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tokeyukumikan
2023-09-01 14:26:30
38448文字
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リンバス腐
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アゴニーの救済
血の繋がらない兄弟⛪️⛈🌇と🪲+🚌組がすったもんだするパロ話です。一応カプ要素なしですが書いてる人が腐ってるため腐タグつけてます。
当然のように年齢操作しています。アホほど長い
設定ガバ、虐待描写、倫理観の死んだモブ、すごい喋るモブ、犯罪描写などあらゆる地雷が潜んでる可能性がありますご注意ください
『舌先が溶けるように焼け落ちて、永遠に残る傷跡を見た私達は、その痛苦を何倍にも返さなければならないと迷いなく決めました。』
一台のタクシーから男が降り立つ。厚手の青いコートを羽織った明るい茶髪の男は凝り固まった身体をぐっと伸ばし、運転手ににこやかに代金を手渡し、タクシーが立ち去るのを見送ってから正面に視線を向けた。
立派な門扉と広い庭、白を基調とした二階建ての豪邸は柔らかな陽射しを浴びてサングラス越しでも目を焼くようだった。職業柄こういう場所に来るのは初めてではなかったが、その度に己の小さく狭い自宅のアパートの一室を思い返し少し虚しくなってしまう男は、去来した侘しさを振り払い門に設置されたインターホンを押そうとして、視線を感じて顔を門の内側に向ける。
門から少し離れた庭の芝生の上、黒い髪と白い肌をした、昏い緑の目の子供がじっと男を見ていた。眩しいくらいの生白い華奢な両腕に分厚い本を抱いて、白いマスクで口元こそ窺えないが、感情の浮かばない無表情でただ見ているだけの小さな子供に、男はへらっと気の抜けた笑みを浮かべて手を振る。警戒心を和らげようという男の挙動に、子供は何の反応も見せなかった。視線は透明かつどこか曖昧で、他者を認識しているかも定かではない。
「こんにちわ、坊主。ここの子か?」
「
…
」
「兄ちゃんか姉ちゃんいるか?ちょっとお話があって来たんだが」
「
…
」
「
…
あー、怪しいもんじゃないって言ってもなぁ
…
あ、飴食べる?ちょっと待ってなこの前貰ったやつが確かここら辺に、」
「おい!」
いつかに貰ってコートのポケットに入れたままにしていた飴玉の存在を思い出し、わさわさとポケットの中身をひっくり返す男に、少年と青年の中間、大人になりきれていない粗暴な声が投げつけられる。視線を子供の方に向き直すと、豪邸の影から庭を突っ切って浅黒い肌の少年がこちらに向かっているのが見えた。刺さるような警戒心を全身に纏い怒りに眦を吊り上げ、大股で歩いてくると小さな子供を背に庇うようにして男との間に立ち塞がる。子供は無垢すぎる目で少年を一度見上げ、やはり何も言わずに男に視線を戻した。少年のいっそ憎悪とも呼べるほど苛烈な輝きを宿す紫色の目に睨まれた男は困ったように肩を竦め、それを見た少年は怒りをより強める。
「何してんだおっさん、警察呼ぶぞ」
「いやいや、俺は怪しいもんじゃないって」
「不審者はみんなそう言うんだよ」
「賢い!その通り!だけど俺はマジで無罪だ、ちゃんと理由があってここに
…
」
「お前先に中戻ってろ」
「ぜんっぜん話聞く気ねぇな??」
少年に肩を押された子供は何も言わず、しかし抵抗を示すように少年のシャツの裾を掴んだ。怒りを孕んだ紫の目に見下ろされても怯みもせず、本を胸に抱いたまま少年の腹部に寄り添うように抱きつく。敵意に満ちていた少年の横顔に動揺が広がり、その混乱の元である子供の緑の目は奇妙なほどに温度のないまま男を捉え続けていた。刺すような視線より余程突き刺さるそれに思わずたじろいだ時、視界の端で橙色が踊る。
「
…
何か御用ですか?」
豪奢な扉から現れたのは、少年と同じか少し上くらいの、利発そうな少女だった。ふわふわと長い橙色の髪をリボンで留め、薄い黄味がかった緑色の目に疑心を乗せて、雀斑の散る鼻筋に小さく皺を寄せる少女から発せられた声は固い。男は苦笑しながら、害はないと示すように両手を上げて言った。
「どうも、連絡来てないかな。“ご両親”のことで」
少年と少女が各々顔を歪めたり視線を鋭くしたりなどの反応を見せる一方で、まぁるい緑の目の子供は瞬きしただけで一つも揺らがず、それがやたらと男の記憶に残っていた。
馬鹿みたいに広いリビングに通されソファに腰掛けた男はグレゴールと名乗った。へらへらと力の抜ける笑みを浮かべているくせに、まだ幼いからとそれとなく子供を離れさせようとした少女の思惑には乗らず、「ちょっと話がしたいだけだから。それとも後で二人で話そうか?」と言われてしまえば無理に遠ざけることは出来なかった。子供を自分と少年の間に座らせて、少女は漏れ出そうになった舌打ちを噛み殺してグレゴールに向き直る。
「
…
自己紹介とかいります?もう知ってるんじゃないですか?」
あからさまな敵意こそ隠しているが硬質な拒絶はしまいきれていない幼さに見ないフリをして、グレゴールはあくまで穏やかに答えた。
「
…
あんさんがイシュメールだな?一番歳上のお姉ちゃんだ、しっかりしてる。さっきから噛みつきそうな顔で睨んでくるのがヒースクリフで、無口なおチビさんがムルソー。風邪でも引いてるのか?大丈夫か?」
「刺激に弱いんです。いいから本題に入ってください」
「その前に一つ。俺は依頼を受けてここに来たが、あんたらの敵じゃない。仕事をしたいだけだ。協力してくれりゃすぐ終わるし、そうじゃなきゃ俺はいつまでもここに通うことになる。お互いのためになることをしようって話だ、理解出来るか?」
「何を偉そうに、」
「わかりました。出来る限り協力しますから、要件を」
声を荒げ立ち上がりかけたヒースクリフを制し、イシュメールは淡々と繰り返す。何故止めるんだと言いたげに顔を向けた少年にキツい眼差しを返して、ほんの一瞬視線だけで己の隣を指し示した。周りのごたごたを意にも介さず、小さな背中をピンと伸ばし、空に視線を彷徨わせて両足を揺らすムルソーを見たヒースクリフは、ぎり、と歯を軋ませながら座り直す。不機嫌を全面に出し行儀悪く両足をガラスのテーブルに放り出すように置いたためにけたたましい音が鳴って、義務的に用意された紅茶のカップが揺れ中身が少し飛び散った。はぁ、と少女は溜め息を溢して顳顬に指先を置く。頭痛を堪えるように。
その一連の流れをじっと見つめていたグレゴールが、ほんの少し両目を細めながら無精髭を撫でつつ説明を始める。
「ここの主人である夫妻、あんたらの養育者が連絡を絶って三ヶ月が経った。夫妻の親族からの依頼で二人の消息に関する情報を集めてる。もう散々聞かれたと思うけど、改めて聞きたい。最後に二人を見た時のことと、どこに行くか話してなかったかどうかを」
「覚えてねぇ」
きっぱり言い切るヒースクリフにうんうんと頷いて、「少しも?」と念押しのように尋ねるグレゴールに対し、回答はイシュメールが引き継いだ。
「元々行先を告げるような人達じゃありませんでしたから。朝起きたときにはもういなくなってましたし、それから連絡もありません」
「その前の晩とかはどうだ?それらしいこと聞いたりしなかった?」
「いいえ。そもそもその時はこの子の体調が悪くて、私もヒースクリフもそれにつきっきりでしたから、会話したかどうかも覚えてないですよ」
「へぇ、病弱なのか?」
「
…
それが何か関係あります?」
「いいや、個人的に気になっただけだよ
…
おチビさんはどうだ?何か覚えてたらおじさんに教えてくれないか?」
ここまで一言も発していない子供の目線に合わせるように上体を屈めたグレゴールを、無機質な緑の目が平坦に見つめた。マスクのせいで半分以上表情が隠れているにしたって、あまりにも感情のない真っ新な目をしている。会話の内容を理解していないのか。それにしては理知的な雰囲気が子供を覆っていてグレゴールは困惑した。明確に拒絶や怒りを向けてくる上の姉弟より、ただ無言を貫く小さな末の弟の意図が掴めず、どうするべきか対応に困って後頭部を掻き回す男がもう一度口を開く前に、クシュン、とムルソーがくしゃみをした。小さなそれは連続で二度続き、歳上の姉弟が同時にお互いに視線を寄越すのグレゴールはしっかりと見ていた。
「すみません、まだ本調子じゃないみたいで
…
話の途中ですけど休ませたいんですがいいですか?」
「あぁ気にしなくていいって、こっちこそごめんな無理させて」
「ありがとうございます。ヒースクリフ」
「ん。ほらチビ」
名前を呼ばれる前には立ち上がっていたヒースクリフが両脇に手を差し込み小さな体を抱き上げる。猫の子のように脱力してされるがままに持ち上げられたムルソーは、ぐしぐしと鼻を鳴らしつつ大人しく兄の首に両腕を回した。そのままリビングを出ていく子供に手を振ってみたが、案の定何のリアクションも返ることはなかった。
「一応熱があるか確認してくださいね」
「わぁってるよ」
「おやすみなさい、ムルソー」
慈しみの籠ったイシュメールの声に小さな掌を控え目に振ってみせて去っていった二人を見送り、若芽の色をした両目がすっと表情を無くしてグレゴールに向き直る。兄弟たちに向けた柔らかな空気は霞のように消えていた。
「他に聞きたいことありますか。別にもう話せるようなことないですけど」
「んーそうだなぁ
…
」
「特にないなら帰ってもらってもいいですか」
「んー
…
あ、そうそう、あと一個だけ」
「どうぞ」
「夫妻とそんなに仲が良くなかったのか?」
少女の表情は目に見えて変化することはなかった。「どうしてそう思ったんですか」という声の固さも、無粋に踏み込んでくる他人に対するものと思えばそう不自然ではない。グレゴールはヘラリ、と笑って続けた。
「いやさ、最初から今までにあんさんらの口から夫妻の安否を気遣う言葉が出てこなかったから、あんまり心配してないのかなって思ったんだ。邪推だったらすまん」
「
…
仲がどうこうという話になる前にいなくなりましたから、そこまで心配してはいないかもしれません。薄情かもしれませんけど。
ただ、三人揃って引き取っていただいたことには感謝してます」
「ここに来る前から姉弟みたいな感じだったわけだ」
「
…
そうですね」
「そうか
…
うん、今日はこれくらいでお暇するよ。ありがとうな」
「また来るんですか」
「それが仕事だからなぁ。二人にもまた来るって言っといてくれ。弟さん、早く良くなるといいな」
「
…
お気遣いどうも」
すっかり冷め切った紅茶をぐいっと飲み干して立ち上がったグレゴールが笑っても、少女が笑顔を返すことはなかった。
豪邸を後にしたグレゴールは帰りのタクシーを拾うために大通りの方に歩き出して、ずっと我慢していた煙草に火を点けた。独特の匂いと苦味を肺いっぱいに吸い込んで、重い溜め息と共に吐き出す。屋内に入った時に外したサングラスをかけ直す気にもならず思考に沈みながら暫く歩いていると、コートの胸ポケットが微細に震える。殆ど無意識にそこに手を伸ばして指をスライドさせ耳元に押し当てると、陰鬱を吹き飛ばすような明るい同僚の声で『はぁいグレッグ〜調子どう?』と呼びかけられたので少し肩の力が抜けた。
「あんたは元気そうだな、そっちの仕事は終わったのか?」
『簡単なお迎えの依頼だったからね〜後は報告して終わり!そっちは?』
「あー、思った以上に厄介かもなぁこの案件
…
」
『人探しだっけ?』
「そうそう。金持ちの慈善家夫婦の失踪」
