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望月 鏡翠
2023-01-08 03:29:21
16286文字
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リアタイ
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十一章 この身にあまる夜明けの光
#タイダルウェーブ_逃れようのない波
学校が水没。街は消失して通信も途絶。
非日常に直面した学校は、思ったよりも早く立ち直っているように見えた。
不測の事態しか存在しえない現実を前に、見せかけだけでも秩序を求める人間心理が働いたのだろうか。避難所のようになった体育館で、割り当てられた睡眠スペースに荷物を置く。
スマホは無用の長物と化していた。
画面の右上にはずっと圏外の文字が表示されている。
外部との通信や救助の要請など、あらゆる手段は釣井よりも頭が回る人たちによってとっくに試みられたあとだろう。メールや電話、もちろん学校内の有線電話、インターネット。どれもが通じない。
わかっていたが、それでも釣井は両親に連絡を送った。
送信失敗の表示。
下書きに保存。
再送の確認。
電波が届きませんというシステムメッセージ。
「お前のやっていることは無駄だ」というのを、使用しているそれぞれのツール毎のやり方で伝えられただけだった。
釣井にとって大切な人間は、それほど多くない。
兄弟はいないし、親戚は縁が薄くて関わりがない。家族を除けば、ほとんどが今学校の中に一緒に居る。
幼なじみの平は同じクラス。同じ学年の顔見知りは体育館に移動してくるときに、無事を確認できた。
仁井と一緒に、部活の後輩や先輩など他の学年の顔見知りの様子も覗きに行った。
だが一人だけ、彼女と一緒には訪ねていけなかった相手がいる。
八万 至。
誰よりも気になっているくせに、まだ安否も確かめられていない。
学校の何処かにはいるのだろうが、まだその姿を見つけられないでいる。
トークルームには、こんなことが起こるなんて考えてもいなかった昨日の夜の能天気な会話が残っている。
もしも好きだと伝えられていたら、学校が海に沈んだとき真っ先に探しにいけただろうか。
他のどんなに大切な人よりも、あなたのことが気に掛かる。心配していますと、素直に伝えて走って行けただろうか。
そんな自分の姿は、想像もつかない。
この後に及んでまだ尻込みしているような、臆病者なのだから。
勇気があったら、この状況でなんと伝えただろう。
――
あなたが無事でいてくれれば他に何も望みません。
メッセージを送信する。
どうせ、届かないし。
寝具の上に投げ出す。
時間を見るのに使っていたが、わざわざ数が少ないコンセントを借りて充電するほど役に立つだろうか。そのまま電源を落としておいていいかもしれない。
そんなことを考えていた目の前で、スマホが震える。
常にマナーモードだから、ブンと一度微振動をして通知を知らせただけだった。
だが、それだけで十分だった。
ディスプレイを指で連打して画面を立ち上げる。
八万 至の文字がポップアップしてきて、釣井は頭の中が真っ白になった。
『熱烈〜』
そうメッセージが届いている。
過去に届いていた通知を見逃していたわけではない。釣井が今送ったメッセージに既読が付き、それに返答が来ている。
圏外なのに、なぜ。
重要な疑問である気がしたが、頭の中はそれどころではなくなっていた。
(み、見られたっていうか読まれた)
何とかして、誤魔化さないといけない。
即座に撤回をしないとまずい。
あんな言葉を口にするような感情を、八万に対して抱いていると思われるのは、絶対にあってはならない。とても困る。
文字通り、熱烈だったのだから。
八万から届いたメッセージには、もう既読が付いてしまっているだろう。
うまい言い訳が、思い浮かばないまま夢中で画面をタップする。
――
⁉︎
驚き。
――
あれ、これ届いてます? 届いてますね。
困惑。
――
いや、あのちょっと、間違えて。
訂正。
――
家族に送る予定だったやつです。
これで、誤魔化されてくれるだろうか。
八万の反応が届くのを固唾を飲んで見守る。
メッセージが、にゅっと生えてくる瞬間まで釣井は画面を見つめていた。
『家ではそういう感じなんだ』
――
そうです。
違う。
違うが、そう思ってくれたのなら、よかった。
――
先輩にだけ、届くわけじゃないですよね? 学校内なら届くっぽいですね。よくわからないけど便利です。
話題を何とか他に持って行きたかった。今の学校の状態とか、なぜか校内だけで通じる電波とか、気にするところは他にいくらでもあるはずだ。
『ちょっとした無線機みたいだよね』
話題が他に逸れたので、安堵する。
『二年はどう? 混乱のほどは』
釣井が理解できる親しさの相手は、少なくとも取り乱した様子はない。それ以外の人は外見を見ただけでは、推し量ることができない。
だから表面上は平和といったところだ。
「親しい人は、ぱっと見平気そうに見えますけど。海に落ちたか何かで着替えている人も何人かいましたね」
この状況で真っ先に海に飛び込みに行くことができる適応の応力の高さを、羨ましいと思う反面、軽率だと冷ややかな目で見てしまう。
『あーそっちもそうなんだな』
顔が見えないから、どんな温度感でその言葉を打っているのかわからない。
――
先輩に、会いに行っていいですか?
