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tokeyukumikan
2023-09-05 20:52:39
22204文字
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リンバス腐
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ハックルベリーの証明
アゴニーの救済の補足というか蛇足みたいな話。一応そちらからご覧下さい
またの名をショタ🌇の奮闘記。諸々の地雷に配慮していませんご注意ください
前回言い忘れてましたが⛪️⛈🌇はほんのりR社人格が下地になっています。今回は🪲は殆ど出ません
熱に浮かされながら立った窓辺から立ち上る灰色の煙を見て、私は脳裏に三個目の×を記録する。
刺すような痛みと熱を生む舌先を軽く噛んで、電流のように走り抜けた激痛に強く目を閉じた。これ以上は後がない。
私には母がいた。生みの親を含めて十二人の母親たちがいた。一人の父親を神の代理人として崇めた名もない宗教の一派で、一夫多妻制を採用していたために私以外にも多数の腹違いの兄弟がいたが、全ての母親は『母』という概念で括られそこに優劣も区別もなく、全ては一つの父親の血を継いだ分身であるという認識で、私たちは個ではなかった。髪の色も目の色も肌の色も違う私たちは全て『ムルソー』と呼ばれていた。
「価値のある人間になりなさい」私を生んだ母親の口癖だった。彼女は若さと聡明さゆえに傲慢で、他の母親たちと自分は違うのだといつも呟いては、私に完璧を求めた。他の『ムルソー』たちより賢く、強く、正しくあれと。それが自分の価値になるとでも言いたげに。私はそれに異を唱えることはしなかった。判子を押したように変わり映えのしない日常では他にやるべきこともなかったので。彼女の思惑が叶うとは思っていなかったけど、聞かれなかったから伝えることはなかった。
彼女は聡明であったが純粋で愚かでもあった。価値を証明出来たら一段上に立って、個性のない者たちの羨望を浴びながら神の寵愛を一身に受け取ることが出来るはずだと本気で信じ切っていたのだ。彼女は最も若い母親で、まだ私一人しか子供はいなかった。夢見る少女であったのかもしれない。平等であれ偏ってはいけない、全ての子供は須く神の子で、優劣はない。そこから逸脱して私だけに執心する彼女を、他の母親たちが見逃すはずはなかったのに。
気づけば乾いた井戸の底だった。煌々と輝く太陽が丸い井戸の上から降り注ぎ、すっかり水気のない地面を焼いて倒れ伏した私の頬を焼いていた。身を起こし状況を把握しようと少し首を回すと、誰かが同じように倒れているのがすぐ目に入る。黒い髪に血の気のない白い肌。彼の方が褒めてくださったのだといつも誇らしげに微笑んでいた緑色の眼球は濁り切って、額に空いた穴から溢れた赤が眉間を伝って唇を汚していた。彼女は既に事切れていた。私は半身を起こした体勢のまま、じりじりと容赦なく肌を焼く太陽を見上げる。
告発があった、と全身を打ちつけた痛みと暑さで朦朧とする頭で自分の記憶を掘り返す。
彼女は神を裏切った、そう最初に言い出したのは五番目の母親だ。自身の欲を抑えることができず悪魔の声に耳を傾け、あまつさえ悪魔と交わり、その子供を神の子だと嘯いていると、朝の祈りの時間に暴露した。
五番目の母親と彼女は親しかった。母親たちを格下に見て内心嘲笑していた彼女は、ここに招き入れられた時の教育係であった五番目の母親だけは信頼し、何でも彼女に相談していた。既に四人の母であった彼女はまだ若くエネルギーを持て余していた私の母に親身に寄り添い、生まれ落ちた私を最初に抱いた人物でもあってその信頼は揺るぎないものであった。母の最大の秘密である、私が『父』の子ではないという事実を明け渡してしまうほどに。
母のその時の表情は凄まじいものであった。驚愕、恐怖、失望、怒り、焦り。次々に顔色を変えた母は何かを言おうと口を開きかけたが、何も口にすることなく唇を噛み締めた。悪魔などという非現実的な存在の有無は問題ではなく、自身の行い自体は何も反論できないほど真実であると、聡明である彼女は理解してしまった。傲慢すぎるほどのプライドと自分が誇った価値が彼女自身の首を絞めたのだ。
十一の人差し指、無数の視線、飛び交う罵声の真ん中で矢面に立たされた私たちを神の代理人は円卓に座したまま眺め、そして片手で喧騒を制すと言った。
「彼らの罪は神に委ねよう」と。
回想を終えて現実に戻り、視線を傍らの死体に戻す。太陽を見つめ続けたせいで白く霞む目を擦り、ただ陽に焼かれるだけになった母親だったものを眺める。神に委ねよう、と言った代理人を名乗る男が取った手段が人類が作り上げた兵器での処刑とは、なんともつまらない結論だな、と思った。子供には直接手を下さなかったのは温情か、その価値もないから共に投棄したのか、答えは確認のしようがなかった。陽射しが眩しい。膝を抱えて壁際に寄りかかり、少しでも影になる場所から灼かれ逝く死体を見つめた。
ぼーっとする脳内で一つ×を記録する。段々と悪臭を放つようになるだろう少女の成れの果てを見ながら、『これ』の言う価値のある人間とは何だったのかを考えていた。
私がそこから掬い出されたのは、緑の目が腐り落ちて皮膚が崩れ、蛆虫や名も知らない無数の虫が内側を食い破り、最早生前の面影など潰えたそれの仲間になろうという境界に触れる寸前だった。腐臭に釣られて寄ってきた鼠や虫をも口にし、到底登り切ることの出来ない壁に爪を突き立て、乾き切った土を掘り返してわずかに湿ったそれを口にしてまで生き延びた私はさながら幽鬼のような形相で、たまたま通りかかった運送業の男もまさか生きているとは思わなかっただろう。休憩がてらトラックから下りて異臭に気づき、その原因を追って井戸を覗き込んだりしなければ私は確実に傍らの死体と同じ運命を辿っていたはずだ。私はそこで、無謀な好奇心に救われるものがあることを知った。
極度の脱水と栄養失調に陥った私は数日間を運び込まれた病院で過ごした。その間に幾人もの大人が変わるがわる訪れ何度も事情を聞かれた。私が誰なのか、どうしてああなったのか、あの死体は誰なのか、行く所はあるのか。それらの質問に淡々と答えていたら、いつの間にか私が次にどこに行くのかは決められていた。今の私では行先も自分で決めることは出来ないのだと知った。
私は里親の元に預けられた。
