望月 鏡翠
2022-10-31 23:53:30
2099文字
Public リアタイ
 

1、その男は赤かった

Rauiri Tadhg Cian/獣性イデア/#獣性_B_彼は言葉を残さなかった

現実 ▶︎十月某日
好奇心▶︎外見こそ己の史上価値と信じて疑わぬ女からそれを奪ったら、どんな顔をするのか。
遺留品▶︎ペン先の折れた万年筆。
そこには体組織が付着していたという。
概要▶︎
 世界規模のテロリズムであるとも言われたエクリプス・コンプレックスの影響が、表出し始めた頃の事件である。それが本当に薬害の影響であったのか、彼自身の衝動であったのかが問題とされた。
 氏は、収監された精神病院で、架空の人物を存在しているかのように扱う異常行動が確認されている。これがエクリプス・コンプレックスの使用を始める前からあったものなのかどうか、判断できる要素は存在していない。手掛けたコラムの検証なども行われたが、その全てを実在の人物を結びつけることは難しく、証拠とはならないという結論が出た。
 空想の友人だけでなく、エクリプス・コンプレックスが抜けたあとも実際には存在しない罪を自白するなどの問題行動が見られたという。

 その日、ローリー・T=キーアンはインタビューのために某女優とアポイントメントをとり、ホテルのロビーラウンジで待ち合わせをしていた。
 彼女の言葉を借りれば〝前に会ったときと変わらない。穏やかで理知的な様子〟だったという。お茶をサーブしたスタッフも、そして当時ホテル内にいた警備員も、そこに不審な様子はなかったと証言している。
 全ては突然、起こった。
 女優の悲鳴を聞いて駆けつけた警備員は、人を押しのけて走り去る男を目撃している。
 彼は、赤かった。そう目撃者は証言した。
 髪の毛が赤かったのか、顔が血に染まっていて赤かったのか。咄嗟のすれ違いざまに判断するのは難しく、わからなかったという。
 ただ突き飛ばされた人間の服にべったりと残った血の手形や、現場に残された夥しい量の血痕を見れば、事件性があることは明らかだった。
 即座に、警察へ通報がされた。
 しかし現場に居合わせた女性はショック状態にあり、話を聞くことができるようになるまでに時間が掛かった。
 走り去った男がローリー・タイグ・キーアンであることが明らかになり、彼が何をしてしまったのか。それを警察が知り拘束に動き出す前に、もう被害者が出ていた。

 それがローリーの、獣性の始まりだった。

 他の人には見えない友人の前で、ローリーは鎮痛な面持ちで目を伏せたい。今だに拘束されているし、部屋から出ることもできない。
 だがベッドに縫い付けられているような状況からは、脱している。
 視界は半分が、欠損している。自我を失い暴れている間にひどく怪我をおい、まともな治療を受けられる精神状態になかったローリーは、そのまま片目を失明することになった。どうなっているのか、自分では見えない。
 割れたら凶器になる鏡など、心を病んで自殺を試みた人間に渡すものではないからだ。
 見えなくなった暗闇の場所に、ニコ・ジーグバーンが立っている。
 それを気配で感じることができる。
「それで……それで、どうなったのですか」
 他の人間がいうことは、ローリーが認識している世界と同じくらい当てにならなかった。
 ローリーは全ての罪過に頷いた。わからなかったからだ。
 わかりません。覚えていません。ですがそれを私がしたと記録されているのであれば、そうなのだと思います。
 できる限りの誠実な回答とは、それだった。だから、医者やスタッフが教えてくれたことが本当にローリーのしたことなのか、していないことなのかわからない。
 心が傷つかないように、嘘を言っている可能性もあった。
「どう、とは?」
「その、私が起こした事件です。
 ニコが不思議そうな顔をして聞き返す。彼も白昼夢の中にいた。現実世界に体はない。だが他の自由に動ける人間と縁を結ぶことができている分、ローリーよりも少しだけ自由で、今見ることができない事件について詳しかった。
「被害者は、無事……でしたか」
「被害者は、ローリーさんです」
「そういう話ではなく」
 今はそんな慰めのような薬害被害者論争が聞きたいわけではない。
 そう続けかけて、ぴたりと口が止まった。
 ニコは、この好奇心の概念は、慰めなど言わない。
 きっとその情緒を理解しない。
 ただ起こったことを、淡々と教えてくれる。興味を持ったら尋ねるだけだ。
「手に持っていた万年筆で、自分の目を刺した。怯える女性に、逃げろと行ってホテルを飛び出して行った。そう記事には書いてありました。だから怪我人はあなただけです」
 覚えていない。込み上げる衝動を前に、現実の自分がどう振る舞ったのか。
 無意識世界と同じなら、それは耐え難かったはずだ。争い難い苦痛を伴ったはずだ。
 乾いて餓えて、たまらなかったはずだ。
 それでも、堪えたのだ。
 内なる獣を飼い慣らした存在をこそ、人と呼ぶ。
 ならば――
 温かいものが爪先を揺らす。
 それは涙だった。
 ああ、私は、人であったのだ。
 少なくとも人であろうと寸前までもがき、限界まで足掻き続けたのだ。
 見えなくとも、涙は両目からこぼれた。