『いいぜ、俺基本四階居るからいつでもどうぞー』
四階ということは三年二組の教室だろうか。釣井は、すぐに体育館を出た。一番上の階なら、海面の上になる。少しは気が晴れるかもしれない。
教室を覗き込む。
釣井の顔を見て、笑顔で手を上げる。普段なら笑った顔から目が離せないのに、今日に限っては別だった。
(誰)
青い。海の青色をしている。というか、髪がない。
髪がないは、あまりに語弊がある言い方だと思い、何とか飲み込む。
八万が坊主頭になっていた。しかも髪の毛が青くなっている。額に残る三本線の傷跡が見えやすくなっている。
それはある意味で学校が海に沈んだ以上の衝撃で、一切の言葉が出なくなった。
理解が追いつかない。
「ど、う、え⁉︎ 海に沈んだ後遺症ですか」
「そうみたい、俺以外にも何人かいたよ」
そうなのか。
何か不可思議なことが起こっているとは思っていたが、人間の方にもやはり影響はあるらしい。
もしこれから校舎内に髪の毛が青い人が増えていったらどうしよう。
(八万先輩と見間違えないようにしないとな
……
)
先輩は、海に落ちたんだろうか。それとも自分から入っていったのだろうか。
「先輩は海が好きですか」
「
……
この状況で聞いちゃう〜?」
「こんな状況だからですよ。こんな状況でもなければ、どうでもいい質問ですから。海にトラウマでもなければ当たり障りない答えになるんじゃないですか?」
ミズノエ市には海がないから、生活に密接に関わってくることはない。たまに遊びに行き、メディアの中で見るだけならば、嫌う理由はないはずだ。
それは興味がないと言い換えてもいい。関心の外にあるものは、好きにも嫌いにもなれない。
だが強制的に目の前に突きつけられている今ならば、話は別だ。向き合わざる得ない状況で出てくる答えが、詰まるところ本当の答えではないだろうか。
「オレは正直怖いです。で、苦手ですね」
海は遠くから見ているだけがいい。中に入りたくはない。まして閉じ込められるなんて、嫌だ。
「現実を直視してるねぇ忍ちゃん。
……
目逸らしたい人が大半じゃないの? こんな映画みたいな状況。逸らしたところでまた海なんだけど」
「あはは。現実逃避できないことを、思い知らされちゃって」
ごまかすように笑う。いつも逃げ道と言い訳ばかりを探しているような釣井の態度とは違って見えたのかもしれない。
「ま、俺は好きでも嫌いでもないよ。怖いのはちょっとわかる」
「じゃ、海が見えないところで休もうかなって思ってたんですけど、先輩も誘っていいですか?」
少しだけ、欲を出す。海を怖いと思う感情を共有できるのならば、誘いに乗ってくれるんじゃないだろうかという打算が混ざっていた。
「お、いいね〜。そんな場所ある?」
「視聴覚室とか防音設備があるところは光が入らないようになっているので。それこそ、放送室とかもそうですね。そういうところで、友達と音楽でも聞きながらゆっくりしようかなって」
一人増えたところで部屋の広さに問題はないし、他にも海が見えないところに行きたいと思っている人はいるかもしれない。
「あーそっか、
……
それ俺行っていいの? 自分で言うのも何だけど後輩ちゃん達ビビんない?」
釣井が知る限り、友人たちは相手が教師であっても先輩であっても物怖じするような性格ではない。それに八万は外見はともかく、人を萎縮させるような性格はしていない。
心配があるとすれば、青くなっている頭髪だけだ。
「先輩、可愛いから平気じゃないですか? あ、でも確かに髪の毛青くなるってみんな知らないから見たらびっくりするかも」
「忍ちゃんから見て俺って可愛かったんだぁ」
失言をした気がする。
それ以上の墓穴を掘らないように、釣井は可愛いについては曖昧に誤魔化し、八万を放送室に案内した。
「ほ、放送室とか部活外の人あんまり、来ないですよね」
「んー、そういえばそうだね。そういやこういうのって今、タブレットとか接続できんだよね」
少々強引に話を逸らしたが、八万はそれに乗ってくれた。
純粋に、普段見ない機材の類が珍しかったのかもしれない。あれやこれやと確かめては使い方を釣井に確かめる。
その意図がわかったのは、数日後だった。
掲示板に映画上映会の文字を見かけて、釣井は一も二もなく飛びついていた。
映画が好きだ。
気兼ねなく映画の話をできる相手がいると、無条件に好きになってしまうくらいには。一緒に遊園地に行った八万の同級生にも映画好きな人がいて、その人が一番話し易かった。他のクラスの友達ともそれで仲良くなった。
チラシには、ホラー映画上映会とある。
映画が楽しめるならジャンルはなんでもよかった。ワクワクしながら視聴覚室に向かった。
主催が八万だとわかったのは会場に入ってからだった。