グレゴールはとある小さな事務所に所属している。迷子探しから要人の護衛まで、依頼されたらある程度何でもこなす便利屋のようなものだ。奇妙な炎を纏う時計頭の所長の元で働き始めて数年、給料が素晴らしく高いというわけではないが、困窮しない程度には繁盛している。
今回の依頼主である失踪した慈善家夫妻の親族を名乗る夫婦は、そこまで規模の大きくない事務所に依頼してくるには身なりの良すぎる服装で、本当にここで合ってるのだろうかという疑心を隠せずそろそろと事務所の扉を開いたのが印象的だ。人伝にここの評判を聞いたのだと言って、落ち着きなさそうに終始ソワソワと髪を触ったり足を揺らしたり、言い方は悪いが随分小心者だな、というのが素直な感想だった。
人とのコミュニケーションをするのに通訳を必要とする所長に代わり、依頼人の応対はファウストかウーティスが行い依頼を受けた後に適正のある者に割り振るという手順を踏むのだが、今回は二人が別件で不在だったためにグレゴールが話を聞き、そのまま依頼自体も引き受けることになったのだ。
曰く、三ヶ月前に消息を絶った夫妻の安否を調べてほしい、と。
「三ヶ月も連絡一つないのに大事にしたくないからって、警察に言ってないって時点できな臭いなとは思ったんだけどさぁ
…
」
『今日は子供達に会いに行ったんでしょ〜?なんか手掛かりとかなかったの?』
「違和感がデカくなっただけだなぁ。すげぇ警戒されてさ、深くまで掘れなかった」
『怖がらせちゃったんだ』
「というよりあれは、」
話ながら歩いているといつの間にか大通りまで出ていたことに気づき、一度そこで言葉を切って丁度見えたタクシーに片手をあげる。緩やかに減速し止まったそれに乗り込みつつ、『グレッグ〜?』と呼びかけるロージャに運転手に行先を告げた後応えた。
「とりあえずもう少しあの家族について調べるよ。手が空いてたらあの子供たちがここに来る前何してたか調べてみてくれないか?」
『奢ってくれる?』
「あ゛〜
…
これが片付いたらな
…
」
『やった〜♪じゃあまたね♪』
「はいはいまたな
…
」
上機嫌に笑う同僚の明るい声に苦笑しながら通話を切ると、ミラー越しにこちらを見た壮年の運転手が「奥さんですか?」と聞いてきたのに端末を取り落としそうになる。恐ろしいことを言わないでくれと冷や汗を浮かべて「同僚だよ」と返し、ふと思い立ってこちらからも質問を返した。
「なぁ運転手さん、向こうの丘の上の方にある豪邸知ってるか?」
「えぇ知ってますよ、有名ですからね」
「有名?」
「ここら辺で一番の資産家だってのもそうなんですが、あの夫妻は熱心な慈善家で、特に身寄りのない子供たちを一時的に引き取って里親を探すってのをやってて、ここ数年で何人も送り出してるみたいですよ」
「へぇそりゃ、立派なもんだ」
「最近はお姿をとんと見かけませんけど、忙しい方達ですからねぇ」
「
…
里親に出されてった子供たちは今どうしてるかとかは流石に?」
「そこまでは何とも。でもきっと良い家庭に貰われたはずですよ。あんなに立派な人達に世話してもらったんだから」
そうかい、と返してグレゴールは胸元に刺したままにしていたサングラスを掛け直して窓の外に視線を移す。目を焼くような豪邸。きっと値を張る美術品や立派な額縁に入れらた夫婦の写真、大人二人に子供三人がいてもまだまだ余裕のある広々としたそこに、三人寄り添うように暮らす姉弟。彼らの大人への隠しきれない不信感をいっぱいに溜め込んだ視線を思い返すと同時に、あの家にかつていただろう子供たちどころか、今いる三人を写した写真が一つも存在していなかったことに気づいてしまったグレゴールの視線が鋭くなる。慈善家ね、と呟いた声は運転手に拾われることはなかった。
聞き込みから得た情報はどれもこれもタクシーの運転手が言っていたことと大差のないものが殆どだった。裕福な慈善家、子供好き、各所の孤児院に寄付をして、そこから子供を引き取っては里親を探して送り出している。たまに金持ちの道楽だ鼻につくと愚痴っていた奴もいたが、昼間から呂律が危うくなるほど飲み明かしているような男だったために周囲からは無視されていた。非の打ちどころの無い人格者、それが夫妻の周囲からの印象だ。
そこで終わったなら事は簡単だったが、夫妻から少しだけ視点をずらすとどうにもそれだけじゃなくなっていく。
夫妻はこれまで数十人の孤児を迎え入れたが、一人も自分たちの元に留まらせる事はなかった。一人でも多くの子供に幸せになってもらいたいからという理由で。それだけなら問題はない。彼らの殆どが一年以内に夫妻の元を去っているのも、まぁそういう主義なのだろうと思えば理解は出来る。問題はここからだった。
一年間夫妻の元で過ごした子供たちは、その半数が亡くなっていて、残りは消息不明になっている。そんな偶然、あってはならないはずなのに。
夫妻の元にいた子供と面識があると言った少女に話を聞けた。彼女も特に夫妻に対して悪感情を持ってはいなかったが、彼らが引き取った子供の異変には気がついていた。
「あんまり学校には来てなかったんだけど、見る度やつれてっておどおどするようになって、最後の方は病気でそのまま別のとこに引っ越してっちゃったんだ。あそこのおうちに引き取られてくる子はみんなそう」
今は幸せだといいな、と呟いた少女に、グレゴールは曖昧に微笑むことしか出来なかった。柔らかく無責任な祈りを前に、彼女は既に亡くなっているとは言えなかったのだ。
数日後、グレゴールは再び姉弟がいる豪邸を訪れた。イシュメールは不在で、代わりに応対したヒースクリフに有無を言わさず追い返されそうになるも、手土産にと持ち込んだアップルパイにより「それ食ったら帰れ」と条件付きで迎え入れられた。こいつ案外ちょろいな、と思ったが口には出さなかった。
この街ではどうやら林檎が名物のようで、そこかしこに林檎を用いた多種多様な商品が立ち並んでいたが、その中でもこのアップルパイは人気らしく皆口を揃えて「手土産にはコレ!」と言ったのを信じて良かったと思う。敵意と怒りと憎悪を滲ませる紫の目が子供らしい輝きで箱の中身を覗き込む姿は、中身が可愛げのないクソガキだったとしてもやはり微笑ましく見えた。その次の瞬間には「見てんじゃねぇぞおっさん」と唸られたわけだが。
小さなムルソーは今日もマスク姿で、一応来客に茶は出そうという気概だけはあったヒースクリフが四苦八苦しているところにトコトコ寄っていくと、袖をくいくい引っ張って何かを主張していた。距離があって彼が言葉を発したのかは確かめることが出来なかったのだが「お前がやんの?」「出来るのかよ」「熱いからな?」とぶっきらぼうながら心配そうなヒースクリフの声だけは聞き取れたので、兄弟が意思疎通するのに支障はないのがわかった。結果的にお手本のように淹れられた紅茶が出てきたのでほっとする。
「で?今度は何しに来たんだよおっさん」
箱の中から既に切り分けられているパイを取り出して皿に移しながら言う少年に笑いそうになりつつ、「いや〜元気にしてるかなぁと思って」と巫山戯てみたら虫を見るような目で睨まれた。そんな怒らんでもいいだろ、と眉を下げ情けない顔をするグレゴールに舌打ちし、ムルソーの皿の上のアップルパイを唐突にナイフで切り分け出してヒースクリフは言った。
「言っとくけどマジで話すことねぇからな。なんか色々嗅ぎ回ってるみてぇだけど」
「これが仕事なもんでなぁ
…
なぁそれ何やってるんだ?パイがミンチになってるんだが」
最早原型を留めないレベルで粉々にされるパイを無視できず思わず声をかけると、そんな質問されると思っていなかったと言わんばかりにきょとんとした少年にグレゴールも虚を突かれる。その幼い表情は一瞬で、すぐにムスッとした不機嫌顔に戻ってしまったが、心なしか期待にきらきらと瞳を輝かせる幼い弟の視線を受けてむず痒そうに口元をもごつかせていた。荒々しい動作で丁寧に解されたパイだったものをムルソーの前に押しやって、マスクを毟るように取ってやりながらヒースクリフが言う。
「
…
食うの下手くそだから、こうしねぇと咽せんだよ」
苦々しい音を含んで呟く兄を少しも気にすることなく、小さい手がスプーンで粉々の甘味を掬い上げ小さい口に放り込んだ。もくもくとしっかり噛み締めているムルソーを眺めていたヒースクリフは、彼が口の中のものを飲み込み二口目に取り掛かったところでようやく自分の分に手をつけることにしたようだ。手掴みで一気に三分の一ほどを噛み切った少年は、大きく頬を膨らませた間抜けな顔でそれでもグレゴールを睨みつける。自分より弱い個体を守る獣のようだと思った。
「仲良いんだな」
「あ゛?」
「血は繋がってなくても本当に兄弟だ、立派だよ」
「絆されねぇぞ」
「そういうつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ、美味いかおチビさん」
また反応はないかな、と思いながら声をかけると、せっせと原型をなくしたアップルパイの亡骸を口に運んでいた緑の目がこちらを向き、本当に微かに小さく頷く。これは心の距離が縮まったか?と渾身の笑顔を向けてみたがそれは当然のように無視されたので、満面の笑みを浮かべるおっさんとそれにドン引きする少年とぐちゃぐちゃのパイを食べる子供、というなかなかカオスな空間が生まれた。気を取り直して一つ咳払いをし、何してんだこのおっさんと言いたげな視線を向けるヒースクリフに向き直る。
「あー、質問してもいいか?」
「ダメっつったらどーすんだ」
「おチビさんに聞くかな」
「クソ野郎が
…
何だよ」
「いつから三人は姉弟なんだ?」
「あぁ?」
質問の内容が予想外だったのか二口目を放り込んだタイミングで片眉を上げて胡乱げな声を出した少年は、その意図を探るような目で数秒グレゴールを睨んでいたが、結局舌打ちをして視線を逸らし拗ねたように口を尖らせつつ不機嫌そうに言った。
「いつからとか、そもそも兄弟になったつもりもねぇよ。所詮は他人の寄せ集めだ」
「そうなのか?でも結構付き合い長いんだろ」
「まぁ、たまたま同じとこにいただけだけど」
「前いたとこはどうだった?」
「ここの前はそこまで長くいなかったな、一旦預かっただけみてぇな。どっかの孤児院だった」
「その前は?」
「
…
それ、テメェの仕事となんか関係あんのかよ」
「いやぁ、どうだろうな。でも個人的に気になったんだ」
「この
…
調べろよ自分でよ、それが仕事なんだろ」
「本当仰るとおりで」
へらへらと締まりのない顔で笑うグレゴールに怒りを通り越して呆れが出始めたヒースクリフが、構ってられるかと言わんばかりに鼻を鳴らし最後の一口を放り込み立ちあがろうとしたところで続いた言葉に動きが止まる。
「でも他人から聞くのと本人から聞くのじゃ、やっぱり印象が違うからさ」
常に怒りを孕んだ紫色が柔和に笑む茶色に向けられた。意図を探るように向けられたそれを大らかに見返す大人に、少年は苦々しく表情を歪める。傷の多い掌が苛立ちのまま後頭部を掻き回した。
「
…
犬小屋」
「犬小屋?」
「天井と壁があって、たまに飯が出てくるだけの犬小屋だ。気に食わなきゃ外に放り出されたけどな。満足か?それとももっとみじめな話が聞きてぇのか?」
燻る怒りに仄暗さを足した澱んだ眼差しを向けるヒースクリフにグレゴールは首を振った。もう十分だと伝えるために。仕事の内容上傷口を開く真似をしたが、決して傷つけたい訳ではなかった。とんだ綺麗事だとわかっていても。
