望月 鏡翠
2022-05-24 03:20:03
4391文字
Public 単発創作
 

出来損ないの少年と初春

創作

 静かで、風がない日だった。苔むした岩に囲まれた池の水面を揺らすものなど一つもなかった。
 そこに椿の花が一輪ぽとと落ちて、水面の錦に加わった。水紋が広がり、池の縁に届く前に薄れて消えていった。
 僕は思わず掃除の手を止めて、それをじっと見ていた。
 罰として掃除を命じられていたのだけれど、四季折々で違った顔を見せるこの家の庭が僕はとても好きだった。道場にいる時間よりももっとずっと好きだった。
 椿の花が落ちたあたりの水面が、ぬらと動いた。
 ばしゃりと暗い水の中から、大きな魚影が泳ぎ出て椿の花を一口に飲み込んでまた水底に戻っていった。
 一瞬見えたのは、立派な三角の背鰭。まるで、イルカやサメみたいな。
「ねぇ、今の見た?」
 僕に対する話し方が丁寧だったし庭で起こる不思議を口にしたから、この人は余所からきた人なんだなとわかった。
 そしらぬ振りをすれば良かったのに、僕は間抜けでグズだからうなずいてしまった。僕も今見たものにびっくりして、興奮していたのだ。
「鯉や鯰には見えなかったね。もしかして鮫か? こんな池に。いやぁ、見た目によらず随分と深いようだ。そこが見えない」
 独り言を言いながら、その人はツカツカと池の縁まで歩み寄った。
「あ、あのぉ、危ないから離れてください。見たら、駄目です」
 緊張で声が裏返った。
「深淵を覗くものは、深淵に覗かれる。ふふ、古典(クラシック)に語られた危険をこんな子供に教えられるなんてね。然り然り、何の守りもなく淵など除くべきではない、か。ありがとう助かったよ」
 細長い人だった。僕よりも背が低いのに、背が高いと感じるのは頭が小さくて、足が長くて体が引き締まっているからだ。
「君はこの家の子だよね」
 家の子供と答えていいんだろうか。僕は分家で傍流もいいところだ。だから名字も違う。
「そう、です」
「花化生の子が何で庭掃除?」
 僕が無能で馬鹿で役に立たないから。
「僕はノロマでグズだから、術式も単純で捻りがない使えない子だからです」
「ふぅん。でもそう言うからには自分の術式を持っていると言うことだ。見せて」
 見せていんだろうか。本当はいけない。
 でもどうせ僕の術式が人に見られたところで、損失にはならない。だって、役立たずなんだから。
 掌を上に向ける。丸く魔法陣を浮き上がらせる。周囲の木々が少しだけそよいだ。それだけだ。僕の魔法は、ふわふわとするだけ。
 お前のたるんだ腹みたいだなって言われて蹴られたところの痛さを思い出す。
「いいね。分かりやすい」
「分かりやすいから、駄目だって」
 攻めにも守りにも向かない魔法な上に、すぐに人に解析されてしまうような術式しか組むことができない。簡単なものを難しく見せかけるのも、目眩しをするのも駄目。他の術式と組み合わせて新しいものを作るのも駄目。何もかもができない。
「駄目ではない。人に伝わりやすいと言うのは、とても大切なことだよ。見方を変えればね。例えば」
 そう言ってその人は僕の掌に手を重ねた。魔法陣が大きな大人の手に隠された。
 大事な物に触られたような、体の奥がぞくりとする感覚があった。掌以外の、何かに触れられている。
「こんな風に、組み合わせて新しい使い方を試みることができる。他人に理解できない術式を持っている人間には、消してできないことだ」
 その人は重ねていない方の手を振り上げた。
 ひゅんと風が唸った。
 静かな池の水面が震え、庭中の落ち葉が舞い上がり一所に集まった。
 穏やかな風だったのに、その魔法の凄まじさに押されて僕は地面に倒れ込んでしまった。その人に術式を触れたのがなんとなくざわざわしていて腰が抜けたというのもあった。
「はい。これで掃除はおしまいね」
「すごい」
 息を飲むような見事な魔法だった。指を振り上げるだけで発動させる速さも、庭の全てをカバーできる広さも、庭木を傷つけず、花も小石も避けて落ち葉やゴミだけを拾い集めてくる精度と威力制御。どれをとっても段違いだ。
「あれ、腰が抜けちゃった?」
「びっくりして」
「立ちなよ。君も花化生家の一門ならばそこそこ使うでしょう」
 助け起こしてくれた手はひんやりとしていた。僕の手が熱くなっているんだ。初めてそんな風に触れてくれたからだ。
「あなたは、誰ですか?」
「術者に名を問うてはいけない」
 唇の前に指先を立てて、その人は声を潜めた。
 そうだった。忘れていた。僕はみんなが当たり前にしていることができない。術者は人に名前を教えてもいけないし、問うてもいけない。だから僕も名乗っていないんだ。力ある術者の人たちは、みんな綽名を持っている。ご当主をはじめとする花化生の人たちもそうだ。
「でも特別に教えてあげるね」
 耳元に顔を寄せた。
「私の名前は初春 間(ういはる あわい)。誰にも言ってはいけないよ」
 名を明かした。僕は驚いて、何も言えなくなってしまった。お返しに僕の名前を言ったほうがいいんだろうか。でもそんなことを今までしたことがないから怖くて、どうしたらいいのかもわからず、結局黙りこくったまま初春と名乗ったその人の顔を見つめ返すだけだった。
「花化生家当主 炎蕾殿の招きに預かり参上したのだけど、どうにも庭が広くてね。掃除をするはずだった時間を、私の案内にもらってもいいかな」
 断る理由は、僕にはない。


