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ゆい
2023-12-19 13:09:13
6076文字
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ロマンス初級
【宗みか】「甘くなるまで待って」の後日談
「最近、お師さんがはれんちなんよ」
「あらあら。ちなみに『お師さん』って、今どこにいるかしら」
「拳握っとる人には教えられんわぁ!」
惚れ惚れするような微笑みを浮かべながら、なるちゃんは暴力と共に立ち上がる。答えは待たずにテラスからESビル内に飛び込もうとする腕を必死に掴んで引き留めるけれど、なるちゃんは意外と力が強い。反対にそのままおれが引き摺られてしまいそうで、次は一生懸命舌を動かす。
「大丈夫っ、大丈夫やから!嫌とか無理やりとかじゃなくてっ、困ったおひとやなって話をしたいだけで!」
「親友が困ってるなら見過ごせないわぁ。あの人絡みなら尚更よ」
「今回は見過ごして!おれっ、なるちゃんのこと大好きやけど、お師さんのことも大好きやねん!大好きな二人が喧嘩するところなんて見たくないわ!」
腕、というより肩までまるごとしがみついて、何とか話を聞いてもらう。日除けの木々からおれ達に驚いた鳥が飛び立つ音が聞こえた。優雅な羽ばたきの下で意地でも離れまいと引っ付くおれは見苦しい。それでも何とか修羅場だけは避けたくて頑張っていると、不意にぶら下がる腕から力が抜ける。
「‥みかちゃんたら卑怯だわぁ。そんなこと言われたら、怒るに怒れないじゃないの」
「だから怒らんでええんよ。ただ座ってお話を聞いてくれたら嬉しい」
「お話じゃなくて愚痴なら聞くわよ」
怒ったような呆れたような声を出して、なるちゃんが拳だった手を開いておれのおでこをぺちんと叩く。勿論、赤み一つ残らない強さで。なるちゃんは自分を正しく使うことが出来る。力加減も緩急の付け方も上手だから、他人を不快にさせたり悲しませたりすることが無い。おれは人付き合いで苦労することが多いから、その軽やかさが羨ましい。おれもなるちゃんみたいに丁寧に自分を扱えたなら、お師さんの気持ちをもう少し理解出来るのだろうか。
すっかり矛先を収めてくれたなるちゃんが乱れた椅子を直して元通りに美しく座る。おれも真正面で再び向き合えば、視界の隅で黄色い光が火花のように揺れた。少し乱れたテーブルの上には、地方ロケ帰りのなるちゃんが買ってきてくれたお土産が溢れている。お茶もぬいぐるみも全部嬉しいけれど、やっぱり一番はレモン味の飴玉だった。透明な瓶に詰められた飴玉達は柔らかな光を纏って、様々な彩度の影を白い木目に落としている。みかちゃんの色よ、と秘密を明かすように笑ってくれた数分前のなるちゃんはもう居ない。今のなるちゃんは刑事みたいな目と心配性の声をしている。
「それで?斎宮先輩に何をされたの?」
「‥お師さんがパリに行ってからなぁ?何かあるとすぐほっぺとかにチューするねん。恥ずかしいって言うても『挨拶だよ』ってけろっとされると、照れてるこっちがおかしいみたいになるし‥。抱っこもよく分からんタイミングで勝手にして勝手にやめるから、全然心の準備とか出来ひんの。パリって人をはれんちにする病気が流行ってたりする?」
「それは流石にパリに失礼だわぁ」
小さく吹き出すなるちゃんに笑い事や無いと一瞬だけ拗ねるけれど、当事者で無かったらきっとおれも笑っている。でも、なるちゃんはやっぱり凄いから、すぐに何時もの穏やかな笑顔に戻って眼差しだけで続きを促してれた。