少年は乾いた嘲笑を溢して今度こそ立ち上がると、グレゴールの方は見ないまま「もう帰れよ」と呟いた。二人が会話している間にもせっせと粉々になったパイを運び、やっと後数口のところまで辿り着いた弟の頬についた欠片を指先で拭ってやりながら。他人の寄せ集めだ、と言ったが、その仕草はどうしようもなく柔らかい。
「長居して悪かったよ。
…
あ、あと一つ」
「まだあんのかよ
…
」
「悪い悪い」
あからさまにうんざりとした声と表情をするヒースクリフに詫びながら、へらりとした顔を唐突に引き締めたグレゴールに少年は少し肩を揺らし、子供は無垢にきょとんと見上げた。二人の異なる視線を受け、男は真剣な声音で囁く。
「ーーートイレ貸してくれる?」
「ぶっ殺すぞ」
やたら広い手洗い場にかけられたアンティーク調の鏡に写る男の顔は、子供達の前にいた時とは打って変わって鋭い。濡れた掌で無精髭の生えた顎を撫で、チカチカと着信を告げる端末の画面に目をやると、肺ごと吐き出すような重い溜め息をつく。
適当に拭った手で端末を手に取りそこに表示されたメッセージに目を通し、ほとんど無意識に胸ポケットに手をやってからここがどこだか思い出し小さく悪態を吐いた。がりがりと束ねた髪を掻き回す動作は荒い。
そこには頼み事を引き受けてくれた同僚が集めた情報がずらりと並んでいる。まだ幼い子供達の記録だ。口にするにも悍ましく、痛ましい記録。当事者でもなければ関係者でもないグレゴールにとってただの情報の羅列でしかないそれは、しかし当人たちと触れ合ってしまったせいで男にも浅くはない傷になった。
「
…
けど、まだ足りない」
はー、と大きくもう一度溜め息を吐き出してグレゴールは手洗い場を離れた。いつまでもここで愚痴っていても仕方がないし、堪忍袋の緒が切れた少年に殴り込まれたくはない。無駄に凝ったドアノブを回して廊下に出ると、少し離れたところに小さな影が立っていることに気づく。白いマスクに緑の目。ムルソーだった。
「お、っと、どうした?もしかしてトイレ待ち
…
?」
「
…
」
問いかけには相変わらず答えはなかったが、ととと
…
と軽い足取りで寄ってきた子供は、唐突に腕に抱いていたくまのぬいぐるみをグレゴールに向かって差し出した。戸惑う大人に構わず小さな両腕を目一杯に伸ばす姿に思わずぬいぐるみを受け取ると、そのままくるりと身を翻して走り去ってしまう。小柄な子供は恐ろしく素早く、引き留める間もなく階段を駆け上がって視界から消えた。
「えちょ、おチビー!?これどうしろって、」
「おいまだいたのかよ
…
何してんだ?」
「いや帰ろうとはしてたんだが、弟さんがこれ渡してきて
…
どうしたらいいんだ?」
「あぁ?」
訝しげにするヒースクリフに件のぬいぐるみを掲げると、目つきの悪い紫の目を細めて数秒くまを睨みつけ、しかしすぐにけろっとした顔でめんどくさそうに言う。
「あいつのじゃねぇよ。多分この家に元からあったやつだろ」
「あ、そーなの
…
いやそれでも何で俺に??」
「邪魔だから押し付けられたんじゃね?」
「そんなに嫌われてたのか俺は???」
「知らね。捨てるなり好きにしろよあいつも気にしねぇから。さっさと帰れ」
ショックと腑に落ちなさで肩を落とすグレゴールはうんざりした様子のヒースクリフに尻を蹴飛ばされて追い立てられるように玄関に向かった。
構いすぎたのか
…
?としょんぼりする大人を外まで追い出した少年は、呆れた顔を引っ込めて凪いだ表情を見せると「なぁ」と無感情に問いかける。
「あんた、人を殺したことあるか」
唐突で、物騒な問いかけだった。しかし軽い気持ちで尋ねたのではないことは少年の顔でわかったので、グレゴールも真摯に答えを返す。
「あるよ」
「一人?」
「さぁ、覚えてないな。軍人だったんだ」
「そういうのって慣れてくもんなの」
「どうだろうなぁ、人によると思うが。どうしてそんなこと知りたがるんだ?」
風が吹いて、庭にある草木が揺れる。玄関に続く階段を少し下ったところに立つグレゴールの視線の先、風で煽られた前髪の隙間から、仄かに光る感情のない紫の目が見下ろしていた。
「一人やったら、その後何人やろうが同じだと思わねぇ?」
グレゴールはすぐには答えなかった。草木の揺れる微かな音だけがしばらく響いて、そうして静かに口を開く。
「最初に人を殺した瞬間は今でも覚えてるな。最低で最悪だった。しばらく夢に見たし仕方がなかったんだって必死に自分に言い聞かせてた。自分が生き残るためだったって。でも思い返せば、二人目以降はそこまでじゃなかったような気もする。しっかり覚えてないのがその証明だろうし」
「
…
」
「けどな、どんなに慣れても、どんなに平気なふりしても、そういう仕事だって割り切ろうとしても、人を殺す前の自分にだけは一生戻れない。殺した数だけ遠ざかっていくんだ。その傷をことあるごとに直視して生きていくことになって、時々無性に叫びたくなって、そんなのが何年も続いたよ」
怒りを宿す少年は何も言わずにグレゴールの言葉を聞いていた。傷の多い手が震えるほど強く握りしめられていることに気づきながら、けれど少年が求めているものは無責任な慰めではないとわかっていたので、あえてそこには触れることなく続ける。
「どうしようもない理由があることだって知ってるし、自分の人生台無しになっても殺しておかなきゃいけないような奴はいるし、それ程じゃなくたって世の中には悪い奴がたくさんいて、いつどこで当事者になるかなんて誰にもわからない。
だけどさ、一度目があったからって、避けられるなら二度目なんてない方が良いって、俺はそう思ってるよ」
少年は何も言わなかった。ただぎゅっと唇を噛み締めて、溢れそうな感情を必死に押さえつけているかのような顔をしていた。
グレゴールは困ったように微笑んで、「また来るよ」と言って背を向ける。歩いて門の目の前に来たところで、投げつけるように少年の大声が響いた。
「っくま抱いたまま言ったって説得力ねぇよ!バーカ!!」
急いで振り返ったが捨て台詞を吐き捨てて少年は家の中に戻ってしまった。後に残ったのはくまを抱く成人男性と、「俺のじゃないし
…
」という誰にも届かぬ抗議の声のみであった。
宿泊先のホテルに戻ると部屋の中に人の気配を感じた。気を抜いていたグレゴールは一気に顔を引き締め、懐にある護身用のナイフに手を掛けながらゆっくりドアを開こうとして、ものすごい勢いで向こう側から開かれたドアに顔面を思いっきりぶつける。鈍い音を立ててぶち当たった鼻を押さえて呻くグレゴールに、呆れたような女性の声が投げられた。
「
…
何をしている貴様?」
「こっちの台詞だし少しは心配とかしてくれませんかね
…
」
「貴様が油断していただけだろうが」
ふん、と鼻を鳴らしてそのまま部屋の中に引っ込んでいった女性に小さく毒づいて、痛む鼻を摩りつつグレゴールも後に続いた。褐色の肌に濃茶の短い髪の厳格な女性はウーティスと言い、所属する事務所の同僚の一人である。
まるで自分の部屋のように堂々と進んで行くウーティスの後を半分以上諦めながら着いて行ったグレゴールは、ベッドの上にちんまりと鎮座するもう一人の同僚に一瞬気づかず、違和感を感じて二度見したところでその存在を認識し驚きすぎて壁に頭を打ちつける羽目になった。鈍い音を立てて後頭部を打ち悶絶するグレゴールに、ベッドの上の人物は気遣わしげに声をかけてくる。
「由々しき音なれど安穏なりや
…
?」
「あぁうん大丈夫
…
来てたんだなイサン気づかんかったわ
…
」
「気を抜きすぎだ。我々が敵だったら命はないぞ」
「肝に銘じますよ
…
しかし珍しい組み合わせだな?一体何しに来たんだ?」
ウーティスの小言を軽く受け流し、やたらとコンパクトにベッドの真ん中あたりに座り込んでいる、これも同僚であるイサンの側に腰を下ろしながら問うと、一脚しかない椅子に腰掛けたウーティスはテーブルの上に置いた紙の束を指先でコツコツと叩いた。
「私はこれを届けに来ただけだ。そいつは知らん勝手に着いてきた」
「えぇ
…
」
「朋の危ふきには駆けつくべき
…
ここの名物や食ひし?」
「後半が目当てだろうなぁ
…
」
感情の読みづらいイサンの真っ黒い瞳が甘味による期待に輝く様に苦笑し、ウーティスが差し出した紙の束を受け取る。それが何かをグレゴールが確認する前に、既に中身を見終えていたらしい同僚が厳しい声で言った。
「あの依頼人、思った以上にきな臭いぞ。彼ら自体が、というより彼らの上司とそのビジネス周りが」
「あ゛ー
…
これは
…
」
「貴様、自分の仕事の領分は弁えろよ。随分肩入れしてるようだが」
「いやぁ?肩入れしてるつもりはないんだがなぁ、そう見えるか?」
「管理人様は気の済むまでやらせればいいと仰ったがな、下手に突っつき回して事務所に損害を与えるようなら、この案件は私が引き継ぐ」
「わかってますよー
…
」
「聞いてないだろ貴様」
聞いてる聞いてる、と生返事を返すグレゴールに苛立つウーティスを横目に書類を捲る男の目は段々と鋭くなっていく。最早無言で読み進める同僚の様子に何を感じたのか、そっとにじり寄ったイサンが静かに口を開いた。
「
…
彼らはわらはを売れり。さるは傷つくるためのわらはを」
「表向きは一企業の慈善事業の一つとして孤児院を隠れ蓑にしているようだが、実態は身寄りのない子供を加虐趣味の変態共に売り飛ばす人身売買組織だ。失踪した夫妻もその一員だろう。この数年で名前どころか顔まで変えてるぞ」
「
…
孤児院から直接売ると足がつくから中継地点みたいに使ってたんだろうな、表面上は一時的な保護者になるが、書類上は孤児院預かりのままで一年の間に買い手がついたら権利ごと手放してる。大胆なもんだなぁ」
「大胆かつ粗雑だが、上手くいっている。商品の性質の問題だろうな」
「消ゆともとぶらふ人のなき幼子
…
」
そう、彼らの非人道的な商売が上手くいっているのはそれらが表に決して出てこないからだった。グレゴールたちが表層を浚っただけで両手じゃ足りないくらいの犠牲者と思われる子供たちがいたが、どれも大きな話題にはなっていない。死亡記録があればまだ良い方で、殆どが消息不明か家出扱いで放置されている。彼らが“そういう子供”を選んでいるからだ。身寄りのない、いなくなっても誰も探さない子供を。
あ゛〜
…
と呻いて天井を仰いだグレゴールに、ウーティスはやはり厳しい視線を向けた。
「下手なことは考えるな。そもそもこの件は依頼と直接関係はない。これらの情報も正規の手段で得たものではないから証拠にはならないんだぞ」
「証人になりそうな夫妻がそもそも失踪してるしぃ?」
「その肝心の夫妻の行方について検討はついてるんだろうな?」
「確証はないが、一応」
「ならさっさと終わらせて手を引け
…
イサン、何をしている?」
「くまなり」
「見ればわかる。なんだそのくまは」
「あぁそれ、例の子供の一人に貰ったんだよ。元からあの家に置いてあったものらしい」
座った時にベッドの空いた場所に置いていた柔らかい布と綿で出来たくまを持ち上げてじっと見つめるイサンは、呆れたウーティスの視線もグレゴールの苦笑も気にすることなく、どことなく草臥れたぬいぐるみの顔を観察していた。余りにマイペースなその様子に毒気を抜かれて「気に入ったならやるよ」とでも言おうとした瞬間、ぽつりと落とされた囁きのような声に思考が止まる。
「
…
くまの眼に透鏡あれどおどろけりや?」
「何?」
虚を突かれて一瞬出遅れたグレゴールに代わり、ウーティスが手を伸ばしてイサンからぬいぐるみを受け取った。イサンよりずっと険しい顔で無害そうなくまを睨みつけ、腰のベルトからいつも携帯しているナイフを引き抜くと止める間もなくその顔面に突き立てた。布は容易く引き裂かれ中身の綿が飛び散る。容赦なく綿の中に指を突っ込んだ彼女は、程なくして小さな黒い機械を引き摺り出した。指先で摘めるほどの大きさの、小型のカメラのようなもの。
