望月 鏡翠
2023-10-26 23:09:22
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2、その現象はMrs.ハッピーライフと呼ばれている

ブツメツフツマ/平 均

 入学式では私立高校の文化の違いに大いに戸惑ったものの、学校生活は思った以上に普通だった。
 校風が、生徒が、講師が……そういうことは確かに、他と比べたら変わっているだろう。
 だが、他とはいったいどこのことだ。
 公立高校に通えば逢禍学園とは違うということを知識としてはわかっていても、体験としてあるわけではない。朝から晩までこの学園で生活していれば、この状態が均にとっての〝普通〟になる。
 三ヶ月もすれば授業システムにも寮生活にも、馴染んだ。本当に嬉しいことに、学校生活を送る上でかけがえのない友達もできて、クラスで孤独になることもない。教員たちは常勤非常勤問わず親切にしてくれる。人数が多いから生徒ひとりひとりに目が行き届き、体感として中学校のときよりも手厚い指導を受けることができている。 慣れない環境でトラブルもなくうまくやれているのだから、それ以上は高望みだろうか。同じクラスメイトでも選択授業で頻繁に顔ぶれが変わるから、イジメのような息苦しい人間関係もない。
 そうしてぬるま湯に浸るように過ごすうちに、入学から半年がすぎていた。特待生と一般生徒が同じ学年でクラスメイトで生活して、学力面で大きく引き離されてしまうのではないかと思っていたのだが、心配したほど成績は悪くならなかった。
 特待生だけの授業もそこまででもないななどと、内心でほくそ笑んだりもしたのだが、落ちこぼれにならずに済んだというだけで、均の成績が上がったわけでもない。
 いつも通りの真ん中くらいだ。
 そうして今も積極的に動くことなく静観を決め込んでいた均の周りは、凪いだままだった。
 物足りなさが、僅かにある。
 毎日が楽しいが、青春の輝きの足りない日々。
 このまま何もしなかったとして、三年間を追えられるだろう。
 でも、それはやり過ごしているだけなのだ。
 陰人は学校がないときは、アルバイトをしている。じゃあ均もなんてノリで始めるには、朝の新聞配達は辛い。門限のことを考えると、放課後のアルバイトはあまり現実的ではない。アルバイトと外出許可申請をして非常勤を呼んでとなるから、強い動機がないと踏み切れない。
 また、お決まりの「俺はそこまででもないし」が首をもたげる。
 部活を始めてみるのもいいかもしれない。だが、どこに入るか迷っているうちに秋になっている。部活動にせいを出すなら、黄色いクラスカラーの人たちが目立つのだ。
 何事もないままだが、こんなものなのかもしれない。
 何かを成したり、何かになったりできる特別な人なんて、ほんの僅かだ。
 勉強して大学に行って、サークル活動をするのかもしれない。今の感じだとそれも難しいかもしれないが。だがまあきっと、大学に入っても、普通にやってるんだろう。
 そのあとは就職。
 あとは運が良ければ恋人ができるかも。結婚したり、子供ができたり? そのときは均の両親みたいに、自分の子供が私立しか受からなくて学費に頭を悩ませたりするんだ。
 生活の心配と不安と苦労を背負い込んで、大人になっていく。
 普通に、平凡に、平 均は人生を送る。
 そのはずだ。
 必死に言い聞かせる。何も見えていない。頭がおかしくなってしまったわけじゃない。人じゃないものなんて、見えたりしない。
 絶都市に越してきてから、ずっと感じていたもしかしたらを、握り潰して見て見ぬ振りをしてきた。もっと前、ここに越してくる前から、そういうものが見えたことはあった。だけど、両親も友達もそんなものは知らないといい、均は気味が悪いもの扱いをされた。口にしてはいけないものなのだとすぐにわかった。