保護局の職員に連れられた私を出迎えたのは酒と煙草の匂いを纏わせた貧相な男で、職員が形式的な会話を始めるのを適当にあしらって追い返すと私の腕を強く掴んで家の中に引きずり入れた。痩せこけた腕は想像よりずっと力が強かった。ふと汚れた窓から視線を感じそちらを垣間見ると、淀んだ目をした子供らがじっとこちらを覗き込んでいた。感情のない瞳で。
家のリビングに当たる場所は煙草の煙で灰色に濁り、空になった酒瓶がいくつも転がって、所々穴の空いたソファには大柄な女が踏ん反り返りながらテレビを眺めている。片手にリモコンを握ったままもう片方の手でスナック菓子の袋を漁る姿は、様相も相まって人間というより怠惰な家畜に近いものに見えた。肩が外れそうなほどの力で男に引きずられる私を一瞥もせず、昼間の通販番組を生気のない目で眺めながら脂質の塊を貪っていた。
黄ばんだ壁の廊下を少し進み、一つの部屋の前まで来ると男は腕を離す。赤く痕の残った腕を摩る私を煩わしそうに見下ろして「お前の部屋だ」と言ったきりどかどかと無駄に足音を立てながらリビングの方へ去って行った。少しの間黙って立ち尽くして、徐に振り返って廊下の突き当たりに顔を向ける。慌てたように数人の足音が遠ざかって行った。遠巻きに覗き見る視線が無くなったことを確認して部屋のドアを開ける。
狭い部屋はほとんどのスペースを古びた二段ベッドが占領し、ちんまりと一応置いてみた、といった勉強机の上には乱雑に子供の服とリュックサックが放られていた。既に誰かがこの部屋を使っているようだった。二段ベッドの下段に私物らしきものが散乱していたため上を使えばいいのかと視線を上方に向けたその時、「おい」と声をかけられる。
振り向くとドアのすぐ側に自分より歳上に見える少年が不機嫌そうに立っていた。廊下には去っていった筈の野次馬たちが戻ってきていてじっと二人を覗き見ている。おいテメェ、語気を強めた少年の声が再び呼びかけてきた。
「人の部屋で何してんだ」
予想は出来ていたがこの部屋のもう一人の住人らしい少年の唸る声に、「ここが私の部屋だと案内された」と答えると舌打ちが返る。あからさまな苛立ちを見せてガリガリと髪を掻き回し、路地裏の鼠のように様子を伺う不躾な視線を遮るように乱暴にドアを閉めた。ばん、よりどかん、に近い音を立てて閉まった扉を見ている私を押しのけ、少年はベッドの下段に腰掛けると私を睨みつける。
「話しかけんな、黙ってろ、俺のモンに触るな。じゃなきゃ叩き出す」
「わかった」
私は頷き、保護局の職員が最低限必要だろうと渡してきた荷物を持って階段に手をかけた。何故か呆気に取られた顔をしている少年を横目にベッドの上段に上り、埃っぽい毛布に顔を顰めながら息を吐く。ここのルールを覚える必要があるが、同室の住人には期待できそうにないな、と思った。
彼の名前はすぐに知れた。その日の晩、食事を配給しに来た大柄な女が「ヒースクリフ」と呼んだのを聞いたからだ。
ヒースクリフはいつも騒動の渦中にいる人物だった。とにかく怒りの制御が出来ず、誰彼構わず衝突しては傷を作り、一応の保護者である二人にも構わず噛みつきに行くので、「躾」という名の折檻を受ける回数はどの子供よりも多かった。紫の目にいつも怒りを宿して周りを威嚇して回る姿はさながら傷ついた野良犬だ。私は彼がどうして飽きることなく常に怒っているのか不思議だった。どれだけ怒りを発露させたところで待っているものは暴力でしかない。
最初に関わるな、と面と向かって告げられたので、同室でありながらヒースクリフとの交流は無に等しかった。そもそも部屋に大人しくいること自体少なく、誰かと争い折檻を受け寒空の下に放り出されている時以外、つまりは食事か睡眠の時くらいしか顔を合わせることもなかったからだ。私は必要がある時以外は部屋の外には行かなかったから、私を避けていたのかもしれない。たまに強かに殴られた後に部屋に戻った彼と目が合うといつも舌打ちされた。私は言われた通りに何も言わなかった。彼はそれが何故か気に食わないようだった。自分で言い出したことだろうに。
空気の澱んだ家で数日を過ごし、私はこの家のルールを大体把握した。この家には私を含めて七人の子供がいて、私ともう一人以外は就学している。料理や洗濯などの家事は十歳以降の子供の仕事で、私たち未就学の子供の役割は『大人の機嫌を損ねないよう息を潜める』ことだった。常にアルコールに浸かった男の機嫌は些細なことで悪化し、目が合ったという理由で殴られることもあった。酒をくすねたとありもしない罪で食事を抜かれた子供もいた。女はそんな夫の蛮行に少しも興味を見せず、一日のほとんどをソファの上で過ごし、食べ物を貪り、つまらなそうにテレビ番組を眺め、そして思い出したように時折子供部屋を巡回しては小さな問題を大きくして夫に告げ口し、折檻される子供の泣き声を聞いて膨れた腹を揺らしていた。
煙草とアルコールと饐えた汗の匂い。家畜の方がよっぽどまともに暮らしているかもしれないと思った。
その日私は庭に出ていた。部屋の澱んで色々な匂いの混じった空気に耐えきれず、曇天で陽が翳っていたこともあって外で読書でもしようと考えたのだ。手頃な場所を探して伸び切った芝生の上を歩き、丁度良さげな木の陰に腰掛けようと近づいた時、既に先客がいることに気づく。
濃い茶色の奔放に伸びた髪が見え、俯いていたその顔が芝生を踏み締めた音に反応して勢いよく上がった。紫色の目は相変わらず怒りを孕んで強くこちらを睨みつけていたが、褐色の肌はよく見れば青白く、額に脂汗が滲んでいる。
「
……
何見てんだよ」
「具合が悪そうだが」
「だから何だ?え?テメェに関係ねぇだろ」
いつものように吠え立てているつもりだろうがその声に覇気はない。全身を観察してみるとどうやら右足に何か支障があるようで無意識に私の死角に持っていこうとしている。歳上の子供の古着は彼には大きいようで、骨ばった足首が見えていたがそこには特に問題はなさそうだったからもう少し上の方に何かあるのだろうと推測した。喧嘩か折檻か、両方か。どちらでも大差はない。
「おい、いつまでそこにいる気だ?とっとと失せろ、?」
苛立ちを露わに威嚇するヒースクリフに近づいて私は彼のズボンの裾を捲り上げた。脛の方の皮膚が大きく捲れ上がって肉を露出させていた。擦過傷。致命傷にはならないが、放置すれば膿むだろう傷。空洞になった眼窩から這い出た蛆虫を思い出していたら掌を強い力で跳ね除けられた。怒りに震える声が叫んだ。
「っにしてんだクソガキ!!」
「治療しなければ膿む」
「だから関係ねぇって言ってんだろ!ぶん殴られてぇのかよ!!」
「関係ある」
「あ゛ぁ!?」
「貴方は私と同室だ。放置した傷が膿んで感染症を引き起こし、そこに蛆が湧くと面倒だし、それを知った彼らの癇癪の被害に合いたくはない」
