望月 鏡翠
2023-11-06 22:51:09
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6、テメェの足元、ちゃんと見えてんのか

ブツメツフツマ_大変/平 均

 黒い鳥が一か所に集まって騒いでいる様というのは、どうしてこうも不安を煽るのだろう。均は襲われているときは沈黙を保っていた烏が、ギャアギャアと騒がしい。
 ひもすに向けられた怒りに反応するように、羽を震わせお互いを鼓舞するようにけたゝましく喚きながら威嚇している。もはや話すことなどないという態度で背を向けた日月に、ひもすは相変わらずニヤニヤとした笑みを向けていた。
 どんな反応を示すのかを楽しみにしているような、底意地の悪い笑みだった。
 一般人のことを囮と言って憚らず、命を脅かしても構わないというひもすに均の言葉が届くとも思えず、二人の仲を取り持つのは荷が重過ぎた。
 決別が明らかになった今、ついていくべきは日月の背中だ。
 人と人との距離も曖昧になる夜の闇の中で、その接近を感じる取ることはやはり難しかった。
 立ち去り際、追食に強く手を引かれて、均は足を止めた。
 話したくはない。だが有無を言わさぬくらいに、手首に食い込む爪が痛かったのだ。腕を引っ張り吐息が当たる距離まで耳を寄せ、暗闇に溶ける黒い人は低い声で囁いた。
「日月はアンタを死なせるよ」
……っ」
 そんなことない。受け入れ難い言葉に、手を振り払おうとする。だが追食は手を離さなかったし、続ける言葉で均の反論を塞いだ。
「あの化け物はあんたに憑いてる。日月には祓う力がない。今回も仕留められなかった。きっと次もそうだ」
 二人にしか聞こえない囁きだ。きっとそれは取引で、耳を傾けてはいけない類の悪魔の囁きだ。
「日月が君を守りたいと思っているのは、嘘じゃないよ。私が君を守る気がないのも本当。でも動機がどうであれ、あれを事前に発見する力があるのも祓う力があるのも私。助かりたかったら仲良くしてよ、囮くん」
 手首を挟んでいた手が離れる。
 連絡先消さないでね、と割れたスマホがズボンの上から叩かれる。
 ひもすの接近に気付いた日月が、間に割って入った。
「ヘーキン、そんなやつの話聞かなくていいから」
「もうお話終わったから持ってっていいよ」
 言葉の端々から、均を対等な人間として見ていないというのがわかった。そしてそのことを悪いとも思っていない。本人が言っている通り、きっと囮としか思っていないのだろう。
 協力関係にはなり得ない。せいぜい魚を釣るときの餌なのだろう。
 だからこそ魚が掛かったと知ったら、すぐにやってくるんじゃないか。
 命に興味がなくても、自身の実績のためにあの化け物を祓ってくれるんじゃないか。助けが間に合わなかったときに追食が保険になるかもしれない。
 その可能性を考えてしまったから、均はそのときの会話を黙っていた。
 日月本人には言えなかった。だって今日、初めてお互いの名前を知るところから始まったばかりの、相棒関係なのだ。
 そんな踏み込んだ話が、できるわけがない。
 帰り道は、どちらも無言のままだった。
 寮に戻り、日月と別れた。立ち去り側にまた明日といいあった。それだけだ。
 ひもすの連絡先は着信拒否することも消すこともできないまま、残っていた。
 ベッドに横になる。体は疲れているのに、様々なことがありすぎて妙に目が冴えて寝付けなかった。昨日から二十四時間の間に起こったことが、一年分くらいのボリュームに感じられる。
 これから新しく覚えなくてはいけないことも、試したいことも山のようにある。
 寝て起きたら忘れていそうだから、ベッドの上で寝返りを打ちながらやることをリストアップする。
 クリーニングに出してある服を、回収してくる。
 スマホの画面を張り替えるのにいくらかかるのか調べる。
 日月とドッ祓いの連携についてもう少し話す。
 七億不思議について知る。
 もっと動きやすい服を用意する。
 あと、課題が全く終わっていなかった。
 陰人は手をつけているだろうか。明日の朝、聞いてみよう。
 様々なことを考えながら、ようやくやってきた眠気に身を任せる。
 だが翌日、リストに書かれたことは、何一つ実行に移されることはなかった。