帽子をかぶっていても襟足に覗く髪の毛の青色はまだ見慣れない。八万だと断定していいのだろうかという一瞬の警戒のあと、顔を見て確信するというのをここ数日繰り返している。
八万の選んだ映画を観るというシチュエーションに興奮しながら、釣井は薄暗い教室の席に着いた。
ホラー映画を観れば真っ当に怖がるし、肝試しで危険を感じるような場所に行くのも嫌だが、それとは別に映画は映画という割り切り方をしている。
学校が舞台の映画を見ても、夜の学校が怖くなるわけではない。
見終わってしまえば、作品が面白かったかどうかという興奮が勝る。
今回の映画は八万の趣味だったのだろうか。
「先輩、めちゃくちゃいい映画選びますね! 映画好きなんですか?」
「お! 気に入ってくれた? 映画はそこそこしか観ないんだよな。実はコレ俺も観るの初めてだったんだけどね、詳しいやつが友達にいてさ~」
一緒に出掛けた友人だろうか。
「そうなんですね。オレ映画好きで、よければ今度
……
」
おすすめの映画を一緒に観ませんか。そう続けようとして言葉に詰まる。
今度の話なんて、してもいいのだろうか。無事にこの状況を脱する日なんて、本当にやってくるんだろうか。実は外の世界がもう全て失われてしまっているとしたら、約束なんてしても苦しくなるだけだ。
「そだねー、なんか良さげなやつ選んで連れてってよ!」
釣井が躊躇った一言を、八万はあっさりと口にした。
当たり前のように今度を約束してくれる言葉に、体の奥で固まっていた緊張と恐怖がじわと融解するのを感じた。
「オレの一押しのやつ、ここに電波が入ったらサブスクで見れたんですけどね」
「校内だけ電波使えるのも中々モヤッとするよねえ、いっそのこと全部無くなったら踏ん切りもつくのに。ま、遊ぶもの他にも色々あるし」
彼の手元には、ゲーム機の類が一通りが集まっている。自宅で見たものもたくさんあるから、元々学校に置いてあったわけではないだろう。
臨海学校に持ち込んだのだとしたら、物凄い量だ。
「密売人みたいな腕前してますね」
釣井は思わず感嘆の声を漏らしていた。
「その道のプロなの俺」
冗談か本気かわからない顔で言う。手慣れているのは間違いない。
「ふふ、スマグラ八万先輩の二つ名が恣にできますね。もしかして毎年持ち込んでたんですか?」
「それは
……
こんなとこで、おっきい声じゃ教えらんないなあ」
思わせぶりに笑う。上映会には教師陣も何人か参加しているから、聞かれたらまずいのかもしれない。
「じゃあ、先輩の密輸実績はこんどこっそり教えてくださいね」
「仕方ないな
……
今度コッソリ教えてあげるね! 来年使えるように!」
来年というのも、今度と同じくらい素敵な言葉だ。
こんな状況でも八万が口にしていると、信じてもいいんじゃないかと思えてくる。
だが無事に戻れたとして、来年はもう卒業してしまっているのだ。
八万がいない来年を迎えるのと、来年がこないのとどちらがマシだろうと、つい考えてしまった。
釣井の悩み事は、まだ結論が出ていない。
◇◆◇
板子一枚下は地獄。
水没した学校の中で一週間近くを過ごす内に、そんな言葉が脳裏に焼き付きそして離れなくなった。
船乗りの言葉だったはずだ。それも暖かく穏やかな海ではなくて、冷たく波が荒れる海の船乗りだ。海と言う場所は昔から人に恵みを与えてくれる場所だったが、けして味方ではなかった。
人にはどうにもできない大きな力を持ち、気まぐれのように荒れ狂い命を奪う、沈んだら二度と上がってくることができない深淵。
そこは美しさと恐ろしさの両方を備えている。
満たすのは生き物の体に纏わりついて動きと体温を奪う、重たい水という存在。
釣井が見つめる窓ガラスの向こうで小魚が一匹、より大きな魚の口の中に飲み込まれて消えた。圧倒的力を前にして、生き物は無力だ。
海は見ているだけなら美しいが、陸の生き物にとっての死の領分だ。息をすることすらままならない。
海は生命の始まりだが、決して寛容ではない。
己の生存を貫き通すだけの強さがない存在を決して許さない。
眠れなかった。
板子一枚向こう側は地獄だ。窓ガラスはなぜか水圧でも割れていない。体育館も渡り廊下も不思議な力で守られたようになっていて、水は侵入してこない。
だが、それが何の保証になるだろう。
この魔法が、いつまで続くのかわからない。
〝今はまだ〟保たれているというだけに過ぎない。
だって瞬きをした瞬間に、学校は海に沈んでいた。
同じように少し目を閉じた瞬間に、校舎の中に水が流れ込んでいるかもしれない。
寝る場所が体育館ではなくて、四階だったらよかったのにと思う。しかし四階教室にそこまでの広さはない。一部だけと言われれば、誰がという話になる。みんな同じ不安を押し殺して寝ているのに、釣井だけわがままをいうわけにもいかない。