「昔は、おれがちょっと近くに寄ると『馴れ合うな』とか『距離感がおかしい』って怒られたのにな?今じゃお師さんの方がずっと近いやん。いや、別にええんやけどね?何されても何言われてもお師さんなら許すけど、こう、一気に来られるとなぁ‥。しかも、何時も無駄に格好ええし‥死にそうなことばっかり言うし‥」
「死にそうなこと?脅迫でもしてくるの?」
「そういうんや無くて、ほら‥」
お師さんがおれにくれた言葉。ぱっと思い付いた分を聞いてもらおうと開いた唇は、結局金魚みたいに空気を食むばかりだった。急に黙り込んだおれに、なるちゃんは怪訝そうな表情を見せる。だけど、思い出すだけで頬が燃え立つ程の甘い台詞を、どう受け取っても紛うこと無き愛の告白を、気安く口にすることが出来ない。脳裏を過ぎる夜は全て等しく秘密めいて、残り香ですら舌を焼く。滴り落ちる濃度の羞恥と目が眩むような追想に、身体中の熱が顔に集まるのを感じる。キスもハグも勿論照れるけれど、ある程度サインとか雰囲気があってのことだから耐えられる。だけど、ふとした時に何気無く与えられる言葉は、狡い。お師さんにとってはただの戯れかもしれないけれど、無造作に投げ込まれる愛に毎回こちらは容易く溺れてしまう。倫理の浅瀬で息も絶え絶えなおれを見て、何時になったら慣れるのかとお師さんは笑う。そんなこと言われたって、その笑みにすらまた撃ち抜かれるようなおれに慣れる日なんて一生来ない。
呼吸も忘れて固まるおれに何か察したのか、なるちゃんがふわりと眉を下げてまた笑う。そのまま、さっと伸びてきた手は躊躇無くおれの頬へ。ちょっと骨張っているけれど温かく包んでくれる掌よりも、おれの方がずっと熱い。あまりの温度差に何だか申し訳無い気がしたけれど、なるちゃんの瞳は優しいまま。
「意地悪なこと聞いてごめんなさい。そうよねぇ、口説き文句を聞き出そうだなんて野暮だったわ、‥って、あら」
「影片、ここに居たのか」
慰めるような声に被さるようにしてに聞こえた鋭さに、条件反射として背筋が伸びる。軽やかに上がった驚きを振り切るように振り向けば、聞き間違える筈の無いおれの神様が仏頂面で立っていた。二人きりのテラス席に向けて大股で近付いて来る姿は、何時も通り優雅だけど少しだけ早足で。あっという間におれの傍らに立ったお師さんは、こちらをちらりと見たかと思えば気難しそうに眉根を寄せる。
「‥酷い顔色だね。この後のレッスンは取り止めて、部屋で休んだ方が良い」
「えっ!?だ、大丈夫やで!?お師さんとレッスンしたい!!」
「体調不良者のわがままは聞かない」
「わがままや無いもん!!おれ元気やもん!!」
淡々と促される休暇を慌てて嫌がれば、見下ろす皺がぐっと増した。だけど、やっと帰国したお師さんが誂えてくれたレッスン時間だ。気まずいとか恥ずかしいなんて理由で棒に振るなんて勿体無い。掴みかかる勢いで懇願するおれにも、お師さんは体調ばかりに気を取られてろくに返事もしてくれない。無駄に顔面へ集まっていた血がざっと音を立てて今度は足先まで引いていく。こうなれば本当に掴みかかって元気を証明してやろうかと思い詰めれば、不意に淡白な電子音が対岸から鳴った。
「痴話喧嘩に水を差して申し訳無いのだけど、司ちゃんから呼ばれちゃったから先に行くわね」
「んあっ、なるちゃん長々とごめんなぁ。お土産ありがと、また連絡するわ」
「こちらこそお話出来て楽しかったわ。あんまり拗れずに仲良くしてね、二人とも」
最後の一言をおれでなくて何故かお師さんを見ながら言い放ったなるちゃんが軽やかに立ち上がる。こちらも何故かぴたりとおしゃべりを止めたお師さんとおれの横を駆けた後ろ姿は、やっぱり百合の花のように正しかった。麗らかな日差しの中、もう一度仰ぎ見たお師さんはなるちゃんの消えた方角をまだ見つめている。横顔ですらお師さんは息を呑む程に美しい。こんな尊い人がなんでおれに性懲りも無く触れるのだろう。火照ったままの頬を抜ける風で冷ましながらぼんやりと思えば、視線に気付いた菫色の眼差しがようやくこちらを見下ろしてくれる。