以前隣の部屋の子供が夜尿した時、夫婦の折檻を受けたのは本人ではなく同室の子供だった。その経験から、ヒースクリフの怪我が悪化した場合の面倒の対価を受けるのは自分の可能性が高いと判断し、予想できた被害を軽減するために私は立ち上がる。何を言っているのか理解できないという呆けた顔で見上げるヒースクリフにとりあえず持ち込んだ本を預け、私は踵を返した。戸惑いを乗せた怒声を置き去りに澱んだ家の中に戻る。
起きていたら少し面倒だと思っていた女は定位置であるソファの上で鼾をかいて眠り込んでおり、私は堂々とその横を通り抜けて戸棚を開いた。強かに酔った男に殴られた子供が額を切って流血した時に、女が苛つきながらここから救急箱を取り出したことを覚えていた。年季の入ったそれを開けて中身を確認して、最低限治療に使えそうなものが揃っていることを視認し外に出る前に、今日の自分の分である昼食用のパンがそのままになっているのに気がついて、少し悩んでからそれも手に取った。
ヒースクリフは不本意な表情でまだそこに座り込んでいた。私が押し付けた本を手持ち無沙汰に捲っていたが、戻って来たのに気づくと慌ててそれを放り投げて誤魔化すように睨みつけてくる。別に疚しいものでもないのに。私は言及せず側に膝をついて救急箱を開けた。明らかに使用期限の切れてそうな消毒液、コットン、ガーゼ、包帯。一つ一つ取り出すたびにそれを視線が追うのを感じた。そのまま足に手を伸ばすと身を引かれたので顔を見上げると、不可解なものを見る目でヒースクリフが私を見ていた。怒りと不機嫌以外の顔を見るのは初めてだった。
「なんだ」
「なん、こっちの台詞だろそれ
…
」
「私の理由は説明したはずだが」
「
…
マジでそれだけの理由で?」
「他に何かあるのか」
「
…
イカれてんのかよ」
「納得したなら傷を出して欲しい。あれが起きだす前に戻しておきたい」
アレ
…
?と何を指しているのか分からず呆けたように呟いた隙にズボンを再び捲り上げた。おい、と咎めるのは声だけで今度は振り払われることはない。軽く検分してから予告なく消毒液を傷口にぶち撒けた時は怒声と共に後頭部を殴られたが、それ以降は大人しく治療する様子を見ていた。傷口をすっかり白い包帯で覆い隠してから顔を上げると、なんとも言えない表情をしたヒースクリフと目が合う。顔色は最初より多少良くなっているように見えた。
「終わった」
「
…
」
「ガーゼと包帯を渡しておくから、定期的に変えるといい。患部の清潔を保てば傷痕も目立たなくなる」
「
…
」
返答は期待していなかったので黙り込んだままの掌に包帯などを落とし、他の物は箱に戻して立ち上がる。この後のことは私の領分ではない。放られた本も拾い上げたところで一緒に持ってきたものの存在を思い出し、治療された自分の足を睨むように見つめるヒースクリフの眼前に差し出した。ヒースクリフはラップに包まれたそれを怪訝そうに見る。
「あんだこれ」
「パンだ」
「いや見ればわかるわ。なんでパン」
「貴方は今日昼食を抜かれた」
「
…
だから?」
「私は必要ないから貴方に渡す」
貴方も必要ないなら捨ててくれ。そう言って手を離すと反射のように受け取ったのでそのまま背を向けた。呼び止める声に怒りは含まれていなかったがこれ以上話すこともないのでそのまま家の中に戻った。この話はこれで終わりだった。危機をうまく回避出来た充足感を覚えていた。
恩を売ったつもりなど欠片もなかったのだが、その日を境にヒースクリフは私を避けるのをやめた。唐突にベッドの上段で本を読む私のところに上がって来たかと思えば「お前名前なんつーの」と問いかけて来て、ムルソーだと答えると鼻を鳴らしてその時は自分のベッドに戻って行ったが、その夜眠る直前にまた声をかけてきた。「包帯変えてくんね」と渡したそれらを片手に。私はそれを承諾した。特に他にやることもなく、拒否する理由もなかったから。
彼は私を少なくとも敵ではないと認識したようだった。少しずつ話しかけてくる回数が増え、私の傍で時間を潰すことが多くなった。私があまりものを食べないのを気にして自分のものを半分寄越そうとしてくるくらいには気を許しているようだった。有り難迷惑だったが。
「ちゃんと食えよただでさえチビなんだから」
「好きじゃない」
「偏食がよ
…
果物ばっかじゃ腹膨れねぇだろうが」
ぶちぶち文句を言いながら自分の分の林檎を差し出すヒースクリフは、そのまま私が嫌だと言った固いパンを手に取って齧り付く。それを横目に熟れ切れていない果実に歯を立てた。広がる甘酸っぱい果汁に、ザリザリとした土の匂いが混ざる。本来そこにあるはずのない味覚を出来る限り無視して果実を飲み込んだ。この味覚の異常は病院で目が覚めた時から始まって、改善の兆しもないまま今に至る。味のない水やパンは誤魔化しようもないほどはっきりと土の味が感じられるので出来れば口にしたくなかった。ヒースクリフには伝えていない。聞かれなかったから。なので彼は私がとんでもない偏食家だと勘違いしたままだった。
一緒に過ごす時間が増えるごとに彼は自分の話をするようになり、私の話も聞きたがった。丘のある村で生まれて、産みの親の顔は知らない。引き取られた家の大人はみんなクソ野郎で、ヒースクリフを馬小屋で生活させて日常的に暴力を振るっていた。ある日その暴力の度が過ぎて殺されかけたが、抵抗し教会に逃げ込んで保護され、この家の里子になったのだと言った。
「逃げるときにあいつの指を一本噛みちぎってやったんだけど、あのまま息の根止めてやりゃよかった」
「欠けた指を見る度貴方を思い出すのは苦痛なのでは」
「あー、まぁそれもいいな
…
お前は?どんなクソを経験してここに来た?」
「クソは確定なのか」
「ここに来るやつなんて全員そうだ。普通の奴がドン引きして見向きもしないガキの掃き溜めなんだよ」
で?お前は?と笑いながら傷だらけの指が頬を摘みぐにぐにと形を変えるのを好きにさせて、私はここに至るまでに起きたことをありのままに話した。井戸に落とされてからの話は曖昧なところもあったが概ね正確に伝えられたはずだが、聞き終わった後ヒースクリフが見たこともない顔をしていたので何か間違えたのかもしれない。彼は少しの間黙り込んで、「
……
お前がデカくなった時にまだそいつらが生きていたら教えろ」とだけ言った。意味はよく分からなかったが私は承諾した。拒否する理由はなかった。
