長したかもしれない。皺が出来る程に僕を握り締めた、やけに真剣な顔が思い切り見当外れな杞憂をしていてもはや目眩がする。この子は、どうして僕の心配をしているのだろう。僕より酷い表情をして、僕より沢山の傷を負って、僕よりよっぽど生きづらい世界で本当は息も絶え絶えな癖に。あまりの身勝手さに自然と奥歯を噛む力が増していく。僕達は確かにお互いを無二と決めて慈しむことを誓ったけれど。今の君はこの世の全てを差し置いて、何より誰より僕を大切にしている場合じゃ無いだろう。
「君こそ人の心配が出来る顔色かね。部屋まで送るからさっさと寝たまえ」
「おれはお師さんに言っとるんやけど。お師さんが元気無かったり笑えないくらい疲れとるの、おれ絶対に嫌なんよ」
「何が嫌なの」
「お師さんは世界の宝やろ。お師さんに何かあったら悲しむ人はぎょうさんおる。勿論、おれもその一人や。だから、もっと自分を大事にして欲しい」
「‥それは、僕がずっと君に言い続けてきたことだよ」
ずっと上手く音に出来ずに飲み込んでいた言葉がかさぶたのようにぽとりと落ちる。え、と幼い疑問符が聞こえた気がしたけれど吹き消すように僕を掴んだ白い手を取った。寝起きとは思えぬ程の冷え冷えとした指先が大袈裟なくらい強張って、一つだった視線に初めて高低差が出来る。
「君は僕の比類無き相棒だよ。僕はどんな理由があろうとも君を軽んじる相手を許さないし、あらゆる手段でこの世界に君の存在を訴え続けていく。それが、君を大切にする為に必要なことだから」
一言一句どうか響けと祈りながら、一瞬も視線を外さずに最後まで伝えきる。見返す瞳を走る様々な感情が影片の動揺を雄弁に語っていた。戸惑い、怯え、緊張、そして微かな期待すらも流れ星のように瞬きを待たず流転を繰り返して消えていく。それでも、忙しない濁流の中に拒絶の二文字が無いことだけを頼りに、僕は願いを紡ぎ続ける。
「君は何時だって僕を大切だと言ってくれるけれど。そろそろ、僕だけを主語にするのは止めてくれないか」
「そ、れは‥」
「僕達は二人で高みに行くと誓った筈だ。互いの魂を対等と認めて、地獄の底まで共に進もうと決めたじゃないか。‥だけど、君は僕ばかりが唯一で特別だと言う」
どんどん青褪めていく頬と震え出す指先を知っていても、言葉はまだ止まらない。焦りで縺れそうになる舌を理性で必死に律しながら、自分の指も少し震えているのに気付く。だけど、今を逃せばきっと次など巡って来ない。僕だって、それくらいは分かっている。
「人形師と人形の肩書きは、制服と共に置いていく。君を縛る過分な糸は、全てこの手で断ち切った。君も、それで良いと確かに頷いたよね」
「お師さん待って、おれは、」
「影片。‥君は、僕に嘘をつくのか?」
「違う!!それは違う、けどっ、おれは‥っ、」
悲鳴に続く声はもう跡形も無く、後は涙に輪郭ごと溶けていった。見開いた目から大粒の光が次々に溢れて、噛み殺せなかった嗚咽が途切れ途切れに僕まで届く。あっという間に発熱し出す頬や額や耳を、今すぐ抱き寄せて見なかったことにしたい。だけど、何時でも出来ることは全部後回しにして、今は掬い上げるように薄い身体を支えてソファーまで引き上げる。動きに合わせて雫は二人の衣服を黒く汚し、指先や首筋を何度も伝って乾いていく。殆ど僕の手に流されて浅く腰掛けることになっても、影片は未だ泣き止まない。先程より距離を詰めて僕が座っても単語の切れ端のような呻きと、夕立を思わせる涙が絶え間なく湧いている。それでも、目尻から溶け落ちそうな透明の奥、二つの瞳は真っ直ぐに僕だけを見ていた。独り善がりだった手はいつの間にかきつく繋がれて、爪先が白く染まる程の力で必死に僕を掴んでいる。ここまで僕に怒りを露わにする影片を、僕は初めて見る気がする。今の僕は、それが嬉しい。