「‥本当に元気なのかい」
「元気やで。顔色は‥ちょっと色々思い出しただけ」
「ならば早く荷物をまとめたまえ」
不自然に落ちてしまった間にまた突っ込まれるかと思ったのけれど、お師さんはまだ少し不機嫌な瞳でお土産達を指差す。それでもレッスンはしてくれるようだから、おれは喜んで指図に従うだけだ。重いものは下に並べて、軽くて小さいものは優しく重ねて壊れないように。頭では分かっているのに手指は言うことを聞かなくて、紙袋が無様に暴れて鳴いている。ああでもないこうでもないと入れたり出したりを繰り返していると、頭上でもう聞き慣れた深い溜め息。
「時間はまだあるから落ち着いて片付けなさい」
「はぁい‥。あんなぁ、なるちゃんがお菓子は二人で食べてって。お師さんはどれがええ?」
「どれも要らないけれど‥これは、綺麗だね」
数多ある素晴らしさの中からお師さんが拾い上げたものは、おれと同じ色を詰めた瓶だった。陽光に透かされた瓶から溢れた光がきらきらと降り注いでテーブルやおれに星のような影を落とす。すぐに太陽へ翳す角度や光の当て方に夢中になったお師さんは、おれにはもう見向きもしない。心奪われた芸術に毎度容易く殉じてしまう姿は、誰が何と言おうと世界で一番綺麗だ。麗しい景色を爛々と探す瞳も、鮮やかな変化に見惚れて思わず綻ぶ唇も、どれほど光に塗れても内なる情熱を色濃く映す頬も、まるで見飽きることが無い。やっぱりこの人がおれの神様、盲信して然るべき価値しかない。
散々輝きを確かめて満足したのか、やっと日差しから離れた視線がついでにおれのことも捉えてくれる。様々な眩しさに目を細めながら続きを待てば、何度かおれと瓶を見比べた後に口元ばかりの笑みが咲く。
「君とお揃いだ」
「なるちゃんにも同じこと言われたわぁ。二人が言うなら多分そうなんやろ」
「僕は何を見聞きしても君を思い出すけれどね」
「‥‥お師さん、」
「今のは別に破廉恥じゃないだろう」
すらり、と。何でも無いことみたいに付け加えられた愛に理解と反芻が追い付かない。完全に油断していた脳みそは、突如降って湧いた甘さの咀嚼を早々に諦めたようだ。こちらの反応を待つことなく響いた声は少し憮然を含んでいて、きっととんでもない顔をしたおれをあからさまに責めている。
「僕が何をしたって君は騒ぐのだから、好きにさせてもらうよ」
「‥お師さんがはれんちなことしたり言ったりせんかったら、おれだって大人しくしとるとん。全部、お師さんのせいやん」
「君ねぇ‥。ずっと言おうと思っていたのだけど、君が普段から破廉恥なことを考えているから、僕の一挙手一投足へ過剰に反応するのではないかね」
「んん‥?」
「人のふり見て我がふり直せ、だよ」
「‥‥えぇと。もしかして、なんやけどな。はれんちなのって、」
「僕は、君だと思うよ」
「嘘やん!!」
今日一番の大声が出て、つられるように羽ばたきがまたどこかで鳴った。今までの比ではない熱が頬や首筋、指先にまで駆け上がって痺れにも似た目眩が走る。一気に許容量を超えた羞恥に両手で顔を覆っても、瞼の裏まで結局お師さんで満ちていた。薄闇へ逃げる寸前に見た、意地悪に三日月を描く瞳も、してやったりを隠し切れない唇も、網膜が頑固に手放さない。思わず呻き散らすおれの頭にはいつの間にか温もりが乗っていて、醜態も含めて撫でている。指の隙間から隠れ見るお師さんはとにかくご機嫌で、まだ掲げた瓶の放つ光と同じくらい眩しく笑う。命よりも大切なお人が、自分を偽らず綺麗に正しく笑っている。それがどれだけ尊くて奇跡的なことか知っているから、燃えるような恥ずかしさの中でもついその笑みに絆されそうになる。