決して平穏ではないここでの生活に慣れてきた頃、家に子供が一人増えた。名前はイシュメール。橙色の毛量の多い髪にリボンのついたカチューシャ、黄味がかった薄い緑の目をした少女だった。雀斑の散った顔を固く強張らせながら家に連れてこられた彼女を窓越しに見て、気ぃ合わなさそと呟いたヒースクリフの直感は当たっていた。彼らはまさに水と油だったのだ。
彼女は倫理も何もない暴力に沈んだ家の中でも一定の規則性を求める性格だった。放置された服や散らかった部屋、個人のプライバシーもなく互いに曖昧な境界線全てが我慢ならなくて、その中でも特にヒースクリフと相性が悪かった。彼の粗暴さや短慮に真っ向から反論し煽り立てるものだから、ヒースクリフも加減なく怒鳴り返しては殴り合いになり、二人揃って外に放り出される日もあった。
「ムカつくんだよあのチンピラ女。中身は俺らと大差ねぇくせに、自分は違うって面しやがって」
ヒースクリフはそう言って腫れた顔を歪ませた。誰と争おうが好きにすればいいと思うが、それで出来た傷は自分で手当てすればいいのにと考えながら顔に湿布を叩き込み、おい雑にすんなと戯れてくる腕を躱し損ねて捕まった。腹に手を回して膝の上に私を乗せた彼は、私の頭頂部に顎を乗せて溜め息を吐く。
「
…
こんなとこでイキがったって惨めなだけだろ」
それを本人に伝えたら今度は鼻をへし折られそうだな、と思ったが口にはしなかった。
家の中の澱んだ空気に嫌気がさして、陽射しの柔らかくなった季節だったので外で読書をしようと場所を探していたら木陰に人影が蹲っているのに気がついた。デジャヴ、という単語が浮かんで消える。ろくに手入れもされていない芝生を踏んで近づくと、いつかの誰かのように勢いよく顔が上がった。目の縁がうっすらと赤らみ鼻を啜って、私が見ていることに気がつくと慌てて目元を擦って眼差しを強める。怪我をしているわけでも体調が悪いわけでもなさそうだった。私はそのままイシュメールの座る木陰の反対側に腰を下ろした。持ち込んだ本を膝の上に広げて当初の目的である読書を開始する。あの夫妻に子供に本を買い与えるという愛情はないが、学校に通うヒースクリフが図書館から借りてきてくれるようになったので随分暇を潰せるようになった。家にあった落書きだらけの古本は全て読み切ってしまっていた。今日は花を中心とした植物図鑑を読んでいる。どんな顔で彼はこれを借りたのだろうかと一瞬気になって、すぐにどうでも良くなった。
暫くただページを捲る音だけが響いた。食虫植物の生態に目を通していた私は不意に目の前が翳ったことに気がつき視線を本から外して、赤らんだ目のまま怪訝そうにこちらを見下ろす少女と目が合う。私には特に用もないので黙って見上げ続けていると、僅かにたじろいだイシュメールは口元をまごつかせ、意を決したように口を開いた。
「
…
ムルソー、でしたっけ」
「そう」
「今日は、あの人と一緒じゃないんですか」
「あの人」
「
……
ヒースクリフ」
「いつも一緒にいるわけじゃない」
そう答えると顔の強張りが解けて、静かに私の隣に膝をついて「何を読んでるんですか」と問いかける。感情が昂った時の苛烈さはヒースクリフと肩を並べるほどだったが、普段の彼女は基本的に歳下に対しては険がない。私はヒースクリフと行動を共にすることが多いために関わってこなかったが、細々と年少の子供の世話をしているのを見かけたことがあった。それが往来の彼女の性質なのか、混沌としたこの家の秩序を少しでも取り戻そうとしていたのかはわからない。興味もなかった。
開いていたページをイシュメールの方に向ける。今は向日葵の説明のページで、それに視線を落とした彼女は小さく微笑んだ。
「植物が好きなんですか?」
「特別好ましいわけではない」
「そうなんですか?」
「これはヒースクリフが適当に借りてきたものだ」
少年の名前を出すと途端に渋面になるが、私に対しては悪感情を持っていないようで声色は柔らかいままだった。
「ムルソーはどうしてあの人と一緒にいるんです?兄弟では、ないですよね」
「ここで知り合った。どうして、と言われても私には理由は分からない。彼に聞いてほしい」
「無理強いされてるんですか」
「違う。ただ近づいてくるのを拒否していないだけ」
「どうして?」
「拒絶する理由がないから」
イシュメールは困ったように眉を顰めて曖昧に微笑む。ヒースクリフも時々する、私の言葉の意味を全く理解出来ないといった表情だった。彼は微笑むのではなく渋面を作るが、意図は同じだろう。
彼女が黙り込んだので私は本のページを捲る作業に戻った。食用にもなる花の説明を見て食べることが出来るだけでその辺の雑草と大して変わらないのではという感想を抱いた時、頭上から密やかな声が降る。
「
…
一人の時にまた、話しかけてもいいですか」
私は頷いた。断る理由がなかったので。
それから私が一人でいる時に限りイシュメールは声をかけてくるようになった。相変わらずヒースクリフとは相性が悪いようで顔を合わせれば罵詈雑言に手足が飛び交ったが、私の元に来る時にはその暴力性を見せることはなかった。彼女が何を求めて自分と交流したがるのか全く分からなかったが、特に問題はなかったので私はそれを受け入れた。
隠していたわけではなかったのでその交流はすぐにヒースクリフの耳にも入り、しかし彼はそれについて苦言を漏らすことはなかった。「あの女が俺の陰口言ってたら代わりに殴れ」と言っただけで、それ以上話題に出すことはしなかった。言動の全てが気に食わないと言わんばかりに衝突を繰り返しているのによく分からないなと思い、しかし私には関係ないので言及はしなかった。自分で殴ってくれとは言ったけど。
ただ何もせず隣にいるだけの日もあれば、彼女の家族の写真を見せる日もあった。船乗りだったという父親と母親と共に写る少女は幸福そうに笑っていた。
「海を見たことがあります?広くて深くて美しくて、何もかも飲み込んで攫って行くんですよ」
白い砂浜と青い海の写真を見せながらそう言う時、彼女の目はいつもここではない何かに憎しみを抱いて燃えていた。海が嫌いなのかと問えば複雑な表情になり、恥じ入るように「今でも波音が恋しい時があるんです」と囁いては拳を握っていた。
身の内にあるかつての幸福や憧憬、それらを失った憎しみや怒りを吐き出したいのだと何度目かに気づいた。私は聞かれない限りは言葉を返さないので都合が良かったのだろう。言葉の意味を理解出来ないほど愚鈍では足りず、聞いてもいない答えを返すようなお節介では駄目で、ただ吐露する感情をそのまま受け取る誰かが彼女には必要なようだった。
