蒸し暑さに目が覚めた。カーテンを薄くあけて見た空はどんより曇っていて、さわやかな朝とは程遠い色をしていた。梅雨入りしたのだという昨夜のニュースを、他人事みたいに聞き流していたけれど、案外他人事ではなかったらしい。どうせ午後には降りはじめるんだろう。傘を持って出なければならないだけで、重石を背負ったみたいに気も体もずっしり重くなった気がした。
今週から定期テストが始まった。月曜から木曜まで、午前中とはいえみっちり試験が組まれていて、休む暇すらない。
「これでは勉強する時間もないではないか」
「午後は帰れるから勉強できるよ」
「あー……おぬしはそういうやつよ」
学校までのゆるい坂道を歩きながら愚痴を垂れると、普賢はあははと笑う。
手にもった分厚い参考書は、テスト範囲じゃないページにまであちこち付箋が貼られていて「ずいぶん進んでおるようだのう」という嫌味にも「うん、そうだね」と即答する。
昔からクラスメイトに「勉強した?」と訊かれると「きみはしてないの?」と真顔で答えるタイプで、しかもそれを何とも思っていないし、実際きちんと結果を出している容赦のなさが、良くも悪くも普賢らしい。
「それはそうと望ちゃん、今日午後時間ある?」
「勉強するのではなかったのか」
それなんだけど、と普賢は声をひそめた。鈍色の空に雲が低く垂れこめていて、これは昼までもちそうにない。
「あそこ、」
足を止め、舗道のわきへ逸れる。まだ降っていないのに傘をさし、他の通学生の視線を遮ってから、普賢は遠慮がちに指差した。道の反対側にあったのは、古い喫茶店だった。今風のカフェではない。ショーケースのナポリタンやオムライスのサンプルが日に焼けて変色しているし、店の入り口を覆い尽くさんばかりに蔦が絡まっている。知り合いでもいなければ、まちがっても選ばない店がまえだ。
「……あれ?」
「うん」
いかにも古びて入りにくそうなその店に、普賢はどこかうっとりとした目を向けた。
「噂に聞いたんだけど」
「また噂か……」
「最近、先代の店主が亡くなって、孫だっていう人が跡を継いだんだ。常連さんが絶賛するナポリタンもちゃんと引き継がれているらしい」
「ほう。それで?」
「……その人、すっごい美人なんだって」
望はまじまじと普賢を見た。
「それ、どこ情報?」
「新聞部」
「おぬし、新聞部といえばなんでもわしが許すと思うておるな?」
「望ちゃん」
傘を持った手でがしっと望の手を掴み、普賢は真剣な目で見つめ返す。
「会いたくないの、古びた喫茶店を引き継いだ絶世の美女」
「あのなあ……」
「このままだと僕、」
「試験に身が入らぬとか?」
「ううん、勉強はちゃんとしてる」
「しとるんかい」
「このままだと想像ばっかりふくらんで、本当に会えたときいきなり求婚しちゃいそう」
「ダアホ」
望はため息をついた。あまりにも「ありそう」だったので。
「……しょーがない」
絶世の美女かどうかはともかく、常連が絶賛するというナポリタンは食べてみたい。
「おぬしの奢りだぞ。ついでにわしに物理教えろ」
「ありがとう望ちゃん!」
弾む声にかぶさるように、ぽつりと音がした。ビニール傘越しの歪んだ空に、雨粒がぽつぽつと模様を作る。どうやら、雨は天気予報より早まったらしい。
「さーて、ナポリタンが待っておるとなれば、試験にも張り合いが出るのう」
「僕、粉チーズ増量するかな」
「おっ、いいなそれ」
始業まであと十五分。いつもの坂道を、いつもより早い速度で駆け出す。雨が追いかけるように降りはじめた。
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