ゆい
2023-12-19 13:02:48
4668文字
Public
 

君と橋は渡らない

【宗みか】手芸室で戯れる話


何の真似かね」

部室の冷えた硬さに背骨が軋む。普段寄り掛かる事などまず無い白い扉は陽光を一目も知らずに冴え渡り、制服越しでも身震いする程痛かった。年中冷え気味の身体には耐え難い体勢だが、しかし迂闊には動けない。何故なら、無駄に真剣な顔をした影片が無駄に白くて長い両腕で無駄に僕を閉じ込めているから。綿密に切り揃えた前髪から覗く瞳は星より尊く、影にも光にも艶めく頬は息を呑む程に麗しい。ここまで過度に整った宝石にこんな至近距離で見上げられると、流石の僕でも息の一つや二つは密かに飲む。だけど、僕は知っている。影片が無駄に真剣な顔をしている時は、大抵ろくでもない事を考えている。

……お師さん、今ドキドキしとる?」
「どちらかと言えばイライラしている」
「んあっ、やっぱり失敗やん!」
「君にとっての成功とは何だい」

綺麗に白けた僕の返事に上目遣いの影片が間抜けに鳴く。思い詰めたような壮絶な美はシャボン玉と同じ儚さで弾け、低俗な感情が既にその顔を染めている。君は何時だってそうだ。類稀なる後天の不出来さが、類稀なる君の先天を打ち消している。僕のたった一言でいとも容易く揺れる君など、恐れるには全く足りない。加えて威厳とは程遠く怯む眼差しと、みるみるうちにふにゃふにゃ萎れる口元の一体どこに、呆れ以外の感想を抱けば良いのだろう。

「それで、君は一体何がしたいのかね。怒らないから説明したまえ」

背中の冷たさにもそろそろ飽きてきたから、先程の魔法をもう一度唱えてやる。だけど、目の前の情けなさは、雨ざらしの仔犬のようにここぞとばかり押し黙る。みっともなくても強がるならば最後まで気安く音を上げるべきではない。零した声に溺れるような愚かさを、君は一生知るべきではない。
なかなか返ってこない答えを待つ手持ち無沙汰から無防備な頬に手を伸ばす。見た目通り温もりよりも冷たさが勝る白磁は、殆ど抵抗無く僕の掌へと馴染み、ぱっと花へと綻び転ぶ。土砂降りのみすぼらしさはすっかり影を潜め、無邪気に僕へ擦り寄ってくる姿は、目を見張る程に瑞々しい。猫のように細められた瞳は三日月を真似て、閉じ込める両手は今にも壁を離れて抱き付いてきそうな浮かれっぷりだ。僕の気も知らずに何と暢気な生き物だろう。万が一にも瑕など残さぬように注意してほんの少しだけ頬を抓ってやれば、烏は再び甘く鳴く。無自覚だとしても大した演者だ。どうせ踊るなら阿呆のままで。後ろ指まで差されても幕が降りるまで決して先に目覚めてはいけない。
埒の明かない慈しみを今更ながら振り切って、最後だと促すように影片を呼ぶ。ぱちりと一つ瞬いた世界は名残惜しげな眼差しのまま、漸く僕を離れて幼い唇を尖らせる。

「クラスでなぁ、今日流行ったんよ。壁にドンってやるやつ」
「それは僕でも知っている流行だったね。随分前に廃れたけれど」
「そうなん?今の若いコは皆やっとるって聞いたんやけど」

凛月くんは嘘吐きやなぁ。大して傷付いた様子も無く影片は小さく呟いて、音も無く僕から離れていく。先程までの真剣さがまるで嘘のように二人の距離はあっさりと開き、細く影のような身体は何時もの定位置へと静かに沈む。影片愛用の椅子には薄っぺらな座布団が一枚だけ敷かれている。そのあまりの貧弱さに、座る骨身が軋みそうだと見るたび思う。いくら注意されてもこだわりを譲らない頑固さは芸術に生きる者としては正解だが、僕の信徒としては不正解だ。いつか僕好みの生地の厚手で柔らかいクッションに無断で取り替えてやる。

