雨粒が穿つ

楊戩さんと伏羲のその後の話。

「なんなんですか」

見慣れた机と来客用の椅子が二脚、書棚。それ以外は何もないがらんとした空間に、沈黙が満ちていた。夏の湿気にも似た重い静けさだった。

目の前の人が、机を挟んだ向こう側でかろやかに盃を掲げた。おぬしもどうだと、もう一つの盃を差し出されたが受け取らなかった。彼は「教主様のお気には召さぬか」と笑い、手酌で酒を注ぐ。甘い酒の香気が気怠い空気に混じる。
彼は無防備に喉を晒し、こくりと鳴らして酒を飲み干した。ほんの子供の風貌に似つかわしくないゆったりとした所作は、一つひとつが古老のそれだ。この落差を知っている。決して長くはない付き合いの中、良くも悪くも大きな影響をもたらした人。どこか人を食ったような横顔を、見まちがえることなどない。それでも楊戩がひと言も声をかけられずにいるのは「彼」の意図がまったくわからなかったからだ。
なんだろう、この人。なにをしに来たんだろう。
「辛気臭いのう」
黙り込んだままの楊戩をちらりと見て、彼は口の端を上げた。盃を持ったまま肘を机につき、
「せっかくケリをつけてやろうと思うたのに」

(なるほど、そういうことか)
立ち上がって闇をまとった。無言のまま遠慮なく両腕をおさえつけ、小柄な体を壁に閉じ込める。空になった盃が床に落ちてあわく砕けた。
もう一つの姿をさらけ出すまでもなく、ほんのわずか力を込めるだけで彼の細首をへし折ってしまう。そうならぬよう加減したことを、見すかされているのだろう、「どうした。手加減は無用だ」そういって見上げる目はどこか愉快そうに細められた。煽っているのだ。

信頼していた、慕っていた。憎んでいた、絶望した。どう消化していいかわからないドロドロした感情ごと、自らの内に取り込んで闇に葬りたい、消し去りたい。
「そんなことを考えたことも、まあ、なくはなかったですよ」
ため息まじりに楊戩がそういうと、おやというように彼は首を傾げる。
「いいですか、太公望師叔」
ひとこと、ひとこと幼子に言い聞かせる口調で、楊戩は言った。
「もうそういう葛藤はとっくに手放しました」
目をみはる人の手首をようやく放してから、やれやれと肩を竦める。
「いつまで僕が囚われていると思っているんです? あなたがいなくなってから、もうかれこれ三千年は経ってるんですよ」
手渡された世界は、もちろん勝手に育っていくわけはなく、大局もささいなところも、時にはそこにかかわる一人ひとりの言い分に耳を傾ける、なんてことまで積み重ねながら地道にやってきたのだ。
やや拍子抜けしたような表情で、彼は楊戩を見上げた。さっきまでさんざん挑発していたくせに「本当に?」と探る目を向けてくる。
「わしが王奕でも?」
子供が先生の機嫌を窺うみたいなそれにやや苛立って、楊戩は「なんなんですか」と眉を寄せた。
「あなたがだれであろうとなかろうと、僕は目の前の未来に忙しかったんです」
夜の暗がりに、かつての痛みを思い出す日がなかったわけではないけれど、それ以上にやるべきこと、解決すべき課題は目白押しだった。気がつけばこんなに時間が過ぎていたけれど、むしろこの人がずっとそれを気にかけていたであろうことが、楊戩には驚きだった。

裾をはらりと翻して、楊戩はまた机の前に戻った。時はどんどん先に進んでいくし、人の営みは変わっていく。一滴の雨粒が岩を削るごとく、楊戩が抱えた重石をすり減らしたのは時間であり、ときに衝突しながらともに歴史の移ろいを見つめ、支えてきたかつての同胞たちだ。
立ち尽くすその人を、楊戩は真正面から見据えた。
「許したとか、受け入れたとか、そういうところではない場所に今、僕は立っている。だからあなたが僕の仇になる必要なんてない」
机の上のベルが鳴った。またどこかでトラブルだろうか。せわしなくそれに応えつつ、ふと顔を上げると、彼は困ったように笑って部屋を出るところだった。
「待ってください、師叔! せっかくならみんなに顔を――
いらんいらんと片手を振って、彼はするりと扉のむこうに姿を消す。入れ替わりにぬるい夕方の風が吹き込んで、机の上の書類を散らした。