かつての幸せな暮らしを語る穏やかさで、如何にここが醜悪な場所かを吐き捨てる苛烈さで、それでも足掻けばどうにかなるはずだと未だ信じている幼稚さで、私にただ言葉を投げてはそれらを自分で拾い直している、そういう交流だった。幸福だった時間の下地がある人間がそれを失い、まるで正反対な暮らしに落ちたらこうなるのだと知った。ヒースクリフと衝突する理由もそこなのだろうなと。それを口にすることはなかった。求められていなかったから。
いずれ虚勢が瓦解し絶望する日が来るとして、私には関係のない話だった。
ハロウィンを数日後に控えた日のことだった。
その日は男の機嫌が悪く、常に苛ついた様子で浴びるように酒を呷っては、視界に入る子供に見境なく怒鳴り散らすという有様だったために子供の殆どは部屋の中で過ごすことを余儀なくされていた。例外は家事当番の子供と、夕飯の買い出しに駆り出されて外に出ている子供だけ。私とヒースクリフは家に残った子供で、私を膝の上に乗せた彼はつまらなそうに窓の外を眺めていた。部屋はほとんどをベッドが占有していたので、ベッドの下段か床に腰を下ろすことになるのだが、どちらにしても合理的に二人が座ろうとするとどうしても体が小さい私が彼の膝の上に乗ることになる。彼は体温が高いので、冷える夜は丁度いい湯たんぽ代わりだった。
高い体温に眠気を覚え始めた頃、家中に響き渡る声で男が「おい!!」と叫んだのを聞いて閉じかけていた目を開いた。常にアルコールに限界まで浸った脳は声の音量を調節する能力すら失ったらしく、馬鹿みたいな大声で怒鳴り散らすこと自体は珍しいことではない。何が見えているのか小汚い壁に向かって延々と喚いていたことすらある。野良犬にすら馬鹿にするなと被害妄想で癇癪を起こす男だった。うるせーな、と頭上で舌打ちが聞こえた。そこまではありふれた日常だった。
呑気に癇癪が治るのを待っていた体が、どかどかと近づいてくる荒い足音を聞いて即座に強張る。ヒースクリフが私の脇の下に腕を差し入れて立たせながら「お前上に、」と言いかけたところで叩きつけるようにドアが開け放たれた。呼気を荒げる男の正気を失った目は一瞬虚空を彷徨い、逃げ遅れた私たちを捉えると歪に弧を描く。その目付きは以前、子供の一人の肋と片腕を折るほど痛めつけた時に見た目と同じ澱み方をしていた。危険だなと思った。矛先がどちらに向くのかが問題で、どちらか片方であることを願っていた。後の処理が面倒にならないように。
「おい、おい!!お前、」壁が震えるほどの無意味な大声に眉を寄せた私の腕を、加減を見失った力で男が思い切り自分の方に引き寄せる。あぁ私かと掴まれた腕の痛みに呻くがそれで己の所業を改めるような男ではない。私を引き摺るようにそのまま部屋の外に出ようとする男の前に、燃えるような怒りを宿した少年が立ち塞がった。ヒースクリフだった。良くない。咎める視線を向けてみても、憤怒に支配された紫の目は私を見ていなかった。ここで抵抗を示したところで被害が拡大するだけで何のメリットもない。私も彼も折檻されて動けなくなったら誰がそれを治療するというのか。冷静になってほしかった。男の苛立ちに呼応するように腕が軋み爪が突き刺さる。男を無闇に刺激するのも憚られて名前すら呼ぶことが出来なかった。
「
…
なにしてんだクソガキィ!?お、俺の邪魔しようってかぁあ!?」
何を理解するにも一拍置かなければいけない男の、奇妙な間を置いて吐き散らされた怒声にヒースクリフは怯まない。ぎちぎちと唇を噛み締めて今にも飛びかかりそうな雰囲気を持ったまま、「そいつを離せ」と唸るように言う。
「代わりに俺が行く」
どこから間違えたのだろうか、咄嗟にそう考えていた。
あの日に蹲る彼をそのまま見なかったふりをして、最初から関係を構築しなければ良かったのかもしれない。誰にも気を許すことなく憎悪を抱えたままの獣でいさせた方が良かったのかもしれない。そうじゃなきゃ今頃、連れていかれる私の代わりになろうなんてせずに窓の外を眺めていただろう。ヒースクリフは変化した。彼が望んだかどうかは関係なく、元から存在していた情の深さをより強めた。
その結果、目の前の人でなしに人並みの心があると錯覚したのだろう。
濁った男と目が合った、認識した瞬間の記憶が飛んでいた。
頭が割れたかと思うほどの痛みと揺れる視界、吐き気を催す私は汚い床に投げ出されていた。身じろぐと側頭部と右肩に鋭い痛みが走る。何が起きたのか把握しきれていない耳に、怒声と殴打の音が届いてぶれる目で音の方を見た。どこか切れたのか滴った赤が視界の邪魔をする。
吠え立て全力で反撃を試みる少年の上に馬乗りになって、男が唾を飛ばしながら拳を何度も振り下ろしていた。片耳から血を流して完全に正気を失い、自分でも何を喚いているのかわかっていないだろう判別不可能な言葉を吐き、痛めつけるを通り越した殺意をそのまま眼下の少年に叩きつける。殺されるだろうと思った。明らかに限度を超えていた。
ゆっくりと立ち上がる。どうやら壁に叩きつけられたらしい衝撃で右肩が外れ、力が入らず使い物にならないことを確認する。頭部の状況はなんとも言えないが軽い脳震盪と裂傷、精々この後瘤になるだろうということしかはっきりしない。顔を上げた。部屋の扉を少し開けて、怯えながら事の行く末を傍観する視線。円卓を幻視したのは頭を打ちつけたせいだ。神などいない。少なくともこの場には。
ふらつきながら近付いて、ヒースクリフを嬲るのに必死で私のことなど眼中にもない男の脇腹を思いっきり体重を乗せて蹴り付けた。そこまで筋力のない私の一撃は油断していた男の手を一瞬止めるには十分で、呻きながら振り向いた澱んだ目に、迷うことなく指先を突き刺す。悲鳴を上げて転げ落ちた男は無視し、息も絶え絶えに見上げてくるヒースクリフの体を引きずろうと引っ張るが、片手ではどうしてもうまくいかない。逃げろ、と言われた気がしたが反応は返さなかった。一体どこに逃げろと言うのか。その機会は既に過ぎ去ってしまった。
男が何事か呟きながら立ち上がるのが見えた。やはり大した時間は稼げなかった。思考する。今からどれだけ被害を抑えられるか想定する。鼓動に合わせて疼く痛みで思考が回らなかった。酸欠か貧血か低血糖か、視界が大きく歪んで、もっと食えという忠告は正しかったな、と思った私に狂人の拳が迫るのがスローモーションで見えた。避けるための足が動かなかった私の横を、橙色が追い抜いた。
彼女が振り抜いたのは傘だった。誰のものかもわからない薄汚れたそれを持って、小雨の降る外に買い出しに出ていたのだと遅れて思い出す。鈍い音を立てて男が再び倒れ込み、イシュメールはそのままその体を傘で殴りつけた。雀斑の散る顔に怒りと憎悪を漲らせて何度も古びた傘を振り下ろす。何度目かに殴りつけた衝撃で傘の芯が折れ曲がってもそのまま両手を振り上げた少女の腹に、メチャクチャに振り回した男の足がめり込んで体が吹っ飛んだ。血走った目が彼女に向いて興奮のままに喚き散らした男の背中に、満身創痍の少年が飛びつく。