流れるに任せていた涙もいい加減鬱陶しくなったのか、空っぽの掌が目元を何度か乱暴に擦る。急いでこちらも空いた方で鞄からハンカチを取り出して用意するが、顔に触れる直前で手ごと音を立てて弾かれた。
「そんなのっ、いらん‥!」
「‥目の周りは繊細だからね。大切に触れてあげないと傷が残るよ」
「大切とかっ、知らんから!おれの大切は、お師さんだけっ、やのに‥なんでっ‥」
絞り出すように吐かれた言葉は確かな怒りで燃えていた。僕を払い除けた筈の手が僕より早く赤く腫れていく。ぼたぼたと瞳を溶かしながら震える唇を悔しげに歪めて声を探す姿を、僕は努めて何時も通りの表情で待つ。罵声も反論もその他賛否だって何でも聞こう、それが君の言葉ならば。
時計を忘れた夜の底で時々水音を聞きながら見つめ合う。やがて、少しずつ喘鳴の代わりに正しい呼吸が聞こえて、落ちる雫が泡のように小さくなっても。おしさん。そして、鈴が鳴るより朧な声が躊躇いながら僕を呼ぶ。なあに。久しぶりに聞いた僕の声も少しだけ揺れている。
「‥お師さんと一緒に芸術家になるのも、地獄に落ちるのも本当やで。お師さんが望んでくれるなら、血反吐でも何でも撒き散らしながら追い掛けて、絶対に相応しい形で隣に立つ」
「うん」
「そうやって、命も、時間も、未来も、全部お師さんにあげるつもりやった。‥だけど、お師さんはそれじゃ駄目だって。なんで?おれは、おれのこと大切だなんてちっとも思わんよ?お師さんが大切にするのは、おれやなくて自分自身や。それのどこが間違ってるの?」
「‥第一に。僕が何を大切にするかは、僕が決めることだ。たとえ君でも口を挟むことは許さない」
ぴしゃりと当然を説けば目の前の背筋がぴんと伸びて、やっと落ち着いてきた顔に怯えが走る。不味い、と反省するより先に小雨は再び嵐となって僕の未熟さを責める。少しだけ緊張しながらもう一度ハンカチを近付ければ、今度は疎まれることなく涙はすぐ染みになった。あっという間に水浸しになったタオル地でこまめに水分を拭き取る指の動きを、熟れた果実のような眼差しが神経質に追っている。咄嗟に悟られぬよう気を配りながら、仄かに傷んだ手の甲を影片からは見えないようにハンカチを持ち直す。
「君だって許可無く僕を神様と呼んで大切にするのだから、僕にも君をこの世の誰より優先する権利がある筈だ」
「‥おれなんか大切にしても、何もええことないで」
「僕にはある。それで十分だろう」
どれだけ言い切ってみせても影片は猜疑の表情をちっとも隠さず、一文字に結んだ唇で不満を存分に語っている。変なところで強情な性格は出会った頃から変わらない。普段は底無くこちらを盲信してくる癖に、一度疑えば納得するまで僕の教えなど道端の標語と化すところも。しかし、このままでは平行線の意地同士で何時までも埒が明かない。今は信じられなくとも、せめて今までの自分を疑って欲しい。ようやく終わりの見えてきた涙を一滴残らず拾い上げながら密かに言葉を探して、でもやっぱり思い付く前に口を開く。
「君は、君を大切にする僕を信じられないのかい」
「‥お師さんのことなら、初めて会った時から信じてしかおらんわ」
「僕は自分の審美眼に絶対の自信がある。僕が見出して鍛え育てると決めたものを、何を差し置いたって大切にしたいと思うことは当然だ。‥だから。君は、僕が信じる君を信じなさい」
「‥お師さんが信じる、おれ」
「僕と共に世界を造り変える君を。あらゆる辛苦を糧に芸術を生み出す君を。大切にするということは相手の可能性を信じることだ。僕は、そう思うよ」
