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望月 鏡翠
2023-11-26 23:16:57
3783文字
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世界観共有
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8、挙棋不定
ブツメツフツマ/平 均
日常で、命を守っている物凄く単純で意識すらもしないこと。
大人になったら当たり前のように、身を躱すことができる危険。
例えば、走っている最中の車にぶつかったら危ないけど、止まっている車なら大丈夫だとか、高いところから落ちたら危ないとか、刃物を自分に向けたらいけないとか、そういう類の知識だ。
知らない間に自分か誰かが決めたルールが当たり前のことになっているから。小さい子供が無造作に鋏を持ったり、車道に飛び出して行ったりするのを見て、ヒヤリとする。そうしてようやく今まで常識だと思っていたものが、当たり前のものではなかったと気づく。
均の世界にも、自分で決めたさまざまなルールがある。
靴を履くときに必ず左足から入れるとか、寮のランドリーは奥から三番目の上の段のやつが好きだとか、些細でくだらないこと。
急いでいても階段は手すりを飛び越えて落ちないとか、交差点の信号は守るとか、怖い人とは目を合わせないというような、生きていく上で大切なこと。
だが七億不思議を知ったばかりの均はきっと、重要なことを何も知らないままの子供と変わらない。
きっと祓魔師から見たら、危なっかしくて見ていられないんだろう。びっくりするくらい間抜けで、物を知らない子供みたいに見えている。
均のことを囮にしかならない役立たず扱いしてくるひもすの態度は、物凄く腹が立つがそれも仕方がないくらいにきっと馬鹿なんだ。
二人の間にはまだ何のルールもない。何も知らないまま、均は下手をしたら死ぬような世界に、知識もなく投げ出されている。
わからないなら大人しくしていようと思った。それが一番安全。
だが、隠れている間に相罠相手は死にかけていて、それでもなお均に何も教えてくれない。
弱いから、無知だから、信用されていないから。それとも、均が臆病だからだろうか。ただ単に昨日の今日で時間がないだけかもしれない。理由なんて、どれでもいい。何もわからないでいるということだけが、事実だ。
知ろうとしないことなんて、誰も教えてはくれないままだ。
ピッチャーは一人でマウンドに立っている。
横に立つ誰かなんて、必要ない。呼ばれるのを待っていたって、一生声は掛からない。
走り出すとき、道路に飛び出していく子供の姿が頭の中に浮かんで、それは見えるはずのない自分の背中と重なって見えた。
横から走ってきた車が自分を跳ね飛ばすなんて、考えもせずに走っていく。どんな危険があるかも知らない。止めてくれる保護者は、いない。
危ないのは、わかっているよ。
それでも走っているときなんて、前しか見えない。
十一月の空気が肺に染み込み、痛いくらいだった。
陽が落ちて暗くなった空気の中に、白い息を吐きだす。日月の目が覚めるのを待っている間に随分と時間が経っていて、再び七億不思議の対処に走り出したときは陽が暮れていた。
外が寒いのか、均の吐き出す息があまりにも熱いのだろう。大きく口を開けて息をすると、喉がカラカラに乾いていく。水が欲しいし、脇腹が痛い。
足がもつれて転びそうだ。校舎の窓ガラスに写る判子を見て、あともう少しだけ力を振り絞る。
七億不思議と相対してから、今この瞬間に至るまで、もう駄目だと何回思ったことだろう。
走馬灯のように、思考が断片的に流れていく。
夜に外に出るのは、今日が二回目だ。
陽が暮れたら、七億不思議が活発になる。
日月はボールを投げられるくらい、ちゃんと回復しただろうか。
先生についてきてもらわなくて平気だっただろうか。
出る前に考えるべきだった全てのことが頭に掠めるが、走る速度に追いつくことができずに後ろに流れていく。
校舎に駆け込み、そのままの勢いで壁にぶつかる。息を詰まらせながら、腕で体を押し出し、方向を変える。廊下を走れば、待ち合わせた場所までもう少しだ。
そこまで逃げればいい。その先は、考えなくていい。
「日月!」
声を絞り出すと息が限界で、足がもつれて転んだ。前のめりに一回転した視界を、蛍光オレンジが流れ星のように駆けた。
弾けて薄暗い校舎の中に蓄光塗料のような淡い光を残す。判子の動きが鈍る。
もう一球。
今度は壁にぶつかった。
廊下の先から舌打ちが聞こえる。
