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ゆい
2023-12-19 13:04:14
2479文字
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愛は降るもの満ちるもの
【宗みか】レゾデ後のパリにて
2023/09/09
【宗みか】愛は降るもの満ちるもの
「お師さん見て!猫ちゃんおる!」
傍らを歩いていた影片が急に声を上げたかと思えば、次の瞬間にはもう走り出してた。危ないも気を付けてもその自由な足音には追い付けず、寸足らずの言葉は唇を僅かに震わせて終わる。少し先の路上にぱっと丸まった背中だけを見つめて、歩くペースは変えずに彼の元へと向かう。どんな人混み中でも見失うことは無い、僕達はお互いの魂の形まで知っているから。
「‥黒猫かい」
「おん!毛並みツヤツヤやねぇ、パリは猫ちゃんまでべっぴんさんやわ」
人馴れしているのか、不躾に影片が背中へ触れても黒猫は逃げることも無くじっと僕たちを見上げている。金の瞳と首の赤以外は、全身息を呑むような夜色の猫だった。無邪気に声を掛け続ける影片が次に頭を撫でれば、夜は掌へ自然な仕草で鼻先を寄せる。ちっとも立ち上がる気配の無い彼の隣へ同じようにしゃがみ込んで、にこにこと綻ぶ横顔を見る。春風が午睡を誘う昼下がり、麗らかな陽光の下で彼等だけが真夜中から迷い込んだようだ。
「お師さんも撫でてみる?このコ、めっちゃ人懐っこいで」
「結構だよ。見ているだけでも十分愛らしさは伝わってくるからね」
「何か意外な感想やなぁ。お師さんって猫好きやっけ?」
「‥黒猫は、好きだよ」
「ふーん。あんた、お師さんに好かれて良かったなぁ。‥羨ましい限りや」
思わず吹き出しそうになって、間一髪のところで何とか耐える。思い返せば彼に直接伝えたことは無かった気がする。僕が好きな黒猫の話、僕にしか懐かない夜の話を。聞かせてあげても良いけれど、どうせ話すなら日差しよりも月明かりの下で。恥じらい怒る君を浴びても許されるのは僕だけだ。
ほわほわと愛でていた声が急に不機嫌になったせいか、されるがままだった身を素早く翻して夜が日溜りに跳ねていく。あ。気の抜けた音が聞こえる頃には、もう黒猫は数多の足音に紛れて影すら残っていなかった。目的を見失ってただ並んで道路にしゃがみ込む不審者になった僕達に、至るところからあからさまな好奇の目が飛んでくる。そろそろ行こうか、そう声を掛けて立ち上がろうとした僕の上着の裾を不意に白い手が引く。音が聞こえそうなほど真摯に縋りついてくる指は、まだ黒猫の消えた方角を見つめ続ける頬よりも白い。
「‥あの猫ちゃん、帰るところはあるんやろか。お腹いっぱい、ごはん食べさせてくれる人はおるんかな」
「あのコは首輪をしていただろう。毛並みも肉付きも良かったし、きっと飼い主に大切にされている筈だよ」
「んあ〜、可愛くて首輪とか全然見てなかったわ。‥でも、良かった。ちゃんと愛してもらえとるんなら」
「そうだよ、まるで君のようにね」
「たとえばお師さんように、やろ」
打てば響くように返ってきた愛の言葉に思わず目を見張れそば、やっとこちらを向いた猫の目がゆっくりと綺麗な弧を描く。してやったりと言わんばかりに満ちる口元も、いつの間にか色付いて綻んだ花の頬も、この広い街で僕一人に向けられている。あの、傷だらけで強がってばかりだった人形が、いつの間にか靭やかなで強かな命になった。望む場所へ駆けていく脚と欲しい物を離さない手を手に入れて、君はこれから人間として生きていく。君が選んだ僕の隣で、僕が望んだ君のままで。僕は、それがとても嬉しい。含み笑いで紡がれた不敬な減らず口さえ、咄嗟に許してしまえる程には。
まだ布地を捕まえていた指を風のように攫って、僅かな隙間も出来ないようにきつく繋ぐ。まだ白いばかりの指は抵抗も拒絶もせずに、それが当たり前のように僕の手を握り返した。
「‥君も言うようになったものだね」
「誰かさんの躾の賜物やで。どこに出しても恥ずかしくない出来やろ」
「調子に乗るのも大概にしたまえ。まだまだ半人前のくせに」
「そりゃそうや。だっておれ、まだ人間一年生やもん」
惚れ惚れするほどの流暢さで影片から憎まれ口が返ってくる未来など、数年前には想像することすら出来なかった。戯言にも満たない遣り取りは花のように積み重なり、やがて泡より淡く弾けて咲く。小声で何か話していたかと思えば、顔を見合わせて急に吹き出した二人に再び様々な視線が飛んできた。嗤いたければ嗤え、僕達の真実は僕達だけのものだ。笑い合う理由も交わし合う意味も二人で探して二人で決めた。凡俗共がいくら僕達を羨んで後ろ指を差そうとも、もう一片たりとも傷ついてやりはしないのだ。
何時も通り締まり無く笑う顔を見ながら、きっと同じくらい緩んでいる筈の自分を想像する。どちらも人目に長く晒すべきものでは無いし何より僕が恥ずかしい。纏わり付いた全ての瑣末を振り払うように温くなった手を引いて勢い良く立ち上がる。それでも繋いだ熱は揺れも乱れもせず、殆ど僕と同じタイミングで僕の傍らに収まった。
「そろそろ僕達の家に帰ろうか」
「帰る前にあそこ寄らん?一昨日行ったサンドイッチの美味しいお店。もう一度食べたいわぁ」
「人気店だから今から行っても売り切れているかもしれないよ」
「それでも行きたい!チャレンジしてみようや!」
「サンドイッチくらい僕が用意するよ。あの店よりよっぽど君の好きな味に作ってあげよう」
「お師さんって本当しっ‥、愛情深いおひとやねぇ」
「今、嫉妬深いって言おうとした?」
返事の代わりに弾けるような笑い声が花の街を華やかに彩る。究める道は違えても目指した場所が同じだとすれば共に往こう。指も心も離さずに、空いた片手には各々が信じる美と理想を携えて。歪に繋がった神様と信徒はちぐはぐなまま相棒となり、今やっと対等な位置で話が出来る。二人を結ぶ糸の名前が愛でも恋でもそれ以外でも構わない。お互いにこの運命を請うて選んだのだから、命尽きる日まで出来るだけ仲睦まじく歌い踊っていよう。願わくは君の望みも何時までも僕と同じでありますように。まだ隣で笑い転げる影片に心の中で願いを掛けて、確かに繋いだ手に力を込めた。
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