 あんなすごい魔法を使えるのだから、さぞかし名のある魔法使いの人なのだろうと思ったけれど、初春という家を僕はきいたことがなかった。どこの名家の血筋でもない。少なくとも、本家の人ではないということだ。
 庭は、僕にとっては見慣れたところだったけれど、初春は一つ一つを物珍しそうにみていた。だから二人の歩みは遅々として進まず、炎蕾様を怒らせてしまうのではないかとずっとじりじりとしながら案内をしていた。
 池にサメのような生き物がいることも、庭の椿が美しいことも僕にとってはどうでもいいことだった。
「ここは炎蕾殿の結界ではないね。随分遠くに迷い出てしまったものだ」
 初春の言葉に僕は驚いた。
「どうして、わかるんですか?」
「綽名はその人を表す言葉だからさ。解縒というのが私の綽名であるようにね。炎蕾殿の蕾の文字は花化生当主が代々背負うものだから、彼の術式の性質は炎。池や草木、そして水に棲まう生き物ではないということだよ。燃えるものが、この領域にはない」
「ときより様」
「そう。縒り合わされた糸を解すように、人の術式を解きほぐし再び縒り合わせる。私を呼ぶ必要があるときは、そう呼ぶといい。僕の名前は誰にも知られてはいけないよ。絶対の秘密だ。いいかな?」
「わかりました」
 僕だけに教えてくれた名前だ。僕だけに、というのが初めてのことだったので、それはとても大切に胸の中にしまって心の中だけで僕はその人の名前を呼ぶ。
 術式を縒りあわせる。自分の血筋の系統が近い魔法ならともかく、僕と初春は初対面なのに、なんの役にも立たない僕の術式をもっと凄いものにしてしまった。それがとてもすごいことなのだというのは、どんなに僕が鈍くて馬鹿でもわかることだ。
 だからこの人は、炎蕾様に呼び出されたのだろう。
「ところで、私は君をなんと呼べばいい?」
 ちゃんとした綽名なんて、ない。なにも成していないし、目を引くような特徴もないからだ。
「みんなは僕のことを、浮草と呼びます」
 ふわふわと浮くだけの術式。花でもなく木でもない。実もならない、ただの水草。
「センスがないね。君の本質を外している」
 僕はなぜ初春がそんなに僕を大切にしてくれるのかわからなかった。わからないけれど、温かい気持ちになる幸せなことだからいいやと、そう考えていた。


 他人に術式を触られるのは、ぞわぞわとする。首筋に刃物を当てられるのと似ている。大事なものを明け渡して人の手に委ねてしまっている、そんな気分になる。
「それじゃあ翔ぶよ」
 飛ぶというのがどういう意味か理解できてないでいるうちに、体は宙に飛び上がっていた。初春は一蹴りで途方もない距離を翔んだ。初春に抱えられている僕もだ。
 どう考えたって初春に持ち上げられる体じゃない。
 浮遊しているんだ。僕の魔法を使って、僕を持ち上げている。自分の術式だからそれくらいは理解できた。これも魔術を縒り合わせるということなんだろう。
「凄いでしょう」
「すごい、です」
「魔法による飛行は不可能ではないけれど実用的ではない。だから魔法使いであっても、自動車で移動をする。君の術式はそれを解決しうるよ。無論、それが対象の何を基準としている魔法なのか、というのは重要だけどね。私が今使っているのは〝重さ〟を扱う術式だからこんなことができる。本来は術者本人が持ち上げられる重量のものしか移動できないんだ」
 僕の術式とより合わされている魔法の方も、初春のものじゃない。そんな気がした。初春は今、僕の術式を使っているけれど、発動しているのは僕だ。他人の術式を理解しても自分のものにできるわけじゃない。自分のものとして使えるというのは、凄いことだ。
 単に凄いというだけではなくて、この世に唯一とかただ一つの力だ。
「ときより様は、本家の誰かと結婚するんですか?」
「随分突飛なことを聞くね。いや、突飛でもないか。確かに余所の魔法使いをわざわざ家に招く理由はない。優秀であればあるほど、自分たちの秘伝は隠しておきたいものだ。話すことがあるのなら自分たちが外に出るか使者を介する。結界の内側に招き入れたのなら、出す予定がないんだ。だから私は花化生の家の人間になるはずだ、というのが君の考えというわけだ」
 再びの跳躍で風が唸る。
「なんだ、グズだなんだと言われているわりによく考えているじゃないか。ところで風花というのはどうかな。雪の異名なのだけど、ふわふわに似合いの名前だろう」
 ふわふわして、風に流され漂うだけの雪。人の肌に乗れば溶けて消えるだけのもの。それは確かに僕にお似合いなのかもしれない。
「はい、好きに呼んでください」
「はは、いや素直なのは可愛いけれど、あまり相手に委ねすぎるのもよくないよ。本来ならば魔法使いというのは人を信用せず、内側に入れないものだから」
「それはあなたが、花化生の、この家の敵だからですか」
 家に連なるもの以外の魔法使いをわざわざ家に入れたりはしない。結界の内側に人がいたのなら、それはもう出ていく予定がないか招かれざる客人だ。
「はは、なんだ。もしかして君、わかっていて俺に協力を?」
 初春は歯を笑った。思わせぶりな態度も小難しい言い回しもない。魔法使いらしくない態度だった。