人間の命は、他の動物の命よりも大切だと思った方がいいんだろうけれど、正直なところ犬が死ぬ映画は避けても、人が死ぬ映画は避けない。世界でどこかの誰かが毎日亡くなっていますというニュースよりも、家で飼ってる猫の健康の方が大事。
相罠が死んだときはそこまで悲しくなかったけど、相棒が死んだときは胸が張り裂けて二度と立ち上がれないかと思った。人間てそんなものだ。自分に近いものの方が大切。
なら逢禍学園の学園長は、ひもすからどれくらいの距離にいただろう。被害の多いブカツ道の方から情報が回ってくる前から、その七億不思議が生前誰だったのかは、予想がついていた。きっと学園内であれを目撃した多くの人間がそうで、しかしその悲しみに向き合う暇もないまま、戦うことを余儀なくされているのだろう。
親しく誼を交わしたことはないが、その顔はよく覚えている。中等部の頃から毎年見ていた顔だ。多少雰囲気が変わって顔が隠れたくらいで、見失ったりはしない。
〝多少〟というには大きく変わりすぎただろうか。
誰が名づけたか、残留祈念。
戒められた両手は祈りとは程遠く、硬く結ばれている。
大変よくできましたと誰かを褒め称えることが、彼の強い望みだったのだろうか。目を閉じた相手から褒め称えたところで、人の心にどれほど届くだろう。
「中身空っぽになっちゃったみたいですね」
七億不思議に殺された人間は七億不思議になる。つまりそういうことだ。学園長は何者かに殺されてしまったんだろう。仮にもドッ祓いのエキスパートが集う学園のトップだ。うっかり夜中に出歩いている間抜けや、役割を心得ないまま相罠を組んでいる一般人とは違うだろう。
そこに陰謀を感じないといえば嘘になるが、今はそんなことを考えている暇はない。事態の収集が先だ。
残留祈念の体は大きいが、即座に死に至るような攻撃はしてこない。
だが、判子を押された人間は様子がおかしい。洗脳されているというよりは、本人が元々持っていた性質を強調されているらしい。自制心がなくなって体が壊れてもやめられないらしい。結果として死ぬことはあるかもしれない。
戦場で効率よく敵戦力を削ぐ方法は、死なない程度に痛めつけること。学園長はそのことをわかっているのだろうか。わかっていてやっているとしたら大したものだ。
死んでいない。放っておいたら死んでしまう。ならば助けないわけにはいかないのだ。
(別に助けたくはないけど、邪魔だしな)
一般人にはまだ気づかれてはいけないのだろうか。そんなことを言っている場合ではないが、それを判断する指揮系統が死んでいる。次の責任者を誰にするのかなんて話し合いも、進んではいないだろう。
自己承認欲求が高まったところで、ひもすは自分の身に何かが起きるとは思えなかった。他人に認められたいわけではない。自分と自分の大切なものが守られればよくて、そこに他人なんて、介在しないからだ。だが、理性が飛ぶのはいただけない。
判子の攻撃を受けた人間たちのような醜態を晒すのは、御免被りたかった。
あれらをどうにかしつつ、本体にダメージを与えて事態の収集を図りたい。
たくさんの烏の力を借りても、手が足りない。
烏は残留祈念の攻撃対象には入っていないだろうけれど、ドッ祓いの手札として使っていれば話は別だ。それにひもすの認知の外にいる烏に祓う力がない以上、完全な死角からくる攻撃を烏で防ぐというのは難しい。
どう動くべきか決めあぐねているひもすの目に止まったのは、千足 五乃だった。
一方的な認識の範囲だが、彼もまた正義感に溢れて行動するというタイプではない。手を借りるなら、冷静な人間がいい。向こうみずに人を助けようとして飛び込んでいく人間と組めば、尻拭いをさせられる羽目になる。彼ならば、きっとそんなことにはならない。
話掛けるとき会話が成り立つかどうか、それを警戒する。
「五乃先輩。流石に一人じゃ部が悪いんですよね。協力しません?」
烏で目眩しをすれば、一般人に見られるかもなんて心配をせずに、標本を動かすことができる。
五乃はひもすを見て、クラスメイトですらない人間を思い出すのに少し時間がかかったようだが、最終的には誰だか思い出したらしい。あるいは誰でもいいという結論に至った可能性もあるのだが、どちらでも構わないのはひもすも同じだった。