 均がこちら側に来るのを待っていたように、学園はその日常を消してしまったからだ。
 朝、アラームがなる。目が覚める。起き上がるとき、筋肉痛の痛みを太ももに感じた。
 冷たくなった水に、近づいてくる冬の気配を感じながら顔を洗い、タオルで拭う。
 悲鳴が聞こえた。
 平和な学園生活には似つかわしくない、恐怖に怯えた声だった。
 現実の声なのかどうか判断に迷い、均は耳を済ませた。
 人ならざるものの声という可能性もあったからだ。日暮れに出てくるものがほとんどだが、七億不思議は出現場所と時間を問わない。下手に反応すると見えている側だと、気づかれて付き纏われる。見えてしまう人間に大事なのはポーカーフェイスだ。
 だから均は慎重だった。
 日月に連絡してみる。
 ——なんか、寮の中で悲鳴が聞こえたんだけど。
 すぐに既読がつく。
 ——気のせいかも、しれないけど。
 慌てて付け加える。
『確認する。そのまま部屋にいて』
 今まで気のせいだと自分を納得させていた。それなのに真面目に受け取ってくれる人がいる。一人ではないという心強さを初めて感じることができた。
 また物音が聞こえた。今度は声ではなくて、立っていても足から伝わってくる振動だ。建物に大きな何かがぶつかったような音。
 寮の中の様子が、明らかにいつもと違う。
「ヘーキン、いるか?」
 ドア越しにくぐもった声がする。
 同じ学年クラスの日月は寮の部屋も近く、それほど時間を置かずに駆けつけてくれた。
 恐る恐るドアを開ける。
 隔たったところから聞こえていたものが、鮮明になる。誰かの悲鳴。それだけではなく、歌や楽器の音色まで聞こえてくる。思ったよりも陽気な気配。だが混沌として余計に理解ができなくなった。
 カラーボールの蛍光色。鮮やかな色は生き物の警戒色のように臨戦態勢を示していていて、緊張感を高める。
 日月は手とポケットに一つずつボールを持ち、昨晩と同じスポーツバッグも背負っていた。
「外は?」
 戦闘の気配を探してしまったが、インクが飛び散っているところはない。
「今は大丈夫」
「何が起こってるの」
 答えはなく、日月は首を緩やかに横に振った。
「ヘーキンも動ける格好になった方がいい。着替えてる間に話そう」
 部屋に入りドアを閉めた。着替えながら話を聞いたが、彼もわかっているところは、さほど多くないらしい。教師も混乱して情報は入ってきていない。だが、学園の中に七億不思議が大量に発生していて、その影響で朝から混乱が続いているのだという。
「この騒ぎはそれが原因?」
「なんか、錯乱してるというか正気を失っているというか、とにかく攻撃を食らうと様子がおかしくなるらしい。その辺もまだわかってないんだよな」
 被害者が出て、初めて敵の攻撃の種類はわかるものだ。それを統合分析して、伝達してくれる人間がいなければ、七億不思議の能力の詳細など会敵していない人間のところまで伝わってくるわけがない。
 出現して間もない敵の能力は、人の精神に作用するものらしいという情報だけが回ってきていた。
「学園の中に、七億不思議が出るなら俺たちどうすればいいんだ」
 ドッ祓いできる人間がこれほど集まっている学園の中に出現した七奥不思議が、まだ祓われていない。それがどれほど恐ろしいことなのか、今の均にはわかる。一般人には何も知らせてはいけないはずなのに、こんなにことが荒立っていたら誰だって何かが起こったのだとわかってしまう。この事態を収拾できる人間がいないということは、もう人にとって安全なところなんて、どこにもない。
 寮の部屋を出る準備のために、荷物をまとめる。数日寮の部屋を開けるつもりで準備をした。
 このままどこかに避難する可能性や、最悪は学園を出なければいけない可能性も考えていた。
 まだ何もわかっていないが、学校が七億不思議に占拠されたら授業なんてしている場合ではない。きっと死者も出る。
 思い出したくもない言葉が、脳裏を掠める。
 日月の実力では均を守ることはできない。いつか、死なせる。
「避難誘導してるみたいだから、そこまで連れていく」
 扉を開ける瞬間に、緊張で嫌な汗をかいていた。もう外には、七億不思議がいるかもしれない。
 本当に、ついていって大丈夫?