ウーティスの眇められた両目がこちらを射抜いたので、貴様この間抜けがと罵倒が飛ぶ前にグレゴールは慌てて弁明する。
「待って待って違うぞ、俺の失態じゃない」
「じゃあ何だこれは?貴様が持ち込んだんだろうが生えてきたわけでもあるまいし」
「いや持ち込んだのは俺だけどさ!?あの子にそんな悪意は感じられなかったっつーかさ!?自分のじゃないって言ってたし!!」
「悪意の塊でしかないだろうが盗撮用カメラだぞ!!どこまで脳みそに花咲かせたら気が済むんだ貴様ぁ
…
」
「お、落ち着きたまへ
…
」
今にもグレゴールの胸倉を掴み上げようとするウーティスをあわあわと制したイサンが、彼女の手の中にあるカメラを指差して言った。
「その写真機は電波に記録絡繰と繋ぐるものに、並やうにそこまで限りは広からずとおもふ
…
光瞬きたらねばおそらく電池も切れたり
…
」
「ほらそれ電波届いてねぇって!電池切れてるってさ!」
古めかしいために解読に時間のかかるイサンの言葉の要点だけ拾い上げて叫んだグレゴールを睨みつけ、手の中の小さな機械をじっくり検分した結果、イサンの見立てに異を唱える要素はなかったようでウーティスは振り上げ掛けていた右腕を下ろした。しかし刺々しい警戒は解かず出した声は固い。
「
…
機能していないとはいえ、たまたまお前にこれを渡したなどと呑気なことは考えていないだろうな。明らかに意図的だ」
「それはそう。たぶん、知ってて俺に押し付けたんだと思う」
「何のために?」
「
…
わかんねぇなぁ
…
」
途方に暮れた呟きを聞いて、彼女は重い溜息を吐き出した。疲れた様子で椅子に座り直すと、自分が無惨に引き裂いたぬいぐるみの残骸に視線を落とす。グレゴールも釣られてそちらに視線を向け、見上げるガラス玉のような緑色を脳裏に思い浮かべたところで声が落ちた。
「一時の情に流されるな、誰のためにもならん」
依頼を終わらせることだけ考えろ、と今日何度目かの忠告を吐き出すウーティスに、グレゴールは曖昧な返答しか出来なかった。
情報収集の合間の休憩に立ち寄った店から出た時、通りの向こうに鮮やかな橙色が見えてグレゴールは踏み出しかけていた足を止める。
医院の看板を掲げた建物から出てきた少女は、一緒に出てきた白衣の老人と何やら言葉を交わし、律儀にお辞儀をしてグレゴールのいる場所とは反対方向へと歩き出した。その数歩間を空けて、見るからに怪しい黒服の男がその背を追う。あー
…
と小さく呟いたグレゴールはしばし二人の歩いて行った方向を眺めていたが、前髪を掻き上げながら特大の溜め息を吐き出した後走り出した。
二人の背中が見えた時点で「おーい!」とわざと大きな声で呼びかける。ぎょっとした様子で少女が振り返る前に、黒服の男はスッと脇道の方に踵を返して行った。グレゴールはニコニコと笑いながら呼びかけの相手を認識して眦を釣り上げるイシュメールに近づくと、紙袋を抱いた背中を押して早足に歩き出す。状況を理解できていないために怒りと困惑を乗せて少女は「ちょっと!」と抗議の声を上げた。
「何なんですかいきなり!警察呼びますよ!!」
「呼べるもんなら呼んでもいいが、一旦こっから離れた方がいい」
「なにを、」
「尾けられてる。撒くからそれまで我慢してくれよ」
小声で伝えるとイシュメールは今にも殺意に満ちた拳を振り上げんばかりの凶悪な形相になるが、口元に笑みを浮かべているが目は笑っていないグレゴールの表情に嘘をついているわけではないと判断したらしい。背中を押す掌に逆らうことはせず、しかし距離が近すぎたのが気に食わなかったようで脇腹をそこそこの力でどつかれる。思わず出かけた呻き声は渾身の力で押さえ込んだ。
互いに無言で少し歩き、大通りに出てすぐにあった店に素早く少女を押し込むと、自分も扉の影になる場所に身を滑らせて人混みに目を凝らす。数秒間を置いて、黒服の男二人が店の前を通り過ぎて行った。その影が見えなくなってから、じとりとこちらを睨む少女に微笑んで声をかける。
「よし、今の内に帰ろう」
「
…
」
イシュメールは何か言おうと口を開きかけたが、店員の好奇の視線に気づいて短く舌打ちすると、無言のままグレゴールを押し除けて先に店を出た。それに苦笑しながら店員に軽く頭を下げてグレゴールも後に続く。
会話はしばらくなく、人混みを抜けて丘の上に続く人通りの少ない坂道に差し掛かったところで前を淡々と歩いていたイシュメールが振り返った。雀斑の散る幼さを残した顔に感情はなく、淡い黄緑の目だけが怒りに燃えていた。
「何のつもりなんですか」
「
…
何が?」
「何で助けたりしたんですか?恩を売ったつもりですか?あの人達、あなたが雇ったわけじゃないですよね?」
「証明する手段はないが、あいつらと俺は無関係だよ。たまたまお前さんが医院から出てくるのを見かけて、後を尾けてる奴がいたもんでさ。おたくこそあいつらに心当たりないのか?追われるような厄介ごとでも?」
「それこそ、あなたに関係ないじゃないですか」
嘲笑に少女の唇が歪む。埒の明かない問答に溜め息を落とし、グレゴールはなるべく刺激しないように柔らかい口調で言った。
「
…
あんたは賢いからわかってると思うが、子供の力には限度があるぞ。いつまでも隠してはおけない。現に俺みたいなのが雇われたわけだしな?」
「ーーー、」
「どこまで認識出来てるかわからないけど、お前さんらを取り巻く状況はあまり良くない。あの連中が何をしに来たのかは知らんがきっと碌でもないことだろう。手遅れになる前に何が起きたのか説明してくれないか?そうしたら俺たちだって、」
「ーーーそれ、同情ですか」
固く凍りついた声にグレゴールは言葉を飲み込んだ。少女の目からとうとう怒りすら消えて、淡い色合いのそれはまるで洞穴のように昏く澱んでいる。続く言葉を見失った大人に、少女は一気に捲し立てた。
「可哀想ですか?哀れに見えましたか?逃げ道なんてとっくにないのに抗う様は滑稽ですか?偉そうに、何様のつもりなんです?
子供だって言われたって、だって私たちだけじゃないですか。私たちを守れるのは私たちだけじゃないですか。他に誰がいるって言うんですか。血の繋がってない私たちが一緒にいるのにどれだけ障害があるか知ってるんですか?あなたがどうにかしてくれるんですか?今の問題だけじゃなく、これからの私たちのことも?」
堪えていたものが一気に溢れ出したように投げつけられた言葉は鋭く、グレゴールに口を挟む隙を与えなかった。隙があったとして、返す言葉を持ってはいなかったが。
言葉を失い立ち尽くすグレゴールを嘲笑い、イシュメールは昏い眼差しのまま吐き捨てる。
「無理ですよね、あなたにそんな義理はない」
「ーーー」
「捨てられてる子犬を見て可哀想にって思うのと一緒でしょ。見ないフリする薄情者にはなりたくないんでしょう?でも私たちの人生を背負うつもりはないんですよね。助けたつもりで罪悪感を薄めたいだけですよね。“俺たちだって“って何ですか?何ができるって言うんですか?何も、何も知らないくせに無責任に言わないでください吐き気がするんです」
そこまで一息に言い切ったイシュメールはぎゅっと両目を瞑って数秒沈黙した。頭痛を堪えるような、叫び出すのを止めるような重い沈黙。そうして再び開いた瞳には、強い怒りと決意が宿っていた。
「助けはいりません。あなたは自分の仕事をしてください。私たちは最後まで抗います、何をしてでも。一人も二人も同じですから」
「イシュメール、」
「今日のことには感謝しています。ありがとうございました。でもこれからは必要ないです」
そう言ってイシュメールは背を向けて足早に坂を登って行く。何か声をかけたいと思ったが何一つ言葉にならなかったグレゴールはしばらくその場に立ち尽くした。橙色の背中が見えなくなるまで。
受付時間は終了しました、の看板を無視して叩いた扉の向こうから顔を出した老医者は、うまく笑えていないグレゴールが「どうも」と声をかけると、怯えたように、諦めたように、安堵したように震える息を吐いて医院の中に男を招き入れた。
「あの子達のことでいらっしゃったのでしょう?」
こちらから切り出す前にそう言った老医者に、話が早いとグレゴールは頷いた。
「俺の他にも誰か来たんですかね?あの子達について聞きに」
「いいえ。けど、いつかは来るだろうと思っていました。警察関係の方ではなさそうですね」
「えぇまぁ
…
グレゴールと言います。何かご存じならぜひ聞きたいです」
適当な椅子に腰掛けてそう言ったグレゴールに、老医者は深く溜め息をつくと疲れ切った声で話し出した。
「
…
あの夫妻は数年前にあの邸に越してきました。一ヶ月ほどは夫妻だけで暮らしていたのですが、その内身寄りのない子供たちを引き取るようになって、私に主治医になってほしいと声をかけて来ました。皆複雑な事情を持った子達で、怪我や病気が多いのだと言っていた。
若いのになんて立派なんだろうと、私はすぐに承諾しました。子供たちは皆傷ついていましたが、この夫妻の元でなら幸せになれるだろうと思ったんです」
「
…
今はそうではないような言い方ですね」
「
…
最初は疑いもしませんでした。子供たちの怯えたような目も警戒心も、境遇を考えれば不思議ではないだろうと。けれど夫妻は引き取った子供たちを長く留めることはなかった。酷く傷つき怯え切ったままの子供を一年もすれば他所にやって、また新しい子供を迎えるんです。違和感を覚えるのにそう時間はかからなかった」
老医者の声は段々と重く沈んでいき、力無く椅子に座った髭を蓄えた顔は青白い。ただ目だけが爛々と輝いて異様なほどだった。
「ある日、一人の少女が私に訴えてきたんです。夫妻に恐ろしいことをされていると。毎晩酷い目に合うのだと。他の子達ももう限界だ助けて欲しいと。ありったけの勇気を振り絞ったのでしょう、可哀想なほど震えたあの子の体は傷だらけでした。明らかに人の手で加えられた傷でした。
ーーー私は然るべき機関に通報すると彼女に言って、その日は帰らせました。それ以外に出来ることはなかったんです。勿論その日の内に通報するつもりでした。ただ、その日は患者が多くて、手が空いたのは閉院間際だった。ようやく報告しようと思ったその時、夫妻の旦那がやってきた。まるで図ったみたいに完璧なタイミングで」
グレゴールはもうその後に起きるだろう出来事に勘付いていたが、抱え込んできた罪をやっと吐き出せる機会を得た老医者を慮って口を挟まなかった。ただ、煙草が欲しいと思った。口の中が苦くて吐きそうだった。
カーテンの隙間から差し込む夕日が、痩せこけた医者の青白い顔を照らす。眩しそうに目を細めて、それでも老医者は言葉を止めなかった。
「彼は言いました。あの子は嘘をつく癖があると。混乱させて申し訳ないと言いました。私たちのことは何も心配しなくていいと言いました。当然納得出来ず、あの子は嘘をついているように見えなかったこと、怪我は明らかに人為的で悪質であること、虐待が虚偽かどうかを判断するのは私ではなく、可能性がある限り通報の義務があることを伝えました、馬鹿正直に。彼らの良心を信じていたからです。私の言葉を聞いた彼は何と言ったと思いますか?」
「脅されましたか」
「あぁ、流石ですね
…
そうです、彼は私の娘と孫の写真を持っていました。娘の職場に孫の学校まで知っていましたよ。凍りついた私に彼は笑っていました。そうして言ったんです。二人とあの子のどちらが大事でしょうか、と」
