望月 鏡翠
2023-11-18 17:35:50
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7、まだ全然できてない

ブツメツフツマ/平 均

 緑の瞳は均を見ない。
 言葉が表面を滑り落ちているような手応えのなさを感じていたが、肩を掴んでも言葉をかけても、こちらを向かない心に届く方法はなかった。
 目に流れ込む汗を、服の袖で乱暴に拭う。
 眼鏡を持つ手は赤く腫れ上がり、指が曲がりにくそうだ。血の滲む指先は近づけば鉄臭く、胃のあたりがギュッとする。
 蛍光色のボールはかなり数が減っている。それを掴む。
「無理だって」
 日月は肩を掴む手を振り払うが、その体が傾いた。ふらつく体を支えようと手を差し出すが、体重を感じることはなく離れていく。
「ほっとけよ」
 言葉が途中で途切れた。張り詰めた気配が途切れ今度こそ、日月は意識を失って倒れる。
 頭をぶつけないように支えようとしたが、二人揃って地面に倒れた。顔を覗き込む。
「日月!」
 思わず首元に手をやっていた。脈はあるし、息もしている。揺さぶっても、苦しげに閉じた目は開かない。
 視界に影が差す。
 判子に周りを囲まれている。心臓が鷲掴みにされたように縮み上がった。
 衝動的に飛び出してしまったが、均は戦えない。守ってくれる人がいなければ、一般人は一方的に七億不思議に蹂躙されるだけで無力だ。
 それが今、倒れて動かなくなった生徒二人に狙いを定めて包囲を縮めていた。全身に冷や汗をかいている。
(あれ、押されたら不味いんだよな)
 どうなるのか具体的にまだわかっていないが、日月が気を失うまで戦ってしまった原因であるのは間違いない。それに怪我もしている。精神的な影響だけででなく物理的にも傷も負う。
 逃げなくては、命が危うい。
 倒れた体を抱き上げようとするが、意識がない人の体は一人で持ち上げるには重すぎた。鞄を掴み肩の下に手を入れて胴体に腕を回し、数歩引きずるようにして下がる。
 力の入らない体は、徐々に重みを増すかのように抵抗を強める。地面に張り付いているのかと錯覚するほどだ。
 遅々として進まない歩に焦り、足がもつれてまた転んだ。ボールが鞄から落ち、地面に転がる。咄嗟にそれを掴んで、迫りくる判子に投げつけていた。だが、なんの力も持たない均が投げつけたところで、足止めにすらならない。迫る印面が鮮やかになっただけだった。
 到底、浮遊する判子からは逃げられない。顔をあげるとすぐ近くに「大変よくできました」の文字が見える。
 避けるのも間に合わない。
 咄嗟に蹲っていた。結果として日月の体に覆いかぶさったが、守ろうなんて格好をつけたことを考えてはいなかった。ただ体が動かなかっただけだ。余裕はなく、迫りくる脅威に対して子供のように体を丸めることができただけだ。
 痛むのか、何も感じないのか。焼き付くようだろうか。あるいは。
 固く目を閉じる。
 決定的な一瞬を迎えるとき、時間の流れはゆっくりになる。無限に引き延ばされていくように感じられた。恐怖に震えながら身を固くしていると、肩に何かが触れた。
 均はそれを判子だと思って大声をあげて腕を振るった。
「うお、危ね」
 人の声がして目を開ける。
 明るい色をした三つ編みが、視界で揺れる。縋るようにその先を辿ると、髭の生えた顔と目があった。均は見たことがない人だったが、逢禍学園に所属する教員の誰かだろう。
 身につけているリボンの色は黄色。そこに祓魔師であることを示す校章が入っている。背後で薄桃色のものが膨らんでいる。
 人の存在を間近に感じ、心の底から安堵した。何が起こったのか理解できず、その顔をじっと見つめて現実であることを確かめていた。
 反応がないので、その人は均の顔を覗き込んだあと背中を確かめた。
「おーい、大丈夫か?」
 青い目が心配そうに眉根を寄せる。
 判子が押されてないか確かめられたのだとわかり、ようやく我に返った。
「だ、大丈夫です。俺は大丈夫ですけど……
 倒れた日月の背中に、大変よくできましたの印が焼きつくようについている。布越しにも見えるが擦っても落ちない。
「あ? あー、日月か」
 教える前から、彼は日月の名前を知っていた。
「こいつ、怪我してて」
 血が滲む手を見て、先生は真顔になった。
「治療は安全なところに行ってからだな。立てるか?」
 ポケットの中を探り、取り出したのはポップなデザインのプラスチックケースだった。パッケージを見るとどうやらチューインガムのようだ。それをいくつか口の中に放り込むと、日月に肩を貸して体を持ち上げる。
 均も反対側からその体を支えた。
 後ろには判子が迫っていた。
「あの、敵は」
「見えてるのか?」
 こちらを向いて喋る先生からは甘ったるい駄菓子の匂いがする。
「日月の、相罠です」
 そう名乗る資格があるのか、一瞬躊躇ってから口にした。