 その言葉を飲み込み、均のあとに続く。
 窓から外を見ても、烏はいなかった。ひもすはヤサ愚連の所属だ。寮の建物が違うから近くにはいないだろうし、この騒ぎの中で均の方まで気を配ってはいないだろう。
 今出現しているのがMrs.ハッピーライフではないから、呼んだところで返答があるかは怪しいところだ。
 鳥の代わりに妙に人工的な造形をしたものが、滑らかな動きで空を滑っていくのが見えた。鳥のように羽ばたく動きがない。ドローンにしてはやけに大きし、風船よりも動きが早い。
 足を止めた均を気にして、日月が振り向いた。
 視線の先を辿って、窓の外を浮遊している判子を見つけた。生徒が追いかけられている。手にしたボールを握り直し身構えたが、窓を開けて投球することはなかった。
 距離が遠すぎたのだろうか。やがて死角に入り、両方見えなくなった。
「あれが、七億不思議。判子の形をしている」
「はん……えっデカくない? ていうか、なんか、こう……物っぽいというか実在感すごくね?」
 無機質な事務用品のフォルムは、怪異だとか幽霊だとかのイメージと全く違う。一般生徒でも触れてしまいそうだ。
「別に七億不思議は幽霊だけじゃない。UMAとかそういうのもあるし、機械の見た目をしていることもある」
「そうなんだ」
 幽霊みたいな、存在があやふやで不定形のものしか知らなかった。
「あれに判子を押されると、様子がおかしくなるらしい」
「じゃ、死んだりとかそういうのはないってこと」
 日月は首を振って否定した。七億不思議である以上、程度の差はあれ生気を吸う。抵抗力のない一般人を相手に、その性質が確認されている。そして洗脳も今のところ時間経過で解ける気配はなく、異常行動を続けた結果死に至る可能性はある。
「一般人は、特に気をつけた方がいい。ヘーキンは見えてるよな」
「うん。割とはっきり」
 そんなものが学校内をうろうろしているのだ。
 不安が募る。
 前を歩く日月の均よりも小さな背中。一度に一球だけの武器。
 スポーツバッグの中身には限りがある。周りを囲まれたら、球が尽きたら、そんなことを考えてしまう。平には戦う手段はなく、死ぬ覚悟なんてない。
 命の危険があることを、聞いていなかったわけじゃない。
 もちろん、それは相罠を組む前に知らされていたことで、納得した上で同意した。それでも頭で理解するのと、目の前に実在する危険を受け入れられるかどうかは別だ。本音と建前は違う。理性と感情も違う。
 そういうものだから仕方がないと言い聞かせても、今目の前にある危険は、どうしたって怖い。
 予防接種の筋肉注射で腕を痛くして、逆剥けを引っ張ったら根本まで剥けたくらいで震えあがっている高校生に、いきなり生き死にの話はハードルが高すぎる。
 死の覚悟なんて言われて、高校生が具体的にその瞬間を頭に思い浮かべられるわけがない。
「他の人は、どうしてるんだろ」
「わからない。連絡が回ってこないから、みんな個々で事態に対処してるらしい。ブカツ道が特に被害が大きそうっていうのは、向こうのやつから聞いてる」
 なら、連絡をして助けにきてもらうとか、チームを組んで行動するとか。色々対処の仕方があるんじゃないか。
 相手がひもすでなくたっていい。協力できる仲間や頼りになる人を見つけた方がいいんじゃないだろうか。
 動きがバラバラなのは、人と馴れ合わない気質のブライらしい行動だ。
