下降につれて空気が温んでくる。黄巾力士は地上目指して風を受けて速度を上げる。遥か地平の向こうには、とろけるように赤い夕陽が、ゆっくり落ちようとしている。
きれいだ、だけどいつ見ても淋しい色だ。
そう思いながら、普賢は友人の横顔をちらと見た。昏い橙の光に、彼の頬も染まっている。
太公望はさっきから無言で前を見つめていた。加速とともに風が強まるが、瞳を見開いたまま、ひと言も口をきかない。
「スピード出しすぎじゃない?」そんな普賢の言葉にも応じない。
「下へ行く」
そう言って彼が部屋を訪ねて来たのは、すでに日が傾きはじめた頃だった。有無を言わさず、ぐいぐいと腕を引かれる。勝手に出かけたらまた叱られるよ、そう言いかけてやめた
――言葉を噤ませるほどの表情を知っている。これは怒っているのだ。
理由も告げぬまま太公望は黄巾力士を発進させる。普賢も黙ってうしろに乗り込む。
もうなんど、こうやって地上に降りただろうか。背中を見ながら数えようとし、それが彼の両手指を借りても足りないことに気づいて、クスリと笑った。
太公望がこちらを向いた。風になびく髪からのぞく目には、いつもの陽気な色はない。
不機嫌だ、見た目にそれが分からぬほど短いつきあいではないが、今日は格別だ。
普賢はふと思い立って、小さく尋ねてみた。
「ね、望ちゃん、なにか怒ってる?」
「……ダアホ」
ふたたびぷいと前を向いた太公望だったが、やがて大きくため息をついた。
「おぬしが辛そうにしておるからだ」
目を見開いたままの普賢に、太公望はむっつりと言った。
「いつもそうだ、独りで悩んで決めようとする。仙人になったときも、十二仙になったときもそうだった」
ひやりと冷たい手のひらで、心臓を撫でられたような気がした。普段どおりのふるまい、会話。辛い気持ちなどおくびにも出さなかったのに。
(侮ってたな)
ふとした表情に違和感を感じ取れるのは、自分だけではなかった。
「ちょっとね、元始天尊さまに叱られちゃって」
「ジジイに?」
「弟子の教育がなってないってさ。もっと師匠としての自覚を持てって」
「ほう?」
「でもきみに言うほどのことじゃないと思ったし。実際そんなに落ち込んだわけでもないからね」
すらすらと口をついて出てくる嘘を、彼は見破っているにちがいない。ゆっくり落ちる夕陽にさえ焦れた様子で、太公望はイライラと言った。
「で? わしは相談相手にもならぬほど信用できんか」
「……それはお互いさまでしょ」
目を伏せて、それでもどうしてこんなことを言ってしまうのだろうか。
「きみだって、僕に相談なんかしたことないじゃないか」
ああ言えばこう言う、言葉遊びのような口論の中に、互いに本心をひた隠している。隠していることすら分かってしまうのに、素直になれないのは、どういうわけだろう。
「きみは僕のことを、きみにいちいち相談しないとなにもできないやつだと思っているわけ?」
失笑まじりでそう続けた普賢の言葉に、太公望はますます不快そうに眉を寄せた。
地上に視線を逸らせば、すでに夕陽は半分ほどがその姿を地に隠している。
「おぬしがどんなやつかなど、今さら考えたこともないわ」
「じゃあ、ほっとけばいいじゃないか」
「……わしは」
木々を掠めながら黄巾力士は飛びつづける。眼下に小さく村が見えるまで地に近づいている。ガサガサと枝葉を揺らす音にまじって、ぶっきらぼうな声が普賢の耳に届いた。
「おぬしが辛いのが嫌なだけだ」
こないだから泣きそうだろう。太公望はこちらを見ないで呟く。
「わしに言えぬことならそれでも構わんが、いつまでも泣きそうなままなのは、わしが辛い」
言えないことは分かっている。言ってしまっても辛さが軽くなるわけではない。だから絶対に言わない……彼の預かり知らぬところで、戦いの準備が始まっていることは。
目を閉じる。そして波立った心を鎮める。一呼吸おいて、
「……辛い思いさせてごめん」
一瞬驚いたように、太公望は普賢を見つめた。慌てて前を向きなおす、その横顔に、普賢は心の底から謝った。
(黙っててごめん)
「だけど、ほんとに平気だから。心配しなくても大丈夫」
ぶすっとしたまま、太公望は黄巾力士を操縦する手に力を込める。そして地面すれすれのところまで降りたかと思うと、いきなり角度を変えて急上昇をはじめた。
「わ!」
衝撃に、思わず太公望の背にぶつかった普賢が、なにごとかと顔を上げようとすると、そのまま前から不自然な形で片腕がまわってきて、頭を強く押さえつけられた。じたばたともがくが、背中に頬をひっつけた格好から抜け出せない。
「望ちゃ……!」
「しばらくそうしておれ」
黄巾力士はみるみる空へと昇っていく。上昇するにつれ、空気が凍る。
すでにあたりは深く暮れ、さっき夕陽が落ち切った場所が、わずかに濃い朱色をとどめているだけだった。
頼りない背に頬をつけたまま、普賢は観念して目を閉じた。ついでにぎゅっと胴にしがみつく。
「下へ降りるんじゃなかったの?」
独り言のように聞くと、太公望が小さく笑うのが背中ごしに伝わってきた。そのとき、彼がなんと返事をしたのか、風が強くて普賢には聞こえなかった。
ただ、彼の背はこんなに温かかっただろうかと、思うばかりだった。
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