「お師さん?何や変な顔しとんで。時代劇でよく金色のお饅頭食べとる人みたいな」
「誰が悪代官だ」

そんな下品な山吹色の菓子を好むのは、現世じゃあの憎々しい皇帝一人で十分だ。突発的な精神的な疲れもあってか、押し付けられた壁から何故だか離れ難くなってしまった。別に誰が悪い訳でも無いけれど、やられっぱなしも癪だから慣れ始めた冷たさに凭れ掛かりながら一つ溜め息を吐いてやる。

「そんな下らない理由で僕は入室した途端に壁へと押し付けられたのかい。夢ノ先の帝王である僕に大して不敬が過ぎるよ」
「でも、これ覚えたらファンサの幅が広がるって皆言っとったもん。お師さんは割り箸効果って知っとる?一緒にドキドキした同士は好きになるってやつ」
「当然知っている。加えて言うと正式名称は吊り橋理論だよ粗忽者め」

思わず腕組みもしたくなる虚無感に本日二度目の溜め息が漏れた。そんな小手先の小細工を弄せずとも僕達の舞台では、最初から共感を求めていない。数多の凡俗達は極限まで研ぎ澄まされた芸術を享受するだけで精一杯であろうし、一度や二度の鑑賞で恋などされては堪らない。一過性のときめきなどは不要だ。揺れようが割れようが変わらずあこがれ続けられる僕達で居なければ意味が無い。
肯定など一つも篭もらない反応にも、影片は何故だか照れたように笑う。さっぱり意味の分からない行動原理だが、顔中で示される好意は悪い気はしない。そりゃ僕が見出した僕好みの美が、僕だけに向けて心を許すのだ。あまりの目まぐるしさを疎ましく思うことはあっても厭うことなどあるものか。
白く火照っていた二人の影がいつの間にか歪に茜と果てている。実も葉も無い与太話に暮れている内、迂闊にも時が経つのも忘れていたらしい。せっかく部室へ来たのに針と糸に一度も触れずに僕達は言葉ばかりを紡いでいる。一年前では決して有り得なかった日常だ。過ぎた季節の僕達は各自あまりに独り善がりで、共に過ごす日々の重さが天と地ほどに乖離していた。見下ろす過信と見上げる盲信は砂上の夢が崩れ落ちるまでついぞ交わることは無く、折り重なるように倒れた時に初めて同じ生き物だと知った。それから僕達は運命を手放して、凄惨に傷付け合った末に漸く等しい眼差しを得た。悲しいことは沢山あって、回り道も遠回りも嫌と言うほど繰り返したけど。驕らずとも遜らずとも満身創痍の僕達は、今やっと正しく話が出来る。欠けた輪は二度と閉じずとも、残った命で新しい弧を描こう。操者と人形では辿り着けない二人分の高みへ、肩書きなど無いまま生身の僕達で必ず往こう。
まだ箸と橋の違いに迷う愚か者が、憂いなど欠片も無い甘ったれた瞳で僕の説明を待っている。クラスメイトに一度聞いてきた筈なのに、全く持って二度手間だ。理解力は人並み程度にはあるのに、影片は受け取った知識を自ら咀嚼して飲み込もうとしない。恐らく、それは影片が生きる為に身に付けた処世術なのだ。ポイントをわざと外して曖昧に語彙を並べることで相手に会話の優位を譲る。そうして彼は自尊心を擦り減らしてでも、心だけは守ってきた。だけど、自分の意志を信用出来ないせいで、誰の言葉にも清濁問わずに丸め込まれてしまう。どうか覚えておいて欲しい、考えることは悪ではない。人形ではない君は、沢山何かを考えて沢山道を誤るべきだ。思考の先に手にした答えがどんなに歪でも、僕は君だけの論理を知りたいのだから。

「舞台で活かしたいのならばもっと正確に覚えて実行したまえ。それが僕達を観に来てくれる人への最低限の礼儀だよ」
「思い出すにしても半日も前のことやからなぁ大昔過ぎて霞食ってるみたいやわ」
「君ねぇ鶏でももう少し覚えが良いよ」
「鳥さんに負けてもうた‥まぁ、おれ鳥目やから」
「それで納得するのかい?あぁ、もう君と話していると漫才でもしている気分になる」
「おれはそれでも嬉しいわ。お師さんとお話出来るなら何でも楽しいし幸せやで」