「なるほど。じゃ、隠さなくてもいいわけだな」
 先生が追いかけてくる判子の方を振り返る。口元でチュウインガムの薄桃色がぷうと膨らんだ。
 吐息を吹き込まれて膨らんだガムは、パチンと弾ける。そのはずだった。
 だが見る間に風船くらいのサイズに膨らみ、さらに大きくなる。風船ガムとはいうけれど、あそこまで大きく膨らむだろうか。見る間に風船どころか、人よりも大きくなる。
 そして、近づいてきていた判子がぶつかる。
 弾けた。
 ガムが広がり判子に張り付き、周りにあったものを巻き込んで、地面に落ちる。ベタつき動かなくなる。周囲に飛び回っていた判子が一網打尽だ。
 敵はいなくなった。
「と、まあこんな感じで」
 振り向いてにやと笑う。
「非常勤講師の早乙女 鉄心だ」
「平 均です。ブライで、一年で、あと……
 無力な一般生徒。
 日月を止められなかった。目を覚ましたら、また無理をするのだろうか。それを止める手段が、均には縛り上げておくくらいしか思い浮かばないのだ。
 気を失った日月を、治療のできる場所に運び入れた。
 髪の毛のこびりついた黒く固まった血を洗い流すと、また出血した。清潔な布で押さえ、その間に均は必要なものを取りに行った。
 家庭科室から氷、あとは救急キット。避難場所に戻ってくると、早乙女は額の止血を終えて、手にこびりついた血を洗い流していた。一度乾いて茶色くなった血が、水に溶けていく。
 血が鉄臭く感じられて、平は咄嗟に目を逸らした。
 不安げな様子を隠せない均の気を紛らわすように、早乙女が口を開く。
「避難はしなかったのか」
「一度はしたんですけど、日月が心配で」
 まだ目を覚さない。単なる怪我と疲労によるものなら、休めば目を覚ますだろう。だが、祓うのに何かしらの生命力を消費しているのだとしたら、治療する術はあるのだろうか。
「俺も、ブカツ道の方が大騒ぎだから戻らなくちゃいけないんだが、大丈夫か?」
「腕がかなり辛そうだったんですけど、どうしたらいいですか」
 冷やしても腫れは引いていない。
「テーピングで多少はマシになるからやっておくな。でも、本当は大人しくさせておくのが一番いい」
「これ、祓う力がある人にも消せないんですか?」
 判子の跡はまだ残っている。時間経過で消えるようなものではないらしい。
「解呪の専門家に頼むか、本体を倒すか。いずれにしろまだ方法は確立されてないな」
 きっとこれがある限り、目が覚めた日月はまた止まらなくなるだろう。
 不安そうな顔をしてテーピングしていく過程を見つめていると、早乙女が手を止めて均の背中を叩いた。
「大丈夫だ。そういうことができる奴が学校の中に必ずいる。見つけたら連れてきてやる」
……はい」
 背中を叩く勢いに少し咽せた。
 泣きそうになったこともそのせいだと思うことにして、均は目を伏せた。均が無力でも頼るべき人は周りにたくさんいる。ずっと経験も知識も豊富な先生たちが助けてくれるはずだ。
 目立つ出血を処置したあとは、ブライの非常勤講師の元まで送り届けられた。
 突然均が飛び出していったから、判子を押されたり怪我をしたりしたのではないかと、みんな心配していた。日月を休ませ均も少し横になった。
 朝からずっと怯え、緊張していた。朝起きて普通に生活していたときよりも疲れていた。
 少し座るだけにするつもりが、気がつけば眠っていた。
 次に目を覚ましたのは、抱き枕の代わりにしていた鞄を腕の中から引き抜かれたときだった。頭がガクと傾く。
 床に座って寝ていたから、背中や肩が痛かった。抱きしめていたのは日月が持っていた鞄で、中身が半分以下になってしまったカラーボールが中には入っていた。それを引き抜いたのは、日月だった。
 鞄を手にすると、そのまま立ち去ろうとするので慌てて引き留めた。
「日月、大丈夫か? てか、どこいくんだよ」
「七億不思議を祓いに行く」
 その目はやはりまだ、どこかにいるであろう七億不思議のことしか見ていない。止められない。止める方法が思いつかない。
「駄目だって。先生も休んだほうがいいって言ってたし、判子のこともなんとかしてくれる人が見つかるから。だからさ、もうちょっと休んでようぜ」
 日月は冷たい目で、均を見ている。
 邪魔者を見るような冷たい視線が突き刺さり、手を離してしまいそうになるが、そうしたら昼間の繰り返しになることは目に見えている。
「このテーピングは?」
「それは、先生がやってくれたやつ……俺はわからないから」
「止めても、止まらないかもって思ったから、してくれたんだよな?」
「そ、それはそうかもしれないけど」
 やはり、言葉は届かない。だからといってもう日月を一人にするつもりはなかった。
「どうしてもいくなら、行けよ。でも俺もついていく」
 鞄を取り返し、背負う。
 残り少ないカラーボール。それがなくなったら、日月はどうするのだろう。