幼なじみの顔が眠りに就くのを見届ける。もともと釣井の方が夜更かしだ。眠った振りをしてまぶたを閉じていれば、隣に感じる吐息が深く規則正しくなっていくのがわかる。
夜が更けてから寝床を抜け出す。全員が眠っているわけではなかった。釣井が抜け出す前から空になっている布団もあったし、同じように眠ろうという努力をしているだけの人もいる。
そういう人たちの邪魔にならないように、そっと抜け出す。
故意か事故か知らないが海に落ちた生徒が何人もいるらしく、夜間も教師が見回りをしている。屋上などは特に。
死者が出ていないのが不思議だった。
人の気配がある場所を避けるように、夜の学校内を歩く。
不思議と電気が通っているから、学校内は非常灯の明かりでだけ照らされてうすぼんやりとしている。時折ある電気がついている部屋は、教師の宿泊場所だろうか。
音楽室の傍を通るとピアノの演奏が聞こえてきた。心地がいい音色だったが眠りに誘われるわけではなく、中の誰かの邪魔をしないように部屋は覗かなかった。
廊下でしばらく演奏を聞いたあと、黙って立ち去った。
人に心配を掛けたいわけではない。気にかけて欲しいわけでもない。
教師たちは大人として気丈に振る舞っているが、むしろ責任を負っている大人の方が大変なはずだ。連日職員会議をして、見回りもある。
そんな中で生徒全員が不安を訴えたら、どうなるだろう。
だからこれはいっても仕方がないことだと、飲み込む方を選んだ。みんな口を閉ざして、うまくやっている。だから釣井も、他人を巻き込むべきではない。
海の中にいると不安で眠れないという問題に、解決策があるとは思えなかった。学校が元に戻ればいいだけだ。だが今のところそうなる気配はない。
当てもなく、彷徨い階段を登る。
不眠が連日になると、頭がぼんやりとする。熱が出たときのようだ。現実が膜一枚隔てた向こう側にあるように遠ざかって感じられる。それは夢を見ているときに似ていて、眠ることができない釣井に眠りの真似事をしている気分を与えてくれた。
ざぁざぁと鳴っているのが、血の流れる音なのか耳鳴りなのか波の音なのかも判然としない。
意味のない夜の散歩を延々と続け、疲れたら屋上で星を眺め通り過ぎていく人を見る。いつまで続けられるのかわからなかったが、それを言ったらこの非日常だっていつまで続くかわからない。
明日、全てが変わって取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。
突然、学校が海に沈んだみたいに。だから後悔しないように、決めなければいけなくて、でも、あれ
――
そもそもオレ、何に悩んでたんだっけ。
何階まで登り何階降りたか、わからなかった。
踊り場で振り返ろうとして、足が滑った。
咄嗟に体勢を立て直すには、頭が鈍りすぎていた。
手すりも掴み損ね、頭から落ちる。視界が流れる。階段。天井。非常灯のぼんやりとした灯り。緑色の光の中に、一瞬好きな人の幻覚を見る。青く染め抜いた髪。三盆線の傷がよく見えるようになった横顔。あ、そういえば先輩の頭の傷も階段から落ち
***挿絵***
階段を上っていたはずのに、教室にいた。
見覚えのある自分の席だ。
記憶が確かなら、階段から落ちたはずだ。だがどこにも怪我などしていないし、あそこから移動したのなら運んできた誰かがいるはずだ。
だが保健室ではなくて教室に運んだ理由がわからない。
寝不足で、とうとう夢遊病になってしまったのだろうか。
不思議と頭ははっきりとしていた。
久しぶりによく眠れたような感覚があった。
ただ、全身がびっしょりと濡れていて、それだけが不愉快だった。
寝巻きに使っているジャージがずぶ濡れで、上履きの中まで水が溜まっていて気持ちが悪い。体を動かすと体温に温まった水が靴の中でじゃぽと音を立てた。
意味がわからない。
学校がこの状態になってから、意味が分かることなどあまりなかったが、記憶の連続性が失われているのというのが、一番嫌だった。
自分が海に近付いたとも思えない。
誰かに水を掛けられたのか。
それとも、学校が沈んだ瞬間から今まで、ずっとここで寝ていたのだろうか。
考えてもわからないことを考えるのは、無意味だ。
何も分からないことに苛々した。
机を思い切り蹴り上げる。
ガツンと音を立てて引き出しが膝にぶつかるときの痛みは、確かに現実だった。
机が倒れてけたたましい音がした。幸い教室には誰もいない。
痛いなら、やっぱりこれが現実だ。
じゃあさっきの階段はなに。
「あー、もう全部めんどくさいな」
椅子の背もたれに体を預ける。
後ろの席にまで水が滴っている気がした。
朝になったら、乾いているだろうか。
このままじゃ、体育館にも戻れない。
