出かけようとした背中に、軽い衝撃がある。振り向くと、折り畳み傘が背中に押しつけられていた。無言の訴えに従って、荷物を一つ追加する。今日の天気予報は晴れ。だが帰宅が日没よりあとになるのなら、私たちは必ず傘を持ち歩かなければならない。
仕事を終えて外に向かうと、外からぽそぽそと人が話す様な声が聞こえてくる。雑踏の気配というのは、世界から消えてしまったものの一つだ。私たちは声を出して話すことをしなくなった。今はもう喉が衰えて、声を出すことすらできなくなってしまっているんじゃないだろうか。
折り畳み傘を広げる。そして外に差し向ける。
弱々しい骨に支えられた傘の表面で、言葉が弾けた。
——もう。今日も残業だった。
そんな声が聞こえる。私の心情に合致してはいるが、それは口にしたことではない。降り注いできた言葉が鳴っただけ。陽が暮れると空から言葉が降り注ぐ。晴れていても、曇っていても雨が降っていてもだ。
私たちはもう長らく夜空を見ていない。夜の闇が溶けこんだ様な色をした文字が、星の光のかわりに降ってくるだけだ。動体視力が良ければ、落ちてくる文字列が視認できるのだという。
降り注ぐ言葉を生身で浴びても、死にはしない。ただ浴びた途端に口からそれが言葉になって出てくる。傘の表面で弾けた言葉が、音を立てた様に。
長い間話していない喉では、連続で浴びて声を出し続けたらひどく痛むだろう。みんなそれを嫌がっている。それに今の世界では、声を出して喋ることが禁忌になってしまった。
空から降ってくるのは、昼間の間に誰かが隠れてこっそりと呟いた言葉だと言われている。正常な夜を取り戻すため、私たちは口を閉ざし、無言で生活する様になった。
だが最初の文字が落ちてきてから何年か経つが、いまだに言葉は降ってくる。外出には傘が必須だ。そうでなければ肌が出ないくらい大きな雨合羽が。
本当に隠れて言葉を呟いている人なんて、いるのだろうか。みんなが声の出し方すら忘れてしまった様なこの世界で。
疑念を抱いてもそれを誰かと共有することはない。
みんなが話すことを、忘れてしまったから。
だが夜に時々声が聞こえる。
きっと誰かが、傘を持たずに夜を走ったのだろう。時折声を懐かしむ様に、言葉に打たれる人がいる。自分のものではない言葉なら、きっと反しても罪にはならないと信じているのだ。
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