そこで老医者は皺だらけの両手で顔を覆って俯いた。夕日がその曲がった背中を煌々と照らしていた。グレゴールは妙に冷静な頭でそれらをただ見つめる。怒りはなかった。怒りを抱くべき人間は自分ではない。
「ーーー私の答えを聞いて彼は満足そうに頷き、私の手に大金を握らせて、今後もよろしくお願いしますと言いました。その次の日、あの子はあの邸を去りました。里親が見つかったと聞きました。そうではないだろうと、私は知っていながら何も出来なかった
…
」
「
…
あなたに出来ることはそう多くなかったでしょう」
「それでもあの子を救えたかもしれなかったのは私だけです、皆あの夫妻を善人だと信じているのだから」
「
…
あの三人についてはどうです?夫妻が消える前に預かった最後の子供たちです。今日もここに一人来てましたが」
ハッと老医者は顔を上げてグレゴールを見た。顔色は最早紙のように白くなっていた。
「見ていらしたんですか」
「出てくるところを偶然見ただけですが。彼女はここに何をしに?」
「
……
末の弟の具合が良くなく、定期的に薬を買いに来るんです。それだけです」
「それだけって顔には見えませんね」
「グレゴールさん、私からは言えないんです。私は多くの子供たちを見殺しにしてきましたが、まだあの子達は救える。あの子達は何も悪くないんです、必死に生き延びただけだ」
「あの子らに危害を加えようって言ってるんじゃない。けどこのままじゃ危険なんですよ。夫妻に関わる人間関係はあの子達を放っておいてくれません。手遅れになる前に解決したい、力を貸してくれませんか?」
「あの子達のために協力は惜しみませんが、具体的に何をすれば
…
」
「夫妻が子供達に危害を与えていたという証拠が欲しい」
「治療記録は全て保管していますが、それが証拠になるかどうか
…
被害を訴えるべき当事者はもうあの三人しかいませんし、あの子達が協力してくれるかどうかもわかりませんよ」
「それで十分です。あとは俺の仕事ですから」
不安気な老医者を安心させるように目尻を下げて笑いながらグレゴールは立ち上がる。「色々助かりました」と言って立ち去ろうとしたところを呼び止められ振り返ると、来た時より老け込んだ、しかしどこか憑き物が落ちたような顔をした老医者が、祈るように両手を合わせて言った。
「
…
末の子に話を聞きましたか?」
「いや、あの子とは会話も出来ていません。具合が良くないとかで」
「どうかあの子の話を聞いてからご決断ください。私からはこれしか言えない」
あの子達をよろしくお願いします。そう言って深々と頭を下げた老医者に、グレゴールはまだ答えを返せずにいた。
三度グレゴールが丘の上の豪邸を訪れたその日は、嫌になるほどの晴天だった。
今回はちゃんとインターホンを押して来訪を告げ、あからさまに嫌そうな顔を扉から覗かせたイシュメールは、笑いながら手を振って見せるグレゴールとその側に立つ二人を認識してより表情を曇らせた。ハーイ♪と愛想よくウィンクして見せる同僚のロージャはともかく、無愛想に煙草を燻らせたまま微動だにしないこれも同僚である良秀の印象は最悪だろう。せめて煙草を消せ俺も我慢してるんだから、という視線を送ってみたものの当然のように無視される。人選を誤った気配を察したが後には引けず、毛を逆立てて威嚇する猫の如く警戒している少女に「これで最後にするから、中に入れてくれないか」とグレゴールは懇願した。
物凄く嫌そうにしながらも渋々懇願は聞き入れられ、グレゴール達は邸の中に招き入れられた。苛ついた様子のイシュメールが何か言うより先に兄弟を呼んでもらうよう頼み、一層警戒を強めながらも少年たちを呼んできたところで小さな末の弟の手を引いて言う。
「今日はおチビさんに話を聞きたい、二人で」
無垢な緑の目の子供には動揺は見られなかった。代わりに姉と兄の顔色が一瞬で変わり、真っ先に向かって来ようとしたヒースクリフの襟首を煙草を咥えたまま良秀が掴んで引き留める。怒りを露わに少年が吠えるが怯みもしない。
「っ離せ触んなクソ女!!!!」
「吠える相手は選べよクソガキ。お前じゃ俺には勝てんぞ」
「ちょっと待ってください、どうして二人にしなきゃいけないんですかっ」
「大丈夫よ〜おチビちゃんはグレッグに任せて、あっちで私たちとお茶して待ってよ?いい子だから〜」
「ガキ扱いすんじゃねぇよ!!」
「ど・み・ガ」
「あ゛ぁ!?」
「煽らないの〜ほら行こ行こ!」
「ちょ、押さないで
…
ムルソー!」
ロージャに背中を押され良秀に首根っこを引き摺られ、兄姉が引き離されていくのをムルソーは感情の読めない眼差しで見ていた。ただ必死な呼びかけに対してだけ、小さく掌を振る。それを見た少年少女はどうして、と言いたげに目を見開いて動揺していたが、やはり子供は少しも揺らぐことなくただ見つめ返していた。
四人がリビングへと消えていくのを見届けて、グレゴールはしゃがみ込んで小さなムルソーと目線を合わせる。子供は平らな目で覗き込んできた大人を見返して何も言わない。グレゴールは笑った。笑顔が返ってこないことはわかっていながら、それでも出来る限り優しく微笑んだ。子供は不思議そうな顔をしている。
「兄姉から引き離す真似してごめんな、お前さんと二人で話してみたいことがあってさ」
白いマスクに覆われた子供の表情はわからない。
「言いたくないことには答えなくていいし、もう無理だと思ったら兄姉のところに戻っていい。ただ正直に答えて欲しい、理解できるか?」
頷く。反応が返ったことにひとまず安堵し、グレゴールはポケットから小さな黒い機械を取り出して掌に乗せて見せた。ぬいぐるみの中から見つかった小型カメラだ。緑の目はそれを認識しても疑問も驚きも見せない。一つの推測がじわじわと確信に変わっていくのを感じながらグレゴールは質問を投げかける。
「お前さんから貰ったぬいぐるみ、ちょっと色々あって壊しちゃったんだが、中からこれが出てきてさ。何かわかるか?」
肯定。
「あの中にこれが入ってるってわかってて俺にくれたのか?」
肯定。
「お前さんが仕込んだのか?」
否定。
「
…
他にも同じようなものがあったりするのか?」
一拍の間。子供はほんの少し左上に視線を泳がせた後、くるりと身を翻して階段の手前まで行くと立ち止まった。静かな視線がグレゴールを見つめる。まるでついて来いとでも言うように。
言葉はないのに自分の意思をはっきり伝えてくるムルソーに子供特有の傲慢さを垣間見ながらグレゴールはその要求に従って立ち上がり、軽い足取りで階段を登っていく背中を追った。
初めて足を踏み入れた邸の二階部分は一階に劣らず高価な装飾品や絵画が並び、夫妻と子供達の寝室になっているのだろう部屋が並んでいる。豪奢な照明に照らされ、大きな窓から存分に陽の光を取り込み、犬が走り回ったって問題なさそうなほど広い空間があるにも関わらずどこか息苦しさを覚えるのは、グレゴールがこの家の持ち主の所業を知っているからなのか。子供の写真一つ飾っていないのに、ところどころに設置されたぬいぐるみから視線を向けられているような錯覚すら覚えた。もしかしたらそれは錯覚ではないのかもしれなかったが。
ムルソーは階段を登り終えると真っ直ぐ一つの部屋に向かった。部屋の前で立ち止まりグレゴールが近づくのを待ってから扉を開ける。
扉が開いた一瞬、嫌になるほど嗅ぎ慣れた匂いを感じて顔を顰めるもそれはすぐに消え去った。そこは夫妻の寝室のようだった。天蓋付きの大きなベッドに高そうな絨毯、暖炉、そして本棚に埋め込む形で設置された嫌味なほどに大きなモニターが目に入る。一見すれば今も人が使用しているように見えるが、棚にうっすらと埃が積もっていたり、花瓶の中の花がすっかり茶色く変色していたりと家主の不在を感じる。
部屋の中を観察していたグレゴールのコートをムルソーが引いた。視線を向けるとモニターの前に置かれたテーブルの上のノートパソコンを指差してぐいぐいと裾を引っ張る。開け、ということだろうと察しはついたので促されるまま電源をつけたものの、案の定パスワードが必要だった。
「あー
…
これ開くのには鍵っていうか、合言葉みたいなのが必要みたいなんだけど、」
言った瞬間に握った掌が眼前に突き出される。勢いに少し慄きつつ手を差し出すとパッとその上に折り畳まれた紙切れが落ちて、広げてみると幼さの残る丸っこい字で書かれた数字と記号が不規則に並んでいた。全て予見していたかのような用意周到さに思わず笑ってしまうと、無垢な仕草でムルソーが小首を傾げる。
「あぁいや、なんか御伽話の妖精みたいだなって。主人公が困ってると答えじゃなくヒントをくれて、目的地まで導くタイプの」
「
…
」
「助かってるよってことだ。ありがとな」
首を斜めに傾げたままグレゴールの礼を聞いたムルソーは、本当に微かに両目を細めて眉間に皺を寄せた。それは初めて見せた感情の片鱗だった。名前もつけられないほど微かなそれを掴み上げる前に元の無表情に戻った子供は、細い指先で液晶をさして言外に先を促す。無駄が嫌いなのだろうか。それとも時間をかけたくない理由があるのか。疑問は残るがひとまず置いて、紙切れを片手にキーボードに指を滑らせる。変態のパソコンはパスワードを間違えると中身を消し飛ばす仕様になっていることも多く、なるべく慎重に、確認を重ねて打ち込めば難なく起動した。いくつかファイルが並んでいる画面の中から、動画データが纏まったものをクリックする。
膨大な量の動画が日付順に並べられているが、特にそれらを分類するような名前などはつけられていない。古いものは今から数年前まで遡り、三ヶ月前のデータを最後にその後更新されていない。夫妻が消息を絶った頃から。
あぁ、と溜め息のような嘆息を思わず漏らしたグレゴールの視界に、白い指先が踊る。目的地はここだよと示すように、最後のデータに液晶上で触れて緑の目が真っ直ぐこちらを見つめた。見ろ、と。お前が欲しがったものだと言いたげに。
「
…
お前さんは見たのか?」
反応はない。
「二人は知らないんだな?」
肯定。
「
…
ちょっと、あっちにいてくれるか。これを見終わるまででいいから」
ムルソーは少しの間じっとグレゴールを見つめて、こくりと頷くとベッドの方へと離れて行った。拒否されなかったことに安堵して、しかしその従順さ自体がこの中身の凄惨さを物語るようで憂鬱になる。否定こそしなかったものの、「二人は知らない」に肯定を返した時点であの子供は中身を知っていると自白したようなものだった。何が映されているかはわからないが、幼い子供に何度も見せていいようなものではないことだけは確かだろう。
ふー、と覚悟を決めて脇に置いてあったヘッドホンを接続し、三ヶ月前のデータを開いた。
数秒の暗転。
ノイズが走ったと同時に耳障りな笑い声が劈き、床に這いつくばった少年を嬲る男と、制止を求めて叫ぶ少女を押さえつける女の姿がチラリと映し出された。音質が悪く時折映像にノイズが混じるせいで確認しづらいが、少年たちを痛めつけて笑っている男女は消えた夫妻だと思われる。女がカメラを持っているらしく、少女が暴れる度に画面が揺れた。
腹を蹴られ踏みつけられているのはヒースクリフだ。降り注ぐ暴力から頭を守るように丸まっても、散々殴りつけられたのか腫れ上がった顔でなお睨み上げるものだから嬲る手足は止まらない。やめてください!!と叫んでいるイシュメールの悲鳴に歪な笑い声が重なる。男が足を上げて、そのまま少年の頭目掛けて振り下ろされた。鈍い音を立てて顔面を強く床に打ちつけたヒースクリフから一瞬力が抜け、赤い液体が溢れ出す。男は嗤った。虫ケラ、とざらついた声で嘲るのも聞こえた。橙色の髪を振り乱すようにして少女が暴れるが、腕を捻るように後に回されて拘束されているせいで痛みを齎すだけだ。女も嗤っていた。何がおかしいのか全くわからなかった。