いつの間にか止んだ雨の向こうで星が輝き始めている。瞬きの度に瞳の奥で理性の火が灯り、夜と同じ色の恐怖が端から順に燃え落ちていく。半開きの唇は時々音無く何かを呟いて、貰った言葉を咀嚼しようと懸命に藻掻いている。既にすっかり力が抜けて外れそうになっていた指は、気付けば僕の方が強く捕まえてしまっている。届かなくて良い、伝わらなくても構わないなんて、この想いこそが酷い嘘だ。どんなに情けなくたって、最後は必ず響いて刺さらなければ許さない。諦める前によく思い出せ。僕が培ったこの声は、言葉は、命は、今この瞬間の為に用意したものだろう。
「‥涙、止まったね」
「‥‥引っ込んだ、の方が正しいわ」
まだ涙声の減らず口に思わず苦い笑いが漏れる。気付けば部屋の空気もすっかり暖かくなって、服の下にはうっすら汗までかいていた。結んだ手もお互いじっとりと湿っているし、何より触れ合った箇所が涙でべたついて鬱陶しい。影片だって出来る限り丁寧に拭ったとはいえ、早く冷やさなければ明日からの仕事に支障が出てしまう。処置と片付けと風呂と着替え、その他諸々の雑事を思うと急に疲れを感じて思わず目を閉じる。仮初の闇がが酷使した目にちょうど良い。ついでに張り詰め終わった頭がやけに重くて、目の前の肩口に少しだけ身を寄せる。
「おっお師さん!?ちょっ、やっぱり疲れとるやん!!だから早く寝よって言ったのに!!ほらっ、おれ運ぶからお部屋行くで!!」
「君に僕を運べる訳が無いだろう‥。少し休んだら自分で向かうから、今は静かに肩を貸したまえ」
身も蓋もなく泣いた後とは思えない騒がしさが憎らしくも懐かしくて、影片にはばれないように深く長く息を吐く。静かに、と命じたせいか必死に口を噤んでいるのが目を閉じていても気配で伝わってくる。僕を支える為にこっそり踏ん張っていることも、髪の毛が肌に触れる擽ったさを唇を噛んで耐えていることだって知っている。虚勢や妄言では無く単なる事実として、影片のことならば何でも分かってしまうから。だから、先程の願いがそう簡単に叶わないことを言ったそばから理解して、その上でありったけの心を尽くした。焦るつもりも嘆くつもりも毛頭無い、地獄の底まで二人ならいつか自ずと僕等の在り方が正解になる。
「お師さん、本当に大丈夫なん?おれ、お師さんに何かあったら死んでまう」
「僕だって、君がいなければ生きていけないよ」
だから、どうか自分を大切にしておくれ。頼りない熱に額を預けたまま囁くように付け加える。返事は特に無い、頭の上ではぱくぱくと空気を食む音だけが鳴っている。今更泣き過ぎで酸欠なんて勘弁してくれと怠い首を動かしてちらりと覗けば、何故かまた赤ら顔の影片がこちらを見ていた。
「そんなん、はじめて言われたんやけど‥」
「初めて伝えたのだから当然だろう。自分を大切に出来ない時に思い出せば良い、餞別として受け取っておきなさい」
「自分を人質に取るんは狡くない?」
まあまあ核心に近い本音に鋭い突っ込みを決めた後、吹き出すようにして影片が笑う。ふにゃふにゃと芯の無い柔い声と眦から飛び出した星の欠片が今日と明日の狭間で儚く揺れる。久しぶりに憂いも曇りも無い顔を見たくらいで、大袈裟だとは自分でも分かっている。たったこれだけの救いを見る為に費やした日々と愛を思えば、下らない労力だったといつかの僕は嗤うだろう。それでも、僕が大切にするべき相手はもう君以外に有り得ないから。多少の損得は飲み込んで有り余る程の価値が君にはある。
笑顔の後の深呼吸を何となしに見守っていれば、ぱちんとまた目が合って緩んだ口元が更にだらしなく僕を呼ぶ。ぼろぼろの瞳も潤ったままの睫毛も水っぽい鼻先まで、目に映る全てがみっともなくて愛おしかった。
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