体を締め付ける力は強く、生き物というよりは機械に挟まれたような容赦の無さと揺るぎなさを持っていた。指を引き抜こうと抵抗すれば、指がそのまま千切れるような気がした。
躊躇っている間に、指から手首へ。そして腕へ、足へ、腰へ、肉が纏わりついて一歩も動けなくなる。少し力を込められたら体がぐちゃぐちゃに潰される。周りを囲むものは柔らかい肉であるはずなのに、それくらいに固くびくりとも動かなかった。
これが自分の体を捻ろうと思えば捻られて潰そうと思えば潰れるのだ。
自分を追いかけてきていた化け物は、髪の毛が長いから女のような印象を受けているが、実際のところは性別などは存在しない。内側から見たそれの体はつるりとして内臓なんてない。夜の幽けき明かりが差し込んでくる方を上と認識して見上げると、内側から目の場所の空洞と目が合い、口のある場所が微笑みを作った。
電話ボックスだった体の内側は、均が違うと認識した瞬間にどろどろと溶けて崩れて、なんだかよくわからないものになっていった。
その中に体毛のようなものや、汚れの詰まった毛穴のようなものがあり、肌に触れて服の中に流れ込んできていると思うと、怖気がした。
悲鳴をあげようとした口を塞がれた瞬間に、鼻を悪臭が突き抜けて嘔吐した。吐き出した吐瀉物が鼻に逆流して、胃酸で粘膜が焼けるつんとした感覚があった。息ができない。
体に触れる全てが、腐りかけてベタついている気がした。
逃れる術はない。溶けた肉でできた壺の中に落とされたようなもので、どんなに飛び上がっても、縁に手が届くことはない。
気が遠くなる。
死ぬ。
このまま死ぬんだ。
わけのわからないものに襲われて、悪臭に塗れて、声も出せず、形も残さず。
走馬灯のように脳内を駆け巡ったのは、全てが後悔だった。
こんなことになるなら、もっと色んなことに本気を出して頑張ればよかった。一人暮らしになっても、県外の高校に行けばよかった。あるいは公立高校に受かる学力があればよかった。
そして、本当は見えているって認められたらよかった。
家族や友達や、周りの人を信じて、怖いのがいるんだって打ち明けることができていたら、少なくともこんな目には合わなかった。その時は誰か助けてくれたかな。
いっそ頭がおかしくなったって言われて、病院送りになったってよかったんだ。そしたら死なずにすんだ。
こんな、ところで。
意識を保っていられない。
眼球がぐるりと上を向く。
その瞬間に、均は視界で鮮やかなオレンジ色が弾けるのを見た。
視界を染める、人工的蛍光色。
体が震えた。体を包んでいた肉が震えたのだ。悍しい声とともに、体が軽くなる。解放された均の体は地面に投げ出される。喉を詰まらせていた吐瀉物を吐き出し、激しく咽せる。体の痙攣が治らず、なかなか息ができるようにならなかった。
生理的に押し出されてきた涙で滲む視界で、顔を上げる。
視界はぼやけて何も見えなかったが、風を切る音が聞こえる。
また、鮮やかなオレンジ色が弾けた。
油性インクの匂い。足元に目が覚める色が広がっている。
「おい、立てるか!」
腕を引っ張られた。
立てない。走れない。動いただけで、また吐きそうだ。そんなことは言っていられないことくらい、均にもわかる。喋れないまま頷いて、手を引かれるまま走った。
無我夢中で足を動かした。喉がぜぃぜぃ音を立てる。
滲む視界の真ん中に、鮮やかな赤色がライターの火みたいに揺れている。掴んだ手は、異形のものではない。ちゃんと、血が通って肉と骨がある人間の体だ。手の平の手触りは固く、乾いていた。
後ろにはまだあれの気配がある。
だが、腕を引いて走ってくれているから、振り向かず足を止めずに走り続けることができた。
走っているうちに学校の明かりが見えてくる。
校門の横に白いボンヤリとしたものが立っていて、ぎょっとする。
「先生! 追いかけてきてます」
前を走る赤い髪の後頭部が叫ぶ。
『ええ、見えてますよ』