鼻血と唇から溢れ出した血で汚れたヒースクリフの髪を男が掴み上げた時、カメラが不意に背後に向けられる。画面がぶれて、部屋の出入り口に立つ人物を映し出した。紺色のパジャマに身を包み、状況の飲み込めていない無垢な緑の目をした子供。
来ないで!、来んな!と叫ぶ声に僅かに肩を揺らしたムルソーは反射的に片足を引いたが、瞬間ぐしゃりと何かが潰れる音がして目を見開き動きが止まった。一点を見つめて固まってしまった子供に、少女を拘束したまま女が猫撫で声で名前を呼ぶ。ムルソー、おいでおチビちゃん。緑の目が女を見る。あなたは賢いから、言ってる意味わかるよね?粘ついて、吐き気がする声だった。
ムルソーはゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。カメラが部屋の中央、暖炉の前に立つ男の元へと向かう子供を追う。だめ、だめ、と震える少女の声が何度も呟かれ、背中を踏みつけられながら抵抗を止めようとしない少年ががりがりと高そうな絨毯に爪を立てる。彼もその周りも真っ赤に染まり、男の靴や拳も赤い。
子供が目の前までやってくると、男は奇妙なほどに慈愛に満ちた笑みを浮かべる。赤く染まった指先で子供のまろい頬を撫で、その顎を急に荒々しく掴んだかと思うと小さな体が浮き上がるほど乱暴に自分の方へ引き寄せた。白い足先が赤に染まる。爪先立ちで苦しげな子供の耳元で男が何かを囁いたようだったが、ノイズが酷すぎて聞き取れない。しかしその後に男が指し示したものを見て、予感は最悪の形で的中する。
男の指先は暖炉を向いていた。ムルソーは戸惑ったように視線を往復させ、暖炉の方へと歩いた。男を見る。何か言われて、小さな両手が暖炉に突き刺さっていたものを引き抜いた。先端が真っ赤に燃える、火かき棒だった。
どっちがいい?興奮で甲高くなった声で女が問う。あなたとヒースクリフ、どっちがそれをーーーする?ノイズで掻き消された問いかけに、緑の目から感情が消えた。
狂ったように暴れ出した少年の背中を思いきり踏みつけて黙らせ男が嗤うのを、痛みも忘れて拘束から逃れようとする少女の頬を張る女を、手の中にある熱された鉄の棒を一巡した子供の目はすでに答えを決めているようだった。表情をなくしたムルソーは火かき棒の熱された赤い先端を上にして、それを自分の顔の近くに持っていくと、そこで初めて声を出した。平坦だが幼い、子供らしい声だった。
これをーーーしたら、二人を離してくれますか。醜い大人たちは嗤った。一頻り嗤った後頷いた。いいとも、今夜はこれで終わりにするよ。溜め息のような呼吸を一つ、熱した鉄が、小さな口の中へと招き入れられるのが荒い画質でもはっきりと映っていた。
悲鳴が音割れして響き子供の声は聞こえなかった。橙色が翻り、拘束を逃れて子供に駆け寄る。小さな両手で口元を覆ったムルソーは蹲り、体を丸めて痙攣していた。火かき棒は放り捨てられていた。大人たちが哄笑する声が響いていた。
男が笑いながら少年の上から足を退けると、雨のような暴力に曝されて満身創痍の少年は他に目もくれずに蹲った子供のところに這いずる。近寄った少年に少女が顔を上げた。殴られて赤らんだ頬以外真っ青にして唇を震わせている。医者を呼ばないと、と繰り返しているようだった。ヒースクリフがムルソーの名前を呼ぶ声は頼りなく、今にも泣き出しそうなほどひしゃげていたがその声に反応することすら出来ないようで、ただ小さく小さく丸まって口を強く押さえつけていた。そこから飛び出しそうなものを留めるみたいに。
寄り添う三人にカメラが近づく。気づいたイシュメールが目を吊り上げ間に入ろうとするのを突き飛ばし、ボロボロのまま噛みつこうとしたヒースクリフは男に押さえつけられ、カメラは蹲るムルソーに焦点を合わせる。ムルソー?楽しそうな女の呼びかけ。かわいいお顔を見せてごらん?痙攣を繰り返す子供の髪を掴んで、女が無理矢理顔を上げさせた。
涙で濡れた緑の目、掴まれた時についた血で汚れた頬、土気色の顔、上に引っ張られた反動で口元を覆っていた両手が外れて、血の混じった唾液を吐き出す口から、何かがポトリと落ちた。カメラがズームして、小さな赤いそれが肉片であるとわかる。子供の舌先のようだった。
それを認識して呼吸をしくじったグレゴールの耳に、狂ったように嗤う男女の声が張り付いた。音割れしノイズが走り聞くに堪えない男の声が嗤ったまま何か言葉を発した後、潰れた蛙の声を上げて突然消えた。女の悲鳴が響いてカメラが放り出された。橙色が男に乗り上げて何かを何度も振り下ろしているのが端に映って、少年の怒声と女の悲鳴が重なり、水袋を叩きつけたような鈍い音を最後に映像は終わった。
暗転した画面に酷い顔をした自分が反射して、無意識の内に止めていた息を吐き出しヘッドホンを机に放りながら片手で顔を覆う。憎悪を齎す嗤い声と心臓を握り潰す少女たちの悲痛な声が耳にこびりついて離れない。悪い夢であってほしかった。今まで集めてきた情報から、姉弟たちが既に危害を加えられているのは覚悟していた。それが吐き気を及ぼすものだろうことも想像出来ていた。しかし現実は予想を遥かに超えて悍ましいもので、狂っていて、逃げ場がなかった。右の肩がズキズキと痛む。選択肢のない地獄を、グレゴールはよく知っていた。
「お、ぁた?」
唐突に響いた拙い声に勢いよく振り向く。天蓋付きの豪奢なベットに腰掛けて細い脚を揺らす子供が見えた。平坦な緑の目はそのままに、食事の時以外外したことのない白いマスクの存在がないことに気づく。呆気に取られ何も言わないグレゴールを不思議そうに眺めたムルソーは、ことり、と人形じみた動きで首を傾げる。
「?ぅれごぉる」
「
…
話せたんだな」
「はつおんになんが、あぅらけで、はなせないとあ、いってぁい」
「そっか、それは、あー
…
」
「?」
「いや全然、全然良くはないんだけどさ。奪われたものは少ない方がいいってだけだ。ごめんな」
「??」
脈絡のない謝罪に子供はぎゅっと眉間に皺を寄せた。ただのエゴだよ、と説明したところで、聡くてもまだまだ幼いムルソーには理解できないだろう。ほんの少しだけ痛みが遠のいた安堵に笑う大人を見る目は透明だった。
重たい溜め息を溢して背中を丸めたグレゴールに、揺らしていた脚を下ろして立ち上がった子供が近づく。高そうな絨毯を踏み締める白い足先が赤く染まった光景を思い出し、今は火の入っていない暖炉をちらりと窺った。子供の舌先を溶かした鉄の棒は見当たらない。
ムルソーは二、三歩ほど間を空けて立ち止まった。然程上背のないグレゴール相手でも見上げなければならない小柄な子供は、幼さと相反する仄暗さを宿す緑の目で真っ直ぐに大人を見る。きゅっと引き結ばれた淡い色の唇の端に、火傷痕があることに今更気づいた。
「そぇで」
「うん」
「あなたのこたえは」
ふと、この子はどうしたいのだろうという気持ちが湧き上がった。他の二人とは違い、ムルソーはどうしてかグレゴールの仕事に対して協力的な姿勢を見せた。個人的な触れ合いや会話には反応を返さないので好意が元になっているわけではない。かといって憎悪もない。一貫してフラットで無機質だった。グレゴールが夫妻の顛末を暴いてしまえば、姉弟の秘密が白日に晒されるというのに。
緑の目はじっとグレゴールの答えを待っていた。賢い子供だ。幼さとハンデを武器に相手に意図を悟らせない胆力もある。実際ここに至っても彼の望みがわからないほどに。もしかしたら望みなどないのかもしれないと錯覚しそうなほど、目の前の子供に欲を感じられなかった。
一つ確かなことがあるとすれば、この子は姉弟のために火を飲み込めるということだけだ。
「ーーー俺は、俺の仕事をするよ」
同僚の忠告、少年の怒り、少女の軽蔑、老医者の嘆願、悪辣の末路。己の目で耳で見聞きした全ての事柄。この数日間、グレゴールはずっと答えを探し求めていた。全てを救うには腕が足りず、何よりそこまで聖人にはなれない。少女が吐き捨てたように、見て見ぬふりをしたくないだけの卑怯者だ。だからせめて卑怯者なりに、自分が後悔しない選択をすると決めた。
「依頼を終わらせる」
子供は無垢な眼差しのまま「うん」と素直に頷いた。落胆も驚きもない。最後まで淡々としたペースを崩すことのないムルソーにすっかり肩の力が抜けていたグレゴールは気が付かなかった。この家に“追い詰められていない”子供など存在せず、ムルソーが言葉の奥に込められた感情を読み取れるほど成熟していないということに。
「ぐぇごぉる」
そろそろ少年たちも限界だろうと子供を促して部屋を出ようとしたグレゴールは、舌っ足らずな声で名前を呼ばれて無防備に振り返る。そこで視界に入った見慣れた鈍い黒色が、子供の存在と結びつかずに判断が遅れた。一瞬の空白、その隙間を柔らかな声が埋める。
「ゆぅすな」
渇いた破裂音が一つ、空虚な邸に響いた。
顔の右半分をしこたまに腫らして身を縮める依頼主の男の隣で、質の良いスーツを着こなした若い男は優雅に微笑む。《胡散臭いね》呟きはカチカチという秒針に変わり、傍で待機する白髪の女性にしか正しく伝わることはなかった。炎を纏う奇妙な時計頭を見ても「ユニークですね」と驚きもしなかった男が、震えて俯く依頼人より先に口を開く。
「初めまして、ダンテさん。私はハーメルンと申します。彼らの上司で、今回は都合が合わず来られなかった彼の妻の代わりに来ました。依頼させていただいた件に進展があったと?」
《本名かな》
「えぇ、そうですハーメルンさんとダンテは言っています」
「それはそれは、素晴らしい。ここに頼んで正解でした」
相手に言葉が伝わらないからと好きに感想を溢すダンテの言葉を冷静に置き換えて、ファウストが淡々と通訳するのにも特に反応せずにハーメルンは満面の笑みを浮かべた。彼が一言発する度にびくつく隣の男などいないように振る舞い、「それで」と微笑んだまま言う。「彼らは見つかりましたか?」
「いいえ」
「おや」
「依頼の内容は夫妻の安否の確認でしたが、調査の結果、夫妻の生存の証拠も死亡を判断する遺体も確認できませんでした」
「
…
つまり、消息不明のまま、依頼は完遂されなかった、ということですか?」
「はい。ですので、依頼料は請求いたしません、とダンテは言っています」
ふむ、とハーメルンは芝居がかった仕草で顎に指を触れさせた。ダンテは隣の男が今にも吐きそうな顔色になってきているのが気になって仕方がなく、ビニール袋とか置いてたかな、とぼんやり考えていたためにダンテさん、と呼びかけられているのに一瞬気づくのが遅れた。目も口もない時計であるダンテがどこを見ているかなんて知りようもない男は、注意が散漫になっていたことにも気づいた様子はなかったが、ファウストの視線は冷え込んでいたので改めて気を引き締め直す。
《何でしょう?》
「本当に何もわからなかったんですか?一つも?」
《そうだってば》
「はい」
「確証がなくたって良いんですよ、推測でも何でも目星はついてるはずでしょう。あれだけお調べになったんですから」
《うわバレてる》
ダンテの感情の揺らぎを示すように時計がゴーンと大きく鳴いた。ファウストは微動だにしない。彼女はこの依頼の調査を深めた時点で相手に悟られるのは予想していた。予想した上で、あえて全て隠そうともしなかった。答えが出るまで徹底的にと、他でもないダンテが命じたので。胡散臭い笑みを貼り付けるハーメルンに、ファウストは臆することなく答える。