全身に被っているのは真水ではなく海水のようで、このまま乾くまで待てばいいという問題でもなさそうだった。
教師に助けを求めるべき状況なのは明らかだ。
だが、なんと説明すればいいのだろう。こんな時間にどうしてこんな姿になっていたかと問われても、釣井には答えようがない。記憶が曖昧だからだ。
海に入ったわけではない。気がついたらずぶ濡れになって教室にいた。直前に何をしていたのかも、どうやって教室まで辿り着いたのかも記憶がない。
そう正直に言っても、夜中に出歩き海に転落したのを、誤魔化しているだけだと思われないだろうか。
せめて昼間なら、タオルを持ってきてくれる誰かを見つけることもできた。だが今は周りに人の姿はない。夜中に出歩いている人間なんていくらでもいるはずなのに、求めているときには見つからないものだ。
水道に頭を突っ込んで、顔を洗いべたつく髪を洗い流す。本当ならばシャワーでも浴びたいところだが、一人当たりの割り当て時間が厳しく決まっている設備を自分の都合で使っていいのだろうか。
手洗い場の縁に腰掛けて、途方に暮れる。
この学校の季節が現実に即しているとするならば、まだ五月だ。そうでなくとも海中に沈んでいる学校は薄暗くて冷えている。乾くまで待っていたら風邪をひいてしまう。養護教員はいるが、ここは医療設備が整った病院ではないのだ。体調不良になる前に回避するべきだ。
結局釣井は、平に頼った。
平は夜中に突然起こされたことにも、釣井が海に落ちた風に見えることにも驚いていた。海に落ちたわけではないという言葉を真っ直ぐに目を見て聞き返したあと、信じてくれた。
「しの、もう一度確認するけど海には入った?」
「いえ、近付いてもないはずなんですけど。寝ぼけてたのかな。あーでもそういえば歩いてきたって感じでもなかったな。席の周り濡れてなかったし」
ここまで歩いてきた廊下を振り返る。当然びしょ濡れだ。濡れた体で歩いたら廊下にも水が滴り落ちる。
釣井が座っていた椅子の周りは、一切の水がなかった。まるでその場所が、開始地点であるかのように。
「
……
そう」
平が何かの言葉を飲み込んだということは分かった。
何か知っているのか、それとも釣井に言い足りないことがあるのだろうか。
ここで踏み込むべきだろうか。迷った末に、何も聞かなかった。
「シャワー浴びよう。そのままじゃ風邪ひいちゃうし」
「勝手に使っていいのかな」
「いいでしょ。体調優先だよ。先生が来たら俺が説明しとくし、着替えも持ってきとくから。ほらいっといで」
平はシャワー室に釣井を押し込んだ。
体育館に戻る頃には、夜明けが近くなっていた。深夜だったはずなのに、時間の感覚が完全に消えている。
自分の割り当てられた場所に戻る間、平は口数少なかった。
もう目覚めている人もいて、海水に濡れた服を持って帰ってくる釣井を見て奇妙な目を向けた。寝る前と起きたときで、釣井の服装が変わっているからだろうと思ったのだが、そういう雰囲気ではない。
みんな釣井が知らない何かを知っている。知っていて隠している。
共通の合言葉を自分だけが知らないような居心地の悪さ。
たぶん、平はそれを知っている。知っていて、隠している。
布団のある場所に座る。
「あのさ、しの。落ち着いて、聞いて欲しいんだけど」
平は真剣な顔で前置きをした。
両手をしっかりと握られたから、それが何か大切で釣井が逃げ出したくなるような話題なのだということが理解できた。
「もしかしてだけど、死ぬような目に遭わなかった? 死んだ人は、ずぶ濡れになって教室の自分の席に戻ってくる。先生は職員室に。噂になってるよ。俺は実際に見たわけじゃないけど、この学校ではそういうことが起こる」
連続しない記憶。
真夜中の階段。
現実感のない死という言葉。
「オレは海には近づいてない」
言い訳を探すように呟く。
にもかかわらず、教室に戻っていた。
まるでその場所に突然湧いて出たように。
言葉が出なくなった。
明日、死んだら後悔する。だからいつまでも悩んではいられないと思っていた。
だが、昨日死んでいた人間は、どうすればいい。
死んだことにも気づかずに、今日も悩んだり迷ったりするつもりだったのか。
「ハハ」
口から乾いた笑いが出た。
馬鹿みたいだな。まるで喜劇だ。
「死んじゃったのかも」
命が続いていることを、喜ぶべきだろうか。それとも死んでしまったことを、悲しむべきだろうか。死んだという事実に、まだ心が追いついていない。
寝不足のはずだったのに、意識がはっきりしている理由もよくわかった。一度死んで全てがリセットされたからだ。
「大丈夫?」
平が手をしっかりと握っているがその体温が遠く感じられる。
「死んだって自覚もなかったくらいだから別に平気ですよ」
本当に簡単に、あっさりと人は死んでしまうんだ。
「何があったのか、聞いてもいい?」