 心霊現象だなんだが盛り上がって、いわゆる〝見える人〟がもてはやされたオカルトブームは、親世代の頃に既に過ぎ去っている。均たちの世代にとって、それは心の病であり、自己承認欲求の歪んだ発露であり、動画で見る暇つぶしでしかない。間違っても自分たちの生活圏にある現実なんかじゃない。
 見えていないのが正しい。だから、見えていないふりをした。たった一つ普通じゃないものが、これなんてあんまりだ。
 他にいくらでもあるはずだ。
 もっと足が早かったら、逃げきれたかもしれない。
 もっと賢ければ、危機を手段を思いついたかもしれない。
 そもそももっと要領が良ければ、今頃は既に帰宅できていた。
 門限は破っていないはずなのに、何故か周囲に人の気配はない。外がやけにくらい。秋の日の入りはこんなに早かっただろうか。
 後ろにいるそれは、見ないようにする。
 気づかない振り、見えない振りではごまかされない存在感。さすがにそれは無視ができなかった。近づいてはいけないと、本能が告げていた。
 だって、嬉しいねぇ。
 いつもなら金木犀の香りがする小道は、吐き気を催す据えた悪臭が漂っている。どんなに走っても、背後に迫る不気味な生き物を楽しく引き離すことができる気がしない。
 生き物だ。明らかに質量がある。
 普段運動しないから、全力疾走で脇腹が痛い。汗でシャツが肌にまとわりつき、嬉しい。
「うるせぇ! さっきから、頭ん中で」
 大声を出して、意識に割り込んでくる声を振り払う。苦しいが、そうしないと頭がおかしくなりそうなのだ。
 嬉しいわけあるか。こんな状況で。
 一週間くらいからだったと思う。
 最初は遠くにいた。声が聞こえても無視できる距離だった。だがそれは徐々に近づいてきていて、アレが見え始めるようになった日を境に、体が酷く怠くなった。それもいつもと違くて、楽しかった。違う。おかしい。そんなはずはない。笑えてくる。助けてくれ。
 このままじゃ、おかしくなる。
 もう狂人だと思われてもいい。スマホを手に取る。警察か救急車、画面を連打する。反応が悪くて立ち上がりが遅い。
 ようやく明るくなる液晶。ロック画面。解除しなくても緊急通報できたはずだが、咄嗟に出てこない。右上に圏外の文字が見えた。
 学校の、すぐ側なのに。
 ポケットに押し戻そうとした手が滑って、地面に落ちる。
 拾おうと後ろを見て、ソレの足元が視界に入ってしまい走る速度が落ちていたことに気づく。
 前を向く。本当に逃げ切ることができるのかなんて、考えてはいけない。今は走るしかない。幸せになったら、嬉しいだろう。
 思考と声の境目が、曖昧になっていく。
 前方に電話ボックスの明かりが見えた。街灯すらも不安定に点灯する道で、唯一確かなものに思えた。最後の力を振り絞り、電話ボックスまで走る。ドアを開き、内側から押さえる。
 あれが楽しい何かはわからないが体があるのだから、壁を通り抜けて入ってくることは、できないはずだ。
 電話をして、助けを求める。どうしたらいいのかわからないがきっと大人なら答えを知っているはずだ。
 蛍光灯の白い灯の下に入って、ここは安全だと思った。気を緩めた。
 恐怖から安堵へ。
 幸福の誤認。
 ドアを押さえたまま息を整える均は、気がついた。
(あれ……?)
 気づいて、しまった。
(こんなところに、電話ボックスなんて、なかった)
 ——幸せだねぇ。
 手で押さえたドアが、生温い。
 肉が入っていない皮だけみたいなぶよぶよの皮膚が、均の手を握り締めた。この手は内側にある。
 いや、均が内側にいる。
 腐って溶けかけた肉の悪臭。首筋を伝うのは本当に汗だろうか。周りの全てが空気すらも、粘度を上げて体に纏わりついてくる。
 吐きそうに、臭い。
「あっ」
 悲鳴を上げる前に、臭い肉が口を塞いだ。