共闘する意思のあるなしを確認できれば良いのだ。
「そうだね」
無駄を省いた簡潔な答えは、わかりやすくて助かる。
「私の烏に傷をつけないでくれよ」
標本をどれくらいの精度で動かせるのかわからないが、敵と間違えられたら堪らない。
「そっちが気をつければ、いいんじゃない?」
「いうねぇ、そっちこそ敵と間違えられて大事や標本をちぎられないように気をつけな」
私の烏はそこまで間抜けじゃないけれど、と付け加えるのを忘れない。
「ああ、それは結構あるな。人程度に負けないから大丈夫」
「期待してますよ、先輩」
元を叩けば騒動も終わりだ。
残留祈念を探し、標本を援護し、叩く。
ひもすは烏を天に放った。
五乃が標本を起こす。
「前の子じゃないんですね」
捌くん、それとも捌ちゃんだろうか。大きく力も強いあの子ならば、異形に成り果てた学園長を相手にもあるいは、互角に立ち回ることができるかもしれない。ただ、口を開いた瞬間に漂う死臭だけが頂けない。
烏は死臭も好むがひもすはそうではないからだ。
「あの子は、学校の中で動かすには大きすぎる。それに……」
五乃と珍しく目があった。その視線は、雪を見ていることが多いからだ。可愛がってくれるのなら、いうことはない。幸い、彼や彼の標本は烏に大して恐怖や嫌悪感は持っていないらしかった。
「捌は君と相性が悪いから」
やはりあれは威嚇だったのか。腹の底まで響いて鼓膜を震わせる叫び声を思い出す。鳴き声を出す性質があるのか、術者の近くものを無条件に警戒するという可能性もあると思っていが、ひもすのことを個人的に嫌っていたらしい。
それが意味するのは、性能の差の他に性質差が存在するということだ。七億不思議だった頃からそうなのか、標本になってから付与される性質なのか、興味はつきない。
嫌われていたとして、五乃の意思が介在していれば作戦に支障はないだろう。だが、どうせならばお互いに気持ちよく仕事ができるチームでありたいものだ。
「その子とは仲良くできるといいんですけど」
肩を竦めながら、戻ってきた烏からの報告に耳を傾ける。
「空から見えるところにはいないですね」
逢禍学園は生徒数が多い。寮も含めれば広大な敷地を有している。七億不思議は大きいが、学園内のどこにいるのかを見つけるにはもう少し時間がかかりそうだ。
「学内は混乱している。歩いて探すのは、時間がかかりそうだね」
「騒ぎに乗じて普通の七億不思議も入ってきているみたいです」
もしくは、判子や学園長にやられて死んだ元人間なのかもしれないが。
つまり状況は最悪に近いということだ。騒ぎが大きい場所に本体がいるかと思ったが、残留祈念の判子が作り出した被害は思ったよりも深刻そうだった。戦闘が起こっている場所はおそらく一つではない。
学校内はクーデターでも起こったような有様だ。
一般人にも特待生にも等しく精神呪縛があるというのが、被害を重大なものにしている。欲望に任せて行動すると一般人は正気を吸われるらしい。
七億不思議が正気を吸うのは、大抵が自らの糧とするためだ。例えば、判子の数が増えたり効力が増したり、七億不思議になった学園長の首から下が生えてくるようになったら、今よりももっと厄介だろう。
「別に興味はないですけど、通りすがりのやつくらいは助けていきますか」
人間に興味はないが、最終的に自分たちの利益になると思えば、手を貸してやってもいい。
外から烏で索敵を継続しながら、校舎内を目視で捜索する。学園長という組織のトップが不在になったせいで、情報伝達や組織だった動きはうまくいっていない。物資や治療道具がある場所に避難誘導し篭城しようという試みが、散発的に行われているらしかったが、まだ功をそうしているとは言い難かった。
校舎内では、雪だけを連れて行く。
中は鳥が飛び回るのに適した環境ではないから、複数を連れて行っても無意味だ。それに意思の疎通はできても、見えない場所にいれば無力なただの烏だ。一度室内に入ると、烏だけでは閉じ込められてしまう可能性がある。
廊下に浮遊する判子が見え、二人は身構えた。近くに人影がある。