「何があったんだろ。たぶん階段から落ちたんですよね。それで目が覚めたら教室にいたから、たぶんそうだったんじゃないかな」
「たぶん、どんな方法でも死んだらずぶ濡れになって、教室に戻ってくる。そういうことだと思う」
意識が朦朧としていたから、苦しさはなかった。
この異常事態の中で、確かなことがわかる人間などいるわけがなく、予想と予測で話すしかない。釣井と他の人間に起きたことを合わせて考えれば、死んで生き返ったのだと納得するより他ないのだろう。
死んだら、濡れた状態で教室に戻ってくる。
後悔を抱えたまま死んでも、やり直すことができる。
どんなに苦しい思いをして死んでも、終わることはできない。同じことを二つの側面から眺めて、あとに残った感情はけして明るいものではなかった。
ずっと隣に居たいと願い、困ったことがあれば頼ると約束した。
でも死んだらそれは叶わないのだ。
そもそも平は不眠を一人で抱えたまま夜を過ごしていたことも、きっと納得しないだろう。もっと早く打ち明けてくれればと言われることは、わかっている。
それでも釣井は、今を楽しんでいる人たちに自分の不安を告げたくはなかった。
平は彼なりの方法で、この学校を楽しんでいる。
非日常を満喫し校舎内で楽しく過ごしている。少なくともそう見えるように振る舞うことを選んだ人たちは、そうやって現実と向き合っている。その口に毒を流し込むように、心の中にある恐怖を明け渡して何になるだろう。
まだもう少し、持ち堪えられるかもしれない。この異常な空間にも慣れて、誰の手も借りずに不安を処理して眠れるようになるかもしれない。
幸い一度死んで、頭はすっきりしているわけだし。
笑って昼間をやり過ごし、また日が暮れてから屋上に逃げる。
見回りが来るのが一番多いのも屋上だが、海から最も離れていられるのも屋上なのだ。空を見ていれば、海が目に入らない。世界は青色ではない。魚が泳ぐのも見えないし、もっと大きな海洋性生物が急に視界に影を落としたりもしない。
そういえば海の音が好きと言っている人もいた。音楽をする人らしい意見だと思った。水没した窓の外に見える生き物たちや、日が沈むときの水平線など、海に対する釣井の印象はそういう視覚的な情報ばかりだった。確かに海というのは案外騒がしいものだ。
海中で波は鳴らない。
一定のリズムで寄せては返す潮騒を聞くことができるのも、地上にいるという証拠だった。
海から逃げ出して一人で夜を過ごしながら、釣井はようやく覚悟を決めた。
◇◆◇
始まったときと同じように、瞬きをしている間に突然終わっているかもしれない。
不思議な夢だったねと笑う朝がやってくるのかもしれない。
今ならば、非日常の中に混ぜた言葉は、追い詰められて非日常に浮かされて見ていた夢だって、思ってくれるかもしれない。これは、またいつもの逃げ道探しだ。
現実は待ってくれない。
だから釣井は決めた。
メッセージを書いては消し、消しては書いてを繰り返している内に、バッテリー残量が半分を下回る。校内には電気が通っているが、コンセントの数は限られているから常にシャワールームと同じくらい混み合っている。
この端末で返信を受け取らないといけないのだから、これ以上無意味に充電をすり減らしていないで、早く送らないといけない。
意味深にならない文面を考えたがうまくいかず、繕うのは無理だという結論に至った。そのまま、言えばいい。
――
話したいことがあるので、お時間いただけますか。
海の底の体育館で時間感覚はないが、時間の表示は夕方を告げている。世界は狂っているけれど、時計は狂っていないのだ。
そろそろ海は夕日で真っ赤に燃えている頃合いだろうか。
海は、一面単調な青に塗りつぶされているように思っていたけれど、時間によって刻々と色を変える。そんなことも海を眺めながら暮らせば、わかるようになる。
――
できれば、屋上とかで。
今頃、屋上に行ったらきっと青が赤に変わって、夜の藍色が空に溶けだしていくのが見える。
『いいよー』
あまり時間を空けずに返信が来た。八万は普段は四階にいると言っていた。
何も考えずに屋上を指定してしまったが、このまま八万が屋上に向かったら先について待たせることになってしまうんじゃないだろうか。
屋上までの階段を駆け上がり、首筋の汗を伝う。
何度も、何度も、この階段を駆け上がった。もはや数えるのを忘れるくらいに何度も。
八万の背中を見つけるたび、用もないのにあとを追いかけてしまう。
胸のざわめきを鎮めるために唇に載せた名前は、祈りのように響く。
たまに顔を合わせて言葉を交わすだけの、先輩と後輩。それだけのはずなのに、思い出が少しずつ積み重なっていった。彼の隣で見る学校はいつもより少しだけ色鮮やかに見えて、体感温度を上げる。
