冬のおわりと春のはじまり

2021年2月に開催された「春のぱく旅!桃の咲き誇る大宴会~アフターは桃源郷で~」で無配公開した白鶴洞小話の再掲載です。その節はありがとうございました。寝込んだ普賢と看病する木吒の話。

「……熱あるじゃないですか!」

木吒は眉間に皺を寄せたまま、鍋を睨んでいた。くつくつと音を立てて煮詰まっていくのは解熱作用のある薬草。半分まで量が減ったら荒布で濾して冷ます。手順をもう一度頭の中で反芻しながら、寝室の方に目をやった。青臭い香りが部屋中に充満している。
彼の師が熱を出したのは一昨日だ。いつものように朝起きて食事をしていて、その顔がいつもより赤いような気がした。大丈夫ですかと訊ねるとのんびりした口調で「大丈夫だよ」と答える。そうなのかな……。いや、でも。嫌な予感を拭いきれず、立ち上がろうとする師の額に手のひらを当てた。
……熱あるじゃないですか!」
「ええ、そうかな」
声にどこか力がない。無理やり部屋に追いやって、大急ぎで医師を訪ねたのだが、雲中子は驚きもせず「ああ、もうそんな季節か」と笑う。
「あの子はいつも、この時季になると体調を崩すからねえ。はい、頓服」
小さな湯呑みに半分ほどになった苦い薬を、枕元に運んだ。師の呼吸は荒く、とろんと見上げる目は熱に潤んでいた。
「この薬苦手なんだけどなあ」と珍しく弱音を吐いてから、それでもこくりと飲み下し、またのろのろと布団に身を沈める。そのまま眠るのかと思いきや、うっすらと目を開けたまま、視線を宙に漂わせた。
「眠れないな……変な夢ばっかり見て」
その声があまりに切なそうで、部屋を出るのを躊躇われた。寝台の傍に、膝を立てて座る。
「なにか話しましょうか」
「話?」
「ああ、ええと……おとぎ話でよければ」
ふとそんなことを口にしたが、意外にも師は、弱々しく頷いた。

人里離れた森の中で、花の妖精を育てている仙人の話。まだ昼も夜も、季節もなかった神話の時代、神様に頼んで太陽が昇る時間と沈む時間を決めてもらった勇敢な鳥の話。
気のいい三人兄弟が、王様の無茶な命令を、知恵と勇気でやり込める話。深い沼に住む竜が、高い空に住む竜と初めて出会う話。川の向こう岸から歌を歌い、互いの愛を確かめあう美しい若者と仙女の恋の話。
——どれも幼い頃、眠る前に聞いたものばかりだ。
あの頃は隣に兄がいて、母の膝の上には弟もいた。すっかり忘れたと思っていたのに、記憶の奥底にしっかり刻み込まれていたそれは、蓋を開けると泉のようによどみなく溢れ出てきて、難なく語れてしまうことに木吒自身、新鮮な驚きを覚える。師はときおり小さく笑ったり、頷いたりしながら耳を傾けていて、気づけば夜がしらじらと明けようとしていた。
「朝ですよ、師匠」
窓から外を見てそう呼びかけたが、返って来たのはすうすうと規則正しい寝息だった。ほう、と木吒は安堵の息をつく。そっと額に触れると、さっきよりもずいぶん熱が下がっている。あるいは頓服がようやく効いたのかもしれないけれど。
(母上。あなたから教わった話が、普賢師匠のお役に立ちました)
食べられるものを、用意しておこう。果物とかお粥とか、ちょっと甘めのお茶もいいかもしれない。

窓の外から、春の訪れを思わせるやわらかな日差しが差し込んでくる。