血を流す片耳を引きちぎる勢いで掴み肩口に噛み付く少年を無様な悲鳴を上げながら振り払おうと暴れる男の横で、咳き込みながら少女が起き上がった。そのまま再び飛びかかろうと背中を撓ませたその瞳孔の開き切った目がこちらに気づき、釘でも飲み込んだような悲痛な表情で「逃げて」と言う。どこに。再び湧き上がった疑問を吐き出す隙もなく少女は駆け出していった。私は目の前が回りだしていてその場から動くことが困難になっていた。罵声、怒声、悲鳴。肉を打つ音、壁の軋む音、液体が飛び散る音。うるさいな、とぼんやり思う。頭が割れそうで、吐き気がして、なんでもいいから黙って欲しいと思った。陽射しが眩しい、土の匂いがする。回る視界の端に転がる酒瓶を見て、それをあの音の出る肉に力の限り叩きつけたら全てが終わるのではないか、という考えが過った瞬間、ぱん、と軽い破裂音と同時に顔にびしゃりと腥い液体がかかって絡まっていた思考が一気に解けた。どさりと重たい音を立てて目の前に男が倒れ込む。うつ伏せのそこから赤い液体が流れ出て私の足先を汚した。望んだ静寂で耳が痛い。少し顔を上げ、傷の増えたヒースクリフやイシュメールが呆然と座り込み一点を凝視していることに気づく。視線をもっと上に、部屋から覗き見ていた子供らが身を乗り出し見つめるその先に視線を向けた。
他の子供と比べて何度繰り返しても要領が悪く、先日肋と片腕を折られて泣き叫んでいた気弱な子供の手に、硝煙を立ち上らせる黒い拳銃があった。彼の目はどこも見ていなかった。たった今撃ち殺した男さえ興味のない顔で、誰にいうでもなくぽつりと呟いた。
「ーーーこれで明日から殴られずにすむね」
脳裏にまた一つ×を付ける。何が正しかったのかは今でもわかっていない。
毎日のように聞こえていただろう怒鳴り声や子供の悲鳴を無視し続けていた隣人の通報によって私たちは保護された。妻である女は夫が撃ち殺されたにも関わらず、警察が玄関のドアを蹴破るまで定位置のソファの上で高鼾をかいていた。
怪我をしていた私たちは病院に搬送され数日間入院を余儀なくされた。その間にやはり何人も大人が訪れて事情を聞いていったが、答えることなどそう多くはなく、ただ事実だけ伝え続けた。子供の一人が拳銃で男を撃ち殺した。それが全てだった。その子供がどうなったのか私は知らない。
比較的怪我の軽かったイシュメールは早々に動き回れるようになり、肩の脱臼と軽い脳震盪を起こした私、全身に打撲を負って包帯で覆われたヒースクリフの世話を焼いていた。相変わらず顔を合わせれば罵り合うのは変わらなかったが、少なくとも血を見るまで殴りあうことはなくなっていた。心境の変化の理由はわからないが悪いことではないので気にしなかった。私の寝ているベッドを挟んで口論するのも出来ればやめて欲しかったが。
怪我の程度はヒースクリフの方が重度だったにも関わらず私の退院が一番遅く、先に退院していた二人とは離されるだろうという予測は外れ、私たちは同じ孤児院に身を置いた。
企業が母体となって運営しているだけあってそれなりに管理は行き届いており、ヒースクリフが「犬小屋」と呼んだような狭い個室に何人も押し込められることはなくなって、怒鳴り声で目を覚ますことも食事中に殴られる心配をすることもなくなった。過ごす子供の数も増えたのでわざわざ私に構う必要も無くなったと思ったのだが、二人は変わらず私の元へ訪れ、何かと世話を焼いては小競り合いをしていた。だからどうして私を挟むのか。二人でやってほしい。
私に手を伸ばして髪やら頬やらを好きに撫でていく色の違う掌に悪意はなく、彼らは満たされている様子だったし私にも特に害はないので放っておいた。その内に兄弟のようだと言われるようになり、三人セットで扱われるようになって、そうしてとうとう、三人一緒のままあの家に引き取られることになった。
思い返せばこの頃が最も平穏だったかもしれない。私の長くはない人生の中で。
犬小屋から随分格式が上がったその家は、しかし独特の息苦しさを覚える場所だった。三人の子供が増えたところで充分な広さを持つ家の中は、常に誰かの視線に晒されているような落ち着かなさを感じ、それはどうやらヒースクリフもそうだった。彼はそもそも大人への不信感が尋常ではなかったので、夫妻への嫌悪で全てが気に食わなかっただけかもしれない。イシュメールは違和感を感じていないようだった。ただそれは彼女が特別鈍感だったわけではなく、自分の常識が全く通用しない混沌とした汚泥から這い出てようやくまともに生活できると信じたかったからだろう。全幅の信頼は置けなくても、補助金目当てに次々と子供を引き取っていたあの夫婦とは違って裕福な彼らが、わざわざその地位を脅かすような真似はしないだろうと。
彼らが人間ではないと知っていたなら、イシュメールだって油断しなかったはずだ。
最初の一ヶ月は何も起きなかった。夕食は必ず一緒に取らねばならなかったが、それ以外は多忙らしい夫妻と顔を合わすこと自体少なく、好きに使っていいと渡されたカードを生活費として自由に過ごせた。イシュメールとヒースクリフは新しい学校に通い始めて忙しなく、家に一人きりの時も多かったように思う。苦ではなかった。視線が鬱陶しくても庭に出てしまえばそれもなく、私は以前と変わらず木陰で本を読んで過ごした。
事の発端は二人がアルバイトをしたいと夫妻に申し入れた夜のことだった。少し前から子供達だけで話し合っていたことで、とにかく二人の視線が嫌だ不気味だと訴えたヒースクリフを宥めるようにイシュメールが提案したことだった。十八歳になればここを出て、三人で暮らせるようになる。そのために今から資金を貯めて、それまではここで大人しくしていようと。一人暮らしをすればいいのではと私は思ったが二人はその意見で合意し、彼女は私の頬を両手で包み込みながら言った。
「三人でいるために、ムルソーも出来る範囲で協力してもらえますか?我慢しなきゃいけないこともあるかもしれないけど、出来る?」
黄緑色の目は懇願していた。その後で紫の目も同じような不安を抱えてこちらを見ていた。私は頷いた。想定は曖昧だったがやることはシンプルで、出来ないこと以外をすればいいだけだったから。二人は笑いながら私の髪をぐしゃぐしゃにした。視線は常にそこかしこにあった。