舞台上では決して許さない表情と雰囲気で影片は何でもないことのようにまた愛を吐く。流石に茶番にも飽きたのか、最後ににこりと笑って傍らに置かれた昨日の続きに手を伸ばす彼に少しだけ腹が立った。言うだけ言って、やるだけやって気が済んだら僕の気持ちは置き去りに日常へ戻るなんて不公平だろう。
影片が手元の縫い目に気を取られている内に音を立てずに彼の近くまで足を動かす。突然落ちた影に上げられた顔を正面から掬い上げて、そのまま無防備な唇に口づけを。急に屈んだせいで体勢も無様だし、勢い余って少しだけ歯が当たった気もするが、全て無視して今にも引き攣りそうな表情筋に力を込める。例え、頬を掴む指が震えようともせめて勝ち誇り見下さなければ。ぽかんと阿呆面でこちらを見上げる彼に、このままでは報いることすら出来ない。

「相手をときめかせたいのならば、これくらい出来なければ意味が無いのだよ」

掠れないように裏返らないように細心の注意を払った言葉にも返答は無い。代わりにみるみる色付いていく表情を見れば、答えなど聞かずとも手に取るようにお見通しだった。僕達はどちらかが上に立ったり下から仰ぐような関係はもうやめたのだ。互いに戸惑う手でも取り合って、時には足を引っ張り合ったとしても、最後は対等に生きていくとあの星の夜に決めたのだから。
破れかぶれの殺し文句でも何とかしっかり刺さったようで、内心安堵の息を吐く。すると、呼応するように開きっぱなしだった眼下の唇が不意に動き出した。溢れるような戦慄きが少しずつ音と言葉を思い出していく様を蝶の羽化を待つ心持ちで見ていた。致命傷かと思ったけれどまだ動ける君だったのか。今にも溶け落ちそうな赤い顔で僕に一矢報いようなんて、百年早いよ。

「‥ふ、不意打ち、はずるいわぁ‥!」
「何もずるくはない。君もやったのだからおあいこだよ」
「おれのは未遂やん!お師さんの阿呆!優雅!世界一!神様!すけべ!」
「最後のは余計だろう!褒めるか怒るかどちらかにしたまえ!」
「褒めながら怒っとるの!もう散々や!お師さんのせいで心臓がいくらあっても足りん。これからもずっとハラハラしっぱなしやんか」
「そこはドキドキではないのかね?」

未だ両頬を挟まれたままのみっともない顔でも懸命に反抗してくる影片が愉快で、溜飲がみるみる下がっていくのを感じる。先程とはまた違った理由で表情筋に発破をかけ直せば、熱い指の間で大きく息を吸った気配がした。

「ドキドキなんてし飽きたわ。橋なんて渡らんくとも、おれはとっくに大好きやし」
「‥‥どうして君は、そんな台詞をそんな詰まらそうに言うんだい!もっと喜べ!誇れ!ほらっ、君の大好きな僕だよ!!」
「おれだって男の子やもん!!やられっぱなしは悔しいんやもん!!おれもやりたい!!」
「先に手を出したのは君だろう!?あぁ五月蝿い!!君はもう黙りたまえ!!」
「ぎゃああ!?お師さん!!またちゅーするつもりやろ!!おれがする!!今度はおれの番!!」
「順番とか無い!!!!」

ぎゃあぎゃあと喚き暴れる眼下の星を、情けないと無下に断ずることはもう出来ない。きっと今の僕だって、大して変わらぬ有り様だろう。何故かこちらへと迫ってくる端整からは程遠くなった顔を押し返してみても、取って付けた虚勢が崩れ落ちて行くのは止められない。口づけくらい本当はいくらでもしてやるが、させてやるのはまた違う。惚れた弱みはお互い様、それでもまだ僕の掌上で踊ってくれる君でいて欲しい。酷い我が儘だとは分かっていても譲る気だってさらさら無い。格式も品格もかなぐり捨てて、近付いては離れることを絡まりながら繰り返す二人は、まるで一つの命のよう。もはやどちらの赤で熱かも分からないままで、僕達は箸にも棒にもかからない恋と生きるのだ。