端末の液晶がこちらを向く。聞こえたのは淡白な合成音声だった。
『とりあえず、先に君です』
ずっと先導してくれていた手が離れる。と思ったら、頭から水をかけられて目が覚める。目に染みる。口に入ってきた液体は塩味だ。顔が汚れていたし、口の中が気持ち悪いままだったから、少しだけ助かった。
「……塩?」
『さて、本題です』
抑揚のない読み上げ音声には、聞き覚えがある。白衣に見覚えもある。
『君に投げつけてもらえたら、楽なんですけどね。もう少し近くまで待たないといけない』
視線の方向を追って振り返る。やはりアレは追ってきていた。だが、蛍光色に染まって、怖さは少しだけ薄れている。
どう考えても、同じものを見ている。
「一体、何が……」
起こってるんだ。
それだけいうのが精一杯で、均はふらついて倒れた。
限界だ。
それからあとの、意識はない。
◇◆◇
目が覚めた。
やけに外が明るい。窓から差し込んでくる日の光の角度がおかしい。
時計を見たとき、頭から血の気が引く音がした。始業時間をかなり前に過ぎて、もう二限が始まろうとしている。
一人で寮生活の欠点は、寝坊しても誰も起こしてくれないことだ。起きなければ目が覚めるまで寝るだけである。
どうしてアラームが鳴らないんだ。枕元を探り充電コードを見つけたがその先にあるスマートホンがない。ないものは鳴りようがない。
動揺して握り締めたジャージの胸元は、手触りが違う。寝巻きではなくジャージを着ている。
何もかもがいつもと違う朝。
心臓がうるさいのは昨晩の悪夢をまだ鮮明に覚えているからだ。思い出した瞬間に吐き気を催して、トイレに走る。胃の中は空っぽだったが、喉が焼けたような感じがまだ残っていた。水で口の中を濯ぐ。
制服が手元にない。
アレは本当に夢だったんだろうか。手のひらを見つめる。傷はない。だが、体のあらゆる場所に、残っている。
携帯もないから友達に送れるという連絡をとることもできない。連絡が来ているかどうかもわからない。
均はジャージのまま、とにかくそのまま学校に走った。謝りながらクラスに駆け込み、二限の途中から授業に参加する。クラスを見回しても赤い髪はない。
同じクラスだったはずだ。
ガイダンスのときに、てっきりブカツ道かと思っていたのに、同じクラスだったのを意外に思ったから、よく覚えている。だが同級生の人数が多過ぎて、普段話さないと名前が思い出せない。
当然、何の授業を取っているのかも知らない。落ち着いたら聞きたいことがあるのだが、それよりも今はスマートホンと制服がないというのが、問題だ。
途中から参加したから、昼休みがすぐにやってくる。朝食べずに出かけたから、お腹はかなり空いていた。
教室の戻ると、均を待っている人がいた。
お互いに咄嗟に名前が出てこなくて、気まずい沈黙がある。
「ああ、ええと」
人に顔と名前を覚えられないことに慣れている均は、先に名乗ろうとした。
「知ってる。ヘーキン君、だろ? 俺は日月 明。で、これ落ちてたから」
手渡されたのは、均のスマホだった。画面が割れてバキバキになっている。アラームとスヌーズと着信の通知がたくさん入っている。
「あー、俺が拾ったときには、割れてた」
「いいよ。そんな気してた」
逃げるときに、アスファルトの上に落とした。
ということは、だ。
やっぱり昨晩見たものは、夢なんかじゃなかったということだ。
「で、制服はインクが落ちないからクリーニングに出してる。勝手にごめん」
「や、それも、全然。平気。平気だけど、ちょっといろいろ、混乱してて……」
夢じゃないなら、なんなんだ。
学校の中でも時々見える幻覚と関係があるのか。日月はどうしてこんなに普通に日常を送っていて、冷静なのか。
平凡で平穏な日常は、もうどこにもなくなっていた。
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