「そう……なんだ」
 胸に浮かんだ悉くを飲み込んだのは、均が何も知らないからだ。
 日月のことも、ドッ祓いのことも、七億不思議のことも、特待生たちのことも、この学園の流儀も知らない。戦うわけでもないのに横から訳知り顔で口出しだけするなんて、鬱陶しいだけだ。その状況で言葉が届くなんて、到底思えなかった。
 黙って、日月の背中を追いかけた。
 この状況で、単なる囮に何ができるだろう。混戦になれば役に立たない。右往左往するしかないなら、安全圏で大人しくしていた方がいい。
 校舎に向かおうと寮の建物を出る。
 開けた場所に出る前に、先をいく日月が周囲に目をやる。
 そして、息を飲んで硬直した。
「どうしたの、日月」
「ヘーキン、下がれ」
 視界に影が落ちる。
 巨大なものは、移動するとき音を立てる。タイヤであれ足であれエンジンであれ翼であれ、質量を持ってそこに存在していれば重力のくびきから自由になることはできない。
 だがそれはなんの物音も風圧もなく、突然その場所に出現していた。
 生首と腕。重々しい金属の枷。浮いたまま移動して、物音をほとんど立てない。外には他にも生徒がいるのに、反応を示さない。見えていないのだ。
 判子を従える七億不思議の本体が、眼前に姿を表した瞬間だった。
 携える無数の判子の印面には「大変よくできました」の文字と桜の枠。人でないことが一目でわかる悍しい見た目に、どこか間の抜けた印象を与えている。だからこそちぐはぐで気味が悪かった。祓いの文字を携えているがどう見ても、それは祓われる側の姿をしている。
 浮遊する巨大な生首は現実感が薄すぎて、グロテスクさは感じない。何より受け入れ難かったのは、それに知った人間の面影があることだった。
「が、学園長」
 どちらともなく呟いた。目元を隠していてもわかる。異形が知った人間の顔をしている。
 具体的な人間の死を、目の前に突きつけられた。新しい学園での生活を寿いでくれた人は、もうこの世にいない。
 ——もうおしまいなんじゃないか。
 指示も助けもこないはずだ。学園のトップが死んでしまって、騒動の原因になっているのだから。だとしたら、この学校はどうなるのだろう。七億不思議を祓う戦力を多数抱えた学校がこの有様で、絶都市はどうなってしまうのだろう。
 足から力が抜けた。
 絶望に叩き落とされるより前に均を動けなくしたのは、目の前にある死のあまりのあっけなさだった。
 特別なものではない。覚悟も痛みもなく、場合によっては恐怖する隙もなくそれはこんな風にある日突然訪れてしまうのだろう。きっと均のところにも、すぐにやってくる。
 隔たったところから聞こえるようだった名前を呼ぶ声が、肩を掴まれてようやくすぐそこのものとして感じ取れる。
「しっかりしろ」
 無理やり引き立たせるようにして、日月は均を突き飛ばす。
「校舎に逃げろ」
「え、でも」
 カラーボールをぶつけたくらいで、どうにかなる大きさじゃない。
 骨でできた魚なんかとは、わけが違う。Mrs.ハッピーライフですら可愛く思えてくる大きさだ。
 逃げ場なんてない。逃げ回ったところで、ただの囮に何ができるというのだろう。他に頼る相手もいないのに。
 湿った絶望が心の奥から溢れ出して、手足に纏わりついて動けなくなる。
 どこに行けばいいのかわからない。
 校舎に逃げて、そのあとは?