判子が動かなくなるまで、ボールがぶつかりインクを弾けさせる。全てが塗り潰されたと思った頃に、ようやく劣化したプラスチックのようにぼろぼろに崩れ落ちた。実在感を持ってそこにあるが、床に落ちる前に霧散して見えなくなっている。蛍光オレンジのインクも、時間が経つごとに色が薄まって消えて行った。
一般人に知られない世界は、こんな風に形も色も残さずに消えていく。七億不思議に関わるものは、いつかああなる運命にあるのかもしれない。
敵が消えて、ようやく立ち上がることができる。
膝が震えているが、走ってきた均よりも日月の方が憔悴して見える。
鞄の中のカラーボールの数を確認する。残りは五個程度になっている。一球では敵を倒せないことを考えると、次が限界だろう。外すことも多くなってきた。
球がなくなったら、一度戻る。戦えないのだから、今度こそ日月だって納得するはずだ。そしたら少し休んでもらおうと考えていたが、そのときに説得できる自信はなかった。
「あと一回くらいだよな」
「ああ、頼めるか?」
「もちろん。ちゃんと一番投げやすいところに連れてくる」
大丈夫かと聞いても、きっと大丈夫としか言わないだろう。だから一人にはしないというのが、二人の関係の中で均が作る最初のルールになる。
水を飲んで喉を潤す。
座って休みたいと主張している体を無理やり起こして、校舎の外に出る。途中で道を遮るものがないか、確認する。校舎の中はいつ状況が変わるかわからないし、体は疲れ切っている。空き缶や上履きが一つ落ちていただけで、躓いてもう立ち上がれないかもしれない。
懐中電灯は持たず校舎の外に出て、暗闇に目を慣らしてから外に出る。あらゆる荷物が、もう重たいのだ。吸い込む息は冷たいのに体は熱い。コートなど着ていられない。
囮としての役目を果たす。あと一回持ち堪えればい。
七億不思議を探して連れてくる。
腕が上がらなくなってきている日月がカラーボールを当てやすいように、細い道に誘い込む。七億不思議は大抵、祓魔師ではなく一般人を狙う。襲いやすいというのを本能的に理解しているのか、それとも吸い込む生気の味が違うのかもしれない。ともかく、判子は獲物を選り好みしたり、人を罠に嵌めるような特別な挙動はしてこない。
引きつけて追いつかれないように、逃げ切ればいいだけだ。言うのは単純だが、やるのはそれほど簡単ではない。
判子を見つけた。目がないから、どこに狙いを定めているのかわかりにくい。均に向かってきているのを確認してから、踵を返す。走り出す瞬間に膝から力が抜けそうになり、体が限界に近づいていることを自覚する。
もう限界だと思う瞬間を、何回越えただろう。
マラソン大会でだって、こんなに本気で走ったことはない。
事前に決めているルートを走る。校舎の中に走り込む。何度もぶつかった入り口の真正面の壁に、気がつけば汗の染みができている。
日月のところまで。
体をそちらに向ける。
パンとボールが弾ける音がした。
「逃げろ!」
曲がり角の向こうから声がする。
視界の先で、蛍光塗料のオレンジ色が見えた。判子は均の後ろにいる。まだ誘導できていない。
(なんで!?)
声すら出ない。インクで鮮やかに浮かび上がっている輪郭は、判子よりも有機的なラインをしている。頭部らしき場所と手足。だが人と認識するには体の形が歪みすぎている。
七億不思議だ。
どうしてこんなところになんて、考えるのも愚かしい。
陽が暮れて、混乱に乗じて校舎の中に滑り込んできたのだ。七億不思議はいつだってどこに立っている。襲われていた一般生徒が、何が起こったのかわからないまま逃げ出すのが見えた。
無事でよかったなんて、他人の心配をしている暇はない。
残弾はあるのか。
行き先に迷った。このまま決められた場所に行けば、逃げ場所もない袋小路だ。
だが逃げ出した一般生徒と同じ方向にいったら、また巻き込んでしまう。日月の方か、一般生徒と同じ方向か、それとも一か八か判子の横をすり抜けて元来た道を戻るべきか。
「ヘーキン、こっちだ!」
呼ばれた。その声を信じるしかない。まだカラーボールが残っているかもしれなという一縷の望みにかけた。
廊下を曲がり目が合ったとき、両手を体の横に無防備に垂らしたままの日月がいた。絶望的な気持ちになった。直ぐに次を投げられるように、常に球を手に持っている。最低でも二個。ポケットに入れている。
両手が空いていることなんてない。
何も握っていない手が、答えだ。さっき投げつけたので、最後だったのだ。
もう引き寄せた七億不思議を払う手段はない。
足を止めれば追いつかれる。他の誰かが助けてくれることを期待して、体力が続くかぎり走るしかない。
日月は走れるだろうか。確信がなくても、いくしかなかった。
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