「調査の過程で知り得た情報は外部に漏れることはありません。依頼を遂行できなかった以上、この依頼に関する情報はこの後全て廃棄します」
「いえいえ、良いんですよそこまでしていただかなくとも。知ったところで何か出来るわけでもないでしょうし。そんなことよりも、誰が、何をしたのかが知りたいんです私は」
《遠回しにお前ら弱小事務所に何が出来るの?wって言ってない?この人》
「子供たちと話したんでしょう?」
カチカチと伝わることのない不満をダンテが漏らすのに被せるようにして、ハーメルンが発した言葉は嫌な湿度を持って二人に届いた。しん、と下りた静寂に男が裂け目のような歪な笑みを浮かべる。顔色を変えようのないダンテの隣、聡明な補佐は揺るがない。
「子供達にも一通り事情を聞き、邸の中も調査しましたが、約三ヶ月前に夫妻が消息を絶った、という情報以外この依頼では確定させることは出来ませんでした。調査の最終段階で担当者が負傷したこともあり、継続は困難と判断、中止しました」
「負傷?大丈夫なんですか?」
「今は自宅で療養しています。復帰は未定です」
「それは災難でしたね」
心底憐れむような表情もどこか重みがなく、その証拠に次の瞬間にはけろっとしてすぐに話題を変えた。
「そういうことなら無理にとは言えませんね、怪我人が出るような依頼になってこっちが申し訳ないほどです」
「負傷はこちらの落ち度ですので」
「あぁ、それではあの子達はこちらで引き取らなきゃいけませんね。保護者が必要だ」
《
…
》
「大丈夫ですよ、上の子はちょっと年がいってますが、まだ需要がありますからね」
最早隠しもしなくなったあからさまな言葉にダンテは机の下で拳を握る。ハーメルンはにんまりと嗤った。取るに足らない格下だと認識して勝ち誇り、傲慢な余裕をひけらかして、命を自由に出来る様を誇示する。反吐が出ると思った。今は機械オイルもまともに出せはしないけど。
「ではこれで失礼します。またどこかで機会があれば、」
「今日お呼びしたのは別件の依頼についてお話したかったからです、ハーメルンさん」
用は済んだとばかりに腰を上げかけた男を制してファウストが淡々と告げた言葉を、一瞬理解出来なかったらしく取り繕った紳士の顔が怪訝そうに歪んだ。色素の薄い水色の瞳は、欠片も揺らぐことなくハーメルンをただ見据える。
「
…
別件の依頼、ですか」
「はい」
「一体どのような?」
「依頼主の身の安全の保障、及び■■社との交渉代理を請け負いました」
社名を聞いてハーメルンの片眉が跳ね上がり、その隣でいよいよ吐き戻しそうになっている男を見かねたダンテが《ファウスト、お手洗いを教えてあげて》と言うと今日初めて滑らかにダンテの言葉は訳された。「お手洗いは向かって右奥にあります」男の情けない視線を受けたハーメルンは鬱陶しそうに手のひらを振って追い払う。モゴモゴと何事か早口で呟きながら男は小走りに事務所を突っ切って行った。多分、失礼します、と言いたかったのだと思う。
本来の依頼人がいなくなった空間で、いつの間にか当事者に代わったハーメルンが改めて笑顔を貼りなおしつつ言った。
「我が社と交渉?はは、それはそれは、また突拍子もないですね」
「ハーメルンさんが今回の依頼において、■■社の代理人として交渉を請け負えないのであれば、このままお帰りいただいて結構です」
「いえ、私が代理人で構いませんよ。元々一連のトラブルの処理するために派遣されましたから、最後までお付き合いしましょう。交渉の内容は?」
「イシュメール、ヒースクリフ、ムルソーの養育の権利の放棄、及び今後一切の接触をしないという確約、記録の抹消」
ハーメルンは数秒視線を左上に向けて黙り込んでいたが、何かを思い出したような顔をしたと思ったら弾けるように声を上げて笑い出す。
「はははっ!そうですか、誰かと思ったらあの子供達じゃないですか!はははは!これは傑作だ!!」
「
…
」
「情が移ったんですか?何ともまぁ、言いたくはないですけど随分お粗末じゃないですか。依頼一つまともにこなせないと思ったら、子供の戯言に付き合って一企業を相手取って交渉の真似事とはね!」
《取り繕うことすらしなくなったなこの屑》
「これを真似事だと認識されるのであればお引き取りを」
「あぁ、申し訳ない。余りに、ふ、面白くて。えぇ交渉でしたね、それならこちらに応じるメリットがないといけない。用意はありますか?」
完全に小馬鹿にして含み笑いを隠せないハーメルンに苛立つダンテとは対照的に、どこまでも冷静なファウストは静かにテーブルの上にUSBメモリを一つ置いた。それを見てもまだ笑みを含んだまま「これが何か?」と余裕そうなハーメルンだったが、次にファウストが発した言葉に表情を一転させる。
「この中には画像、録画、及びそれらを売買した取引記録と顧客名簿が入っています」
「
…
顧客名簿?」
「はい。あなた方の秘匿しているビジネスにもよく関わっている名前がここにも多く記録されていますね」
「どのような取引があったのか聞いても?」
「複数の児童に対し暴行を加えている動画が人気のようです」
「
…
」
「夫妻の収入源の一つだったようですが、ご存じなかったのですね」
ともすれば煽るようなファウストの言葉にハーメルンは反応しなかった。笑みを消した能面のような顔で、じっと小さな情報の塊を睨みつけている。
データの中身はダンテも途中まで確認したが、とても最後まで見れるものではなかった。それなりに汚泥を覗き込んできたと思っていたたが、今まで見てきたものとはまた次元の違う醜悪さで、悲痛な子供たちの泣き声が数日経った今でも消えてくれない。交渉のために全てのデータに目を通したファウストは顔色こそ変わらなかったものの、流石に疲れた様子で顳顬を押さえていたのが印象に残っている。
しばらく誰も口を開かなかった。一応の礼儀として出されたコーヒーはすっかり冷め切って、泥のように鎮座している。ふふ、と空気を揺らすように男が笑った。笑わないと死ぬんだろうか、そろそろ殴っても許されるんじゃないかな、とダンテは思う。
「何かと思えば、それだけですか。拍子抜けですね」
「
…
」
「あなたの言うように、私たちのビジネスの一つのお客様がそれに関与しているとしましょう。しかし、それを証明する正当な手段で得た証拠はありますか?ないでしょう?あとは親もいない孤児の証言だけですが、社会に長年貢献してきた我々とどちらが信用に足りうるかなんて議論するのも馬鹿馬鹿しい。
そもそも失踪した夫妻が勝手に起こした違法ビジネスだと言ってしまえばそこで終わりだ。反訴するべき人間は見つからないのですからね」
ハーメルンは高々と笑い声を上げる。この小さな地獄の中身を見ていないからか、いいや、見ていたとしてもこの男は同じように笑い飛ばして見せるだろう。そういう人間だ。人間であるかも最早疑わしい。こんな邪悪な生き物が子供たちに関わっていること自体がダンテには耐え難い苦痛だった。
反論しないファウストに勝利を確信したのか、ご機嫌にほくそ笑んで優雅に足を組み直した男は止めとばかりに続ける。
「それにあなたが仰ったのですよ?情報はこの後廃棄すると。録音していたので聴かせましょうか?あぁ気を悪くしないでくださいね、こういう時のためにいつも録音しているんです「勘違いなさっているようですが」
…
何?」
イキイキと敗者を嬲るための言葉を遮られてハーメルンは露骨に不機嫌になった。それを冷えた眼差しで一瞥するファウストは特に気にした様子もなく話の主導権を奪う。
「廃棄する情報は『夫妻の失踪の調査』を目的として集めた情報のみです。今ここにあるデータはそれには該当しません」
「屁理屈を、」
「御自身が録音したデータを擦り切れるほど確認しても、ファウストは『この依頼に関する情報の廃棄』としか明言していないはずです。何ならその後、知っててもどうにかなるものではないからしなくていい、という旨の発言をあなたがしていることも記録されているでしょう」
「
…
はっ、それがなんだ。先程も言ったが、たとえデータが残ったところで我が社との関係を証明することなんて、」
「証明する必要がありません」
「は?」
「顧客が■■社と関わっていること、夫妻と取引した事実、取引したデータが違法であるという自覚さえあれば、夫妻の売買にあなた方の関与があったかどうかは関係ありません。彼らは彼らの違法な趣味が外部に漏れ出すことを何より嫌います。自分たちの取引情報が第三者の手に渡ったという噂だけでも、あなた方のビジネスから手を引く理由になるでしょう」
ハーメルンは笑わなかった。笑えなかったのだろう。彼らの醜悪なビジネスの世界についてはここにいる誰より詳しいはずだ。
すっかり顔色を変えた男にファウストは一切手を緩めることをしなかった。
「彼らのネットワークは敏感です。一度でもそのような噂が立てば蜘蛛の子を散らすように身を隠し、二度とそこには近寄らないでしょう。ファウストは痛くも痒くもありませんが、あなたはどうですか」
「
…
」
「『親もいない孤児』のために、折角育てた市場を捨てますか」
今までで一番長い沈黙が下りる。男は黙り込んで俯き虚空を凝視する。ダンテは人間の皮を被った怪物の仮面がべりべりと剥がれる様を見ていた。醜い、浅ましい、腐り切った中身がまろび出るのを待っていた。悪臭を放つだろうその姿を思いっきり笑い飛ばして、ありったけの罵声を浴びせて、お前こそ何の価値もないのだと吐き捨ててやりたかった。
ハーメルンがゆっくり顔を上げた。何の意味もない、空虚な笑みを浮かべながら。
「ーーー先の非礼をお詫びします、ファウストさん、ダンテさん。交渉に応じましょう」
声は平坦で抑揚がなく、先ほどの傲慢さが嘘のように丁寧だった。いっそ不気味なほどの変わりように警戒するダンテの隣で、「こちらの要求は伝えました。そちらの条件をご提示ください」とファウストはどこまでも冷静に告げる。
「私たちの条件はこのデータの譲渡、そしてこの一件に関する全ての情報の廃棄、流出の阻止です。これらを呑んでくださるのであれば、提示された要求を全て受け入れるとお約束します」
「契約書は後日用意します」
「ありがとうございます。それでは、今日はこれで。やらなきゃいけない仕事が増えましたので」
にっこりと愛想よく微笑んで立ち上がるハーメルンに合わせてダンテたちも腰を上げる。そのまま当然のように握手を求めて差し出された掌は無視してダンテは言った。
《あなたもかつて孤児だったはずだ》
「
…
彼は何と?」
「あなたも孤児だった、と」
《どうして自分を虐げた会社に従い、同じ境遇の子供たちを増やすんだ。あなたには彼らの気持ちが痛いほどわかっているのに》
ファウストはダンテの言葉をそのままハーメルンに伝えた。調査の過程で、ハーメルンや依頼人、失踪した夫妻、■■社の違法なビジネスに関わる社員の殆どが孤児院出身だということを知った時から抱いていた疑問。彼らは地獄を生き抜いて大人になった。なのに今は加害者の側に立って、同じ地獄を作り出している。彼らは怪物になってしまったが、そうなった理由が知りたかったのだ。
ハーメルンは幼い顔で目を丸くした後、無視された手を大人しく戻して笑った。仮面を幾重にも貼り付けた、かつての子供の面影すらない『ハーメルン』の笑顔で。
「弱い者は生き残れません。他人を蹴落とし、死体を漁って、自分の有用性を示せた者だけが生き延びる。そういう世界でした。
…
私たちには、ダンテさんのように気まぐれを起こしてくれる誰かがいなかった、ただそれだけの話ですよ」