そのいずれのときも、釣井には会いにいく言い訳が必要だった。
あなたが特別ですという勇気が出なかった。
八万は、やはり釣井よりも先に屋上に着いていた。
夕日の寿命は短い。
雲を鴇色に染め、細波立つ海を赤く燃えさせていた陽は、海に燃え尽きようとしている。
紫から藍色。星を散らした夜の色が、夜の東側に迫っている。
流れ出していく時間は取り返しがつかない。いつだって取り返しのつかない一瞬の中を生きているのに、幾度こうして無力に見送ったのだろう。
夢に似た非日常の景色の中でなお、八万が一番綺麗に見える。
「あの、すみません。下にいたから、時間、が」
息を整えながら謝り、何から話すべきか考える。
釣井は八万のことを、どう思っているのか。釣井は何を思っているのか。
一緒に居て楽しいは、友達とは違うのか。
ああなりたいと思うのは、憧れではないのか。
他の友人や先輩たちとは、確かに違うのだ。それが人を好きになることだと、断じてしまってよかったのだろうか。自分の事のはずなのに、何もわからない。
八万 至という人間に踏み込んだ先の心は、底が見通せない深みだった。わからないものは怖い。誰だって、未知を恐れる。自分がどうなってしまうかわからないから、踏み出せない。
まるで、夜の海だ。
何かが居そうで怖い。溺れてしまいそうで怖い。底が見えなくて怖い。
自制の聞かない心を、振り回さないで欲しい。
それが本物の海だったなら、夜が明けるまで待てばいいのだろうし深さを知っている誰かに聞けばいいのだろう。ここは、オレが入っても大丈夫な海ですかって。
しかし心を覗いて推し量れる人間なんて、いない。何かが照らしてくれることもない。地平から覗く太陽が、水底の景色を教えてくれることはないのだ。
知りたければ、飛び込むしかない。
陸の生き物は水の中では生きられないとわかっているのに。
飛び込まなければわからないなんて、不合理だ。誰か正解を教えてほしい。どちらにいるべきなのか。どれだけ物語を読み漁って他人の感情に教えを乞うても、それは所詮他人の心であって釣井の気持ちではない。
だからずっと、進むべきかやめるべきかわからないまま水際に立っていた。離れがたいのは、そこに引き留めようとする力に決定的な何かを握られているからだ。首に縄を掛けられ、刑の執行を待つ死刑囚のような心持ちで、海に引き込もうとする力にギリギリで抗っている。
夜の海はそんな釣井に何も語らず、ただただ水面が光を反射して、ここから先に進んだら沈むのだと境界線を教えている。
ようやく、理由がわかった。
はっきりしてるじゃないか。踏み込んだら、死んでしまうような気がしているのに、離れられない理由なんて。
息を吸う。
「あの、オレ、すごく大事な幼なじみがいて」
結局、そんな出だしになってしまった。
「今は、喧嘩して嫌われちゃってるけど大事な友達とか、隠し事打ち明けてくれるクラスメイトとか、兄妹みたいに仲良くしてくれる人とか、一緒に映画観に行ってくれる人とかいろいろ
……
大事なものがたくさんあるんです」
周りにいる人との関係、どれ一つをとっても同じではなかった。
クラスメイトであっても一言で友達と言い切れるような、単純な関係は一つもなかった。
「でも、あなたの、隣にいられるときが一番嬉しいんです」
「
……
どしたの急に。何かあった?」
いろんなことがあったような気がするし、何もなかったような気もする。
どう答えたらいいのかわからなくて釣井は力なく笑った。
「何も、何もなかったんです」
学校が沈んで、外の世界が消えた。
取り巻く環境がこんなに大きく変わってしまっても、二人の間にある心や関係は変わったりはしない。
何もない。
何もしなければ、変わらないままだ。
踏み出さなければ、海に沈むことはない。苦しみを知らずにいられる。
だが、夜明けを見ることもできない。
「ただオレはずっと
……
ずっと前から、あなたのことが好きでした」
夜明けの光をください。
八万は記憶の中にあるようには、笑わなかった。釣井の言葉を茶化さなかったし、躱すこともしなかった。
いつも淀みない八万が、言うべき言葉を決めかねて躊躇った。
いくつかは口に出さずに飲み込んだようだった。
それだけで、不安で心が砕けそうになる。全部冗談です聞かなかったことにしてくださいと言って、逃げ出したくなる。
だが、もう逃げたところで元には戻らない。踏み出してしまったのだ。
これが本気だということは、彼にはもう伝わってしまっている。
「忍ちゃんは、俺とどうなりたいって思ってんの?」
八万とどうなりたいのか、どうなることができたら満足なのか。
それはずっと、考えていたことだった。
告白して恋人であることを認めてもらわなくても、傍にいることはできる。今までだって、近くに置いてもらっていた。家にも遊びに行った。たぶんそれは異性では味わえない特権だった