 どうしたらいいのかわからない。
 戦えない。逃げるしかない。囮としての出番はない。
 相罠って何したらいいんだ。
 頭の中が、真っ白だ。
「ヘーキン!」
 白に差し込む赤。
 日月の髪の毛の色が、視界を覆う近さにある。体が後ろに跳ね飛ばされた。唇が歯にぶつかり、口の中に血の味が滲む。
 砂埃の臭いと呻き声。
 均を突き飛ばしながら、一緒に地面に倒れ込んだ日月の背中に「大変よくできました」の文字が張り付いている。
「日月、背中」
 判子を押されている。
「いいから、お前早く行けって」
 精神がおかしくなった様子は、ない。だが額に脂汗が滲んでいる。
「ごめん、俺」
「逃げろ」
 歯を食いしばり有無を言わさぬ日月に、それ以上言葉を言い募ることができなかった。
「気をつけろよ」
 それだけいうので精一杯で、均はようやく動くようになった足を動かして校舎に駆け込んだ。
 一人になった心細さに、一度だけ振り向いた。
 カラーボールを振りかぶる日月の、赤い髪と鮮やかなオレンジの蛍光インク。
 大変よくできましたの文字が張り付いた背中は、なんの助けも必要としていなかった。敵が目の前にいるのだから、囮なんていなくても戦える。
 均は必要がない。
 校舎の中では、避難誘導と救助活動が行われていた。常勤講師の大半は何が起こっているのか理解できていなかったし見えてもいなかったが、異常事態だという理解と大人としての責任感で、行動している。
 相罠と離れれば、均が見える人であることなどなんの意味もない。知る側の人であることを証明する術はなく、無紋のクラスリボンは何者でもない証だ。
 一般人と同じに扱われ、知ってしまう前と全く同じに過ごすことができる。七億不思議なんて知らず守られたまま、特待生や非常勤講師が用意してくれた安全な場所で身を隠していればいい。
 何もしないでいると余計なことを考えすぎてしまうから、怪我人の介抱に加わった。血の臭いで具合が悪くなるが、ただ座っているよりはマシだったし、何かをするべきだと思った。
 知っている側なのだから。
 知っているだけで他に何ができるわけでもないのだけれど。
 時折、怪我人に混じって手足を拘束された人が運ばれてくる。きっと七奥不思議で様子がおかしくなってしまった人なのだろう。
 ドッ祓いで治るのだろうか。リボンに校章がついた人が運んでいった。
 背中に判子を押されていた日月は大丈夫だろうか。頭がおかしくなった様子は無かった。複数受けたらどうなるだろう。
 学園長だったものからは、無事に逃げ出すことができただろうか。
 時折、LINEを送ってみるが、当然返信はない。確認できる状況ではないだけかもしれないが、あの状況から無事に抜け出せていないのだろうか。
 駄目元でひもすに連絡をしてみたが、返事はない。人を小馬鹿にしたようなスタンプが戻ってきた。人を馬鹿にするために購入したとしか思えない。
『ほら、見捨てられたでしょ』
 まともな友達がいないに違いない、と心の中で罵り返信を未読無視する。
(見捨てられたわけじゃない)
 安全なところに、置いてくれただけ。
 前と同じ場所にいるだけなのに、どうしてこんなに何もできていないという気持ちが募るのだろう。誰かの悲鳴を聞いたり、怪我人が運ばれてきたりするたびに、何もしていなかったせいなんじゃないかと思ってしまう。
 相罠として何をしたらいいのかわかっていないくせに、何かしたいという気持ちだけがある。
 教室の窓から、外を見る。
 外には、朝から野鳥の気配が全くない。獣は人には見えない異形の気配をしっかりと感じ取っているのだろう。
 今にも外に判子の影が見えて襲ってくるかもしれない。学園長だって足がないから、空を飛んで直接窓から入ってこないとも限らない。
 すぐに気づくことができるように、均はせめて窓の近くにいた。非常勤講師や特待生が均と同じ位置で、それとなく見張っている。
 例えば、これが相罠だったら連携して見張りを交代して休みをとってもらうとか。
 均は頭を振った。日月を一人で置いて逃げ出してきたくせに、一緒にいたら何ができたのかということばかりを、考えてしまう。
 朝に寮を脱出して、今は昼過ぎだろうか。
 相変わらず、連絡はない。
 見下ろした景色の中に、鮮やかなオレンジ色がはじけて均は身を乗り出していた。あの日の夕闇の中で目にしたそれは、日月の目印のようになって印象に焼き付いている。窓ガラスに額をつけて、下を見る。
 赤色の髪を見つけた。