「これに懲りたら、もう軽率に人の行動を深読みしないように」
「‥ちょっと顔が良くて天才で無敵で神様やからって、横暴や」
「篭っていてよく聞こえないが、褒められたことは分かったよ」
せめてもの反論も容易く飲み込まれて、もうおれには一片の言葉も残っていない。黙り込むしかないおれにまた満足したのか、鼻歌混じりで乱した髪の毛を手早く直してお師さんはおれの代わりにテーブルの上を片付け始める。迷いないやり方でお土産を詰めた手は最後に飴玉を丁寧に袋の一番上に入れて、当然のように取っ手を掴んだ。こちらが口を挟む隙も無く荷物を持って、掌の奥で戸惑うおれには空いた片手を。こっちはまだかくれんぼと反省会の真っ最中なのに。だけど、手を取ることを微塵も疑わない傲慢さに惚れ込んだのは、おれだ。ゆるゆると指を剥ぎ取って情けない顔を白日の元に晒しても、見下ろす笑みは変わらない。むしろ、ますます愉悦は深まったようで差し出す前のおれの手を踊るように握って立ち上がらせてくれる。
「今日のレッスンは、君が希望していた歌唱から始めよう。それが終わったら振り付けの再確認をして、時間があれば次回ライブの構想も練り始めようか」
「‥あんなぁ、」
「あぁ、その前に来週の展示会があったね。僕の作った衣装を君が着るのだから、もう少し細部を詰めなくては」
「‥はれんちなおれでも、好き?」
お手本みたいなまんまるおめめのお師さんなんて、いつぶりに見ただろう。羞恥のおかげか少し潤った瞳で見上げ続けるけれど、お師さんは固まったまま否定も肯定もその満月に映さない。数秒の躊躇いの後、語尾のまま固まっていた唇がぐっと綺麗なへの字に変わる。指先まで強張った手は、薄く汗を帯びて触れ合う部分がじんわりと熱い。質問の下らなさに怒ったのだろうか、眉間の皺も影が出来そうな程深く刻まれているし。だけど、頬の動きや眼差しの揺らぎは困っている時のそれに似ている。全ての印象を拾うとちぐはぐな感情になって、何だかこちらが落ち着かない。
「‥聞いといて何やけど、無理に答えんでええよ?お師さんに嫌われたら生きていけへんけど、おれが悪いし。これからは頑張って直すから大丈夫やで。あっ、おれがあかん時はお師さんが注意してくれへん?そしたらすぐ分かるし‥んっ、‥‥は?」
アンバランスな沈黙に耐えかねて並べた言い訳が甘い温もりに溶かされる。雰囲気のふの字も無しにこちらを黙らせる意図だけの口づけに、最初に漏れ落ちたのは疑問符だった。目を閉じることも忘れて見返す顔は赤くも青くも怖くもない。阿呆面のおれを映す紫の瞳も凪いでいる。ただ、苦いけど身体には良いお薬を無理やり飲み干した時みたいな表情が吐息も混ざる距離にあった。
「えっ‥な、なんでちゅーしたん‥?」
「‥‥今だったから」
「いま?お師さんのタイミング、よう分からんわぁ」
「分からなくても良いよ。君はそのままでいなさい」
「‥はれんちのままでええ、ってこと?」
「だって、僕のせいなのだろう」
「うん?まぁ、そうやね」
「僕以外なら許さないけれど。僕が理由なら、仕方ないよ」
最後はまるで自らに言い聞かせるように囁いて、お師さんはくるりと振り向き歩き出した。繋いだままの手に引き摺られるようにしておれも慌てて足を動かす。時々覗く耳先や頬が微かに燃えている気もしたけれど、すぐに蜂蜜色の日差しに紛れてしまって真偽を確かめる術は無い。どうせ見間違いなら恥じらう時はおれと同じ色が良い。何となくそんなことを願いながら、前を行く春の嵐を追い掛けていた。
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