「あれは私が」
五乃の標本では力が強すぎて、校舎や周りの人間に被害が及ぶかもしれない。
肩に乗っていた雪を放つ。
低い位置から掬い上げるような軌道で近づき、印面を避けて爪をひっかける。物質としての硬度はあっても七億不思議である以上、祓いの力は有効だ。滑らかな表面が砕けた。
そのまま床に引きずり下ろす。
嘴を食い込ませると、判子の罅が広がり真っ二つになった。印面の方を完全に破壊するように指示をし、人間の方に駆け寄る。
一般人だろうか。早くどこかに避難して邪魔にならないところに消えてほしい。
直前で足が止まる。
こちらをくるりと振り向いた。女子生徒に見えたそれは、瞳が真っ黒く瞼は縦に割れていた。
人間ではない。
後ずさる。その背後で風の鳴る音。
『大変よくできました』
どこか緊張感に欠ける間抜けな印面が迫る。雪は床に着地している。飛び上がっても間に合わない。
でも、その攻撃を食らうやつが一番間抜けなんじゃないか。最悪の想像が脳裏を掠める。
こんなところで。
天井から、ずるりと極彩色が這い出した。
白い歯の生えた顎が開く。日本画の質感を持つ顎髭。人間を人のみにできそうな大きさの龍は、天井から離れた部分だけが立体になり、廊下に首を伸ばしていた。
ひもすを攻撃しようとしていた判子が、噛み砕かれる。
「烏は、後ろを見てもらった方がいいんじゃない?」
標本を天井の平面に戻しながら、五乃が言う。
「そうかも。助かりましたぁ」
雪を手元に呼び戻す。
判子は片付けた。だがまだ、学校内にいる七億不思議は残っている。
構えるひもすの後ろで、五乃がうっとりとしている。
「あの子、俺のものになってくれるかな」
頬に赤みが差している。七億不思議を見つめる視線は、標本を見ているときのそれに近い。
床まで届きそうな長い髪の毛を垂らし項垂れるセーラー服の女。正確には女の姿に見える七億不思議。
前髪の間から見える瞳は、友好的とは言い難い。
「どうでしょうね」
五乃が厄介な敵を引き取ってくれるというならありがたい。雪を今からあまり酷使したくはない。指摘された通り、警戒に使う目も足りていない。
臨戦態勢を取る。
応じるように、七億不思議も敵意を示す。その隣にふらりと散歩をするような気軽さで男が立った。
「ん?」
「あ?」
ひもすと五乃の声が重なる。
それは背の高い男だった。無造作に七億不思議に近づくと、女の形をしたそれの袖を引く。
「そんな風に俯いていたら、可愛い顔が見えないぜ」
ウインク一つ。
七億不思議が顔を赤らめた……ような気がした。あいつらに、血色はあるんだろうか。浄化され、霧散されて消えていく。
「……佐東先輩」
見覚えのある先輩だった。
「や、俺の助けが必要だっただろ?」
爽やかな笑顔で笑いかける。ひもすは七奥不思議ではないので、その笑顔を向けられても祓われたりはしない。
五乃の方を見る。七億不思議に熱を帯びた瞳を向けていたのを、知っていたからだ。七億不思議の女の取り合いになったりしないだろうか。まさか彼女も死んだあとにこんなにモテることになるとは思っていなかっただろう。
ガッカリとしていたが、是非とも標本に加えたい相手ではなかったらしい。
「ええ、まあ助かりました。先輩は救助活動中ですか?」
「ああ、判子の対処は人が足りていそうだったからな。逃げ遅れた人を探していたら、君たちを見つけたってわけだ」
逃げ遅れたわけではないが、この状況では彼も貴重な戦力だ。五乃と顔を見合わせる。本体に近づくほどに、判子もそれに影響されている人間も増えていくだろう。助けの手は多い方がいい。
「彼もチームに加わってもらうっていうのは、どうです?」
「いいよ」
二つ返事に安堵する。
ひもすは、年上に甘えるときの笑顔を浮かべて、佐東の肩に手を回した。
「せーんぱい、私たちちょ〜っと困ってるんですよね。私たちに同行してくれませんか?」
人員救助の方を担当してくれる小回りが効く人間がいた方が助かる。
三人と一羽。そして人ならざる標本。
即席のチームで本体を目指す。
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