雲一つない青空の下をダンテは歩いていた。途中で買い込んだコンビニの袋をガサゴソ揺らし、照り返す日差しに汗を拭う人の波に逆らいながら目的地へと足を進める。こういう時は頭が時計でよかったと思う。首から下は汗みずくだが、視界が汗に遮られることはない。
とはいえそこそこ堪える暑さに嫌気がさして来た頃、目的地である小さな一軒家と、その庭に座り込んで煙草を燻らせる見慣れた人物が見えてダンテは《おーい》と声を上げた。常人にはゴーンという鐘の音にしか聞こえない呼びかけに、その人物は笑って手を上げて見せる。
「よぉ旦那」
《元気そうだね、グレゴール。随分男前になったみたいだけど》
「あんたまでそんなこと言うのかよ
…
」
左頬に特大のガーゼを貼り付けたままグレゴールは情けなく眉を下げて傷ついたふりをする。ダンテはごめんごめんと軽く謝罪しながら手に持っていたビニールを差し出し、今回の功労者であり名誉(?)の負傷を遂げた部下を労うと同時に小言を溢した。
《怪我したって聞いた時は本当に心配したんだよ。ロージャと良秀が面白がって銃で撃たれて意識がないとか言うから大慌てで駆けつけたのにピンピンしてるし》
「油断してたのは俺が悪いけどそれは俺のせいじゃなくないか?」
《銃で撃たれて無傷なのに女の子にぶん殴られて気絶とかどうなってるのさ》
「あんまりそこ掘り下げて欲しくないな
…
間抜けすぎる
…
義手(これ)で良かったと思える日が来るとは俺も思ってなかったよ」
笑うと腫れた頬が痛むのかいててと顔を歪ませながら、グレゴールは自身の右腕をこつりと叩いてみせた。
数日前、グレゴールは三姉弟の末の子供に銃で撃たれた。至近距離での発砲であったにも関わらず傷を負わずに済んだのは、子供が銃の扱いに慣れておらず、その銃自体の手入れが万全ではなかったこと。それらが原因で照準がずれ、偶然にも弾丸が彼の生身ではない部分に命中したことが重なった結果だ。弾丸も弾く鋼鉄製の義手。
運が良かったとはいえそこまでは格好もついたのに、発砲の音と呆然とする子供に怒鳴ったグレゴールの声を聞きつけて部屋に駆け込んできた少女の拳をまともに喰らって、本棚に激突し落ちてきた本の背表紙の打ちどころが悪くそのまま昏倒するという、暴力的なピタゴラスイッチに見舞われ病院に担ぎ込まれてしまった。その一連の流れを見た同僚二人は大爆笑していたと言うのだから酷い話である。
「言っとくけどな旦那、あの子の拳をまともに喰らったら旦那の頭は吹き飛ぶぞマジで」
《逞しくてなによりだね》
「他人事ぉ
…
」
《そもそもどうして撃たれたの?怒らせるようなことした?》
「
…
俺の言い方も悪かったんだけど、依頼人に連れ戻されると思ったらしいんだよな。既に夫妻を手にかけてる二人と引き離されるって。だから、俺を殺して同じになろうとしたんだと」
《
…
それは、なんていうか》
「壊れてるだろ?でもそれしかないって思ったんだろうなぁ。あんな古びた銃なんて持ち出して
…
暴発してたら自分の顔が吹き飛んでたかもしれないくらい錆び付いててさ、思わず危ないだろって怒鳴りつけちまった」
グレゴールは申し訳なさそうに言うが、相手が幼い子供で、その境遇に大いに同情できるところがあるとしても、殺意を持って銃口を向けた相手に向ける怒りは果たしてそれで合っているのか。本人が良いなら何も言えないけれど、グレゴールは同僚たちを常々変わっていると評すが本人も大概という自覚はないようだ。
なにせ撃たれてぶん殴られたのにも関わらず、彼らを引き取って保護者となり、散々引っ越せとせっつかれても頑として倒壊寸前のアパートから出ようとしなかった男が住居を新ためたのだ。頭を打っておかしくなったのではなく、調査の最中には既に考えていて銃をぶっ放されたことで決心したというのだからもう最初からおかしい。おかしいけれど、悪くはないとダンテは思う。
ダンテの正面、座るグレゴールの背後にある素朴な家は、彼がかつて家族と暮らしていた生家だ。家族が彼一人除いて全員いなくなった後は最低限の維持だけで殆ど放置されていたが、今回のことで再び住居としての役割を果たすことになった。長年放置された家屋はすぐに人が住めるような状態ではないらしく、怪我の療養と銘打って諸々の処理のために休暇を与えたことを思い出したところで、呑気に煙草を吸って黄昏ている男に疑問が湧いた。何してんだこのおっさん。
《
…
子供に全投げしてサボってるわけじゃないんだよね?》
「はっはー!言われると思ってたぜ。残念ながら違うな、あんたがいると作業が進まないって追い出された」
《余計に情けない》
「言わないでくれ」
そんな会話を交わしていると、家の中から賑やかな声が近づいてきて玄関のドアが開く。
「めんどくせーなわざわざ確認なんてしなくて良いだろ」
「そういう訳にはいかないでしょう一応家主なんですから
…
あ」
唇を尖らせて怠そうにするヒースクリフを嗜めながら出てきたイシュメールは、やぁ、と片手を上げるダンテに気がついて反射のように身構えた。その後ろから顔を覗かせた少年は「お、時計面」とどうでもよさそうに呟き、その下からひょこりとマスクをつけたムルソーが顔を出す。最初に顔を合わせた時より随分顔色が良くなっていてほっとした。
《元気そうだね》
「えぇ、おかげさまで
…
来るなら教えてくださいよ」
「ごめんごめん」
「手ぶらで来んなよ使えねーな」
「こら」
まだ少し距離を感じるイシュメールとは対照的にヒースクリフは遠慮がない。懐いているというわけでもないから微妙なところだが、とりあえずは敵ではないと判断してくれているようだ。舐めているともいう。末っ子のムルソーは何を考えているかさっぱりわからない。嫌悪も好意もその無表情からは読み取れなかった。
《そう言われると思ってちゃんと用意してるよ》
「所長様の奢りだぞー」
心では渾身のドヤ顔を披露したダンテに笑い、グレゴールはビニール袋をガサつかせながら掲げた。素直で現金な少年たちはいそいそと寄ってきて袋の中身を覗き込む。
《暑いから飲み物いるだろうと思って色々買ってきたよ!》
「ずんだタピオカソーダ
…
?」
「おっさん責任とって処理しろよな」
「待って聞いてない」
「んぅ」
「ちょっと待ってくださいね、ムルソーの飲めそうなもの
…
」
「ミルクコーヒーあんぞ」
「これで良いです?」
「ん」
ゆっくり飲んでね、落とすなよ。弟にかける言葉は柔らかい。仲睦まじい様子をほっこり身守るグレゴールの膝上にはどのジャンルに分類することも冒涜になりそうな謎ドリンクが雑に放られる。旦那
…
?と絶望顔で見上げてくるのをダンテは気づかぬふりをして、各々好きな飲み物を手にした少年たちに向き直った。ヒースクリフはぶどう、イシュメールはオレンジ、ムルソーは甘いミルクコーヒー。好みも性格もバラバラで血の繋がりもないが、ずっと三人で寄り添って過ごした年月が彼らを本当の姉弟より姉弟らしくみせていた。
《進捗はどう?結構片付いたかな》
「ん、そうだそれで出てきたんですよ。グレゴールさん、棚に置いてあった中身が何なのか消費期限がいつなのかもわからない缶詰って捨てても良いですよね?」
「えっ」
「えっ?」
「ほらめんどくせー黙って捨てりゃ良かったんだ」
「え、あー、ちょっと、ちょっと確認してから
…
」
「正気ですか埃まみれ錆だらけなんですよ何を確認するっていうんですか、ちょっ、あなたの缶詰への執着何なんです!?グレゴールさん!!」
大丈夫大丈夫などと呟きながら虚な目で家の中に入って行ったグレゴールを慌ててイシュメールが追う。それを心底呆れた視線で見送るヒースクリフにダンテはそっと声をかけた。
《
…
もしかしてずっとあんな感じだから追い出されてたの
…
?》
「使えるかも、まだ食えるかも、いつか役に立つかもっつって出るもの全部残そうとするからケツ蹴り上げたんだよ。マジでチビより役に立たねぇぞあのおっさん」
《片付けるってことに関しては反論できないかなぁ
…
》
ふん、と鼻を鳴らし飲みかけのジュースを一気に呷った少年は空になったそれを当然のようにダンテに押し付け、ゆっくり飲んでねの言葉を律儀に守っているムルソーの髪をぐしゃぐしゃにしながら言った。
「お前それ飲んでから来いよ」
「ん」
こくりと素直に頷いた弟に微かに笑うと、ヒースクリフは一度ダンテの方をちらりと見てから家の中へと戻っていった。奥の方で何やら揉めている二人の元に向かったのだろう。グレゴールはまた尻を蹴飛ばされるのだろうか。さもありなん。
陽光に照らされた庭先に、無口な子供と二人残されたダンテは少し迷って、微塵もこちらを気にする素振りを見せないムルソーの目線に合わせてしゃがみ込んだ。感情の読めない緑の目が瓶の中身からダンテに移る。
《調子はどう?慣れた?》
「ここぇのくらしにふまんは、あいません」
《困ったことがあれば遠慮なく言ってね、私でもいいしグレゴールでも良いから》
「はい」
ゆったりと一つ一つの言葉を短くなってしまった舌で伝えてくれる子供の、柔らかそうな唇の端にある痛々しい火傷の痕をつい追ってしまう。ヒースクリフの身体にある無数の傷やイシュメールの額にある痣もそうだが、彼らが受けた理不尽な仕打ちの痕跡を目にする度に、ダンテは遣る瀬なさを覚え、同時に今も理不尽に耐えている子供の存在がいる事実に無力感を覚えた。ダンテは神ではない。今持ちうる力では、三人を守ることが精一杯だった。出来ることは全てやって救えた命に何の不満もないが、それでも足りないと思ってしまうのは地獄を垣間見た傍観者のエゴだろう。
《
…
舌、治せる人を探そうか》
そんな言葉が出てきたのはそういう下地があり、行き場のないもやもやを少しでも和らげたいという思いと、これから先の人生に不便があるだろうという親切心からくるものだった。ムルソーはパチパチと何度か瞬きして、しかしふるふると首を横に振る。
「いいえ、ひつようあぃません」
《え、で、でも不便じゃない?話しづらかったり刺激の強い食べ物に敏感になったり
…
》
「わたしにとってあ、いまのじょうたいがこのましいので」
《そうなの
…
?》
「はい」
遠慮をしている様子はなく、どうやら本当にそう思っているようだった。他人から見れば痛ましいその姿が好ましいと思う気持ちは理解できなかったが、本人がそういうなら無理強いはできない。気持ちが変わったその時に手を差し伸べればいいのだ。彼の人生は彼のものだから。
「ーーーーーーー」
《ん?何か言った?》
風に攫われるほど微かな囁きを聞いた気がして聞き返すと、ムルソーはまたふるふると首を振ってダンテの背中の向こう、燦々と輝く太陽を見上げて眩しそうに目を細めた。その口元がわずかに微笑んでいるように見えた。光を吸い込んでなお昏い緑の目で空を見る子供は、背後で騒ぎ立てる喧騒など気にしていないような穏やかな声で呟く。
「ーーーかじつがくさりおちるまえでよかったですね」
その言葉の意味を問う前に、家の中からとんでもない衝撃音と少年少女の怒声が響いて肩を揺らしたダンテは、状況がわからないのでひとまずムルソーをその場に待機させると埃がもうもうと舞う玄関へと向かい家の中に入った。
ムルソーはその背中をじっと見つめ、再び空へと視線を戻す。すぐに背後がわぁわぁと賑わい始めてもどこ吹く風、既に空になった瓶を手持ち無沙汰に揺らしながら子供はゆっくり目を閉じた。開けた小さな庭先で無防備に微睡む子供を、邪魔する悪魔はもうどこにもいない。
口内に残った甘さを浚った舌先が疼いて、短いそこに小さく歯を立てながらムルソーは呟く。
「わたしのかちだ」
そう、誇らしげに。
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