 無事だったことに、安堵する。振りかぶる大ぶりな動きが見える。カラーボールが飛んだが、飛び回る判子には当たらず、校舎の壁をオレンジに染めて、しばらくすると祓いの効力を失って消えていった。
 球を投げた直後の日月に、後ろから判子が迫る。
「あっ」
 思わず声を上げていた。
 体を捻った。だが交わしたのかどうか、遠すぎてわからない。髪の毛の色にしては、範囲が広すぎないだろうか。怪我をしているんじゃないだろうか。
「もしかして、見えてるのか?」
 外の光景に気づいた非常勤講師が、カーテンを閉めようとする。
「待ってください。俺の……
 俺の相罠です。
 それなのに、どうして安全なところから相棒が戦っているのを見下ろしているのだろう。
「あの俺、ちょっと外にいきます」
「危険だから、ここにいなさい」
「トイレなんで!」
 止めようとする手をすり抜けて廊下に出た。
 階段を駆け下りる。危ないかもしれないとわかっていたのに、足が止まらない。
 馬鹿なことをやっていると思った。
 絶対に足手まといだ。だが特待生や非常勤が、避難所の警備から離れられないのなら、日月がやられるのを黙って見ているのは、絶対に間違いだ。
「日月!」
 校舎の外に走り出る。
 カラーボールがまた弾ける。
 地面や校舎の壁を汚すばかりで、全く当てられていない。ふらつきながら次を手に取る。
 呼びかけには反応した様子が無かった。乱暴に服の袖で汗を拭う。投球フォームはぎこちなく歪み、オレンジの軌跡は体の横を走る。球速も狙いも曖昧な球は手から抜け、均の足元まで転がってきた。
 血の色で汚れ、地面の砂で塗れてくすんでいる。
 ボールの行方を追いかけた日月とようやく目があった。見えていなかった髪の片側が血で赤黒く染まっている。顔を汚す血を拭ったあとがあり、片方の目を開きにくそうにしていた。
「なにやってんだよ。お前、ぼろぼろじゃん」
 白いパーカーが血と泥で汚れている。汗が襟口を濡らして布の色を変えていた。
 目があっても何も言わず、黙って次のボールを手に取ろうとする。手が赤い。足元はふらついているし、周りの判子に対する注意もあやふやだ。
 手を掴み、その場から離れようとした。
 乱暴に振り払われ、数歩下がる。
 ぬるりとした。手が熱を持って熱い。腫れたようになって皮膚がパンパンに張っている。均の手にべったりと血が残った。
「まだ、敵が残ってる。ヘーキンは避難してろよ」
 敵を睨み据える目は、鬼気迫る鋭さだ。正気を失っている。均にはそう見えた。
 少しでも触れれば爆発することがわかっていても、触れないわけには行かなかった。これ以上放置したら、日月が壊れてしまう。
……もういいって、休めよ」
「いいわけないだろ!」
「日月は十分やっただろ? 他の人に任せて少し休んでそれからまた、頑張ればいいし」
「〝また〟なんてないんだよ」
 背中に押された判子の跡を引き剥がすように爪を立てても、消えはしない。パーカーに血の跡が手の形に残る。
「できてるわけ、ないだろ」
 日月の腕を掴む。まだ敵に向かって行こうとするのなら、全力で止める。殴ってでも連れ戻すつもりだった。
「離せ」
「離さない」
「ここは俺が抑え切る。だから、ヘーキンは下がってろ」
 自分の居場所を決めるものはなんだろう。
 規範や血筋や家柄だろうか。人との間に生まれる関係や、信念だろうか。趣味や嗜好、あるいは美意識だろうか。
 何にも寄らないと決めたブライはそのどれでもなく、みんな一人で立っている。
 だが、自立しているからと言って、誰かの隣にいちゃいけないわけではないのだ。
 自分がどこに立つのかは、自分で決めていいはずだ。
「〝俺が〟じゃなくてさぁ、二人でやろうって言っただろ!」
 だから、ひもすとは違う。単なる囮じゃなくて、チームなんだ。
 ずっと蚊帳の外にいた。
 何が起こっても他人事。だって当事者じゃない。一般人にとって七億不思議なんて、知らない世界のこと。
 そうじゃなくて一緒にやろうと言ってくれたのが、嬉しかったんだ。お前は関係ないから忘れろって、あのときの日月は言わなかった。だから、俺も命をかける覚悟なんてないくせに、一緒にできるかもなんて思ってしまったんだ。
「その日月が一人になってどうすんだよ!」
「普通のやつに、登板する余地なんてない」
「確かに俺は普通だよ。なんの取り柄もないし、戦えもしない。でも友達が怪我してたら心配するのは普通のことだろ!」
 自分がどこに立っているかは、ちゃんとわかっている。
 きっと、これがやるべきことなんだ。