二人の提案に、夫妻は難色を示した。何故かその日は最初から不機嫌そうだった、と記憶している。基本的に私たちのやることに干渉も興味も持たなかった夫妻は、「お金には困っていないはずだ」「ここには子供を雇ってくれる店も多くない」「遅くなったら危険だ」などと並べ立て、その一つ一つに理由と解決策をイシュメールが提示しても納得しなかった。怒鳴りも喚きもしていないが、私はそれを見てかつての癇癪を思い出していた。背中がザワザワと落ち着かなかった。歯を立てたサラダは泥の味がした。
根気よく説得を続けた結果、夫の方が唐突に微笑んで言った。
「そこまで言うなら考えてみよう。その前にもう少し話がしたいから、夕食後に二人で寝室に来てくれないか」
妻は何も言わずに隣でワイングラスを傾けていた。その唇が僅かに弧を描いていたことを伝えるべきだったのだろうか。いや、大して結果は変わらなかっただろう。
食事を終えて風呂にも入り終え、私は先に眠っているようにと自室に戻された。二人はそのまま夫妻の寝室に連れて行かれた。いつもであれば言われた通りにベッドに入って目を閉じていたはずだが、その日は纏わりつく視線がどうにも耐え難くて、私は部屋の中を歩き回って視線の在処を探してしまった。窓、本棚、鏡、花瓶。部屋の中にあるものを手当たり次第に手に取り、入り口近くの棚の上に置かれた草臥れたクマのぬいぐるみを持ち上げた時、違和感に気づく。
クマの目に使われているのはボタンやビーズではなくガラス玉だった。覗き込むように見れば黒く見えるそれの底に、何か光るものが確認できる。それは時折赤い光を点滅させた。機械だ。何の?種類より理由が重要だと思考を変える。何のための機械だ?私は何を探していた?視線だ。答えは既に出ていた。
いつからここにあったか、最初からだ。私たちが迎え入れられた初日からこれはここに置かれていた。家のあちこちにこれと同じようなぬいぐるみが置かれているのを思い出す。視線。視線。視線。どこにいても追いかけてくるそれ。視線だけだったのだろうか。声は聞いていたのだろうか。もしそうなら、あの会話も筒抜けていたのではないか。夕食の席に現れた私たちを不機嫌そうに眺めた視線を思い出して、私はぬいぐるみを放り出して部屋を出た。
寝るつもりでいたために素足のまま、視線を振り切って夫妻の寝室へと歩いた。妙な胸騒ぎがしていた。首の後ろがザワザワして扉へ伸ばした手が少し震えた。本能だったのだろうか。私はゆっくりとドアノブを回した。
部屋の中は暑かった。鼻を突き抜ける鉄錆の匂いを感じ、苦しげに歪んだ顔のイシュメールと彼女を拘束する女と目が合った。その向こうで血に塗れたヒースクリフの頭を掴み上げている男が見えた。何が起きているのか一瞬把握出来ず立ち尽くす私の耳に、来るなと叫ぶ二つの声が響く。反射で片足を引いて部屋を出ようとした私は、しかし容赦なく顔面を床に叩きつけられたヒースクリフを見て再び動きを止めた。水気を含んだ酷い音だった。彼の周りには血溜まりが出来ていた。その姿が死んだ男やかつての母に重なる。暑い。
「ムルソー、おいで、おチビちゃん」
猫撫で声の手本として教科書に載りそうな声を出した女に視線だけ向ける。女は嗤っていた。その手にカメラを持って嗤った。虫を嬲る子供のような顔だった。
「あなたは賢いから、言っている意味、わかるわよね?」
私は促されるがまま部屋の中を進んだ。がりがりと絨毯を引っ掻く音やイシュメールの絶望したような顔を横目に蒸した部屋を突っ切り、煌々と燃える暖炉の前に立つ男の目の前まで来ると、そいつは奇妙なほど優しげに微笑んだ。赤く染まった指先が頬を撫でたかと思うと、急に顎を掴まれて体が浮いた。ぐちゃりと足先が濡れた絨毯に触れて不快だった。身長差で爪先立ちになり呼吸が不自由になった私の耳に唇を寄せて、男は「ゲームをしよう」と囁いた。何の、と聞き返すより先に、赤い指先が真っ直ぐ炎を示す。オレンジ色の炎が燃える暖炉。掴まれた顎が解放される。暖炉を見て、男を見る。嗤う顔。確証を持てないまま炎へと近づいた。あつい。
それだ、と男が顎をしゃくる。男の視線の先には暖炉に突き刺さる火かき棒があった。それを引き抜けと言うのに従って掴み上げた。先端が赤く燃えていた。熱にうかされてぼんやりその赤を眺める私の耳に、女の甲高い声が届いた。
「どっちがいい?ねぇ。あなたとヒースクリフ、どっちがそれを“口に”する?」
一瞬、全ての音が遠ざかった。耳に蓋でもされたみたいに周囲の音が反響して、自分の鼓動の音だけ近くなる。赤い鉄、踏み付けられた子供、嗤う男、踠く子供、その頬を張った女、暖炉の火。一つ一つがシャッターを切るみたいに千々に記憶されていた。熱に溶け始めた脳裏に誰かの声が蘇る。
「賢くなりなさい、搾取されないように」知識だけでは逃れられない。
「強くなりなさい、虐げられないように」それだけの力を得る時間が不足している。
「正しくなりなさい、裁かれる事のないように」正しくないものが審判を下すなら、その正しさに何の意味がある。
「価値のある人間になりなさい。証明しなさい。あなたがただ一人、代え難い存在なのだと知らしめるの」ーーー誰に。
黄緑色と目が合った。遠い誰かの声を遮って、少女の祈りの声を思い出した。「三人でいるためにーーー」
鉄の棒の上下を入れ替えた。真っ赤に燃える鉄芯を顔の前まで持ち上げ、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべる大人たちに言った。「これを口にしたら、二人を離してくれますか」どうなるかなんてわかりきっていたが、その時の私に恐怖心はなかった。選択肢などないあの状況で、それが最善であると理解していたから。
醜い嗤い声をあげた大人の承諾を聞いた後、熱源を口内に招いてそれが舌先に触れた後の記憶は、殆どない。脳が弾け飛ぶんじゃないかと錯覚した程の衝撃、全身から汗が吹き出して、溶けた、と感じた気がする。ゾッとするほどの熱がそこから這い上がり喉の奥まで来るような危機感を覚えた気もするが定かではない。どうやらそこで、私は自分の舌先を噛み切っていたようだった。
誰かが私の背に触れたような、名前を呼ばれたような、顔を上げさせられたような曖昧な記憶が断片的に残っていたが現実だったのかわからない。何かが叩き潰されるようなぐしゃり、という音を最後に、私の記憶は一度完全に途切れている。
意識が戻った時、私は自室のベッドの上に寝かされていた。夜が明けて朝日が開いた窓から覗いていた。燃えるように体が熱く、刺すような痛みと疼きが口内を襲い、それらを振り切るように上体を起こすと血の気が引いて目の前が白く霞んだ。息をするのにもいちいち痛みが走る。何が起きたのか把握するのに時間がかかった。記憶が飛んでいる。あのあとどうなった。二人は、どこにいる?
