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太公望と普賢
銀
大昔サイトにアップしていたものの再掲載です。pixiv「希釈」の後日談的なもの。再録にあたり大幅に加筆修正しています。記憶をなくしつつある望ちゃんと見守る太乙の話。
「いつか見てろよ」
がらんとした展示室に一人で佇んでいた。
薄い制服のブレザーに、軽くマフラーを巻いて微動だにしない。
肌を切るような冷たい空気だ。雪がちらつき、石畳も屋根も白く光る。時間が止まってしまったような冷たさが、足の下から伝わってくる。遠くからクラスメイトたちのにぎやかな笑い声が聞こえる。つらつらと進路に沿って歩く集団から離れて、一人でここに残ったのには理由があった。
目の前には大きなガラスケース。その中には古い木の仏像が納められている。手前に「普賢菩薩像」と文字があった。
ゆっくりとその像と文字を交互に見た。見上げた仏は、静かに目を閉じている。穏やかな顔だった。閉じた目の奥からも、すべての不幸と幸福を見つめているようで、胸の前で合わせられた手はふくよかで、今にもこちらに差し出されそうだ。
仏に向けるにはあまりにもとげとげしい視線をひたとその顔に向けた。
「
………
たわけが」
呟きとともに白い息が口から漏れる。
その記憶が何なのか知らない。
ただ、修学旅行前のレクリエーションで、「普賢菩薩」が釈迦の隣に鎮座する仏像であり、広く苦しむ人々を救うのだ、と読んだとき、猛烈な怒りと虚しさがこみ上げてきたのだった。
友人たちは、仏様に後ろ暗いことでもあるんじゃないのか、とからかうが、そういう類のことではないと思う。
自分自身でも説明はつかない。普賢、という言葉を聞くたび、ただ苦くて苦しくて、悲しいのはなぜなのか。
言いようのない苦しさは、だが自分の心の隅にある微かな記憶から呼び起こされるのだと、それだけは分かる。
「なんなんだ、おぬし」
菩薩像に向かって呟いた。
「なんで、そうやってわしを不愉快にさせる」
勝手に気持ちがあふれ出る。わしは何を言っているのだろう、と思いながら恨み節に似た言葉が止まらなかった。
「いつだってそうやって、高いところで座って見ているのだ。すまして笑って、わしが喜ぶとでも思っておるのか」
衆生を救う、などと大仰なことをのたまうならそれでもいい。ただ、一瞬、ほんの一瞬だけでもその目をこちらに向けてくれさえすれば、それで、
「普賢はね、ずっときみが気がかりだったんだ」
驚いて振り向く望の後ろで、引率の担任が腕組みをして立っていた。
「ほかの誰でもなく、ただきみのことがね」
言葉を返せぬまま呆然としていると、担任はさあ、と手を広げた。
「もう集合時間だよ、行こう」
「ちょっと待て。どういう意味だ」
「もうすぐバスが出ちゃうって言ってるんだよ」
「そうではなく!」
ほらほら、と急かす担任の腕を引き、無理やり足を止めさせた。
「さっき、おぬし、わしのためとかぬかしおったな。何だアレは?!」
「先生に向かっておぬしとはなんだよ、おぬしとは」
「
………
た、太乙先生」
余裕の笑顔を見せる担任を睨みつけ、苦々しく言い直した。
「さっきのは、何なんですか」
うーん、と首をかしげ、担任は不思議な表情で声をひそめた。
「まだ忘れていない、でも思い出せない。そんな場所で苦しんでいるから教えてあげた、ただそれだけのことだよ」
「だからそれはいったい、」
「私は忘れないほうに賭けてるんだ、だから忘れないでおくれよ」
「だから、何が?!」
それ以上は、と言いながら、担任は望に背を向けた。
「
………
言わない。普賢もそこで見てるしね」
「
————————
!!」
まったくわけが分からない。
さっさと展示室を出て行く担任の後を追いかけながら、それでもちらりと背後を見やった。
すました顔で鎮座している仏像がじっと見つめているような気がした。
「
………
いつか見てろよ」
駆け出しながら吐き捨てた。
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