そうやって憧れを追いかけて、重なる時間を共有していた。
「
……
オレのこと、見て欲しい、です」
背中を追いかけるだけではなくて、隣に置いて欲しい。
「後輩のオレじゃなくて、先輩のことが好きなオレを」
言い訳を探して逃げ道を作って、後輩の振りをしていた。
心の中にある、汚い全てを隠していた。
ずっと嘘を吐いていた。あなたを裏切っていました。
「オレは、あなたが欲しいです」
この胸の内にあるものはずっと、友情なんて綺麗なものではなかった。
「
……
熱烈だねー。
……
あー駄目だな、正直に行くか」
八万は普段の調子で話しだそうとして、途中で諦めた。
「俺ってさ、結構テキトーに人と付き合っちゃうの。まあ知ってるとは思うけど」
肯く。
その適当さに許されて、救われていた。
「男をそういう意味で好きになった事は無いし、今後ちゃんと好きになれるかも分かんない。普段ならこのまま付き合っちゃってこのままデートしてチューして。そんな感じだけど。
……
友人としてもさ、ケッコー気に入ってたんよ、忍ちゃんの事」
纏まらない言葉に苛立つように八万は頭を掻いて、そこで黙り込んだ。
「付き合う事はできる、今までもそうして来た。でもこっからどーなんのか俺にもわかんねぇ」
その言葉は、誤魔化しのない誠実なものだった。
「これ聞いてどう?」
どう思ったか。
拒絶されると、思っていた。
先輩は男で、女性と付き合っていて、釣井でなくても好いてくれる人はいくらでもいる。
「正直にいうと、オレは、今すごく嬉しいです」
気持ち悪いと言われてもおかしくなかった。もう二度と近づくなと言われる気持ちでいた。
それなのに友人としてであっても、気に入っていると言ってもらえた。それだけのことで舞い上がりそうだ。
「適当で、いいです。オレは八万先輩のことが好きだから、傍にいていいのなら、オレのことちゃんと好きになってもらえなくてもいい」
諦められはしない。そのことは釣井自身が一番わかっている。
好いてもらえなくても希望がなくても、黙って胸に秘めていることなどできない。
「あなたにもらえるものなら、痛みでも構いません。いつか駄目になる関係だとしても、オレは先輩と、付き合いたいです」
そしてどうせなら、二度と立ち上がれなくなるくらいの傷をください。
そうでなければ、またきっとその背中を追いかけてしまう。
「はは、みなまで言うなよ。
……
最初っから駄目になろうとしてる訳じゃないんだぜ? 俺も」
釣井の目に映る八万という人物は、周りの評価ほど軽薄な人間ではない。
軽やかだが、誠実な人だ。
今だって誤魔化しもせずに釣井の言葉を、きちんと受け止めてくれた。
「
……
よし、硬っ苦しいのは無し! 男相手に付き合うってのも中々決断出来ないのが正直な所。でも断る理由も別に無い。忍ちゃんの気持ちは嬉しいぜ、これは本当」
なら、いいじゃないですか。そう、言いたくなる。遊びでいいなら付き合ってあげると、そう言えない生真面目さと誠実さが、八万の態度には隠れている。
「どうしたもんかね」
迷う八万の手を掴んだ。
「チャンスを、ください。オレが先輩を、惚れさせるので」
強欲だから、諦められない。
傲慢だから、手を伸ばしてしまう。
八万の顔に浮かぶ葛藤と躊躇いが分かっていて、自分の望みを押し通す。
「わーかった、そこまで言われちゃうとなあ
……
。忍ちゃんの気持ち踏み躙るような事言ってるかもしんないけど、この際ハッキリさせようぜ」
踏みにじられるくらいで、この恋を諦められるなら踏みにじって欲しい。
「ここが〝海に沈んでる間〟お試しで、でどう?」
それはつまり条件付きではあるが、了承されたということだった。
「わ、わかりました! 言っておきますけど、オレは、すごく、傲慢で、強欲で、諦めが悪いですから。覚悟してください」
自分でもそうとわかるくらいに、声が弾んでいた。
「その片鱗見えたよ、今さっき」
薄い笑いが、穏やかに答える。
「先輩は、そうやって求められるの、いやですか?」
「別に嫌じゃねーけど。恋愛って基本的にそういうモンじゃん?」
「そう
……
なんですか? じゃあ、もうすこし欲しがるかも、知れないです」
「どーぞ、付き合ってんだしね。
…
よろしくね、忍ちゃん」
「よろしくお願いします。八万先輩」
釣井の心は、嫌になるくらい単純だ。
学校が水没したことよりも、好きな人との出来事に一喜一憂する。
この非日常を不安に思い、海の下で暮らすことがあんなに怖かった。
それなのに、今この瞬間に生活がずっと続けばいいと思っていた。
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