開いた窓から吹き込んだ風がレースのカーテンを揺らし、鼻先に灰の匂いを僅かに届けた。顔を上げる。ベッドに足をついて、立ちあがろうとした瞬間強い目眩に襲われて床に倒れ込んだ。脳髄を痛みが灼いた。唇を噛み締めたが間に合わず、迫り上がったものをぶち撒ける。殆どが胃液で、所々に血が混じっている。掃除をしなければいけなくなったと憂鬱になった。立ち上がり、窓辺に近寄って外を見る。
灰色の煙がゆるゆると立ち昇っていた。私の部屋から見える庭先には焼却炉があり、それが何かを燃やしているようだった。イシュメールとヒースクリフがその前に立ち尽くしているのが見えた。轟々と燃え上がる炎の中に、二人は協力しながらが何かを投げ込んだ。真っ赤に染まったその布の塊から一瞬見えたものに、私は事の顛末を悟る。肌色、血の気を失った誰かの腕。×だ。三個目の。舌先に歯を立てた。全身を劈いた激痛に強く両目を閉じて、思考を巡らせた。もう後がない。何も間違えることはできない。吐き気が戻ってきた。蹲る。考えろ。考えろ。選んだのなら、価値を証明しなければ。
二人は日常を取り戻そうとしていた。しかし私の欠落を見る度に思い出し、怒りと憎悪と焦りを抱いて再び衝突を繰り返すようになった。手負の獣のように周囲を警戒し、誰にも心を許さず、責任の所在を持て余して疲弊していた。
私は二人が呼んだ老医者の治療を受けて、日常生活を送れる程度には回復した。介護食か離乳食かという溶けた食べ物以外をうまく摂取出来なくなり、頻繁に体調を崩すようになったが大した問題ではない。土の味が血の味に変わったのは僥倖だった。食事の苦痛が少し軽減されたから。食べて、体力を戻さなければならなかった。
二人はまだ時間があると思っていたが、私はそう思わなかった。夫妻の寝室で見つけたパソコンの中身は悪趣味な犯罪者たちの商品棚で、その取引の数からして商売の規模は個人の域を超えているだろうことが容易に予測できた。彼らの不在を疑問に思った者がここにやってくるのはそう遠くはないだろう。実際、遠巻きにこの家を監視する視線の数は徐々に増えていった。
考えていた、ずっと。一番被害を抑えられる方法、生き延びる方法、「三人でいる」ためにはどうすればいいか。
すぐ手を下すことはないだろうと、監視を続ける人間たちを観察して推測した。彼らは慎重だった。何か行動を起こすとしたら直接ではなく、誰か他人を寄越すはずだ。それがチャンスだ。恐らく最後の。
情のない人間では駄目だ、狡猾すぎる人間も良くない。人並みの倫理観を持って、それなりの知性を持った、好奇心に誘われてくれる愚かさがあればなおいい。パン屑か、ガラス玉か、どちらが良いだろう。うまくやらなければ。失敗は許されない、もう二度と。
三ヶ月後に好機は訪れた。閉ざされた門の向こう側、呑気に手を振る眼鏡の男が、予想通りに動いてくれることを願った。何かを無防備に願ったのはこれが最初で最後だった。
暑さを感じて記憶から浮上した。太陽が燦々と輝いていて眩しい。
背後の小さな一軒家からは大人と子供がわいわいと何やら揉めている声が響き、しかしそれは危機感を覚えるものではない。私は少し日陰に身を寄せてから再び目を閉じた。
私の目論見は、半分失敗し半分成功した、と言えるだろう。落とした目印を拾い集めて核心まで辿り着いた大人は、私たちに同情した様子で、しかし己の領分を弁えていた。「終わらせる」と言ったその目は揺るぎなく、私もその場で覚悟を決めた。
後がなかった。ここでグレゴールが依頼人に報告し手を引けば、私たちは恐らくもっと碌でもないことになるとわかっていた。今更法的機関に助けを求めたところで出来ることなど限られており、まだ直接は誰かに危害を加えた事のない自分と違い、二人は既に言い逃れ出来ないところまできている。引き離されるだろう。私は保護され、二人は少年院ならまだマシで、今か今かと手を拱いている連中に渡れば、もう私ではどうにもならない。
だから隠し持っていた引き金を躊躇なく引いた。迷いはなかった。許されなくていいと思った。どれだけ私たちの存在が軽視されようと、第三者が死んだら無視も出来ないはずだから。グレゴールが連れてきた同僚たちがそれを証明してくれると思った。人殺しになっても、人でなしのところに行くよりはずっとマシだと思った。三人でいたいという祈りに、私は頷いたから。
銃の整備不良、私の経験不足、彼の義手。その三つの要素が重なり、結果的にグレゴールは死ななかった。予想以上に強かった反動に呆然とする私の銃を取り上げて、いつも労るような笑みを浮かべていた大人は眦を吊り上げながら怒鳴った。
「あっっぶねぇだろ死ぬ気か!?何考えてんだ!!」
貴方こそ何を言ってるのか、死ぬところだったのはそちらだ。そう言い返すより先に、騒ぎを聞いて駆け込んできたイシュメールの「何してんだテメェ!!」という怒声と共に振り抜かれた拳が突き刺さり、吹っ飛んだ先で脳天に本の直撃を受けた大人は昏倒した。部屋の入り口でヒースクリフを押さえ込みながらその一連の流れを見ていた同僚の大人たちは、心配するどころか指差しながら大笑いし出して私たちの方が困惑していた。
その後は瞬きの間に事が進んだ。気絶したグレゴールを病院に運び、慌ててやって来た時計頭の彼らの上司に驚き、彼の声を私たちが聞き取れることにもっと驚かれた。《何で!!?》などこちらが聞きたい。彼らは私たち一人一人と話をして、目を覚ましたグレゴールを交えて話し合っていたかと思えば、ごく当たり前のように言った。《私たちに依頼してみない?》と。
依頼の内容、私たちの処遇についての交渉は、殆ど全て彼らの事務所が代行してくれたために私たちがしたことは多くない。結果が出るまでの滞在先も生活費もグレゴールが負担した。それだけでもどうしてここまでやるのかと思っていたが、彼が交渉の結果を知らせると共に「あー、あの、嫌じゃなかったらでいいんだが」という前置きをして、私たち三人の保護者になりたいと言い出した時は、打ちどころが相当悪かったらしいと三人で哀れんだ。病院に戻れという私たちに自分は正気だと必死に言い募った大人は、あれよあれよという間に諸々の手続きを済ませ、正式に私たちの保護者になってしまった。
勝ったのだ、と閉じていた目を開く。芝生の向こう側、揺らめく地面に横たわる洞穴を見ても何も感じない。己の息子を通して、自らの価値を証明したかった少女の亡骸は今でも井戸の底だ。ひび割れた地面の上で腐り続けている。
私の勝ちだ。今朝ここに来る前、たまたまつけていたニュース番組、とある宗教団体の施設が丸ごと燃えて、中にいた全員が死亡したと報じていた。大人も子供も全て、見分けもつかない灰になった。悪魔の子は生き延びて、神の子らは死んだ。
短くなった舌先に歯を立てた。じんわり全身に回る疼痛と鉄錆、甘いミルクコーヒーと混じり合ったそれは笑えるほど不味かった。それでも欠ける前よりずっとマシだった。
個のない区別のない誰でもない取るに足らない果実は、三つの×と無数の灰を超えてようやく自身の証明を終えた。向こう側で腐臭を放ち続ける誰かに微かに微笑んで、たった一人のものになった呼び声を聞いていた。
「ムルソー!」
私の価値だ。
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